近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

広告

※このエリアは、60日間投稿が無い場合に表示されます。記事を投稿すると、表示されなくなります。

青森市の三内丸山遺跡が2℃の寒冷化で滅んだストーリーとは!

2012年01月31日 | 歴史
縄文時代に栄えた青森市の「三内丸山遺跡」の集落が、約4200年前に滅んだのは、2度の気温低下が原因だった可能性が高いことが、今回の発掘調査でわかったと云う。

それまで豊富だった食料用の木の実などが、この寒冷化で激減したらしい。









写真は、青森市三内丸山遺跡の平成17年当時の復元現場、同復元された掘立柱建物、同遺跡から出土した縄文ポシェット及び板状土偶。

縄文時代当時、これまで想像されてきた以上に高い生活文化レベルや祭祀様式などを暗示させる出土遺物として注目される。

三内丸山遺跡は陸奥湾の南約3kmにある、縄文時代最大規模の集落跡。約5900年前に成立し、約1700年後に消滅した。

本遺跡は、縄文時代前期中頃から中期末葉にわたる日本最大級の大規模集落跡で、当時日本の首都とでも云える中心都市であったと云われている。

しかし、長期にわたる気候変動の詳しいデータがなく、集落の盛衰と気候の関連は不明だった。

この遺跡から約20km離れた陸奥湾で、水深61mの海底から堆積物を採取。プランクトンがどのような物質をつくっていたかを手がかりに、当時の海面水温を推定した。

その結果、海面水温は5900年前から約1700年かけて、約22度から約24度まで徐々に上昇したが、4200年前ごろ、約22度まで急激に低下した。気温の低下も、おなじ約2度とみられる。

堆積物中の花粉などを調べたところ、温暖期には陸上では食用に適したクリなどが多く育ち、海中には魚が多く生息できたが、寒冷化して、その環境が失われたことがわかった。

この寒冷化は、この地域に吹く南西からの暖かな季節風が弱まったことなどが原因らしい。「2度の寒冷化の影響は、思いのほか大きい。数度の温度変化でも、農業などの1次産業は大きな影響を受ける可能性がある」と云われている。



コメント

東大阪市と八尾市の弥生田圃遺跡からコウノトリ足跡発見!そのⅡ

2012年01月29日 | 歴史
本件ビックニュースのコウノトリ足跡発見について、更に続けます。









写真は、池島・福万寺遺跡現場の恩智川流域、恩智川沿いの記念モニュメント・池島弥生橋、本遺跡周辺で弥生時代を彷彿とさせる田圃光景及び現在繰り広げられる田植え光景。

調査面積が広範囲に亘るため、水田に水を引き込む為の灌漑施設、水田継続に伴う祭祀、生産域と居住域の構成など、沖積地における水田発展史を物語る遺跡として、日本国内はもちろん、外国からも注目されている。





写真は、今回池島・福万寺遺跡から出土した、コウノトリ足跡及びコウノトリ親子のアップ写真。

コウノトリは、全長約110~115cm、翼開長160~200cm、体重4~6kgにもなる非常に大型の水鳥。

羽色は白と金属光沢のある黒、クチバシは黒味がかった濃い褐色で、脚は赤く、目の周囲も赤い。

平成23年5月の調査では、弥生時代前期の池島・福万寺遺跡水田跡で見つかった鳥の足跡がコウノトリと判明したと、奈良文化財研究所が発表した。

足跡は約400㎡の水田跡に約千個残され、人の足跡も混じっていた。

平成20年11月から恩智川治水緑地の整備に伴う発掘調査で、南から北へ流れる川跡(幅19~24m、深さ約2m)約70m分を確認した。

川跡の東側には人工の土手(幅約2m、残存の高さ0.5~0.6m)、その東側に、畦で区切られた水田跡4枚(1枚約200㎡)が広がっていた。川跡には杭40~50本を打ち込んだ堰の痕跡があり、そこから取水して、水田に供給していたとみられる。

水田跡からは、川から水を引くための堰や水口と共に、地面の傾斜にしたがって小規模の水田が多数造られ、一番低い水田から水路へ水を戻す工夫の跡が良く残っており、水と仲良く共存していた智恵が窺える。


今回の発掘調査で明らかになったのは、河川の氾濫で泥をかぶった水田に足跡が付き、直後に流れ込んだ砂でパックされたらしい。

弥生時代前期の水田稲作が始まった頃から人と共生したことを示す発見で、同時代の祭器・銅鐸に描かれた鳥もコウノトリの可能性が高まった。

専門家は「農耕祭祀の中で人々の信仰を集めた鳥だったのでは」とみている。

これまでは群馬県内で出土した6世紀の足跡が国内最古だったが、今回はさらに約900年さかのぼる。

洪水で埋まった水田跡で鳥の足跡数十個と、人の足跡約100個を確認した。

その後、鳥の足跡1個を石こう型に取り、同研究所に鑑定を依頼。

しばらく特定できなかったが、豊岡市の兵庫県立コウノトリ郷公園や千葉県我孫子市の山階鳥類研究所も分析に加わり、足跡の大きさが約15cmと大型であり、サギに比べて指が太い点、更に指の間が広い等々の特徴からコウノトリのものと判定したと云う。

同遺跡の他の鳥の足跡も写真鑑定の結果、コウノトリの特徴と共通していた。

しかしサギ説と候補を争うことになりそうだ。



コメント

東大阪市と八尾市の弥生時代田圃跡からコウノトリ足跡発見!そのⅠ

2012年01月27日 | 歴史
関西地方の最近の発掘調査から、ユニークな遺跡情報を紹介します。

大阪府が計画する恩智川の洪水対策のための調整・遊水池としての開発に伴って、東大阪市と八尾市に跨る池島・福万寺遺跡周辺が発掘調査されてきた。

その調査がはじまってから、2011年でちょうど30年になるが、空前の規模で調査が継続した池島・福万寺遺跡は、いまや、日本の水田の歴史を語る代表的な遺跡です。

河内のムラ、池島・福万寺遺跡では、3500年前の縄文時代後期の人が使った土器にはじまり、弥生時代・古墳時代のムラや水田、奈良時代から現代につづく水田など、河内に住んだ人びとが作ったもの、使ったものがたくさんみつかっている。

この治水緑地の面積は、八尾市福万寺町と東大阪市池島にまたがる40haで、周囲を恩智川の堤防と同じ高さの堤防で囲んでいる。





写真は、東大阪市と八尾市にまたがる池島・福万寺遺跡の発掘調査現場空撮で、左側が東大阪市池島の恩智川治水緑地、右側が八尾市福万寺町運動市民広場及び福万寺遺跡の田圃跡。

治水緑地は地域内を4ブロックに分割し、大雨の時、河川からの水を一時貯留することにより、洪水被害を防止する施設。





写真は、平成23年6月現在の東大阪市池島治水工事現場及び現在の八尾市福万寺町運動公園光景。

該当地域は、八尾市域は「福万寺町運動市民広場」として、叉東大阪市域は「恩智川治水緑地」として整備されてきた。

本遺跡は、縄文時代晩期から江戸時代にかけての生産遺構が出土したことで知られ、弥生時代の水田遺構、近代まで連綿と継続する農耕に伴う遺構、古墳時代の住居跡などが検出されているほか、土器を中心とする各時代の遺物が見つかっている。

コメント

聖徳太子の父、用明天皇の宮殿跡など発見か?そのⅡ

2012年01月24日 | 歴史
関西地方で近年発掘調査された、遺跡・古墳などを追跡紹介しています。

日本書紀などは、「磐余」の地名を冠した4人の天皇の宮や池にまつわる物語を伝える。

万葉集は、謀反の罪に問われた天武天皇の子、大津皇子が磐余池の堤で詠んだとする辞世の歌を載せる。

奈良県橿原市で発掘された磐余池の堤や用明天皇の宮とみられる大型建物跡。この一帯は、神々が宿る山として信仰を集めた天香具山を仰ぎ見る神聖な地だ。



写真は、天の香具山遠景。

橿原市と桜井市の境にあり、高さは148mほどで、古代の天皇が相次いで宮殿を築き、皇位継承をめぐる政争が繰り広げられた悲劇の舞台でもあった。

「ももづたふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ」(磐余池の鴨を見るのも今日が最後。私は雲のかなたに去るのだろうか)。

謀反の罪で処刑された大津皇子(663~686年)の当辞世の歌は、「磐余池の堤で涙を流して作った」と、万葉集にある。

飛鳥(奈良県明日香村)の都からの護送中に詠んだ「池の堤」が、発掘によって垣間見えた。

日本書紀は「大津皇子は威儀備わり、才学に富み」と記述。皇太子の草壁皇子やその母(後の持統天皇)にとっては脅威となり、謀反は、持統天皇によって仕組まれたともいわれる。

「自由に飛べる鴨と違って、自分はとらわれの身。言いたいことはたくさんあるが、男子として恥ずかしくない美しい最期を迎えたい。そんな気持ちが歌にこもっている」と話すのは、飛鳥時代の作品を手がける漫画家の里中満智子さん。「その舞台が実際に見つかったとは」と感慨深げだ。

「磐余池を詠んだのは、由緒があり、有名な場所だったから」と指摘するのは、上野誠・奈良大教授(万葉文化論)。「現代なら、銀座や道頓堀の灯のようなシンボル的存在を歌に詠むことで、大津皇子の思いを誰もが感じることができた」と解説する。

万葉集や日本書紀に再三登場しながら、場所が特定できずに謎とされてきた磐余池。

和田萃(あつむ)・京都教育大名誉教授は、40年ほど前から、池の堤とみられる人工的に突き固めた層を確認し、「池尻」など池に結びつく地名が多いことに着目。「磐余池だと考えてきたが、ようやく発掘で証明された」と話した。

淀川(樟葉)、木津川(筒城)、桂川(弟国)と計画的に水運を支配していったことがわかる。

三大水系を完全に押さえた継体天皇は、526年にようやく大和入りを果たし、いよいよヤマトに宮を築くことになる。

これが磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや)で、即位から実に20年目であった。

磐余は飛鳥に隣接する奈良県桜井市の南部地域のことを云う。磐余玉穂宮の所在地は、その桜井市池之内付近とされている。

磐余稚桜神社は磐余池の辺の神社で、住所は奈良県桜井市大字池之内。


コメント

聖徳太子の父、用明天皇の宮殿跡など発見か?そのⅠ

2012年01月20日 | 歴史
関西地方で近年発掘調査された、遺跡・古墳などを追跡紹介しています。

奈良県橿原市で、日本書紀や万葉集に登場する「磐余池(いわれいけ)」の堤とみられる遺構と大型建物跡(6世紀後半)などが出土したと、市教委が平成23年12月15日発表した。

大型建物跡は聖徳太子の父、用明天皇の宮殿との見方がある。

これまで飛鳥時代(7世紀)より古い天皇の宮殿は確認されておらず、この発見が6世紀以前の都の実態を解明する重要な手がかりになりそうだ。





写真は、橿原市東池尻町の磐余池発掘現場及び同磐余池と見られる堤跡。

一帯は大和三山・天香久山の北にあたる藤原京跡の一角で、地形や地名などから磐余池の候補地とされていた。

平成23年10月から道路工事に伴って発掘したところ、長さ81m・幅8m・高さ2mの堤跡を確認した。

周辺の地形などから、堤は「へ」の字状に伸び、最大幅55m・高さ3m・長さ約330mと推定される。複数の谷の水をせき止め、南北約600m・東西約700mの範囲に、手のひら形をした面積8万7500㎡の池を形成したらしい。平安時代までは存在したとみられる。

日本書紀や万葉集に登場しながら所在地が不明だった古代のダム「磐余池」とみられる6世紀の池の堤跡が奈良県橿原市東池尻町で見つかったと云うもの。

池は国内最古で、堤跡の上では、大型建物跡も発見された。

磐余池のほとりに造ったとされる聖徳太子の父・用明天皇の「磐余池辺双槻宮(いけのべのなみつきのみや)」の可能性を指摘する研究者もおり、飛鳥時代以前に大和王権の中心地にもなった「磐余」地域の歴史を解明する大きな手掛かりとなる。

市教委によると、見つかった堤跡は80m分。低い丘陵の上に土を積み重ねた構造で、高さは池の外側で約3mと推定。堤は周辺地形から、全長330m・最大幅55mの規模とみられるという。

池の面積は8万㎡前後とみられ、これまで最古とされた7世紀初めの大阪府・狭山池の3分の1程度の池だったらしい。

大型建物は南北17m以上、東西4mで、時期が6世紀後半ごろで、用明天皇の「磐余池辺双槻宮」の時期と重なる。

朝鮮半島由来の大壁建物と呼ばれる6世紀後半以前の建物跡も見つかり、土木技術にたけた渡来系集団が池を造ったとみている。

周辺は現在、水田だが、手のひらのような独特の形で、地形や文献などから磐余池の有力候補地だった。

調査地を含む橿原市東南部と同県桜井市中西部をまたぐ地域は、古代より磐余の地名で呼ばれ、神功皇后や履中、継体天皇などの宮の伝承地としても知られている。


コメント

橿原市の観音寺遺跡とは!そのⅡ

2012年01月18日 | 歴史
橿原市の観音寺遺跡巡りを更に続けます。

当遺跡からは、関西地方では大変珍しく貴重な土偶や石棒が発掘された。土偶は女性をかたどったとみられ、計5体分が出土。



写真は、観音寺本馬遺跡から出土した土偶と石棒。

土偶は、観音寺本馬遺跡の観音寺地区の発掘調査で、2008年に見つかった高さ約15cmほどの完形の土偶で、目と大きく開けた口、両足を少し広げたユニークな姿で、祭祀で使われた後に廃棄されたとみられる。

一方石棒は、長さは約26cmで、先端には幾何学文様の線刻がある。

東日本では線刻のある石棒の出土例は多いが、縄文文化が発達しなかったと考えられている西日本では、ほとんど装飾がないという。いずれも子孫繁栄を願う祭祀具とみられる。

本馬遺跡の平地住居跡は直径6mほどだが、縄文時代の住居跡の出土例は、穴を掘って築造する竪穴式住居が中心で、平地住居は近畿では兵庫県の佃遺跡に次いで2例目という。

一方平成21年2月には、観音寺遺跡で縄文時代晩期の樹木の根株30本分がまとまって見つかったと発表された。



写真は、樹木の根株と漁労用の定置杭列。

幹は直径1m近いものもあったが、木は洪水で一気に埋まり、地中でタイムカプセル状態のまま残った。

また、川跡からは、直径約1.8mのサークル状に杭(高さ20~80cm)を34本並べた遺構を確認。
杭の間につるをからませて、「定置式漁法」の仕掛けと判明した。

更に平成21年3月には、奈良県立橿原考古学研究所が、橿原市の大規模集落跡の観音寺遺跡で出土した約3000年前の縄文時代晩期中葉の土器棺墓から、4歳前後とみられる幼児の人骨・歯などが見つかったと発表した。



写真は、土器棺墓に埋葬されていた幼児人骨。

他地域の同時代の土器棺墓にあった人骨のうち、幼児と特定されたものは計7例。専門家は縄文時代の子どもの埋葬状況が分かる貴重な資料とみている。

土器を利用した棺に人骨が残った例は近畿では極めて珍しく、縄文人の暮らしぶりや葬送儀礼を考える貴重な資料になりそうだ。

土器は直径・高さとも40cmで、頭骨や足などの骨や歯が10本以上残っていたと云う。

土器棺には、頭骨の下に腰骨や足の骨があったことなどから、別の場所で埋葬した遺体を土器に埋葬しなおしたことが判明。





コメント

橿原市の観音寺遺跡とは!そのⅠ

2012年01月15日 | 歴史
これからしばらくは、関西地方の最近の発掘調査現場を巡ります。

先ずは橿原市の縄文時代観音寺遺跡を取上げます。

京奈和自動車道インターチェンジ建設に伴う、橿原市“観音寺遺跡”の約1万3,000㎡と、南に約200m離れた御所市“本馬遺跡”の約4,000㎡で行われていた調査で、土器棺墓や、近畿では珍しい縄文時代の平地住居跡、他にも祭祀用とみられる土偶や装飾が施された石棒などが出土した。

一帯は縄文文化が発達した東日本の影響を受けた縄文時代晩期(約3,000年前)の大規模集落だった可能性が強まったと、県立橿原考古学研究所と御所市教育委員会が発表した。









写真は、観音寺遺跡発掘現場の様子と葛城山を望む広大な奈良盆地の光景。

一帯には4万㎡に及ぶ大規模な集落があったと推定。埋葬エリアが観音寺地区遺跡、居住エリアが本馬地区遺跡だったと見られている。

以前の発掘調査では、両遺跡からは計19基の土器棺墓(観音寺地区からは16基)が出土。

土器棺墓は、人骨こそ残っていなかったが、数基ずつまとまって見つかり、家族ごとに埋められた可能性もあるという。

土器棺墓は高さ20~40cm、直径20~30cmの深鉢を転用し、再葬による人骨を納めたとみられ、斜めか横向きに埋葬されていた。

多くが同時期の河川跡2本の間に群集し、あるものは岸辺に沿って等間隔に点在するため、川を意識して埋葬されたとみられる。

県内では橿原市・曲川遺跡で同時期の土器棺墓が70~80基見つかっていると云う。

観音寺地区では、ほかに石組炉(縦約80cm、横約55cm)と、壺などの土器も遺物収容箱に200箱以上という膨大な量が見つかった。

コメント (1)

天皇陵あれこれー陵墓は皇室用財産か又は公的文化財か!そのⅩ

2012年01月12日 | 歴史
主題のテーマの最終編を綴ります。

陵墓の公開を求める運動と成果としては、1979年に始まった陵墓の限定公開の経過は、2010年末までに41件を数えるが、そのうち非公式公開が11件、公開箇所では墳丘裾20件、外堤・周濠15件、陵墓主体部はわずか1件などとなっている。

宮内庁新方針による墳丘立入は、2008年2月に五社神古墳で第1回が始まって、2011年2月には第4回目の誉田御廟山古墳・応神陵が許可された。

誉田御廟山古墳は、北区百舌鳥本町にある前方部を西に向けた前方後円墳。

墳丘は、全長約186m・後円部径約96m・高さ約18.3m・前方部幅約119m・高さ約17.8mの規模で、日本最大の大山古墳・仁徳天皇陵の全長約486mを含む百舌鳥古墳群では4番目の大きさの前方後円墳。

墳丘は宮内庁、周濠は地元自治会が管理しているが、裾周りが濠水によって崩落、その護岸整備工事に向けて、同庁が平成20年10月から事前調査に入ったのに合わせ、堺市が濠を調べていた。





写真は、平成20年10月の発掘調査現場の遠景と近景。

発掘調査結果、円筒埴輪や家形埴輪などコンテナで20箱分出土したと云う。

皇族を埋葬したと伝えられている古墳などは、宮内庁は「御霊の安寧と静謐(せいひつ)を守る」として、“陵墓参考地”に指定し、宮内庁が管理をしているが、それらの古墳は、従来研究者に公開されることはあっても、一般公開はされてこなかった。

しかし今回本古墳の墳丘15ヶ所を発掘調査した中で、1ヶ所だけが初めて公開された。

今回の調査結果、古墳の全長が、従来より約14m長い、約200mになることが判明。出土品から築造年代は従来の5世紀後半から中頃に遡ったことで、仁徳天皇陵よりやや早いと見られる。

出土品は、全て宮内庁保存・管轄化にあり、今までのところ一般公開されていない。





写真は、出土した円筒埴輪などの埴輪列及び葺石。

墳丘のテラス部から円筒形や朝顔形・蓋形・家型などの埴輪列が確認された。

前方後円墳のくびれ部分に、通常は両側とも造り出しがあるが、ここは南側だけ。

出土物の99.9%が埴輪で、そのうち円筒埴輪が9割、残りが形象埴輪。

形象埴輪が造り出し部に集中して見つかったことから、弔いの儀式を行ったのではないかと考えられている。

と言うように、今回の発掘は、宮内庁と自治体との初の合同調査や一般公開、そして報道陣の立ち入りなど異例ずくめであったと云う。

今後は、限定された区域だけでなく、陵墓全体を調査できるきっかけになればと、考古研究者は期待を寄せると共に、宮内庁の職員とも意見交換ができるよう、宮内庁の公開姿勢が更に軟化することを期待したい。

今後の陵墓の在り方は、人類の世界遺産という大きな価値観と、皇室の私有財産ではなく国民の文化財として保存・自由に公開・活用され、その一部分に天皇家が私的に祭祀する陵墓が含まれているという姿が望ましいのではないか?

そのためには考古学会レベルの議論でなく、国会の場に持ち込み、文化財保護法の改定・追加措置を講ずるようなアプローチが求められる。


コメント

天皇陵あれこれー陵墓は皇室用財産か又は公的文化財か!そのⅨ

2012年01月10日 | 歴史
主題の件を更に続けます。

陵墓の護岸工事には細心の注意が必要である点について、その事例を紹介する。

前回の履中陵のように陵墓・前方後円墳の墳丘基底を検出することは、その古墳の正確な原形を把握して原状復帰の手がかりになるだけでなく、前方後円墳の築造企画やどのような尺度を使っていたかを推定する重要な資料ともなる。





写真は、巣山古墳周濠外提裾部の基礎工事光景及び同古墳周濠の修復工事現場。

写真は、奈良県広陵町の馬見古墳群の一つである、巣山古墳の基礎工事や修復工事現場だが、一部で原形を損なう工事が行なわれていたらしい。

陵墓の保全整備工事が、墳丘基底部を確認しないまま護岸工事をしてしまえば、将来再発掘し、再調査しない限り、原形掌握ができないことになる。

ということで、陵墓の護岸工事の危うさに警鐘を鳴らしていると云える。

コメント

天皇陵あれこれー陵墓は皇室用財産か又は公的文化財か!そのⅧ

2012年01月08日 | 歴史
主題のテーマについて、更に押し進めます。

陵墓に隠された明確な「築造企画」や墳丘基底部の原形は古代国家の根源を象徴すると云われている。

国家主導で監理されていた天皇家の陵墓は、近年考古学・歴史学から見た支配権力と王統の変遷や陵墓と被葬者研究から検証していく歴史観などが錯綜し、世界遺産登録にまで及んで、新たな法整備も含めた方向性が問われている。

それまでの間、陵墓に多い前方後円墳の外形研究の視点から、陵墓古墳の解析・意義付けが求められている。

陵墓の前方後円墳には厳密な設計と築造企画が備わっている。

例えば前方後円墳設計の基本は、後円部の直径を八等分し、その1/8を「1区」とする単位で前方部の長さを決め、その上で多様な前方後円墳の設計と築造がなされている。

その1区は“ヒロ”=身長と見られ、その古墳の被葬者の身長に相当し、古墳の墳丘は被葬者の身長=霊力を具現化したものと理解されている。

例えば前方後円墳の6区型とは、前方部の長さが6区に及ぶため、後円部の直径8区に対する、前方部6区と云うバランスの前方後円墳設計になる。

ということで、前方後円墳の墳丘基底部を検出することによって、その古墳の正確な原形と規模をもとにどのような尺度単位を使用していたかが検証される。

このように、後円部の「円」に一定の比率の長さを持つ前方部で構成される築造企画が、墳丘の大小にかかわらず、同一系譜性を墳丘に具現化している。

即ち各王統の勢力や影響力の伝播は、ヤマトの大王と地域豪族との同盟・服属関係が同一の築造設計により具体化されていることになる。

と云うように、前方後円墳は明確な「築造企画」に基づいて設計され、その設計の差異で首長の王統や系譜性、首長間の従属関係など、古墳時代の身分秩序などが解明される可能性がある。

前方後円墳造営の技術・技法体型が極めて正確に伝承され、各地に伝播されていったと見られる。

例えば、ヤマト政権と宮崎日向の王とを結ぶ政治同盟として、ヤマトの石津丘古墳・履中天皇陵の築造企画は、宮崎県西都市の西都原古墳群にある、女狭穂塚古墳(めさほづか)と重なる。





写真は、堺市百舌鳥古墳群の履中陵平面プラン復元図と宮崎県西都市の西都原古墳群の手前が女狭穂塚古墳復元図。

ヤマト大王と従属的な身分秩序を表徴する、地域王の古墳という関係。

女狭穂塚古墳の規模は履中陵の半分だが、同じ6区型で、古墳築造企画を踏襲している。

前方後円墳の時代は複数の王統の首長が存在し、時には王統の交替もあったと推測され、万世一系的に首長が継続していた可能性は低いと云う。

このように、前方後円墳の解析によって、天皇制の国家成立の根源が明らかになると云える。

コメント

天皇陵あれこれー陵墓は皇室用財産か又は公的文化財か!そのⅦ

2012年01月06日 | 歴史
首記のテーマについて更に続けます。

皇室用財産としての扱いが、世界遺産登録のネックにならねばよいが・・・・。

平成22年11月、百舌鳥・古市古墳群がユネスコの世界遺産暫定一覧表に記載されることによって両古墳群が、日本が世界遺産登録をめざす遺産に認められたことになっている。

世界遺産登録への道筋として、日本では国内法の「文化財保護法」が適用されることが条件となるが、宮内庁は文化財保護法の網を陵墓に被せられることで、公開を求める声が大きくなることを恐れているらしい。

世界遺産一覧表に記載されている田出井山古墳・反正陵の西側外堤から約160mのところに150m近い超高層マンションが建つため、世界遺産を目指す地域としては歴史的景観や環境が著しく損なわれることになる。

田出井山古墳・反正天皇陵は、堺市堺区北三国ヶ丘町にある前方部を南に向けた前方後円墳で、百舌鳥古墳群の中では北端にあり、仁徳天皇陵とその南側の履中天皇陵と合わせて百舌鳥三陵と呼ばれているが、現在は宮内庁が管理している。




写真は、田出井山古墳・反正天皇陵後円部東西サイド周濠の様子。

墳丘の規模は全長約148m・後円部径約76m・高さ約14m・前方部幅約110m・高さ約15mで、百舌鳥古墳群では7番目の大きさ。








写真は、反正天皇陵の鉄製柵門で仕切られた民家との境界線と民家に隣接した様子及び同天皇陵の民家に囲まれた墳丘木々の様子。

田出井山古墳は、南海本線・堺東駅の東側の住宅地にあり、写真にあるように、宮内庁管轄の陵墓として保全されてきたために、風雪を耐えて良好な状態で保護されている。

それだけに当古墳周辺環境も含め、文化財保全という観点から、少なくとも現状維持を継続して欲しい。





写真は、反正天皇陵とその周辺の上空写真及び同天皇陵脇の堺東駅前西側タワーマンションの様子。

写真のように、反正天皇陵周辺の商業地・宅地開発が進み、南海高野線堺東駅の東側の空地にも42階建ての超高層マンションが建てられるらしい。

そこで超高層マンション建設計画を見直す地域住民の会が立ち上がった。

問題点は、この超高層マンション建設場所直下に「上町活断層」が走っていること、当マンションの駐車場に対し、貫通する道路がなく袋小路状の道路事情であること、更には百舌鳥古墳群を世界遺産に登録することを市政の最重要課題にするとしていながら、登録を脅かす超高層マンション建設を主導するという矛盾した都市政策を進めていること等々見直しを求めている。

歴史的環境が危機的な状況に置かれようとしている陵墓について、従来から宮内庁が否定し続けてきた陵墓の史跡指定へ道を開くように求めてきたが、宮内庁の高圧的姿勢・戦前から変わらない一方的な皇国史観は今後も変わりそうにない。

文化庁は、文化遺産は国の史跡や国宝・重要文化財であることを求めてきた。

しかし宮内庁は、陵墓を文化財に指定せずに世界遺産登録を目指すという方針らしい。

はたしてユネスコの世界遺産委員会がこれを認めるかどうか?





コメント

天皇陵あれこれー陵墓は皇室用財産か又は公的文化財か!そのⅥ

2012年01月04日 | 歴史
荒廃した天皇陵の事例紹介を続けます。

大阪高槻市の今城塚古墳は、古くから継体天皇陵に指摘されていたが、茨木市の継体陵・太田茶臼山古墳が陵墓に治定されてきた。

しかし考古学・歴史学的動きがあっても、宮内庁は治定の見直しを検討することもなく現在に至り、その間高槻市教育委員会は今城塚古墳の史跡整備を着々と進めてきた。











写真は、今城塚古墳外濠沿いに隣接した民家群、同古墳内濠を一部市民用に公園化している光景、同古墳西側の緑の芝で覆われた内濠沿いに後円部から前方部を望む公園のような光景、墳丘内の遊歩道光景及び後円部の石室跡地の様子。

同古墳に隣接する住民やビジターがいつでも自由に散策できる、将に遺跡公園として開放している。

更に墓陵墳丘内部にまで、自由に散策できる遊歩道まで設けられており、たまたま墓陵に治定されていないお陰で、墓陵資料にアクセスできる、全国稀に見る貴重な体験。

更に日本を代表する歴史遺産・今城塚古墳が、10年間ほどにわたる発掘調査がもたらした発見の中には、1596年の慶長伏見大地震の際、有馬・高槻構造線の断層が墳丘を串刺しにして崩壊させた、横穴式石室と家型石棺の破壊状況掌握に至るまで、実質的に天皇陵埋葬主体部の調査までしたことになる。





写真は、今城塚古墳玄室の基礎が伏見地震で崩れ落ちた発掘現場及び同古墳石室の石組崩落状況。

陵墓に治定されていないために、天皇陵に相応しいこれほどまでの発掘調査成果が上がったことからも、そのほかの陵墓にも本格的な発掘調査の必要性が問われる。

以上のような状況を見てくると、陵墓の尊厳とは、宮内庁が皇室用財産として所有・所管している範囲内の尊厳が重要であり、所有地外は全く尊厳の対象外ということになる。

文化財の保存と活用という普遍的な価値観からすれば、外堤の中へ自由に立ち入れて見学できる、天皇陵クラスの前方後円墳がある点に注目。

現状、自由な学術的な外形観察すら認めないで、立ち塞がる“尊厳”に対する矛盾と錯誤が存在していることは真に残念。



コメント

天皇陵あれこれー陵墓は皇室用財産か又は公的文化財か!そのⅤ

2012年01月01日 | 歴史
荒廃した天皇陵の事例紹介を続けます。

橿原市の五条野丸山古墳は、後期最終段階の前方後円墳として、奈良盆地内で最大の規模を持ち、長大な横穴石室と2基の家型石棺を内蔵し、陵墓参考地に治定されている。





写真は、五条野丸山古墳の前方部が分断されている様子と前方部の一部が民家に占領されている状況。


墳長約318mの巨大な墳丘のうち、陵墓参考地は後円部の墳頂部分と江戸時代には開口していた横穴式石室の羨門までの一部で、前方部は道路が斜めに墳丘を分断し、又左前方部隅角部は蚕食され民家が建っている。

現在史跡整備が進められているが、欽明天皇が改葬された後の欽明陵の可能性が指摘されている古墳だけに、更なる破壊はストップさせるべき。

コメント