茶臼山古墳は琵琶湖の湖尻西岸、音羽山系から派生して東方の琵琶湖に向かう小丘陵上の先端部に立地。
本古墳は大和王権の前方後円墳と同一様式で、安土町の瓢箪山古墳、湖北町の若宮山古墳、志賀町の和邇大塚山古墳などと共に、琵琶湖を望む湖上交通の要衝の地に築かれている。
東西に主軸をもつ東向きの前方後円墳で、膳所の西方の山手・秋葉台上にある、全長約122m・後円部径70m・高さ8mほどの規模で、被葬者の強大な勢力が思い起こされる。
写真は上から、茶臼山公園をバックにした茶臼山古墳全景で、比叡山・比良山が覗く光景、古墳墳頂の現在の光景、古墳全景の右側にわずかに覗く三上山、墳頂から望む琵琶湖風景。
茶臼山古墳周辺は、国指定史跡公園となっており、散策コースとして市民に親しまれている。
本古墳は、茶臼山(標高約155m)中腹にある県下第2位の規模を誇る大古墳。
古墳時代当時は、琵琶湖を眼下に絶景が広がり、自然にこだわる、当時の豪族や被葬者の面影が偲ばれる。
墳丘の西側から南側にかけての丘陵高所部分のみ幅5~10mの周壕がめぐり、埴輪や葺石が出土したと云う。
写真は小茶臼山古墳碑及び古墳正面。
茶臼山古墳の南方約200mに築かれた直径18mの円墳で、茶臼山古墳の陪塚とみられている。
写真は、茶臼山古墳内の秋葉神社及び本古墳の前方部に当たる秋葉神社登り口。
古墳東部にあたる秋葉神社は、除火神として祀られており、さらに南西約100mのところには、上述の小茶臼山古墳が所在する。
古墳時代前期に属する4世紀末から5世紀初頭のものと推定され、彦坐王(ひこいますおう)とも大友皇子一族の墓とも云われているが、被葬者については明らかではない。
しかし大友皇子の陵候補地となっていた茶臼山古墳には,大友皇子や皇子に殉じて葬られたた重臣達の塚があるらしい。
“茶臼山古墳”は日本の古墳の名称で、前方後円墳の形が“茶臼”(抹茶を引く石臼のこと)に見えることから名付けられたと云う。各地に同名の古墳があるため字名などをつけて呼称する。
本古墳は大和王権の前方後円墳と同一様式で、安土町の瓢箪山古墳、湖北町の若宮山古墳、志賀町の和邇大塚山古墳などと共に、琵琶湖を望む湖上交通の要衝の地に築かれている。
東西に主軸をもつ東向きの前方後円墳で、膳所の西方の山手・秋葉台上にある、全長約122m・後円部径70m・高さ8mほどの規模で、被葬者の強大な勢力が思い起こされる。
写真は上から、茶臼山公園をバックにした茶臼山古墳全景で、比叡山・比良山が覗く光景、古墳墳頂の現在の光景、古墳全景の右側にわずかに覗く三上山、墳頂から望む琵琶湖風景。
茶臼山古墳周辺は、国指定史跡公園となっており、散策コースとして市民に親しまれている。
本古墳は、茶臼山(標高約155m)中腹にある県下第2位の規模を誇る大古墳。
古墳時代当時は、琵琶湖を眼下に絶景が広がり、自然にこだわる、当時の豪族や被葬者の面影が偲ばれる。
墳丘の西側から南側にかけての丘陵高所部分のみ幅5~10mの周壕がめぐり、埴輪や葺石が出土したと云う。
写真は小茶臼山古墳碑及び古墳正面。
茶臼山古墳の南方約200mに築かれた直径18mの円墳で、茶臼山古墳の陪塚とみられている。
写真は、茶臼山古墳内の秋葉神社及び本古墳の前方部に当たる秋葉神社登り口。
古墳東部にあたる秋葉神社は、除火神として祀られており、さらに南西約100mのところには、上述の小茶臼山古墳が所在する。
古墳時代前期に属する4世紀末から5世紀初頭のものと推定され、彦坐王(ひこいますおう)とも大友皇子一族の墓とも云われているが、被葬者については明らかではない。
しかし大友皇子の陵候補地となっていた茶臼山古墳には,大友皇子や皇子に殉じて葬られたた重臣達の塚があるらしい。
“茶臼山古墳”は日本の古墳の名称で、前方後円墳の形が“茶臼”(抹茶を引く石臼のこと)に見えることから名付けられたと云う。各地に同名の古墳があるため字名などをつけて呼称する。