打出小槌古墳は、発掘調査の結果、幅約9m・深さ1mほどの周濠が確認され、その形状・特質から前方後円墳であることが判明。
更に前方部推定長40m・全長80~90mクラスの前方後円墳になることが明確になったと云う。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/18/8e/635a7a11e9e88703aa410021968012f5.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/55/11/2dad0000462be01d363e1cb0173eb6d5.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/14/3f/dd0fa54c97b7441e1fc091febacd93ef.jpg)
写真は上から、打出小槌古墳が存在していた住宅地、本古墳在所の記念石碑及び出土した円筒埴輪。
本古墳の歴史的経緯は、江戸時代には墳丘が削られ、その後近代までは水田として利用されたが、近代以降徐々に宅地化されてしまった。![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/cat_6.gif)
芦屋という土地柄もあり、宅地化の開発圧力には抗し切れなかったらしい。
墳丘西側の周濠には、渡り堤(陸橋部)と呼ばれる施設が造られ、この陸橋部の上面は削平を被らず、築造時のままの状況をそのまま保っていった。古墳築造の際、土砂や埴輪、葺石を運ぶ作業労働者の通る道になっていたと思われる。![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/cat_1.gif)
墳丘部斜面には葺石をほどこし、周濠内には多数の円筒埴輪・形象埴輪が出土した。又県下でも数少ない入れ墨を入れた人物埴輪などの出土で注目された。
円筒埴輪には土師質のもの以外に須恵質焼成のものが1~2割程度含まれており、築造年代は5世紀後半~末と推定される。
市内の首長墓は、阿保親王塚古墳(4世紀前半)⇒金津山古墳(5世紀後半)⇒打出小槌古墳(5世紀後半から末)の変遷がたどられる。
大型古墳の前方後円墳から帆立形、方墳へと形が変わり、規模も縮小化するが、その中にあって、当古墳は当地方最大クラスの大きさで、古墳時代中期、倭の5王の一人、雄略の頃には、芦屋地方の豪族が阪神間にあって、著しく勢威を強めていた様子がわかる。![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/cat_8.gif)
芦屋地方の豪族としては当時の文献より、“芦屋倉人”や“芦屋漢人”・“芦屋村主”という渡来系氏族の記事があり、当地にも一部が移り住んでいたと見られる。
従って大和朝廷成立後6世紀末にいたるまでの芦屋の住人たちは、ヤマト朝廷の隷属下にあった渡来系有力氏族に率いられていたと考えられる。![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/cat_2.gif)
更に前方部推定長40m・全長80~90mクラスの前方後円墳になることが明確になったと云う。
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写真は上から、打出小槌古墳が存在していた住宅地、本古墳在所の記念石碑及び出土した円筒埴輪。
本古墳の歴史的経緯は、江戸時代には墳丘が削られ、その後近代までは水田として利用されたが、近代以降徐々に宅地化されてしまった。
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芦屋という土地柄もあり、宅地化の開発圧力には抗し切れなかったらしい。
墳丘西側の周濠には、渡り堤(陸橋部)と呼ばれる施設が造られ、この陸橋部の上面は削平を被らず、築造時のままの状況をそのまま保っていった。古墳築造の際、土砂や埴輪、葺石を運ぶ作業労働者の通る道になっていたと思われる。
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墳丘部斜面には葺石をほどこし、周濠内には多数の円筒埴輪・形象埴輪が出土した。又県下でも数少ない入れ墨を入れた人物埴輪などの出土で注目された。
円筒埴輪には土師質のもの以外に須恵質焼成のものが1~2割程度含まれており、築造年代は5世紀後半~末と推定される。
市内の首長墓は、阿保親王塚古墳(4世紀前半)⇒金津山古墳(5世紀後半)⇒打出小槌古墳(5世紀後半から末)の変遷がたどられる。
大型古墳の前方後円墳から帆立形、方墳へと形が変わり、規模も縮小化するが、その中にあって、当古墳は当地方最大クラスの大きさで、古墳時代中期、倭の5王の一人、雄略の頃には、芦屋地方の豪族が阪神間にあって、著しく勢威を強めていた様子がわかる。
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芦屋地方の豪族としては当時の文献より、“芦屋倉人”や“芦屋漢人”・“芦屋村主”という渡来系氏族の記事があり、当地にも一部が移り住んでいたと見られる。
従って大和朝廷成立後6世紀末にいたるまでの芦屋の住人たちは、ヤマト朝廷の隷属下にあった渡来系有力氏族に率いられていたと考えられる。
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