近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

謎々ストーリーー第21代雄略天皇陵に纏わる謎とは!その3

2014年03月21日 | 歴史
はたして雄略天皇陵の真偽は? 真相究明を続けます。

今日まで雄略天皇陵とされ、松原市と羽曳野市を区画する行政の境界線上に位置している、“河内大塚古墳”は、幅の広い濠に囲まれて雄大な姿を横たえ、台地上に築かれた大型の前方後円墳。

その墳丘を南北に横切る中軸線を境にして、西側が松原市西大塚、東側が羽曳野市南恵我ノ荘。







写真は上から、“河内大塚古墳”全景、東北側ビュー及び西の側面。

墳丘の長さは約335mで、仁徳陵古墳、応神陵古墳、履中陵古墳、岡山県の備中造山古墳に次いで、わが国で5番目の規模を誇り、堂々たる大王陵と見なされておかしくないが、歴代の天皇陵には比定されておらず、大正14年に陵墓参考地に指定された。

それ以後宮内庁の管理下にあり、学術調査は今日まで行われていない。

前方部が低く、大きく広がっており、更に後円部の段築がはっきりしないという後期古墳の特徴を備えている。そのため、この古墳が築かれたのは6世紀後半と見なされている。

本古墳が雄略天皇陵(在位456~479年)の可能性が高いとされるが、年代的に合致しない。

謎々ストーリーー第21代雄略天皇陵に纏わる謎とは!その2

2014年03月01日 | 歴史
雄略天皇の纏わる数々の謎について、更に真相究明を進めます。

雄略天皇の治世下で、大和や河内の豪族等が武力で制圧され、多くの政略結婚が繰り返された事が伝えられてきた。

日本書紀によれば、吉備氏も雄略天皇の御代にその配下に組み込まれた。

勢力拡大の範囲は北から南に及び、埼玉県行田市の“稲荷山古墳”から出土した太刀に漢文表記の鉄剣銘文が発見され、「獲加多支鹵大王(ワカタケル)」とあった。雄略天皇を指すとする説が有力である。





上の写真は、埼玉県の稲荷山古墳から出土した、ワカタケル大王の太刀及び熊本県の江田船山古墳から出土したタカタケル大王の太刀。

これにより“江田船山古墳”から出土していた鉄刀銘文も“ワカタケル”と解読でき、5世紀後半には大和朝廷の実権が日本全土の大半にまで及んでいた有力な証拠となった。

渡来系の人たちが刀を鍛え、文字を書いたと見られるが、雄略天皇が渡来系人脈を抱え、大きな勢力を持っていたことが窺える。