光秀生誕地について、もう一ヶ所は現在の岐阜県可児市瀬田で、現在は明智という地名はないが、かつて明智荘という荘園があったところで、現在明智城(長山城)址が或る。
明智城址周辺には、その麓の一面に明智氏の平時の居館址があり、「光秀はここで生まれた」という伝承がある程度。
明智城は東西1200mに及ぶ山城で、長山城とも呼ばれ、わずかな山稜の起伏を巧みに利用して多くの複雑な曲輪を配した、典型的な中世の山城。山稜のひときわ高い部分には、多くの出丸を配していた。
明智城址の北側と中央部は当時のまま残っていると云う。三の曲輪辺りに城址碑が建っている。又北側には落城の際戦死した明智一族・郎党を弔うために作られた「六親眷族霊魂塔」が祀られている。
城主や家臣団の生活の場であった、この集落の字名である天子屋敷・大屋敷・都一などその名残があり、八幡社や明智城鬼門除けの神社なども残り、「光秀産湯の井戸」もある。
こちらの明智氏は土岐氏の分系で、光秀の出生地としては相応しいと思われる。
又光秀の重臣であった溝尾庄兵衛をはじめ、数人の家臣たちが可児市瀬田の出身であったと云う伝承から、現時点では光秀の出生地は可児市瀬田が妥当と見られる。
しかし史蹟情報の多くは伝承の域を出ず、真相は闇の中であると云える。
今後の発掘調査による新たな発見に期待するしかない。