近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

河内平野・河内王朝の役割とは!

2011年05月30日 | 歴史
ここまで、古市古墳群を巡ってきたが、はたしてこの古墳群の歴史的役割とは何であったかについて考えてみたい。

河内平野は、第15代応神天皇から第25代武烈天皇まで、いわゆる”河内王朝”時代の歴代天皇の宮都と陵墓の所在地。

確かに11人のうち8人の天皇の陵墓は現在の羽曳野市、藤井寺市、堺市に築かれている。

王陵が権力の中枢に近い地域に築かれるというのが歴史の大原則であるならば、河内王朝論は十分な根拠を持つ。

しかし、歴代天皇宮都の所在地のほとんどは大和盆地で、面白いことに、初代の応神天皇から、2代目の仁徳天皇、3代目の履中天皇、そして4代目の第18代反正天皇までは、宮都が大和-河内-大和-河内と交互に入れ替わっている。この事実をどう理解したら良いのであろうか?

河内王朝論を持ち出さなくても、ヤマト王権の基盤が4世紀後半には河内平野まで拡大し、そのときどきの政治的情勢で、振り子が揺れるように、その重点が大和と河内の間を移動した、とする説もある。

河内王朝は、応神からはじまり武烈までの11代にわたって現在の大阪府南部を基盤としていた巨大王権。









写真は上から、仁徳陵古墳の正面拝所及び三重のお濠、応神天皇陵正面拝所及び同サイドビュー遠景。

確かに、河内・和泉の大阪平野に、大仙古墳をはじめとして、政治的シンボルともいうべき巨大古墳が集中して築かれていることや難波に宮都が設けられていることから推して、大阪平野に強力な政治的基盤を有する権力が存在したことは事実であろう。

しかし、この王権の実態をどのように捕らえるかは、専門家の間でも意見が分かれている。

九州の勢力が応神または仁徳の時代に征服者として畿内に入ったとする説がある。

そうではなくて、瀬戸内の水上権を握って勢力を強めたこの地の自生勢力が、やがて大和へ入り、それまでの第10代崇神王朝を打倒したとする説もある、一方で、河内平野の開発などにともなう大和王権の進出と捉えるべきとする説もある。

4世紀後半には木製農工具に代わって、鉄製の鍬や鋤などが普及し、河川や湖の周辺の低湿地帯を干拓し、池や溝を掘って耕地を拡大することが可能になった。

それに加えて、4世紀末の高句麗の南下によって朝鮮半島南部にあった百済や伽耶諸国(朝鮮半島中南部地方)から大勢の人々が河内平野に移り住んだ。

彼らは様々な先端技術を倭国にもたらしたが、特に土木技術は優れたものであり、各地で灌漑用のため池や水路の建設を可能にした。

たとえば、石川から水を引いて当時の河内湖と結ぶ人工の水路だった古市大溝の主要溝渠(こうきょ)は5世紀前半には掘られていたとされている。

河内湖の水を難波の海へ流す「難波の堀江(現在の大川)」もこの頃掘削された。

こうした大土木事業によって耕作地が一挙に拡大し、河内平野は、ヤマト王権の基盤を支える重要な地域となった。

5世紀は「倭の五王」の時代で、ほぼ同時代に書かれた中国の正史『宋書』の倭国伝には、歴代の大王が南宋にたびたび使者を派遣して称号の除授を乞うている。

朝鮮半島南部の百済や伽耶諸国からは、高句麗との交戦の様子や軍隊の追加派遣を要請する使者が、たびたび倭国を訪れたと思われる。

そうした使節の往来に対してヤマト王権の権力の象徴ともいうべき巨大な王陵を、何処に築いたら一番効果的か?



写真は、大和川沿いの、羽曳野市と藤井寺市に跨る古市古墳群空撮。

いうまでもなく、河内は水陸交通の要である。しかし、ヤマト王権が所在する奈良盆地は水陸交通があまり便利なところではない。それに引き替え、古市古墳群が営まれた一帯は、大和川と石川の合流点に近い。

後に丹比道や大津道として整備される東西を結ぶ古道も存在した。

また、これらの古道の起点は、当時難波の海に注ぐ石津川の河口にあった。

古市古墳群や百舌鳥古墳群は、このように水陸交通の要を選らんで築かれた。

その目的は、対外的な権力の誇示であったと想像される。

もちろん、それだけが巨大古墳を築造のための要件のすべてではないが、権力の誇示のためには、その場所が肥沃な平野を見下ろす丘陵でなければならない。しかも、古墳の重量に十分に耐えられる強固な地盤のところでなければならない。

さらに、もう一つ忘れてはならない重要な要件は、5世紀代の王墓は大量の土を盛り、大量の河原石を葺き、そして膨大な数の埴輪を並べて飾り立てた。

即ち、土取りが可能な場所、葺石の入手や運搬が容易な場所、更には埴輪を作るためのハニ土が近くで入手できることも、必須の条件だったとされている。


羽曳野市・藤井寺市の古市古墳群(続報)そのⅡ

2011年05月28日 | 歴史
古市古墳群巡りを続けます。

先ずは古墳出現の歴史的背景と意義について考えます。

弥生時代の墳丘墓は、山陰・北陸地方の代表的方形墳丘の四隅を突出させた特異な形態の墳丘墓が営まれた。



写真は、島根県安来市の宮山四隅突出墳墓。

しかし弥生時代の墳丘墓に対して、古墳時代の古墳はその規模において飛躍的に増大する一方で、弥生時代に見られた顕著な地域的特徴が見られなくなり、極めて画一的になっていった。



写真は、藤井寺市の第21代雄略天皇陵で、円墳基と方墳基から成っている。

雄略天皇は、中国南朝宋の時代には倭の五王の一人、“武”と言われ、5世紀に君臨した天皇と考えられている。

大規模な古墳が、畿内のヤマト・吉備・瀬戸内・北部九州にあるが、玄界灘沿岸には大規模な古墳が見られないことは、それまで中国大陸等交易ルートを一手に握っていた玄界灘沿岸地域に対し、瀬戸内沿岸各地の勢力が畿内のヤマトを中心に連合したためと考えられている。

玄界灘沿岸を制圧し、鉄や先進的文物の入手ルートの支配権を奪取しようとしたことが、広域政治連合の契機になったと想定されている。

連合に加わった各地首長達の同盟関係の確認・強化の為の手段として、共通の墓制である大規模な前方後円墳の造営が始まったと見られる。

このような背景・経過を踏まえて、3世紀~4世紀にかけて強大な権力と財力を持った統一国家、初代ヤマト政権が誕生したものと考えられる。

前方後円墳のまとまりは邪馬台国を中核とした政治勢力の延長と考えることが出来る。

一方前方後方墳は、伊勢湾沿岸部を中心とする東海地域の中で成立・普遍化し、3世紀後半には東日本でも60m級の前方後方墳が造営されていた。

しかし3世紀末葉から4世紀前葉になると、前方後円墳の造営が東日本でも急速に広がり、墳形は前方後方墳から前方後円墳に激変していった。

墳形交代は、将に政治勢力の消長を示す事実として意義付けることが出来る。

次に古市古墳群の埴輪の特徴について考えてみる。

古市古墳群は、羽曳野市から藤井寺市にかけて東西約3km・南北約4kmの範囲に、100基弱ほどの古墳で構成されている。

古市古墳群は、全国でもベスト30位内入る、長さが200mを超える前方後円墳が7基も含まれ、大阪堺市の百舌鳥古墳群と並ぶ巨大古墳が集中して造られた場所として知られている。

5世紀の初頭から6世紀の中頃までの約150年間、時の最高権力者が自らの威信を示すために、持てる財力を注ぎ、最新の技術を駆使して巨大な墓を造り続けていった。

今回は古市古墳群から出土した埴輪に注目したい。

埴輪を調べれば古墳に葬られた人物の特徴や古墳時代の生活様式・習慣・文化等を知ることが出来ると云う。

特に形象埴輪は、色々な形を真似て造った埴輪で当時の生活痕跡を留めている。

以下大変珍しいイヌ・ニワトリ・シカなどの動物埴輪及び太刀などを真似た器財形埴輪を紹介する。









写真は上から、ニワトリ・家・円筒・人物など各種埴輪。

家形埴輪は死後の生活を守り、円筒埴輪は墓聖域を囲い守り、又盾・靫形埴輪は悪霊の進入を防ごうとしたと考えられる。

しからば動物埴輪の製作意図・祈りは何であったのか?

ニワトリやイヌは日常生活に欠かせない存在として道ずれにしたのであろうか?



写真は、完璧な形で出土したミズトリの埴輪。

最高権力者の憩いの場所として日本的庭園に放ち・遊ばせたミズトリが埴輪化されるほど、やすらぎの象徴的存在であったことを窺わせる。



写真は、武力を象徴する太刀と盾型埴輪。

盾や弓を入れる靫は出土例が多いが、太刀は数少ない貴重な資料と云える。

力の象徴は、盾や弓より太刀に権力者の重みを感じる。

全国の代表的埴輪を一堂に集め、当時の地方権力者の生活振り・主義主張・生活様式の地域差等を演出する機会を設営していただければと期待したい。











羽曳野市・藤井寺市の古市古墳群(続報)そのⅠ

2011年05月26日 | 歴史
ここからは、古市古郡群巡りを振り返って、その特徴・歴史的意義などを総括してみたい。

日本有数の大型古墳が密集する古市古墳群は、大阪府の東南部に位置する、羽曳野市・藤井寺市を中心に広がる古墳群で、4世紀末から6世紀前半頃までのおよそ150年の間に主として築造された。

大阪堺市の百舌鳥古墳群と並ぶ日本二大古墳群の一つである古市古墳群は、前方後円墳31基・前方後方墳1基・帆立貝式6基・方墳48基・円墳30基他合わせて計123基を数える。

以下代表的な古市古墳群のハイライトを紹介する。

○津堂城山古墳
古市古墳群大型墳の出発点としての津堂城山古墳は、藤井寺市に所在する前方後円墳。

4世紀第4四半期の造営で、墳丘長は208mと、大和地方の大型古墳に比して遜色ない存在。

しかし内容的には、竪穴式石室の中の装飾豊かな長持形石棺をはじめ、三角板革綴短甲、盾形の周濠を持った墳丘モデル等先駆的な遺跡であったと云える。

墓域候補地がそれ以前の大和盆地という狭い範囲にこだわらず、一挙に河内地方にまで進出したことになる。



写真は、津堂城山古墳丘陵の前方部から後円部を望んだ光景。

後円部は柵で囲われ侵入禁止となっているが、その他はすべて一般公開され、市民公園として利用されている。



写真のように、当墳丘上から見た丘陵下平面地には、市民占拠農地と公園が同居している状況にあり、周辺一面が畑・花壇でいっぱい、大王級墳丘の開放度に関しては抜群だが。

しかし何故一挙にこれほどまで河内内に進出し、逆に後で徐々に大和地方に向って南下したのであろうか?

それであればむしろ金剛山麓から必要に応じて北上したらどうであったかと考えられる。

当時の河内地方は大和地方とは違い、スペース的にはまだまだ余裕があったと想像できるし、恐らく津堂城山古墳サイトを探し求めたスタンスは、“最高”の場所を求めてやっとこの地に辿り着いたのではないかと思われる。

以下の写真のように、このスポットが将にベストスポットと言わざるを得ないほど、先人は墓域候補地にこだわったのではないかと言える。

当墳丘頂上から望む、大和川を挟んで高井田古墳群地方の遠景。

なるほど風光明媚な好適地であることは、間違いなさそうであり、いわばベストスポットを選んだことになる。



写真は、当墳丘頂上から南方、二上山・金剛山を望む。当時の面影は、想像するに河内平野が荒涼と広がり、辺り一面一望下においていたと思われる。

○誉田御廟山古墳(現応神天皇陵)
河内地方の墳丘自体が傑出するのは、5世紀第1四半期造営の仲津山古墳(現仲姫陵…応神天皇の皇后)からで、墳丘長290mもあり、百舌鳥古墳群と共に圧倒的規模の墳丘が河内・和泉地方に展開された。

大王級墳墓の墓域が、以前の大和盆地という狭い範囲にこだわらず、河内地方にも進出したことになる。



写真は、5世紀頃の河内平野地図。

河内地方に進出したことなど前提条件が揃い、5世紀第4四半期に日本第2位の墳丘長415mを誇る羽曳野市の第15代応神天皇陵の造営に繋がる。

5世紀第2四半期には日本最大の大仙陵古墳(第16代・仁徳天皇陵)が百舌鳥(現堺市)地方に誕生していた。将に大王級の中でも突出した古墳が、墓域を大和盆地から河内・和泉地方に切替えた。

海浜近くに進出することにより、渡来人・外交上の重鎮に対する圧倒的プリゼンテーション効果を狙ったのではないかと思われるが・・・・。





写真の伝仲姫陵・仲津山古墳は正面入口と周濠の様子。

本古墳は、夫応神天皇陵から国道を挟んで反対側の対角線上にあり、応神天皇陵造営前に既に築造された、計画的墳丘墓と言えるのではないか?

本古墳は、藤井寺市沢田の静かな住宅街の中にあり、墳丘の規模は墳丘長約290mを測り、前方部幅が193m・後円部の径が170mほどで、前方部の幅が後円部の直径より20mほども広く、異形の様相を呈している。





応神天皇陵の遠景と外濠。

墳丘長415mの墳丘規模を的確に捉えることは困難。管理事務所を中心に墳丘規模全体を収めようとした写真。管理事務所の左横に墳丘正面入口がある。

応神天皇陵の埴輪は、それまでの野焼き中心から全て窯で焼かれ、表面の仕上げも精美で埴輪の些細なところまで管理の手が及んだと言われる。

しかしこの時期をピークにこれ以降、墳丘規模について規制のブレーキがかけられたようだ。一説によると応神天皇陵造営に要した時間・労力は、延べ20万人が4年を要したと推定されている。
















堺市仁徳陵古墳近くにラブホテルとは!

2011年05月24日 | 歴史
堺市に所在する、国内最大の前方後円墳・仁徳陵古墳周辺で旅館と偽り、ラブホテルを経営したとして、大阪府警保安課などは2010年9月、同市堺区のホテルを風営法違反・禁止地域営業容疑で捜索したと発表した。







写真は、仁徳天皇陵の上空写真、同天皇陵に隣接したラブホテル及び羽曳野市の文化ホール前の道路沿いに掲げられた世界遺産を目指す旗印。

同古墳は、世界文化遺産の国内候補地リストに入った「百舌鳥・古市古墳群」の代表的な一つ。

羽曳野市では、写真の通り、平成23年5月現在でも、世界文化遺産を目指して、キャンペーンを続けている。

世界文化財の指定がかかっているだけに、それに相応しい環境整備は必須条件。

ラブホテル経営者は「世界的な遺産の近くで営業できないのは知っていた」と認め、府警は同容疑で書類送検する方針。

発表によると、同社は2010年8~9月、ラブホテルの営業が禁止された堺市堺区北丸保園の風致地区で、同市に旅館と届けながら実質的なラブホテルを営業した疑い。

このホテルは2007年11月、堺市に旅館として登録されたが、府警は、客室内に大型の鏡などが設置されていることなどから、事実上のラブホテルと判断した。

仁徳陵古墳周辺は、風俗営業法が改正された1978年以降、風致地区に指定され、新たなラブホテルの営業ができなくなっていると云う。


大阪府藤井寺市の大鳥塚古墳と赤面山古墳とは!そのⅡ

2011年05月22日 | 歴史
赤面山古墳巡りを続けます。









写真は、大鳥古墳に隣接する西名阪自動車道外壁の光景、同自動車道の高架下に残された赤面山古墳、同自動車道下に覗く赤面山古墳墳丘及び同古墳に隣接する古室山古墳入口。

大鳥塚古墳の北側、西名阪自動車道の高架下に小さな土の高まりがあるが、一見したところでは単なる土の山のようにも見え、うっかりすると見過ごしてしまいそうなのが赤面山古墳。

大鳥塚古墳の後円部に接するように位置する。大鳥塚古墳北側の方墳「国史跡 赤面山古墳」の南側には金堂製の馬具が出土した円墳の「丸山古墳」が存在する。

赤面山古墳は、墳丘の一辺が15mほどの方墳と考えられているが、人を葬った施設などは分かっていない。

大鳥塚古墳と赤面山古墳はともに5世紀前葉に造られたもので、その位置関係から、葬られた人物は相互に密接な関係にあったことが推測できる。

この関係とは一体どのようなものであったか?その謎を解く鍵を古市古墳群全体に視野を広げて考えてみる。

古市古墳群では、津堂城山古墳や古室山古墳が造られた4世紀末から5世紀初頭には、前方後円墳の被葬者はピラミッド形の身分秩序に組み込まれることによって権力者として認められていたと考えられる。そして、各古墳は墳丘の形に関係なく、それぞれが単独で立地していた。

しかし、二つの古墳が造られた5世紀前葉という時期には、それまで単独で立地していた方墳が、前方後円墳の周囲に寄り添うような立地を示すようになる。

このことは、前方後円墳の被葬者がさらに大きな権力を身につけたことの現われであると解釈することが可能で、以前は古墳の墳丘の形と規模とで現わされていた被葬者の身分秩序が、その立地にまで影響を与えるようになったと考えられる。

具体的には、前方後円墳の立地に合わせて、他の墳形の古墳を配置するという方法を採ったのではないか?

いずれにしても、大鳥塚古墳と赤面山古墳が造られたのは、従来の身分秩序が変化しつつある時期で、赤面山古墳の被葬者は、生前、大鳥塚古墳の被葬者に仕えていた人物で、死後もなお、その力関係は、葬られた古墳の墳丘の形と立地関係により、目に見える形で現わされたと考えられる。

大阪府藤井寺市の大鳥塚古墳と赤面山古墳とは!そのⅠ

2011年05月20日 | 歴史
先ず大鳥塚古墳は、古市古墳群の北部、誉田御廟山古墳の北東に位置する。

国府台地の西側緑辺部にある前方後円墳で、全長約110m・前方部の幅50m・高さ6.1m・後円部の直径72.6m・高さ12.3mほどを測る。











写真は上から、大鳥古墳墳丘の全体像、同古墳案内板から見上げる後円部墳丘、同古墳石碑から覗く後円部光景、前方部から望む後円部光景及び後円部墳丘の様子。

古市古墳群の中では中形で、前方部は南を向いている。墳丘はほぼ全域がクヌギの林になっていて、足を踏み入れると夏でもひんやりとした感じを受けると云う。

1956年に国の史跡に指定されたが、墳丘からは葺石と円筒埴輪列が確認されている。

質屋山古墳とも呼ばれ、墳丘は3段構築で、現在は埋没している馬蹄形の狭い濠がめぐり、くびれ部の両側には造出しがあり、幅の狭い水のない濠が周囲をめぐっている。

埋葬施設は不明だが、副葬品として銅鏡2面・鉄剣・鉄刀・鉄矛・鉄鏃などが出土したと伝えられている。

本古墳からは、円筒埴輪のほか、家形・蓋(きぬがさ)形・盾形・靫(ゆき)形・冑形などのさまざまな形象埴輪が出土している。

出土した埴輪の特徴から、5世紀前半の築造と考えられている。

大阪府藤井寺市のボケ山古墳・仁賢天皇陵とは!

2011年05月18日 | 歴史
ボケ山古墳・仁賢天皇陵は、大阪府藤井寺市青山3丁目にあり、古市古墳群に属する前方後円墳。

第24代仁賢天皇(在位は、488~498年)は、履中天皇の孫で市辺押磐皇子(いちのへのおしはのみこ)の子。

仁賢天皇は顕宗天皇の実兄で、父市辺押磐皇子が雄略天皇に殺害されて、身の危険を感じて弟の弘計王とともに丹波に逃れていたが、播磨に身を潜めているところを見出され、清寧天皇より正式に皇位継承者として迎えられたと云う。

清寧天皇紀に子供の無かった清寧天皇は、山部連の祖である伊予の“来目部小楯”(くめべのおたて)を播磨の明石に使わされたが、市辺押磐皇子の子・億計(おけ)と弘計(をけ)兄弟を発見し、その両名が顕宗天皇(億計王)・仁賢天皇(弘計王)になったと云う。

天皇となった顕宗が、父の敵である雄略天皇の墓を壊そうとして、兄仁賢にその役目を言いつけるが、仁賢は御陵の土を少しだけ削り取って帰ってくる。

顕宗が問いただすと仁賢は、「いかに父の敵と言えども今日我々があるのは、雄略天皇のお子である清寧天皇が、我々を皇位継承者と認め立太子してくれたからではないか。父の敵とは言え、雄略天皇もまた大恩あるわれらが先祖である。その人の墓を壊すなどと言うのは人道にもとる行為だ。」と返答する。顕宗は「まさしく兄上の言われるとおりです。」という逸話が残されている。

このような逸話があればこそ、おくり名として、「仁」と「賢」と云う文字が使われたのではと想像できる。

叉雄略天皇の娘を皇后に迎え入れたのも、その正当性を主張したのみならず、雄略天皇に対しても、過去を洗い流す広い度量の発露だったかも知れない。









写真は上から、民家と畑地で囲まれた仁賢天皇陵遠景、溜池越しに浮かぶような仁賢天皇陵、同天皇陵への細長い入口石碑及び同天皇陵拝所。

仁賢天皇陵は、墳丘の長さ約122m・前方部の幅約107m・高さ13m・後円部は直径65m・高さ11.5mの前方後円墳。

南東のくびれ部に造出しがあり、周囲は濠で囲まれている。









写真は上から、仁賢天皇陵周濠の様子、同天皇陵に隣接した民家と畑地、同天皇陵に迫る住宅群の様子及び拝所に並ぶ民家。

同天皇陵周辺開発の進捗により、窮屈な状況にはなっているが、周囲との共存が何とか成り立っていると云える。

1975年と1979年の大阪府教育委員会による外堤調査により、後円部北東側の堤と前方部北西側の堤で円筒埴輪列が発見された。

また、1981年の羽曳野市教育委員会による外堤調査では、前方部北西側の堤に接する斜面で2基の埴輪窯が発見された。

出土した円筒埴輪などの特徴から、6世紀前半に築造されたものと考えられている。写真のように、仁賢天皇陵拝所は前方部正面濠の外にある。

当地は、昔から「オケ山」とか「ボケ山」といった呼び名で近在には親しまれてきたらしいが、江戸末期に学僧覚峰によって発見され、彼の研究に基づいて仁賢天皇陵と指定されたと云う。



大阪府藤井寺市のはざみ山古墳と野中宮山古墳とは!そのⅡ

2011年05月15日 | 歴史
前回のはざみ山古墳と野中宮山古墳巡りを続けます。

出土した埴輪には、円筒埴輪と形象埴輪があるが、特に南側造出しの発掘調査では、壺型埴輪列のほか、家・衣蓋・盾・栫・水鳥・鶏・馬・猪形など、多くの種類の形象埴輪が出土したと云う。

これまでの調査や研究の成果から、はざみ山古墳は5世紀中葉に、野中宮山古墳は5世紀前葉に造られたと考えられている。









写真は上から、野中宮山古墳墳頂が野中神社の拝殿に変身した様子、同古墳墳丘が野中神社の石積囲に変身した様子、前方部先端が削り取られた跡の保育園の様子及び周濠が公園と化した光景。

現在、野中宮山古墳後円部上には、野中神社(野中郷の鎮守社で、貞観17年(875年)従五位下を授けられたと云う)、周濠南側の前方部には野中宮山児童公園と幼稚園があるなど、墳丘や周濠が著しく改変され、大きく変身してしまった現在の姿から、造営当時の古墳の面影が見えてこない。

古墳の規模・墳形・出土遺物など大王クラスの古墳だが、天皇陵に位置づけられていないせいか、管理が荒っぽいとしか感がられないのは、誠に残念の一言に尽きる。

写真からは、仲良く並んでいるように見える両古墳は、同じ時期に造られたのではなく、まず野中宮山古墳が造られ、その後にはざみ山古墳が造られたらしい。その位置関係から、両古墳に葬られた人物の密接な関係が想定できる。

両古墳の周囲には遺跡が広がっており、はざみ山遺跡と呼ばれているが、この遺跡は、昭和49年に大阪外環状線建設の際に新たに発見されたもので、その後、大阪府教育委員会、藤井寺市教育委員会の発掘調査により、その内容が明らかになってきた。

はざみ山遺跡は、飛鳥・奈良・平安時代を主とし、鎌倉・室町時代まで続く大規模な集落址。

発掘調査では、掘立柱の家や倉庫・井戸・土地の区画や排水のための溝・水を溜めたり、ゴミを捨てるための穴などが見つかっているらしい。

このことから、はざみ山古墳や野中宮山古墳は、古墳時代が終わると、周囲を集落に取り囲まれるような状況になったことが分かる。そして、掘立柱の建物が古墳のすぐそばまで建てられるようになる。

これは、古墳時代と、それ以降の時代の人々の、古墳というものに対する考え方の変化を反映していると思われる。

この考え方の変化は、新たな社会秩序の形成の結果と考えられる。古墳時代以降の新たな社会秩序の形成とともに古墳のそばまで人々が住むようになる。

ところで藤井寺市によると、はざみ山古墳の約1万5000㎡の土地は、市の所有になっており、かつて周濠を埋めた約1100㎡が競売の対象となっていた。

本古墳は市が1991年、古墳保全のため8億7000万円で買収したが、買収時に抹消されていた抵当権をめぐる訴訟で2001年に市側が敗訴。1億円の抵当権の仮登記が回復し、抵当権者が競売を申し立てていた。

その後、その土地は建設会社など4者の共有地として登記されたが、史跡である古墳の一部が競売にかけられるという異例の事態となっている。


大阪府藤井寺市のはざみ山古墳と野中宮山古墳とは!そのⅠ

2011年05月12日 | 歴史
先ずはざみ山古墳は、大阪府藤井寺市野中にある前方後円墳で、古市古墳群に属し、5世紀半ばに築造されたと推定されている。

古くは“挾山”の字が当てられていたが、今では平仮名で表記するのが通常。

本古墳前方部は東を向き、一重の周濠が墳丘を囲んでいるが、墳丘は長さ約103mを測る。後円部の周濠の一部は埋め立てられ、その一部は民有地となっている。









写真は上から、上のはざみ山古墳と道路を挟んで下の野中宮山古墳空撮、はざみ山古墳に密着する民家の様子、古墳周濠越しに見上げる墳丘の様子及び前方部光景。

はざみ山古墳先端は1974年に工事が行われた国道170号に接しており、南には、写真の通り、墳丘長約154mの野中宮山古墳が100mほどの近距離で隣接しているが、はざみ山古墳とは逆で、前方部が西を向いている。

藤井寺市の南部、野中交差点から北東の方向に見える樹木の茂った小さな山がはざみ山古墳で、前方部は東を向いている。

はざみ山古墳は、100基以上の古墳が集まる古市古墳群のほぼ中央にある前方後円墳で、5世紀中ごろの築造とされ、1996年に国史跡に指定。



写真は、はざみ山古墳外濠から遠方に覗く応神天皇陵遠景。

出土した埴輪が、約300m東の応神天皇陵の埴輪と共通しており、埋葬者は応神陵に関係の深い豪族ではないかと見られている。

はざみ山古墳墳丘のまわりに濠がめぐっているが、その外側には堤の存在が知られている。

叉、堤を輪郭付けるための掘り込みがあったことが発掘調査で確認されている。

一方野中宮山古墳は、墳長約154m・後円部径約100m・高さ約14.1m・前方部幅約75m・高さ約10.1mを測る。











写真は上から、野中宮山古墳墳丘の全体像、同古墳周濠に隣接する民家の様子、同周濠が畑地化した様子、前方部周濠とマンションの光景及び畑地から見上げる墳丘光景。

野中宮山古墳も墳丘のまわりに濠と堤があり、堤を輪郭付けるための掘り込みも確認されている。

後円部頂には板状の割り石が散乱しており、竪穴式石槨の可能性があるという。

当地は、「藤井寺八景」として桜の名所に選ばれている。







大阪府羽曳野市の高鷲丸山古墳とは!

2011年05月10日 | 歴史
高鷲丸山古墳は、丸山と呼ばれる径約75mの大円墳と平塚と呼ばれる一辺約50mの方墳からなり、一見前方後円墳のように造られているが、前方部は後世に方墳を取り込んで付け加えられたもので、宮内庁によって雄略天皇陵に治定されている。





写真は、雄略天皇陵方墳と円墳の繋ぎ目及び円墳と方墳合体の見取図。

古代天皇陵が前方後円墳を前提とすれば、高鷲丸山陵は天皇陵の候補から外れるが、雄略天皇は「倭の五王」の一人「武」であり、当時の中国宋の墓制の円墳を採用したとの見方もある。





写真は、河内大塚山古墳全景及び仲哀天皇陵・岡ミサンザイ古墳後円部遠景。

しかし、より現実味のある候補として、河内大塚山古墳または岡ミサンザイ古墳(現・仲哀陵)が雄略天皇陵と考えられている。

雄略天皇は、埼玉県行田市の稲荷山古墳から出土した鉄剣銘に記されている「獲加多支鹵大王(ワカタケル)」と同一人物ともされている。

出土した埴槍は古墳中期時代のものと考えられる。実際の雄略陵は、墳丘長325mの前方後円墳・河内大塚山古墳と考える説もあるが、最近では岡ミサンザイ古墳を堆略陵と考える説が有力になってきている。

457年、安康天皇が眉輪王(まよわのおおきみ)に暗殺されるという事件が発生する。すかさず安康天皇の実弟である雄略天皇は、異母兄の二皇子を疑い、眉輪王及びその協力者である坂合黒彦皇子(允恭天皇の皇子)を攻め、更に履中天皇の第一皇子であった政敵の市邊押磐皇子らを滅ぼし、泊瀬朝倉宮で自ら即位する。

大伴・物部を中心とした伴造系氏族の武力を背景とし、葛城系と見なされる眉輪王らの「葛城系勢力」を排除しての即位であった。

その後、「大伴・物部系」の平群真鳥(へぐりのまとり)が大臣、大伴室屋・物部目が大連に任命されている事から、当時の二大勢力に後押しされての大王就任だった事がわかる。

雄略23年8月に崩御したが、陵墓は、明治政府によって羽曳野市島泉の“丹比高鷲原陵”とされたが、現在の学説では、大阪府松原市西大塚にある大塚山古墳説が有力視されている。

雄略9年、天皇は朝貢してこない新羅を征伐するため、大伴談・紀小弓・蘇我韓子らを新羅に派遣する。

雄略21年(477年)、百済に任那の一部を割譲し、百済はこの地を新都として再興するが、日本書紀には、他にも小さな闘いを全て武力で鎮圧したと記されている。

これらから、雄略は武力に長じた強力な大王だったと思われ、宋に上表文を送った「倭の五王」の一人「武」に比定される。478年、倭王「武」が宋に送った上表文には、「私の先祖は、自ら甲冑を纏い山川を跋渉し戦を続け、東は毛人55カ国を、西は衆夷66カ国を征服し、また海北へ渡り95カ国を平定した。」とある。

そして宋から「武」は、「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭王」に任ぜられている。

日本書紀によれば雄略天皇は、残虐非道な暴君として記録されている。市邊押磐皇子(いちべのおしはのおうじ)を殺した時のやり方は残虐で、体を切り刻み、馬の飼い葉桶に入れて土中に埋めたと伝えられる。

雄略2年、妃に望んだ百済の池津姫(いけつひめ)が石川楯(いしかわのたて)と密通していることが露呈した。天皇は激怒して大伴室屋(おおとものむろや)大連に命じて来目部(くめべ)を派遣して二人を磔にしたあげく焼き殺した。

また吉野宮に行幸した際、狩りの獲物の事で部下の言動に怒り、御者を斬り殺した。

天皇はまもなく還幸したが群衆は恐れおののいた。心を痛めた皇后は、宍人部(ししひとべ)を設けることを提案して天皇を諫め、天皇もこれに従ったとされる。

『宋書』・『梁書』に記される「倭の五王」中の倭王武に比定されたが、その倭王武の上表文には周辺諸国を攻略して勢力を拡張した様子が表現されており、熊本県玉名郡和水町の江田船山古墳出土の銀象嵌鉄刀銘や埼玉県行田市の稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣銘を「獲加多支鹵大王」、すなわちワカタケル大王と解して、その証とする説が有力である。

ということで、5世紀後半には大和朝廷の実権が日本全土の大半にまで及んでいた有力な証拠となった。

これらの説に則れば、考古学的に実在が実証される最古の天皇である。

『日本書紀』の暦法が雄略紀以降とそれ以前で異なることや、『万葉集』や『日本霊異記』の冒頭に雄略天皇が掲げられていることから、まだ朝廷としての組織は未熟ではあったものの、雄略朝のヤマト王権の勢力が拡大強化された歴史的・画期的な時期であったと古代の人々が捉えていたとみられる。

しかしその後も独断専行の残虐ぶりは続き、多くの人々を殺害したため「はなはだ悪しくまします天皇なり」という評価を後世に残す。

雄略天皇の治世下では、大和や河内の豪族等が武力で制圧され、多くの政略結婚が繰り返されていたことが伝えられている。

日本書紀によれば、吉備氏もこの天皇の御代にその配下に組み込まれた。勢力拡大の範囲は北から南に及び、埼玉県稲荷山古墳出土の大刀の漢文表記の銘文からもその勢いの凄まじさが想像できる。





大阪府柏原市の松岳山古墳とは!そのⅡ

2011年05月08日 | 歴史
ここからは、松岳山古墳から出土した貴重な遺物について、紹介する。



写真は、松岳山古墳から出土した、立派な円筒埴輪類。

円筒埴輪列が確認されており、前方部前面の墳裾には鰭付楕円形円筒埴輪が配置されていたと云う。

円筒埴輪・朝顔形円筒埴輪もあり、墳丘の調査では布留式の土師器壺・小形丸底壺なども出土している。









写真は、松岳山古墳の墳頂光景、同古墳から出土した組合式石棺、逆方向から見た同組合式石棺及び石棺側壁のクローズアップ光景。

後円部の頂上には、写真のような組合式長持形石棺があり、蓋と底に各1枚、側面に4枚計6枚の石を組み合わせた大きな石棺があり、蓋石と底石には堅い花崗岩を、側面の石には柔らかい凝灰岩を使っているが、長4.6m・高1.3m・幅1.9mほどを測る。

蓋石の南端中央と側石の南北両端には各1個の縄掛突起があり、南北小口石の外側には副室が設けられている。

石棺の中は、頭や体の部分にあわせて底石を浅く彫り込んでいるが、その北側には枕が施されている。

埋葬施設からは、国宝「船氏王後首の墓誌」(長さ29.4cm、幅6.6cm、厚さ0.1cmの銅板の墓誌で、表面に86字が陰刻されている)をはじめ、数種の副葬品が出土している。

銘文を要約すると「“王後”は船氏の中興の祖・王智仁の孫で、推古・舒明両朝に仕え勲功あり、大仁の位を賜わった。舒明天皇13年(624)に亡くなり、天智天皇7年(667)松岳山に妻安理故能刀自と共に兄の刀羅古首の墓に並べて合葬った」とあり、墓誌は合葬の時につくられたとみられる。

叉石棺の周りには、板状の石が多く落ちているが、元々これらの安山岩を積んで、石棺を納める竪穴式石室が造られていた痕跡と見られる。

この石室は、いつの頃か盗掘の時に壊されたらしい。また、石棺の南北に、写真のような、穴の空いた巨石が立っている。石室の一部のように見えるが、実際にはどのような役割があったかは不明。

発掘調査により、石室からは勾玉・管玉・ガラス小玉などの装身具や銅製の鑵(薄い銅板で作った容器)などの副葬品が多く見つかったと云う。

中でも総重量50kgにもおよぶ鉄製の武器や農工具類が注目されている。

また、古墳の周囲には円筒埴輪や巨大な楕円形の埴輪が立てられていたことも分かったと云う。

石棺の形や出土品などから、古墳時代前期の後半、即ち今から1600年くらい前に造られたと考えられている。

墳丘南側くびれ部の中段テラスで箱形石棺、墳裾では竪穴式小石室が検出されており、同様の施設が他の箇所にも存在する可能性がある。





大阪府柏原市の松岳山古墳とは!そのⅠ

2011年05月06日 | 歴史
ここでは、古市古墳群からは、チョット外れるが、柏原市の国分神社境内に同居する国指定史跡を紹介する。

その名は松岳山(まつおかやま)古墳群と称され、国分神社がある丘陵上に所在する国指定史跡で、前方後円墳・小円墳・方墳などが10基ほどある。

松岳山古墳は、ヌク谷北古墳や茶臼塚古墳を含む松岳山古墳群の盟主墳で、古市古墳群との関係も重視されているが、地理的にはチョット東側に外れている。





写真は、国分神社鳥居と社殿。

国分神社創建当時の現在地には、推古・舒明の両天皇に仕えた“船氏”(帰化人)が住んでおり、中国の接待方法・技術等を伝え、その才に勲功があったとして、当神社の背後の松岳山の上に葬ったと伝えられている。

その墓が当前方後円墳で、国指定史跡として当神社が所有していると云う。

船氏は朝鮮半島百済から来た渡来系氏族で、日本書紀には、欽明天皇14年(553)に、船氏の祖・王辰爾(おうじんに)が、蘇我稲目の命令により淀川を往来する船から通行税を徴収して記録することに功績があったので、朝廷から「船氏」の姓を授けられたという記述があるらしい。

本前方後円墳は、標高約65mの丘陵上にあり、水田からの比高26mで、前方部2段・後円部4段以上を測る。

複数の埋葬施設があることから、船氏親族の合葬と考えられ、また小円墳や方墳は船氏一族の墓群と見られる。











写真は上から、国府神社境内に所在する松岳山古墳の遠景、本古墳看板に誘導された登り口、誘導路途上に立てられた石碑、墳頂への誘導歩道及び古墳内の散策道。

本古墳は、この古墳群の中でもっとも高いところにある、唯一の前方後円墳で、長さ約130m・後円部直径約72m・高さ約16m・前方部幅約32m・高さ約6m・くびれ部幅約20mを測り、竪穴式石室を持つ。





写真は、松岳山古墳の石材散乱状況とシャープな墳丘傾斜の様子。

周囲には板状の石を斜めに積んだ墳丘部分がみられ、これを加えると古墳の全長は約155mにもなるらしい。

墳裾には扁平な板石を葺いた15~20°の傾斜をもつ外周施設帯も巡っている。

墳丘斜面の葺石には、板石・円礫・角磯が併用されているが、テラス部分には円・角礫が用いられていると云う。



大阪府藤井寺市の仲津山古墳・仲姫陵とは!そのⅡ

2011年05月04日 | 歴史
仲津山古墳・仲姫陵巡りを続けます。

先ずは5世紀頃の河内平野地図から見てみましょう。



大和盆地の狭い範囲にこだわらないというような前提条件により、写真中央のように、5世紀第4四半期に日本第2位の墳丘長415mを誇る羽曳野市の第15代応神天皇陵の造営に繋がる。

5世紀第2四半期には日本最大の大仙陵古墳(現仁徳天皇陵)が百舌鳥(現堺市)地方に誕生していた。

将に大王級の中でも突出した古墳が、墓域を大和盆地から河内・和泉地方に切替えたことになる。

海浜近くに進出することにより、渡来人・外交上の重鎮に対する圧倒的プリゼンテーション効果を狙ったのではないかと思われるが・・・・。







写真は上から、仲津山古墳外堤が遊歩道と民家で占拠された様子及び同古墳の陪2拠点。

本古墳の大きな特徴として、墳丘を巡る周濠は狭いが深い。その周りの外堤は幅が広い。

現在は写真の通り、外堤の上にも住宅が密集しているが、周濠の周りにフェンスが巡らされている。

本古墳の南方にあって、陪塚とされる三ツ塚古墳群からは、古代の木ぞり「修羅」が発見されていると云う。

仲津山古墳の規模は、古市古墳群の中で誉田山古墳に次いで大きく、全国でも9番目にランクされると云う。

夫応神天皇がヤマト王権に君臨した時代の前後は、皇后の権威あるいは権力が強かった時代といえるのではないかと思われる。

奈良市の佐紀盾列古墳群には、古墳群の中で最大の全長約273mを誇る五社神(ごさし)古墳があるが、応神天皇の母・神功皇后の陵墓に比定されている。

仲津山古墳の埋葬施設の構造や副葬品に関し、詳しいことは公表されていないが、石棺が存在するらしいこと、勾玉が出土したことなどが伝わっている。

外堤部の発掘調査では4カ所で円筒埴輪や蓋・盾・靱などの形象埴輪が見つかっているらしい。





写真は、応神天皇陵側景と外濠光景。

墳丘長約415mの墳丘規模を的確に捉えることは困難。

管理事務所を中心に墳丘規模全体を収めようとした写真だが、管理事務所の左横に墳丘正面入口がある。

応神天皇陵の埴輪は、それまでの野焼き中心から全て窯で焼かれ、表面の仕上げも精美で埴輪の些細なところまで管理の手が及んだと言われている。

しかしこの時期をピークにこれ以降、墳丘規模について規制のブレーキがかけられたようだ。

一説によると応神天皇陵造営に要した時間・労力は、延べ20万人が4年を要したと推定されている。



大阪府藤井寺市の仲津山古墳・仲姫陵とは!そのⅠ

2011年05月01日 | 歴史
河内地方の墳丘自体が傑出するのは、5世紀第1四半期造営の古市古墳群の一つ・仲津山古墳(現仲姫陵…応神天皇の皇后)からで、百舌鳥古墳群と共に圧倒的規模の墳丘が河内・和泉地方に展開された。





写真は、仲津山古墳後円部から望む外堤に密集した民家群及び本古墳・仲姫陵の正面入口光景。

本古墳は、民家の住宅に囲まれて鬱蒼とした場所にあり、国府台地の最も高い位置に、前方部を南西に向けて築かれている。

拝所は民家と民家の間の狭い場所にあり、うっかりすると見過ごしてしまいそうな住宅地に所在する。







写真は上から、仲津山古墳前方部から望む後円部光景、本古墳後円部墳丘の様子、同前方部光景。

本古墳の規模は、墳丘長約290mを測り、前方部幅約193m・後円部の径約170mで、前方部の幅が後円部の直径より20m余り広い。

両者の高さを比べると、前方部が23.2m、後円部が26.2mと後円部の方が若干高い。

くびれ部の両側に方壇の形をした造出しが完備し、3段に築かれた墳丘のプロポーションが美しい。

仲姫陵は、夫応神天皇陵から国道を挟んで反対側の対角線上にあり、応神天皇陵造営前に既に築造された、計画的墳丘墓と言えるのではないか?

このような大王級墳墓の墓域が、以前の大和盆地という狭い範囲にこだわらず、河内地方にも進出したことになる。