近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

光秀の生誕地候補はここにも!

2006年08月30日 | 歴史

光秀生誕地について、もう一ヶ所は現在の岐阜県可児市瀬田で、現在は明智という地名はないが、かつて明智荘という荘園があったところで、現在明智城(長山城)址が或る。

明智城址周辺には、その麓の一面に明智氏の平時の居館址があり、「光秀はここで生まれた」という伝承がある程度。

明智城は東西1200mに及ぶ山城で、長山城とも呼ばれ、わずかな山稜の起伏を巧みに利用して多くの複雑な曲輪を配した、典型的な中世の山城。山稜のひときわ高い部分には、多くの出丸を配していた。

明智城址の北側と中央部は当時のまま残っていると云う。三の曲輪辺りに城址碑が建っている。又北側には落城の際戦死した明智一族・郎党を弔うために作られた「六親眷族霊魂塔」が祀られている。

城主や家臣団の生活の場であった、この集落の字名である天子屋敷・大屋敷・都一などその名残があり、八幡社や明智城鬼門除けの神社なども残り、「光秀産湯の井戸」もある。

こちらの明智氏は土岐氏の分系で、光秀の出生地としては相応しいと思われる。

又光秀の重臣であった溝尾庄兵衛をはじめ、数人の家臣たちが可児市瀬田の出身であったと云う伝承から、現時点では光秀の出生地は可児市瀬田が妥当と見られる。

しかし史蹟情報の多くは伝承の域を出ず、真相は闇の中であると云える。

今後の発掘調査による新たな発見に期待するしかない。


第六話 光秀の生誕地は何処?

2006年08月29日 | 歴史
生誕地論争については、織田家の重臣であり、歴史に名高い本能寺の変を引き起こした張本人として知られる光秀だが、その出自と前半生には謎が多い。
出自に関しては、美濃守護土岐氏の傍流であり、現在の岐阜県可児市付近に在った明智氏の流れとする説が比較的よく聞かれるが、同じ美濃の中でも恵那郡明智町の住人であったという説もある。
さらには若狭の刀鍛冶の息子であるとされたり、時には全く氏素性の分からない者とさえ言われる。
いずれにしても、明智氏が美濃守護土岐氏の分かれであったことを考えると、当然名字の地は美濃国内ということになり、候補地は2ヶ所に絞られる。
先ず第一は現在でも町名に“明智”の二文字を冠している岐阜県恵那郡明智町で、そこには県指定史跡となっている明智城址がある。
本曲輪・二の曲輪などの遺構があり、近くの龍護寺には光秀の供養塔もある。
城内には「光秀産湯の井戸」と称する井戸や、「天神神社」などがあり、毎年光秀まつりが行なわれ、龍護寺に伝わる「光秀の直垂」が展覧されている。
光秀にかかわる伝承も明智城址周辺に多くあり、光秀の生誕地として、有力候補に思われるが・・・・・・・。
しかしこちらは遠山明智氏ゆかりの地で、土岐氏から分かれた土岐明智氏とはかかわりがないと云う。
この点が大いに気になるところではあるが・・・・・。

天海は光秀ではないと云う反対説とは!

2006年08月28日 | 歴史
天海=光秀には否定的で、天海と光秀は別人であるとする説。
光秀は山崎の戦いで敗れ、死んだという従来の立場を取る。
延暦寺側や天台宗宗徒及び天海は、光秀が仏敵・信長を退治した勇者と考えてたのではないか。
天海の光秀に対する尊敬の情が、「日光の明智平の銘銘」「日吉東照宮の建設」「お福の乳母採用」などに繋がったと考えられる。
信長の「宗教勢力の排除」という思想に光秀がストップを懸けたほどの宗教観・歴史観に、天海は個人的に光秀を尊敬していたと思われる。
このことを、家康も見逃すはずがなく、宗教勢力をどのようにして自分の勢力に取り組むか、具体的には延暦寺勢力や本願寺勢力をどう取扱うかという問題でもあった。
家康による天海の採用は、延暦寺勢力の取り込み策の一つであると考えられる。
又、家康は本能寺の変の経緯からして光秀には同情的であった。このことが、後世、天海=光秀という発想を引き出したかもしれない。
或いは、家康は天海を光秀と匂わせることによって、徳川=明智連合政権と印象付けることにより、徳川将軍家の権力の強化を図ったかもしれない。
はたして真相は如何なものか?
あなたならどっちの立場を取りますか?


光秀 108歳長寿の裏付けとは!

2006年08月27日 | 歴史
次に南公坊天海=光秀が108歳まで生き長らえた、裏付けとなる幾つかの事例を列挙する。
先ず天海は将軍家の霊廟・日光東照宮を創建し、東照宮入口の陽明門を守る2対の座像の袴紋が、明智家と同じ桔梗紋で、鐘楼の庇にも無数の桔梗紋が刻まれていると云う。
又日光の華厳の滝が見える平地は「明智平」と呼ばれ、天海が命名したと云う。徳川の聖地に明智の名が付けられるとは!
更に学僧天海が着用した鎧が残されているとか、物証として比叡山松禅院に光秀が寄贈したという石塔篭「願主光秀」が現存するが、寄進日が何と慶長20年(1615年)。
冬の陣で倒せなかった豊臣を、夏の陣で征伐できるように“願”をかけたのかもしれない。
更に家光の乳母・春日局は光秀の重臣・斎藤利三の娘、利三は本能寺で先陣を切った武将であり、信長暗殺の功労者として報いている等々。
又偶然かも知れないが、2代将軍秀忠の“秀”と、3代家光の“光”を合わせて、“光秀”とは如何なものか!
そして極めつけは、光秀が築城した亀岡城に近い「慈眼禅寺」には彼の位牌・木像が安置され、没後朝廷から贈られた号が「慈眼大師」で、「大師」とは天皇の先生の意、光秀は信長を葬った朝廷の大恩人ということ。
天海の諡名(死去後付けられる名前)が同じ「慈眼」であり、又天海の墓も坂本・“慈眼堂”にあり、家康の供養塔まで建っている。



大津市坂本の慈眼堂拝殿。
織田信長が延暦寺を焼き打ちした後、その復興に尽力した天海僧正(慈眼大師)を祀る。
堂は宝形造(ほうぎょうづくり)で、前に石灯籠が二列に並ぶ。また西側には、延暦寺歴代座主(ざす)の墓や五輪塔とともに、大きな阿弥陀の石仏が並び、その厳かな雰囲気に訪れる者は圧倒されると云う。
このように明智一族の終焉の地・坂本に、天海の墓と家康の供養塔が寄り添っているとは!

→上記の事実・伝承は、明快な反証にはならないが、光秀死亡説が疑わしく・怪しく思える。

光秀は108歳の長寿を全うしたと云う説とは!

2006年08月26日 | 歴史

実は驚くべきことに、明智光秀は108歳まで生き長らえたと云う説について紹介したい。

光秀は山崎の戦いで秀吉に敗れた後、敗走中、土民の竹槍で刺殺されたと云われていますが、実は死なずに落ち延び、生き残り、比叡山でしばらく過ごした後(一族の霊を供養した?)、出家して南公坊天海として歴史の舞台に舞い戻ったという。

南公坊天海は天台宗の僧で、密教・神道・道教・陰陽道などに精通していた仏教界の大物で、家康・秀忠・家光の宗教政策を担った「黒衣の将軍」とまで云われた、徳川家の筆頭ブレーンになったと云う。

天海は幅広い知識・影響力を使って、豊臣家崩壊作戦の先頭を切り、江戸の霊的防衛網を完成させた人物でもあった云われています。

天海の出自が明らかでなく、年齢的にも光秀に近いなど説得力がある。生年もハッキリしないが、108歳の長寿を全うしたと云う。


光秀は75歳まで生きていた説とは!

2006年08月25日 | 歴史

京都小栗栖の竹薮で土民により刺殺されたという定説を覆すだけの資料もなく、ただ先祖からの語り伝えと、一基の墓石を守り光秀様は本当は75歳まで生きながらえ,我ら子孫を残して下さったと信じているほんの一握りの人たちが現存している。

そこは美濃の国の片隅にある、岐阜県山県郡美山町西洞で、集落の家並みが切れてから又ひとしきり入りこんだ、山裾わづかな平地に15~16軒70人ぐらいの人々が,生活をしている。西洞の一番奥には小さな白山神社がある。

その神社の裏側雑木林の中に光秀の墓と刻まれた道印がある。

よほど気をつけて見ないと見過ごしてしまう程で、案内に従って山道に入り急坂を登ると墓が見えてくる。墓地といっても一基の宝篋印塔を中心に年代を得た角の取れた石佛、壊れかけた石灯籠、それに御影石の碑があるだけだと云う。

白山神社には光秀公の墓誌があったというから驚きです。はたして真相のほどは!


第五話 光秀は生き長らえていた!

2006年08月24日 | 歴史

光秀”小栗栖”での死は謎が多く・大きいことから、実は生き長らえたと云う説。

生き長らえた説には、それらしき裏付けが伴い、侮れない点に注目。

京都市伏見区小栗栖小坂町の“小栗栖”での死については、多くの疑問を伴う。

例えば、雨が降り、漆黒の闇夜の竹やぶの中で、十数名の一行の一人、光秀を狙えたかという疑問、光秀を突いた実行犯を知る村人は皆無とか、鉄砲上手の光秀は竹槍で横から突かれただけで脇腹を貫通するような鎧を着ている筈がないし、光秀と共に殉死した筈の家臣二人は生きていて、細川家に仕えていた記録があると云う。

又光秀の影武者が身代わりになって自害したという伝承が岐阜・美山町に残されていたり、光秀死亡の日から首を晒された日まで丸4日、真夏の時期には腐敗のため、顔の識別は困難であり、殉死したという家臣の面皮は識別できないよう削ぎ落とされたとされるが、何故光秀は処理・細工が為されなかったのか疑問が残る。

更に光秀が討たれたとされる小栗栖は天皇側近の領地で、領主の公家は生き残った明智一族を世話したほど光秀と親しい等々疑問は余りにも多く、光秀死亡説は怪しいと云える。

そこで光秀延命説について、後日紹介する。


光秀の首は西教寺に祀られている!

2006年08月23日 | 歴史
光秀は京都山科区小栗栖で刺殺されたのではなく、108歳の長寿を全うされたと言う説を取る場合、由緒ある坂本城に近い、西教寺に永眠していると考えられる。
西教寺は大津市の比叡山麓に鎮座する天台真盛宗総本山で、聖徳太子の創建で、真盛上人が再興したと伝える。
信長による比叡山焼き打ちの際、壊滅的打撃を受け、その後坂本城主となった光秀が復興に力を注いだ縁から明智一族の菩提寺となった。



光秀が築いた坂本城の城門を移築した西教寺総門。西教寺は秀吉時代に再建されたもので、現在もそのまま残っている。日夜お念仏が絶えない寺で、不断念仏の道場として、500余年絶えることなく今日まで受継がれていると云う。
本堂をはじめ、伏見城の遺構を移したという客殿・狩野派の襖絵・小堀遠州作の庭など見所も多い。



光秀をはじめ、妻の熙子ほか一族が祀られている明智家菩提寺。比叡山連峰を背にした墓地にあり、石は白花崗岩一色で、美しく輝いている。


光秀の首塚は京都宮津市の盛林寺に有り!

2006年08月22日 | 歴史
光秀首塚所在の第三の可能性は、宮津市盛林寺にあると云う説。
光秀の首が、三女玉のいる宮津に届けられ、当寺に葬られたとされる。
でも決して、秀光の娘・お玉のところへ届けられたのではなく、細川家への勲章として贈られたとは! 右写真は盛林寺遠景。
秀吉は天下取りレースで”細川の決断”に報いたい感謝の気持ちが、京都で晒しものにされた光秀の首を細川父子のもとへ届けさせたのではないかと云う。
と同時に玉には謀反人の娘に対する、残忍な見せしめであったのではないか?
細川忠興に嫁いだ玉は、長岡京市の勝竜寺城から丹後宮津に入城したが、わづか2年も経たないうちに父光秀の悲報をこの地で受けた。
この後玉は謀反人の娘ということから丹後味土野に幽閉された。

ところで光秀の天下支配を蹴ってでも、秀吉側に見方した細川父子は、明智以上に秀吉の実力・異能さを評価していたのではないか、いずれ秀吉の時代が来ると確信するほど、細川の時勢の読みは秀吉に加担していたと云える。
と言うのも、細川家は強力な織田家臣団の一員として、秀吉に忠誠を誓い、忠興のデビュー戦以降20年間、関が原戦に至るまで、秀吉と共に戦ってきたという、親密な間柄であった。

いずれにしても、光秀首塚が細川家由縁の盛林寺に送られたと云う説は、秀吉側が後日作り上げた、格好良いストーリーに思えるが・・・・・・・。


光秀の亀岡城は今?

2006年08月21日 | 歴史

光秀の亀岡城(旧亀山城)の築城は、信長の命を受け、丹波攻略の軍事的拠点目的で、1570年代後半に始まった。

光秀はこの城を拠点に庶民重視の善政を施し、”丹波の光秀”の名を馳せた。

そして1582年6月1日に光秀は亀岡城から出陣、中国出兵を装い、一転京都本能寺に信長を討ったことは衆知の事実。

光秀後の亀岡城は、豊臣氏の支配を経て江戸時代に入り、岡部氏他譜代大名が居城した後、明治の廃城令により天守閣が解体され、城内の土地は官有地となった。

その後亀岡町には城を買い取る財力がなく、城跡は次第に荒廃していった。大正に入り、亀岡城址は地元出身の某教祖の手に渡り、現在に至っている。

 

 

築城当時は、5層の天守・本丸・二の丸・三の丸が広がっていたが、全体的に装飾性は乏しかったと云う。城内は当時の面影を生かした、緑に包まれた静かな城址が残されている。

現在の石垣の大半は大正期以降に再建されたものと云われ、特に近年になって組み上げられた石垣の一部には、光秀後の江戸期天下普請の時に使われた部材が再使用されため、当時の石自体は多く残っており、天下普請の刻印が数多く見られると云う。

写真の石垣のうち、当時の石垣は地上3層ぐらいまでで、残りはその後積み直されたもの。

尚この写真は入城許可をもらって撮影した。

 

 

写真の外堀を含め、本丸石垣・内堀などは当時の規模を残していると云う。

現在は宗教法人の所有となり、原則立入禁止で、許可を取れば見学可能という閉ざされた城址となってしまった。

しかし城址を美しく保つため、毎朝100人ほどが清掃したり、植栽をしたりと城址維持管理には余念がないという。

日本的文化資産と云えば代表格は”城”であり、全国各地で観光のシンボル的存在で、国や地方自治体が所有しているのが一般的だが、この城址は稀有な歴史的経過から例外的存在。

いずれにしても、亀岡城址は市民にとって、かけがえのない歴史的遺産であるだけに、開かれた文化行政措置が望まれる。


キキョウが光秀の遺徳を偲ぶ!

2006年08月20日 | 歴史

亀岡市谷性寺は、通称”桔梗寺”と呼ばれている。明智家の家紋に基づき、光秀公の供養のために植えられるようになったのがその始まりだそうです。

6月から9月に至るまで次々と咲き乱れ、境内は桔梗一色に塗り広げられると云います。

 

 

当地では、7月がキキョウのベスト・シーズンのようですが、この写真は今年8月中旬頃のもので、チョット遅きに失した感があります。でもバックのローカル山を借景にした眺めは格別です。

 

 

谷性寺の前庭にはキキョウ園が3ヶ所あるが、ここではキキョウの他、ヒマワリ・サルビア・ケイトウなど色華やかな演出が試みられている。キキョウだけでは、次期が外れると単調になるだけに彩りを加えるなど、花園のデザイン・手入れはよく行き届いている。

実はこのキキョウ園は、地元農家の土地・労力を提供していただいたり、地元農業高校の現場実習の名のもとに、手伝ってもらったりと地元の協力・サポートなしではやっていけない。

光秀公の善政・民衆に根ざした施政・思いやりなど、その遺徳が今もって地元に息づいている証左であることを実感した次第。

戦国武将光秀公の心はここに健在であると云える。


第四話 光秀の首塚は亀岡市谷性寺にあり!

2006年08月19日 | 歴史

光秀首塚の可能性、第二番目は亀岡市谷性寺にあると云う説で、通称光秀寺とも呼ばれている。平安時代創建になる真言宗の古刹で、不動明王を本尊としている。本堂には光秀の木像が安置されている。

光秀は不動明王を厚く尊信していたと云う。信長襲殺を決意した後、この不動明王に誓願をして、その功徳を得て本懐を遂げたと云う。

 

 

亀岡市郊外にひっそりと佇む、谷性寺の遠景。辺りは閑静な田園・畑地が続く。

光秀が亀岡地方で行った善政は限りなく、その遺徳を偲び”光秀顕彰会”が発足し、毎年5月に”亀岡光秀まつり”が行われるようになったと云う。

 

 

谷性寺境内の”明智山門”。この門は”光秀首塚”の正面真東に位置し、写真の通り、この門を通して首塚の正面が見えるので、明智山門の名称が付けられたと見られる。

 

 

光秀の首塚で、”光秀公首塚”の石碑は安政期に幕末の志士が、光秀の怨念を鎮めるために建てて供養したと云われている。

山崎の戦いで秀吉軍に敗れ、坂本城に向う途中、小栗栖で土民に襲われ刺殺されたが、光秀の介錯をした溝尾庄兵衛は光秀の首を近臣に託し、光秀が生前信仰していた本寺不動明王のそばに葬るよう命じたとされる。

信長反逆の本懐を遂げ、功徳を授かった本寺に埋葬し、その遺徳を偲ぶという家臣の請願は極めて当然の帰結と考えるが・・・・・・。


自己紹介続きそのⅡ

2006年08月18日 | Weblog

今年7月初旬、バンクーバー経由でカルガリーを基点に”ロッキー・マウンテン・トレイル”に沿ってエドモントンまで約800キロを走破した、素晴らしい旅を以前自己紹介しました。同一ページに複数の写真を貼付する方法が分からず、一枚一枚の単品紹介に終わりました。

実は複数の写真を同時貼付する方法を習得しましたので、ここに残り一部の素晴らしいカナディアンロッキーの景観を紹介します。

 

この写真は、カナナスキス町の宿泊ホテルから見晴らした、ゴルフ・乗馬・キャンプ・スキーなど最適の万能リゾート地。

カルガリー市郊外・バンフ国立公園の入口に位置し、2002年6月には主要国首脳会談の会場ともなった一等リゾート地。

 

この写真は同カナナスキス地方の”マウント・ロレッティ・ゴルフコース”という著名なゴルフ場で、ご覧のようにカナナスキス川がゴルフ場に満遍なく、絡んだ難コースで変化に富む。

言訳がましいが、スコアーメイクは気にならず、この素晴らしい景観に圧倒された、満足なラウンドであった。

 

この霞んだ写真は、バンフ国立公園内の”サルファー・マウンテン”から見下ろすバンフの町で、写真中央右側のボウ川沿いに、世界に名高い”バンフ・スプリング・ゴルフコース”ほかリゾート施設がロッキー山脈に囲まれ、凝縮された姿に見える。

標高2,300mほどのサルファー・マウンテン山頂の展望台へは、ロープウェーに乗ってスリリングな登頂ができる。

生涯記憶に残る最高のゴルフツアーであった。

カナディアン・ロッキーへは機会を見つけて再訪問したいが、次回はバンクーバーから北方のロッキーにチャレンジしたい。


京都東山区東梅宮所在の光秀首塚の周辺には!

2006年08月18日 | 歴史

光秀首塚4ヶ所のうち、何処が本物かハッキリしなしが、先ず最初に前日取上げた京都東梅宮の首塚に関連して、その周辺の環境を写真で紹介する。これらの写真は今年7月の暑中に撮ったものですが、ぎらぎらした太陽が感じ取れるでしょ!

 

 

この写真は両サイドに、ヤナギの木立が立並ぶ清らかな”白川”で、向って右側に光秀首塚が所在する。

 

首塚の100m余り北方向の三条通り白川橋東側には、例の首塚が晒されたと云う”粟田口”がここ交差点で、遠方には”東山”が望める。

 

 

首塚から200mほど南下した所には、左手に智恩院が所在する。

この写真が白川にかかる橋から智恩院山門を望む。

 というようにいかにも京都らしい場所に、静寂に包まれて首塚が祀られている。


第四話 光秀の真の首塚は何処に?

2006年08月17日 | 歴史

第四話として、光秀の本当の首塚はいずれかについて、4つの可能性を検証してみたい。先ず最初は、現在の京都市東山区三条白川橋近辺にあると云う説。

この説によると、秀吉が光秀の首実験を行なった後、京都の粟田口に晒して、そして粟田口黒谷通りに埋めたが、後に明智家の縁者が、その塚にあった石塔をもらい受け、自宅のこの地・現在の東梅宮に移し、菩提を弔ったと云う。

実際光秀の首は、粟田口の刑場に晒された後、他の数千の首と一緒に埋められて、塚が築かれたと云うから、光秀の首は特定できていないと思われる。

右上の写真の通り、東梅宮には光秀首塚の道標及び墓石が立てられている。

首塚の近くには智恩院があり、小栗栖で討たれた時の遺言に従って当地に葬られたと云う説。いろいろな伝説・資料にそった場所として、具体性が高いが・・・・・。