近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

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奈良県明日香村のマルコ山古墳とは!そのⅡ

2011年03月30日 | 歴史
マルコ山古墳巡りを続けます。

先ずは、本古墳の特徴について振り返って見ます。

①墳丘は当初は円墳とされたが、平成16年に行われた4次調査で墳丘西側の範囲確認調査で六角形墳と判明した。

全国でもわずかに数基知られているだけで、飛鳥地域で確認されたのは初めて。
尚、この当時、天皇や皇太子は八角形墳に葬られており、それに次ぐ皇族関係の墓と見られている。

②石槨の規模は高松塚より一回り大きいが、天井石の厚さは薄く、漆喰は高松塚に優るらしい。

③藤原京を明確に意識した墓造りと見られる。しかし、平城遷都後に造営された古墳が含まれるとすればどうかは、今後の検討課題。

石槨に大きな共通性がある高松塚、キトラ、マルコ山の兄弟古墳が、平城京の北側の奈良山丘陵では、1基だけが見つかっている。

これが「石のカラト古墳」で、墳丘は下段が方形、上段が円形の上円下方形。墳丘には全面に葺石が見られるが、国史跡に指定されている。

石のカラト古墳は一辺約14mの上円下方墳で、墳丘には葺石が施されている。

排水溝は墳丘の周囲を「コの字」に設けられており、更に西側に2本の溝が造られている。

これは西側の丘陵からくる水に配慮したもので、キトラ古墳でも部分的だが暗渠排水溝が確認されており、山側からの水の処理が重要課題であったことがわかる。





写真は、現在の石のカラト古墳と同古墳の発掘状況。

石のカラト古墳は、奈良県と京都府の府県境に位置する古墳で、“カザハヒ古墳”とも呼ばれている。

埋葬施設は、凝灰岩の切石を用いた横口式石槨で、このような石槨墳は終末期古墳と呼ばれ、明日香村の高松塚古墳やキトラ古墳がよく知られている。

発掘調査で金・銀製の玉、銀装の大刀の金具、金箔片などがみつかっている。

墳丘部分は、昭和52・平成元年度の調査で墳丘北裾に暗渠(地中に埋設された河川や水路のこと)排水溝やバラス(砕石)が敷かれていることが確認されている。

バラスは、北側では幅約2m・南端では約2.7m分を確認し、更に調査区外に伸びていると云う。

今回、カラト古墳墳丘西側部分の構造を確認することを主目的として平成17年4月から範囲確認調査を実施している。

石材には拳大の川原石が使用されており、中には吉野川流域で採れる結晶片岩も含まれていると云う。

暗渠は地山を幅約30cm掘り込んで川原石を充填しているが、出土遺物は凝灰岩や瓦器などが少量、出土しているらしい。

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◎奈良県明日香村のマルコ山古墳とは!そのⅠ

2011年03月28日 | 歴史
マルコ山古墳は、明日香村大字真弓の眞弓丘陵の東西に延びる、標高約120mの尾根南斜面に所在する、横口式石槨を有した直径約24mの2段築成の円墳だったが、現在は発掘調査の結果、対角長約24mの六角形墳と見られる。







写真は、マルコ山古墳墳頂から望む吉野山系、同墳頂から望む周辺丘陵地及び同墳頂を見あげる墳形の光景。

本古墳墳丘は、直径約15m・高さ約5.3mを測り、墓室は凝灰岩を組み合わせた石槨で、内法寸法は長さ271.9cm・幅128.5cm・高さ143.3cmほど。

築造時期は7世紀末~8世紀初めで、国史跡に指定されている。

本古墳周辺の飛鳥地方には、牽牛子塚古墳、真弓鑵子塚古墳、束明神古墳など終末期古墳が点在している。

この場所は“真弓崗”と呼ばれた地域で、飛鳥時代を演出した人々の奥津城として多くの古墳が築かれている。

マルコ山古墳もその一つで、大正12年に刊行された『高市郡古墳誌』には「マルコ山塚」と記されているらしい。

マルコ山古墳の本格的な調査は、昭和52年・53年・平成2年・16年と合計4回行われており、版築で築かれた墳丘の中央部分には、凝灰岩で造られた横口式石槨の存在が確認されている。

また墳丘形態がこれまで円墳と考えられていたが、墳丘裾部が直線でコーナー部分も検出できたことから多角形墳であることが明らかとなり、過去の調査成果を踏まえると、対角長約24mの六角形墳の可能性が高まってきたらしい。







写真は、マルコ山古墳全景、墳形下方から見上げる光景及び六角形墳の裾部光景。

今回、多角形墳であることが確認されたことで、現在進められている高松塚古墳の墳丘調査でも新たな成果が期待され、この点からも今後飛鳥の終末期古墳を考える上で重要な資料となる。

更に内部からは漆塗木棺片・釘・太刀金具や金銅製の飾り金具のほか、30歳代後半~40歳前半頃の男性の人骨などが出土している。

川島皇子説が有力で、他に弓削皇子(ゆげのみこ)説もある。

現在は史跡整備により築造当時の姿に復元されている。



写真は、横口式石槨内部。

本古墳は、過去の調査で高松塚古墳・キトラ古墳・オラト古墳と同様の石槨構造であることが明らかとなり、内部からは大量の漆塗木棺の破片や棺金具・玉類などが出土していると云う。

石槨構造を持つ、4つの古墳の築造時期は、7世紀後半~8世紀初めごろと考えられている。

これら4つの埋葬施設は、いずれも横口式石槨で、長さ約2.6~2.7m・幅約1~1.3mほどだが、マルコ山古墳だけがひと回り大きい。

マルコ山古墳では、バラスと暗渠排水溝の二重構造で排水を行っていたが、バラス面は排水目的以外にも、墳丘の装飾的な意味合いもあり、視覚的に立派にみせるといった効果あったと考えられている。

このようにマルコ山古墳では、石材を多用して排水に工夫がこなされていることが改めて確認されたことで、これまた今後飛鳥の終末期古墳の構造を考える上で重要な資料。





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奈良県桜井市の雄略天皇の泊瀬朝倉宮跡とは!

2011年03月26日 | 歴史
実在したことが確実な初代王・第10代崇神天皇から第33代推古天皇までの王宮について、「古事記」と「日本書紀」に見える“宮”の名称を辿ると、これまでの発掘調査により、その所在地が確認されたのは、雄略天皇の泊瀬朝倉宮(はつせのあさくらのみや)と推古天皇の豊浦宮(とゆらのみや)のみ。

豊浦宮は、明日香村豊浦に所在する向原寺の境内にあり、昭和60年の発掘調査で検出された高床式建物跡が推古天皇の豊浦宮であることが分かったと云う。

一方雄略天皇の桜井市泊瀬朝倉宮の遺構が、昭和59年の発掘調査で、桜井市脇本の灯明田地区で検出されたと云う。







写真は、旧街道沿いの現在の脇本町街並み光景、三輪山をバックに泊瀬朝倉宮跡及び泊瀬朝倉宮とされる脇本遺跡発掘現場。

ここ脇本遺跡発掘現場は、三輪山西麓に位置し、その後埋め戻され、写真のように現在は田畑として利用されている。

昭和59年の発掘調査では、下層から柱穴径30~35cmもある、5世紀後半の大型建物跡など3棟の大型建物跡が南北に揃えて並んでいることが確認され、同時に5世紀後半の須恵器も出土し、叉当地北には三輪山の頂上を望む地であることなどから、雄略天皇の泊瀬朝倉宮跡であると大きく報道されたらしい。

5世紀後半に第21代雄略天皇(在位:456~479年)が造営した「泊瀬朝倉宮」跡と推定される奈良県桜井市の脇本遺跡で、その後、飛鳥時代にかかる6世紀後半~7世紀初めの大型建物跡も見つかり、県立橿原考古学研究所が平成22年6月、その旨発表した。

発見された大型建物跡6箇所の柱穴径は48~58cmと太く、脇本遺跡のある「磯城(しき)・磐余(いわれ)」と呼ばれる地域には、第29代欽明天皇(在位:539~571年)の宮があったとされる。

本遺跡は交通の要衝に位置し、飛鳥時代以前の宮が集中した三輪山麓にある。

橿考研は「第33代推古天皇(在位:593~628年)が飛鳥に都を遷した後も、政権の重要施設が存在していたのではないか」としている。









写真は、泊瀬朝倉宮伝承地とされる白山神社鳥居、同神社境内、泊瀬朝倉宮伝承地とされる同神社境内の看板及び万葉集発祥の地記念碑。

白山神社境内には「雄略天皇泊瀬朝倉宮伝承地」の碑が建っている。

「泊瀬朝倉宮」は、幼武大王(わかたけるのおおきみ:雄略天皇)の宮で、白山神社から脇本付近までの段丘地にあったのではないかと推定されていた。

現在は、泊瀬朝倉宮跡は脇本遺跡として既に発掘調査で確認されている。

「籠(こ)もよ み籠持(こも)ち・・・・・・家をも名をも」で知られる、この求婚の歌は雄略天皇作で、万葉集の巻頭に選ばれたことで有名。

万葉集発祥の地として、雄略天皇泊瀬朝倉宮伝承地の記念看板と共に残る。

万葉集の編纂に深く関係したとされる大伴家持が、政治的に華々しかった時代が5世紀であることから、雄略天皇の歌が選ばれたのではと云われている。

脇本遺跡では、古墳時代の初めの銅鐸の破片などを出土しており、奈良盆地から東国に抜ける伊勢街道の起点であり、大和朝廷の成立以降、列島経営のための関所のような機能を果たしてきたのではと考えられている。

5世紀後半~6世紀初頭の時期と思われる大型掘立柱建物や石溝・柵列など宮殿跡も既に発掘されている。

2007年には、弥生時代末期~古墳時代初頭の銅鐸破片や青銅器の鋳型が発掘され、銅鐸片は1~4cm大で、竪穴式建物跡(一辺6~8m)から3点出土している。復元すれば全長1m前後になる大型銅鐸の一部とみられている。

弥生時代の銅鐸は完全な形のまま地中に埋められたケースが多く、破片の状態で出土した今回のケースは、古墳時代になって意図的に破壊された可能性が高いらしい。

雄略天皇の桜井市泊瀬朝倉宮のように、歴代天皇宮都の所在地のほとんどは大和盆地だが、河内王朝初代の第15代応神天皇、仁徳天皇、履中天皇そして4代目の第18代反正天皇までは、宮都が大和-河内-大和-河内と交互に入れ替わっている。この事実をどう理解したら良いのであろうか。



写真は、藤井寺市の第14代仲哀天皇陵前方部全景。しかし考古学的には第21代雄略天皇陵と考えられているが。

河内王朝は、応神からはじまり武烈までの11代にわたって現在の大阪府南部を基盤としていた巨大王権。

確かに、河内・和泉の大阪平野に、大仙古墳をはじめとして、政治的シンボルともいうべき巨大古墳が集中して築かれていることや難波に宮都が設けられていることから推して、大阪平野に強力な政治的基盤を有する権力が存在したことは事実。

しかし、この王権の実態をどのように捕らえるかは、専門家の間でも意見が分かれている。

九州の勢力が応神または仁徳の時代に征服者として畿内に入ったとする説がある。

或いは瀬戸内の水上権を握って勢力を強めたこの地の自生勢力が、やがて大和へ入りそれまでの崇神王朝を打倒したとする説。

他方で、河内平野の開発などにともなう大和王権の進出と捉えるべきとする説などがある。

はたして真相や如何?





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奈良県橿原市の見瀬丸山古墳と明日香村の欽明天皇陵を巡って!

2011年03月23日 | 歴史
第29代・欽明天皇陵(571年没)説が高まった、橿原市の“見瀬丸山古墳”と明日香村の“欽明天皇陵”を訪問し、比較してみた。

従来日本考古学協会等が入口から覗き込むだけだったのが、今回は敷地内を見せてもらっただけでも前進であった。

見瀬丸山古墳は全長が318mと奈良県下では最大で、日本全国においても6位に位置しており、古墳時代後期後半・6世紀後半に築造されたものの中では最大の規模を誇っている。

また、横穴式石室の全長は28.4mと、全国第1位の規模で、羨道は7枚の巨大な自然石で天井を覆い、長さ20.1m・玄室の長さ8.3mで、2つの刳抜式家形石棺がL字型に置かれていたと云う。

たまたま民間人が盗侵入し、内部の写真を公開したことがきっかけとなり、一部公開にふみきった点には動機不純を覚えるが、結果石室の全長が28m強と日本一の大きさ等新たな事実が明らかとなった。

と同時に二人目の石棺被葬者が、欽明天皇の后である堅塩媛(きたしひめ)であり、叉堅塩姫は推古天皇の母であることからも、欽明天皇の石棺との見解があらためて強まったらしい。



写真は、見瀬丸山古墳の正面風景。

民家と直接接し境界線が分からないほど。外濠も何処へ行ってしまったのか、何故このようなことになったのか等の疑問は永遠に残る。



写真は、見瀬丸山古墳のサイド・ビュー。

公開に先立ち、宮内庁が石室の単独調査を行ったが、被葬者が誰なのか調査結果に沈黙を守っている。

学会の間では、欽明天皇陵であるとの見方がほぼ固まっているのに、明らかに出来ないのであれば、陵墓参考地の指定を止めるべき。

いつまでも史跡の保存云々との言い訳はもう飽きたと関係者は感じている。

見瀬丸山古墳は一旦公開後また閉じられた。公開に関し宮内庁の頑なな拒否姿勢は続く。



写真は、見瀬丸山古墳のへんてこな看板。

元々の看板に上書きしたのか、ダブって見える。又看板主は橿原市と奈良県双方の教育委員会の名前が見える。

内容もちぐはぐ、昏迷の一端を覗いた感じ。



写真は、元々の明日香村の欽明天皇と妃の堅塩姫の檜隈坂合陵といわれる。

濠をめぐらせた全長約140m・後円部径約75m・高さ約15m・前方部最大幅約110m・高さ約15mの前方後円墳。

現在は大きな前方後円墳だが、この形は幕末の修陵事業によって捏造されたもので、それまでは双円墳だったと云われている。

欽明天皇は、仏教とその聖典を伝えた天皇で、飛鳥文化は仏教を中心に花開いたと云う。

欽明天皇陵を見瀬丸山古墳とする説は、あくまで考古学の立場であり、しかもまだ推測の段階で、決定的な証拠はないが、大いなる可能性を秘めている。




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奈良県天理市の東大寺山古墳(続報)とは!

2011年03月21日 | 歴史
天理市櫟本町にある、天理教城法大教会の背後には、南北方向に横たわる小高い丘があるが、この丘は奈良盆地を見下ろす東大寺山丘陵の西の端にあたり、竹藪におおわれている。

東大寺山古墳は、その一番高いところに北向きに築かれた前方後円墳で、天理市和邇から櫟本にかけては、かつて和邇氏族の拠点であり、関連一族が築造したと推定される古墳群があるが、平野部との比高差約70mの丘陵上に点在している、そのひとつの古墳。

この丘陵には、奈良県では最大規模の弥生後期の高地性集落があり、東西約400m・南北300mほどの範囲内に竪穴式住居群があって、二重の空堀が巡り、空堀の構造は大阪府和泉市の観音寺山遺跡に共通していると云う。

本古墳は、この高地性遺跡と重複するようにして存在し、その遺跡の役割が終わって150~200年ほど後に築造されたらしい。









写真は、東大寺山古墳遠景、本古墳が覆われた竹薮、本古墳墳丘の様子及び本古墳の1961年当時の発掘調査の現場光景。

東大寺山古墳の規模・形状は、推定140mの前方後円墳で墳丘には円筒埴輪を巡らしていたと云う。

築造時期は4世紀後半ごろで、鉄刀20本・鉄剣9本などの武器類のほか、玉類、石製模造品などが出土している。

1961年の発掘調査で、写真のように、後円部中央に長さ12m・幅8mほどの墓壙があり、底に排水溝を設けていた。

埋葬施設の周りに、家形・楯形・蓋形などの埴輪が置かれていたらしい。





写真は、東大寺山古墳墳頂の石室遠景及び当石室近景。

後円部の埋葬施設の主体部は、墳丘主軸に平行する木棺を覆った粘土槨があり、長さ推定9.4mに及ぶ大規模なもので、主要部分は盗掘を受けていたと云う。

粘土槨の東西に墓壙が掘られ、豊富な武器や武具が副葬されていたらしい。

その東側の墓壙から「中平」の年号を持つ鉄刀が出土した。

当「中平」銘の鉄刀を含む、5本の装飾環頭付きの鉄製大刀の環頭は、様々な意匠を表している。朝鮮半島の平壤市・楽浪の“石巌里”の古墳で出土しているような環の中に三葉形を入れた三葉環であるらしい。

三葉環の鉄刀は、福岡市の“若八幡宮古墳”(4世紀)からも出土している。

叉中国では金象嵌で飾られた環頭付の紀年銘入鉄製大刀は、山東省蒼山県で出土した永初6年銘(112年)と元嘉3年(153年)銘の刀と2例に過ぎないと云う。

このように僅か2例の発見事例から、本古墳出土の紀年銘鉄刀は極めて稀少な例と云える。



写真は、東大寺山古墳から出土した大刀。

全長約1.1mの刀に中国・後漢の年号「中平」(184~190年)の文字が刀身に刻まれていた。倭国で卑弥呼が生きた時代と重なり、魏志倭人伝が記す中国皇帝から贈られた刀ではないかとする説がある。

このように、本古墳を一躍有名にしたのが、1961年の盗掘の事後処理として行われた発掘調査後の遺物整理で銘文のある大刀が発見されたため。

銘文は「中平□年五月丙午造作文刀百練清剛上応星宿下避不祥」(中平□年五月に銘文の入った刀を造る。百回鍛えた立派な刀は天上では星座の神々のお役に立ち、地上では災いを払う)という意味で、大刀の製作年や神秘的な力を示している。

“中平”銘文大刀の金象眼が純金だったことが、東京文化財研究所の調査で分かったらしい。金が99.3~99.9%の純度を占めたと云うように、中国の高度な製錬技術で作られた。

中平年は中国後漢末の年号(184~188年)である事から、この大刀は中国から渡ってきたものである事がわかり、日本で発見された年号の判明している遺品の中では金印に次ぐ古さである。

この時代は丁度、卑弥呼が君臨していた時代(2世紀末~3世紀前半)と微妙に重なり中国・魏から卑弥呼に贈られた可能性がある。

中平とは“後漢の霊帝”の年号で、184~189年を指し、「倭国乱」(『魏志』倭人伝)「倭国大乱」(宋書)が終結した時期。中平銘紀年刀は「倭国乱」終結後、卑弥呼に下賜されたものと考えられる。

倭国の乱を鎮めようとして卑弥呼が政権の後ろ盾になることを願って漢王朝に遣使したのではないかと推測できる。朝貢を伝える記録はないらしいが・・・。

後漢の霊帝末期とはいえ、従前の倭国の王が行なったように、漢を頼みとして使者を出したものと見られる。

発掘調査を担当した担当責任者は、「卑弥呼の時代の遺物で、卑弥呼との関連性が考えられる。ヤマト政権の成立期に国家を守る象徴として、その後武力を持つワニ氏に代々伝わったのでは!」と推測される。

卑弥呼の時代と東大寺山古墳の築造年代(4世紀半ば)とは合わない。卑弥呼の時代から150年前後の時を経て何故、天理のこの古墳から出土したのか?

ワニ氏は、東大寺山古墳の周辺を勢力地とした古代豪族であり、ヤマト王朝の武力を牛耳っていたワニ氏に伝わったと考えられる。

古代史の謎を解く鍵となる貴重な資料であり、注目を集めている。

いずれにせよ、本古墳の被葬者は古墳の規模から大王墓ではないにしても、当時の政権の重要ポスト(武器管理?)にいた人物と見られる。


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奈良県天理市の馬口山古墳とは!

2011年03月19日 | 歴史
馬口山古墳は、天理市兵庫町馬口山の低地にあり、大和神社参道の南側に所在する。

大和神社の周辺は、奈良県下でも有数の古墳が大小数十個もあり、「オオヤマト古墳群」と呼ばれ、「馬口山古墳」もその一つ。

墳丘は修復整備されていないが、風雪を耐えて良好な状態で保護されている。

墳丘は前方後円墳で、墳丘の規模は、後円部の径62m・高さ12m・前方部の最大幅は52m・高さ8mほどを測り、墳丘全長は約110mと云われる。

本古墳の主軸は南北で、特殊器台片が採集されていて、箸墓古墳に先行して築かれたとの説も出されているらしい。





写真は、馬口山古墳墳丘と看板。

現在前方部後円部ともに畑が作られている。

また、前方部と後円部のつなぎ目であるくびれ部の幅は約40mとされる。

基本的には土が盛られて造られているため、1,500年あまりの年月の風雪に耐えながらも自然崩壊などが発生している。

本古墳の造り出し部の付設があったことが確認されていると云う。

墳丘の周囲には、現在も水をたたえた水濠となっている周濠があり、特殊器台形埴輪、特殊壷形埴輪などが採取されており、墳丘には埴輪の配列がなされていたらしいが、葺石は施されていなかったものと見られる。

発掘調査が1987年に行われ、後円部にある埋葬施設では竪穴式石室が見つかったらしい。

大和古墳群を構成しているが、最古級の古墳で「箸墓古墳」・「中山大塚古墳」と同時期で、本古墳の築造は3世紀後半ごろと推定されている。



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奈良県天理市の下池山古墳とは!

2011年03月17日 | 歴史
大和神社の東方台地は、奈良県でも有数の前方後円墳の群集地で、大和古墳群と呼ばれ、付近には40基ほどの古墳が所在する。

“山の辺の道”を南へ向い、五社神社の四角を右に折れて西へ行くと「下池山古墳」があるが、大和古墳群の中央に位置している。

近年行われた下池山古墳・中山大塚古墳等大和古墳群の発掘調査では、全国で初めて木棺が、ほぼ原型のまま出土するなど貴重な成果を挙げている。









写真は、溜池越しに望む、竜王山を背景にした下池山古墳遠景、みかん畑越しに見上げる同古墳光景、荒廃した同古墳の現状及び同古墳脇から覗く竜王山光景。

下池山古墳は、天理市成願寺町に所在する、墳丘全長約125m・後方部一辺長60×57m・高さ14m・前方部幅27m・高さ6mほどで、全国6番目の規模の二段築成の前方後方墳で、大和古墳群に属す古墳時代前期前半の古墳。

平成7年~8年にかけて、奈良県立橿原考古学研究所により竪穴式石室の発掘調査が行われた。

多数の板石が用いられた石室は、長さが6.9m・幅0.9~1.3m・最大高1.8mほどで、その内部からは木棺とともに鉄製品等が出土している。

特筆すべきは、コウヤマキ大木の刳抜式割竹形木棺が残っていたが、保存状態が極めてよく、前期古墳の中でも最も古く、叉全国で初めて木棺が、ほぼ原型のまま出土するなど貴重な成果を挙げている。





写真は、下池山古墳の竪穴式石室及び同古墳から出土した木棺。

木棺の外径6m・高さ40cm・深さ18cmほどで、内面には朱が付着していたらしい。

石室内は盗掘を受けていたが、碧玉製石釧1点・碧玉製管玉7点・ガラス製小玉44点・鉄槍・鉄刀・鉄製ヤス・その他鉄製品の破片などが出土している。

石室に隣接して小石室があり、径37.6cmほどの国産の大型内行花文鏡が置かれていたらしい。





写真は、下池山古墳から出土した内行花文鏡と復元された倭文織。

この大型銅鏡・内行花文鏡を包んだ絹布の断片が出土している。

卑弥呼が魏に送った幻の班布「倭文(しどり、絹と麻の縦糸混合布)」の断片が付着していた。

内行花文鏡は、幻の古代布である倭文に包まれ夾紵(きょうちょ)(乾漆)製の容器に納められた状態で出土したと云う。

倭文は、天蚕(てんさん)の細い繭糸(けんし)を糸にして織られており、そのような精巧な絹布に包まれていた銅鏡も舶載鏡ではないかと考えられている。

共伴する遺物等より、古墳の造営年代は3世紀末頃と推定されるが、平成17年3月に県の史跡に指定されている。

山の辺の道に沿った当地には、下池山古墳のほか、東殿塚・西殿塚・波多子塚・中山大塚・馬口山・櫛山等全長100m以上の古墳群のうち、大規模クラスの古墳時代前期の前方後円墳が目白押し。

現状、多くの古墳がみかん・柿・野菜等の栽培に利用されている。

江戸時代から古墳の姿が崩れ始めたと言うが、元々の古墳所有者との売買が成立したのか、占有・先住権が功を奏したのか、先祖崇拝思想が薄れたのか、本来聖地のはずの古墳が、その風采を失い始めたようだ。

元々の葺石・板石が石垣等に改変され、当時の面影はない。ほとんどの古墳は埋蔵物が盗掘されたか、全てとはいかなくとも発掘済か、もしくは破壊された可能性が高いとのこと。

ここで、平成20年当時、下池山古墳を現地視察した姿を以下紹介する。





写真は、下池山古墳でのみかん畑と柿栽培の風景。

左側写真のように安山岩の板石を、石垣として小口積みに改変した姿が見える。

本古墳墳丘では、柿の栽培が盛んに行われている。

古墳としては、比較的清楚に管理・維持している方で、安心ではあるが・・・・。

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奈良県天理市の燈籠山古墳とは!

2011年03月15日 | 歴史
燈籠山古墳は、天理市中山町燈籠山の丘陵頂上にあり、現在は果樹園になっており、一方で中山大塚古墳の後円部に接している。

大和神社御度所の先に念仏寺があるが、桜井と天理と奈良を結ぶ日本最古の道、山の辺の道はその寺の墓地を通り抜ける。

その墓地の中に燈籠山古墳があり、前方部が墓地の一部として利用されている。





写真は、柿木に遮られた燈籠山古墳及び念仏寺墓地を背景した、燈籠山古墳の説明看板。

本古墳は、全長110m・後円部径55m・高さ6.4m・前方部幅41m・高さ6.3mほどで、二段構築の前方後円墳。大和古墳群を構成している。

後円部は果樹園に、前方部はすぐそばにある念仏寺の墓地になっており、円筒埴輪や朝顔形埴輪などが採取され、墳丘には埴輪の配列がなされていたと云う。

主体部が2つあり、後円部にある第1主体部は竪穴式石室で、勾玉・管玉・釧などが出土している。

前方部にある第2主体部には、割竹形木棺で埋葬され、出土した埴輪の特徴から、この古墳の築造時期は古墳時代前期・4世紀前半ころと推定されている。

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奈良県天理市の西殿塚古墳とは!

2011年03月13日 | 歴史
西殿塚古墳は竜王山西麓の幅広い尾根の上に、南北方向を主軸にして築かれた前方後円墳で、前方部を南に向けている。

前方部の先端は箸墓古墳ほどではないが、三味線のバチ状に開いている。











写真は上から、西殿古墳の正面光景、同古墳全景、同古墳後円部からの光景及び周濠が柿畑と化した同古墳光景及び同古墳脇の柿畑越しに望む二上山と奈良市街地。

墳丘の全長は約230m・後円部の径約145m・前方部の幅130mほどと、大和古墳群の中では最大の規模をもち、この地域では渋谷向山古墳(伝景行陵)、行燈山古墳(伝崇神陵)に次いで大きい。

1992~1994年にかけて天理市教育委員会が発掘調査を行なった。調査では、東側のくびれ部から前方部に向かって徐々に深くなる周濠状設備の存在が確認されたが、後円部や前方部前面へはつながっていないようである。

段築は認められるが、前方部の段築がくびれ部付近で解消してしまい、後円部にはつながっていない。後円部墳頂は広大な正円形の広場になっており、その中央に正方形の壇が設けられていたと云う。

後円部の方形壇は、一辺35m・高さ2.6mの正方形に造られ、前方部にも墳頂に同じ形で、一辺22m・高さ2.2mでやや小さい壇が営まれており、墳丘頂上で古墳祭祀が行われたことを物語っている。

後円部と前方部の方形壇の下にそれぞれ別人の埋葬施設が存在したという見方があり、方形壇は死者を埋葬してから、その上に祭祀用に広大な壇を造ったものとみられ、箸墓古墳の段階ではまだ造られておらず、壇の設営としては初期の頃のものと考えられる。

発掘調査では、古墳の周囲から葺石が見つかり、大型の円筒埴輪が大量に出土した。一方、1998年の宮内庁の報告によれば、特殊器台や特殊壺が発掘調査以前に出土していることが明らかになっている。

これらの特殊器台や特殊壺は埴輪の起源となるもので、この古墳は埴輪出現以前に築造されたものであり、その築造時期は円筒埴輪だけを出土する渋谷向山古墳・行燈山古墳より古いとされている。築造時期は、箸墓古墳に近い4世紀前半に遡るとの意見が多い。

天理市南部に広がる大和古墳群の中でも最大の大きさであり、延喜式で山辺郡にあったとされる“手白香皇女衾田陵”の位置にあたるため、明治9年、宮内庁により西殿塚古墳が、第26代継体天皇の皇后・手白香皇女(たしらかのひめみこ)の衾田陵に治定された。

その根拠は不明であるが、宮内庁は、現在この古墳を手白香皇女衾田陵として管理している。

男大迹(おおど)王が北陸三国の地から迎えられて継体天皇として即位し、第24代仁賢天皇の娘・手白香皇女を皇后としたのは、西暦507年のこと。手白香皇女の死亡時期は不明だが、6世紀前半に生きた女性であることは間違いない。

したがって、考古学的知見では4世紀前半とされるこの古墳の被葬者であることは絶対にないと云う。

こうした明々白々な事実を前にしても、宮内庁は頑なに治定の見直しをしようとしない。

そのため、手白香皇女は天皇家の祭祀を受けず、衾田陵の被葬者は人違いされて祀られている。死せる両人にとってははなはだ迷惑な話であり、手白香皇女陵は天理市柳本町中山集落の東方丘陵上にある高槻古墳とすべきとの意見もある。

しかし、高槻古墳は全長110m・後円部径65m・前方部幅60mの前方後円墳だが、出土した須恵器から、古墳時代前期の築造と推定されているため、手白香皇女陵墓とは時代が合わない。

西殿塚古墳は、箸墓古墳と同様の吉備様式の特殊器台が後円部に並び、埴輪や墳丘の形態等からも箸墓古墳に続く時期の大王墓という見方がある。

こうして築造時期は3世紀後半から4世紀初めごろと想定されている。

一方衾田陵は、延喜式でいう山辺郡でも推定築造時期が6世紀と考えられていることから、周辺唯一の古墳である西山塚古墳と考えられている。

箸墓古墳に続く大王墓と見る立場から、被葬者を推定する試みもある。

まずは箸墓古墳の被葬者を卑弥呼と考え、台与らその次世代の王を西殿塚古墳の被葬者と考える。

また崇神陵の陵守が衾田陵を合わせて守っていたという記録から、西殿塚古墳こそが崇神天皇陵であったという解釈もあるが・・・・・・。

現在、本古墳は宮内庁が管理しており、研究者や市民の立ち入りは禁じられている。

一方で宮内庁管轄の陵墓なのに、古墳の前に出られる整備された公道はない。
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天理市の中山大塚古墳とは!

2011年03月10日 | 歴史
中山大塚古墳は、大和古墳群農地の南側に伸びる丘陵上に築かれている、古墳時代初頭の古墳で、後円部を少し東側に置く南北方向の前方後円墳。

前方部は大和神社のお旅所がおかれ、このために削平されている。大和古墳群の枝群である萱生古墳群に属し、奈良県の史跡に指定されている。

オオヤマト古墳群の最も北に位置するのが萱生古墳群で、纒向古墳群、柳本古墳墳群同様、萱生古墳群にも大きな特徴があると云う。

それは、出土遺物や築造形態などによると、西殿塚に先行し、場合によっては箸墓古墳にも先行するかも知れないと思われる古墳や、それに繋がりがあると思われる、中山大塚、燈籠山、東殿塚、ハタゴ塚などの古墳が存在する。

叉ハタゴ塚、下池山、フサギ塚、ノムギというような前方後方墳も4基も存在する。

知名度という点ではオオヤマト古墳群の中では最もマイナーな古墳群かも知れないが、内容的には非常に興味深い古墳群であると云える。

ということで、中山大塚古墳は、箸墓古墳に次ぐ最古級の前方後円墳であると推定されている。

また調査の結果、戦国時代にも古墳を城郭として利用したため、当初観察された後円部の段築や整形は、築造当初のものでないことも判明。





写真は、柿木に囲まれた中山大塚古墳及びその墳形。

古墳規模は、全長約132m・後円部径約73m・高さ約10mで、墳丘裾部では葺石基底石が石垣のように急角度で積まれている状況が検出された。

南側に延びた尾根を切り取り、その土を後円部の上に積み、前方部も尾根を低く細く削り取って、形を整えたと考えられており、また西側くびれ部では、後円部側の葺石基底石の上にさらに、前方部側の葺石を被せるように葺いている状況が明らかになったと云う。

これは後円部に前方部を接合したような状況が想定される。

この他、外部施設は西側くびれ部に作られた三角形の張り出し部と後円部北側の張り出し部で、いずれも古墳への通路的な施設と見られるが、古墳をとりまく周濠は確認されていない。

発掘調査、1977年(昭和52)以来数回にわたって実施されてきたが、埋葬施設は、後円部の中央に墳丘主軸に沿って築かれた竪穴式石室で、規模は長さ7.5m・天井までの高さ2m。石室の南北両小口は隅に丸みを持つように石材が積まれている。

石室の石材は大阪府羽曳野市と太子町の間に位置する春日山で採取された輝石安山岩を使用している。石室の中からは割竹形木棺が確認された。

出土遺物は、石室内から銅鏡片2点・鉄刀・鉄剣等鉄器36点などであるが、盗掘が石室内全体に及んでいて細片化している。

墳丘頂部からは土器のほか、特殊壷形埴輪・二重口縁壷系の埴輪・特殊円筒埴輪・特殊器台形土器・特殊壷形土器などが出土しているが、これらは埋葬主体部を囲うように樹立していたものと推定される。
今回の調査により、石室や墳丘構造、あるいは埴輪などに初源的な要素が各所に認められたと云う。このことから本古墳は、前方後円墳が築かれ始めたころの古墳であると判断されている。
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天理市の西山古墳とは!

2011年03月08日 | 歴史
西山塚古墳は、大和古墳群の中で5世紀後半の古墳としては、唯一の前方後円墳で、前方部は北に向いている。

前期古墳が大半を占める大和古墳群の中で、後期の大型前方後円墳はこの古墳だけ。叉大和古墳群の中で唯一前方部を北に向けている。

本古墳は、全長約114m・前方部幅70m・高さ8m・後円部径65m・高さ13mほどの前方後円墳で、円筒埴輪が発掘されており、その型式から、この地域の古墳としては異例の5世紀後半の築造と見られる。

前方部が竹林になっているが、墳丘は2段・後円部が3段と見られる。

これまで発掘調査は行なわれておらず、埋葬施設や副葬品は不明だが、墳丘の地面から古墳時代後期前葉の埴輪が採集されている。

明治20年頃、墳頂部が開墾された際に、石棺・勾玉・管玉・鈴・土器・人造石が出土したと云う記述が“山辺郡誌”に見られるが、現在その所在は不明。







写真は上から、西山古墳の看板越しの光景、同古墳正面の墳形及び同古墳の荒れ果てた南側からの光景。

山辺の道沿いには、多くの巨大前方後円墳があって目立たないが、全長約114mという本古墳墳丘規模は、5世紀後半の古墳としては、かなり大きな古墳。

山辺の道が萱生(かよう)集落に入り、狭い道を西側に行くと出会う、生活感に満ち溢れた古墳が西山古墳で、その後円部上には、石垣を積み上げたミカンの段々畑が見える。

一部に本古墳の濠などが残っている墳丘の裾には、一般の住宅が入込んでいて、後円部の南の狭い道にも古い風格のある住宅が並んでいる。

古墳の周囲を囲む幅12~20mの溜池は、当時の周濠痕跡と考えられ、後円部南西側の溜池外側には幅10m・高さ2mほどの外提が残っている。

なぜ、前期古墳の巨大前方後円墳が集中するこの地帯に、前方部が大きく開いた後期古墳をこじ入れるように築造したのか?

ちなみに大和古墳群・柳本古墳群ともに前方部を北に向けた古墳もなければ、100mを越す5世紀後半の古墳も西山塚古墳以外皆無らしい。

萱生集落の山側には、継体天皇の后の“手白香皇女”(たしらかのひめみこ)の墓とされる“衾田陵”(ふすまだりょう)がある。前方部を北に向けた西山塚古墳の右手端の奥には衾田陵の後円部が見える。



写真は、衾田陵・西殿古墳の後円部光景。

衾田陵と呼ばれる西殿塚古墳は、3世紀後半築造と考えられ、墳丘が約240mもある、古墳前期の前方後円墳のため、5世紀後半の手白香皇女の墓所ではありえない。

5世紀終りの本古墳は、仁徳天皇陵と伝えられる大仙陵古墳よりも新しいことになる。

継体天皇皇后の手白香皇女は、衾田に葬られたとされているが、衾田付近で時代の一致する古墳を探すと、西山塚古墳以外にはない。

従って、ほぼ間違いなく本古墳が手白香皇女陵で、延喜式に記されている継体天皇妃・手白香皇女の衾田墓は、西殿塚古墳ではなく、西山古墳だという説が圧倒的に有力。

その証拠としては、埴輪が継体天皇の真陵と言われる今城塚古墳と同じく、高槻市の新池遺跡で焼かれていることが挙げられる。

6世紀の継体皇女・手白香皇女の皇后墓が、何故オオヤマト古墳群内に築かれたのか、疑問が残るが、継体天皇が地方豪族であっただけに、あえて皇后をオオヤマトに葬ることで大和系列を誇示したかったかもしれない。



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天理市のフサギ古墳とは!

2011年03月06日 | 歴史
フサギ古墳は、天理市成願寺町フサギ塚の台地にあり、全長約110m・後方部一辺65m×60m・高さ9m・前方部の高さ5mほどを測り、前方部を西に向けた前方後方墳で、大和古墳群を構成している。





写真は、フサギ古墳全景及び遠景。現在は田圃や柿木畑にポッカリ浮かぶ。

この古墳が位置するオーヤマト古墳群の中の萱生(かよ)支群は、12基の前方後円墳と混在して、5基の前方後方墳から構成される、特異な古墳群として知られる。

本古墳は前方後方墳であるだけに、注目すべき古墳。

フサギ塚古墳は前方後方墳としての大きさは県内で5番目、全国でも7番目の大きさを誇る。

大和神社の参道入り口と上ッ道を挟んで対峙しているが、くびれ部から前方部にかけて大きく破壊されていると云う。

1987年に前方部の一部が発掘調査され、墳丘の盛土が確認された。

しかし古墳の築造時期を示すような遺物は出土していないらしいが、4世紀中頃築造とされる。

ただ前方後方墳という墳形からして、古墳時代中期以前の築造は間違いなく、、かって刀剣類が出土したと言い伝えられている。


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桜井市赤尾の赤尾崩谷古墳群とは!

2011年03月04日 | 歴史
赤尾崩谷古墳群は、桜井市赤尾の鳥見山北麓の標高約120mの尾根上に形成された古墳群で、そのうち、5世紀末・古墳時代中期の3つの墳墓などから1万1000点を超える多様な種類の玉類が出土した。









写真は上から、赤尾崩谷古墳墳頂から見下ろす、赤尾市街地の光景、現在は墳丘が崩れ落ちた杉材集積場の赤尾崩谷古墳跡地と、赤尾崩谷古墳脇の新興住宅開発地及び同古墳の発掘出土状況。

この時代の小規模な古墳から、これほど大量の玉類が出土したのは県内では初めてで、被葬者は大王家に重用された朝鮮半島南部地域の渡来人と見られ、初期渡来系集団研究の貴重な資料になるものと注目されている。

この時期は、中国に使いを送っていた「倭の五王」の時代にあたり、桜井市教委は「初期渡来系豪族の実態を表し、高い技術力が大和王権に重用されていた様子を物語る資料」としている。



写真は、赤尾崩谷古墳から出土した、各種装身具。

本古墳群は丘陵の尾根沿いにあり、1辺11~16mの方墳4基と直径12mの円墳1基で構成されているが、玉類はこのうち、4基から見つかった。

最も北側の方墳では、長さ約2.6m・幅約0.6mの木棺の中で、玉類が被葬者の首・手・耳付近に生前と同様の姿で身につけられていたと云う。

首飾りは、コハク製・銀の空玉製の玉とヒスイ・水晶の玉をガラス玉の間にちりばめたものが3種類見つかっている。

最も北側の古墳は、一辺約16mの方墳で、木棺直葬の埋葬施設からは、3,600点ほどの玉・装身具類が装着状態で検出されたらしい。

見つかったのは、翡翠やガラスの勾玉をトップに、あしらい瑪瑙(めのう)・水晶などの玉類で装飾したネックレスをはじめ、琥珀や銀製空玉のネックレス、銅製輪・金銅製空玉・碧玉製管玉などを使った腕輪、ガラス玉のブレスレット等々。

材質は多種多様で、色彩も群青や緑、朱など多岐にわたっている。

また首付近では緑・空色・青色の3色のガラス玉を布に縫いつけていたことも判明。

ガラス玉は銅・マンガン・コバルトなどさまざまな鉱物で着色され、高い技術に裏打ちされた輸入品だが、このほか、鉄剣や鏡なども見つかった。

また、この古墳の南側に位置するほぼ同時期の直径約12mの円墳と、一辺約11mの方墳では、それぞれ4,600、2,800点を超えるガラス・翡翠・石製の玉が、祭祀の際に撒かれたと見られる状態で検出された。

これらの古墳群は、出土土器から5世紀末のものと推定される。玉類とともに出土した垂飾付耳飾りや鳥足文を持つ甕などから、朝鮮半島南部から渡来した人物が被葬されていたと考えられている。

加えて3つの墳墓は、日本書紀などで5世紀末の雄略天皇の時代に設けられたとされる泊瀬朝倉宮(はつせあさくらのみや)の有力候補地を見渡せる場所に立地していることから、雄略天皇に関係する有力豪族の墳墓と考えられる。

泊瀬朝倉宮伝承地には、本古墳に近い、桜井市黒崎の白山神社境内には「雄略天皇泊瀬朝倉宮伝承地」の碑が建立されていることや、同市脇本にある脇本遺跡で、5世紀後半のものと推定される掘立柱穴が発見されたことから、考古学的見地から朝倉宮の有力な候補地とされる事例がある。

いずれにしても、豪華な副葬品と合わせ、被葬者は大王家の下で要職にあった有力者と推測される。

古墳群の北には、倭の五王の「武」とされる雄略天皇宮の推定地があることから、市教委は「有力地に古墳群を築ける地位を大和王権下で保っていた勢力で、豪華な装飾品を作る技術力と知識が権力の源だったのだろう」としている。

さらには、近くの同時期の渡来系墳墓から見つかった副葬品が、今回のものと異なることから、同地域に少なくとも2つの渡来系集団が存在した可能性が高いとの指摘もされている。


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桜井市の茅原大墓古墳(続報)とは!そのⅡ

2011年03月02日 | 歴史
茅原大墓古墳の最新情報を紹介する、第二段の今回は、本古墳の墳形や出土した珍しい遺物などについて、報告します。





写真は、上空から見た茅原大墓古墳墳形及び本古墳の平面側面から見た全体像。

茅原大墓古墳のこれまでの発掘調査から、墳丘規模は後円部径約72m・墳丘全長は約86mで、墳丘構造は3段築成と見られる。







写真は、平成23年2月26日の茅原大墓古墳現地説明会光景、本古墳北側の前方部先端の葺石出土状況、今回出土した東側裾部の葺石。

今回発掘調査された、後円部東側、東側くびれ部、前方部北側などの墳丘端の斜面に葺かれた葺石が、墳丘全体の輪郭を明らかにしたと云える。

本古墳が位置する奈良盆地東南部では、3世紀代の古墳出現期から大型古墳が連綿と築造され続け、大王墓と見られる200m以上の巨大古墳の出現は、この地域を根拠としていた勢力が、当時の政権内において中心的な位置を占めていたものと思われる。

しかし4世紀後半以降になると、奈良盆地東南部では巨大古墳が築造されなくなり、代わって奈良盆地北部や河内地域において集中して築造されるようになった。

即ちこの時期になると奈良盆地東南部の勢力は衰退し、奈良盆地北部・河内地域の勢力がより強大になったことを示す。

従って茅原大墓古墳は、奈良盆地東南部の勢力が衰退していく時期に築造された古墳で、当時の時代背景を示していると云える。

叉4世紀末頃より多く見られる帆立貝式古墳の形態は、前方後円墳築造に規制がかかった結果、茅原大墓古墳の葬られた首長も、この規制を受けたため創出されたもので、この地域の勢力の衰退を象徴的に物語っていると云える。









写真は上から、茅原大墓古墳の盾持人埴輪が出土した発掘現場、盾持人埴輪の復元像、同盾持人埴輪の顔部及び同埴輪の盾線刻文様。

茅原大墓古墳は、4世紀末ごろに造られたとみられているが、この古墳から人の形を表現したものとしては最も古い時期の埴輪が見つかった。

人が古墳を守るという考え方がこの時期に広がり始めたことを示す貴重な資料として注目される。

今回の発掘調査では壷形埴輪のほか、形象埴輪として盾持人埴輪・鶏形或いは水鳥形埴輪などの存在が明らかになった。

盾持人埴輪は、墳丘東側のくびれ部付近に流れ落ちた状況で出土しており、頭部から盾面の上半分にかけて、高さ約67cm分が残存していた。

幅約50cm・高さ47cm以上の長方形の盾部分には、線刻による文様が表現されている。この盾とみられる板が貼り付けられていたことから、古墳を守る兵士の役割を与えられたのではと考えられる。

顔面部分は平面的で、表面には赤色顔料が塗られている。

叉顎の部分は張り出しており、入れ墨と思われる表現が見られる。頭部には三角形をした冑と思われるようなものを被っている表現が見られる。

人物埴輪はその出土の状況などから、古墳が造られたのとほぼ同じ4世紀末ごろに制作されたとみられる。

埴輪は、筒のような形をしたものが3世紀後半ごろから古墳を取り巻くように立てられ始め、人の形が出現するのは5世紀前半ごろと考えられてきた。

しかし、今回の埴輪は、これまでの例を数十年さかのぼり、人の姿をしたものとしては最も古い事例となる。

これまで人物埴輪の大半は5世紀後半から6世紀代に属するもので、5世紀前半の羽曳野市の墓山古墳や、4世紀末~5世紀前半の福岡市の拝古墳の盾持人埴輪が最も古い事例とされてきた。

「古墳の内部に『あの世』があり、人の形をした埴輪がそれを守るという考え方が、この時期に広がり始めたことを示す最高の資料だ」と見られている。

盾持人埴輪は、他の形象埴輪とは異なり、古墳外縁部に置かれる例が多く、外側の邪悪なものから古墳を守る意味を持つ象徴とも考えられる。

このような人物埴輪の出現は、古墳時代中期中頃以降に盛行する埴輪祭祀が生まれる大きな契機となったと見られる。

今回の発掘調査でもう一つの珍しい発見は、埴輪棺が出土したこと。



写真は、茅原大墓古墳から出土した埴輪棺。

埴輪棺は、本古墳前方部東側斜面のくびれ部基底部で、樹立した状態で発見されたと云う。

茅原大墓古墳の被葬者の親族が葬られていたと考えられるが、埴輪の形態については不明であり、今後の検討結果を待ちたい。






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