近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

楠木正成物語 おわりに

2006年11月15日 | 歴史
冒頭にも申し上げた通り、昨今の殺伐とした社会環境、後を絶たない悲惨な殺傷事件、いじめ・いじめによる自殺、安倍新政権の施政方針の一つとして取上げられた教育再生への取組、社会全般に広がりを見せているモラルの低下等々、人間社会成り立ちの本質にかかわる問題が山積しているだけに、正成が残した足跡を辿ってみるのも、あながち無駄にはならなかったと信じる。

正成は、「時代の評価」という波に翻弄され、浮き沈みさせられた人物とも云えるが、その間、正成を象徴するキーワードは終始変わらず、特に今日重要視され、再考されるべきであると信じる。
正成を象徴するキーワードとは、“忠義”・“民衆”・“信念”という三つの正成行動規範でもあった。

忠義とは、先祖・親・目上の者に対する尊厳であり、特に昨今欠落している“礼節”に通じる。正成は、楠木家の菩提寺である観心寺で、7年間文武にわたる手厚い教育を受け、中でも朱子学に大きく影響され、忠臣を重んじる思想に感化されたと云われる。
民衆とは、今日的“民主主義”とダブルが、武家時代の中世当時、民衆の力を結集・結束する、型破りの発想であった。
正成自身が“悪党”という、商業を生業とした一般民衆層出身であったことが大きく影響し、民衆を愛し、民衆より愛された地元リーダーであった。
信念とは、朱子学に憧憬したことが影響していると思われるが、下克上の時代に終始自分を信じ、忠義を貫き通した人格者でもあった。

上記のようなポイントを総合すると、正成のような人物こそ今日、国政レベルの政治・社会など広範囲な分野で必要とされ、特に教育行政では格好な指導者であり、正成再来を願わざるにはいられない。

以上長い間、ご覧頂き、ありがとうございました。
又近日中にスタートする、次のテーマにも注目していただけたら幸いです。


楠木正成物語 正成に対する評価の劇的変化とは!

2006年11月13日 | 歴史
正成に対する評価は、大きく振れた。
江戸時代には、忠臣として美談化され、江戸後期には尊皇家によって頻繁に祭祀されるようになり、その動きは明治に入って、湊川神社の創建に結実、又“南北朝正閏論”(南朝か北朝か、どちらが正しい系統かの論争)を経て南朝が正統とされると、正成は大楠公と呼ばれ、各地の神社で祀られるようになった。

「正成は、弱まりつつあった天皇の権威を強化する道具として利用された」とも酷評された。尋常小学校教科書でも、修身教育で正成は忠臣の象徴とされ、挿絵付で紹介されたように、客観的な評価からはかけ離れていった。
正成を祭神とする神戸市の“湊川神社”建設、河内長野市観心寺境内に建設された正成“建掛塔”、高村光雲作で東京外苑の“正成騎馬像”など、正成フィーバーが続いた。

そして1945年の敗戦と共に、呪縛が解かれて価値観は180度転換、教科書の正成美談は墨で塗りつぶされた。
戦前の反動からか、正成はタブー視され、長い無関心の時期が続き、忘れかけていた。





写真は、上から観心寺に保存されている、正成ゆかりの鎧、千早赤阪村郷土資料館に展示されている、正成の兜、及び腹巻。
ところで最上段の写真は、観心寺に残る重要文化財で、正成ゆかりの鎧“藍韋威肩赤腹巻”(あいかわおどしかたあかはらまき)と呼ばれ、戦前には国宝であったものが、戦後は重要文化財に指定替えされた。

しかし戦後も進むと、次第に正成研究も進み、本来の悪党としての性格が強調され、生き生きとした本筋の正成像が甦ってきた。
ということで、中世史の中で客観的に位置づけられるようになり、悪党正成が現代に息を吹き返した。

戦後、国粋主義が嫌われ、国家神道の存在が否定されたにもかかわらず、戦争推進の本尊として崇めたてられた正成像は、何故か破壊されることもなく、存続した。
正成は、あくまで戦争推進派に利用されたということであり、正成に対する公正な評価がゆるぎなく生きながらえたのは、民衆をバックにした正成イズムは混乱期を通じても、不滅であった証しであると云える。


楠木正成物語 正成と民衆とのかかわりとは!

2006年11月11日 | 歴史
正成ネットワーク成立の背景には、公家・武家以外の第三の勢力である“民衆の力”が大きくかかわっていた。
従来、正成の活躍は「尊皇の志・忠義」と「既成の概念にとらわれない戦法」という個人の能力として語られることが多かったが、近年の研究で、当時の民衆が、正成に大きな力を貸していたことが明らかになってきている。

太平記には「正成は民家には火を放たなかった」との記述があるが、正成は破天荒に見える戦いぶりでも決して無差別ではなく、民衆の心をつかんでいたからこそ、民衆の力を得たと云える。

右上の写真は、正成・正行 “桜井の駅”での別れのシーン。
歴史は人を作るともいわれている。歴史の大きな流れの中で、歴史の節目に現れて、歴史を大きく動かしてきたものは、一個人のリーダーシップである。
国民的人気を博した戦国武将である、信長、秀吉、家康などはその典型的リーダーたちであった。

一方で、下克上と呼ばれる時代に地域によっては、守護大名の権力が弱体化する中で、生産力が上昇し経済力をつけた集落が共同体を構成し、いわゆる「ムラ」社会が始まった。
特に河内地域は原始・古代以来、豊かな歴史をもつ重要な生活圏であり、近世では経済の最先進地として、すぐれた文化も生み出した。

そして貨幣経済の浸透による自立手段の確保、文字の習得による記録と伝達手段の獲得などが、上から抑圧されるだけだった民衆がネットワークを形成し、権力者に立ち向かう勇気と力を与えてくれた。その中心にいたのが楠木正成であった。

正成は、民衆の力をバックに鎌倉幕府を倒したのも束の間、“建武の親政”では後醍醐天皇の独断がアンチ民衆を招き、人心は雲散霧消し、足利尊氏が九州で再挙兵した頃には、民衆は武士と共に、尊氏側に味方していた。

正成は、後醍醐天皇に尊氏との和睦を提言するも、受け入れられず、「正成存命は無益なり」と印し、自らの信念を貫き、湊川の死地へ向かったのも、民衆が天皇から離反してしまったことを、天皇に見せしめ、思い至らすためではなかったか?
戦国時代の下克上も含め、民衆の力がその後の歴史を変えたことから、正成の死は決して無駄ではなかったとも云える。
生きるも死すも、民衆と共にあることを歴史は物語っている。


楠木正成物語 忍者・甲賀者の足跡を訪ねて

2006年11月10日 | 歴史
正成ネットワークの有力な一角を占めていたとされる、伊賀・甲賀忍者について、今回は甲賀忍者・甲賀者の足跡を訪ねた。



写真は、三重県・滋賀県ほか“忍者の里”地図。
忍者の起源は、修験道の行者によって創始された山伏兵法が根本にあり、正成も山伏兵法を学び、ゲリラ合戦に応用したと云われている。
南北朝の争乱に敗れた敗残者が三重県伊賀・滋賀県甲賀に逃げ延びて、自衛手段として山伏兵法をはじめ、各種武術・火術・薬術を学び、忍者に即応した形に体系化したと考えられている。



写真は、甲南町の忍者屋敷・望月家居宅。
ここ甲賀市の甲南町には、53家の甲賀忍者がかつて活躍し、その筆頭格が現在でも屋敷が残る、望月出雲守で、写真の居宅は元禄年間に建てられたもの。



写真は、忍者屋敷内の抜け穴。
外観はありふれた平屋建ての装いだが、屋内は3階に区階され、各部屋のあちこちに隠し戸棚・抜け穴・はしご・落とし穴・まわり戸など外敵に備えた特殊で複雑な仕掛けが施されている。




写真は、“甲賀流忍者屋敷”に保存されている、自衛手段として装着していた手裏剣及び忍び熊手。
甲賀忍者は、様々な特殊訓練を行い、写真のような特殊な道具も所持し、使いこなし、又火薬など化学の知識を持つ技術集団としての一面をも持っていた。
地域の有力豪族であった、有力忍者は大名・領主に仕えた諜報活動に伴う危険及び豪族なるが故に外敵も多く、自衛手段として、常に外敵侵入に備えていた。
忍者は戦うよりも逃げることに重点を置いていたため、少しでも身軽に、夜陰に紛れやすい衣装で敵地に忍び込み、内情を探り、破壊工作をする集団で、身体能力に優れ、厳しい規律に律せられた諜報集団でもあったと云う。

滋賀県甲賀・三重県伊賀は隣り合わせの地域だが、山に囲まれ、外敵が侵入しにくく、隠れすむのに好都合で、山伏兵法を活用するのに適した地形であった。
特に甲賀者は火薬・薬物の技術に秀でていた忍者集団と云われ、瀬古薬師堂に残されていた古文書には火薬の配合方法が記され、幻の流星は夏の風物詩として、配合通り復元したと云う。



写真は、毎年夏に打ち上げられる小型花火の写真で、忍者の緊急な合図として打ち上げられたものと見られている。
関ヶ原の合戦で、徳川方として伏見城に籠城して戦い、戦死した甲賀武士100人のうち、望月氏ほか10人の位牌が、甲南町慈眼寺に残され、石碑が建てられている。



写真は、慈眼寺に残された10人を祀る石碑。
これら戦死者100人の子孫は、甲賀百人組を組織し、江戸時代を通して、江戸城本丸・大手門の警護に起用されたように、崇敬を受けていたと云う。

以上のトピックは、10月29日に甲南町主催・甲賀市と滋賀県共催の“忍者の里山・ウォーク”に参加して、甲南町忍者ゆかりの地を訪ねた断片的体験記録。


楠木正成物語 正成ネットワークとは!

2006年11月09日 | 歴史
楠木一族は、幕府御家人のような、本拠地を持っていなかっただけに、あちらこちらに拠点となる館或いは挙兵に当たっての潜伏地を持っていたかもしれない。
若しそうであれば、拠点が散在していたことも幸いし、正成は中世のこの時期に、早くも情報の重要性に気づき、誰よりも早く情報を先取りすることを信条とするほど、情報戦略の最先端を走っていたと云える。

正成は悪党として培った人脈で、各地を行き来する山伏・運搬人・民衆などと連携し、情報を迅速に伝える“ネットワーク”を張り巡らせていたことが分かっている。そして正成は民衆のニーズを的確につかみ、民衆と結束することにより、民衆のリーダーとしての役割を果たしていた。

千早城の戦いで、100日間の籠城を果たしえたのも、水源・食糧補給ネットワーク及び補給路の安定確保を、長期戦術の要件としていたからこそと云える。
又正成が幕府軍と激闘している最中、後醍醐天皇の皇子・護良親王自筆で、正成応援を指示する書状が、吉野山の拠点から金剛寺の衆徒に発せられていた情報を、正成は激戦地でつかんでいた。

右上の写真は、名張市駅前の観阿弥創座の地を記念したもの。
一説によると、正成の妹の子が“能楽”を興した観阿弥(正成の甥)であり、観阿弥の父は三重県伊賀・服部氏族で、観阿弥の子が世阿弥という能楽一族であり、かつ伊賀といえば、スパイ活動で名高い忍者・伊賀者を連想する。
楠木家は、伊賀忍者及び滋賀県甲賀忍者と結びつき、忍びの術を正成得意のゲリラ戦術に取り込んでいたかもしれない。
更に能楽者は全国各地を巡業していただけに、大名のスパイとして雇われ、情報収集目的も含めて、各地を興行したとも云われている。
正成は、これらの情報を入手していたかもしれない。

以上、情報ネットワーク作りに恵まれた環境・人的繋がりを巧みに活用して、戦略ネットワークにまで発展させたと云える。

楠木正成物語 日本の行末を左右した正成パワーとは!

2006年11月08日 | 歴史
しばらく旅行中で留守をしましたが、楠木正成物語を再開します。
正成処世術の本質は、純粋な忠臣・純粋な勤皇を志し、足利尊氏はじめ源頼朝・織田信長・豊臣秀吉・徳川家康など天下人の本質とは違っていた。彼らは文字通り天下取りを目指した武将たちであった。
一方正成は天皇のために命を賭けて戦った数少ない著名な武将。
右上の写真は、正成の肖像画。

鎌倉から江戸までの武家政治時代の価値観は、特に主君と家臣の関係において、“忠誠心”が武士道の徳であり、命をも惜しまない“忠臣”を本意とした。
明治時代になると、それまでの主君対家臣の関係が消滅し、代わって国家対国民の関係がクローズアップされ、“家”から“国家”の概念へと発展した。
明治政府は、国民に対して富国・強兵を国家方針として打ち出し、又戦中には軍国主義が浸透し、国民上げての戦時非常事態体制の持続、そのために国家への忠誠心を植えつける必要が生じた。

忠誠心といえば、広く一般大衆にも知られていた楠木正成が、格好の模範モデルであり、彼の忠臣こそ国民的代表として担ぎ上げられた。
忠臣といえば、正成以外では赤穂浪士を連想する。
どちらも主君が“ダメ人間?”で、それと知りつつそれでもなお主君に殉じた共通点がある。

後醍醐天皇に殉じた、正成の節義・忠臣は、戦前には国民的ヒーローとしてもてはやされ、悪口を言おうものなら国賊扱いされたが、戦後はその反動もあり一転、忠義に殉じた天才戦術家としての高い評価は、“右翼呼ばわり”されかねないほど評価が大きく揺れた。

正成の盲目的忠臣・自己犠牲は、確かに現代人の理解を超えたものであった。
ということで、正成は戦前・戦後を通じて時代の変化に翻弄され、激しく浮き沈みしたと云える。
いわば国家によって利用された、正成にとっては大変迷惑な取り扱い・評価であったと云える。


楠木正成物語 小休止

2006年11月03日 | Weblog
本日から週明けまで、東北地方へ出かけますので、その間投稿をお休みします。
といいますのは、大好きな縄文遺跡を訪ねる旅ですので悪しからず。
若し縄文・旧石器時代の遺跡に関心のある方は、こちらの弊ウェブページをご覧ください。

「http://www.hi-ho.ne.jp/mizuno/」
「http://homepage3.nifty.com/tmizuno/」

コメントはウェルカムです。


楠木正成物語 後醍醐天皇のブレーンは誰?

2006年11月02日 | 歴史
後醍醐天皇は、皇位についてから22年の間、笠置山・隠岐・吉野と、逃亡・流人生活を続けたが、心身共に疲れ果て、52歳で崩御。
歴史上も「後醍醐天皇を不徳の主君」とする評価が定着しているが、楠木正成が共に戦った後醍醐天皇とは?
朱子学の熱狂的な信者であった後醍醐天皇は、朱子学の強い影響を受け、「尊王賤覇」(天皇以外の覇権を否定)思想から、自らを正統な為政者と位置づけ、生涯打倒幕府に燃えた。

“正中の変”・“元弘の変”と二度の倒幕計画が発覚したが、ついに幕府を倒し、“建武の親政”を遂げた。しかし僅か3年で崩壊してしまった。何故か?
建武の親政は、表面的には王朝復古的であったが、実質は中華皇帝的な天皇独裁を目指し、性急な改革・公家に篤い恩賞の不公平・武家を排除した政権運営などが自他各方面の不満を呼び、急速に政権の求心力を失った。

足利尊氏を中心とした圧倒的な武家時代に、公家寄りの建武の親政を強行したこと自体、時代錯誤であったことに気づかず、朱子学を背景に天皇正統論をかざして、“自己中”に終始した。
右上の写真は尊氏邸宅跡に立つ足利尊氏像。
正成は当時の時勢・時流を見極め、わきまえ、建武の親政の混乱は全て後醍醐天皇の政治にあることを見抜き、混乱の打破には武家政治に戻し、その中心は足利尊氏以外にいないと信じ、尊氏との和睦を後醍醐天皇に進言したが、受け入れられなかった。

一方側近を含め、公家たちは「錦の御旗さえあれば、その威光で戦いは勝利する」と極めて非現実的で低次元の認識で、正成の提言を受け入れる素地を持っていなかった。
後醍醐天皇政権とその取り巻きは、既に弱体化していた鎌倉幕府は倒したものの、建武の親政崩壊後は、南北朝時代へと混乱を引きずっていった。

楠木正成物語 楠木家と天皇とのかかわり合い!

2006年11月01日 | 歴史
次に物語を正成に戻して、楠木家と天皇とのかかわり合いについて、トレースし、分かる範囲で関連付けてみたい。
楠木氏は、敏達天皇の孫・橘諸兄を祖とする橘氏の流れを汲み、河内国の豪族とされる説は、楠木家の出自について数ある諸説の一つとして注目される。
右上写真は、後醍醐天皇の肖像。

足利尊氏寄りの歴史書“梅松論”には、後醍醐天皇の旗揚げに応じた武士たちの名の中に、楠木の名前があったことに、後醍醐天皇は安堵したという話がある。
というのも、後醍醐天皇に仕え、ブレーンの一人であったとされる“文観上人”は、正成の教育係であったとされる観心寺の僧“滝覚坊”とは師弟の関係にあったと云う。正成は滝覚坊から朱子学を学んだとされる。

又楠木家と関係の深い金剛寺や楠木家の菩提寺である観心寺は、歴代天皇の庇護が篤かったと云われていることを合わせて考えると、両者は以前から何らかの形で結びついていたと云える。
或いは、観心寺が後醍醐天皇の大覚寺統の系列であり、天皇の近臣がここで正成に出会い、正成の非凡さを知って、後醍醐天皇に推挙したかもしれない。
彼の非凡さの中には、武術も含まれていたと考えられ、当時後醍醐天皇の最大の悩みであった軍事力・軍事戦術を支える武将として目を付けられたかもしれない。

特に正成が攝津・和泉・河内方面の悪党であったことから、反幕府側の代表的存在である、悪党を利用しようと思っても不思議ではない。
一方正成は、天皇と結びつくことによる、損得勘定・出世などを考えたとは思えない。
朱子学を原点とした自身の信条“尊皇・忠臣”、或いは単純に天皇に巡り合えた感動こそ、正成行動エネルギーの源泉となったかもしれない。