近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

東大阪市の二本松古墳とは!

2010年04月29日 | 歴史
二本松古墳は、東大阪養護老人ホーム南西に隣接する標高18mほどにあり、同古墳からは大阪平野が一望できる。





写真は、二本松古墳墳丘から望む市街地光景及び往生院六万寺。

本古墳付近には楠木正行ゆかりの“往生院六万寺”や市定文化財の“旧春日神社”等の多くの文化財が残されている。

東大阪市の山麓には、山畑古墳群・花草山古墳群・五里山古墳群など多くの群集墳墓が分布している。

本古墳は、六万寺町の山麓に営まれた小群集墳の一つで、六万寺古墳群と呼ばれ、平成4年に市史跡に指定されている。





写真は、二本松古墳全貌とその墳丘光景。

本古墳は、南側に入口を持つ横穴式石室を内部主体とした、一辺約20m・高さ4~5mの方墳で、築造は6世紀後半。

本古墳は、住宅開発ラッシュの中で、かろうじて残された古墳群の一つ。









写真は、二本松古墳の登り口、横穴式石室入口、両袖式石室内部の光景及び本古墳から見上げる生駒山系の様子。

巨大な自然石の花崗岩・せん緑岩を積上げて築造されている石室は、入口から玄室までの長さ11.3m・幅1.9mほどの羨道と呼ばれる通路と、奥行き4.5m・高さ3m・幅2.2mあまりの棺を納める玄室部分に分かれている。

この玄室は府下でも大規模なものとして知られているが、この地域共通の構造、左の段差が僅かな両袖式石室。

本古墳は、山畑2号墳や八尾市の愛宕塚古墳などに次ぐ巨大古墳。

石室は昭和39年に発掘調査が行われたが、盗掘されていたにもかかわらず、須恵器の長首壷や杯等の土器・金環・銅環などが出土している。

石室は、現在小さな公園内に保存されているが、平成3年に遺産相続の際、遺族の方から市に寄付されたらしい。

西側墓地の中にも古墳が3基あるらしいが、それらしい墳丘が一ヶ所と石碑が一つあるだけと云う。




東大阪市の高塚古墳とは!

2010年04月27日 | 歴史
東大阪市は一大群集墳墓密集地で、生駒の山裾には、数多くの古墳群がある。

高塚古墳は六万寺町に所在し、鳴川谷の扇状地上部の標高約95mの所に築造された、6世紀後半・古墳時代後期の円墳で、直径約22m・高さは北側で、約2.5mを測り、完全な形で残されている。

生駒山麓で勢力を持っていた中小豪族の群集墳墓と見られる。









写真は上から、高塚古墳の全体像、本古墳墳丘、八重桜に飾られた本円墳及び本古墳から望む大阪市街地。

周辺にも数基の古墳が残っており、本古墳は、六万寺古墳群と呼ばれる小古墳群の一基。

古墳の名称は、古くから“高塚”と呼ばれてきたことから、名づけられたもので、ブドウ畑として利用されていたと云う。

当初内部主体の横穴式石室は開口していたが、その後埋められてしまい、石室の形式・規模・副葬物などは全く不明。



写真は、東大阪養護老人ホーム周辺の素晴らしい景観。

昭和44年に、大阪府立東大阪養護老人ホームの用地として買収されたのを機に、本古墳は園内の庭に取り入れる形で保存がはかられることになり、昭和49年3に東大阪市の文化財に指定された。

近年生駒山麓では、宅地開発に伴って、古墳が次々と壊され、少なくなってきているが、高塚古墳は墳丘・石室とも完全に残す古墳の一つであり、貴重な文化財として保存されている。



枚方市の藤田山古墳とは!

2010年04月25日 | 歴史
藤田山遺跡は、東藤田町に所在する、弥生時代から中世にかけての集落跡。

天野川左岸に沿ってのびる丘陵上に広がる集落跡で、中心になるのは弥生時代中期から後期で、遺跡北西部で発見された弥生中期に掘られたV字形の溝は、埋め戻された後、弥生後期には竪穴住居が建てられていた。







写真は上から、天野川左岸奥に広がる、藤田山遺跡が所在する細長い丘陵、弥生遺跡が発見された丘陵及び本遺跡現場から満開の桜越しに見上げる生駒山系の山々。

当地は中世には共同墓地になり、中国から輸入された宗銭や骨壷などが見つかっていると云う。

藤田山遺跡のうち、藤田山古墳は天野川沿いに点在する古式古墳の一つで、弥生末期の住居址上に築造されていたらしい。







写真は上から、藤田山遺跡が出土した、丘陵団地内の案内看板、藤田山古墳現場一帯及び本古墳から出土した画文帯環状乳神獣鏡。

本古墳は、標高約39m、周辺低地からの比高約33mにあり、墳長約50m・後円径25m・高3m、前方高約1mにある、古墳時代前期の円墳。

本古墳は、天野川流域の低湿地の周辺に村落を営んだ農耕氏族が築いてきた、4世紀型の古墳で、この地域は北河内でも前期古墳が多く分布している。

前期古墳には、上流から森古墳群、妙見山古墳、藤田山古墳、禁野車塚古墳、万年寺古墳などがある。

物部氏の遠い祖先は、西からやってきて大阪湾から当時の河内湖に入り、さらに淀川からその支流の天野川をさかのぼって大和に入ったと見られる。

その際に、天野川流域に住み着いたのが、物部の一氏族で肩野物部と呼ばれたと考えられている。

しかし藤田山古墳は丘陵上の南方200mほどにあったが、1957年以降、日本住宅公団の団地開発が進み、団地建設に伴う採土工事によって、保存の願いもむなしく、全壊・削平されてしまった。

本古墳からは3基の粘土槨の埋葬施設が発見され、その下層からは弥生時代の住居跡が見つかってと云う。

埋葬施設からは、画文帯環状乳神獣鏡のほか、銅鏃・碧玉製鏃形石製品・鉄斧・銅鏃・鉄剣などが出土したと云う。



枚方市の宇山遺跡とは!

2010年04月23日 | 歴史
宇山遺跡は、市内宇山町牧野台地の西端近くに広がる集落遺跡で、古墳時代から中世・近世にわたる遺構・遺物が出土している。









写真は上から、宇山遺跡が出土した牧野台地光景、本遺跡の中心にある牧野生涯学習市民センター、本遺跡の一角・牧野公園及び同公園内で繰り広げられていた桜花見酒宴の様子。

近年、宇山1号墳と2号墳が発掘調査され、6世紀・古墳時代後期の円墳であることが分かった。

宇山遺跡は、昭和63年に発掘調査が行なわた結果、主体部は組合式木棺(弥生時代にスタートした、切り出した木材を板材にして組み合わせた構造)と横穴式木室が並列する珍しい埋葬形態。

横穴式木室は、通常石材が使われる石室の構築材に、木材を使用したもので、全国的にも大変珍しい埋葬形式例。



写真は、宇山1号墳から出土した、銀象嵌付太刀。

横穴式木室は、玄室長4.5mほどで、木室内からは土器類や鉄鏃・太刀・あぶみなどの鉄製品が出土した。

写真のように、太刀の鍔には銀象嵌が施されていた。

枚方市内に148ヶ所ある遺跡のうち、「渡来人が関係する遺跡」といえるものがたった4ヵ所しかない。

古代の枚方市といえば、百済王一族と渡来人の匂いがぷんぷんする土地柄で、当時最新の輸入技術や文化を花開かせたと思いがち。

しかし明らかに渡来人の遺跡といえるものは4ヵ所(交北城ノ山遺跡、茄子作遺跡、宇山2号墳、小倉東遺跡・古墳)だけらしい。

4ヶ所のうち宇山2号墳は、墳丘径14m・高さ2.8mほどで、深さ約30cmの周濠が巡っていたと云う。

組合式木棺は、長辺2.6m・短辺0.5mほどで、棺内には2体が埋葬され、土器類・耳環・鹿角装刀子・鉄鏃・鉄斧などの鉄製品などが副葬されていたと云う。

叉周濠内からは鉄製素環鏡板轡が出土し、馬の殉葬(主人の墓の回りに生き埋めにして、黄泉の国へのお供をさせた)が想像されるらしい。叉ここからは、古墳時代後期の掘立柱建物跡が見つかっている。

枚方市内から6世紀初頭の遺跡が出ていないが、枚方の遺跡は古墳が少なく住居跡が多いらしい。昔から住みやすい土地柄なのだろうか、四条畷周辺が低地で水田に向く土地柄なのに対し、枚方は台地が発達していて住居向きと見られる。

枚方市「宇山」が、江戸時代初期に「植山」とあったが、発掘調査の結果、宇山にあったマウンドは古墳であったことが判明と云う。


大東市の堂山古墳群とは!

2010年04月21日 | 歴史
弥生時代には、当時の河内湾から河内湖へと変化して行った頃、大東市城の大半が水域に没していた。

古墳時代には堂山古墳群をはじめ、飯盛山麓一帯に多くの古墳が造営され、その山麓には、当時朝鮮半島からやってきた渡来系の人々が活動をしていた痕跡が見いだされる。

このころから当地は、大和王朝出現に伴って、次第に大きな歴史の流れの中に組み込まれていった。

昭和44年には生駒山地西側の尾根上、大東市寺川5丁目にある、堂山古墳群の発掘調査が行われた結果、1号墳から7号墳までの7基の古墳からなっており、5世紀から7世紀までの間に営まれた古墳群であることが判明。

尾根伝いに進むと、眼下には市街地が望まれ、北は北摂の山々・南は和泉山脈まで望むことができると云う。





写真は、堂山古墳群現場及び1号墳の発掘出土状況。

堂山古墳群の総数7基のうち、1号墳は、堂山の尾根伝いの見晴らしの良い突端部・標高約76mにある、5世紀前半に築造された直径25mほどの円墳。

1号墳からは、甲冑などの武具や鉄刀・槍等の武器、翡翠の勾玉・ガラス玉等の装飾品、鉄製の鎌・鍬等の農耕具、その他埴輪や土器等が大量に出土した。

これらの出土遺物は、保存状態が良好で5世紀前半の一括資料として重要であることから、平成12年に大阪府指定有形文化財として保存されている。

2~7号墳は、6~7世紀の横穴式石室が主体で、勾玉をはじめ、おびただしい副葬品が検出されたと云う。

このように豊富な副葬品が出土している堂山古墳群は、他地域と比べて古墳が少ない北河内地域にあり、当該地域を治めた有力豪族の墳墓と考えられ、地元の歴史を考えるうえで重要な文化財と云える。

主体部の埋葬施設は、組合式箱形木棺だが、この主体部に直交するように副棺が発見され、多くの武器が出土したと云う。





写真は、堂山1号墳から出土した刀剣と左側はそのレプリカ及び木製戸口装置。

長さが1mほどになる刀剣の製作は、高度な技術を持った専門の工人が必要であったと見られる。輝きをもったレプリカは、現代の刀匠と研師により製作されたもの。

井戸から発見された木製戸口装置は、古くなった扉を井筒として再利用されたもので、全国的にも珍しい出土例。

このほかにも、1号墳の埋葬主体部棺内からは玉類や紡錘車や、棺外からは短剣25が見つかり、また副棺からは甲冑1組、武器類(鉄刀18、鉄剣3、鉄槍1、鉄矛1、短剣25、鉄鏃159)、農工具類などが出土した。叉多量の須恵器も出土したと云う。

さらに周囲に埴輪が置かれていたが、原位置を保つものは69点をも数えた。

これらは現在、南河内郡河南町にある、“近つ飛鳥博物館”などに展示されているらしい。

こうした貴重な市の文化財を守りたいという地元の熱意が実り、大阪府がこのほど1号墳から4号墳までの「堂山古墳群」の周囲に柵を巡らし、遺跡保護の措置を取っている。



大東市の宮谷古墳群とは!

2010年04月19日 | 歴史
大東市は、大阪府の東部・河内地方のほぼ中央に位置する、人口13万人ほどの中小企業を中心とした自立都市で、豊かな自然が息づく「金剛生駒国定公園」を境に奈良県に、西は大阪市に接している。



写真は、大東市野崎に残る古い町並み。

古墳時代の大東市は、大半が水域に覆われていたが、当時河内湾周辺であった中垣内・野崎・北条地区あたりに人々が住み着き、農耕を基盤とする集落が形成され始めたと云う。

当時堂山古墳群を始め飯盛山麓一帯に多くの古墳が造営され、その麓には当時朝鮮半島からやってきた渡来系の人々が活動をしていた痕跡が見いだされる。

宮谷古墳群は、飯盛山から西へ張り出した尾根の突端部、標高40mほどの宮谷川左岸にあり、直径20mほどの古墳時代後期の円墳。

本古墳は、北条6丁目の丘陵地斜面にあり、現在も横穴式石室の石材が残る。



写真は、移設された片袖横穴式石室。

石室は、円墳の中央部に置かれ、盗掘された痕跡を残していたと云う。

昭和62年に宅地造成に先立って発掘調査が行なわれ、片袖横穴式石室が発見され、玄室の長さ約4.3m・羨道の長さ約4.9mと推定されている。

石室は大東市サーティホール玄関に移設されている。

盗掘されていたというものの、石室内からは、須恵器・土師器・鉄矛・鉄鎌・円筒と象形埴輪・金環・銀環などが出土した。


守口市の梶遺跡とは!

2010年04月17日 | 歴史
梶遺跡は守口市佐太東町1丁目に所在し、古墳時代から中世に至る複合遺跡。

梶遺跡のうち梶2号墳の全長は、周濠も含めて約37m・墳丘約30m・後円部径約20m・前方部長さ約8m・くびれ部長さ約7mの前方部が短い、帆立貝式前方後円墳で、6世紀初頭の須恵器を伴っている。

叉本古墳前方部からは、長さ約5m・幅約2.2mの箱式木棺が見つかっている。







写真は上から、梶遺跡が出土した現場の市営団地光景、団地内の現場に残された当遺跡記念碑及び本古墳の発掘調査光景。

平成元年、守口市営住宅建替え工事で発見された当時、低湿地地帯の古墳として全国的に話題に上がったと云う。

というのも通例の古墳は、山腹や丘陵地など高台に造られるが、淀川という急流河川の流域の氾濫原で、低地の守口に古墳が造られていたということは非常に珍しいらしい。

本古墳の周濠内からは、須恵器の装飾壷が出土した。須恵器には、肩の周囲に犬・猪・鶏などの飾りをつけた9体の小さな動物が飾られており、首輪をした犬と少々大きな猪を交互に配した様子が見られるなど、埴輪による配置をコンパクトに纏めている。

首輪をつけた犬と猪は、狩猟の様子を表現していると見られる。









写真は上から、梶古墳の埴輪出土状況及び出土した形象埴輪や人物埴輪、復元された牛形埴輪及びイノシシ形と頭部が欠落した犬形埴輪。

この古墳では、犬・猪・鶏の埴輪がくびれ部の周濠内に倒れこんだ状態で出土したと云う。

円筒埴輪・朝顔形埴輪をはじめ、人物・家・馬・シカ・イノシシ・鶏・牛・盾・太刀などの埴輪が大量に出土した。

埴輪の種類は、出土量から見ても、学術的にも非常に価値ある文化財と云える。

6世紀前半の埴輪としては、極めて優れたものと云われ、中でも太刀形埴輪・牛形埴輪は、全国的にも例が少なく、市指定有形文化財に指定された。

牛形埴輪は、最初に奈良県田原本町の羽子田遺跡で出土したものに次いで、全国2例目らしい。

叉人物や動物の小像をつけた装飾付須恵器が国内で造られた時期は、人物埴輪の出現期と同じと云われる。

それだけに葬送儀礼をあらわすものと見られる。




門真市の普賢寺遺跡とは!

2010年04月15日 | 歴史
普賢寺遺跡は、京阪電車古川橋駅の北側に所在し、中世の寺院跡を中心とする、弥生時代前期から中世まで継続する、普賢寺古墳を含めた複合遺跡。

平成12年2月、同市幸福町の土地区画整理事業に伴い発掘調査をしたところ、後世に削平されていたものの、門真市域で初めて・唯一の古墳が発見された。





写真は、幸福町公園内に所在する普賢寺古墳及び同公園に復元された、本年4月上旬の満開の桜が咲き垂れる同古墳墳丘。

普賢寺古墳は6世紀初め頃に、古川右岸に築造されたと考えられる、径約30mの円墳で、墳丘の残存する高さが2mほどあるが、墳丘は調査範囲外のため内部主体等は不明。

墳丘には幅約4m・深さ約60cmの周濠が巡り、調査範囲に2ヶ所、周濠の途切れた、陸橋が確認されたが、陸端近くに盾持人形埴輪が立っていたと見られている。

周濠の内外からは、多くの埴輪が転倒した状態で出土したと云う。

埴輪のほとんどは円筒と朝顔形円筒埴輪だったが、保存状態が良好な蓋・鶏形等の形象埴輪、盾持人形埴輪も出土。





写真は、普賢寺古墳から出土した盾持人形埴輪及び円筒埴輪。

盾持人形埴輪は、首のところで折れた状態で見つかり、頸から下は失われていたが、三角の透かしのある帽子をかぶり、顔面には線刻で入れ墨が表現された、端正な顔立ちの特異な埴輪で、特筆すべきもの。

頭から顎まで約29cmもあり、北河内で最も大きな顔を持つ人物埴輪。

これと同一固体と見られる盾形埴輪の破片が見つかっていることから、盾を持った人物埴輪と考えられている。盾を持って、古墳の警備に当たっていたと見られる。

この古墳は、淀川左岸の低湿地に広がる門真市域では、海抜2mほどの比較的高いところにあり、古墳に適した場所を選んで築造していた。

古墳基底部の標高は約1mと極めて低く、地上に墳丘が残存する古墳では、最も低いところに築造された貴重な文化財。

本古墳墳丘の一部は、現在も墓地として利用されている。

尚この古墳の北1kmほど先に、ほぼ同時期に築造された、梶古墳がある。

平成14年には、同市元町で元町中央公園整備に伴い発掘調査を実施したところ、古墳時代の掘立柱建物跡と多くの古墳時代の土器がしたことから、元町集落跡であることが分かった。

この元町遺跡集落と普賢寺古墳とは、成立時期・距離が近いため、密接な関係にあり、当集落首長の墳墓と考えられる。


四條畷市の墓の堂古墳とは!

2010年04月13日 | 歴史
墓の堂古墳は、中野地区の共同墓地内にあり、前方後円墳の後円部が共同墓地となっているが、前方部は住宅地化されている。





写真は、墓の堂古墳跡の共同墓地が住宅地に囲まれている状況及び手前住宅地が、本古墳の前方部であった面影。

墓地内には鎌倉時代の“十三仏板碑”が建っている。

この中野共同墓地は、もともと前方後円墳の一部だったが、古墳の後円部を利用しているため盛り上がっている。叉古墳を壊さないように避けて東高野街道が走っているが、現状古墳には見えない。

平成7年に古墳の一部が調査され、その結果周濠が見つかり、全長約120mと推定され、周濠の形と出土した円筒埴輪の形から、古墳中期の前方後円墳であることが分かった。





写真は、中野共同墓地に所在する墓の堂古墳現場と同古墳記念石碑。

本古墳は、丘陵地上の所在し、標高約25m、周辺水田からの比高約10m、方位ほぼ南東で、墳長約120m・後円径約72m・高約12m・前方長約50m・高11mほどで、保存状況は近世以降の共同墓地などでほぼ全壊。

この古墳は現在も墓の中にあって、外から周辺を見てもとても古墳とは思えないが、昭和17年に写されたという航空写真を見ると、立派に前方後円墳の形をしていると云う。

本古墳は、5世紀後半の前方後円墳で、後円部が共同墓地として残っている。墓地中央に成仏を願う鎌倉時代の十三仏板碑があり、墓地内には「十三仏」「六地蔵」が祀られている。

「六地蔵」は「人間は、前世の業によって、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上界の六道を輪廻するという。この六道世界での苦しみを軽減すべく、死後の守り神として六地蔵を祀る」とか。


四條畷市の蔀屋北遺跡とは!そのⅡ

2010年04月11日 | 歴史
四條畷市の蔀屋北遺跡巡りを続けます。

今日までの本遺跡発掘調査では、いろいろな馬具が出土している。例えば、次のような馬具が検出されている。





写真は上から、木製の輪鐙(あぶみ)で、長さ20.6cm・幅15.7cmあり、足をかける輪の部分は一部欠けているが、内径で縦7.3cm・横10.6cmを測る。

柄の部分は厚く、輪の部分の断面は内側が広くなるように、丁寧に細工してあり、柄の先端の穴に皮紐を装着して鞍につなげて使用する。

下の写真は、後輪(しずわ)という木製鞍の後ろの部分で、内外面とも黒漆が塗ってあり、幅約48cm・高さ約27cm・厚さ約4.5cmを測る。

これまでの調査で、馬埋納土坑・製塩土器埋納土坑・木製輪鐙・大量の馬歯・馬骨などがみつかっているが、更に5世紀中頃の実用的な鉄製の轡も出土したことから、本遺跡は朝鮮半島からの渡来系氏族によって、馬の飼育が行われたとされる「河内の牧」の一部であると見られている。

こうした調査結果から、蔀屋北遺跡一帯は、古墳時代中期に朝鮮半島から渡来した人々が始めた牧にあたる地域と云える。

古墳時代に日本にやって来たのは、蒙古系の馬で、小柄で足腰の強く、頭は大きく胴長で足が短いが、起伏が激しい日本の地形・風土に合った馬であったらしい。

馬はごく一部の権力者の持ち物で、軍事・通信・運搬に供せられ、国家の重要資源として有事に備えられていたと見られる。

日本書紀にも記載が見られる「河内の牧」や「河内の馬飼い」の実態がより明確になった。

過去にも馬の骨や木製馬具が見つかっており、騎馬軍団の育成管理に当たっていたことが記された「河内馬飼」の本拠地とみられる。

一般的に「馬飼い」は、川や湖の岸辺などの牧草地で馬を飼うのに必要な塩を作る、製塩地から近い所で行われていたらしい。

河内国では現在の淀川周辺や古代河内湖の沿岸だった四条畷・寝屋川・東大阪などに点在していたと云う。





写真は、古墳時代当時の四條畷地方のマッピング及び準構造船の模型。

写真のように、四條畷を南北に横たわる生駒山系の「河内の牧」を越えれば、比較的なだらかな下り坂となり、「馬」に負担を掛けず「大和」へ供給できた立地の良さが王朝・豪族に認められていた。

一方朝鮮半島からは、「馬」を乗せた船を2ヶ月かけて、玄界灘から筑紫(福岡)・豊浦(下関)・瀬戸内海、そして大阪湾(難波津)を経て、河内湖から寝屋川を上り、「蔀屋北遺跡」港に辿り着いていたと云う。

その船は、西都原式といわれる準構造船で、日本で初めてその実物がこの「蔀屋北遺跡」から発掘されたらしい。

本遺跡は、“なわて水環境保全センター”にあり、縄文後期~弥生時代の遺物、古墳時代の土抗、平安時代の屋敷跡、平安~江戸時代の条里水田跡、馬に与える塩を焼く製塩土器などが出土。

粗塩を精製していたが、海辺で作った塩半製品を仕入れ、必要に応じて小さな容器に移して焼塩していたらしい。



写真は、本遺跡から出土した馬型埴輪。

四條畷市の南山下遺跡から出土した、馬形埴輪が着装している馬具と同じものが出土していると云う。

これらの出土によって、馬形埴輪が“牧の馬”であることが実証された。

馬に与える塩を焼く製塩土器が大量に見つかっているが、製塩土器の出土量が1,500個分にもなると云う。



写真は、市内清滝川沿いの“河内の牧”に密集する住宅地で、ここの周辺に清滝古墳群が発見されている。

昭和54年の発掘調査では、直径25mほどの古墳時代後期の円墳が2基見つかり、そのうちの1基は、主体部は削平されていたが、幅2~4mの古墳周濠が発見され、濠内には馬が埋葬されていたと云う。

他に円筒埴輪・土器類・碧玉製切子玉などが出土したらしい。

というように、これまでの発掘調査で、埴輪、馬の骨・歯のような動物遺存体、木製の鞍、須恵器や土師器などが出土しているが、古墳時代中・後期の大規模な集落跡が発見されたことになる。






四條畷市の蔀屋北遺跡とは!そのⅠ

2010年04月09日 | 歴史
蔀屋(しとみや)北遺跡は、“なわて水環境保全センター”建設関連工事に伴って、大阪府教育委員会によって発掘調査された。

その結果、鉄製の馬具の一部が見つかったが、5世紀・古墳時代中期の「王権の牧場」とされる遺跡であることが分かった。









写真は上から、岡部川左手に広がる、“なわて水環境保全センター”内の蔀屋北遺跡、同川沿いの歩道から望む生駒山系の山々、同左手遺跡脇の遊歩道を東方向に生駒山系及び中心街から飯盛山方面へ向けた緩やかな丘陵状況。

本古墳から出土した馬具は、朝鮮半島の百済地方で出土したものにそっくりだそうで、百済から馬飼いの集団が渡来した可能性が高まったと云う。

蔀屋北遺跡の集落が形成されたのは、古墳時代中期の5世紀初頭からで、陶質土器・韓式土器・U字形板状土製品・移動式カマドなど多くの遺物の出土などによって、集落を営んだ集団は、朝鮮半島の百済からの渡来系氏族であったらしい。

彼らは大型の準構造船を駆使して外洋を航行し、朝鮮半島とこの集落を直接往来していたかもしれない。

そして彼らが主に馬の飼育を生業としていたことが、明確になり、日本列島で本格的な馬の飼育が始まった5世紀中頃には、蔀屋北遺跡の所在する北河内地域もそのひとつとされる。

当地で軍馬として増産したとみられ、国内最初期の馬生産が行なわれていたと云える。











写真は上から、蔀屋北遺跡の発掘調査状況、出土した馬の骨、馬のいけにえ及び馬のあご骨や“いけにえ”として供せられた勾玉及び土製人形。

馬の全身骨格が出土した土壙や馬骨・馬歯の出土は、「河内の馬飼い」を裏付ける資料であり、叉遺跡内で検出された井戸は、外洋を航海する準構造船が井戸枠として転用されている。

以上のように、朝鮮半島とのつながりを示す遺物が、多数出土したと云う。




四條畷市の忍岡古墳とは!

2010年04月07日 | 歴史
忍岡古墳は、北河内で前期古墳の石室を有している唯一の古墳で、1972年大阪府の史跡に指定された。

隣市の寝屋川市や大東市では、まだ前期古墳の発見がないことからも、貴重な古墳であることが分かる。








写真は上から、忍岡古墳碑、忍陵神社入口及び忍陵神社境内の忍岡古墳墳丘。

本古墳は、主軸が南北にある全長約87m・高さ約6m・後円部径約45mの前方後円墳で、四条畷市岡山の忍陵神社の境内に所在する。

忍ヶ丘と云う、小高い丘陵があるが、この独立丘陵の頂上には、主祭神として藤原鎌足を祀る、忍陵神社が鎮座している。

その場所は丘陵の突端部の景勝地だが、この場所は、北向きに築かれた当前方後円墳の後円部にあたる。同神社の鐘楼が忍岡古墳の前方部に当たるらしい。

四条畷市は、古代の河内湖東岸に位置している。この地に渡来文化が定着し、多くの古墳が築造された。

その一つがこの忍岡古墳で、河内湖を一望できる丘陵の先端を利用して忍岡古墳が築かれたことになる。

昭和9年の第一室戸台風により、忍陵神社の社殿が倒壊し、翌年の再建工事中に竪穴式石室が見つかったと云う。

発掘調査の結果、すでに盗掘され、副葬品はほとんど残っていなかった。

しかし碧玉製の紡錘車・鍬形石・石釧・甲冑の部材・刀子・鉄斧・円筒埴輪片などが検出されたが、京大の考古学研究室が、これら副葬品を保存していると云う。

これらの出土遺物や石室・古墳の形から、築造時期は古墳時代前期と推定されている。







写真は上から、竪穴式石室を保護する覆屋、忍陵神社境内に佇む石室の覆屋及び同竪穴式石室内部。

竪穴式石室は、覆屋と云う石室を保護するために設けられた建物により、保存されてきたが、老朽化が進んだため、平成14年に覆屋の再建が行われ、67年ぶりに姿を見せた竪穴式石室は堂々たる風格だったと云われている。

石室内部の規模は、長さが約6.3m・幅が1mほどで、その中にコウヤマキを刳り抜いた棺が安置されていたと見られている。石室の壁は板状の石を丁寧に積み上げ、天上は大きな板石を載せていた。


四條畷市の大上古墳とは!

2010年04月05日 | 歴史
四條畷市清滝中町の大上古墳群は、馬が朝鮮半島から運ばれて、生駒山系山麓から現在の外環状線かけて“牧”が築かれ、蒙古系の小ぶりの馬と共に、馬飼いも朝鮮半島から大勢やって来た結果、飯盛山山麓の当地が渡来系の人々の墓地となった。

朝鮮半島からは、馬を乗せた丸木船や準構造船が2ヶ月かけて、玄界灘から筑紫(福岡)・豊浦(下関)・瀬戸内海、そして大阪湾(難波津)を経て、当時の河内湖から寝屋川を上った。

そして現在の国道163号線付近の外環状線西側まで接近していた、当時の寝屋川沿いの「蔀屋北遺跡」に辿り着いていたと考えられている。

旧寝屋川から東へ2kmほど離れた当地からは、南北に横たわる生駒山系を越えれば、比較的なだらか下り坂となり、馬に負担を掛けず「大和」へ供給できた立地の良さが、馬の牧として、当時の王朝・豪族に認められたと見られる。







写真は、国道163線脇の関西セルラー鉄塔が見える大上古墳現場、本古墳から見上げる飯盛山及び当地に造られた大上遺跡記念石碑。

平成4年、関西セルラー(私立忍ヶ丘幼稚園近く)の鉄塔建設に先立っての発掘調査で発見された、直径約19mの円墳。



写真は、大上古墳から出土した須恵器・金環・土玉など。

円墳の周濠から埋葬施設が2基発見され、1号主体部には遺骨が残り、金環・土玉230点などが埋葬されていた。

叉2号主体部ではガラス小玉30点と馬歯が出土し、馬飼い集団の存在が窺える。

平成11年の調査では、全長6mほどの小さな横穴式石室が発見され、金銅装耳環が出土した。

石室の床下には、小型の施設ながら排水施設も備わっていたと云う。

本古墳群の横穴式石室については、古墳時代後期から鎌倉時代に石室が開かれ、副葬品は持ち去られたが、金銅装の耳飾りが残されていた。




交野市の雷塚古墳とは!

2010年04月03日 | 歴史
雷塚古墳は、森古墳群の中にある最大級の前方後円墳で、古墳時代前期(4世紀)の築造と考えられ、卑弥呼の墓といわれる奈良の桜井・箸墓古墳と同じくバチ型の古墳。

昭和57年に、本古墳の確認調査が行われ、生駒山系北端に4基の前方後円墳と円墳1基が発見されたと云う。中でも雷塚古墳が最大の規模を有し、周囲には陪塚と見られる円墳も見つかっている。



写真は、雷塚古墳の前方部から後円部を望む光景。

本古墳の規模は、全長約106m・後円部経約56m・前方部先端幅約32m・くびれ部幅約22mで、尾根の地形を巧みに利用した前方部2段、後円部3段に築造されている。

特に後円部に比べて前方部の幅が小さく、後円部と前方部に比高差が10mほどと極端に低く、前方部が三味線のバチのように開いている点、墳丘部に埴輪や葺石などが見られない点などが、前期古墳の中でも更に古い部類に属すると見られている。





写真は、本古墳から出土した二重口縁壷と円筒埴輪及び円筒埴輪と囲形埴輪。

本古墳発見の契機は小学生だったと云い、化石探しに夢中になっていた小学生3人が、交野市森地区の山中で埴輪と二重口縁壷などの土器片を発見したことがきっかけとなった。

これら土器片の型式は古く、まだ円筒埴輪が、本格的に出現する前の時期で、これから古墳時代も前期に近いと推定されているが、本格的な発掘調査はまだ実施されていないらしい。

土器発見地点から更に山奥へ600mほど進んだ標高143mから155m辺りで、鍋塚古墳が発見されたと云う。

100m以上の大規模古墳を幾つも築造するという、豪族がこの山麓で勢力を張っていたに違いないが、はたして古墳の主は一体誰なのか?興味が尽きない!


交野市の鍋塚古墳とは!

2010年04月01日 | 歴史
鍋塚古墳が属する森古墳群は、生駒山に源がある天野川流域の古墳だが、天野川中流域の交野市に入ったところ、JR学研都市線の河内磐船駅東側の山地部に立地する。





写真は、鍋塚古墳から望む交野市街地光景及び鍋塚古墳墳丘。

森古墳群は、今日までの発掘調査では6つの古墳から成り、第1号墳が全長約106mの前方後円墳の雷塚古墳、第6号墳が全長約67mの前方後方墳の鍋塚古墳。

交野市寺の山中、標高210mほどの高所に“南山弥生遺跡”があるが、当遺跡は昭和34年の大雨の際、崩れ出た土砂の中から多数の弥生式土器が出土したことにより偶然発見されたと云う。

河内を一望できる立地場所や出土遺物から当遺跡は、高地性集落として、監視や狼煙をあげる目的を持った通信基地と位置付けられていたらしい。

鍋塚古墳は4世紀初頭築造で、この弥生遺跡の西側の尾根に立地する、交野市最古の古墳。

本古墳は、全長約67m・後方部約34.2m・前方部幅約28m・くびれ部幅約16mの前方後方墳。







写真は、平成7年の発掘調査光景及び平成13年調査の竪穴式石室内部の出土状況と出土した葺石。

南山弥生遺跡は古くから遺跡として知られていたが、平成7年に阪神・淡路大震災後、府内各地の通信連絡網を確保するための、防災無線基地建設に伴い試掘調査の結果、弥生時代の土器を確認。

平成13年の発掘調査では、徳島県の吉野川流域のものと見られる、結晶片岩系の葺石・板石が発見され、叉本古墳主体部には竪穴式石室の周囲に配置された板状の割石や、後方部には造り出し部を確認したが、墳丘には埴輪は見当たらなかったと云う。

本古墳は、森古墳群の中で、最大規模の雷塚古墳よりも古いのではないかと考えられている。