近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

桜井市の茅野大墳古墳とは!

2010年11月30日 | 歴史
茅野大墓古墳は、全長約85mの帆立貝式前方後円墳で、茅野狐塚古墳から北に進むと同古墳の森が見えてくるはずが、現在発掘調査中であり、墳丘を埋め尽くしていた木々は切られ、外見上は古墳らしくない。

ホケノ山古墳の南に所在する、4世紀後半の古墳時代中期の本古墳は、現在古墳の一部が民家の庭になっている。

4世紀後半は、大和王朝が朝鮮に攻め入り、百済・新羅を破った頃。

本古墳は、箸墓古墳の東南約500mの田んぼのなかにあり、箸中古墳群の中では、箸墓古墳に次ぐ規模の古墳。





写真は、茅野大墳古墳墳頂から望む葛城山・二上山と箸墓古墳及び同古墳墳頂から遥かに望む畝傍山と天香久山。

三輪山の西麓に位置する本古墳は、帆立貝式前方後円墳の代表的な事例として国史跡に指定されている。

また墳丘の西側にある細長い池は、周濠の痕跡と考えられている。現在桜井市では、本古墳を一般公開すべく、史跡整備を計画している。









写真は上から、茅野大墳古墳の現在の発掘調査現場、今回の発掘調査前の同古墳の森及び同古墳の発掘調査現場2点。

今回の発掘調査は、本古墳の範囲確認など国指定史跡整備事業の一環としてスタートしたらしく、暫く続くと云うこと。

平成20年秋の発掘調査では全長約85mで、直径約70m・高さ約9mに推定される後円部の北側には、長さ約15m・高さ約1mの小規模な前方部を観察することができると記されている。

調査以前までは、全長約66m・後円部径56m・前方部長さ約10m・高さ8mほどとされていたが、今回の調査により全長約85mに訂正されることになった。

3世紀前半のホケノ山古墳は、全長約80m・後円部径約55m・高さ約8.5m・前方部長約25m・高さ約3.5mの規模であり、これまでは茅原大墓古墳より一回り大きいとされていたが、今回の調査により逆転されたことになる。

今回の調査では、前方部東側で葺石が確認され、高さ約60cm分が残存し、約40度の傾斜をもつ墳丘斜面に沿って構築、使用された葺石は30cm前後の大きさで、付近の河原などから運ばれたらしい。また、葺石の周辺からは、円筒埴輪片が出土したと云う。

帆立貝式は、前方後円墳の一形式で、通常は円墳状の後円部に方形、もしくは梯形状の長い前方部が付着するが、帆立貝式の場合は前方部が非常に短く、低い形式の古墳で、平面の形式があたかも帆立貝に似ているところから、命名された。

この帆立貝式古墳は、普通の前方後円墳に対して、その数がきわめて少なく、大和政権の規制により変形を余儀なくされた存在と云える。



写真は、茅原大墳古墳から出土した円筒埴輪片。

平成21年度に実施した第3次調査では、後円部頂と2段目の平坦面で円筒埴輪列が確認されたが、写真のように、円筒埴輪は上部が失われ、底部径が40cm以上の大きなものが含まれていたと云う。

このほか後円部と前方部の接続部分では葺石が見つかり、出土遺物としては円筒埴輪のほか蓋形埴輪などの破片があり、これらから築造時期は、4世紀後半~5世紀初頭頃・古墳時代中期初頭と考えられる。

桜井市から天理市にかけての奈良盆地東南部では、3世紀代から相次いで全長200m以上の大型前方後円墳が築造されまたが、4世紀後半頃の天理市・渋谷向山古墳を最後にそのような大型古墳は築造されなくなり、桜井周辺の勢力がこの時期に衰退していったと推定される。

茅原大墓古墳はその衰退期に築造されたと考えられる。

茅原大墓古墳は決して小さな古墳ではないが、前段階の大型前方後円墳と比較すると規模が小さく、墳形が帆立貝形となっている点は、この地域の勢力衰退の様子を象徴的に表していると云える。

前方後円墳として築造が許されなかったという点からすれば、大和政権の規制が考えられる。

ということで、茅原大墓古墳は、当時の政権中枢における勢力変動を示す重要な資料と云える。

被葬者は地元では、倭佐保姫(11代垂仁天皇の皇后)の御陵として言い伝えられている。

1982年に国史跡に指定され一部を除き市有地となっており、桜井市が将来的に史跡公園化を目指し、順次調査中の古墳。



桜井市の茅原狐塚古墳とは!

2010年11月28日 | 歴史
茅原狐塚古墳は、桜井市茅原にある古墳で、墳丘はほとんど失われており、巨石を用いた石室部分が露出している状況。

本古墳封土がほとんど失われているため、墳丘の正確な形は不明だが、一辺40m以上の方墳ではないかと推測されている。

現在、本古墳の敷地は柑橘類や柿などの農地として占有化され、石室に隣接して農機具置場・農作業場が造られているほどで、今後古墳そのものの維持管理が心配される。







写真は、農地化された茅野狐塚古墳全景、みかんやかきなどの農地として使われている同古墳及び柿木越しに覗く同古墳の墳丘。

横穴式石室は、1956年大三輪町史編纂のために発掘調査されたが、花崗岩を用いた、南に開口した両袖式で、全長17.3m・玄室の長さ6.0m・幅2.6m・高さ3.2m、羨道部分の長さ11.3m・幅2.1mで、全国的にも屈指の巨石古墳の一つ。









写真は、農作業場に隣接した茅野狐塚古墳の横穴式石室開口部、同横穴式石室の裏側概観、敷石で整備された玄室内部の様子及び同石室の巨大な凝灰岩製天井石。

石室の構造が御所市の“水泥北古墳”とよく似ており、同一の設計によるものではないかと指摘されている。

叉1958年の発掘調査では、石室内部からは凝灰岩製の組合式家形石棺が3基も出土したほか、羨道部にも木棺があった云い、須恵器なども出土した。

更に羨道部分から鉄製の釘・鉄直刀・土師器破片なども出土しており、木棺が追葬されていた可能性もある。

これらの出土遺物から、本古墳は6世紀末~7世紀初めに築造されたと想定される。

本石棺の底石は原位置にあるが、四方の側石は倒れ2枚の蓋石がその上に乗っている。蓋石は2枚で構成され、それぞれ2対の縄掛突起を持つと云う。

玄室入口の石棺は破壊されていたため、石棺の構造は不明。

この石棺には、幅1.1mにわたって敷石が敷かれ、石棺底に当たる部分に小礫石を詰めている。

石棺の破片から玄室にある3棺の中で一番立派なものらしい。

以上のような発見内容から、被葬者は三輪氏に関係していた豪族の墓墳ではないかと想像されている。





桜井市の文殊院西古墳とは!

2010年11月26日 | 歴史
文殊院西古墳は、桜井市阿部地区に所在する、南に開口する両袖式横穴式石室を持つ古墳の中で、最も整美された切石の石室を持つ。

墳形は不明ながら、20m以上の円墳の可能性が高い。埴輪や葺石はみられないと云う。









写真は上から、桜井市の阿倍文殊院の本堂光景、同古墳横穴式石室の開口部光景、同古墳案内板と墳丘光景及び同墳丘の様子。

桜井市の古刹・文殊院の境内には2基の古墳が現存するが、そのうち本堂に近い西古墳は、研磨した良質な花崗岩が精巧に組み上げられた極めて優秀なもので、日本における切石造石室の代表的なものとして特別史跡に指定されている。

本古墳の築造は、副葬品などは知られていないが、花崗岩の切石技法の完成期とみられ、7世紀中頃が想定されている。

その埋葬者は阿倍一族の有力者であることはほぼ間違いなく、阿倍氏の中でも、大化改新後に初めて左大臣にのぼり、5年後に死去したが、文殊院を建てた阿倍倉梯麻呂(あべのくらはしまろ)の墓説が有力。

本古墳墳丘はかなり変形されているものの、現在は幅13.6m・高さ6.6mほどの円墳。







写真は、文殊院西古墳羨道から玄室へ石室内部光景、同玄室の研磨・積上げられた花崗岩切石及び同玄室に安置された鎌倉時代地蔵像。

文殊院西古墳の玄室は、幅2.9m・高さ2.7m・長さが5.1mほどで、写真のように、長方形に研磨した花崗岩の石材が5段に積み上げられ、天井石は1枚で、内側をやや掘りくぼめており、現在は写真の通り、玄室には鎌倉時代に作られたとされる地蔵像が安置されている。







写真は上から、文殊院西古墳羨道の側壁と天井石の巨石配列状況、同玄室の側壁石と天井石との接合技術の粋及び同石室の巨大天井石。

羨道は幅2.3m・高さ1.8m・長さが7.3mほどで、巨石が並べられており、天井石は3枚。
いずれの切石も美しく、完成された切石の技術により造られたと云える。

文殊院は安倍文殊院ともいい、大化の改新後に左大臣に任命された安倍倉梯麻呂の氏寺として建てられたのがその始まりとされる。また、この寺院は陰陽師として有名な安倍晴明が陰陽道の修行をしたとも云われている。

文殊院の本尊はその名の通り文殊菩薩。重要文化財に指定されているその文殊菩薩は、鎌倉時代の代表的仏師である快慶の作品。

文殊院には東古墳もあるが、7世紀後半に造られたもので、西古墳ほど優れたものではなく、比較的一般的な古墳と言える。

しかしその内部からは水が湧き出しており、井戸が作られていることから、この東古墳は閼伽井窟(あかいくつ)と呼ばれ、昔から信仰の対象とされてきたと云う。



桜井市のメスリ山古墳とは!

2010年11月24日 | 歴史
メスリ山古墳は、“東出塚古墳”・“鉢巻山古墳”とも呼ばれてきたが、4世紀前半頃に築造された、全長約224mの前方後円墳で、後円部は3段造りで径128m・高さ19m、前方部は2段造りで幅80m・高さ8mほどで、昭和55年に国の史跡に指定された。

箸墓古墳の方が、年代的に先行する。

艸墓古墳の南方に築かれた、西向きの前方後円墳で、北東約2kmにある、茶臼山古墳と並んで同時期のものでは最大級の古墳。







写真は、メスリ山古墳遠景、同古墳の森風景及びみかん畑越しの同古墳の森。

後円部の各段に円筒埴輪列が巡り、斜面には人頭大の葺石があった。

円筒埴輪は、後円部の三段と方形壇の墳頂部に密集して二列、また、墳頂部では二列の埴輪の間隔をとっている。

後円部の頂に竹垣を巡らしたように、埴輪の囲いがしてある箇所には、長辺約11.3・短辺約4.8m・高さ1m以上の長方形の壇がある。

直径1mもの円筒埴輪は、方形埴輪列の最内側の角や辺を等分する位置に立っている。





写真は、メスリ山古墳の墳頂部光景及び同古墳の竪穴式石室概観。

後円部頂上の中央には、木棺を納めた主石室の竪穴式石室があり、その長さは約8.06m・幅約1.18m・高さ1.76mで、8石の天井石で覆われているが、盗掘によりほとんど遺物を残していない。



写真は、本古墳石室の巨大石組み。

主石室は、盗掘のため著しい破壊を受け、盗掘の激しさを物語っているが、それでも、内行花文鏡・三角縁神獣鏡の破片、石釧・鍬形石・車輪石・椅子形石製品・櫛形石製品、石製合子などの玉類・刀剣、玉石製品では翡翠の勾玉・碧玉の管玉・貝輪を真似た石製の腕輪類・ミニチュア化した石製の椅子・櫛などが出土している。

主石室の横にあった副石室は、長さ約6m・幅約70cm・高さ60~70cmで盗掘を免れている。

また、古墳時代の一つの特徴である自然石を徐々に内側に持ち送り天井部を持つ合掌式の竪穴式石室で、内部には遺骸がなく、武器ばかりが埋納された、格納庫・遺品庫であったと考えられている。

前方部は西に向けて立地し、2段築成で幅約80m・高さ8mほどで、埴輪は、方形壇の外側に間隔を置いて点在していた。

器台型埴輪は、高さ約2.4m・径約1.3mで日本最大であり、朝顔形埴輪も出土している。

本古墳は、磐余の地に接した初瀬川の左岸にあり、桜井茶臼山古墳などと共に鳥見山古墳群に属する。

特筆すべき点は、埋葬施設の副石室が、まるで遺品庫の様相を呈していることで、規模・埋葬品とも大王墓級だが、記紀や『延喜式』などに陵墓としての伝承がない。

本古墳墳丘規模・埴輪の大きさ・埋葬施設・副葬品収納施設・遺物などを考え合わせると、絶大な権勢を誇った首長の墳墓であると考えられる。

磐余地域の前期古墳として最大規模を誇り、阿倍氏の祖「オオビコ」の墓説もある。





桜井市の艸墓古墳とは!

2010年11月22日 | 歴史
ここからは、奈良県内の古墳巡りに戻ります。

先ず艸墓古墳は、別名カラト古墳とも云われているが、唐櫃(からひつ)即ち石棺のある古墳という意味らしい。

本古墳墳丘は、阿部丘陵の小突起部を利用した、北西面と東南面がやや長い、長辺約27m・短辺約21mの7世紀初期の方墳で、国指定史跡。







写真は上から、民家が隣接した、艸墓古墳への入口案内板、墳丘の様子及び墳丘と民家の隣接状況。

本古墳は、民家の裏庭のすぐ近くにあると共に、民家と極端に隣接しているため、入口が分かりにくい。

桜井市内には箸墓古墳や桜井茶臼山古墳などの巨大古墳が存在するが、それらの古墳とは趣の異なる小規模な墳墓。

埋葬施設は、南東に開口する両袖の横穴式石室に竜山石製(兵庫県高砂市竜山に産する石材名で、軟質で加工しやすいと云う)の刳り抜き式家形石棺が安置されている。

石棺は一見盗掘されていないように見えるが、奥側の小口部に大きな盗掘穴が空いている。









写真は上から、艸墓古墳の石室開口部光景、同石室の羨道と最奥石棺光景、同石室の天井と側壁巨石接合の状況及び同玄室の石棺盗掘口。

本古墳石室は、表面を平滑にした花崗岩の巨石を用い、封土の基底面のほぼ中央に玄室が位置し羨道がつく。

奥壁は一石、石室側壁は各二石で一段、天井は二石、天井と側壁など、写真のように、巨石の接合点には適当な石をはめ込み,漆喰を充填している。

石室の規模は、全長が13.16m・玄室幅2.71m・同長さ4.44m・同高さ2.0mで、羨道は長さ8.72m・玄室部の幅1.9m・高さ1.5mを測るなど大規模。





写真は、玄室内部の刳り抜き式家形石棺及び同玄室の側石と石棺の密着具合。

家形石棺は、全体に丁重な造りで、棺の正面前に一辺約1mの方形の板石が据えられている。

狭い石室にギリギリ納まっている石棺の状況から、石棺を安置した後、玄室を構築し、それから墳丘を築いたものと見られている。

尚、艸墓古墳の出土遺物と被葬者は現在も不明。



大津市神宮町の宇佐山13号墳とは!

2010年11月20日 | 歴史
ここからは奈良県の古墳巡りから離れ、最新の滋賀県の遺跡・古墳を紹介する。

先ず宇佐山古墳群の発掘調査は、平成22年4月から実施されていたが、その結果、5世紀前半・古墳時代中期前半頃とみられる、箱式石棺を内部主体に備えた古墳1基が新たに見つかった。

墳丘規模は、主体部の西側4mにある幅3mの浅い周溝と、東側7mにある墳丘裾部とみられる段差がその範囲を示すと考えられることから、東西は約13mと考えられている。

墳丘の高さも低いものであったとみられ、古墳としては小型の部類に入る。









写真は上から、ブルーシートに覆われた宇佐山13号墳の発掘現場、近江神宮から見上げる同古墳発掘現場、同古墳墳頂から望む琵琶湖光景、古墳から近江神宮越しに望む琵琶湖光景。

本古墳の所在場所は、標高160m付近、琵琶湖からの比高80mほど。

宇佐山13号墳付近には、8号墳の小さな盛土や神宮への参道の森があり、琵琶湖の向こうに三上山が見える。

本古墳は、佐山の中腹にある、宇佐八幡宮から東南に延びる尾根上にある古墳で、近江神宮から見ると、左手の裏山に所在するが、宇佐八幡宮の参道から上がってくる人が多いらしい。

叉本古墳は、明神崎と呼ばれる岬の尾根上にあり、写真のように、ここからは高島平野や琵琶湖を一望することができる。







写真は、箱式石棺に納められた人骨出土状況、ほぼ完全な人骨及び朱色に塗られた石棺蓋石。

本古墳墳丘は、ほとんど失われており、写真の通り、主体部には長さ205cm・最大幅42cm・高さ30cmほどの規模の箱式石棺が備えられていた。

古墳時代中期前半の築造とみられる本古墳からは、主体部の埋葬施設が完全な状態で確認され、更に中に納められていた石棺には、写真のように、埋葬された人物の頭骸骨が良好な状態で残されていたと云う。

県内で古墳時代中期の箱式石棺を備え、人骨が遺存する古墳の類例としては、高島市勝野に所在する“打下古墳”が挙げられる程度で、希少な古墳検出例であり、当時の埋葬習俗や被葬者の特徴を考えるうえで貴重な資料と云える。

更に本古墳からは、弥生土器、古墳時代から奈良時代までの須恵器・土師器、奈良時代の土馬(雨乞いなど馬形土人形)なども出土したと云う。

石棺の内面には赤色顔料であるベンガラが塗られており、遺体の周辺からは水銀朱も検出されている。石棺内には被葬者の遺骨と共に、鉄剣・鉄刀・鉄鏃などが副葬されていた。鉄鏃の年代観から5世紀前半の造営と考えられている。

叉主体部に箱式石棺を用いる小古墳は、日本海沿岸の山陰から丹後(京都府北部地域)にかけて多く分布していると云う。

発掘当初の遺骸の状態は、頭は山側、足は琵琶湖に向けていたが、大きな石は頭のほうに、小さな石は足のほうに並び、石棺の周りにブロック状の黒い粘土が見える。この黒い粘土がカマボコ状に石棺を覆っていたらしい。

石棺内には土が流れ込み、足元は天井まで土に埋もれていたそうで、そのため、赤い顔料は溶けていたらしい。骨も溶けたらしく、土壌が酸性であったためと見られる。

頭部のまわりで赤い顔料が残っているのは、土に埋もれなかった部分、蓋石の右の頭の部分に赤い顔料がよく残っていたと云う。歯並びがよく、欠けた歯もなかったらしい。






奈良県天理市の大和天神山古墳とは!

2010年11月17日 | 歴史
大和天神山古墳は天理市柳本町に所在し、行燈山古墳(崇神天皇陵)の前方部の西方にある、墳丘長約113mの前方後円墳で、築造年代は4世紀後半ごろの古墳時代前期初頭のもので、奈良県指定の史跡。

本古墳は、大型の行燈山古墳のほかに、渋谷向山古墳(景行天皇陵)を中心に13基で構成される柳本古墳群の中の1基。









写真は上から、大和天神山古墳入口の伊射奈岐(いざなき)神社鳥居、豊穣の田圃に浮かぶ本古墳全景、本古墳東側の道路に隣接した様子及び伊射奈岐神社境内から覗く本古墳墳丘。

本古墳は台地上に立地し、短めの前方部はわずかに撥形に開いており、その開きは後円部の直径を超えるものではない。葺石や埴輪は見つかっておらず、段築や周濠も不明瞭で、本来なかった可能性も指摘されている。

本古墳は、“伊射奈岐神社境内古墳”として調査が進められたが、古墳名に人物名が混じらないという方針により、地元の呼称をとって天神山古墳とされた。同名の古墳は各地にあるので、大和をつけて命名されたらしい。

本古墳は遺体を埋納した形跡がないらしく、東側にある崇神天皇陵の遺物のみを埋納した陪塚とも考えられている。



写真は、発掘当初の大和天神山古墳の石室内部と銅鏡出土状況。

1960年に県道拡張工事で、後円部の一部が削られたのを機会に緊急発掘調査が行われた結果、天井石を設けない特異な竪穴式石室が出土。

竪穴式石室の側壁石は石室内に落ち込んでいたが、自然倒壊によるものだった。検出されたものは何も錯乱しておらず、盗掘の被害は受けていなかったと云う。

本古墳後円部のほぼ中央に、長さ6.1mの竪穴式石室が検出されたが、石室の中央部には、現存の長さ2.6mほどの板材が残っており、その中央は仕切り板で区切られていた。

石室の内部には、一見木棺のような木櫃(“もくひつ”とは、重要な遺品を納めた木製の箱)のような、大きな木製容器が置かれていたと云う。

この木櫃の底板は、長さ2.6m・幅75cmほどで、断面は緩やかなU字形を呈している。しかし、巨木を刳り抜いたものではなく、縦に長い三枚の板を合わせたもので、従って内部の底面は水平でなく、両端がカーブしてあがっている。











写真は上から、復元された、木櫃と水銀朱が塗られた石室内部、本古墳出土の流雲文縁方格規炬鏡、画文帯神獣鏡、内行花文鏡及び獣形鏡。

木櫃からは、約41㎏の水銀朱が納められていたと云う。出土遺物には他に、23面の青銅製の鏡、鉄剣、鉄鏃、刀子、鎌、ヤリガンナ、板状鉄斧など。

出土した計23面の銅鏡は、大陸からの輸入品の舶載鏡だが、三角縁神獣鏡は含まれていなかったと云う。

銅鏡の内訳は、方格規矩鏡6面、内行花文鏡4面、画文帯神獣鏡4面、獣形鏡4面、画像鏡2面、三角縁変形神獣鏡2面、人物鳥獣文鏡1面など計23面が出土。

20面の銅鏡は、写真の通り、木櫃の四周に連続して長方形の辺に置かれていて、前期古墳にしばしば見られるように一面だけ中央に置いてあるという配列とは異なっている。

今回の銅鏡大量発見は、当時古墳の被葬者たちが、己の権力や財力を誇示するために、畿内の鏡造り集団から買い求めたものかもしれないと云う。

古代では、銅鏡は、“破邪の霊力”があるとされていた。





奈良県天理市の崇神天皇陵とは!

2010年11月15日 | 歴史
第10代崇神天皇陵は、天理市柳本町の山の辺の道に沿った代表的な観光スポットで、全長約240mに亘る堂々とした、古墳時代前期・4世紀後半築造の前方後円墳であり、深い緑の水をたたえた濠が美しく静まる。

崇神天皇陵は、行灯山古墳とも呼ばれ、龍王山の斜面の先端を利用して造られており、平野の方に前方部を北西に向け、後円部がより高い山側にある。

三輪山の山麓に築かれた大和・柳本古墳群の中でも、渋谷向山古墳(現景行天皇陵)に次ぐ大きさの古墳。

この小高い丘陵から眺める大和平野(縄文時代は海)と金剛山、大和三山(耳成山、天香久山、畝傍山)、二上山、生駒山等の山々、誠に悠然たる気分になる。

169号線こそ走っているものの農地に囲まれ、墳丘墓の環境は抜群と言える。169号線沿道の広告用看板等は、風致規制の対象で禁止され、環境保全に対する入念な気遣いが感じ取れる。







写真は、宮内庁管理柵に囲まれた崇神天皇陵入口、瑞々しい水濠に巡られた崇神天皇陵光景及び当天皇陵脇に配列された陪塚光景。

その政治勢力は、三輪王朝と呼ばれ、初期ヤマト政権の大王陵。

墳丘は全長が約242m、正円形で3段築成の後円部は直径158m・高さ23mほどで、後円部頂上は平坦で円形らしい。

周濠の形状は左右対称の盾形とされている。周濠を含めると全長約360m・最大幅約230mで、東西に主軸を置く。

崇神天皇陵は長岳寺から徒歩10分、黒塚古墳からも徒歩10分で、直ぐ山麓側には櫛山古墳があり、山辺の道散策コース・スポットの一つ。

崇神天皇陵は、大和の山々を背景に、水鳥が舞う瑞々しい外濠池の環境保全だけでも大変。実に見事に管理・維持されている代表的天皇陵の一つ。



写真は、崇神天皇陵脇の、たわわに実る刈り取り直前の田園越しに望む、遥か二上山・葛城山・生駒山光景。

このあたりから眺める大和国中の景色は素晴らしいの一言。

永遠の眠りの場所としてこの地を選んだ理由が分かる。





奈良県天理市の黒塚古墳とは!そのⅡ

2010年11月13日 | 歴史
黒塚古墳の最新情報を紹介します。

平成14年10月、史跡公園・柳本公園内に復元された黒塚古墳と共に、黒塚古墳展示館がオープンした。

平成22年10月現在展示館には、実物大に復元された竪穴式石室に銅鏡など埋葬品もレプリカで出土状況を再現し、叉出土した画文帯神獣鏡1面と三角縁神獣鏡33面のレプリカが展示されている。









写真は、平成22年10月現在の黒塚古墳入口の様子、周濠に浮かんでいるような黒塚古墳の後円部光景、本古墳前方部から見上げる後円部光景及び本墳頂から望む奈良市方面市街地光景。

黒塚古墳は、大和古墳群の中に築かれた前期古墳で、墳丘などは良好に保存され、珍しい合掌型の長大な竪穴式石室が盗掘されることなく維持され、叉33面もの三角縁神獣鏡が出土したことなど、考古学的な重要性に鑑みて、平成13年1月、国の史跡に指定された。

叉本古墳は、纒向遺跡中心からわずか3kmほど北側に位置しているが、纒向遺跡との深いかかわりが推測される。





写真は、黒塚古墳墳頂に復元された竪穴式石室及び展示館内に復元された、本古墳の竪穴式石室内部。

南北の長さが約8.3mと長大な竪穴式石室については、その規模は全国第4位で、石室の構造は、下部3・4段で人頭大の自然石を積上げ、上部から天井までは板石により壁面を造り、板石で積まれた壁面は、断面が三角形状を呈する合掌型の竪穴式石室であることが判明。

石室中央部は、鮮明な朱色を呈しているが、分析の結果、水銀朱が付着しており、この範囲に被葬者が埋葬されたと見られている。

33面の三角縁神獣鏡は、写真の通り、棺外の棺と壁面の間に立てかけるように配置されていたと云う。







写真は、当展示館に展示された、本古墳から出土した三角縁銘帯四神四獣鏡、三角縁銘帯三神五獣鏡及び三角縁銘帯三神五獣鏡など。

鏡式が全て三角縁神獣鏡であることが、これまでにない特徴と云われる。

三角縁神獣鏡は、背面に神獣を配し、周縁が山形に鋭く尖る形をしている。

銅鏡は、直径平均約22cm・重さ約1kgで、鏡の裏側には中国の吉祥句(寿・福・長命などのおめでたい言葉)を記した文章や神仙・霊獣などが表現されている。

古代の首長たちが、鏡に表現された、不老不死や神仙思想(人の命の永遠であることを神人や仙人に託した思想)という中国の思想を受け入れたものと見られている。

以上のような発掘成果は、古墳築造に込められた当時の葬送思想の解明や、初期大和政権の成立などを究明する重要な資料と期待されている。

これだけの多量な銅鏡の発見は、恐らく中国魏王の指示、即ちこれらの鏡を主従関係の証として家臣に配布するようにとの指示に従って、その勅を実行すべき役割を負っていたのではないかと報じられていることにも関連していると云える。

いずれにしても、今後更なる分析結果から、更に驚くべき事実が明らかにされることを期待したい。




奈良県天理市の黒塚古墳とは!そのⅠ

2010年11月11日 | 歴史
ここからは、再び奈良県の国指定かそれに近い古墳巡りに戻ります。

先ずは、平成9年に見つかった、天理市の黒塚古墳の発掘現場訪問記を再現します。

黒塚古墳は奈良県天理市に所在し、行灯山古墳(崇神陵)の方向から延びた丘陵の先端部を利用した、全長約130m・後円部径約72m・後円部高さ約11m・前方部高さ約6mで、後円部を東に置く前方後円墳。

3世紀後半から4世紀前半の古墳時代前期前半頃の築造と考えられている。

平成9・10年の2ヵ年にわたる発掘調査の結果、後円部では長大な竪穴式石室の存在が明らかになり、副葬品も三角縁神獣鏡を中心として多数出土。

纏向遺跡に近い本古墳からは、結局34枚もの銅鏡が出土したが、そのほとんどは卑弥呼が中国・魏の皇帝からもらった鏡との見方がある、三角縁神獣鏡であることから、邪馬台国ではないかという説が急浮上。

四神四獣鏡を主体とした、34枚の銅鏡の分析結果が次々と発表されているが、当時の分析情報では、ラクダ・ゾウの絵とか「洛陽」の字などが発見され、中国産の可能性が強まってきたようだ。

仮に中国産でなく、渡来人による国産説であっても、中国との緊密な外交・政治関係が裏付けられたと云える。



平成10年2月、黒塚古墳の現地発掘説明会の様子。

ライトに照らされた現場は異様な雰囲気。2日間で17千人が全国から集まったほどの関心をひきつけた、一大ハプニングであった!



黒塚古墳石室の副葬品である、三角縁神獣鏡出土状況。

竪穴式石室は、全長約8.3mの長大な規模で、川原石と板石を用いた、天上が三角形をした合掌型の特殊な石室であることが判明。

石室中央には長さ6mほど・直径1m以上のクワの巨木を刳り抜いた木棺が使用されていた。
木棺は腐っていたが、粘土の棺台が残っていたと云う。

今回の大発見は、鏡と大和政権とが深く結びついていたことが証明されたと見て良い。

弥生時代後期の環濠集落から邪馬台国の首長、卑弥呼の墓に象徴されるような時代変遷の延長として、豪族の古墳時代→大和政権→王朝時代という時代の移り変りの中で、仮に纏向遺跡が邪馬台国であれば、邪馬台国が大和朝廷さらには天皇家に直結する可能性が出てくる。


当時の黒塚古墳発掘現場の光景。

纏向遺跡は初期大和政権の母体であることは間違いないとの論拠になっている。

黒塚古墳の発見・発掘は日本国中を邪馬台国論争の渦に巻き込んだ!

黒塚古墳の被葬者は、卑弥呼政権の外交等を司る家臣ではなかったか?



奈良県御所市の鴨都波遺跡・鴨都波神社とは!

2010年11月09日 | 歴史
宝塚市の長尾山古墳で見つかった、日本で最古・最大の粘土槨に関連して、同時代の古墳の粘土槨と共に、邪馬台国の女王・卑弥呼に贈られたとされる、三角縁神獣鏡も見つかった、御所市の鴨都波遺跡と鴨都波神社を紹介する。

鴨都波神社は、葛城山麓から流れ出る柳田川と金剛山塊に源を発する葛城川の両河川の合流地点に鎮座する古社で、鴨都波遺跡は、二つの河川によって築かれた河岸段丘上に位置し、鴨都波神社を中心として南北約500m・東西約450mの広い範囲を占めている。









写真は上から、御所市葛城山麓の鴨都波神社と本殿、鴨都波1号墳の平成12年発掘現場と三角縁神獣鏡出土状況。

本遺跡は、現在はすっかり埋め戻されているが、すでに20数次をこえる発掘調査が実施され、数多くの成果を得ていると云う。

鴨都波遺跡は弥生時代における南葛城最大の拠点集落で、弥生時代前期から古墳時代後期にかけて長期間営まれ、南葛城地域の古墳時代前史を知る上で貴重な遺跡。

神社の南に位置する県立御所高校の敷地内の調査が多く、数年前には高校の敷地から、鋤とか鍬など多くの木製品が大きな井戸の中から出土したと云う。

特に、2000年の済生会御所病院の増設中に発見された古墳は注目に値する。

鴨都波1号墳と名付けられた方墳は、南北20m・東西16mほどを測り、墳丘の周り幅3~5mの周濠が巡らされ、墳丘の中には高野槙で作られた木棺が納められていた。

この埋葬設備は盗掘されておらず手つかずの状態にあり、三角縁神獣鏡4面をはじめとして、数々の副葬品が出土したと云う。

鴨都波1号墳の築造時期は、古墳前期の4世紀中頃と推定されているが、その後5世紀前半になると、南の室の地に200mを越す巨大な宮山古墳が突然出現している。そのため、両古墳の被葬者の関係に興味が持たれている。

本古墳は、一辺20mほどの方墳にもかかわらず、豊富な副葬品を有することが注目される。

この程度の規模の前期古墳で、棺の内外合わせて4面もの三角縁神獣鏡を副葬する例はほかには見当たらない。

また、前期の小型古墳で短甲を副葬する例は大和に限定されるので、これらは古墳時代前期における、他地域に対する大和の卓越性を示すものと考えられる。

一方で本墳の三角縁神獣鏡には特殊な意匠を持つものが多く、又大型碧玉製紡錘車形石製品と呼んだ出土品も他に例を見ない。

棺構造も異例で、こうした特殊性と鏡の特徴的な配列は、弥生時代以来、鴨都波遺跡周辺を中心とする南葛城に本拠を置いた、伝統勢力の一端を示していると云える。

また、靫や槍・剣の装具などの漆塗り製品、および被葬者の歯や棺材の遺存状態の良好さも注目され、今後の整理作業や鑑定が注目される。



写真は、葛城氏居館址の長柄遺跡現場。

副葬品の豊富さから、のちに一帯を支配した豪族、葛城氏につながる勢力の中心人物が埋葬されたとみられ、葛城氏の実態や葛城地域の勢力形成の推移を解明する貴重な資料として期待されている。


富田林市の真名井古墳とは!

2010年11月06日 | 歴史
国内最大で最古級の粘土槨が見つかり、全国規模の注目を集めた、宝塚市の長尾山古墳と同時代の古墳前期古墳として、粘土槨を持つ富田林市の真名井古墳を以下紹介する。

真名井古墳は、富田林市南旭ヶ丘町、標高約91mの羽曳野丘陵先端部が突出してできた小丘陵に所在する、全長約60mの4世紀初め・古墳前期の前方後円墳。

ここ小丘陵からは、石川によって形成された河岸段丘上の水田や、あちこちに点在する新しい住宅団地や古い集落の眺望が素晴らしい。

当地は現在ゴルフ場に変貌してしまったが、この景勝地に嘗ては古墳が造営されていただけに、誠に残念。

本古墳の後円部径約40m・高さ約5m・前方部幅約20m・長さ約25mなどを測り、内部主体中心部に葺石が敷かれ、円筒と形象埴輪が出土したが、周濠は見つかっていない。

石川の両岸には、最奥の河内長野市から富田林市、太子町、羽曳野市、柏原市にかけて点々と前期古墳が確認されているが、これらの古墳は墳丘の長さが概ね70m前後の前方後円墳や前方後方墳で、丘陵上に造られている特徴がある。

今のところ最も早く造られたと考えられる古墳が、富田林市の真名井古墳や柏原市の玉手山9号墳。しかし箸墓古墳が造られた時代までさかのぼることはないらしい。

本古墳の後円部中央には、長さ約6.1m・高さ0.8m・幅1.6mほどの粘土槨が主軸と併行した状態で出土したが、排水施設も見つかっている。

粘土槨に覆われた、組合式箱形木棺が検出されたが、その長さ5.3m・高さ0.5m・幅0.5~0.7mほどを測る。



写真は、真名井古墳から出土した三角縁神獣鏡。

本古墳の三角縁神獣鏡は、中国からもたらされた舶載鏡と日本でこれを模倣した倣製鏡の2種類のうち、舶載鏡で、邪馬台国が中国王朝から下賜された1枚の可能性が高く、邪馬台国論争を左右する第1級資料。

叉同古墳からは、錐・鉋・刀子・鉄斧・鉄鏃・碧玉製紡錘車なども出土した。


川西市の勝福寺古墳とは!そのⅡ

2010年11月04日 | 歴史
勝福寺古墳巡りを続けます。

本古墳後円部にはこれまで知られていた横穴式石室のほかに、もう1基の横穴式石室が存在することが明らかとなったと云う。

即ち勝福寺古墳は後円部に2基の横穴式石室、前方部には木棺直葬墓を設けた有力な古墳だったわけ。

叉同古墳前方部では、1970代の発掘調査で見つかった木棺から、金製耳環・銀製クチナシ玉・鉄刀・鉄鏃などの副葬品が、埋葬当時のままの状態で出土したと云う。



写真は、勝福寺古墳から出土した画文帯神獣鏡。

勝福寺古墳は、初期の畿内型横穴式石室や中国南朝からもたらされたと考えられる画文帯神獣鏡を持つなど、畿内北部地域では傑出した内容の前方後円墳。

叉1970年代の発掘調査によってみつかった埴輪が、尾張地域(現在の愛知県西部)の埴輪によく似た作り方をしていることがわかり、勝福寺古墳の被葬者が遠隔地の豪族と特別なつながりを持っていたことも浮かび上がってきた。

このように、畿内でも初期の横穴式石室を導入していること、優れた副葬品が埋葬されていることなどから、川西南部を拠点に活躍した首長の墳墓と考えられている。

更に類推すると、当時の情勢から、本古墳は北陸から畿内に入り即位し、淀川流域で台頭した、応神天皇5世の子孫である、継体天皇(在位期間507~531年)を支援した有力豪族の墳墓ではないかとも考えられている。

現在、勝福寺古墳は川西市唯一の古墳で、市の文化財に指定されている。

川西市の勝福寺古墳とは!そのⅠ

2010年11月02日 | 歴史
最近現地説明会が開かれ、マスコミにも大きく取上げられた、長尾山古墳から北東方向で、武庫川の西岸に位置するのが、今回取上げられる勝福寺古墳。

勝福寺古墳は、兵庫県川西市火打2丁目に所在し、八坂神社の参道、一の鳥居を過ぎた右側の山中にあり、同古墳から川西市街地を見下ろす丘陵上にある。

13号幹線道路入口からは、勝福寺へ通じる道ではなく、その裏山に続く道を登るとすぐ目の前に開けた広場があり、そこに勝福寺古墳が所在する。





写真は、八坂神社鳥居で、この右側が勝福寺古墳及び勝福寺本堂越しに望む川西市街地光景。

明治年間に壁土用土取りの際に、横穴式石室が見つかると共に、画文帯神獣鏡という中国製の鏡や、龍の文様が象嵌された大刀などが出土したことから、近畿地方の有力古墳として早くから知られていたらしい。





写真は、勝福寺古墳の現在の後円部丘陵の様子と古墳前方部墳丘光景。

先ず1934年に京都大学によって現地調査が行われ、全国に紹介されるとともに、学問的な検討が深まったと云う。

その後1970年代には、川西市教育委員会の発掘調査によって墳丘の南の高まりから、鉄鏃や鉄刀などを副葬した木棺直葬墓が見つかったらしい。

叉この発掘調査で、後円部北側の裾と中段の平坦部が見つかり、中段平坦部からは円筒埴輪と甲冑形埴輪が出土したと云う。

この調査が行なわれるまでは、勝福寺古墳は5世紀と6世紀の2つの円墳が南北に接して築造されたもの考えられ、それぞれ勝福寺南墳(埋葬施設は木棺直葬)、勝福寺北墳(埋葬施設は横穴式石室)と呼ばれていた。

しかし、古墳の形や築造られた時期については、依然としてわからない点が多かったため、2000年から2004年にかけて大阪大学考古学研究室と川西市教育委員会が協力して発掘調査を実施した。

その結果、勝福寺古墳は、全長約40mで6世紀前葉の前方後円墳と判明し、猪名川流域の古墳時代史を考える上で新たな情報が得られ、叉墳丘上に円筒埴輪が立てられていたことも判明。













写真は上から、勝福寺古墳の発掘調査光景、同古墳の鉄条網で囲まれた現在の様子、同古墳横穴式石室の正面遠景、同古墳の墳丘と横穴式石室光景、同石室入口及び石室内部の様子。

勝福寺古墳の横穴式石室周辺には、写真のように、現在は鉄条網が巡らされ、入場禁止の策が取られている。

後円部の横穴式石室は、全長約9.0m・玄室幅約2.3m規模の右片袖式石室で、北側に向けて開いている。