近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

奈良御所市の中西遺跡、古墳時代前期最大級の集落 祭祀用か!そのⅡ

2015年10月11日 | 歴史
御所市中西遺跡要説の二回目として、2015年の発掘成果である、古墳時代前期の様子を以下紹介する。



上の写真は、葛城山を望む中西遺跡水田が洪水による土石流で覆われた状態で出土した様子。

長年にわたり当地で行われた工夫や改良は、当然、大和盆地一帯に素早く広がったと思われるが、他で成功されたことが持ち込まれた結果の改良なのかもしれない。

単に水田を造る、米を収穫できる、というのではなく、この地では間違いなく生産性が追求されるとともに、収穫量を増やすための工夫がされ続けたと考えられる。即ちどの地域よりも大穀倉地帯として発達したのではないかとも考えられる。

先進の文化や技術の窓口であり、鉄という宝を支配できた北九州に対し、どこよりも大きな穀倉地帯を持つ大和という図式だったのかもしれない。

更には、驚異的な人口集中を生み出したと考えられる。魏志倭人伝に言うところの、奴国2万戸に対し、邪馬台国7万戸。人口急増が、国の中心となった源ではなかったかと再認識したと云える。

最新の発掘調査では、葛城氏という一族が、巨大な力を持ったのも、武力ではなく食料生産の力だったのかも。

そして2015年8月10日、御所市の秋津遺跡に隣接した中西遺跡で、古墳時代前期のものと思われる、竪穴住居26棟や井戸、溝などの跡が見つかったと、県立橿原考古学研究所が発表した。

今回の発掘現場は、以前発掘調査が進められた、弥生時代を通じての水田跡のすぐ脇で、今回発掘調査された古墳時代遺跡の下層にも、弥生時代の水田跡が洪水跡とともに確認されている。





上の写真は、今回の中西遺跡発掘調査地帯全体の上空写真と当遺跡が工事に伴い、見つかった京阪奈道路の遠景。





真上の写真は、平成27年8月23日に行われた、中西遺跡の現地説明会光景と今後共発掘調査が継続される、ブルーシートを被った遺跡現場から望む金剛山遠景。

古墳時代前期の遺構として中西遺跡からは、竪穴建物・掘立柱建物・土坑・井戸・溝などが見つかっている。

中西遺跡の現地説明会には、全国各地から多くの考古ファンが押し寄せた。

今回の当遺跡発掘調査では、26棟の竪穴建物は、調査区の中央やや北寄りの位置で検出した溝によって、北側群と南側群に区画されている。

北側群に属する竪穴建物の床面からは土器が放置された状態で出土しており、生活の一端を垣間見ることが出来る。





奈良御所市の中西遺跡、古墳時代前期最大級の集落 祭祀用か!

2015年10月04日 | 歴史
今回発掘調査前の2013年3月、橿原考古学研究所と京都大学大学院農学研究科は、奈良県御所市にある中西遺跡・秋津遺跡で見つかった水田跡の調査結果を発表した。これ又近年稀に見る偉大発見で、注目に値する。

そこで、本遺跡発掘調査の真骨頂について、3回に分けて報告する。

この遺跡は弥生時代前期ですから、紀元前400年頃、2400年程前の遺跡で、本遺跡からは2万5000㎡に約2000枚の水田跡が見つかっている。



写真は、弥生時代前期の2000枚にも上る、小さな水田区画が網の目のように連なる巨大な水田跡光景。

2万5000㎡の水田跡の遺跡は、多分、日本最大のものと思われる。

少し前になるが、滋賀県の守山市で服部遺跡が、約2万㎡の水田跡が発見されて騒がれた。今回の中西遺跡は、それを上回る大きさを持ちます。

引続き2015年8月に発掘調査結果が発表された当遺跡所在地は、奈良県御所市にあり、紀伊国から紀ノ川を遡って大和へ入るその入り口にある町。

葛城氏の地元であり、中西遺跡のすぐ南にある丘の上には、宮山古墳がある。室大墓とか、室宮山とも呼ばれるこの古墳は全長238mの大前方後円墳。

葛城襲津彦(かつらぎそつひこ)の墓ではないかと言われているが、西暦400年頃に造られた古墳ですから、今から1600年程前になる。

日本において最初に王朝が造られた地が大和であることは疑いのないところで、九州王朝という説もあるが、古代日本の政権の中心が大和であったことは紛れもない事実。

しかし大きな疑問の一つが、「なぜ大和なのか?」というもの。何とも不思議ですよね!

確かに日本列島の真ん中あたりにあるが、古代において大和の位置はそれ程大きな意味があるとは思えない。大和盆地自体が、敵から身を守るための自然が生んだ堅牢な要塞であったとも思えない。

人が生活していくためには、水が必要。水のないところに人は住めない。守山市の服部遺跡が語るように巨大な淡水湖である琵琶湖こそ、天からの恵み以外の何物でも無いと思われるが、我が国は大和から始まった。

大和川の水系が、毛細血管のように拡がる大和盆地は、確かに住みよい場所であったかも。しかし、それでもなお、何故大和でなければならなかったのか?という疑問は解決してくれない。

中西遺跡調査は、その問題を少し解決してくれたように思われます。

弥生時代前期・2400年前の時点において、非常に多くの試行錯誤の跡が見つかったのが、3mx4m程度の水田の大きさ。

畦の工夫や水を張るための工夫。取水方法の工夫。200年間の間に、水田の形が変化していっていることが分かると云う。



写真の地図は、中西遺跡に隣接し、その西側を流れる葛城川との位置関係。

葛城川は大和川へと続き、大和盆地に巡らされた大和川水系であり、南へ流れる宇智川は吉野川から紀ノ川へと連なり、この辺りは大和川水系と紀ノ川水系の分水嶺となっている。

水田保持のために欠かせない安定的な水資源として、洪水に伴う破堤を成因とする河畔の池は、一般に押堀(オッポレと読み、水害や暴風雨などで田畑が水没してできた大きな水溜り)と呼ばれ、葛城川周辺などにその例がみられ、葛城川の場合、地元ではダブと呼ばれている。

押堀とは洪水の際、破堤に伴って洪水流が堤内に流入し、土地をえぐった跡に水がたまって形成されたもの。

しかし押堀は、河川周辺の土地の高度な利用のためや、防災上の理由で埋め立てられつつある。奈良盆地の葛城川周辺においても埋め立てられた例もあるものの、比較的よく残存している。

この理由としては、押堀には河川からの伏流水が常にもたらされるために、これを灌概用水として利用することができ、渇水の危険性が高かった地域としては都合がよかったからで、長年にわたり洪水を繰り返したものの水田維持・確保に役立ったと見られる。