近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

大阪の歴史散歩 明治から昭和時代

2007年01月31日 | 文化
大阪の歴史散歩の最後は、明治時代以降、今日までの経緯を辿ります。
明治から昭和初期にかけては、政府が造幣局・砲兵工廠を置き、金属工業・繊維産業を中心に、商社・卸売・新聞など様々な商工業が発展し、大阪は東洋一の商工地として多くの企業が勃興した。



写真は、明治時代の大阪市中央区の洋館。

商工業以外でも、文化・芸術・教育などの分野で日本の中心となり、人口も、面積は東京の半分程度ながら、大阪市は日本最大の都市として発展した。
「ほんまでっか!」

しかし昭和10年代より政府が戦時統制をしき、文化・芸術・教育・産業などあらゆる分野の中枢機能を東京に集めたことで、以後大阪は地盤沈下したと云える。

もう少し詳しく遡って見ると、明治に入り、東京が首都に指名され、政治権力・文化的主導権が東京に集中し始めて以来、東京・大阪の競合関係にライバル意識が芽生えたと云う。

しかし当時大阪は、地形的劣勢のほか、インフラ基盤・ハイテクパワーなどが弱く首都機能を十分備えていなかった。
明治初期に沸き始めた文化的ライバル関係は、大阪が経済面における優位性を取り戻すと共に、政治・文化両面においても挑戦に立ち上がった。

1923年(大正12年)の関東大震災で東京が灰燼に帰すや、両者の関係は逆転し、東京一極集中に疑問が投げかけられるキッカケとなった。



写真は、大正時代の大阪市中之島公会堂の光景。

しかし1930年代の後半になると、東京が再び政治的優位性を更新、又文化の主導的地位を取り戻すことになり、更に第二次世界大戦後になると、東京中心主義は留まるところを知らない。

商業的原動力を持つ大阪は、商工業都市のメジャーとして、又大衆文化・緊密な近隣関係・大量消費・効率主義哲学に裏付けられた、経済性・快適性・効率性のモデルであり、経済的首都としての潜在力を秘めている。

しかし世界に通ずる都市として、又日本の政治・文化の中心としては、東京に譲らざるを得ないのが正直な気持ではある。
「しゃあない!」


大阪の歴史散歩 大坂城と城下町大坂

2007年01月30日 | 文化
難攻不落といわれた巨城・大坂城は、天下統一の拠点として、又権威・権力の象徴として秀吉によって築かれた。
再建された現在の天守閣は、1997年から3年間に及ぶ大改修を終え、更に輝きを放っている。



写真は、現在の大坂城天守閣。

天下統一の拠点として築かれた大坂城周辺には、築城に関わった人たちや、彼らを相手にした商人たちが集まり、自然と城下町が形成された。
秀吉は、計画的に城下町建設を進め、大坂城に向かう東西路を中心に、市中を碁盤の目状に整備したと云う。

区画・整備された道路に面した間口を持つ建物の裏側、即ち建物同士の背中合わせの部分に下水溝を敷設した。



写真は、中央区農人橋に近く、松屋町筋の一本東側通りの現役下水溝で、今日唯一残っている。見学用に改修工事中の現場。

幅・高さとも約2mある内部は、石積みされている。
背割下水・太閤下水とも呼ばれ、そのほとんどが東・西横堀川に排水されていたと云う。
大坂は、淀川・大和川のデルタ地帯にできた低湿地帯であったため、町屋から出る下水を排水できる下水溝を必要とした。

東西横堀川は、大阪北の堂島川とミナミ・道頓堀川を結ぶ水運の幹線で、現在は堀の上を阪神高速道路が走っている。



東横堀川に架けられた高麗橋。
大坂城の外堀として整備された、東横堀川に架かる高麗橋は、後には中国街道など大坂と地方を結ぶ街道がこの橋まで延伸されたことから、大坂の玄関口としての役割を担ったと云う。

東西横堀川をはじめ、道頓堀・長堀・江戸堀・京町堀など、水運の要となった堀川が、街づくりの軸として開削され、低湿地帯の排水と共に、地面のかさ上げ用土砂を確保するために掘られたと云う。



写真は、松屋町筋の西側を流れる、現在の東横堀川。

そしてこれら堀川群は、江戸初期には縦横に張り巡らされ、淀川・大和川など大河川の各下流の役目を果たす水運を構成し、各藩の国元産物を運ばせることで、ヒト・モノ・カネが大坂に集中し、商業都市・大坂として発展した。
「ほんまでっか! たいしたもんや!」

大阪の歴史散歩 江戸時代の経済・文化社会

2007年01月29日 | 文化
焼け野原から復興した経済都市大坂が「天下の台所」として全国的に名を馳せたのは江戸時代で、全国から物資が集配される「流通拠点」となり、国際貿易も結びついた国内最大の経済都市となって繁栄した。



写真は、稲穂を持った童子のモニュメントと堂島米穀取引所跡の石碑。

中央区大江橋近くの堂島川沿いにある、写真のような「堂島米穀取引所跡」に象徴されるように、ここが江戸時代から200年以上続いた米市場跡地。

堂島川辺り一帯には諸国大名の蔵屋敷が建ち並び、米などを満載した船が堂島川を往来していたと考えられる。この堂島米市場の米相場は、全国相場の基準とされたと云う。

江戸幕府の鎖国政策の結果、海外進出は途絶えたが、大消費地・江戸へは、海運の中心・大坂が最大の供給基地となり、菱垣回船や北前船が生活物資の海上輸送を担い、大坂・江戸間の大動脈として定期化されていたと云う。

経済だけでなく、文芸・文学・教育・学術などでも当時最先端を行き、経済を支える町人文化も開花して、竹本義太夫率いる人形浄瑠璃が、近松門左衛門とのコンビで大成功を収め、井原西鶴などの文芸文化も開花した。





写真は、大阪市内谷町筋沿いに残る、井原西鶴及び近松門左衛門の墓所。

文楽・浪花節・上方歌舞伎・能楽・茶道など伝統芸能の情報発信地としても大活躍した時代。このように広く町民を中心とした文化が成熟した。

学術・教育文化でも「懐徳堂」・「適塾」の開設で大きく飛躍し、「懐徳堂」は思想界に大きな影響を与え、徹底した合理主義者など多くの町人学者を輩出した。
又緒方洪庵が開設した「適塾」は、幕末維新に活躍した福沢諭吉・大鳥圭介を育てた蘭学・医学の学問所として脚光を浴びた。



(写真は、当時のままの”適塾”の姿で、薬問屋街の中心地であった道修町の近くに開所され、全国から多くの英才たちが自由闊達な町人の町・大坂で蘭学を学んだ。



もう一枚の写真は、適塾の南側直ぐの今橋に所在する懐徳堂址碑。

このように官制の学問にとらわれない私塾による学問も、大坂に根を降ろし、開放的な気風や旺盛な企業家精神が育ち、やがて近代の大都市となる豊かな地盤が創られたと云える。

江戸期に咲いたこれらの文化は、今も大阪の町に息づいている。
「わや、大阪すきやねん!」

大阪の歴史散歩 難波別院・津村別院の歴史とは!

2007年01月28日 | 文化
大阪のメインストリート「御堂筋」の名前の由来である、南御堂・難波別院の歴史は、1561年に教如上人が現在の大阪北区の天満橋と天神橋の間にある大川のほとりに位置する「渡辺の地」に大谷本願寺を開創したことに始まると云う。

1583年秀吉は、石山本願寺の地を入手し大坂城を築城し、城下町大坂を整備・拡大していった。
そのため秀吉は、渡辺の地にあった、大谷本願寺の移転を教如上人に命じ、現在の地に難波別院として移された。



写真は、現在の難波別院。
そして1602年徳川家康が東本願寺を建立するまで、難波別院は東の本山であった。
南御堂がある現在の御堂筋の西側は、豊臣時代の城下町の西端にあたり、寺町が築かれていた所と考えられている。

江戸時代に入ると、ここにあった寺々は天王寺区下の寺町へ移り、御堂筋辺りは、町衆が暮らし、商売を営む町へと変貌をとげている。

難波別院が現在の地に移された時を同じくして、北御堂・西本願寺津村別院が建立され、まさしく南北御堂が現在の御堂筋に並存することになった。



写真は、現在の津村別院。
北御堂は大阪御坊とも呼ばれ、1591年西本願寺が京都に移ったときに、門徒が建立したのに始まり、現在の本堂は、昭和39年建築の鉄筋コンクリート製。

難波別院は難波御堂とも呼ばれ、幕府から旧大坂城外堀の石垣の寄進を受け、又淀川から砂を運び、地盛りをして、壮大な本堂が建立されている。

境内には芭蕉の句碑が建つが、1694年芭蕉はこの御堂前の友人宅で生涯を閉じた。御堂筋の緑地帯には芭蕉終焉地の碑もある。
「うそやん!」


大阪の歴史散歩 平安・鎌倉・室町から安土・桃山時代

2007年01月27日 | 文化
平安・鎌倉時代は、河内湖が次第に埋り、陸地化していった時代で、天満橋から北浜の南岸にあった「渡辺津」が、当時人気があった熊野詣での起点となった。



写真は、現在の松屋筋の一本東側を南北に走る、当時の熊野街道表示碑。

四天王寺は西門から望む海に落ちる夕陽が浄土信仰と結びつき、多くの参拝者を集めていたと云う。
渡辺津から四天王寺・住吉大社を経て熊野へ通じるコースは、参拝と行楽をかねて多くの人々が行き来し、街道の整備も進んだ模様。

渡辺津は、大阪市の中心部、淀川にかかる天満橋から天神橋の間くらいの位置にあり、ここを中心とした北船場一帯が当時入江になっていて、上町台地の北端の西部一帯に街が栄えていたと見られる。



写真は、現在の渡辺津辺りの光景。
渡辺津は、かつて奈良時代まで難波津や難波京があった場所で、そのまま首都・副都でなくなった後も港湾として機能し続けたと思われる。

その後、政治の中心は京都から鎌倉へと、港湾機能は、十分な施設のある兵庫・神崎に移り、大坂は四天王寺などに代表される宗教的要地として信仰が集まった。

室町時代には、首都機能は鎌倉から京都へ戻ったが、大坂では浄土真宗の宗主・蓮如が、現在の大坂城がある場所に、石山本願寺を建立した。

当時上町台地の突端にあった「小坂」という地名が、「おおさか」の語源となり、この頃から大阪の経済・社会・文化的地盤が誕生したと云う。

安土・桃山に代表される織豊時代になると、石山本願寺が信長に明け渡され、信長の意思を継いだ豊臣秀吉が天下を統一して、石山本願寺跡に大阪城を築城し、城下町大坂が誕生した。
この間、戦国時代とも呼ばれる首都機能は、信長の安土から秀吉の大坂に移された。

当時既に現在の東西横堀川、阿波堀川を掘り、海運・水運の拠点大坂を築き、各地から商人を移住させ、木綿・油・薬・金属加工などの産業を当地に集中させた。
又海外交易にも力を入れて、文字通り国際都市・大坂の面目躍如たる姿が現出した。

しかし秀吉統治時代も束の間、城下町大坂は、17世紀初頭、大坂冬の陣・夏の陣で焦土と化した。
「ほんまに、えらいこっちゃ!」

大阪の歴史散歩 飛鳥・奈良時代

2007年01月26日 | 文化
飛鳥・奈良時代になると、仏教が盛んになり、593年に聖徳太子によって「四天王寺」が建立された。




写真は大阪天王寺にある、四天王寺極楽門及びその中心伽藍。

聖徳太子は日本仏教の祖として、宗派や時代を問わず広く信仰され、四天王寺は平安時代以降、太子信仰のメッカとなった。
四天王寺は近世以降もたびたび災害に見舞われ、写真の中心伽藍は1963年に完成したもので、鉄筋コンクリート造り。

遣隋使・遣唐使の出発点であった「難波津」は、国際交流の一大拠点となり、645年には「大化の改新」により、大坂が歴史の表舞台に立ったと云える。

孝徳天皇は、強大な隋・唐帝国の圧力に対抗するため、それまでの伝統的な都の地であった飛鳥を離れ、都を難波の「難波宮」(前期難波宮)に移し、気分を一新して中央集権化を進めた。
難波の地を選んだのは、「難波津」という古代における我が国きっての国際港を擁し、当時既に外交・流通の中心として重要な位置にあったからと云う。



写真は、大阪城から四天王寺にかけての上町台地に置かれた難波宮跡で、大坂城を望む方角からのスポット。

孝徳天皇は、新政権のシンボルに相応しい、内外にその権勢を誇示できるだけの偉容な宮殿造りを、それまでの宮殿とは隔離した場所・規模・形態で達成したと云える。

上町台地は、南端の大和川から北端の大阪城まで約13km延びており、その南北台地の中で、難波宮跡は最も高い地盤に位置している。
又上町台地は大和川と淀川による水運が良く、敵から攻められにくいほど、見晴らしのより台地は、長い間国際交流の中心として、更に政治の檜舞台としても為政者に注目されるほど、格好の地の利を持っていた。

約40年にわたる発掘調査の結果、前期・後期の二つの時期・約150年間、日本の首都・副都としての難波宮跡が中央区法円坂一帯に広がっていたのが見つかった。



写真のように、現在90,000㎡以上が国指定の「難波宮史跡公園」として整備・公開されている。
政務や国家の重要な儀式などを行う朝堂院と呼ばれる区画の面積が、他の宮殿より非常に広く、内部には14棟もの建物が配置されていたと云う。



又写真の通り、前期難波宮の中心部を飾る,八角形の楼閣建築・八角殿が復元され、難波宮の中央門である 朱雀門も発見され、注目を集めた。
八角殿の後方に見え、背景になっているビルは、NHK大阪支局及び国立歴史博物館の建物。

そして後期難波宮と呼ばれるもう一つの宮殿は、聖武天皇が皇位につくと、当時首都は平城京であったが、火災により焼け落ちた、難波復興の中心事業として、726年から造営が行われた。

発掘調査の結果、副都・難波宮であることが分かり、前期・後期いずれも、古代都市大阪の象徴として貴重な文化遺産。

前期難波宮が日本古来の建築様式であったのに対し、後期はその中心部をより立派に見せるため、基壇上に礎石を据えその上に柱を立て、屋根は瓦葺きというように、大陸式の建築様式で飾った。
これ以降藤原京・平城京など、宮殿は大陸式様式が継承された。

前期難波宮時代、諸外国の使節団は、瀬戸内海を船で東上し難波津に上陸した。
そのため諸外国の大使館に相当するような施設や、 わが国の迎賓館のような施設が、難波宮に造られたと見られる。

「ほんまに、どえらいことしよったな!」


大阪の歴史散歩 縄文から弥生・古墳時代

2007年01月25日 | 文化
これからしばらく大阪の歴史を辿ってみたいと思います。
大阪に人類が住み始めたのは、およそ10,000年前の縄文時代草創期と見られ、旧石器時代の氷河期から、気温の上昇に伴い、海水面が上昇し、大阪湾にも海水が浸入してきた。

その結果、上町台地が半島のように突き出し、台地の東側は河内湾、河内湾の西側には大阪湾が広がり、特に河内湾の内海は波が穏やかで、自然条件に恵まれていたと考えられる。
河内湾沿岸には縄文時代中期・弥生・古墳・古代・中世から近世に及ぶ「森の宮複合遺跡」がその発展振りを物語っている。



写真は森の宮遺跡から出土した人骨。
森の宮遺跡は、昭和40~50年代の発掘調査の結果、西日本有数の貝塚が伴い、貝層中からマガキなどの貝殻・獣骨・魚骨や数多くの土器と共に、17体に及ぶ人骨も発見され、5,000年以上にわたり人々が生活し続けていたことが判明。

これらの人骨は最初の大阪人のものかもしれない。
残念ながら、人骨から顔形が復元できないが、一般的に縄文人の顔立ちは、丸顔で目鼻立ちの彫りが深く、精悍な印象を与える。
一方弥生人は、面長で目鼻立ちがのっぺりで、現在の典型的な日本人・大阪人の顔立ちからすると、当時の縄文・大阪人は我々とは違った精悍な顔立ちをしていたかも・・・・。

弥生時代に入ると、河内湾は淡水化し、河内潟から河内湖に姿を変えていくに従って、稲作が伝播し、人々の生活も狩猟・採集から農耕生活へ定住化が進み、大規模集落が出現することになる。

この頃から豊富な水運を利用した海上交通ルートが形成され、上町台地東側の港が拠点となって国内各地・大陸との交流・交易が行われるようになった。

古墳時代になると、中国大陸・朝鮮半島との関係が更に深まり、「難波津」は古代日本の玄関口として、又使節往来の拠点として発展したと見られる。

「難波津」がはたして何処であったが、今日でも議論が分かれるところであるが、おおよそ現在の心斎橋筋2丁目・三津寺町付近か、もしくは東横堀川の高麗橋付近と考えられている。「難波津」探しだけでも、ロマンがありますね

渡来人の手で持ち込まれた窯業・鍛冶・建築・土木・宗教など様々な文化・技術が、難波津を通じて日本各地に広がっていった。
このことは、将に「日本のルネッサンス」とも云える一大文化革新をもたらした。



写真は第16代仁徳天皇の御陵で、堺市が誇る国内最大の前方後円墳であり、墳丘の全長が486mと世界三大墳墓の一つに数えられる文化遺産。

大阪平野の各地には、仁徳天皇陵を始めとする王権の象徴とも云うべき巨大古墳が出現し、渡来人を驚かせ、尊敬させるに及んで、大阪は親善・交易・商業都市としての役割が一層重要になったと見られる。

「ほんまでっか?」って、ほんまかどうか、JR環状線「森ノ宮」駅近くの、
大阪市立労働会館の地下展示室をご覧あれ! 



大阪文化とは! はじめにおことわり

2007年01月24日 | 文化

今までは、明智光秀・楠木正成・北畠親房などの歴史的著名人物を通じて、戦国時代・南北朝時代の混乱期の戦乱ドラマを繰り広げてきたが、ここでチョット一息入れていただき、肩のこらないテーマとして、「大阪の文化」をいろいろな角度から取上げてみたい。

と言いますのは、大阪のブランドイメージは、どうもマイナスイメージの方が強く、京都・神戸のイメージに比べ、むしろ大阪が「関西のイメージ」の足を引っ張っていると云える。

例えば、京阪神の魅力を問われると、京都は「神社・仏閣・歴史的建造物」「景観・季節感」に人気があり、神戸は「夜景」「国際性」「ファッション」と特徴付けられる。一方大阪は「食事・グルメ」「盛り場」「百貨店等の商業集積」」が多く挙げられるように、余り特徴が無い。
京都や神戸には観光旅行に来るが、大阪は素通りされる傾向にある。
特に大阪への観光客数のうち宿泊客は、全体の6%しかなく、又外国人は全体の1%に満たないと云う。

日本国外で紹介されている観光ガイドブックなどを調査したところ、大阪を「醜い街」「ヤクザの中心地」などと紹介していることがわかった。
又大阪から、どんな言葉が浮かんでくるか、最近のアンケート調査によると、1位は、圧倒的に「たこやき」で、続いて「くいだおれ」、3位に「おこのみやき」という粉もの食物であったと云う。
「あほな!」と言いたいところだが・・・・

一面真実を語ってはいる。でも正しく認識されていないどころか、誤解を招いている節も見える。

私個人は、現在大阪市郊外に在住しているが、生まれ育ったのは東京に近く、又アメリカ生活も長く、今日まで、おおよそ関東・関西・外国生活がそれぞれ三分の一ずつで、ある程度クールに観察・評価できる立場にあると思う。

と云うことで、これから「大阪」について、批判的・同情的・PR的など、多角的な視線でスポットを当ててみたい。大阪の行事などに因んで、都度プラス・マイナス両面の「大阪らしさ」などを伝えることができればと考えている。

「しょうもない」か「オモロイ」か、ご覧あれ!




公家・武将の北畠家ファミリー物語 北畠家ファミリー物語 おわりに!

2007年01月10日 | 歴史
北畠家は、冒頭でも紹介した通り、村上源氏中院家から分かれた名門で、中世朝廷にあって政治上重きをなした公家であり、第62代村上天皇の皇子・具平親王の子・師房が源氏の姓を賜り、公家に列したのが始祖と云う。

初代北畠家の親房は、名門家系に生まれたことで、当然のこととして学問に精進し、学問に対して絶大な誇りと自信を持ち、模範的な公家の道筋を立てると共に、南朝方にあって武将としても南軍を引率した。
以来戦国時代まで、京都を中心に、関東・奥州各方面で、北畠家代々公家・武将として大活躍した、輝かしい経歴は比類が無いほど。

特に南北朝時代を通じて、後醍醐天皇・後村上天皇の側近として、直接・間接に時代のリーダー的存在感を示し、南朝方の政治的・軍事的指導力を発揮すると共に、朝廷に対して忠臣を貫いた功績は、敵将も認めるほどで、現在関西・中部・関東・奥州各地方で、北畠家を祀る“北畠神社”が点在していることからも、北畠家活躍の広がりを裏付けている。




写真は、三重県美杉町の「ふるさと資料館」に展示された、北畠家ゆかりの古文書及び北畠家系図。

北畠家末裔が、今日も東北・北海道に存命していると云う。
北畠家ゆかりの地方では、今日でも北畠家を偲び・祀る祭事・供養が行われているほど、地元に密着している。

しかし後醍醐天皇による建武の親政では、天皇独裁を目指し、性急な改革、土地訴訟への対応の不備、恩賞の不公平、武家を排除した政権運営などが不評を呼んだ。
更にその権威を誇示すべく意図した大内裏造営計画は、戦乱の疲弊で苦しんでいた庶民・武士がその重税負担に猛反対するなど、各方面の不満を呼び起し、政権の求心力が急速に失墜した中でも、後醍醐天皇政権の軌道修正を迫るまでに至らなかった。

むしろ北畠家ファミリーは、後醍醐天皇失政による犠牲を余儀なくされたと云っても過言ではない。
天皇を守り通した使命感・忠節を貫き通した点や敵将から崇められた北畠家の器量・人格は、楠木家と共通していると云える。
北畠家代々の史蹟・伝説は、今後とも語り継がれていくに違いない。

今回の連載はこれまで、長い間ご覧頂き有難うございました。
次回からは別のテーマで再登場しますので、引続き宜しくお願いいたします。

公家・武将の北畠家ファミリー物語 後醍醐天皇ゆかりの地・賀名生とは!

2007年01月09日 | 歴史
後醍醐天皇は、建武の親政により復古的な中華皇帝的な天皇独裁を目指したが、武家を排除した政権運営や大内裏建設計画などでは不満を呼び、政権は次第に求心力を失墜していった。

足利尊氏に追われた後醍醐天皇は、1336年京都から吉野に皇居を移す途中、現在の五條市賀名生にある堀家住宅に滞在、その後も賀名生は南朝のゆかり深い地となった。
即ち後醍醐天皇崩御の後も、ここ谷間の山麓地・賀名生の堀家住宅を御村上天皇他南朝三帝の行宮として利用されたと云う。





写真は上から、現在の五條市賀名生にある、地元郷土の堀家住宅の藁葺門は、重厚な感じの建物。そして丹生川越しに見える、母屋は入母屋造りで室町時代の創建と云われ、南朝皇居行宮として利用された。
近くには「南朝三帝皇居之址碑」が立っている。又堀家住宅には、南朝ゆかりの遺品・宝物が残されていた。その一部は当地歴史民俗資料館に展示されている。

結局北朝軍に対する劣勢を覆すことができないまま、病に倒れ、1339年義良親王(後村上天皇)に譲位し、朝敵討伐・京都奪還を遺言して、吉野金輪王寺で崩御した。享年52歳。




写真は、堀家住宅近くの丘陵上に、後醍醐天皇が立ち寄ったとされ、又御村上天皇が住んだとされる黒木御所址がある。

後村上天皇は、荘厳浄土寺において後醍醐天皇の大法要を行い、又足利尊氏は、後醍醐天皇を弔い京都に天竜寺を造営するなど、在りし日の天皇を偲んだ。

後醍醐天皇は、儒教に理解を示し、呪法に傾倒するなど強烈な個性を持った、行動的リーダーであったが、「自らを頂点とした親政による公家社会」の理想を実現することはできず、吉野に還幸して2年9ヶ月目で病没した。

そしてようやく南北朝が合一されたのは、尊氏の孫の足利義満が将軍になってからのことであった。



公家・武将の北畠家ファミリー物語 北畠親房ゆかりの地・五條市賀名生とは!

2007年01月08日 | 歴史
後醍醐天皇と共に晩年を過ごした、南朝ゆかりの地・奈良五條市の西吉野賀名生(あのう)は、四方を自然豊かな緑に囲まれた山間にあり、秋には深山の紅葉と町名産の柿が実る光景が広がる。
更に塩分を多く含んだ温泉が丹生川支流の河原で湧き出る風光明媚な土地柄で、現在では、歴史散策やサイトシーイングのほか、温泉・釣り・キャンプなどが楽しめるリゾート地。

今も賀名生の地は、南北朝時代の面影を漂わせ、多くの歴史愛好家が、当時の足跡を訪ねている。

後醍醐天皇が吉野に還幸した後も、北朝方に下る南朝軍が相次ぎ、北畠親房は、遂に東国経営を放棄して吉野に帰らざるを得なくなった。

一時的に京都を奪回するも、再び京都は北朝の手に落ち、天皇と共に、吉野の奥・賀名生に逃れた。



写真は、親房墓所から望む、五條市賀名生現在の町並。

山路を脱走する天皇と親房は、見るも惨めな姿であったと云う。
そして親房は1354年病死、享年62歳。






写真は上から、南朝の柱として、勇壮に戦って討死した公家武将・親房の墓、五輪塔、墓碑及び210人塚。
親房の墓所は、賀名生丘陵上の一番高い所にあり、写真の通り、玉垣に囲まれた円墳の上に五輪塔が立っている。
親房墓所の脇には、敢然と戦い壮烈な最期を遂げた、郷土の忠臣210人の忠魂を弔うため、「210人塚」が供養塔と共に建てられている。


公家・武将の北畠家ファミリー物語 北畠親房の関東ゆかりの地そのⅢ

2007年01月07日 | 歴史
伊勢大湊から同行した重臣が神宮寺城・伊佐城・関城・大宝城・阿波崎城・小田城など常陸内に合計7城を確保し、南朝最大の拠点が出現した。

足利幕府も、さすがに脅威を感じ、高師冬を大将とする遠征軍を常陸に送り込んだため、常陸が戦乱状態に陥った。

前述の通り、親房は神宮寺城・阿波崎城それぞれの落城をかいくぐり、現在茨城県つくば市の小田城へと落ち延びた。
7代小田城主・治久は、鎌倉幕府崩壊後、建武の新政府に参加し、南朝側に味方した。
1338年に北畠親房を小田城に迎えると、治久は関東における南朝の中心となって活躍した。

親房は小田城中で、あの著名な「神皇正統記」を執筆した。
神道・儒教・仏教・歴史等に精通した親房は、他にも「職原抄」・「二十一社記」・「東家秘伝」等の著作があり、又自邸で詩歌会を開催するなど、和歌にも熱心だったと云う。

ここで一句、顕家に先立たれた父・親房の苦痛が俗世の雑事を一切洗い流し、忘れさせてくれたという、切々たる親房悲しみの歌、「さきだてし心もよしやなかなかに憂き世のことを思ひ忘れて」と。

小田城は高師冬に包囲され、1339年に治久は師冬軍に下り、直前に親房は小田城を脱出して、関城へ移った。
しかし関城入城後も支援勢力を失い、攻防戦も最終段階となり、1343年結城宗祐・宗政父子が戦死し、親房は脱出して吉野に帰還した。





写真は、小田城址及び関城址。
小田城は、その後戦国時代を通じて、激しい争奪戦に巻き込まれ、最後には佐竹氏との戦いに敗れ、1602年に廃城に追い込まれた。
約21haの小田城は、本丸を中心に三重の塀と土塁に囲まれた、典型的な平城で、ほとんど高低差の無い平地の真ん中に築かれた。
写真の通り、本丸跡は平坦なおよそ100m四方の正方形で周りが堀で囲まれている。

元々小田氏の居館が次第に強化され、南北朝時代に入ってから、居館から防御のための城郭へと大転化して、戦国期の動乱の中で戦闘用として、更に改修・強化されたと云う。
一方関城は、大宝沼に囲まれた、天然の要害に構築された8.5haの城郭。



公家・武将の北畠家ファミリー物語 北畠親房の関東ゆかりの地とは!そのⅡ

2007年01月06日 | 歴史
昨日紹介した、神宮寺城が落城した後、直ぐ入城したのが、隣り合わせの阿波崎城であった。昭和10年に県史跡に指定されている。

阿波崎城に移ってからも、後詰めの地元軍団を急ごしらえして、北朝方と戦ったが、すぐさま攻め落とされたと云う。仕方なく、親房は小田城へ移動して行った。






写真は、阿波崎城址で、現在は城址の台地は、ほとんどがゴルフ場となっている。往時の姿・地形を留めているのは、写真の通り、土塁・堀らしき遺構が散見される程度、そして城址から見下ろす田畑地は関東平野の一部。

過去2回土砂採取による発掘調査を実施したが、中世の遺物は非常に少なかったと云う。
遺構としては、阿波崎城を中心として4つの曲輪が確認されている。
又土塁・堀・柵列・郭・掘立柱建物跡も発見されたと云う。

現在地元稲敷市の有志からなる「阿波崎城跡保存会」により、公園化が進められている。尚当地は桜の名所としても良く知られている。
14村名と当時の14名主・村長名も残されている歴史的・劇的な惨劇・義勇伝からも、保存会結成・公園化の推進は大いに理解できる。

14世紀に吉野の南朝が、60年余りに及ぶ、いわゆる南北朝の抗争の末、北朝との合体の道を選んで、歴史の表舞台から消えていったが、その間の諸々な悲劇は、尊皇思想も手伝って、全国各地で南朝の記録・記憶として思い起こされ、熱く語られ、伝えられてきたと云える。

公家・武将の北畠家ファミリー物語 北畠親房の関東ゆかりの地とは!そのⅠ

2007年01月05日 | 歴史
北畠親房が、後醍醐天皇の討幕計画・建武の親政などを全面的にサポートした柱石・忠臣として、あえて関東・奥羽まで出向いて活躍・悪戦苦闘した足跡を、以下紹介する。

1338年南朝方は、八方ふさがりの行き詰まりを打開するため、奥州に向けて大作戦を決行した。
しかし天運利あらず、伊豆沖で予期せぬ台風に遭遇し、同行した重臣は飛散してしまい、親房一行船団は常陸国東条ヶ浦(現在の稲敷市霞ヶ浦)に漂着してしまったため、急遽計画を変更して、奥州ではなく常陸を拠点に関東経営を試みようとした。




上の写真は、神宮寺城址の現場。

周囲は田畑に被われ、城址の面影は無く、遺構らしきものといえば、城址領域の西側角に、土塁・堀跡が認められる程度。
急ごしらえの武的集団が親房を中心に参集し、神宮寺城に拠って挙兵したが、衆寡敵せず仕舞いで、落城の憂き目を見るに至った。

その際、地元13ヶ村の名主及び地元農民が親房公に味方して、築城や兵糧集荷・運搬などの労役に服して村群を挙げて加勢した。
しかし13ヶ村の名主は、北朝佐竹軍によって捕らえられ、後日官軍に味方した罪により、神宮寺において斬首・処刑された。

この時たまたま現場に居合わせなかった阿波崎村の村長は難を逃れたかに見えたが、敵陣を追い呼び止めて、自ら請うて処刑を受け、盟友の後を追ったという義勇伝・悲劇は、未だに当地に伝え残されている。




写真は名主13人の供養塚である、十三塚及びホイホイ地蔵。
その悲劇の象徴が、写真の通り、「十三塚」及び「ホイホイ地蔵」(敵軍をホーイ・ホーイと呼び止めたため命名)であり、今日まで語り継がれてきた。


公家・武将の北畠家ファミリー物語 北畠氏一族の木造氏物語

2007年01月04日 | 歴史
新年明けましておめでとうございます。
本年も引続き、弊ブログを可愛がってください。宜しくお願い致します。
それでは、昨年末に中断した、北畠家物語を続けます。

伊勢国司大名・北畠氏の一族で、北畠顕能の次男・俊通が木造氏を称した。
俊通の早世によって弟・俊康が木造氏を継ぎ、俊康は正二位に叙し、3年後には出家している。

木造氏が他の北畠一門と違うのは、足利義満に高く認められ、「北畠殿」と呼ばれ、俊康は叙爵されている。
従って宗家・北畠氏から離れて将軍家に属することとなり、京都油小路に屋敷を建てて、「油小路殿」とも呼ばれていた。
このように木造氏は北畠一門でありながら、足利幕府に仕え、宗家に対して何度も弓を引いていた。

当主が北畠具教の弟の木造具政になったとき、かねてより具教との不和・亀裂を巧みに利用し、具政の裏切りを誘い、織田信長の伊勢侵攻が始まった。
即ち具政は信長に通じて、宗家に謀反を起こし、宗家・北畠方と木造城に拠った木造方の双方が戦闘状態になったが、織田軍は南勢の地利を十分に把握したうえで、大河内城に集結・包囲して、北畠軍を撤退させた。



写真は、三重県津市木造町の木造城跡。

その後、木造家後裔は、北畠氏に属したり、離れたりと目まぐるしく揺れ動いたが、木造家当主は北畠氏の有力一門としてその官位は、北畠氏と同格の叙位であったと云う。

関ヶ原の戦いで、前哨戦では西軍として岐阜の戦いに出陣したが、合戦後は広島城主・福島正則の家臣となった。

その後は旗本・木造氏となって、子孫代々は徳川旗本として存続した。
当初の華やかな家柄・歴史からすれば、余りにも寂しい姿になったが、生き残りをかけた結果であり、どう受け止めるべきであろうか?