近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

大津市膳所秋葉台の茶臼山古墳とは!

2009年03月30日 | 歴史
茶臼山古墳は琵琶湖の湖尻西岸、音羽山系から派生して東方の琵琶湖に向かう小丘陵上の先端部に立地。

本古墳は大和王権の前方後円墳と同一様式で、安土町の瓢箪山古墳、湖北町の若宮山古墳、志賀町の和邇大塚山古墳などと共に、琵琶湖を望む湖上交通の要衝の地に築かれている。

東西に主軸をもつ東向きの前方後円墳で、膳所の西方の山手・秋葉台上にある、全長約122m・後円部径70m・高さ8mほどの規模で、被葬者の強大な勢力が思い起こされる。









写真は上から、茶臼山公園をバックにした茶臼山古墳全景で、比叡山・比良山が覗く光景、古墳墳頂の現在の光景、古墳全景の右側にわずかに覗く三上山、墳頂から望む琵琶湖風景。

茶臼山古墳周辺は、国指定史跡公園となっており、散策コースとして市民に親しまれている。

本古墳は、茶臼山(標高約155m)中腹にある県下第2位の規模を誇る大古墳。

古墳時代当時は、琵琶湖を眼下に絶景が広がり、自然にこだわる、当時の豪族や被葬者の面影が偲ばれる。

墳丘の西側から南側にかけての丘陵高所部分のみ幅5~10mの周壕がめぐり、埴輪や葺石が出土したと云う。





写真は小茶臼山古墳碑及び古墳正面。

茶臼山古墳の南方約200mに築かれた直径18mの円墳で、茶臼山古墳の陪塚とみられている。





写真は、茶臼山古墳内の秋葉神社及び本古墳の前方部に当たる秋葉神社登り口。

古墳東部にあたる秋葉神社は、除火神として祀られており、さらに南西約100mのところには、上述の小茶臼山古墳が所在する。

古墳時代前期に属する4世紀末から5世紀初頭のものと推定され、彦坐王(ひこいますおう)とも大友皇子一族の墓とも云われているが、被葬者については明らかではない。

しかし大友皇子の陵候補地となっていた茶臼山古墳には,大友皇子や皇子に殉じて葬られたた重臣達の塚があるらしい。

“茶臼山古墳”は日本の古墳の名称で、前方後円墳の形が“茶臼”(抹茶を引く石臼のこと)に見えることから名付けられたと云う。各地に同名の古墳があるため字名などをつけて呼称する。







草津市の狭間遺跡とは!

2009年03月28日 | 歴史
狭間遺跡は草津市矢橋町に所在し、浜街道と矢橋北交差点周辺に位置している。

遺跡の北側を流れる北川の南側に形成された微高地上に立地し、古墳時代においては、当時の湖岸汀線近くにあたると見られる。







写真は、本遺跡跡地に建てられた草津総合病院とその周辺及び当時の発掘調査現場。

過去3回発掘調査が実施されており、主に古墳時代前期の溝跡や土坑が検出されている。

今回の調査では、これまでの狭間遺跡の発掘調査で確認されていた古墳時代前期ならびに平安時代の遺構とともに、古墳時代中期後半~後期初頭頃(5世紀後半~6世紀初頭頃)の3基の古墳を検出した。

3基の古墳は、いずれも後世の土地利用の変化によってその盛土が削り取られ、古墳として区画するための周濠のみが痕跡として地表下に残されていた。

このため、古墳築造当時の盛土や被葬者が葬られる施設などを検出することはできなかったと云う。







写真は上から、狭間遺跡周濠の木製品出土状況、出土した鳥形木製品及び刀形木製品。

古墳の周濠からは、古墳の築造当時に墳丘上に立て並べられた埴輪(円筒埴輪・朝顔形埴輪・形象埴輪)の破片のほか、墳丘上や古墳の周囲で使用された各種の木製品が多数出土。

特に、1号墳・3号墳の周濠からは、鳥形・刀形などの「木製祭具」が見つかった。


「木製祭具」とは、古墳の墳丘上やその周囲に、土製の埴輪と併用して立並べ、外界とその内側を結界し、内部を聖域化するとともに、古墳やその被葬者の権威を示すものや、古墳上で一時的に執り行われた儀礼行為に用いられた祭具なども含まれていると考えられている。

県内では、守山市服部遺跡内の19号墳・23号墳等や野洲市の林ノ腰古墳・栗東市椿山古墳・狐塚3号墳等でも見つかっているが、狭間遺跡の古墳から出土した木製品は、これらに比べ、その種類が豊富で、古墳時代中頃における首長層の葬送儀礼や古墳築造当時の姿を、復元・研究する上で貴重な資料。



栗東市の代表的古墳とは!

2009年03月25日 | 歴史
栗東市には現在約80基に上る古墳の存在が知られているが、横穴式石室を持つと見られる後期古墳が80%ほどを占めている。

中でも、古墳発生期の最古式の古墳が築造されていた地域に注目したい。



写真は、栗東市野洲川左岸周辺の地図。

栗東市内の国道1号線と8号線が分岐する“大橋”で、その東の高野・辻の地域は、両国道と野洲川に囲まれたところで、ムラの首長が、早くも大和王権と同盟関係があったことを示していると考えられている。

野洲市・守山市・栗東市に跨る、野洲川両岸に広がる弥生時代後期から古墳時代前期の集落・墳墓は、大和王権の戦略拠点として組み込まれていたことを物語っている。





写真は、岡山古墳から出土した中国製の三神三獣鏡と右の盤龍鏡。

この地域の代表的古墳として、岡山古墳と亀塚古墳があり、岡山古墳は“六地蔵”の丘陵に築かれた円墳で、4世紀前半の古墳と見られ、主な出土品には、中国製の“天王日月獣文帯三神三獣鏡”と“盤龍鏡”の2種類があり、その一つは大分県と三重県の古墳出土の鏡と同氾関係が見られると云う。







写真は上から、栗東市出庭の私有地に所在する亀塚古墳、本古墳樹木の間から覗く三上山及び三神三獣鏡。

亀塚古墳は辻遺跡の西北1.2kmほどにあり、4世紀前半の前方後円墳で、国産の三神三獣鏡が出土したことで注目された。特にこの鏡は、愛知県・京都府・鳥取県の古墳と同氾関係にあるらしい。

岡山古墳・亀塚古墳は位置から見て、市内の岩畑・辻・高野遺跡と深い関わりを持った首長の古墳と見られている。





写真の岩畑遺跡は、高野神社の東側一帯に広がる野洲川の自然堤防上に立地している。

下の写真が、高野神社が所在する森で、北東側には三上山を望める農耕地が広がる。三上山は当時からシンボリックな御神山として神聖な存在。

方形の竪穴住居89棟、前方後方型周溝墓1基などがみつかり、弥生時代末から古墳時代後期まで続いた集落であることが判明。

古墳時代前期の竪穴住居には床に炉があり、そこから土師器が出土し、古墳時代後期のものからは、壁面に竈が設置され、須恵器が出土したと云う。



写真は、栗東市出土文化財センターに展示された岩畑遺跡の出土遺物。

岩畑遺跡からは鉄製品が高い出土率で見つかっており、鎌・刀子・鉄鏃など武器を持ったムラであったことが分かる。

鉄鏃は特に注目され、狩猟にも使われるが、各地の古墳では武器類とともに副葬されているので武器と見てよい。

近江地域の他の集落遺跡と比較しても、きわめて高い比率で鉄鏃が出土している。

稲作のかたわら、かなりの武器を常備していたムラであった可能性が高く、岩畑遺跡が東海道と東山道の両道が交差する位置にあることから、軍事的にも重視された集落であったと云える。

岩畑遺跡の西500mほどに高野遺跡があり、中ノ井川と葉山川に挟まれた平地にある。古墳時代前期を中心に後期までの40余棟の竪穴住居が検出されている。







写真は上から、栗東市辻遺跡が見つかった、現在の開発現場、ここから望む三上山及び発掘当時の様子。

辻遺跡は、岩畑遺跡の北、国道8号線と県道が交差する辻交差点付近にあり、古墳時代前期から8世紀にかけて営まれた遺跡。

岩畑・高野・辻の3遺跡とも、当時としてはかなり規模の大きい集落であったと思われる。








守山市の欲賀南古墳とは!

2009年03月23日 | 歴史
平成18年4月から区画整理事業および宅地造成工事に伴い発掘調査を実施した結果、守山市欲賀町の欲賀南遺跡で、古墳時代初頭(3世紀後半ごろ)に築造されたと見られる古墳跡が発見された。





写真は、欲賀古墳発掘現場の現地説明会風景。

本古墳は墳丘の直径が約25mの円墳で、幅6~7mの周濠が巡らされている。また高さ約1mの墳丘が残っており、盛土の痕跡から、さらに高い墳丘の古墳であったことが窺われる。

周濠などから古墳時代初頭の土器とされる庄内式土器の破片が出土した。

墳丘の斜面には直径10~20cmの穴が約60個見つかり、装飾品を立てた可能性があるという。

本古墳は、野洲川の旧主流であった境川を見おろす、やや小高い土地に造られていることから、一帯の有力者の墓であったと推定される。

弥生時代中期の竪穴住居跡から石鏃や土器が出土したほか、墳丘の北側から溝・土坑と壷・甕・磨製石斧・鉄刀なども見つかっている。

本古墳周辺には方形周溝墓の群集地が6カ所あり、市教委は「弥生時代の周溝墓に見られる、伝統的な四角い形の墓を踏襲せず、円形を採用している!」として、有力な豪族の墓とみている。

市教委は「弥生から古墳時代へ移る過渡期の墳墓の一つ」としている。

考古学者の一人は、「古墳時代初期にこれだけ立派に整った円墳は国内では例がない!」という。その上で「湖南地域は方形周溝墓の発祥の地ともいわれ、円墳が見つかったことで、前方後円墳の発祥にも繋がる可能性が出てきた!」と話している。


滋賀県守山市の古高古墳群とは!

2009年03月21日 | 歴史
次に滋賀県守山市の古墳群を訪ねてみる。

守山市古高町の“古高古墳群”は、守山市の南西端の古高工業団地内にある。
本古墳群は狐塚古墳・松塚古墳・幸田塚古墳の3基で構成されており、昭和52年に守山市の史跡に指定された。



写真は、守山市古高町の狐塚古墳。

狐塚古墳は、これまで考えられていた円墳ではなく、長辺14.5m・短辺9.5m・高さ約1.3mの細長い長方形墳。



写真は、浮気町の松塚古墳。

市内最大級の円墳で、直径が約37m・幅6~8mの周濠が巡っていて、これまで市内最大であった服部古墳の直径25mの円墳を超える。

本古墳の周濠からは埴輪の破片や須恵器が出土し、築造された年代は5世紀後半と推定されている。

又周濠の一部には拳大の川原石を使った葺石が残存しており、当時は古墳の表面が石で覆われていた。

一方、西に位置する幸田塚古墳は、直径約10m・高さ約2m程の円墳と考えられている。

古高古墳群は、これまで、古墳時代中期(約1600年前)から後期(約1500年前)にかけて築かれたと考えられてきた。しかし、狐塚古墳の墳形が長方形であることや墳丘から古式土師器が採集されていることから、古墳時代前期(約1700年前)から中期にかけての古墳である可能性も考えられると云う。

古墳群は、弥生時代後期末(約1950年前)から古墳時代前期にかけて、拠点集落として栄えた下長遺跡の中にあり、下長遺跡の墓域とみられる塚之越遺跡にも隣接している。
おそらく、一帯を治めた首長層が、集落の南側に、自らの墓域を築いたと考えられる。

古高古墳群は市内に現存する数少ない古墳であり、この地域の古墳時代を考えるうえで大切な遺跡。





野洲市の大岩山古墳群とは!そのⅤ

2009年03月19日 | 歴史
これまで巡ってきた大岩山古墳群を構成するここの古墳を念頭に、古墳群全体像・地域性・特殊性などを以下確認しておく。









写真は上から、三上山の勇姿、奥津盤座、御上神社本殿及び境内。

現在でも三上山山頂に“奥津盤座”が残り、山麓の“御上神社”で神を迎える祭祀を行なう、“山上祭”が行われていると云う。

野洲平野に秀麗な姿を見せる三上山は、“神のいます山”として信仰されてきた。“天之御影神”が三上山に降臨したところから祭祀がはじまったと云う。

「八百万の神々が集うところ」とされる神話上の川が、琵琶湖南東岸に注ぐ野洲川という説があり、又野洲川北側は“天照大神”が住まったところとの説もある。

更に三上山山麓には24個の銅鐸が埋納されていたが、ヤマト王権以前の近江国野洲川付近に古代王朝・邪馬台国があったという説の根拠となっている。

多量の銅鐸が埋納された由来に関しては、大岩山平野に拠点を置いた首長が、各村の宝である銅鐸を集めて・高台に埋納したとか、稲豊作を願い・豊作への感謝のまつりの道具を不要な際に土中に埋めて保管したとか、畿内地方の東入口に悪しきものを排除することを願って多量の銅鐸を埋めたとか諸説紛々。

いずれにしても、銅鐸は大和王権とをつなぐ権威・権力の象徴として、近江国に君臨していた情況を思わせる。

一族の首長たちの奥津城として大岩山古墳群を営々と築いてきたのは、どのような古代氏族だったのだろうか。野洲国の国造(くにのみやつこ)だった“近江安直”(おうみのやすのあたい)という地方豪族の可能性が指摘されている。

『古事記』などの伝承では、天照大神の子孫が安直一族とされている。

6世紀後半に築造された宮山2号墳を最後に、この地域での首長墓の築造は突然終わりを迎える。

その理由として、大岩山古墳群がある地域からやや南に離れた小篠原を中心とする一帯に新しい勢力が勃興し、その勢力がこの地に伸張してきたためと推察されている。

ちなみに、小篠原には全長49mの前方後円墳があり、越前塚古墳と呼ばれる。この古墳の横穴石室は6世紀前半の様相を呈しているとのこと。

さらに近くの妙光寺塚越古墳も6世紀後半の築造とされている。


野洲市の大岩山古墳群とは!そのⅣ

2009年03月17日 | 歴史
大岩山古墳群巡りを更に続ける。









写真は上から、甲山古墳全景、石室入口、家型石棺を納めた玄室内部及び馬具など出土遺物。

直径30mほど・高さ約8mを測る6世紀中頃の円墳で、内部主体は西を入口とする横穴式石室。
滋賀県内では最大の横穴式石室であり、石棺も最大と云われる。

低い入り口(羨道)を6mほど入っていくと中は長さ約6.6m・幅2.9m・高さ3.3mの玄室があり、そこには大きな凝灰岩を刳り抜いた長さ2.6mの刳抜式家型石棺がおさめられている。

石材は円山古墳と同じく、熊本県宇土半島の馬門石製で、縄掛突起を持ち、石棺内外面とも朱とベンガラによって赤く彩色されていたと云う。

平成7年の発掘当時、玄室の床面には玉石を敷き、その上には朱や雲母が散乱していたと云う。

副葬品には装身具として冠や装飾太刀に取り付ける飾り金具や金糸、各種の玉類が、また武器・武具としては大刀・小刀・矛・鉄鏃・などが、さらに馬具として鏡板付きクツワや馬甲などが出土したと云う。特に金糸は日本最古のもの。



写真は、宮山2号古墳。

大岩山古墳群の中で最も東寄りに位置する古墳で、銅鐸博物館に隣接している。

昭和37年に銅鐸が発見された同じ大岩山で、新幹線工事の土取り作業中に見つかった円墳。周囲の土取りが進み、現存する墳丘は直径約18m・高さ3.5mで、わずかに石室と墳丘の一部を残すだけである。

羨道の奥に長さ3.3m・幅1.8m・高さ2.5mの玄室がひらけ、花崗岩の板石を組み合わせた棺がおさめられている。
出土した土器から6世紀後葉に造られた古墳時代後期の古墳。






野洲市の大岩山古墳群とは!そのⅢ

2009年03月15日 | 歴史
代表的な大岩山古墳群の年代別巡りを更に続けます。





写真は、亀塚古墳現場及び本古墳の整備工事中看板。

富波古墳の東約50mの平地に二段築成で築かれた帆立貝形の前方後円墳。

墳丘の規模は全長30m・現存の高さは4.5mと推定され、周囲に幅9mの濠がめぐられていた。墳丘から古墳時代中期後半頃の円筒・朝顔形・形象などの埴輪が出土しており、5世紀後葉から末頃に築かれたと考えられている。

滋賀県野洲市教委は、国史跡の一つである亀塚古墳の墳形が、従来考えられていた帆立貝形ではなく円墳である可能性が高い、と発表した。

市教委は同古墳を、野洲川右岸地域に勢力を誇った有力な豪族の墓とみている。

亀塚古墳の半径150メートル以内には、同古墳群の冨波古墳、古冨波山古墳があり、市教委は「大岩山古墳群の形成過程や首長系譜の変遷を知る上で重要だ!」としている。

国道8号線の脇に桜生(さくらばさま)史跡公園があるが、公園の中には大岩山古墳群の中の天王山古墳・円山古墳・甲山古墳がある。

いずれも近江を代表する後期古墳であるが、古墳の一部が崩れたため、平成6年保存のため発掘調査と整備を行い、史跡公園として公開している。







写真は左上から、円山古墳全景、石室入口及び刳抜式家型石棺を持つ玄室内部。

甲山古墳の東南に位置する、直径28m・高さ約8mの円墳で、6世紀初めに築造されたと推定され、内部主体は西に入口を向ける横穴式石室。

羨道を入ると長さ約4.3m・幅約2.4m・高さ約3.1mの玄室があり、凝灰岩を刳り抜いた長さ2.8mの刳抜式家型石棺がおさめられている。

石材は熊本県宇土半島の馬門石製で、縄掛け突起を持ち、全体には赤色顔料が塗られていたと云う。

床面には玉石が敷かれ柱穴が検出され、床面からは鉄製武器を中心に多量の遺物が出土。銀製の垂飾付耳飾・螺旋状飾金具・銀製空玉・ガラス玉などのほか、小刀・矛・鉄鏃・冑などの武具が出土。

玄室は花崗岩を少しずつ斜めに高く積んでいる。棺は遠く大阪・奈良の県境にある二上山から運んだものと云う。





野洲市の大岩山古墳群とは!そのⅡ

2009年03月13日 | 歴史
以下代表的な古墳群を年代別に概観してみる。



写真は、富波古墳現場。

大岩山古墳群の中で一番古いとされる富波古墳は、平地に築かれた前方後方墳。
昭和57年の発掘調査で判明した古墳の規模は墳長約42m・後方部径約22m・前方部幅約20m・くびれ部幅約9mとのこと。

外周に築かれた幅4.5~7.0mの溝を含めると、全長は52.4mで、弥生墳墓から古墳にいたる過渡的な様相をもった古墳時代前期に位置づけられる。

周濠くびれ部の付近で検出された井戸状の遺構から、近江地方の古墳時代初頭の土器・甕や、東海地方の特徴を持つ丹塗りの壷片が出土している。

現在は、写真で見るように墳丘が完全に削平され整地されているが、わずかに解説板によって、この場所に古墳があったことを知るばかり。





写真は、古富波古墳の現在の光景。

富波古墳の南約150mのところに築かれた古富波古墳は、古墳時代前期(4世紀初頭頃)に築造された直径約26mの円墳。木棺直葬と推定されている。

明治39年、工事中にこの古墳の盛土から3面の三角縁神獣鏡が見つかった。
野洲川流域の首長墓で、最初に三角縁神獣鏡が配布された古墳とされる。

現在は、写真のように住宅街の中の児童公園となっていて、公園脇に解説板が立っている。



写真は、大塚山古墳。

円山・甲山などの古墳がある丘陵北側の微高地に位置し、古くは王塚山、茶臼山と呼ばれていたらしい。

現在は直径55mの円形の墳丘が残っているにすぎないが、周囲に巡らされた溝から小さな前方部をもつ帆立貝式古墳の可能性もあると云う。

外周には幅約18~22mの水田が馬蹄形に巡らされ、この部分を周濠と見なすと、古墳の大きさは110mとなり、大岩山古墳群の中で最大。

付近から中期の円筒埴輪片やガラス玉などが出土しており、古墳の築造時期は5世紀前半から中頃と考えられている。



写真は、天王山古墳。

大岩山から北へ延びる丘陵の先端に位置し、近接して円山古墳と甲山古墳がある。

明治15年の記録には「天王山と称する双墓あり凹地より朱・勾玉・管玉の出土」と記されていると云う。

大岩山古墳群でただ一つ、5世紀後半の古墳時代中期の前方後円墳で、北に前方部を向けている。

墳丘の規模は全長50m・後円部径26m・前方部長24m・高さ8mを測る。後円部に横穴式石室の一部とみられる石材が露出し、石室の大きさは長さ4.3m、玄室の長さ2.9m・幅1.0mとされる。






野洲市の大岩山古墳群とは!

2009年03月11日 | 歴史
古墳時代前期から順番に、引続き滋賀県湖東地域の代表的な古墳を紹介する。

先ずは、野洲市の大岩山古墳群を巡ってみよう。

国造が分立した時代には、滋賀県はヤマト王権の領土に入っていたが、平安京が建設される前には、“近江京”や“紫香楽宮”が設置されたこともある。

琵琶湖畔には重要港湾が数多く存在し、やがて“ヤマト”に通じる、東海・濃尾・北陸の合流地域として、戦略的重要拠点とされてきた。

滋賀県野洲市に存在した弥生時代の村落を統合して一大地方豪族に成長した一族があった。

その一族の首長たちは、三上山の山並みの北方に続く大岩山の山麓から野洲市の五之里・富波周辺の平地にかけて、連続して大規模な古墳を造り続けたのが大岩山古墳群。“安”氏と呼ばれる豪族たちの古墳群だと考えられているが・・・・。

現在までに確認されている古墳の数は17基に達するが、そのうち、円山古墳・甲山古墳・古冨波山古墳など8つの古墳が、“国史跡”に指定されている。
8基以外の古墳は大半が消滅し、詳しい内容はわからない。



上の写真は、大岩山古墳群周辺の地図。

一番古いとされる富波古墳は築造時期が3世紀までさかのぼる可能性があるという。一番新しい宮山2号墳は6世紀後半の築造とされている。

と言うことで、古墳前期から後期まで300年にわたって、同一地域に途切れることなく首長墓の系譜を引く古墳が築かれたことになる。
こうした古墳群は、滋賀県でも他に例がないと云う。

大岩山古墳群の分布状況を分析すると、3つのグループに分けることができるという。五之里・富波周辺の平地、大岩山丘陵地帯、そして同丘陵の北側の微高地の3つである。

各グループで短くて2世代、長くて6世代の首長墓が築かれると、次の地域に築造場所が移動していたことが分かるらしい。

このような築造地の移動は何を意味するのかは、現在のところ明らかにされていない。

さらに、古墳の墳形も各時期によってかなり変動しているが、その理由も不明。

おそらくは、同一地域に本拠を置き、これらの古墳を残した豪族の性格や消長などを反映しているものと推察されている。


滋賀県能登川町の神郷亀塚古墳とは!

2009年03月09日 | 歴史
神郷亀塚古墳は“式内社・乎加神社”の背後に所在し、北東には縄文時代後期の集落跡として著名な正楽寺遺跡があり、又西側には弥生後期から中世まで1,000年以上栄えた湖東地域の中心集落、斗西遺跡・中沢遺跡などが知られている。

これまでの調査成果から、斗西・中沢遺跡は、愛知川水系を中心とした湖東地域の拠点的な集落で、広さが約40haを超えることが判明。

これらの遺跡に法堂寺遺跡を加えた湖東地方の集落跡は、住居跡・祭祀場跡の他に出土遺物からも湖東地方を広く治めた大王の居住地として十分推定出来ると云う。

集落の東方約300mには、これら集落の首長の墓と見られる、神郷亀塚古墳が造られ、奈良・平安時代になると、当地には古代の役所が存在したようで墨書土器や木簡が多数見つかっている。

今回の発掘調査で周りの田んぼや畑の下から濠が見つかり、全長約35.5mの前方後方墳であることが判明。

墳丘の高さは現在でも3.6mあり、出土した土器片の形式などから3世紀前半の全国最大級の古墳であることが裏付けられたと云う。





写真は上から、神郷亀塚古墳全景及び神郷亀塚古墳の後方部。

後方部の最高部分には約7×5mの範囲で主体部の落ち込みが検出され、埋土からはベンガラや土器片が出土したと云うが、主体部は今回発掘調査を実施していないため、内部の構造や副葬品は不明のまま。
今後の発掘調査結果が待たれる。



後方中心部より南西方向を見下ろした前方部の写真。

墓壙内の土器は土器編年から弥生後期のモノと見られ、3世紀前半の最古の古墳と断定された。

弥生時代は低墳丘墓が一般的であったが、この時期平野部の前方後方墳にも土を盛り上げて高塚を持つように築造されたことが判明した。

邪馬台国大和説では、前方後円墳は大和地域を中心に広がったとされ、一方前方後方墳を造営したのは東海地方を中心に邪馬台国に対立していた狗奴国であったと云う説が有力だと云う。

ところが今回の発見で狗奴国の範囲が広がり、亀塚古墳の主は狗奴国連合の一国の王墓か、或いは前方後方墳は近江で発祥し東海地方に広がったのであり、狗奴国の中心は近江であったと指摘する向きもある。

いずれにしても滋賀県地域には前方後方形周溝墓など弥生墓が10ヶ所もあり、又大規模な環濠集落や大量の鉄器が出土した遺跡など重要な弥生遺跡が数多く発見されている。

大和・河内と東海・北陸との接点という地理上の要地に加え、広大な平野・琵琶湖という水かめなどの好環境にも恵まれ、独自の古代国家を誕生せしめる素地・条件は整っていたと云える。

更なる新発見・論争の進展が今から待たれる!







古墳時代前期の様相とは!

2009年03月07日 | 歴史
野洲川沿いの当地域は、大岩山山麓に24口に及ぶ銅鐸が埋葬されていたなど、巨大権力の存在を思わせ、重要な祭祀拠点であった見られる。

一方野洲川から北東に20km余り離れた、東近江市能登川町の亀塚古墳の主は、“狗奴国”連合の一国の王墓か?或いは亀塚古墳が、ヤマト王権の証である前方後円墳に対して、アンチヤマト王権の象徴である、前方後方墳であったことから、狗奴国は東近江で発祥し、東海地方に広がったのであり、狗奴国の中心は近江であったと指摘する向きもある。



写真は、滋賀県地図で、ベージュ色のヤマト王権領域・緑色のアンチヤマト王権領域を色分け。

野洲・栗東・守山などの各市辺りは、ヤマト王権の畿内地方北の入口ともいうべき位置に相当することから、狗奴国から自ら守り・排除することを願っていたかもしれない。

中国の漢帝国解体後の東アジア世界の情況下で、ヤマト王権を中核とする新しい政治秩序の形成を目指した列島内で、そのバックボーンとして生み出されたのが“古墳”と“祭祀”であったと見られている。

近江湖東地域は、大和・河内と東海・北陸との接点という地理上の要地に加え、広大な田圃平野・琵琶湖という水かめなどの好環境にも恵まれ、独自の古代国家を誕生せしめる素地・条件は整っていたと云える。





◎滋賀県の古墳を巡って! 古墳時代前夜 そのⅡ

2009年03月05日 | 歴史
☆古墳時代前夜 そのⅡ
伊勢遺跡は栗東市と守山市の境界に広がる弥生遺跡で、近年宅地化が進むにつれて、発掘調査が繰り返されてきた。

2004年10月以降、学校新設工事に先立ち、約10,000㎡に及ぶ大掛かりな発掘調査が2005年3月まで実施された。









写真は上から、遥かに霞む三上山、JR栗東駅前の高層マンション、本遺跡発掘現場2点。

北方には、野洲市の三上山が望視出来るランドスケープに恵まれ、南方にはJR栗東駅前の高層マンションを望み、又北側道路を挟んで守山市側に広がる伊勢遺跡が眠る田畑に囲まれるなどの周辺環境に立地する。

本遺跡は栗東・守山両市に跨る大型建物群などから構成される、近江を代表する弥生後期の拠点集落として知られている。

これまで守山市側の本遺跡調査では、一辺が14mほどを測る方形の棟持柱付大型掘立柱建物13基が見つかり、そのうち7基が単なる偶然でなく、計画的に意図された円周線上に配されていたと見られている。

建物形式・規模・配置や出土遺物から生活臭を感じさせない、非日常的生活空間と考えられている。

以上のように、「倭のクニ」の一つとしてやがて統一されていくその成立過程に先立って、当時各集落が生き残りをかけた「争い時代」を物語っている。


滋賀県の古墳を巡って!はじめに

2009年03月03日 | 歴史
奈良盆地・河内平野から離れて、これからは滋賀県内の古墳を巡ってみたい。
先ずは、古墳時代に繋がる弥生時代の様子を探ってみる。

☆古墳時代前夜
守山市下之郷町の下之郷遺跡は、三上山を頂点として広がる野洲川下流域扇状地の末端に位置する、弥生時代中期(紀元前2世紀後半から1世紀初め)の環濠集落遺跡。

この場所は、地下の伏流水が地表に湧き出してくるような水源地帯に辺り、集落形成に適した生活拠点であった。

又豊富な地下水のお蔭で、木製品など遺物の保存状態が非常に良く、県内でも最も優れた生活・文化情報を残している重要な遺跡と云われている。

昭和55年、下水道工事に伴い弥生時代の土器・溝などが発見されて以来、発掘調査は今回を含め55回に及び、その間大きく且つ多くの濠・井戸跡などの遺構、多量の土器・石器・木製品などの遺物が出土し、中でも9重の環濠を巡らした大規模な弥生「ムラ」であることが判明した。







写真は、平成16年の第55次発掘調査現場の生々しい光景。

本遺跡は「環濠」と呼ばれる大きな溝がムラの周囲に巡らされていて、東西約670m・南北約460mの楕円形を成した約25haの巨大集落跡。

今回第55次の発掘調査では、掘立柱建物3棟・壁立式建物2棟が見つかっている。

中でも掘立柱建物の桁行が東西に整然と並んで配置され、且つそれぞれの建物が数回にわたり建替えられていたと云う。又建物の周囲には区画溝が配置され、建物と溝がユニットのような状態を成していたと云う。

建物の大きさは東西方向に長い長方形で、面積は17~36㎡、区画溝は幅1~2mほど、深さ40~90cmの規模であったらしい。

今回検出された建物跡は、以前の調査で確認された建物の軸線とも符合するため、区画溝を持つ建物が整然と計画的に配置されていたと見られる。

これら掘立柱建物は屋根の棟木を両端で支える棟持柱があることから、集落全体の宗教儀式・集会などを行なう建物と見られる。

本遺跡は計画的に配置された建物跡としては最古とされる、大阪府の池上曽根遺跡(紀元前1世紀)よりやや遡り、当時の近畿地方の中核集落であることは間違いなく、「倭のクニ」の一つとして、やがて統一されていくその成立過程に当る集落と考えられる。











写真は上から、本遺跡から出土した石剣と石鏃、青銅製戈と石鏃、弓矢、木製楯及び青銅製刀剣。

本遺跡からは写真の通り、打製・磨製の石鏃、石剣・環状石斧、戈や柄、弓や楯、銅剣など、他の近隣弥生集落の4倍ほどに達する武器が見つかっており、当時集落の生き残りをかけた「争い時代」を物語っている。

これらの武器類は、環濠や集落内へ外敵が侵入できないように設けられた棚の出入口周辺から見つかっており、又焼け焦げた弓など、戦いの痕跡が生々しく残っていたと云う。

本遺跡は、およそ2,100年前に戦いや自然災害からムラを守るために厳重な施設が造られ、近隣ムラと戦い、生き抜いた跡であり、やがて「ムラ」から「クニ」へと大きく変化していく時代に生まれた集落として貴重な資料。