西山塚古墳は、大和古墳群の中で5世紀後半の古墳としては、唯一の前方後円墳で、前方部は北に向いている。
本古墳は、全長約114m・前方部幅70m・高さ8m・後円部径65m・高さ13mほどの前方後円墳で、円筒埴輪が発掘されており、その型式から、この地域の古墳としては異例の5世紀後半の築造と見られる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/64/b6/1301ef2402b14f8d8a6519638a246934.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1c/fb/31b68e45e090eabf4f2e5a20bc9cfb8e.jpg)
写真は、西山古墳の遠景及び同古墳墳丘の様子。
桜井市山辺の道沿いには、多くの巨大前方後円墳があって目立たないが、全長約114mという本古墳墳丘規模は、5世紀後半の古墳としてはかなり大きな古墳。
山辺の道が萱生(かよう)集落に入り、狭い道を西側に行くと、生活感に満ち溢れた古墳が西山古墳で、その後円部上には、石垣を積み上げたミカンの段々畑が見える。
一部に本古墳の濠などが残っている墳丘の裾には、一般の住宅が入込んでいて、後円部の南の狭い道にも古い風格のある住宅が並んでいる。
これこそ西山塚古墳で、前方部は竹林になっている。
なぜ、前期古墳の巨大前方後円墳が集中するこの地帯に、前方部が大きく開いた後期古墳をこじ入れるように築造したのか?![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/kuri_3.gif)
ちなみに大和古墳群・柳本古墳群ともに前方部を北に向けた古墳もなければ、100mを越す5世紀後半の古墳も西山塚古墳以外皆無らしい。
萱生集落の山側には、継体天皇の后の“手白香皇女”(たしらかのひめみこ)の墓とされる“衾田陵”(ふすまだりょう)がある。
前方部を北に向けた西山塚古墳の右手端の奥には衾田陵の後円部が見える。
その手前にあるのは、前方後方墳である下池山古墳の後方部。
衾田陵と呼ばれる西殿塚古墳は、墳丘が約240mもある、古墳前期の前方後円墳のため、5世紀後半の手白香皇女の墓所ではありえない。
5世紀終りの本古墳は、仁徳天皇陵と伝えられる大仙陵古墳よりも新しいことになる。
継体天皇皇后の手白香皇女は、衾田に葬られたとされているが、衾田付近で時代の一致する古墳を探すと、本古墳以外にはない。
従って、ほぼ間違いなく本古墳が手白香皇女陵で、延喜式に記されている継体天皇妃・手白香皇女の衾田墓は、西殿塚古墳ではなく、西山古墳だという説が有力。![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/kuri_1.gif)
その証拠としては、埴輪が継体天皇の真陵と言われる今城塚古墳と同じく、高槻市の新池遺跡で焼かれていることが挙げられる。
本古墳は、全長約114m・前方部幅70m・高さ8m・後円部径65m・高さ13mほどの前方後円墳で、円筒埴輪が発掘されており、その型式から、この地域の古墳としては異例の5世紀後半の築造と見られる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/64/b6/1301ef2402b14f8d8a6519638a246934.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1c/fb/31b68e45e090eabf4f2e5a20bc9cfb8e.jpg)
写真は、西山古墳の遠景及び同古墳墳丘の様子。
桜井市山辺の道沿いには、多くの巨大前方後円墳があって目立たないが、全長約114mという本古墳墳丘規模は、5世紀後半の古墳としてはかなり大きな古墳。
山辺の道が萱生(かよう)集落に入り、狭い道を西側に行くと、生活感に満ち溢れた古墳が西山古墳で、その後円部上には、石垣を積み上げたミカンの段々畑が見える。
一部に本古墳の濠などが残っている墳丘の裾には、一般の住宅が入込んでいて、後円部の南の狭い道にも古い風格のある住宅が並んでいる。
これこそ西山塚古墳で、前方部は竹林になっている。
なぜ、前期古墳の巨大前方後円墳が集中するこの地帯に、前方部が大きく開いた後期古墳をこじ入れるように築造したのか?
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/kuri_3.gif)
ちなみに大和古墳群・柳本古墳群ともに前方部を北に向けた古墳もなければ、100mを越す5世紀後半の古墳も西山塚古墳以外皆無らしい。
萱生集落の山側には、継体天皇の后の“手白香皇女”(たしらかのひめみこ)の墓とされる“衾田陵”(ふすまだりょう)がある。
前方部を北に向けた西山塚古墳の右手端の奥には衾田陵の後円部が見える。
その手前にあるのは、前方後方墳である下池山古墳の後方部。
衾田陵と呼ばれる西殿塚古墳は、墳丘が約240mもある、古墳前期の前方後円墳のため、5世紀後半の手白香皇女の墓所ではありえない。
5世紀終りの本古墳は、仁徳天皇陵と伝えられる大仙陵古墳よりも新しいことになる。
継体天皇皇后の手白香皇女は、衾田に葬られたとされているが、衾田付近で時代の一致する古墳を探すと、本古墳以外にはない。
従って、ほぼ間違いなく本古墳が手白香皇女陵で、延喜式に記されている継体天皇妃・手白香皇女の衾田墓は、西殿塚古墳ではなく、西山古墳だという説が有力。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/kuri_1.gif)
その証拠としては、埴輪が継体天皇の真陵と言われる今城塚古墳と同じく、高槻市の新池遺跡で焼かれていることが挙げられる。