近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

謎々ストーリーー第21代雄略天皇陵に纏わる謎とは!その5

2014年05月16日 | 歴史
雄略天皇に対する評価については、善悪いろいろ取り沙汰されている中でも、数々の悪行は信じがたいほどではあるが、権力者としての力量は朝鮮半島の南部にまで及び、彼に纏わる副葬品の宝物は権力を占う証と言える。

そこで、古文書に見る雄略天皇の生き様を以下紹介する。。

日本書紀によれば雄略天皇は、残虐非道な暴君として記録されている。

例えば、市邊押磐皇子(いちべのおしはのおうじ)を殺したやり方は残虐で、体を切り刻み、馬の飼い葉桶に入れて土中に埋めたと伝えられる。

雄略2年、妃に望んだ百済の池津姫(いけつひめ)が石川楯(いしかわのたて)と密通していることが露呈した。
そこで雄略天皇は激怒して大伴室屋(おおとものむろや)大連に命じて来目部(くめべ)を派遣して二人を磔にしたあげく焼き殺した。

また吉野宮に行幸した際、狩りの獲物の事で部下の言動に怒り、御者を斬り殺した。
雄略天皇はまもなく還幸したが群衆は恐れおののいた。心を痛めた皇后は、宍人部(ししひとべと読み、鳥獣肉の料理人)を設けることを提案して天皇を諫め、天皇もこれに従った。

しかしその後も独断専行の残虐ぶりは続き、多くの人々を殺害したため「はなはだ悪しくまします天皇なり」という評価 を後世に残す。

雄略天皇の治世下では、大和や河内の豪族等が武力で制圧され、多くの政略結婚が繰り返された事が伝えられている。
日本書紀によれば、吉備氏もこの天皇の御代にその配下に組み込まれた。勢力拡大の範囲は北から南に及び、埼玉県稲荷山古墳出土の大刀の漢文表記の銘文からもその勢いの凄まじさが想像できる。

発掘から20年を経て、埼玉県稲荷山古墳出土の大刀に漢文表記の銘文が発見され、ここに「ワカタケル大王」とあった。雄略天皇を指すとする説が有力である。

これにより熊本県江田山古墳から出土していた鉄刀銘文もワカタケルと解読でき、5世紀後半には大和朝廷の実権が日本全土の大半にまで及んでいた有力な証拠となった。

雄略天皇というと、『日本書紀』には非常に荒っぽい天皇と表現されている。あまり良く書かれていないが、『宋書』では、偉大な王の姿を見せている。

そこには、若建大王(わかたけるだいおう)──これは雄略天皇の別名──が、中国に、自分は“武”であるといって遣いを出したと書かれている。

そして彼は日本はもちろん、朝鮮半島の百済や新羅、馬韓、弁韓、辰韓という南の方の国をすべて押さえている権力者であると認めさせたとある。

このように大きな力を持った天皇であるにもかかわらず、1978年(昭和53)埼玉県の稲荷山古墳が発掘されるまでは、ほとんどの歴史書が雄略天皇は実在していないという説を採用していた。

ところが、この古墳から出てきた鉄刀をレントゲン撮影したところ、金文字が115文字書かれ、その中に若建大王という名前が出てきことで、皆驚いたと言う。

更には、熊本県の江田船山古墳から出てきた鉄刀に書かれていたものも、それまでは違う読み方をしていたが、若建大王であるということがわかった。

稲荷山古墳から出土した鉄刀を造った人の名前は、意富比危(おおひこ)の子供の乎獲居(おわけ)と書いてあったが、乎獲居は、天皇を守る杖刀人(じょうとうじん)で、杖刀人はそういう役を担う組織名で、乎獲居はその杖刀人の頭と書いてあり、彼が天皇に差し上げた鉄刀だということが分かった。

江田船山古墳から出た刀には典曹人(てんそうじん)と書いてあり、これは本や資料を管理する役職らしい。

そして文字を書いたのは張安、鉄刀をつくった人は伊太利と記されていた。
要するに渡来系の人たちが鉄刀を鍛え、文字を書いたことになり、雄略天皇はこういう渡来系の人たちを左右に置いて、太刀をつくらせ、それを献上させていたということが分かる。