マルコ山古墳巡りを続けます。
先ずは、本古墳の特徴について振り返って見ます。
①墳丘は当初は円墳とされたが、平成16年に行われた4次調査で墳丘西側の範囲確認調査で六角形墳と判明した。
全国でもわずかに数基知られているだけで、飛鳥地域で確認されたのは初めて。
尚、この当時、天皇や皇太子は八角形墳に葬られており、それに次ぐ皇族関係の墓と見られている。
②石槨の規模は高松塚より一回り大きいが、天井石の厚さは薄く、漆喰は高松塚に優るらしい。
③藤原京を明確に意識した墓造りと見られる。しかし、平城遷都後に造営された古墳が含まれるとすればどうかは、今後の検討課題。
石槨に大きな共通性がある高松塚、キトラ、マルコ山の兄弟古墳が、平城京の北側の奈良山丘陵では、1基だけが見つかっている。
これが「石のカラト古墳」で、墳丘は下段が方形、上段が円形の上円下方形。墳丘には全面に葺石が見られるが、国史跡に指定されている。
石のカラト古墳は一辺約14mの上円下方墳で、墳丘には葺石が施されている。
排水溝は墳丘の周囲を「コの字」に設けられており、更に西側に2本の溝が造られている。
これは西側の丘陵からくる水に配慮したもので、キトラ古墳でも部分的だが暗渠排水溝が確認されており、山側からの水の処理が重要課題であったことがわかる。
写真は、現在の石のカラト古墳と同古墳の発掘状況。
石のカラト古墳は、奈良県と京都府の府県境に位置する古墳で、“カザハヒ古墳”とも呼ばれている。
埋葬施設は、凝灰岩の切石を用いた横口式石槨で、このような石槨墳は終末期古墳と呼ばれ、明日香村の高松塚古墳やキトラ古墳がよく知られている。
発掘調査で金・銀製の玉、銀装の大刀の金具、金箔片などがみつかっている。
墳丘部分は、昭和52・平成元年度の調査で墳丘北裾に暗渠(地中に埋設された河川や水路のこと)排水溝やバラス(砕石)が敷かれていることが確認されている。
バラスは、北側では幅約2m・南端では約2.7m分を確認し、更に調査区外に伸びていると云う。
今回、カラト古墳墳丘西側部分の構造を確認することを主目的として平成17年4月から範囲確認調査を実施している。
石材には拳大の川原石が使用されており、中には吉野川流域で採れる結晶片岩も含まれていると云う。
暗渠は地山を幅約30cm掘り込んで川原石を充填しているが、出土遺物は凝灰岩や瓦器などが少量、出土しているらしい。
先ずは、本古墳の特徴について振り返って見ます。
①墳丘は当初は円墳とされたが、平成16年に行われた4次調査で墳丘西側の範囲確認調査で六角形墳と判明した。
全国でもわずかに数基知られているだけで、飛鳥地域で確認されたのは初めて。
尚、この当時、天皇や皇太子は八角形墳に葬られており、それに次ぐ皇族関係の墓と見られている。
②石槨の規模は高松塚より一回り大きいが、天井石の厚さは薄く、漆喰は高松塚に優るらしい。
③藤原京を明確に意識した墓造りと見られる。しかし、平城遷都後に造営された古墳が含まれるとすればどうかは、今後の検討課題。
石槨に大きな共通性がある高松塚、キトラ、マルコ山の兄弟古墳が、平城京の北側の奈良山丘陵では、1基だけが見つかっている。
これが「石のカラト古墳」で、墳丘は下段が方形、上段が円形の上円下方形。墳丘には全面に葺石が見られるが、国史跡に指定されている。
石のカラト古墳は一辺約14mの上円下方墳で、墳丘には葺石が施されている。
排水溝は墳丘の周囲を「コの字」に設けられており、更に西側に2本の溝が造られている。
これは西側の丘陵からくる水に配慮したもので、キトラ古墳でも部分的だが暗渠排水溝が確認されており、山側からの水の処理が重要課題であったことがわかる。
写真は、現在の石のカラト古墳と同古墳の発掘状況。
石のカラト古墳は、奈良県と京都府の府県境に位置する古墳で、“カザハヒ古墳”とも呼ばれている。
埋葬施設は、凝灰岩の切石を用いた横口式石槨で、このような石槨墳は終末期古墳と呼ばれ、明日香村の高松塚古墳やキトラ古墳がよく知られている。
発掘調査で金・銀製の玉、銀装の大刀の金具、金箔片などがみつかっている。
墳丘部分は、昭和52・平成元年度の調査で墳丘北裾に暗渠(地中に埋設された河川や水路のこと)排水溝やバラス(砕石)が敷かれていることが確認されている。
バラスは、北側では幅約2m・南端では約2.7m分を確認し、更に調査区外に伸びていると云う。
今回、カラト古墳墳丘西側部分の構造を確認することを主目的として平成17年4月から範囲確認調査を実施している。
石材には拳大の川原石が使用されており、中には吉野川流域で採れる結晶片岩も含まれていると云う。
暗渠は地山を幅約30cm掘り込んで川原石を充填しているが、出土遺物は凝灰岩や瓦器などが少量、出土しているらしい。