はたして雄略天皇陵の真偽は? 真相究明を続けます。
今日まで雄略天皇陵とされ、松原市と羽曳野市を区画する行政の境界線上に位置している、“河内大塚古墳”は、幅の広い濠に囲まれて雄大な姿を横たえ、台地上に築かれた大型の前方後円墳。
その墳丘を南北に横切る中軸線を境にして、西側が松原市西大塚、東側が羽曳野市南恵我ノ荘。
写真は上から、“河内大塚古墳”全景、東北側ビュー及び西の側面。
墳丘の長さは約335mで、仁徳陵古墳、応神陵古墳、履中陵古墳、岡山県の備中造山古墳に次いで、わが国で5番目の規模を誇り、堂々たる大王陵と見なされておかしくないが、歴代の天皇陵には比定されておらず、大正14年に陵墓参考地に指定された。
それ以後宮内庁の管理下にあり、学術調査は今日まで行われていない。
前方部が低く、大きく広がっており、更に後円部の段築がはっきりしないという後期古墳の特徴を備えている。そのため、この古墳が築かれたのは6世紀後半と見なされている。
本古墳が雄略天皇陵(在位456~479年)の可能性が高いとされるが、年代的に合致しない。
今日まで雄略天皇陵とされ、松原市と羽曳野市を区画する行政の境界線上に位置している、“河内大塚古墳”は、幅の広い濠に囲まれて雄大な姿を横たえ、台地上に築かれた大型の前方後円墳。
その墳丘を南北に横切る中軸線を境にして、西側が松原市西大塚、東側が羽曳野市南恵我ノ荘。
写真は上から、“河内大塚古墳”全景、東北側ビュー及び西の側面。
墳丘の長さは約335mで、仁徳陵古墳、応神陵古墳、履中陵古墳、岡山県の備中造山古墳に次いで、わが国で5番目の規模を誇り、堂々たる大王陵と見なされておかしくないが、歴代の天皇陵には比定されておらず、大正14年に陵墓参考地に指定された。
それ以後宮内庁の管理下にあり、学術調査は今日まで行われていない。
前方部が低く、大きく広がっており、更に後円部の段築がはっきりしないという後期古墳の特徴を備えている。そのため、この古墳が築かれたのは6世紀後半と見なされている。
本古墳が雄略天皇陵(在位456~479年)の可能性が高いとされるが、年代的に合致しない。