近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

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桜井市の茅原大墳古墳(続報)とは!そのⅠ

2011年02月28日 | 歴史
茅原大墓古墳が現在も発掘調査中ですが、今回新たな発見があり、先日現地説明会が開催されましたので、ここで2回に分けて緊急報告します。

茅原大墓古墳は、桜井市北部の茅原集落の北側に位置する、4世紀末頃・古墳時代中期初頭頃の古墳で、後円部に対して前方部の規模が小さい、帆立貝式古墳と呼ばれる前方後円墳。

墳形の典型的事例として、昭和57年に国史跡に指定されている。







写真は、茅原大墓古墳墳頂から西方向を望む、葛城山をバックに耳成山と畝傍山の光景、北西方向に箸墓古墳と二上山を望む光景及び同古墳東側に鎮座し、被葬者を見守るような三輪山。

このように、奈良盆地南東部に位置する本古墳は厳選された、風光明媚な場所に位置付けられている。

若しかして、三輪山麓を本拠とした三輪氏一族の墓墳とすると、大神神社の大神主家が三輪氏であったことから、三輪山に見守られる位置として、納得できそうな場所に葬られたと云える。

本古墳の重要性に鑑み、史跡整備を行なうため、平成20年から古墳の形態や範囲確認などを目的に発掘調査を始め、昨年11月からは古墳東側から北側にかけて、第4次発掘調査を実施した結果、墳丘構造・周濠形態など古墳全体像がほぼ明らかになったと云う。





写真は、上空から見た茅原大墓古墳墳形及び本古墳の平面側面から見た全体像。

茅原大墓古墳のこれまでの発掘調査から、墳丘規模は後円部径約72m・墳丘全長は約86mで、墳丘構造は3段築成と見られる。







写真は、平成23年2月26日の茅原大墓古墳現地説明会光景、本古墳北側の前方部先端の葺石出土状況、今回出土した東側裾部の葺石。

今回発掘調査された、後円部東側、東側くびれ部、前方部北側などの墳丘端の斜面に葺かれた葺石が、墳丘全体の輪郭を明らかにしたと云える。

本古墳が位置する奈良盆地東南部では、3世紀代の古墳出現期から大型古墳が連綿と築造され続け、大王墓と見られる200m以上の巨大古墳の出現は、この地域を根拠としていた勢力が、当時の政権内において中心的な位置を占めていたものと思われる。

しかし4世紀後半以降になると、奈良盆地東南部では巨大古墳が築造されなくなり、代わって奈良盆地北部や河内地域において集中して築造されるようになった。

即ちこの時期になると奈良盆地東南部の勢力は衰退し、奈良盆地北部・河内地域の勢力がより強大になったことを示す。

従って茅原大墓古墳は、奈良盆地東南部の勢力が衰退していく時期に築造された古墳で、当時の時代背景を示していると云える。

叉4世紀末頃より多く見られる帆立貝式古墳の形態は、前方後円墳築造に規制がかかった結果、茅原大墓古墳の葬られた首長も、この規制を受けたため創出されたもので、この地域の勢力の衰退を象徴的に物語っていると云える。




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奈良県広陵町の牧野古墳とは!

2011年02月26日 | 歴史
牧野(ばくや)古墳は、昭和35年頃から馬見丘陵の開発計画が具体化し、丘を削り、谷を埋めて、真美ヶ丘ニュータウンや西大和ニュータウンなどの住宅地が開発された場所にある。

両側に小綺麗な住宅が続く車道の坂道を登り切った右手に、樹木に覆われた一角が牧野史跡公園。

本古墳は、馬見丘陵では数少ない横穴式石室を持つ古墳であるばかりでなく、県下でも最大級の横穴式石室として、学術上貴重な古墳。

国指定史跡の牧野古墳を永久に保存するため、多種類の植樹を行ない、遊具、散策路や案内板を設けて史跡公園らしく整備されている。









写真は上から、国道沿いの牧野古墳サイドビュー、牧野史跡公園の案内板、森に覆われた同古墳光景及び墳丘の様子。

牧野古墳は丘陵の稜線上から南に延びた支尾根の端を整え、円形に造られた大型円墳で、直径が約55m・高さは13mほど。

三段に築造され、三段目の封土の中に巨石を使った横穴式石室が築かれている。

昭和58年に実施された調査によって、巨大な花崗岩を使用した全長17.2mの両袖式横穴石室の全貌が明らかになった。

馬見丘陵地帯は粘土の山で、「豆山3里小石一つ無し」と言われているほど自然石の少ないところ。ちなみに、豆山とは馬見丘陵のこと。

それにもかかわらず、最大の石は60トン近い大きさで、奈良県では石舞台古墳の天井石についで二番目の大きさらしい。







写真は、牧野古墳の横穴式石室開口部、同石室内部及び同石室天井部光景。

すでに石室の入り口は開かれ、盗掘されていたため、当初副葬品はすでにないと思われていた。

全長17.2mの大型石室の内部には、奥壁に添って横向きに刳抜式の家形石棺が安置され、その手前には組合せ式の家形石棺が置かれていたらしい。

羨道は長さ約12m・高さ約2m・幅約1.8mで、玄室は長さ約7.0m・幅約3.3m・4.5mに及ぶ。

家形石棺は盗掘によってほとんど破壊されていたと云う。

予想に反して、副葬品は意外に多く残され、総数で2万点にもおよんだ。装身具類では金環、金銅製梔子(くちなし)玉・ガラス小玉・粟玉など各種の玉類。



写真は、牧野古墳から出土した鞍金具・杏葉など。

馬具は本心鉄地金銅張の壺鐙(つぼあぶみ)、縁金具のある障泥(あおり)、心葉形の鏡板と杏葉等が出土したと云う。

武器は、銀装の大刀と400本近い鉄鏃が見つかり、羨道に集中していた容器類の中には、木心の金銅張容器と総数58点の須恵器があったと云う。

須恵器の形式その他から6世紀後半から末葉にかけて築造された墓であることが分かった。

全長100mから200mの前方後円墳が数多くある馬見古墳群の中では、直径50m余りの円墳は決して目立つ存在ではないが、注目しなければならないのは、巨大な前方後円墳が築かれなくなった、6世紀後半から末葉に造られている点。

大和地方の最後の前方後円墳は、明日香の欽明天皇陵であると言われており、その後は一辺50m程度の方墳が王陵の墓になる。

したがって、円墳と方墳との差はあるが、牧野古墳は築造当時としては最大級の墓だったと云える。

牧野古墳の石室は、桜井市の“赤坂天皇山古墳”のものと非常に似ており、同じ設計構想から、同じ技術集団によって築かれたと考えられるらしい。赤坂天皇山古墳は方墳だが、被葬者として崇峻天皇が想定されている。

崇峻天皇は、西暦592年、蘇我馬子が放った刺客・東漢駒(やまとのあたいこま)によって殺された。方墳と円墳の違いが、天皇の墓と天皇より少し身分の低い人の墓の差であると仮定した場合、牧野古墳の被葬者は、崇峻天皇が死亡した頃の皇族ではないかと考えられる。

延喜時代(927年)に編まれた『延喜式』には、敏逹天皇の皇子で舒明天皇の父にあたる押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのみこ)の墓は、大和国広瀬郡にある成相墓(ならいのはか)であると記されている。

広瀬郡は、現在の河合町や広陵町にまたがる地域で、その大半は馬見丘陵が占めている。

驚くべきは、『延喜式』に記された成相墓の墓域の広さである。

東西15町・南北20町で、『延喜式』に記された墓域では最大の広さを誇る。古くは、この付近が牧場としてしか利用できない不毛の丘陵であったことから、広大な墓域を設定できたものと推定される。

一方、馬見古墳群を構成する墓は、いずれも前期から中期古墳時代のものであるが、牧野古墳だけが後期古墳時代の墓であり、『延喜式』の記述は正しく、考古学会では、牧野古墳が押坂彦人大兄皇子の相成墓である可能性は高いと考えている。




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奈良県広陵町の新山古墳とは!

2011年02月24日 | 歴史
新山古墳は、馬見丘陵東麓の自然丘陵を利用して築造された前方後方墳で、周囲に濠を巡らし、現在は溜池として利用されているが、わずか東と北に当初の面影を残し、前方部を南南西に向けている。





写真は、新山古墳東側サイドビュー及び同古墳の北側サイドビュー。

本古墳は、全長約127m・後方部幅約64m・後方部高さ約11m・前方部幅約60mの前方後方墳で、丘陵東麓の隆起部を利用して築造されていた。





写真は、新山古墳の大塚陵墓参考地看板及び同古墳の金網に囲まれた墳丘の様子。

馬見古墳群の一つで、築造時期は4世紀後半とされ、陵墓参考地として宮内庁が管理している。新山古墳は全国に46カ所存在する陵墓参考地の一つで、宮内庁が「大塚陵墓参考地」として管理しているため、立ち入ることはできない。

馬見丘陵の南端墳丘の周囲を濠がめぐり、円筒埴輪列が見つかっている。

明治時代の発掘調査では三角縁神獣鏡などの銅鏡34面のほか、玉類などの装身具している。



写真は、新山古墳出土の龍鏡。

明治18年、後円部に竪穴式石室と組合式石棺状の施設が発見され、三角縁神獣鏡・小形内行花文鏡・車輪石・鍬形石・石釧・中国晋代の帯金具・直弧文鏡・玉類等が出土している。

明治時代には、ここが古墳であることなど忘れ去られていたこともあり、当時の土地の所有者は、この小山に植樹を行おうと考え、あちこちを掘り起こしたと言う。

その際に、後方部中央あたりで竪穴式石室を発見したらしい。







写真は上から、新山古墳の前方後方墳の前方部光景、同古墳の後方墳光景及び民家に隣接した同古墳。

こんもりとした森があり、麓を満々と水を蓄えた池が巡っている、典型的な古墳の光景だが、一方で民家がギリギリ迫っている。

竪穴式石室から出土した金銅製帯金具は、竜文を施す絞具(かこ)と帯先金具の他に、葉文を透彫りした鍔と円形座金具の付く止金具がセットになり、中国晋代の帯金に似ているらしい。

叉34面の鏡の内訳は、直弧文鏡が3面、三角縁神獣鏡が9面、画文帯神獣鏡が3面、方格規矩鏡が4面、内行花文鏡が14面だったと云う。

昭和56年の発掘調査によって、後方部北側から多数の埴輪が検出されたほか、後方部の石室からは、直孤文鏡・刀剣・金銅製帯金具などが大量に出土した。

これらの出土品は現在宮内庁に保管されているが、埴輪の製作時代から、この古墳の築造時期は4世紀中頃と推定され、馬見古墳群のなかでは一番早く造られた墳墓ということになる。



写真は、新山古墳出土の直弧文鏡。

銅鏡34面の内、直弧文鏡の文様は3、4世紀のころに現れ、直線と弧線を組み合わせて形を作る。その作図法は極めて難解らしいが、各古墳の蓋・楯などの埴輪にも表現されていると云う。

銅鏡のうちの変形方格規矩神鏡は、紐の周りを方形に区画した中に十二支の漢字が、文字とは解読できないほど文様化したものになっているらしい。

金銅・銀製の帯金具は、河北省定県のものが最も古く、2世紀に出現していると云う。そのうち銀製帯具は、江南省からもたらされたもので、年代的には紀元300年前後の製作と考えられると云う。

大陸との交流を窺わせる、質量とも充実した出土遺物、大和王朝のシンボル・前方後円墳ではなく前方後方墳であること、築造年代の古さと規模の大きさなどから、大和王朝に背を向けた大王クラスの豪族と考えられ、土地柄から葛城氏一族の墳墓ではないかと想わせる。










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奈良県河合町の川合大塚山古墳群とは!

2011年02月22日 | 歴史
奈良盆地を流れる水系のすべてが、河合町の北で大和川に合流するところは、奈良盆地内で最も低い平地らしい。地名としての「河合」或いは「川合」はこうした自然の地勢に由来した名称。

大塚山古墳は、河合町川合に所在する前方後円墳で、馬見丘陵が北に延びて低地に消えるあたりの田園の中に位置しているが、前方部を南に向けた前方後円墳。

川合平地には、城山古墳・高山古墳・九僧古墳など8基の古墳が残っており、分布状況や古墳群構成から、まとまった古墳群として重視され、昭和31年12月に一括で国指定史跡に指定された。

大塚山古墳群の被葬者や古墳を造った人びとが、どのような人びとであったかは不明だが、5世紀後半に大和川水運を掌握し、政権中枢に深く係わってきた人びとだろうと考えられている。









写真は上から、大塚山古墳空撮、田圃に浮かぶ古墳全景、前方部の田圃と化した周濠光景及び同古墳東側の周濠光景。

本古墳は、5世紀中頃から後半に築造された3段築成の前方後円墳で、葺石・埴輪列があり、墳丘全長は約215m・後円部径約108m・高さ約15.8m・前方部幅約123m・高さ約16.9mを測り、同時期では、奈良盆地内で最大級の古墳。

墳丘の周囲には、写真の通り周濠の痕跡が水田として残っているが、周濠は後円部側で幅約32m、前方部側で約40mあり、最近の調査で、さらに外側に周堤・外周溝・外堤が巡る壮大な姿であったことが分かってきた。

後円部墳頂には窪地があり、かつて石材が散乱していたことから、埋葬施設は不明だが、竪穴式石室のものと推測される。









写真は上から、川合大塚山古墳への登入口、古墳内の遊歩道光景、後円部の墳丘光景及び同古墳前方部の明治天皇が立ち寄った記念碑。

前方部墳頂には、写真の通り、明治40年に行われた軍隊の大演習の際に、明治天皇が立ち寄ったことを示す石碑が建立されている。

出土した遺物には、埴輪・土師器・須恵器などがあり、埴輪は円筒埴輪のほか、朝顔形埴輪・家形埴輪・蓋形埴輪・盾形埴輪・人物埴輪など知られている。

本古墳は、これらの埴輪の特徴から、5世紀後半に造られたと見られる。

近くの廣瀬神社に伝わる『和州廣瀬郡廣瀬大明神之圖』(16世紀以前の作)では「王塚山」の名で描かれ、叉明治3年の川合村絵図には、「王墓山」と記されていると云う。

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奈良県広陵町の三吉2号墳とは!

2011年02月20日 | 歴史
三吉2号墳は、巣山古墳の西に築かれた北向きの帆立貝式古墳で、全長89.8mを測る。

発掘調査時に後円部の南東で、円筒埴輪を埋葬施設とする三吉3号墳が発見されている。



写真は、三吉2号墳の墳形。

本古墳後円部の径78.4m・高さ6m・前方部の最大幅は41.2mを測り、築造年代は5世紀前半で、埴輪の編年から巣山古墳と同時期の築造。

本古墳は、巣山古墳の西約100mに位置する小規模な古墳で、墳丘は削平されていたが、溝と粘土で被覆された円筒棺の主体部が検出されている。

文様と蓋の形状から、円筒棺は埴輪を転用したものではなく、専用に作られた棺と見られている。

出土遺物は、円筒棺のほか、円筒・朝顔型・家型・蓋形などの埴輪片が検出されているが、埴輪の出土量は少なく、墳頂付近や前方部に限定された区画に据えられたと見られる。

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奈良県広陵町の文代山古墳とは!

2011年02月18日 | 歴史
文代山(ぶんじろやま)古墳は、馬見丘陵公園中央エリアの東地区から見ることのできる大型の方墳で、寺戸方形墳とも呼ぶ。

墳丘は鎌倉時代末から江戸時代にかけて耕地利用による改変が著しく、1994年から保存のための範囲確認調査が実施されている。







写真は、文代山古墳の方墳全景、同古墳墳丘の様子及び同古墳から出土した猪形埴輪。

本方墳は5世紀後半に築造された、南北44m・東西40.5mほどの規模で、幅20mほどの周濠と外堤があったと云う。

造り出し周辺では猪形・犬形・馬形の動物埴輪が出土し、そのほかにも蓋形・家型埴輪・円筒埴輪・須恵器などが周濠から出土している。

文代山古墳は、1974年の寺戸遺跡発掘調査時に、一本松古墳・狐塚古墳と共に新しく発見された方墳で、香坂(かごさか)王と忍熊(おしくま)王(日本書記に出てくる仲哀天皇の後継者を巡る争いの当事者)の墓の可能性があるのではとか?

更に1998~2000年にかけて墳丘の範囲確認調査が行われた結果、元々この古墳から出土したと伝えられる長持式石棺の底石が、西方にある下水の吐水口に転用されていたらしい。

現在は、牧野古墳公園に移され、駐車場の片隅にベンチのように置かれている。



写真は、文代山古墳から出土した長持形石棺の底石。

現在は、牧野古墳公園に移されている。

この底石片は、元々は池の橋に利用・放置されていたもので、長さ約240cm・最大幅約90cmを測る。この底石には、石棺を組み立てたときの溝が残っている。

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奈良県広陵町の新木山古墳とは!

2011年02月16日 | 歴史
新木山(にきやま)古墳は、北葛城郡広陵町赤部に所在し、馬見丘陵中央群のうちでも南に位置し、前方部を東に向ける墳丘約200mの前方後円墳。

後円部径約117m・同高約19m・前方部幅約118m・同高約17mを計測する。くびれ部には造り出しが付き、周濠、外堤が伴う。











写真は上から、新木山古墳空撮の光景、同古墳後円部の墳丘輪郭、同古墳の荒廃した後円部周濠の姿、同古墳の畑地化した周濠沿いの墳形全貌及び後円部墳形の近景。

周濠は後円部で幅約20mだが、陵墓指定外の外堤部の一部が発掘調査された結果、幅22m・高さ3m以上の幅の広い外堤がある事が判明した。

この巨大外提は、新木山古墳の直ぐ西にある三吉石塚古墳の墳丘近くまで広がる。

本古墳の築造時期は、円筒埴輪から5世紀前半・古墳時代中期後葉と考えられている。したがって、馬見古墳群の盟主的存在である巣山古墳より、約半世紀早く造られたことになる。

埋葬施設の副葬品と考えられる勾玉・管玉・棗玉(なつめだま)が宮内庁に保管されていると云う。

巣山古墳とともに馬見古墳群で中核をなす大型前力後円墳。広陵町教育委員会が平成元年と2年に外提を発掘調査したところ、円筒埴輪が出土した。



写真は、新木山古墳の発掘調査現場光景。

宮内庁は平成22年11月、「三吉陵墓参考地」として管理する、奈良県広陵町の前方後円墳・5世紀前半の新木山古墳の柵を整備するのに伴う、発掘調査現場を報道関係者に公開した。

更に、午後には考古学研究者らに公開した。

新木山古墳は葛城地域北部にある馬見古墳群の中央に位置し、国特別史跡・巣山古墳とともに同古墳群の代表的存在。

今回の調査は、平成22年10月中旬から墳丘裾部分の12カ所で実施。一部で葺石や埴輪列が見つかったほか、全長200mを超えることを確認した。

珍しい襟付き短甲形埴輪のほか、家形や蓋形などの形象埴輪片が出土したと云う。襟付き短甲形埴輪は破片2点で、革で鉄板を固定した様子も表現していた。このような短甲形埴輪は、羽曳野市の墓山古墳など数例しか出土例がないという。

しかしこれまでの調査で、埋葬施設は不明だが、後円部頂上に大きな盗掘穴が存在するらしい。

広陵町南郷の山王神社にある石棺は、この古墳から出土した長持形石棺の可能性もあるとか。

墳丘は広い範囲で削られていたが、江戸時代に再び土が盛られていたことや、三段築成であることがわかった。

天皇や皇族の墓の可能性がある、“陵墓参考地”の古墳を宮内庁と地元自治体が同時に調査するのは、平成20年、堺市北区の百舌鳥御廟山古墳に次ぎ2例目。

宮内庁の発掘は陵墓などの維持・管理が主目的で、その宮内庁と自治体の同時発掘がさきがけとなり、学術調査のための共同発掘に進めば、古代史の解明は大いに進むと思われる。

新木山古墳は大小の古墳が密集している北葛城地方の馬見古墳群の中でも、近くの巣山古墳(全長約220m)とともに中心的な大古墳。

これまでは研究の対象外におかれてきたが、やっとデータが得られたと云う。データ解析結果の公開に大いに期待したい。

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奈良県広陵町の一本松古墳とは!

2011年02月13日 | 歴史
奈良盆地西部の北葛城郡河合町、広陵町から大和高田市にかけて広がる馬見丘陵には、4世紀末から6世紀にかけて築かれた、250基を超える古墳が集中しており、馬見古墳群と総称されている。

一本松古墳は、馬見古墳公園の中に位置している前方後円墳で、昭和49年に発見された当時は、全長100mを越える前方後円墳であると考えられていた。







写真は上から、一本松古墳の後円部光景、後円部から前方部方面を見上げる様子及び下池越しに望む遠景。

測量調査が行われた結果、全長130m・後円部径80m・前方部幅80mほどであることが確実となり、この測量を機に一本松古墳と名付けられた。

しかし、かつて開墾などが行われたらしく、また乱掘などで墳丘はひどく荒れていたと云う。

さらに埴輪や葺石の存在がはっきりせず、築造時期も確定していない。それ以外の具体的な情報もない、実に奇妙な古墳であった。

一本松古墳は馬見丘陵公園の中の河合町飛び地に築かれている。このあたりは現在公園として整備中の地域で、一本松古墳の南西の小さな丘に“東屋”の建設が計画された。

そこで、地下遺構を確認するために、試掘調査が行なわれた結果、周りに一辺12~14mの周溝を巡らした、主軸が東へ約30度傾く方墳を発見した。

この方墳の周溝の底で円筒棺墓を、また周溝の外側斜面で古墳に立てるための円筒埴輪を埋葬用に転用した埴輪棺墓も出土した。

同様な埴輪棺墓は一本松古墳の外堤の上からも見つかったと云う。



写真は、一本松古墳から出土した円筒棺。

円筒棺墓とは円筒形の土製の棺を埋葬した古墳時代の墓のこと。これまでに全国の約30遺跡で出土しているが、完形に近い状態で発見されたのは珍しいらしい。

馬見古墳群は、大和国家成立の頃に葛城山麓に盤踞し、天皇家と覇を競った葛城氏の奥津城だったとされている。

しかし、古墳群の規模の大きさや出土した副葬品の豪華さなどから、一氏族の奥津城の範囲を超えているとする説もあり、かならずしも断定はできない。

平成18年の調査は本格的な古墳の発掘調査ではなく、あくまで公園施設の建設予定地に地下遺構があるかどうかを調べる試掘を行ったにすぎなかった。

たまたま新しく古墳が発見されたが、この程度の古墳が見つかっても通常現地説明会は開かないが、一本松2号墳と命名された。

この方墳の周りに築かれた溝の中から円筒棺墓が、埋葬当時の原形をほぼとどめた形で出土したため。

一本松古墳は発見当初、大字名から“寺戸前方後円墳”とされたが、後に一本松古墳と名付けられたと云う。
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奈良県河合町の別所下古墳とは!

2011年02月11日 | 歴史
別所下古墳は、南北に伸びる尾根の頂上部を改修してから4m以上の盛土を行い、径約60m・高さ約6mの大型円墳に仕上げ、北側に幅約6mの濠と外提を設けている。

本古墳は土が盛られて造られたものだけに、1500年あまりの年月の風雪に耐えながらも、自然崩壊など発生しているため、墳丘がハッキリしない。





写真は、別所下古墳墳丘の様子及び同古墳全景。

公園の建設に先だち1986年に奈良県橿考研が範囲確認の為一部発掘調査した。

その結果、墳丘は上下2段に築かれ下段の肩部に円筒埴輪列を巡らせ、所々に朝顔形埴輪や鰭付円筒埴輪を置いている。葺石はないが、周濠と思われる窪地部分が見られたと言う。

現在は円墳とされているが、将来の調査結果によっては、地形から西か南側に、短い前方部を持つ帆立貝式古墳の可能性もあると云う。

築成時期は一般には発見された埴輪から、周辺の古墳の中では最も古い4世紀後半のものと考えられるが、5世紀中~後半のものとの見解もある。

円筒埴輪・鰭付円筒埴輪・朝顔型埴輪などが出土しているが、古墳の形式は現在では樹木に覆われており、一見しただけではわかりにくい。

現在は別所下古墳と呼ばれているが、地元では雨山古墳とも呼ばれていたと云う。

別所下古墳は、馬見丘陵公園公園館前にある。

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奈良県河合町の池上古墳とは!

2011年02月09日 | 歴史
大和平野のほぼ中央に位置する「馬見丘陵」では、河合町・広陵町・大和高田市・香芝市にまたがり、我が国でも有数の古墳群が集中し、「馬見古墳群」と呼ばれている。

池上古墳は、「馬見丘陵公園」の内外で見られる7基の古墳のうち、公園「北エリア」に所在する。





写真は、池上古墳遠景及び墳丘光景。

古墳の形が帆立貝に似ていることから、乙女山古墳と共に帆立貝式古墳と呼ばれ、全長約92mで、写真のように周囲を幅32mの周濠が墳丘を囲んでいる。

本古墳の築造時期は、円墳埴輪から5世紀前半・古墳時代中期前葉と考えられる。

1992年度に範囲確認調査が行われ、後円部が2段築成であることなどが確認されたと云う。

出土した円筒埴輪は円形スカシに統一され、黒斑が見られるなどの特徴から、乙女山古墳と同時期と考えられている。

本古墳後円部の基底部、テラス及び墳頂部に円筒埴輪が並べられていたことがわかつている。叉墳丘斜面には人頭大など巨大な葺石が施されていた。

後円部基底部に葺石がないのに対し、前方部基底には葺石が施されているが、石材は二上山麓から運ばれたと考えられている。
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奈良県河合町の佐味田宝塚古墳とは!

2011年02月07日 | 歴史
佐味田宝塚古墳は、奈良県北葛城郡河合町に所在し、地理的には奈良盆地の西部の二上山の東北方に広がる馬見丘陵上に存在する、古墳時代前期後半の前方後円墳。

馬見丘陵地域の前方後円墳としては、最古の古墳で、国史跡に指定されている。











写真は上から、佐味田宝塚古墳全景、本古墳の案内板、同古墳の標識と背景の墳丘光景、後円部墳丘の様子及び森に覆われた本古墳の光景。

墳丘はかなり削平されているものの、全長111.5m・後円部径60m・前方部幅50mほどで、現状では後円部は楕円形をしているが、検出した埴輪の状況から元来は正円をしていたと考えられており、2段築成で葺き石と埴輪が並べられていたと推定されている。

この古墳からは明治14年に約36面の銅鏡が出土し、その中に鏡背に4棟の建物の図像をあしらった、家屋文鏡と呼ばれている直径22.9cmの大型鏡があったが、現在は宮内庁書陵部に保管されている。

これは古墳時代の建築を知る上で、貴重な資料と見られる。









写真は上から、佐味田宝塚古墳出土の家屋文鏡及び斜縁神獣鏡、拡大家屋文鏡及び家屋文様の図解。

発掘当初は36面を数えたと言われ(現在は26面が伝わる)、一古墳から出土した枚数では全国第3位に相当するらしい。さらに家屋文鏡と呼ばれる鏡は、当時の住居建築を描いた貴重な絵画資料として広く知られている。

家屋文様は、この古墳に葬られた人々の居館を構成する家屋を表現したものと見られ、それらの家屋は、まつりごとや4世紀ごろの地域の首長の日常生活に使用されていたものと考えられている。

鏡の背面には、中央にある紐(ひもを通す穴)を中心に、それぞれ形態を異にする4軒の家が表されている。それらは、竪穴の家、平屋建ての家、高床の家、高床の倉庫らしい家。

このうち平屋建ての家と、高床の家には、その左右に木の表現があるのは神木と考えられている。他の2軒はりっぱな家だが、神木がない。そのかわり、身分の高い人の家を示す、入り口に立てかけられた日覆いの傘(蓋)がある。

竪穴の家を除く3棟の上には、それぞれ2羽の鳥が表されている。

叉36面のうち、3面の神獣鏡はもともと中国の神仙思想や陰陽五行説に基づく図像を鏡背に描いた鏡で、三国時代を中心に、後漢から南北朝時代にかけて、主に江南地方で盛んに製作された鏡らしい。

日本に舶載されたものや、それを元に日本で製作されたものも多く、特に外区に幅の広い鋸歯文帯と波文帯を備え、縁を三角形に作ったものを三角縁神獣鏡と呼び、魏から邪馬台国の卑弥呼に下賜された鏡をこれに充てるのが通説。

本品は縁の形態や文様構成に、卑弥呼に下賜された鏡とは違うらしい。

この発掘で出土した遺物は他に、玉類・石釧・鍬形石・石製合子・滑石制模造品・銅鏃・巴形銅器・刀子・剣・斧・鑿など、総数140点。これらは東京国立博物館と宮内庁書陵部に保管されていると云う。

これらの貴重な出土遺物などから、昭和62年に国の史跡に指定された。

しかし大正12年の関東大震災のときに当時の博物館本体が倒壊し、その際出土品の一部が失われていると云う。

埋葬施設は粘土槨で、その周囲に礫を埋めた排水溝が巡らせていたと推測されている。

昭和60年度に実施された墳丘の範囲確認調査により、墳丘の裾から出土した円筒埴輪列から、4世紀末から5世紀初頭頃に造られたものと考えられている。即ち馬見地域で最初に築造された前方後円墳であることが分かったと云う。

埴輪は鰭付円筒埴輪列が並び、くびれ部には形象埴輪が存在した。形象埴輪は盾・蓋・短甲・草摺(くさずり)・靭(ゆき)・家・壺形など。

その他の出土遺物は車輪石、墳頂で採取された三角縁神獣鏡破片が発見されている。



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奈良県広陵町の三吉石塚古墳とは!

2011年02月04日 | 歴史
三吉石塚古墳が位置するところは、大和平野のほぼ中央にある馬見丘陵公園内にあり、わが国では有数の大型古墳の集中密度が高い地域。

そして、これらの古代の史跡を包み込むように、豊かな自然が広がっている。





写真は、三吉石塚古墳墳頂から見上げる二上山と葛城山の光景。

馬見丘陵公園は、こうした歴史と文化の遺産や素晴らしい自然環境を、全国各地から多くの人が、憩いの空間として活用できるように整備された都市公園と云える。

三吉石塚古墳は、新木山古墳の外庭西側に接する場所に造られ、馬見墓地公園の墓地の真ん中に復元された、東向きの帆立貝式古墳で、新木山古墳の陪塚とされている。











写真は上から、三吉石塚古墳の正面墳丘、古墳墳頂から見下げる前方部墳形、短足の前方部光景、同古墳前方部のサイド光景及び本古墳の墳形見取図。

本古墳は、写真のように、後円部に短い前方部が付く形で、周囲に馬蹄形の濠が巡らされているが、平成4年3月に、復元古墳は県史跡に指定されている。

本古墳は、新木山古墳の西に築かれた東向きの帆立貝式古墳で、墳丘全長45m・直径41.4m・高さ6.5mの後円部に、幅22m・長さ7mほどの短い前方部が付く。

周囲に馬蹄形の周濠が掘られ、さらに外堤があり、堤を含めた全長は62mほどになる。





写真は、三吉石塚古墳の墳丘近景と復元された周濠。

墳丘は2段築成で、第1段目には円筒埴輪・朝顔形埴輪の他に蓋・短甲・家形などの埴輪が立てられていたと云う。

写真のように、墳丘と周濠には葺石が施され、葺石の作業単位がよく残されている。前方部の南東隅には張出部が設けられ、周濠幅が狭くなっていることから、墓道と考えられている。埋葬施設は未調査の状況。

出土した埴輪の形式から築造時期は5世紀後半とされている。隣接する新木山古墳の築造時期は5世紀前半と推定されており、時期的に開きがある。

陪の場合、築造時期がほぼ同時代であるのが一般的であるが、新木山古墳と三吉石塚古墳とでは、半世紀の開きがある。この期間差が謎とされているが、あるいは陪塚ではなく、たまたま隣接して造られた墓だったかもしれない。

墳丘と周濠部分の内側に10~30cmの葺石を施し、特に後円部の葺石が縦一列に並ぶ所があり、この葺石の列石間が1つの作業単位で、作業方法を示す基準と考えられている。



写真は、三吉石塚古墳埴輪の配列状況で、円筒埴輪5本に1本の割合で朝顔形埴輪を配置している。

現在の復元古墳は、その遺構を盛土で保存した上に、かさあげ方式で築造当初の姿に復元整備し、円筒・朝顔形埴輪は、出土遺物に基づき製作した複製品を設置し、葺石も築造当時の積み方で葺いていると云う。

前方部復元には当麻町西に分布する黒雲母花崗岩が、後円部には香芝市の二上山麓の輝石安山岩が使われたと云う。

広陵町の広報によれば、「三吉石塚古墳は、中段のテラスと墳頂、外堤の-部に埴輪が並べられていた。古墳全体で370本もの埴輪がめぐらされていたと推定される。埴輪の大部分は円筒埴輪で5本に1本の割合で朝顔形埴輪がたてられていた。埴輪列の復元は、墳頂部の形象埴輪をのぞいて、磁器で製作した埴輪を立てている」と記されていたらしい。


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奈良県河合町の倉塚古墳とは!

2011年02月01日 | 歴史
倉塚古墳は馬見丘陵公園の一角、北葛城郡河合町佐味田巣山の丘陵上にある。

スベリ山古墳とも呼ばれる前方後円墳で、馬見古墳群を構成している。

本古墳は墳丘主軸を東西にとる前方後円墳だが、かつて径90mほどの円墳と云われていたらしい。

倉塚古墳は、須山古墳と乙女山古墳のほぼ中間の丘陵頂上部にあり、古墳周辺からは円筒埴輪を転用して埋葬した円筒棺が出土している。

外堤と思われる所に円筒埴輪列があり、この列の中から円筒棺が検出されたらしい。








写真は上から、案内板越しに広がる倉塚古墳全景、後円部墳丘の様子及び後円部から前方部を望む光景。

墳丘の規模は、後円部の径約106m・高さ約12m・前方部の最大幅は約70m・高さ6.1mほどを測り、墳丘全長は約180mある。

基本的には土が盛られて造られたもので、1500年余りの年月の風雪に耐えながらも自然崩壊が進行している。

墳丘の周囲には幅10mほどの周濠があり、この周濠のさらに外側には幅15mほどの堤がある。

本古墳の築造は、古墳時代の中期にあたる5世紀前半ごろと推定されている。

発掘調査が行なわれていないため、これ以上の詳細は不明。
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