近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

天理市の西山古墳とは!

2010年12月30日 | 歴史
西山塚古墳は、大和古墳群の中で5世紀後半の古墳としては、唯一の前方後円墳で、前方部は北に向いている。

本古墳は、全長約114m・前方部幅70m・高さ8m・後円部径65m・高さ13mほどの前方後円墳で、円筒埴輪が発掘されており、その型式から、この地域の古墳としては異例の5世紀後半の築造と見られる。





写真は、西山古墳の遠景及び同古墳墳丘の様子。

桜井市山辺の道沿いには、多くの巨大前方後円墳があって目立たないが、全長約114mという本古墳墳丘規模は、5世紀後半の古墳としてはかなり大きな古墳。

山辺の道が萱生(かよう)集落に入り、狭い道を西側に行くと、生活感に満ち溢れた古墳が西山古墳で、その後円部上には、石垣を積み上げたミカンの段々畑が見える。

一部に本古墳の濠などが残っている墳丘の裾には、一般の住宅が入込んでいて、後円部の南の狭い道にも古い風格のある住宅が並んでいる。

これこそ西山塚古墳で、前方部は竹林になっている。

なぜ、前期古墳の巨大前方後円墳が集中するこの地帯に、前方部が大きく開いた後期古墳をこじ入れるように築造したのか?

ちなみに大和古墳群・柳本古墳群ともに前方部を北に向けた古墳もなければ、100mを越す5世紀後半の古墳も西山塚古墳以外皆無らしい。

萱生集落の山側には、継体天皇の后の“手白香皇女”(たしらかのひめみこ)の墓とされる“衾田陵”(ふすまだりょう)がある。

前方部を北に向けた西山塚古墳の右手端の奥には衾田陵の後円部が見える。

その手前にあるのは、前方後方墳である下池山古墳の後方部。

衾田陵と呼ばれる西殿塚古墳は、墳丘が約240mもある、古墳前期の前方後円墳のため、5世紀後半の手白香皇女の墓所ではありえない。

5世紀終りの本古墳は、仁徳天皇陵と伝えられる大仙陵古墳よりも新しいことになる。

継体天皇皇后の手白香皇女は、衾田に葬られたとされているが、衾田付近で時代の一致する古墳を探すと、本古墳以外にはない。

従って、ほぼ間違いなく本古墳が手白香皇女陵で、延喜式に記されている継体天皇妃・手白香皇女の衾田墓は、西殿塚古墳ではなく、西山古墳だという説が有力。

その証拠としては、埴輪が継体天皇の真陵と言われる今城塚古墳と同じく、高槻市の新池遺跡で焼かれていることが挙げられる。

奈良県明日香村の越塚御門古墳とは!

2010年12月28日 | 歴史
ここからは突然ですが、12月11日・12日に越塚御門古墳・大田皇女墓の発掘調査結果の現地説明会が開かれましたので、その模様を緊急報告します。

越塚御門古墳(こしつかごもん)は、明日香村大字越小字御門に所在する終末期古墳で、これまで文献資料等でも紹介されたことがないことから、今年10月からの発掘調査の結果、新規に検出された古墳。

墳丘は痕跡が残っておらず、墳形や規模は不明だが、埋葬施設の周囲の状況から墳丘は、版築(堅固な土壁をつくるために用いられる古くから伝わる工法)で築かれていた。







写真は上から、平成22年11月11日・12日に行なわれた、越塚御門古墳の現地見学会に並ぶ行列2点及び本古墳現地説明会の様子。

11日10時スタートに間に合ったが、その時点で既に1時間待ちの行列ができていた。

新聞報道によると、一時は千人以上の考古学ファンで大行列ができたと云う。

越塚御門古墳は、斉明天皇(594~661年)の墓と確実視されている、牽牛子塚古墳(7世紀後半)の約20m南東隣接地に所在し、ここから新たに棺を納める石室が見つかり、同村教育委員会は9日、この石室周囲を地名から「越塚御門古墳」と名付けた、と発表した。

石室の位置関係などが、斉明天皇の墓の前に中大兄皇子、後の天智天皇の娘「大田皇女(おおたのひめみこ)」が葬られたとする、奈良時代の歴史書「日本書紀」の記述と符合しており、牽牛子塚古墳を真の斉明陵と決定づける発見と云え、専門家は日本書紀の記述を裏付ける歴史的な発見として注目している。

今回の成果は、本古墳と隣接する牽牛子古墳を解明する上で貴重なデータを提供しており、飛鳥地域の終末期古墳を考える上で重要な資料。

埋葬施設は、明日香村に近い橿原市の貝吹山周辺で採れる、石英閃緑岩(石英や黒雲母を多く含む貴重な天然資源)を使用した南に開口する“刳り抜き式横穴式石槨”で、天井部と床石の2石からなる構造。

石槨の石材が、牽牛子塚が造られたころまでの飛鳥の古墳や石造物に用いられた石英閃緑岩でできていることなどから、ほぼ同時に一連の古墳として造られたと見られている。

新たな石室は木棺を置く床石と、それを覆う天井石を組み合わせたドーム状で、幅3m・奥行き3.5m・高さ2.6mほど。天井石は壊れ、一部しか残っていないが、床石はほぼ完全な状態で出土した。

石槨は、牽牛子塚と同じく入り口が南向きで、奥行き2.4m・幅90cm・高さ60cmほどを測り、石槨の推定総重量は約80トン。

石槨の前には、長さ4m以上・幅約1mの石敷きの羨道があったが、羨道は石槨の中心からずれており、埋葬と同時ではなく、続日本紀に記された699年の改修時に造られた可能性があるという。





写真は、越塚御門古墳の発掘調査現場、石碑が目印の隣接する“牽牛子塚古墳”をバックにした越塚御門古墳の石室内石槨。

石室床面には、コの字に溝を設け排水機能を持たせる共に、棺台の範囲を明示していたと見られる。

床石には天井の石材と接合するための“ほぞ穴”が施され、接合部には漆喰を塗った痕跡が見られることから、精巧な造りだったらしい。

さらに黒い漆膜の破片十数点と鉄釘数本も出土、高貴な人物の墓にふさわしく、高級な漆塗りの木棺があったとみられる。

大田皇女は飛鳥時代の政治改革「大化の改新」の立役者・中大兄皇子の娘で、夫は中大兄皇子の弟・大海人皇子(おおあまのおうじ)(後の天武天皇)だが、夫の即位前、2人の子どもを残して他界したとされている。

牽牛子塚古墳の石槨は2室に仕切られ、中大兄皇子(天智天皇)が、斉明天皇と娘の間人皇女(はしひとのひめみこ)を合葬したとする日本書紀の記述通りだったが、今回はその前にあるはずの大田皇女の墓が発見された。

宮内庁は、同県高取町の車木ケンノウ古墳と南約80mの場所を斉明陵、大田皇女の墓としており、指定を見直す考えはないというが、指定のあり方を巡って議論を呼びそうだ。

天理市の和邇下神社古墳とは!

2010年12月26日 | 歴史
和邇下神社古墳は、東大寺山丘陵の西麓台地上に築造された前方後円墳で、全長約120m・後円部直径約70m・高さ約5m・前方部幅50mほどで、前方部が短く端部が両側に撥形に開く特異な形態。

和邇下神社は、東大寺山古墳群の一角、和邇下山古墳の上に所在する。





写真は、和邇下神社の鳥居及び東大寺古墳一角の和邇下神社境内。

本古墳は、4世紀後半から5世紀初頭に築かれた前方後円墳で、和邇氏の有力者が葬られていると云われている。

当古墳から東北約800mには和爾氏の集落があるが、辺り一帯は、古くは“大和国添上郡和邇”と呼ばれ、古代豪族和邇氏が本拠地を置いたところで、和邇氏は大和王権内で埴輪製作などを請け負った豪族で、大和王権に子女を差し出し、たびたび姻戚関係を持ったと云う。




写真は、和邇下神社古墳の遠景と近景。

東大寺山古墳・赤土山古墳・和邇下神社古墳など東大寺山古墳群は、和爾氏の奥津城と考えられる。

和邇氏は6世紀初めには春日山に本拠地を移し、春日氏になったとされる。

また、近江国へ移住した一族が、のちの小野氏となったと云う。

奈良時代に入ると、付近の東大寺領荘園に、灌漑用水を引き入れる為に道が治されたことにちなんで、神社の周囲の森が“治道の森”と呼ばれるようになり、社は“治道天王社”とも呼ばれていたらしい。

本古墳内部主体や副葬品は明らかではないが、墳丘西側には石棺材があり、昭和59年の防災工事に伴う発掘調査で、円筒埴輪が検出されたと云う。

これらの遺物により、本古墳築造時期は4世紀末から5世紀初頭と推定されている。



写真は、和邇下神社古墳で見つかった天井石のような石材。

同古墳の西側平坦面に置かれている石材で、石棺材と推定されているが、天井石の可能性があるらしい。

石棺材は播磨の伊保山産かもしれないと云う。





天理市の東大寺山古墳とは!

2010年12月24日 | 歴史
櫟本町にある、天理教城法大教会の背後には、南北方向に横たわる小高い丘があるが、この丘は奈良盆地を見下ろす東大寺山丘陵の西の端にあたり、竹藪におおわれている。

東大寺山古墳は、その一番高いところに北向きに築かれた前方後円墳で、天理市和邇から櫟本にかけては、かつて和邇氏族の拠点であり、関連一族が築造したと推定される古墳群があるが、平野部との比高差約70mの丘陵上に点在している、そのひとつの古墳。

この丘陵には、奈良県では最大規模の弥生後期の高地性遺跡があり、東西約400m・南北300mほどの範囲内に竪穴式住居群があって、二重の空堀が巡り、空堀の構造は大阪府和泉市の観音寺山遺跡に共通していると云う。

本古墳は、この高地性遺跡と重複するようにして存在し、その遺跡の役割が終わって150~200年ほど後に築造されたらしい。









写真は上から、東大寺山古墳遠景、本古墳が覆われた竹薮、本古墳墳丘の様子及び本古墳の昭和36年当時の発掘調査の現場光景。

東大寺山古墳の規模・形状は、推定140mの前方後円墳で墳丘には円筒埴輪を巡らしていたと云う。

築造時期は4世紀後半ごろで、鉄刀20本・鉄剣9本などの武器類のほか、玉類、石製模造品などが出土している。

1961年の発掘調査で、写真のように、後円部中央に長さ12m・幅8mほどの墓壙があり、底に排水溝を設けていた。埋葬施設の周りに、家形・楯形・蓋形などの埴輪が置かれていたらしい。





写真は、東大寺古墳墳頂の石室遠景及び当石室近景。

後円部の埋葬施設の主体部は、墳丘主軸に平行する木棺を覆った粘土槨があり、長さ推定9.4mに及ぶ大規模なもので、主要部分は盗掘を受けていた。

粘土槨の東西に墓壙が掘られ、豊富な武器や武具が副葬されていた。

その東側の墓壙から「中平」の年号を持つ鉄刀が出土した。

当「中平」銘の鉄刀を含む5本の装飾環頭付きの鉄製大刀の環頭は、様々な意匠を表している。朝鮮半島の平壤市・楽浪の“石巌里”の古墳で出土しているような環の中に三葉形を入れた三葉環であるらしい。

三葉環の鉄刀は、福岡市の“若八幡宮古墳”(4世紀)からも出土していると云う。



東大寺山古墳から出土した太刀の写真。

全長約1.1mの刀に中国・後漢の年号「中平」(184~190年)の文字が刀身に刻まれていた。

倭国で卑弥呼が生きた時代と重なり、魏志倭人伝が記す中国皇帝から贈られた刀ではないかとする説がある。

“中平”銘文大刀の金象眼が純金だったことが、東京文化財研究所の調査で分かったらしい。金が99.3~99.9%を占めると云う。

中国の高度な製錬技術で作られた大刀が日本にもたらされた可能性を裏付けるものと見られる。

発掘調査を担当した担当責任者は、「卑弥呼の時代の遺物で、卑弥呼との関連性も考えられる。ヤマト政権の成立期に国家を守る象徴として、武力を持つワニ氏に代々伝わったのでは!」と推定する。

ワニ氏は、東大寺山古墳の周辺を勢力地とした古代豪族。

東大寺山古墳の出土遺物が、平成22年9月22日から同市守目堂町の天理大学付属天理参考館で展示されているが、同古墳の遺物が一堂に公開されるのは35年ぶりで、発掘から半世紀を経て初めての里帰り展示。

古代史の謎を解く鍵となる貴重な資料であり、注目を集めている。

この“中平”銘文の太刀は、はたして卑弥呼の刀だろうか?

中平とは後漢の霊帝の年号で、184~189年を指し、「倭国乱」(『魏志』倭人伝)「倭国大乱」(宋書)が終結した時期である。

中平銘紀年刀は「倭国乱」終結後、後漢王朝から下賜されたものであると考えられている。

この鉄刀がいつどこで入手され、本古墳に副葬されたのかは分からない。しかし、この地の人たちが中国の後漢と通交があったのではなかろうかと考えることができる。

この古墳を一躍有名にしたのが1961年の盗掘の事後処理として行われた発掘調査後の遺物整理で銘文のある太刀が発見された事である。

銘文は「中平□年五月丙午造作文刀百練清剛上応星宿下避不祥」とあり中平年は中国後漢末の年号である事から、この太刀は中国から 渡ってきたものである事がわかり、日本で発見された年号の判明している遺品の中では金印に次ぐ古さである。

この時代は丁度、卑弥呼が君臨していた時代(2世紀末~3世紀前半)と微妙に重なり中国・魏から卑弥呼に贈られた可能性がある。

しかし、この東大寺山古墳の築造年代(4世紀半ば)とは合わない。卑弥呼の時代から100年の時を経て何故、天理のこの古墳から出土したのかロマンをかきたてられる。

いずれにせよ被葬者は古墳の規模から大王墓ではないにしても、当時の政権の重要ポスト(武器管理?)にいた人物であろう。








天理市の赤土山古墳とは!そのⅡ

2010年12月22日 | 歴史
天理市の赤土山古墳巡りを続けます。

赤土山古墳の上段築成は、標高110~111mの比較的水平なプランで、前方部から後円部先端・造り出しまで墳丘を築き、埴輪列を伴う。





写真は、赤土山古墳発掘調査中のくびれ部光景及び復元された、後円部墳丘を背景にした家形埴輪祭祀遺構。

後円部の南側から南北11m・東西10mにわたっておびただしい石敷きが検出されたことから、集石遺構とみられるが、石敷面の一部には柱穴の跡があり、付近で6世紀後半頃の須恵器片が出土していることから、赤土山古墳築造後に構築された祭祈遺構と考えられている。





写真は、赤土山古墳の朝顔形埴輪列出土状況及び同古墳のいろいろな埴輪列出土状況。

叉後円部の南側から多数の埴輪列が出土したが、埴輪は朝顔形と円筒埴輪がほぼ原形のままで出土している。

1mくらい深くまで埋め込まれており、朝顔形埴輪は肩部まで、円筒形埴輪は口縁部まで埋め込まれている。

朝顔形埴輪は素焼きで、1mを超える大きなもので、ほぼ原型をとどめているので、復元は可能らしい。

家形埴輪祭祀遺構は、古墳の裾・高さ1mくらいのところに平坦面を造り、突出部や入り組んだ地形を表現しながら家形埴輪を整然と並べている。

この平坦面に向き合うように家形埴輪を並べた北側グループと横一列に並べた南側グループがあり、入り組んだ地形の谷間から囲形埴輪が出土したと云う。

囲形埴輪は、水を引き込む祭祀場と考えられているらしい。

このような情景的な祭祀遺構は極めて珍しく、家形埴輪の貴重な資料と云える。



写真は、赤土山古墳で復元された家形埴輪。

本古墳の家形埴輪には、屋根の先端が大きく突き出た“切り妻造り”の家形埴輪や寄せ棟造りに切り妻造りを重ねた“入母屋造り”の家形埴輪があり、屋根を茅葺きや藁葺きのように表現していると云う。

叉埋葬施設に伴っていた遺物が数十点出土されているが、主に石製品で、腕輪・玉飾り・刀剣類など。

ところで、卑弥呼は元々、鍛冶屋の集団である和爾氏の女性だったのでは?

蘇我氏が覇権を掌握する前に、和爾は最も大事な氏族だったのでは?

平成13年には、赤土山古墳から高さ1.1mの円筒埴輪や高さ1.4mほどの朝顔形埴輪12個が出土したと云う。

当初は古墳の上に並べられていたのが、地震の地滑りで埋まり割れたが、地震は過去2回あり、1回目の地震は埋まった埴輪の風化が少ないことから、古墳が造られて間もない5世紀初め頃、2回目の地震は887年の南海地震であろうと天理市教育委員会が発表した。

埴輪片の全てが残っていて、これ程完全に残った状態で発見されるのは、これが最初で最後ではないかと見られている。

後円部北側のくびれ部の調査で埴輪列と葺石が、鈍角(くの字)に曲がっているという決定的な事実が発見され、前方後円墳と判明したと云う。

又、後円部の南側は造営後、まもなく地震で崩落し墳丘が半分なくなっている事も判明。

この為、崩落面が直線的に残ったため前方後方墳と錯覚されたらしい。





天理市の赤土山古墳とは!そのⅠ

2010年12月20日 | 歴史
赤土山古墳は天理市の北部・櫟本町に所在する、東大寺山古墳群を構成する大型古墳。

全長約140mの東大寺山古墳、残存長107mほどの赤土山古墳、全長約110mの和爾下古墳などの東大寺山古墳群は、4世紀末~5世紀初頭の築造で和邇氏を葬ったとされ、すぐ近くに今日でも天理市和爾町の集落や和爾下神社がある。

日本書紀や古事記の記載から、和爾氏は古代の政権に強い結びつきを持つ武力に優れた豪族であったとことが窺える。







写真は上から、赤土山古墳墳頂から南方を望む高峰山方面の光景、本古墳脇に並ぶシャープ総合研究所及び同古墳から民家越しに望む東大寺山古墳の森。

初期大和政権の2大首長として、奈良盆地東北部から京都盆地北東部で和邇氏が、奈良盆地西南部では葛城氏が勢力をふるっていたと見られる。

平成10年度より史跡整備事業計画に基づき調査を行っているが、その結果、以下のような成果を収めたと云う。

本古墳墳丘は、全長残存長が106.5mの前方後円墳で、葺石が敷かれており、埴輪も墳頂部と中段のテラス面の2列と、墳頂部には形象埴輪片も見つかっているほか、後円部の先端には造り出し部に家形埴輪による祭祀遺構が存在する。

叉本古墳前方部は、西に向けられた2段築成で、古墳時代前期末から中期初頭頃の特徴を持っているが、埋葬者は不明。

昭和62年から平成2年に住宅開発に伴う範囲確認を目的とした発掘調査が実施された後、平成4年に国史跡に指定され、その後史跡整備に伴う確認調査が継続的に実施された後、平成18年~平成21年に古墳整備が実施された。

整備事業は、本古墳本体は自然地形で残したまま、発掘調査で成果があった部分のみ復元整備されていると云う。











写真は上から、復元された赤土山古墳全景、本古墳の前方部登口、本古墳前方部から望む後円部光景、本古墳墳頂から見下ろす造り出し部光景及び本古墳の祭祀遺構と後円部墳丘光景。

赤土山古墳の墳形は、上下2段築成で築いた前方後円墳で、下段築成は、前方部側面において墳形が認められる。





桜井市の赤坂天王山古墳とは!

2010年12月18日 | 歴史
赤坂天王山古墳は、桜井市倉橋にある後期後半の大方墳で、昭和29年に国史跡に指定された。

樹木に覆われた、1基の大型古墳を思わせるような小山にあるが、2基の方墳と3基の円墳がその上に築かれている。







写真は上から、赤坂天王山古墳の全景、同古墳墳丘の様子及び同古墳現場と周辺の光景。

田圃のあぜ道を伝って小山の右手に入って行くと、赤坂天王山第1号墳が横穴式石室を南に開口しているのが見えてくる。羨道部入り口付近は土砂で埋まっている。







写真は上から、赤坂天王山古墳1号墳の石室開口部とその近景及び玄室奥壁と家形石棺。

赤坂天王山古墳の中で、1号墳は近畿地方の代表的な後期方墳であり、築造時期は6世紀末と推定されている。

多武峰から北西に延びる尾根の先端に築かれた大方墳。本古墳は、墳丘や石室・石棺の実測は行われているが、発掘調査が実施されていないために出土品は明らかでない。

当1号墳の墳丘は3段築成で、東西45.5m・南北42.2m・高さ9.1mほどで、四辺がほぼ正確に東西・南北方向に沿っている。

頂上部は一辺10m前後の平坦地となっている。各段の斜面には葺き石が施されているが、埴輪は知られていない。

叉石棺内部も盗掘によって遺物は残されていないが、石室構造や石棺の形式などから築造時期は6世紀末から7世紀初頭と見られている。

1号墳の主体部は南に開口する両袖式の横穴式石室で、全長17m・玄室の長さ6.34m・幅約3m・高さ4.2mを測り、写真のように、奥壁は高さ2mを超える巨石と、さらに1m前後の巨石2枚を用いた三段積になっている。左右の壁も三段積みを基本に、その隙間に小石を入れている。

玄室は墳丘のほぼ中央に位置し、奥壁は三段積み、床面には礫が敷かれている。

内部に安置された凝灰岩製のくり抜き式家形石棺は、2.4m×1.7m×1.2mを測り、周囲には6個の形式化された縄掛け突起がついた、高さ60cmほどの蓋からなり、石棺上片の前面にやや大きな孔が、他の三面に小さな孔が開けられていているが、6世紀末頃の築造と見られる。

羨道の長さ8.5m・幅1.8m・高さ約2mで、玄門石以外は1m前後の花崗岩を使用している。

石室は花崗岩の自然石で構成され、玄室壁面には持ち送りが見られる。床面に礫石が敷かれ、羨道入口には閉塞石が残存している。

『日本書紀』に崇峻天皇は暗殺された後に倉橋の地に葬られたと記されており、この地域で造られた古墳で該当するものは、赤坂天王山古墳以外には見あたらないため、明治時代に南西に1.7kmほど離れたところに所在する、現在の倉梯岡上陵に治定されるまでは、本古墳が崇峻天皇陵に擬せられていたらしい。

歴史学者・考古学者の間では、いま尚本古墳が崇峻天皇陵として有力視されている。

元々江戸時代にも崇峻天皇の墓とされていたこともあり、古墳の築造年代も崇峻天皇の没年と合致している。

崇峻天皇は蘇我馬子の命を受けた“東漢直駒”(渡来人の東漢氏)の手によって暗殺され、馬子は陵を作ることを許さず、亡くなったその日のうちに倉橋に埋葬されたという記述があるらしい。



写真は、赤坂天王山古墳2号墳の押しつぶされた石室開口部の様子。

1号墳の隣に2号墳があるが、一辺25mの方墳で、横穴式石室の入口がわずかに見えている程度。

2号墳の玄室長約4.4m・幅1.8m・現高さ1.5m、羨道長4.9m・幅1.7mほどの規模らしく、内部はほとんど埋まっているが、かつては内部に入れたらしい。







写真は上から、赤坂天王山古墳3号墳の墳丘と石室開口部の様子、同3号墳石室内部の様子及び同3号墳石室内の側壁石組。

北側の3号墳は、径20mほどの円墳で、横穴式石室が南に開口。

玄室長4.3m・幅2.5m・高さ2.6mで、羨道長6m・幅1.7mの両袖式で、玄室内の敷石や羨道の閉塞石の保存状態が非常に良好。

3号墳の裏に4号墳、5号墳があるが、ともに径10mほどの円墳で、西側の4号墳は、横穴式石室の破壊された跡らしい坑がある。



桜井市の花山塚古墳とは!

2010年12月16日 | 歴史
花山塚古墳は桜井市と宇陀の境界、女寄峠の北側山地の標高約400mの尾根上に近い南斜面に築かれた、16mほどの円墳で、花山東古墳の西側に所在する。





写真は、桜井市の花山塚古墳現場及び同古墳正面の石室開口部。

石室の奥に棺と設置するための石槨を設けた横口式石槨の形態をもち、玄室の奥には、更にもう一つの奥室があり、その入口の扉石は、ドア状に閉めることができるようになっている。





写真は、花山塚古墳玄室の石扉及び同古墳石室内部より見る入口光景。

石材は、榛原石をレンガ状に積み上げており、大きな花崗岩の天井石を含め、漆喰が塗られていると云う。

一般に「花山塚古墳」と言えばこの西塚古墳の方を指し、昭和2年に国史跡に指定された。

本古墳は、未発掘のため墳形や規模は不明だが円墳と見られている。

石室の規模は、全長8.17m・玄室長2.2m・幅1.38m・高さ1.63mを測り、奥室長1.97m・幅0.71m・高さ0.91m、更に羨道の長さ約4m・幅1.1m・現存高1.4mで、奥室と玄室との境に石扉が設けられ、軸穴が残されている。

榛原石を使った磚積み(レンガ積)の前室のほか、奥に磚積みの石槨があり、奥壁は1枚石と手前に扉石が倒れている。

側壁の間に詰められた漆喰も良い状態で残っていると云う。

早くから開口していたため、出土遺物は確認されていないが、石積みの技法などから7世紀後半の築造時期で、渡来系氏族の貴人の墳墓と見られている。



橿原市の丸山古墳とは!そのⅡ

2010年12月14日 | 歴史
丸山古墳と欽明天皇陵を巡っての謎に迫って見たい。

第29代・欽明天皇陵(571年没)説が高まった、橿原市の“丸山古墳”と元々の“欽明天皇陵”を訪問し、比較してみた。

従来日本考古学協会等が入口から覗き込むだけだったのが、今回は敷地内を見せてもらっただけでも前進。

丸山古墳は全長が318mと奈良県下では最大で、日本全国においても6位に位置しており、古墳時代後期後半・6世紀後半に築造されたものの中では最大の規模を誇っている。

また、横穴式石室の全長は28.4mと、全国第1位の規模で、羨道は7枚の巨大な自然石で天井を覆い、玄室の長さは8.3mほどで、2つの刳抜式家形石棺がL字型に置かれていたと云う。

たまたま民間人が盗侵入し、内部の写真を公開したことがきっかけとなり、一部公開にふみきった点には動機不純を覚えるが、結果石室の全長が28m強と日本一の大きさ等新たな事実が明らかとなった。

と同時に二人目の石棺が欽明天皇の后である“堅塩媛”(きたひしめ)は、推古天皇の母であるとの見方もでき、従って欽明天皇の石棺との見解があらためて強まったらしい。



写真は、1997年当時の丸山古墳の正面風景。

民家と直接接し境界線が分からないほど。外濠も何処へ行ってしまったのか、何故このようなことになったのか等の疑問は永遠に残る。



写真は、1997年当時の丸山古墳のサイド・ビュー。

外濠の見分けも付かず、犬の散歩コースと仮した。全長310m余りと奈良県では最長、日本でも6番目の前方後円墳が泣いているように見える。

丸山古墳公開に先立ち、宮内庁が石室の単独調査を行ったが、被葬者が誰なのか調査結果に沈黙を守っている。

学会の間では、欽明天皇陵であるとの見方がほぼ固まっているのに、明らかに出来ないのであれば、陵墓参考地の指定を止めるべき。

いつまでも史跡の保存云々との言い訳はもう飽きたと関係者は感じている。

丸山古墳は一旦公開後また閉じられた。公開に関し宮内庁の頑なな拒否姿勢は続く。



写真は、1997年当時の丸山古墳のへんてこな看板。

元々の看板に上書きしたのか、ダブって見える。

又看板主は橿原市と奈良県双方の教育委員会の名前が見える。

内容もちぐはぐ、昏迷の一端を覗いた感じ。



写真は、元々の明日香村・欽明天皇と妃の堅塩姫の合葬陵といわれる。
濠をめぐらせた全長約140mの前方後円墳。

欽明天皇は、仏教とその聖典を伝えた天皇で、飛鳥文化は仏教を中心に花開いたと云う。

欽明天皇陵を丸山古墳とする説は、あくまで考古学の立場であり、しかもまだ推測の段階で、決定的な証拠はないが、可能性を大いに秘めている。

欽明天皇と堅塩媛のペアー陵は、天武天皇と持統天皇のペアー陵との説がある。






橿原市の丸山古墳とは!そのⅠ

2010年12月12日 | 歴史
先ずは、現在の丸山古墳を巡ってみたい。

丸山古墳は奈良県下最大で、国内でも6番目の規模を誇る前方後円墳で、6世紀後半に築かれた古墳と考えられているが、本古墳はあまりにも大きいため、当初円墳と考えられていたようで、橿原市五条野の地名を取って“五条野丸山古墳”と呼ばれていたらしい。

しかし航空写真により、前方後円墳であることが認識されたと云う。6世紀の古墳としては、日本最大の前方後円墳とされている。





写真は、丸山古墳後円部から望む前方部と正面の畝傍山及び民家越しの丸山古墳全景。

古墳の規模が次第に縮小し、巨大な前方後円墳がなくなって行く時代に、この巨大規模は特異な存在で、墳丘は3段に築成され、現在もその形状を窺い知ることが出来る。





写真は、丸山古墳現場に立てられた畝傍陵墓参考地という宮内庁看板及び民家越しに望む丸山古墳の後円部墳丘。

墳丘と周濠の大部分は、国の史跡に指定されているが、木々が繁っている後円部は、陵墓参考地に指定されているため立ち入ることはできない。







写真は上から、丸山古墳前方部の現在の様子、同前方部墳頂の光景及び同古墳周濠跡。

前方部は、橿原市が公園化を進めており自由に散策できる。木を刈り払った平坦な台地の前方部に立つと、写真のように、まるで巨大タンカーの甲板を歩いているような連想が浮かぶ。

葺石や埴輪がまったく出土していないことも、丸山古墳の特長にあげられるが、このことも古墳の広がりに気づけなかった理由かもしれない。

全長約320m・後円部径150m・前方部幅約210m・周濠を含めると約460mと超大型の前方後円墳だが、このことが判明したのは30年程前で、それ以前は大型の円墳と考えられていたらしい。

このため、後円部の高まりが、古くに陵墓参考地となり、被葬者として欽明天皇・宣化天皇・天武天皇が候補としてあげられてきたが、候補がいずれも天皇であるように埋葬施設もそれに恥じない、日本最大の横穴式石室として知られている。

後円部上には南に開口する横穴式石室があり、その全長は、明日香村の石舞台古墳より約9m長く日本最大規模。

石室平面形態は両袖式で、奥壁が幅広くなる羽子板状となっているが、その規模については土の流入が激しいため確定にはいたらず、現状では横穴式石室の全長は28.4mで、全国第1位の規模で、羨道は一枚の長さ4.8mの巨大な自然石6枚で天井を覆い、長さ20.1m・幅1m以上・高さ1.5mほど。

本古墳の羨道は、他の古墳に比べ、玄室に対して非常に長く造られているのが特徴の一つ。







写真は上から、丸山古墳の看板と記念碑、同古墳後円部墳丘の様子及び同古墳から出土した、刳り抜き式家形石棺。

玄室の長さ8.3m・最大幅4.1m・高さ4.5mで、二つの刳抜式家形石棺がL字型に置かれている。

石棺はそれぞれの身部分が流土によって埋もれているが、蓋にある縄掛突起の形態から石室正面に安置されたほうが新しく、その前面に位置しているものが古いと考えられている。

被葬者については、欽明天皇と堅塩媛とする説が有力だが、蘇我稲目とする説もある。

玄室内には約1mの土砂が堆積しており、石棺の身について詳細は不明だが、奥棺は蓋の長さが2.42m・幅1.44m・高さ0.42m。前棺は蓋の長さが2.75m・幅1.41m・高さ0.63mで、材質は流紋岩質溶結凝灰岩で加古川付近の竜山石と云われている。

1991年5月、古墳近くに住む会社員が子供と遊んでいて、たまたま石室入り口が開いているのを発見、石室内に入って、コンパクトカメラで内部を写した。

それがマスコミに公表されたことで、大きな反響を呼んだ。宮内庁も無視できず、改めて石室内部を測量し、図面や写真とともにその結果を発表するという異例の対応をとったと云う。

資料に限界はあったが、2つの石棺と石室の特長から製造時期が探られた。

石棺は、玄室入り口近く向かって右側の側壁に沿ってひとつ、玄室奥の奥壁に沿ってひとつ、どちらも大型の家形石棺が置かれていた。

蓋近くまで泥で埋まっていたが、蓋に付く縄掛け突起の特長などから、多くの研究者によって、手前の石棺は刳抜式で6世紀の第3四半世紀、奥の石棺は7世紀の第1四半世紀の製造時期がそれぞれ推定された。

石室は、100トンを越えるような巨石も使われていて、その石積の特長から6世紀末から7世紀初めの構築が有力視されている。

石棺の年代観から、まず6世紀前半にあたる宣化天皇陵説が消え、俄然浮上してきたのが、欽明天皇陵説と云う。






橿原市の植山古墳とは!

2010年12月10日 | 歴史
植山古墳は、史跡丸山古墳の東側、谷をひとつ隔てた南東から北西に延びる尾根の南斜面に築かれた古墳で、以前は2基の円墳が周壕の一部を共有して存在しているものと思われていた。

しかし、平成12・13年の発掘調査によって、ひとつの古墳に2つの横穴式石室を持つ双室墳であることが分かった。





写真は、植山古墳の発掘現場2点。

植山古墳は奈良盆地の南端に位置し、6世紀末頃に築かれた東西約40m・南北約30mの長方形墳で、墳丘の東・西・北には濠が巡り、墳丘残存高は約3~6mを測る。

墳丘の南面には、東西2基の横穴式石室が並んで設けられた「双室墳・双室墓」と呼ばれる珍しい古墳で、当初から石室を並べるように計画されたらしい。



写真は、植山古墳石室のうち、左側が推古天皇で右が竹田皇子の石室。

双室墳は、推古朝前後に限られて造られた例の少ない古墳で、石室の形態や出土遺物から、東石室は6世紀末頃、西石室を7世紀前半頃に築かれたと考えられている。

なお、墳丘の北側背後の丘陵上で出土した柱列は、墓域など古墳の所在を示す施設である可能性があるらしい。









写真は上から、植山古墳から出土した東石室及び石室内部の石棺、同古墳から出土した西石室及び石室内部の玄門扉。

また、石室は奈良県下の横穴式石室においても上位にランク付けられる規模であるとともに、東石室の石棺に阿蘇溶結凝灰岩が運ばれていることや西石室の玄門閉塞に扉が採用されているなどの植山古墳の各構成要素から、被葬者は飛鳥時代当時の日本で一、二の権力者であり、その位置などから丸山古墳の被葬者(第29代・欽明天皇と堅塩媛の陵墓であるとの説が有力)と深く関わる人物であることが、窺い知ることができる。

両袖式の東石室には全長2.5mを超える蓋を持つ石棺が残っているが、棺内から遺物は出土していない。

西石室には棺は残っていないが、石室と羨道の境界部分に石製扉の底板であると考えられる、閾石(しきみいし)が置かれている。

この扉の一部であったと思われる石材は近くの「八咫烏神社」等の境内の踏み石の一部として転用さていると云う。

本双室墳は、第33代・推古天皇(史上初の女帝で欽明天皇の第3皇女)と竹田皇子の墓との説がある。

橿原市教育委員会は、本双室墳を「推古天皇とその息子竹田皇子(生没年不詳)の初期の墓」と推定していると伝えている。その根拠は、古墳築造の時期、古墳の位置、そしてその規模である。

築造時期については、竹田皇子が587年の蘇我氏・物部氏の争いに、聖徳太子らとともに蘇我氏側に立って戦い、推定没年は590年頃で、20才前後だったと推定される。

2つの石室の築造時期は、土器などの出土物と石室の形態などから東側が6世紀末、西側が7世紀前半と推定され、竹田皇子と推古天皇の没年・628年に合致する。





写真は、植山古墳の史跡公園整備工事中につき立入禁止の看板及び同公園工事中の同古墳墳丘の様子。

植山古墳史跡公園が完成するまでには、数年を要するらしい。

古墳の位置については、「古事記」に言う「大野岡」という所は現在の橿原市には存在しないが、「日本書紀」の、蘇我馬子が「塔を大野岡の北に建てた」という記述と、「元興寺縁起」に馬子が塔を建てたのは「豊浦(とゆら)前」(奈良県明日香村)とある事から、「大野岡」が現在の橿原市と明日香村の境界付近にあったものと類推され、現在の橿原市五条野町の植山古墳の位置に合致すると云う。

古墳の規模については、天皇の墓が、6世紀までは大型の前方後円墳だったが、7世紀になると一辺が50mほどの大型方墳に変わる。

植山古墳は長辺が約40m・短辺が約30mの長方形墳で、すこし小さいが、推古天皇が遺言で「竹田皇子の側に葬るべし」と言い残したことと、「最初は皇子の墓だったためさほど大きくなかったが、自分も入るため少し広げて長方形になったのではないか」、と言う説もある。

大勢としては、植山古墳を「推古天皇親子の墓」と推定するに大きな反論はないようで、とすれば天皇陵の内部の一端が、これで少し明らかになるのではないかという期待が高まる。

又この古墳にはこれまで見られない、扉を取り付けるための「くぼみ」が掘られた「敷居石」も見つかっており、新たな発見がまた論議を呼びそうだ。





橿原市の菖蒲池古墳とは!

2010年12月08日 | 歴史
菖蒲池古墳は、藤原京の朱雀大路の南延長線上に築かれた、横穴式石室を埋葬施設とする古墳で、国の史跡に指定されている。





写真は、民家越しの菖蒲池古墳の森及び同古墳墳丘の様子。

橿原市教育委員会が平成22年3月に、2段構造の方墳ないし八角形墳の可能性が高くなったとしていた、同市の菖蒲池古墳が周囲を切石で正方形に取り囲んだ、7世紀半頃の約30mの方墳であることが分かったと、平成22年11月に発表。







写真は、菖蒲池古墳の平成22年11月現在の発掘調査現場2点、及び同古墳から出土した石列。

本古墳石室の南西約20mで下段墳裾の隅部分を発掘した結果、直角に加工した一辺約70cmの基底石が配置され、西辺と南辺は幅約30cmの石を直線的に並べていた。

即ち本古墳南西部は、直径約30~70cmの石を並べた列が直角に曲がっているのが見つかり、墳丘の南西隅であることが判明。

北東部でも墳丘の東側に並べられた直線の石列を確認し、方墳であることが確定した。

叉上段では、石室の北東約10m地点で長さ約3.3mにわたって直線的に並ぶ基底石8個を確認。上段も方形と断定したと云う。

更に墳丘西側約2mで、古墳の一部を破壊して造った石組み溝が見つかったと云う。

幅約30cm・深さ約30cm・長さ約2.5mで、南北に水を流したと考えられる。溝からは、藤原京期の土器、付近からは鉄屑、鞴(ふいご)の羽口などが出土し、古墳築造から遠くない藤原宮期(694~710)に鋳造などの工房が営まれた可能性があるという。

同古墳の横穴式石室は、家形石棺二つを直列に安置していたが、屋根や柱などの写実的な表現や、内面に施された全面漆塗りなどから、高位の人物と考えられていた。

また、築造からわずか数十年後の藤原京期(7世紀末~8世紀初頭)には、古墳の一部が人為的に破壊されていたことも判明したと云う。

しかし市教委は、古墳がこのようにぞんざいに扱われており、大化5(649)年に謀反の疑いを受けて自害した、“蘇我倉山田石川麻呂”と長男の“興志”(こごし)の合葬墓とする説に有利な要素になると云う。





写真は、菖蒲池古墳現場に安置された家形石棺の栫及び棟飾り風の石棺天井蓋。

石室は羨道部の大半が今も埋った状態であるため、全長は不明だが、玄室部分を見ることはできる。以前に測量が行われており、その結果、両袖式の横穴式石室であることが判明している。

玄室にもその一部に土がたまっているが、奥壁及び側壁は花崗岩の巨石を二段に積みあげていると考えられている。そこには2基の家形石棺が、石室主軸にあわせて縦一列に安置されていたと云う。

家形石棺は屋根部分が極めて特徴的で、2基とも写真のように、天井部分が棟飾り風に仕上げられている。また、石棺の内側に黒漆が塗られているらしい。

同じ形状をもつことから石棺は同じ人の手によるものと考えられ、築造当初から2棺を安置する計画があったものと推察され、“蘇我倉山田石川麻”と“興志”の合葬墓を裏付けると云える。

同市教委は、現在石室部分だけとなっている国史跡の指定地域拡大を目指し、来年度も調査を継続すると云う。

同古墳で墳丘本体を発掘調査したのは、今回が初めてと云う。

見つかった石列は墳丘の北側と東側にあり、それぞれ長さ2m以上。2段に築かれた墳丘の上段の縁とみられ、幅40cm・高さ30cmの石を丁寧にそろえて並べていた。下段でも石を抜き取った跡を確認。

墳丘の規模は最大で東西約30m・南北約30mと推定している。




橿原市の沼山古墳とは!

2010年12月06日 | 歴史
沼山古墳は、益田岩船(花崗岩の巨大な石造物で、亀石・酒船石などと並ぶ飛鳥の謎の石造物の一つ)の東に位置する独立した丘陵の頂に築かれている、横穴式石室を埋葬施設とした6世紀後半の古墳で、径約18m・高さ約5.5mの円墳。





写真は、沼山古墳墳丘の様子及び同古墳石室の開口部。

1964年に発掘調査が行われたが、右片袖式の横穴式石室で、全長約9.5m・玄室長5m・幅3m・高さ5.3m・羨道長4.5m・幅と高さは1.8mほどを測る。

沼山古墳は、橿原市立白橿南小学校の東隣にある公園の中に立地しているが、埋葬施設の開口部は柵扉がはめられているので、内部に入ることは不可。









写真は、沼山古墳玄室内部の様子、同古墳石室の羨道部、同石室の奥壁及び同石室の天上部光景。

石室は、玄室において高さが約5.3mでドーム状を呈し、背が高いことが特徴で、同じ特徴をもつ古墳としては高取町の“乾城古墳”があげられる。

羨道部では、遺物は盗掘されていたが、鞍・杏葉等の馬具や土師器の甕・鍋・甑(こしき)・竃の4点がセットで出土したことが注目されている。

特徴的なのは奥壁の様子で、上のほうが高くなっているため、写真のように、天井部まで見えない。近辺にも同構造の石室をもつ古墳や甑を出土するものがあり、渡来系集団との関係が考えられている。

石室内からは装身具や馬具の他に、鉄製の釘や鎹(かすがいとは両端の曲がった大釘)が出土していることから、木棺が安置されていたのではないかと考えられている。

また、ミニチュア炊飯具のセットが見つかっていることから、被葬者は渡来系氏族である東漢氏(“やまとのあやうじ”とは、大和政権を文筆業務・工芸技術面で支えた有力渡来氏族)に関連する人物ではないかと考えられる。

出土品は、銀製空玉・ガラス製小玉・トンボ玉・金環などの装身具、心葉形杏葉・辻金具、絞具や革帯金具、鞍金具などの馬具、鉄鏃・かすがい・釘などの鉄製品、須恵器、土師器などの土器等々多様。

この地・見瀬(身狭・むさ)は、渡来系の東漢氏が定住したとされる“檜前”とも近く、付近の古墳(乾城古墳、与楽鑵子塚、真弓鑵子塚)のドームタイプの玄室天井部が高い構造、石材や石室の構築方法の類似点から、これら4基は、同じ技術集団で造られた可能性が高く、叉渡来系の人の墳墓と考えられている。

この沼山古墳は奈良県の史跡に指定されている。


桜井市の珠城山古墳とは!そのⅡ

2010年12月04日 | 歴史
桜井市の珠城山古墳巡りを続けます。

ここからは珠城山古墳群のうち、2号墳・3号墳を巡ってみます。







写真は、珠城山2号墳墳丘の様子、裏側から見る2号墳の墳丘及び同2号墳墳頂の様子。

第2号古墳は西向きの前方後円墳で、全長75m・前方部幅40m・後円部径40m・後円部は前方部より2mほど高く、本古墳群中最大の規模を誇る。

埋葬施設は不明だが、その墳形からすれば、3基中、最も早く営まれたものと推測されている。

第2号古墳の西に所在した、第3号の前方後円墳は、昭和33年の採土工事により消失してしまったと云う。

第2→第3→第1号古墳の順に築かれていった古墳群で、箸墓や崇神・景行天皇陵など、顕著な前・中期古墳群の1系列として重要な古墳と云われている。



写真は、墳丘が消滅した珠城山3号墳残景。

3基の古墳はいずれも6世紀の後半の築造と考えられているが、古墳時代の前期・中期に群形成をなした柳本古墳群の中に位置し、類例の少ない優秀な副葬品を出した古墳として知られる。

珠城山古墳群は、昭和30年代にこの場所で土砂採取が行われた際に、横穴式石室が発見され、県によって緊急調査が行われたと云う。

その際に1・3号墳の石室内から、馬具・刀剣・装飾品類など豪華な副葬品が出土し、6世紀代に築造されたことが分かった。

6世紀代の古墳は、直径10~30m級の規模のものが大半を占める中で、珠城山古墳群の規模は非常に大きいと云える。

また、前方後円墳3基が密集して築かれることは珍しく、豪華な副葬品が出土していることも併せて考えると、当時の政権内においても重要な役割を果たしていた人物が埋葬されていると思われる。

また、この時期は、前方後円墳が築造される最後の時期であり、古墳時代の終焉を考える意味でも重要な古墳群と云える。



写真は、殊城山古墳の発掘現場。

平成17年2~3月、8~10月の2回にわたって、国史跡・珠城山古墳群の発掘調査が行なわれた。これまでの調査は合計5回に及ぶ。

この調査は、1・2号墳の範囲を確認するために行ったが、後世にたびたび改変を受けており、築造当初の姿をとどめている部分が少なかったと云う。

それでも2と3号墳の間から、円筒埴輪列や盾持人物埴輪が出土するなど多くに成果があったと云う。




桜井市の珠城山古墳とは!そのⅠ

2010年12月02日 | 歴史
珠城山古墳(たまきやま)は、奈良盆地の東縁に美しい姿を見せる三輪山の北、巻向山の別峰・穴師山の支脈が西に延び、平坦地に接する丘陵端に所在し、3基の前方後円墳から成る。

更にこれら3基の前方後円墳は、景行天皇陵の南側、JR巻向駅東北方約300m・海抜約100mの辺りで、高さ約15m・東西の全長約200mにわたり、東から西にのびる尾根隆起部のほぼ東西に縦列している。



写真は、珠城山古墳全景で、右側から1号墳、真中が2号墳そして僅かに墳丘が残る3号墳。

3基の古墳はいずれも6世紀の後半、古墳時代後期の築造と考えられている。

本古墳群は柳本古墳群の中に位置し、しかも類例の少ない優秀な副葬品を出した古墳として知られ、ほとんど消滅してしまった3号墳を除いて、1号・2号墳は昭和52年、国の史跡に指定されている。







写真は、珠城山1号墳への登口、同1号墳の墳丘様子及びサイドから見た1号墳全景。

第1号墳は東面する前方後円墳で、後円部南側に開口する横穴式石室を主体とし、墳丘は全長53m・後円部径20m・前方部長32m・前方部幅20mほど。







写真は、珠城山1号墳の横穴式石室開口部、同1号墳の横穴式石室内部光景及び同1号墳の横穴式玄室奥壁の様子。

1号墳の横穴式石室は片袖式で、玄室の長さ3.4m・幅は奥壁で1.65m・高さは約2mを測る。玄室の中央には主軸に合わせて、凝灰岩製の組合式石棺が据えられていたと云う。

棺内には遺骨の一部が残り、玻璃製小玉・琥珀製棗玉が、また棺外では、奥壁ぞいに須恵器・土師器、棺の東側には馬具・太刀が配置され、また棺の西側には甲冑のほか、見事な馬具が検出されたと云う。

これらの副葬品は豪華なものであり、石室内には埴輪片をみるなど、極めて優れた被葬者が考えられる。