茅原大墓古墳が現在も発掘調査中ですが、今回新たな発見があり、先日現地説明会が開催されましたので、ここで2回に分けて緊急報告します。
茅原大墓古墳は、桜井市北部の茅原集落の北側に位置する、4世紀末頃・古墳時代中期初頭頃の古墳で、後円部に対して前方部の規模が小さい、帆立貝式古墳と呼ばれる前方後円墳。
墳形の典型的事例として、昭和57年に国史跡に指定されている。
写真は、茅原大墓古墳墳頂から西方向を望む、葛城山をバックに耳成山と畝傍山の光景、北西方向に箸墓古墳と二上山を望む光景及び同古墳東側に鎮座し、被葬者を見守るような三輪山。
このように、奈良盆地南東部に位置する本古墳は厳選された、風光明媚な場所に位置付けられている。
若しかして、三輪山麓を本拠とした三輪氏一族の墓墳とすると、大神神社の大神主家が三輪氏であったことから、三輪山に見守られる位置として、納得できそうな場所に葬られたと云える。
本古墳の重要性に鑑み、史跡整備を行なうため、平成20年から古墳の形態や範囲確認などを目的に発掘調査を始め、昨年11月からは古墳東側から北側にかけて、第4次発掘調査を実施した結果、墳丘構造・周濠形態など古墳全体像がほぼ明らかになったと云う。
写真は、上空から見た茅原大墓古墳墳形及び本古墳の平面側面から見た全体像。
茅原大墓古墳のこれまでの発掘調査から、墳丘規模は後円部径約72m・墳丘全長は約86mで、墳丘構造は3段築成と見られる。
写真は、平成23年2月26日の茅原大墓古墳現地説明会光景、本古墳北側の前方部先端の葺石出土状況、今回出土した東側裾部の葺石。
今回発掘調査された、後円部東側、東側くびれ部、前方部北側などの墳丘端の斜面に葺かれた葺石が、墳丘全体の輪郭を明らかにしたと云える。
本古墳が位置する奈良盆地東南部では、3世紀代の古墳出現期から大型古墳が連綿と築造され続け、大王墓と見られる200m以上の巨大古墳の出現は、この地域を根拠としていた勢力が、当時の政権内において中心的な位置を占めていたものと思われる。
しかし4世紀後半以降になると、奈良盆地東南部では巨大古墳が築造されなくなり、代わって奈良盆地北部や河内地域において集中して築造されるようになった。
即ちこの時期になると奈良盆地東南部の勢力は衰退し、奈良盆地北部・河内地域の勢力がより強大になったことを示す。
従って茅原大墓古墳は、奈良盆地東南部の勢力が衰退していく時期に築造された古墳で、当時の時代背景を示していると云える。
叉4世紀末頃より多く見られる帆立貝式古墳の形態は、前方後円墳築造に規制がかかった結果、茅原大墓古墳の葬られた首長も、この規制を受けたため創出されたもので、この地域の勢力の衰退を象徴的に物語っていると云える。
茅原大墓古墳は、桜井市北部の茅原集落の北側に位置する、4世紀末頃・古墳時代中期初頭頃の古墳で、後円部に対して前方部の規模が小さい、帆立貝式古墳と呼ばれる前方後円墳。
墳形の典型的事例として、昭和57年に国史跡に指定されている。
写真は、茅原大墓古墳墳頂から西方向を望む、葛城山をバックに耳成山と畝傍山の光景、北西方向に箸墓古墳と二上山を望む光景及び同古墳東側に鎮座し、被葬者を見守るような三輪山。
このように、奈良盆地南東部に位置する本古墳は厳選された、風光明媚な場所に位置付けられている。
若しかして、三輪山麓を本拠とした三輪氏一族の墓墳とすると、大神神社の大神主家が三輪氏であったことから、三輪山に見守られる位置として、納得できそうな場所に葬られたと云える。
本古墳の重要性に鑑み、史跡整備を行なうため、平成20年から古墳の形態や範囲確認などを目的に発掘調査を始め、昨年11月からは古墳東側から北側にかけて、第4次発掘調査を実施した結果、墳丘構造・周濠形態など古墳全体像がほぼ明らかになったと云う。
写真は、上空から見た茅原大墓古墳墳形及び本古墳の平面側面から見た全体像。
茅原大墓古墳のこれまでの発掘調査から、墳丘規模は後円部径約72m・墳丘全長は約86mで、墳丘構造は3段築成と見られる。
写真は、平成23年2月26日の茅原大墓古墳現地説明会光景、本古墳北側の前方部先端の葺石出土状況、今回出土した東側裾部の葺石。
今回発掘調査された、後円部東側、東側くびれ部、前方部北側などの墳丘端の斜面に葺かれた葺石が、墳丘全体の輪郭を明らかにしたと云える。
本古墳が位置する奈良盆地東南部では、3世紀代の古墳出現期から大型古墳が連綿と築造され続け、大王墓と見られる200m以上の巨大古墳の出現は、この地域を根拠としていた勢力が、当時の政権内において中心的な位置を占めていたものと思われる。
しかし4世紀後半以降になると、奈良盆地東南部では巨大古墳が築造されなくなり、代わって奈良盆地北部や河内地域において集中して築造されるようになった。
即ちこの時期になると奈良盆地東南部の勢力は衰退し、奈良盆地北部・河内地域の勢力がより強大になったことを示す。
従って茅原大墓古墳は、奈良盆地東南部の勢力が衰退していく時期に築造された古墳で、当時の時代背景を示していると云える。
叉4世紀末頃より多く見られる帆立貝式古墳の形態は、前方後円墳築造に規制がかかった結果、茅原大墓古墳の葬られた首長も、この規制を受けたため創出されたもので、この地域の勢力の衰退を象徴的に物語っていると云える。