近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

芦屋市の打出小槌古墳とは!

2009年04月30日 | 歴史
打出小槌古墳は、発掘調査の結果、幅約9m・深さ1mほどの周濠が確認され、その形状・特質から前方後円墳であることが判明。

更に前方部推定長40m・全長80~90mクラスの前方後円墳になることが明確になったと云う。







写真は上から、打出小槌古墳が存在していた住宅地、本古墳在所の記念石碑及び出土した円筒埴輪。

本古墳の歴史的経緯は、江戸時代には墳丘が削られ、その後近代までは水田として利用されたが、近代以降徐々に宅地化されてしまった。

芦屋という土地柄もあり、宅地化の開発圧力には抗し切れなかったらしい。

墳丘西側の周濠には、渡り堤(陸橋部)と呼ばれる施設が造られ、この陸橋部の上面は削平を被らず、築造時のままの状況をそのまま保っていった。古墳築造の際、土砂や埴輪、葺石を運ぶ作業労働者の通る道になっていたと思われる。

墳丘部斜面には葺石をほどこし、周濠内には多数の円筒埴輪・形象埴輪が出土した。又県下でも数少ない入れ墨を入れた人物埴輪などの出土で注目された。

円筒埴輪には土師質のもの以外に須恵質焼成のものが1~2割程度含まれており、築造年代は5世紀後半~末と推定される。

市内の首長墓は、阿保親王塚古墳(4世紀前半)⇒金津山古墳(5世紀後半)⇒打出小槌古墳(5世紀後半から末)の変遷がたどられる。

大型古墳の前方後円墳から帆立形、方墳へと形が変わり、規模も縮小化するが、その中にあって、当古墳は当地方最大クラスの大きさで、古墳時代中期、倭の5王の一人、雄略の頃には、芦屋地方の豪族が阪神間にあって、著しく勢威を強めていた様子がわかる。

芦屋地方の豪族としては当時の文献より、“芦屋倉人”や“芦屋漢人”・“芦屋村主”という渡来系氏族の記事があり、当地にも一部が移り住んでいたと見られる。

従って大和朝廷成立後6世紀末にいたるまでの芦屋の住人たちは、ヤマト朝廷の隷属下にあった渡来系有力氏族に率いられていたと考えられる。


加古川市の西条古墳群とは!

2009年04月28日 | 歴史
加古川左岸に近い“城山”から南に向かって延びる台地上に約1kmにわたって分布する古墳群は摂津・播磨地方を代表する古墳群。

人塚・尼塚・行者塚など5世紀の中期古墳の他、それら周辺には数十基の後期古墳が群集している。

中でも行者塚古墳は最大の古墳で、1973年に国の史跡指定を受けている。
国史跡指定以降も何回となく発掘調査が繰返され、多くの新たな事実が発見されたと云う。





写真は上から、行者塚古墳全景及び古墳現場。

古墳時代中期初め頃の前方後円墳で、全長約100m・後円部直径68m・高さ約9mの3段築成で、両側には方形の造り出しが左右対称に4ヵ所設けられている。





当古墳から出土した家形埴輪2点。

造り出しには祭祀の場として家形埴輪を並べ、その前に高坏を置き、土製の供物を飾ったと見られる。

又各段の斜面には葺石が葺かれ、幅広いテラス状の平坦面が巡っている。
平坦面の中央には円筒埴輪が並べられていた。

埋葬施設内には粘土で包まれた木棺と見られる痕跡が3ヶ所に認められ、副葬品として金銅製金具や朝鮮半島より渡来した鉄製品・巴形銅器などが検出されている。

周辺の古墳群と合わせ当地は5世紀から7世紀という長期にわたって古代豪族の拠点であったことが分かる。



西条52号古墳現場。

古墳の調査中、“城山”の西隅にある本古墳は、他の古墳よりはるかに時代をさかのぼる、およそ3世紀の前半の古墳であることが分かった。

西条52号墳は径約15mの円墳で、わずかに盛り土があり、播磨地方でも発見例の少ない弥生時代の墳丘墓であったと云う。



写真は、西条52号墳から出土した内行花文境。
その他の出土品としては、鉄・高杯・壷等がある。

ヤマト朝廷のホケノ山古墳と共通する墳形や埋葬施設、副葬品は、同じ信仰や価値観念を共有し、結びついていた証拠として、邪馬台国と、それを支えた国々の一つだろうと推定される。









芦屋市の阿保親王塚古墳とは!

2009年04月26日 | 歴史
阿保親王塚古墳は、芦屋市域最古の前期古墳で、4世紀後半の築造。
六甲山の南麓、翠ヶ丘台地上に立地する円墳で、径約36m・高さ約3mを測る。

これまで発掘調査は実施されていないが、宝永年間(1704~1711)に古墳の改修工事をした時に、副葬品の一部とみられる銅鏡10枚が出土しており、四神二獣の三角縁神獣鏡の存在が特筆される。





写真は、阿保親王塚古墳正面入口と全景。

阿保親王塚古墳は、大きな木が鬱蒼と茂った森の中にあり、写真の通り“阿保親王墓”として宮内庁が管理している。

現在平城天皇の皇子・阿保親王(西暦792〜842)が祀られており、親王は深く打出浜の眺望を愛で、ここに別邸を営んで風月を友とせれたと伝えられている。周囲350mほどの陵域は旧打出村の自然美を伝える。

平城上皇が平城京遷都の際、嵯峨天皇との対立で“薬子の乱”が起こり、大宰府へ左遷されることになるが、そのとき、阿保親王も平城上皇に連れられ、約14年、大宰府で過ごしたらしい。

そのような不遇もあり、晩年はここ打出浜を別邸にしたのかもしれない。

しかし、この古墳は出土遺物からも築造時期は、阿保親王の没年(842年)よりも500年ほど古いと見られ、古墳名は被葬者とは全く関係ないと云える。

むしろ本墳の性格は、翠ヶ丘古墳群の最有力首長墓で、多量の三角縁神獣鏡の存在から、畿内政権と直接結びついた被葬者が想定される。

尚元禄4年の阿保親王850回忌を機に、親王の嫡孫の流れを汲む“長州毛利家”が墓域を改修し、燈籠を寄進するなど整備に努めたと伝えられている。

阿保親王墓の拝所正面にある石燈籠が、長州藩主毛利候の寄進らしい。


神戸市東部の古墳群とは!そのⅢ

2009年04月23日 | 歴史
神戸市東部の代表的古墳の特徴を、引続き辿っていきます。

☆東求女塚古墳
西求女塚古墳と処女塚古墳が遺跡公園として整備されているのに対して、東求女塚古墳は、明治時代に阪神電車敷設の土取りで取り壊され、現在は碑が残っているのみ。







写真は上から、本古墳の墳丘一部と背景の六甲山及び本古墳の大正時代の記念碑。
この碑は阪神本線「住吉」駅から歩いて5分ほど行った公園の中にある。

神戸市東灘区が設置した、記念碑に付け加えられた案内板の文章は以下の通り。

「東求女塚古墳は、御影塚町の処女塚古墳、灘区都通の西求女古墳とともに『葦屋の菟名負処女(うないおとめ)』をめぐる悲恋伝説ゆかりの塚として古くから有名です。伝説では、菟名負処女をめぐって争った信太壮士の墓だといわれているが、実際は、このあたりを支配した豪族の墓と考えられている。」

六甲山麓周辺には、“スサノオ”を祀る神社が多く、その外側に廣田神社・生田神社を中心とする八幡信仰がある。

最初はスサノオを信仰する人々が住んでいて、そのあと“住吉族?”が瀬戸内方面から入ってきたという見方もあるらしい。

現在、写真の通り、墳丘の一部は公園の中に残っているが、墳丘のほとんどは、土取りによって消滅した。

昭和57年、“遊喜幼稚園”の園舎改装工事に伴って行われた発掘調査では、前方部の墳丘裾部と周濠が発見されたと云う。また、公園整備に伴う調査で、後円部の裾部も残っていることが分かったと云う。

これらの調査の結果から、前方部を北西に向けた全長約80mの前方後円墳で、前方部幅42m・長さ42m・後円部径47mもあり、墳丘の斜面には石が葺かれていたことが分かった。

東求女塚古墳から出土した遺物は、銅鏡・車輪石・剣・玉などで、明治時代の壁土取りの際に発見されたらしい。これらの遺物は、現在、東京国立博物館に保管されている。

この古墳が造られた年代は、出土した遺物から、4世紀後半と考えられている。

東求女塚古墳は別にして、他の2古墳は前方後方墳であり、大和に近いこの地に造られた前期古墳が前方後方形をとっているのはなぜか?

4世紀後半以降には、ヤマト朝廷の威信が広がり、そのシンボルである前方後円墳化が進んだと思われるが・・・・・。

その間、前方後方墳は東海地方から東の地域に多く分布するほかに、出雲地方に多い点や、又出土土器が山陰系であることからも、山陰地方との親密な交流が窺い知れる。

神戸市東部の古墳群とは!そのⅡ

2009年04月21日 | 歴史
神戸市東部古墳群の特徴について更に続けます。
☆西求女塚古墳とは!
西求女塚古墳は、兵庫県神戸市灘区にある全長約98mの大型前方後方墳で、副室付竪穴式石槨と割竹形木棺が出土。









写真は上から、神戸市灘区西求女古墳公園、本古墳前方部から望む墳頂、墳頂から望む前方部及び本古墳から出土した三角縁神獣鏡。

築造年代は3世紀後半と推定され、国の史跡に指定されている。

本古墳は処女塚古墳と共に、万葉集や大和物語などに登場する悲恋伝説の舞台であり、近年は邪馬台国の卑弥呼が魏の皇帝から贈られたといわれる、三角縁神獣鏡が7面出土(1993年)したことで知られる。

また石室の石材は徳島県や和歌山県産の他、各地の材質から成り、又地元の土器は無く、山陰系土器が出土したことから、古墳時代に大和王権のもと、山陰などを含めて支配していた豪族の墓とされる。

神戸市東部に存在する前期古墳の被葬者が、大和政権の誕生前後の時期にどのような役割を演じたのか興味は尽きないが・・・・。

1964年に邸宅だった土地が神戸市の公園となり、現在は写真の通り、遺跡公園「求女塚西公園」として整備されている。



神戸市東部の古墳群とは!そのⅠ

2009年04月19日 | 歴史
前述の通り、神戸市沿岸は、ヤマトから瀬戸内海・朝鮮半島・中国大陸への戦略的海上交通ルートとして早くから注目され、特に弥生・古墳時代には考古学的にもそれを裏付ける発見が相次いできたが、ここでは古墳時代前期の神戸市東部の情況を辿ってみる。

☆処女塚古墳
処女塚古墳は、神戸市東灘区御影塚町にある全長70mの前方後方墳で、前方部幅32m・高さ4m、後方部の幅39m・高さ7mほどあり、箱式石棺が出土。











写真は上から、神戸市東灘区の処女塚古墳公園、本古墳全景、本古墳と背景の六甲山、古墳の西側ビュー及び本古墳から出土した箱式石棺。

築造年代は4世紀前半と推定されている。1922年3月には国史跡に指定された。

主に山陰系土器が出土しており、石屋川流域に存在する郡家遺跡集落の一部とされている。

伝説では莵原処女(うないおとめ)の墓とされているが・・・。
本古墳の所在地から西約2000mの位置にある西求女塚古墳、東約1500mの位置にある東求女塚古墳、それぞれが処女塚古墳の方向を向いた形になっている。

昭和54年の発掘調査の結果、墳丘斜面での葺石の存在、前方部は二段構築であることが分かったと云う。又築造当時は海岸のすぐ側だったのではないかと考えられている。

万葉集や大和物語などに登場する、悲恋伝説の舞台として知られている。

菟原処女の悲恋伝説とは、
「この地に美しい菟原処女が住んでおり、多くの求婚者がいたが、特に熱心だった“血沼壮士”(ちぬおとこ)と地元の“菟原壮士”(うないおとこ)が武器を持っての争いとなり、乙女は立派な若者を自分のために争わせたことを嘆いて死んでしまった。

2人の若者もそれぞれ後を追って死んでしまい、それを哀れに思った人たちが、後々に語り伝えるために3人の塚を築いた、という伝説。」

この伝説は奈良時代の万葉集に登場する歌人たちが歌に詠んでいることから、かなり古い伝説であったらしい。

古墳の築造から、少なくとも400年以上が経過しており、古墳の主の名も分からなくなっていたに違いない。現在処女塚古墳を挟んで東西の求女塚古墳の名称もこの物語によって作られた可能性があると云う。




姫路市の飯田遺跡とは!そのⅡ

2009年04月16日 | 歴史
姫路市飯田遺跡の新発見について、更に続けます。





写真は、現地説明会当日に残されていた、焼失住居跡の炭化された板材。

見つかったのは縦約1.2m・幅8~15cm・厚さ0.5~4cmほどの薄い板材で、15枚ほどが重なるように並び、高さ約1.2m・幅約70cmの壁のように固まった状態で出土した。

同遺跡からは一辺5m程度の四角形の床を持つ竪穴住居が14棟確認されており、板材はそのうちの1棟の縁付近から出土した。

この竪穴住居は、高さ1.2m以上の板壁で囲まれ、壁の上に屋根がふかれていたらしい。

竪穴住居は、多角形や円形に掘った床面に柱を立て、かやなどの屋根をふいた建物。農村家屋の原形ともいわれ、縄文時代から築かれた。

兵庫県立考古博物館によると、古墳の副葬品の家形埴輪や銅鏡に描かれた家屋に壁があり、板を表したとみられる筋があるものもあることから、古墳時代までには壁板が登場したと考えられてきた。

竪穴住居に詳しい同博物館館長は「壁があれば窓も作れて室内は広く明るくなる。休むくらいしかできない暗い生活から脱却し、室内でも仕事ができる板壁と窓のある建物が3世紀にさかのぼることが実証された!」と話している。









写真は上から、南側の集落と北側の墓域を区画する大溝、二重口縁付土器、庄内式土器及び讃岐・因幡・河内など西日本各地から運ばれてきた土器類。

大溝は、幅約3m・深さ約1.5mもあり、断面がV字形をしている。

大溝・流路から出土した、地方色豊かな大量の土器は、当時この地域が重要な拠点であったことを物語っている。

起伏のある地形に河道などが複雑に流れていたと推定され、流路には当時の土器など身近な道具が捨てられ、今回の発掘結果は、当時の暮らしぶりを知る貴重な資料という。




姫路市の飯田遺跡とは!

2009年04月14日 | 歴史
姫路市飯田の飯田遺跡は、4回に及ぶこれまでの発掘調査で、弥生時代から古墳時代を中心に、中世にかけて営まれた大規模集落跡であることが判明している。

今回の第四次発掘調査は、長越橋と飯田橋間の船場川沿いの西側に所在する、船場川東区拡幅工事で、竪穴住居跡・流路・河道・大溝・土坑・柱穴や大量の土器類が検出された。









写真は上から、拡幅工事中の船場川、飯田遺跡の発掘現場風景、平成21年3月中旬に開催された現地説明会光景及び引続き発掘調査中の出土土器・板材や溝跡も見える。

竪穴住居跡は、一辺4~5mほどの方形で、4本の主柱穴を持つものが多く、炉と考えられる浅い土坑が見られる。

発掘調査は、平成21年3月末まで継続されると云う。





本遺跡からは、3世紀頃・弥生時代末期~古墳時代初頭の竪穴住居跡から建築部材の壁板が出土した。焼失された住居跡に残され、炭化された板材から推測される、写真のような断面想像図と復元住居写真。

初期の竪穴住居は屋根を地面までふき下ろすのが一般的で、家形埴輪などから古墳時代(3~7世紀)までに板壁が登場したと想像されてきたが、実際に竪穴住居の板壁が見つかったのは今回が初めてという。




たつの市御津町の綾部山39号墳とは!そのⅡ

2009年04月12日 | 歴史
綾部山39号墳について、更に続けます。
先ずは、本古墳の積石造りを外観してみましょう。





写真は、綾部山39号墳の竪穴式石槨。



写真は、綾部山39号墳の突出部周辺。

多角形の墳丘の一隅に設けられた突出部は、古式の四隅突出型墳丘墓の突出部を思わせる、長さ約1.6m・幅約1mの狭小なもの。

多角形の墳丘は、岡山県津山地方の墳墓のように“一隅突出の五角形”を思わせる。

また、突出部と墳丘の境の両側には配石を伴う箱形木棺が2基伴い、徳島県の萩原1号墓に似た配置となっている点も興味深いところ。



上の写真のような副葬品、画文帯三神三獣鏡1面のほか、砥石1個体・碧玉製管玉・鉄製ヤリガンナ1本・少量の讃岐系土器片などが出土。

以上の内容から、築造時期は弥生時代終末~古墳時代初頭と推定され、被葬者と阿波・讃岐地域との密接な関係が窺われる。

ということで、“石囲い竪穴式石郭構造”が、“ホケノ山古墳”の構造・「石囲い・木槨・木棺」に似ており、石槨と木槨とが違うだけの構造。

副葬品の画文帯神獣鏡・管玉・砥石・ヤリガンナなども、ヤマト・箸墓古墳傍の、ホケノ山古墳(3世紀中頃:卑弥呼の没年の頃)に似ていると云われている。

ホケノ山古墳と共通する墳形や埋葬施設・副葬品は、同じ信仰や価値観念を共有し、結びついていた証拠で、その中心が邪馬台国であり、畿内地方とも密接な関係を持っていた人物で、後の大和王権につながっていると云える。







たつの市御津町の綾部山39号墳とは!そのⅠ

2009年04月10日 | 歴史
綾部山古墳群は揖保川河口の西側、瀬戸内海を眺望できる海岸沿いに西走する、綾部山の尾根上に展開する。

本古墳群のうち、綾部山39号墳は、平成15年2度に亘る、綾部山麓線の改良道路工事に伴い発見されたが、綾部山地で39番目の古墳遺跡。







写真は上から、たつの市御津町綾部山古墳群の墳頂部梅林、本古墳の墳頂部から望む瀬戸内海及び本墳頂部から望む姫路市街遠景。

播磨灘に面した丘陵地一体に広がる綾部山梅林は西日本随一の梅の里で、2月中旬から3月後半の観梅期は、紅白の花で埋め尽くされ「ひとめ2万本」と言われる見事な盛りを迎える。

また、綾部山には3~6世紀の古墳30基ほどが散在しており、さまざまな句碑や歌碑にも接する事ができると云う。







写真は、綾部山39号墳現場。

綾部山先端部の小高い尾根上・標高27mほどに立地している。南側に瀬戸内海、北東方向には、写真の通り、菜の花畑が眺望できる風光明媚な場所。

墳形は円形を意識した多角形で墳丘の裾部に列石を巡らし、南北約15m以上・東西10m・高さ約1.7mを測る。

中心部の埋葬施設は箱形木棺を竪穴式石槨で覆い、その周囲は河原石を積んで囲む特徴な形態を示す。

竪穴式石槨は割石小口積みで壁体をほぼ垂直に積むもので、木蓋と推定される。

ということで、綾部山39号墓では平成15年9月、二重構造の埋葬施設と画文帯神獣鏡が出土し、墳形も前方後円形の可能性が強いとされる。

石槨部の石囲い施設は、讃岐や阿波地域で発達したもので、古墳出現期の徳島県西山谷2号墳の墓壙の「積み石」などにその影響が認められると云う。

次回に続く・・・・・


兵庫県の古墳を巡って・・・古墳時代前夜とは!

2009年04月08日 | 歴史
滋賀県内の古墳巡りは、ひとまず終わって、これからは兵庫県の古墳巡りに移ります。
先ずはじめに、古墳時代がスタートする前の兵庫県内の歴史的背景を概観します。

兵庫県内の遺跡は、今から約20,000年前に人類が最初に住み始めた旧石器時代から近世にまで及んでいる。

神戸市と周辺の弥生時代の様相を概観してみると、本格的な集落が形成されたのは弥生時代からで、例えば近畿地方で初めて米作が行われた“水田”が須磨区の戎町遺跡であり、兵庫区の大開遺跡は米作りが始まった頃の低地につくられたムラであった。

西区の新方遺跡は明石川と伊川が合流する地点にあり、昭和45年山陽新幹線の建設工事に伴い発見され、以降これまでに旧石器から鎌倉時代にかけての遺構・遺物が確認されている。



写真は、神戸市の新方遺跡現場。

新方遺跡の範囲は、東西約1.5km・南北約1.0kmの広範囲に及ぶが、特に弥生時代前期の溝状遺構からは、3体の人骨を検出している。

頑丈な顎・頭骨・手足の骨、著しく擦り減った歯等縄文人的な特徴を持っていたことが分かっている。

又同じ遺構からサヌカイト製石鏃が多く検出され、3人体とも石鏃が刺さっていることから戦闘の犠牲者であると見られ、弥生前期には当地で激しい戦いが繰り広げられていたと考えられる。

弥生時代曙の時期に、外交・交易を目的とした瀬戸内海上・陸路の戦略交通ルートを巡って、既に凌ぎを削っていたかもしれない。

弥生中期後半になると瀬戸内沿岸から大坂湾にかけて高地性集落が出現した。代表例として、西区の頭高山遺跡では竪穴住居址やノロシを上げたと見られる跡などと共に、石剣・石鏃などの武器が多数見つかっている。

高地性集落は、大坂湾から瀬戸内海沿岸までの範囲にほぼ限定されており、多くは丘陵地や海を展望できる位置にあることから軍事的要塞のようなものであったと見られる。前述の通り、集落の遺跡からは焼け土なども発見され、ノロシの跡ではないかと推測されている。

芦屋市の誇る会下山遺跡は、三方共急斜面で将に天然の要塞として格好の場所。
当遺跡は、昭和30年代に発見された高地性集落の典型例として、全国的にも著名な遺跡になったと云う。





写真は上から、芦屋市の会下山遺跡現場及び鉄鏃など武器類。

当遺跡からの出土遺物を点検してみると、大型で重く殺傷力の高い戦闘用磨製石鏃や鉄鏃・石剣・石弾等の武器が非常に目立つが、乱世を反映していると云える。

ノロシを上げた跡も見られ、当時西宮山麓にも高地性集落が並んでいたこと、当遺跡からの展望は、眼下に山麓平野・淡路島から大坂湾を巡る地域を一望できること等を考え合わせると、戦乱に備えた連絡手段・防御戦術が見えてくる。

出土した土器類を分析すると、全体の約75%が弥生時代後期のモノと言われ、「倭国大乱」の時期に相当する。

会下山遺跡から観察・推測できる乱世情勢は、邪馬台国誕生前夜の「倭国大乱」を象徴しているように見える。

当時ヤマト朝廷の直接コントロールのターゲットにされていたため、当時の緊張関係がそうさせたかもしれない。

会下山遺跡は、弥生時代後期六甲山麓の“戦乱絵巻”を描けるようなエキサイティングな発見と云える。





滋賀県多賀町の楢崎古墳群とは!

2009年04月06日 | 歴史
楢崎古墳群は、犬上川によって形成された扇状地の扇頂部に位置する。

平成6~10年にかけての圃場整備事業に伴う発掘調査により、古墳時代後期の古墳、横穴式石室22基・小石室8基等合計37基が確認された。



フラットな平野部に形成された古墳時代後期の古墳跡地。当地には他に14~16世紀の豪族居館跡も検出している。

楢崎古墳群は、横穴式石室・小石室を有する直径4~14mの円墳で構成されていたと言う。



現在楢崎古墳公園が整備工事中の発掘現場で、復元された横穴式石室をもつ円墳の一つ。工事は平成11年3月末迄には完了。



復元された横穴式石室の内部。犬上川下流に所在する古墳は、墳丘規模が上流のモノと比べて小型であると言う。

石室形態は、右左方袖・左方袖・両袖・無袖と様々で、偏った分布は見られないと言う。先ず1号墳の築造を契機として、1号墳周辺に古墳を形成していったと思われる。

今年度の調査では古墳時代後期の古墳、横穴式石室7基・小石室5基他計24基が確認され、又小石室を有する一辺約6mの方墳も確認された。

従って同古墳群で検出された古墳総数は61基に及ぶと言う。



平成11年度の発掘調査現場。調査面積は約11.780㎡に及ぶ。特筆すべき点は従来に無かった方墳が確認されたこと。

平野部に形成された古墳群の形成過程を探ることが出来る、貴重な資料と言われる。更なる調査・研究成果が待たれる。







滋賀県栗東市の和田古墳群とは!

2009年04月03日 | 歴史
~渡来系文化の影響が強い・巨大勢力を持った一族の古墳とは!~

古墳時代後期の和田古墳群は円墳を中心に9基から成り、6世紀中頃から7世紀初頭に造られたと見られ、現在古墳公園として整備保存されている。



和田古墳群から9基の古墳が発見され、墳丘の埋葬施設は竪穴系横口式石室が多いのが特徴。古墳がある安養寺山他周辺には多くの古墳がある。

和田古墳群で特筆すべき点は以下の通り

☆渡来系文化の影響が強い!
当古墳群の石室床から発見された副葬品を検査した結果、金環などの装身具・馬具・武器等の中に渡来系のモノと見られる埋葬品が見られると言う。



墳丘サイズが11m×9mの円墳、和田古墳群の中で最も残りの良い石室を持ち、床には木棺に使われた釘と鎹が発見されたと言う。



和田古墳群第5号墳から見つかった純金製耳環、金張り耳環等高貴・高価な装身具類。
特に写真左側の純金製耳環は渡来系のモノと言う。



九州以南でしか取れないと言うイモ貝を使って、中央を飾り付けた馬具用鉄製雲珠、近畿地方では唯一の貴重な渡来系出土品と言う。

純金製耳環やイモ貝装飾付雲珠は、明らかに大陸・朝鮮半島からの移入品であり、このような豪華・貴重な副葬品を持てる被葬者は、古墳規模は小さいとは言え、当時一大勢力を持った地方豪族・小槻氏ではないかと考えられている。

当古墳からは、草津市・大津市の平野を一望に見渡すことが出来、古代のこの地は、周辺地域の中心地であったと見られる。



安土町の瓢箪山古墳とは!

2009年04月01日 | 歴史
近江では、古墳時代前期後半には、大和王権の前方後円墳と同一様式の安土町の瓢箪山古墳をはじめ、大津市膳所の茶臼山古墳、湖北町の若宮山古墳、志賀町の和邇大塚山古墳などが、琵琶湖を望む湖上交通の要衝の地に築かれている。

瓢箪山古墳は紀元400年頃に造られた、滋賀県で最古・最大級の古墳時代前期の古墳で、自然の山を利用した前方後円墳。





写真は、瓢箪山古墳登り口及び墳頂。

本古墳は、弥生時代の村として知られる大中の“湖南遺跡”から1kmほど離れた山の麓に造られた、全長160mほどの前方後円墳。

最古級の前方後円墳で、当時の蒲生・神崎両郡を支配していた古代豪族「狭狭城山君」(ささきやまのきみ)に関連すると考えられている。

昭和10年、土取り作業中、石棺が見つかったことを契機に、京都大学の手で発掘調査が実施され、その結果、前方部に2基の石棺、後円部に3基の竪穴式石室を持つことが明らかにされた。

特に後円部中央石室からは、銅鏡2面、鍬形石・石釧・車輪石などの腕飾り類、管玉、剣・刀、銅・鉄の鏃、短甲、斧、鎌、鉋などの遺物が出土した。
その種類の多彩で豊富なことから、被葬者は相当な権力者であったと推測されている。

自然の地形を利用した前方後円墳で、ちょうど瓢箪を二つに割ったような形をしているところからその名がついたらしい。

滋賀県下では、前期古墳以外にも中期のもので新旭町の稲荷山古墳、近江町の能登瀬山古墳があり、後期には大津市の百穴古墳群、能登川町の猪子山古墳、秦荘町の上蚊野古墳群などがある。

これらの古墳は地方豪族のものであるが、滋賀郡の春日山古墳群は和迩・真野・春日の各氏の墓であり、大津の穴太古墳は大友村主・穴太村主らのものであろうとされる。

被葬者と推測されている「狭狭城山君」とは、後の佐々木氏につながる豪族とされる。

日本書紀によれば、「狭狭城山君」の祖先は、第8代孝元天皇の子、大彦命だという。日本書紀には、「大彦命は、阿倍臣(安倍氏)、善臣、阿閉臣、狭狭城山君、筑紫國造、越國造、伊賀臣の祖なり。」とある。