近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

和歌山市の製塩遺跡とは!

2009年05月31日 | 歴史
海に面し長い海岸線を持つ和歌山県では、弥生時代の終わりから古墳時代にかけての製塩遺跡が複数発掘されており、古くから漁業や製塩が主要な産業になっていたと見られている。

和歌山市では、北西部海岸の西庄・本脇地区にある西庄遺跡から製塩炉・製塩土器が見つかり、5世紀を中心とした大規模な土器製塩が行われていたことが明らかになっている。紀伊の海岸部で広く製塩が行われ、白浜町瀬戸遺跡なども含めて製塩遺跡が見つかっている。

しかし海岸線のほとんどがリアス式海岸であり、広大な塩田には適さない地形であったため、“海水直煮法”以外の製塩法はあまり発展することはなかったのか、近世においては、瀬戸内海沿岸に製塩産業を譲った。

当時の塩作りは、石を敷き並べた上に塩作り用の土器を数十個ほど並べ、その中に海藻を用いて、海水を濃縮した塩水を入れて煮沸する方法を用いていた。

製塩遺跡からは、多量のコップ形をした土器・鉢形土器等が出土し、これらの土器は火にかけられた為にことごとく壊れている。



写真は、ことごとく壊された製塩用小型土器片類。

土器がいろいろな形をしているのは独創性の入り込む余地があったと思われる。

いくつもの炉が発見されていることから、乾燥した藻に海水をかけて濃縮し、それら藻を小さな製塩用土器に入れて煮沸し、結晶塩を取ったであろうと言われている。

時代が更に進み、文献等から奈良時代には“塩”が紀伊地方の特産物であったことが知られている。




和歌山市の音浦遺跡とは!

2009年05月29日 | 歴史
約1750年前に登場した前方後円墳は、形や埋葬施設に地域を越えた共通性がある。古墳の形は、前方後円墳のほかに、前方後方墳、円墳、方墳などがある。

古墳の形と規模の差は階層性のあらわれで、その頂点にあるのが前方後円墳。

和歌山県で最初の前方後円墳は、紀ノ川下流の微高地上に造られた古墳時代前期の秋月1号墳。この古墳に近い音浦遺跡で弥生時代末の大規模な用水路が発見されている。

この時期は、開墾道具や農具の鉄器化が進み、大規模な水田開発が行われた。秋月1号墳に葬られた人物は、大規模水田開発の指導者であった!らしい。





写真は、音浦遺跡から出土した韓式系土器及び須恵器と陶質土器。

韓式系土器とは、朝鮮半島から陶質土器やカマドと一緒に伝わった、赤い軟質の土器。主に煮炊き用でカマドとセットで使用された。

韓式系土器は、土師器に大きな影響を与え、結果的に土師器の種類が増えたが、把手の付いた鍋や甑などは、その代表である。

須恵器は、古墳時代から平安時代まで生産された陶質土器で、青灰色で硬い。

同時期の土師器とは色と質で明瞭に区別でき、5世紀に朝鮮半島南部から伝わったが、土師器より高級な品として扱われた。陶質土器は長時間に、強火度で焼締められた製品。



和歌山県の古墳巡り!はじめに

2009年05月27日 | 歴史
ここから暫くは、和歌山県内の古墳を巡って観たい。

先ず和歌山と云えば、黒潮あらう雄大な海岸線と緑滴る深い山々に包まれた紀伊国を思い起こすが、紀伊国は瀬戸内に接し、内陸への通路になっている紀ノ川平野及び海に向かって開けた沖積平野をもった地形を成している。



写真は、紀ノ川を挟んで広がる紀伊平野の光景。

稲作技術の進展による豪族の富の蓄積と畿内政権の影響力を背景にして、古墳が築造されるようになった。

県下では、3世紀末~4世紀初頭にすでに弥生時代の墳丘墓の系譜を継いだ古墳が誕生している。

約1750年前に登場した前方後円墳は、形や埋葬施設に地域を越えた共通性がある。古墳の形は、前方後円墳のほかに、前方後方墳、円墳、方墳などもある。

古墳の形と規模の差は階層性のあらわれで、その頂点にあるのが前方後円墳。
和歌山県で最初の前方後円墳は、紀ノ川下流の微高地上に造られた4世紀の和歌山市内の秋月1号墳。

この古墳に近い音浦遺跡で弥生時代末の大規模な用水路(現在の宮井用水の前身)が発見されている。

紀伊国の“一の宮”(諸国において由緒の深い神社・信仰の篤い神社)とされる日前(ひのくま)・国懸(くにかかす)神宮の由緒は、古墳時代にさかのぼると云われるが、天照大御神の御鏡・前霊(さきみたま)を日前・國懸両神宮の御神体として、又後に鋳造された御鏡を伊勢神宮の御神体として奉祀されたと『日本書紀』に記されていると云う。



写真は、今も現役の宮井用水路。

日前・国懸神宮が、和歌山平野一帯を潤す宮井用水を奉るものであったと云われているが、宮井用水は今も現役の水路で、昭和の発掘調査では古墳時代の初期のものとされる大溝が発見された。

この水路は幅7~8m・深さ3~5mという巨大なもので、当時、すでに全国のどこにも引けを取らない、大規模な水田開発がなされていたことが証明された。

この時期は、開墾道具や農具の鉄器化が進み、大規模な水田開発が行われていた。秋月1号墳に葬られた人物は、大規模水田開発の指導者であったと見られている。

この地の豪族とは、国名の由来ともなった紀氏。紀氏一族の勢力は、現在の「紀伊風土記の丘」にある岩橋千塚古墳群により、その威厳ぶりを偲ぶことができる。

後述するが、この古墳群は5世紀はじめのものとされ、ひとつの丘の上に約700基の古墳が並ぶという大規模なもの。したがって、古代の紀氏は、他の地域のように飛び抜けた力を持つ首長がいたのではなく、多くの部族の首長が紀氏という一群をなしていたと考えられている。

5世紀末から6世紀に入ると特徴のある横穴式石室が生まれ、同時に各地に群集墳が営まれた。他方、田辺湾周辺では古墳よりも、むしろ墓として使われた岩陰遺跡の存在が顕著である。

県内の遺跡分布は、和歌山市・御坊市・田辺市を中心に各々河川に沿って広がっている。




兵庫県多可町の東山古墳群とは!そのⅡ

2009年05月23日 | 歴史
東山古墳群の見所について、更に続けます。
先ず、巨大石材をどのように運んだのか、考えてみてください!



写真は、東山古墳群から運ばれた、3.7tと3.1tほどの巨大石材。

これらの巨大石材をどのように運んだのか、当時の土木技術の高さには目を見張る。

兵庫県下でも最大の横穴式石室を持つ古墳や、巨石を用いた石室の古墳が多く、6~7世紀当時、多可・西脇地域を治めた豪族の力が窺え、東山1号墳は県下でも最大級規模。







写真は上から東山10号墳、石室内部及び出土した須恵器や土師器。

直径20mほどの東山10号墳は円墳で、古墳時代後期のもの。
墳丘を黒い土と黄色い土で交互に積み上げることによって、土が流失することを防ぐ工夫がなされていると云う。

史跡公園として整備されており、「那珂ふれあい館」には、くわしい説明や出土品が展示されている。

本10号墳からは、写真の通り、ミニチュアの須恵器・土師器など土器のほか、刀装具、鉄鏃・斧状鉄製品・辻金具・革金具など鉄製品などが出土している。







写真は上から、東山12号墳から出土した陶棺で、正面及び上方からの特殊な形。

本墳は、天井石が落下したため石室の奥部が全く荒らされていない状態で残っており、長さ約140cm・幅約45cmで12本の脚と切妻風の屋根を模した蓋がある、家型陶棺が原形をとどめた状態で出土した。

この陶棺は組合せ式家形の「須恵質切妻家形陶棺」と呼ばれるもので、身や蓋に突帯がめぐり、全体にずんぐりとした形態を持つ。

陶棺は畿内の奈良・大阪・京都府等に分布しているが、兵庫県下では30例程を数える程度で数少なく、又全体の形が明らかになる例は極めて少ないこともあり、横穴式石室に安置された陶棺の出土自体稀だと云われている。





兵庫県多可町の東山古墳群とは!そのⅠ

2009年05月21日 | 歴史
多可郡多可町の妙見富士カントリークラブと多可高等学校の西隣一帯の丘陵に、うねる様に丸い芝生の小山の起伏が点在する「東山古墳群」がある。
東山古墳群は、妙見ゴルフ場や県立多可高校西隣に位置する。

此処には調査を終え「北播磨田園空間博物館」として公園整備された東山古墳群史跡公園がある。





写真は上から、妙見山をバックにした東山古墳群及び古墳群墳頂から望む多可町街。

平成16年には、標高693mの妙見山山麓の、東山古墳公園内に「那珂ふれあい館」が完成し、東山古墳群をはじめ町内から発掘された出土品などが展示されている。

妙見山は、多可町中区の最高峰で、中区の盆地に立つとほとんどの地点から北正面にそびえる山容を拝むことができるらしい。

野外の大自然には、県内最大級の石室をもつ古墳など、古墳時代後期の円墳16基を復元した東山古墳群公園があり、いにしえの文化を感じることができる。





写真は、テラスが巡っている、直径約25mの東山1号円墳及び県下でも最大級の石室。

羨道から玄室まで約12.5m・玄室部の長さ6.25m・高さ約3mの規模。

写真のように、横穴式石室が築造当時のまま残っている。内部に入ると、天井には3m以上の巨石で覆われ、床面は平たい石が敷き詰められている。





写真は、東山1号円墳から出土した、金製耳環、銀製空玉、勾玉、水晶玉、小玉などの装身具。

本円墳からは、装身具のほかにも、須恵器・土師器など土器類、刀・矛・鉄鏃などの武器類などが出土している。

東(ひむがし)には、「日の向う風(日向風=ひむかし)」という意味があって、古代人の崇拝する太陽を、毎朝真っ先に仰ぐ妙見山の麓にある東山こそ信仰と豊穣の地として、早くから開拓が進んでいたと云う。

鉄製農機具の普及と共に生産が増大する古墳時代後期までに、多可町の妙見山麓一帯には、4世紀頃~7世紀の大化改新頃に築かれた10群200基以上もの古墳が確認されている。

大型の石室をもつ古墳が纏まって存在しているのが、東山古墳群の最大の特徴で、古墳群内には石室の長さが10mを超える古墳が5基もある。







小野市の勝手野古墳群とは!

2009年05月19日 | 歴史
兵庫県小野市の勝手野古墳群には、古墳時代後期後半(6世紀末~7世紀前半)に造られた合計11基の円墳があり、その内8基・約2,200㎡が、平成7年に発掘調査された。

装飾付須恵器は、6号墳の副葬品として横穴式石室入口の左右に対になって立っていたと言う。
壷に底がなく、口頚部に透かし穴があるのは全国初という。



写真は、横穴式石室の入口に対になって立っていた装飾付須恵器の一つ。

胴部に幅約4cmのテラスを付け、その上に小像を置いている。



写真は、須恵器の約4cm幅の“回り舞台”上で、いろいろなポーズを取っている像のうち、相撲をとっている二人と行司の場面が見える。

テラス上の小像は2つの須恵器で計11体あり、写真上の馬に乗った男が猪と鹿を追う狩猟の場面、男女が向かい合う求愛のポーズ、写真では相撲をとる二人と行司の場面など4つのシーンを表現している。

神話の世界を具体的な形として表現し、代表的なシーンを集約したのではないかという説もある。

いずれにしても古墳時代の葬送儀礼の研究など考古学的には大変貴重な資料であると考えられているという。


養父市八鹿町の箕谷古墳群とは!そのⅡ

2009年05月17日 | 歴史
養父市に箕谷古墳群について、更に続けます。

箕谷古墳群の出土遺物の中でも、全国2例目の年号入り鉄刀が出土したことで知られる。





写真は、圭頭系大刀の出土状況及び鉄刀の姿。

写真のように、出土した鉄刀は、刀身68.8cm・推定長さ77cm前後の圭頭系大刀(柄の先が山形の大刀)で、奈良国立文化財研究所においてエックス線検査したところ、刀身の柄寄りの部分に「戊辰年五月(中)」と刻まれた銅象嵌による銘文が発見された。

干支年号をもつ鉄刀の出土例としては、埼玉県の稲荷山古墳に続いて全国2例目。

出土直後は、写真の通り、刀身に土砂が鉄サビと共に密着していたと云う。
1年余りかけて研ぎ出しと保存処理をしたらしい。

「戊辰(つちのえたつ)」については、出土した須恵器の特徴から、608年(推古天皇16年)と推定されている。

この銘文から「戊辰年銘大刀」と呼ばれており、金具等から、飛鳥地方で製作されたものと推定されている。

戊辰年銘大刀は、古墳時代から奈良時代にかけての端境期の製作で、刀剣の製作史だけでなく、当時の社会全体の政治の流れを知る上で、貴重な資料と云われている。

養父市八鹿町の箕谷古墳群とは!そのⅠ

2009年05月15日 | 歴史
養父市の箕谷古墳群は、昭和58年に八鹿町の総合スポーツ施設建設工事に伴い発見された。

箕谷古墳群には5基の古墳があり、この箕谷の正面つきあたりに築かれた2~5号墳までの4基の群集墳と、さらに西に入った1号墳の2群から成っている。







写真は上から、箕谷古墳群全景、2号墳及び3号墳。

2~5号墳は、標高83m~92mのゆるやかな斜面に位置しており、いずれも円墳で無袖式の横穴式石室を埋葬施設としている。

石室はすべて谷の入り口方向である、南に開口するよう規則的に造られ、2・3・4・5号墳と順次標高の低い方から高い方へ築かれている。

時期が新しくなるにつれて墳丘・石室が小規模化しているのが特色で、この時期の古墳の変遷過程をよく示している。

2号墳は東西約12m・南北14mほどのやや南北方向に長い円墳で、横穴式石室は無袖式で、長さ8.6m・幅1.2m・高さ1.7mほどで細長いもの。



写真は、2号墳の石室。土器・鉄鏃・馬具などを復元・配置している。

側壁は基本的に3段、一部を2段に積んでいる。石室の床面には、20cm前後の山石を置いて第1次床面を造り、その上に土を少し入れて第2次床面としていた。

側壁の最も下には奥壁から大きな石材を4石続けて、その上に3段ほど石材を積み、表面の整った長方形の石を横積みした丁寧で安定感のある石室。

“つるぎが丘”公園整備のため行われた箕谷古墳群の発掘調査により、須恵器・金環3点、鉄鏃・馬具等の鉄製品、鉄刀など103点の遺物が出土した。

出土した須恵器により、6世紀末から7世紀初旬に築造されたと考えられており、出土状況から2回以上の追葬が行われたとみられている。




養父市の大薮古墳群とは!そのⅡ

2009年05月13日 | 歴史
養父市の大薮古墳群の詳細を続けます。

禁裡塚古墳は昭和61年に、塚山古墳・西の岡古墳・こうもり塚古墳は、昭和63年に兵庫県文化財に指定された。これらの古墳は但馬を代表する大型横穴式石室をそなえた古墳であり、北近畿地域でも最大規模の石室を持つ古墳として注目されている。









写真は、上2枚が塚山古墳及び下がこうもり塚古墳。

塚山古墳は、南に伸びる尾根の先端に築かれており、南北約30m・東西約24mの円墳。高さは谷側で8m、両袖式の横穴石室で、全長約11m・玄室の長さ約4.8m・幅は奥で2.5m・高さは奥で現高3.6mあり、奥壁は三段積み。

一方こうもり塚古墳は、片袖式の横穴石室で南東に開口している。



写真は、こうもり塚古墳の石室内部。
全長12.4m・玄室の長さ7.1m・幅は奥で1.8m・高さも1.8mの規模。

古墳の盛土が削り取られ、盛土で周溝が埋められて畑になっているため、墳丘の形状がはっきりしないが、一辺が30mほどの方墳と見られるらしい。

考古学や歴史ファンの間では「大薮の古墳は飛鳥古墳と同じくらいすごい!」と言われている。







写真は、禁裡塚古墳の墳形、石室入口及び石室内部。

本古墳は、大薮古墳群の中心にある古墳で、墳丘は南北約35m・東西約32m・高さ9mほどの円墳。

石室の全長は約14m弱・玄室は長さ5.9m・奥壁幅3m・高さ3.6mほど。
玄室には、ベンガラ成分を持つ赤色顔料が塗られていた。

墳丘の周囲にめぐらす周溝は、水田に利用するために、現在は埋められている。

大薮古墳群の中にある、特に大きな4基の古墳は、大型石室とか巨石古墳と呼ばれ、これら古墳は兵庫県の中でも1・2位の石室規模を誇り、特に大きな横穴式石室をもつトップクラスの大型古墳。

大薮古墳群では6~7世紀にかけて禁裡塚古墳を契機として、塚山古墳・西ノ岡古墳・こうもり塚古墳といった順番で次々と造られた。

こうもり塚古墳は方墳と見られることから、ヤマト政権圏内の7世紀大型古墳は、円墳から方墳に形態が変化しており、ヤマトの中央政権から送られた律令官人で、但馬の政治に大きな影響を示した人物の古墳と見られていると云う。

一方5世紀に朝来市和田山町で池田古墳や茶スリ山古墳を造った地域には、大薮古墳群クラスの横穴式石室を持つ古墳はない。

禁裡塚古墳などの大型石室は、奈良県の飛鳥地域にあっても並々ならぬ規模を誇る大型の石室で、但馬らしい田園空間に、今も良好な状態で残る大薮古墳群は、名実ともに兵庫県を代表する古墳群と言える。

養父神社を奉じる但馬全域に及ぶ政治権力集団の首長墳と見られ、朝来市和田山地域から移ってきたと見られている。







養父市の大薮古墳群とは!そのⅠ

2009年05月11日 | 歴史
大薮古墳群は、養父市大薮地域の円山川に面した南斜面の丘陵地に点在する。

兵庫県を代表する、古墳時代後期に造られた古墳群で、地形は集落を中心として両側に弓形に広がっている。





写真は、山間をうねる円山川及び養父神社拝殿。

大薮古墳群を取り巻く環境は、北に山を背負い、南前方には円山川が流れ、川向こうには養父神社がある。

養父市・豊岡市を中心とする但馬地方は、東西南北の交易・交流の要衝として、古墳時代以前から中国大陸との往来があったといわれる。兵庫県北部に位置し、北は日本海、南は播磨及び丹波地域、東は京都府、西は鳥取県に隣接し、県土の約1/4を占める広大な地域。

海岸部は、山陰海岸国立公園に指定されており、又水量豊かな円山川をはじめ竹野川・矢田川・岸田川などが日本海にそそいでいる。

圏域の約70%は山地で、氷ノ山をはじめ1,000m級の山々が連なり、その間に平野が形成されている。





写真は、大薮古墳群のうち、林道古墳群及び弓形に広がる古墳群地図。

大薮古墳群の大型古墳は、地図の通り、東(地図の向かって右側)からこうもり塚古墳・塚山古墳・禁裡塚古墳・西の岡古墳など4基の古墳が造られている。

また横穴式石室をもつ中・小規模の古墳群として、東から小山支群・野塚支群・穴ヶ谷古墳群などがある。

更に写真のような道林古墳群は、石棺や木棺を埋葬施設とする5世紀後半から6世紀前半の古墳群。これらの古墳を全てあわせたものが大薮古墳群で、約150基の古墳から成る。



芦屋市の八十塚古墳群とは!

2009年05月09日 | 歴史
芦屋市街地北東部の六麓荘町・山麓丘陵部に分布している、古墳時代後期から飛鳥時代(6世紀後半~7世紀半ば)にかけて形成されたもので、八十塚古墳群と呼ばれ、数十基の古墳からなる。

見学できる古墳は,岩園天神社境内に2基,保護樹林公園内に1基ある。





写真は、八十塚古墳現場及び八十塚古墳の石室跡。

岩園天神社の拝殿はうっそうとした森の中にあり、神社の南東側には渓谷がある。
付近は住宅が増えつつあるが、いまだに古い芦屋の風景を残している。

古墳時代どころか、芦屋市岩ヶ平からは、1.5~2万年ほど前の旧石器時代の石のナイフが縄文時代の石器とともに出土している。

本古墳はいくつかのグループに別れていたようで、1族あるいは1郷の墓所だったと考えられている。

この古墳群からは陶棺や須恵器、鉄器などが、また1999年の調査では、鉄鏃6点が出土している。



写真は、本古墳から出土した陶製の棺。

陶棺の出土は、阪神間では唯一で、棺は遠くから取り寄せたらしい。他の棺は木管だったと云う。

石室は、ほとんど自然石そのままか、自然石を少し加工したものが使われたらしい。

すべて横穴式石室墳で構成され、今までに57基の古墳が確認され、うち34基の発掘調査が実施済と云う。


朝来市和田山町の茶すり山古墳とは!

2009年05月07日 | 歴史
朝来市内には、北近畿豊岡自動車道の建設をはじめ、様々な開発事業に伴う発掘調査により、膨大な量の遺跡出土品が存在する。

和田山から山東へ抜ける「宝珠峠」の途中、標高約144mの尾根の先端に位置する“茶すり山古墳”は、5世紀前葉の大型円墳で、北近畿豊岡自動車道建設に伴い発見された。







写真は、上から茶すり山古墳墳頂から望む北近畿豊岡自動車道の光景、茶すり山古墳の円墳全景及び復元された埴輪に取り囲まれた墳頂の平坦面。

円墳としては奈良県“富雄丸山古墳”よりも大きく、近畿地方最大規模を有しているらしい。直径約90m・高さ約18mの円墳で、2段に築成されていたと考えられている。

墳頂には、写真の通り、東西約36m・南北約30mの楕円形の広い平坦面があり、そのやや内側には、円筒埴輪・朝顔形埴輪が巡り、段築平坦面にも埴輪が列状に並べられていたと云う。



写真は、墳頂に展示されている、銅鏡・鉄剣などの復元出土遺物。

斜面には葺石が見られるが多くは流出していたらしい。

墳頂部には二つの埋葬施設があり、大型の第1主体部とこれより小さい第2主体部が並んでいたと云う。

調査の結果、墳丘の規模や中心主体の内容がほぼ判明し、ヤマト政権と強く結びついた首長の墓であることが確認された。






朝来市和田山町の池田古墳とは!

2009年05月04日 | 歴史
朝来市内には、北近畿豊岡自動車道の建設をはじめ、様々な開発事業に伴う発掘調査により、膨大な量の遺跡出土品が存在すると云う。

それら遺跡のうち、池田古墳は、現在も国道9号沿道の環境改善事業に伴い発掘調査中で、昭和45年以降国道整備事業が続けられてきたが、今回は橋をつけかえるための工事。





写真は、池田古墳の鳥瞰図及び平成21年4月現在の発掘調査現場。

池田古墳保存のため、国道9号線に架けられた池田大橋下で進められている、発掘調査の光景。

本古墳は、“城ノ山古墳”の北西僅か100mほどの眼下に築造されたが、墳丘が全長約141m・前方部幅約71m・後円部系約76m・周濠を含めると全長は約170mという但馬地方では最大で、兵庫県下4番目の大きさを誇る、前方後円墳。

墳丘は、明治末期と昭和初期のJR工事の土取りのため著しく損なわれてしまい、写真の通り、鳥瞰的にも本古墳の特徴をとらえることが出来ない。





写真は、平成21年3月発掘調査の現場光景及び出土した葺石状況。

それ以前の1971・77・91年の発掘調査によって、テラスに円筒埴輪・葺石がきれいに並んでいるのが確認され、また三段築成で楯形の周濠を持った畿内型の大型前方後円墳。

5世紀前半・古墳時代中期の王墓とされる池田古墳では、最古の水鳥形をした子持ちの鳥形埴輪が全国で初めて出土した。

周濠そばの墳丘の裾部で見つかり、水を使った『導水祭祀』の道具として置かれたらしい。





写真は発掘された土手堤と水鳥埴輪及び水鳥の親子揃いぶみ。

写真のように、土手のような堤を発掘したのは、全国的にも異例の発見で、その全容が明らかになったとか。

土手堤は、通路としての役割のほかに、周濠の水量調節や古墳の裾に水際を用意する役割があったと見られている。

写真の水鳥形埴輪はガンやカモをかたどっており、子鳥の大きさは長さ約10cm・高さ約6cm。鳥形埴輪のそばで4個出土。出土状況から、親鳥の周りを囲むように置かれた可能性が高いという。「子持ち水鳥形埴輪」の出土例としては国内最古という。

鳥形埴輪は、ほかに6個が見つかり、墳丘と外部を結ぶ道路の役割を果たしていた。写真のように、「土手堤」の斜面に施された葺石付近でも等間隔で出土したと云う。

「古墳の裾に水を用意して、墳丘をこの世と異なる他界とみなし、そこへ魂を運ぶ意味を込めて水鳥を置いたのではないか!」とも云われている。

この時期から『葬るだけ』から『あの世』への意識が高まったとみられる
土手堤は墳丘の東西両側で確認され、いずれも法面に護岸のための葺石が敷かれ、土が盛られていた。

朝来市には近畿地方最大の円墳などの古墳が多く、発掘された副葬品などから、古代に巨大権力者がいたことが推測されている。




芦屋市春日町の金津山古墳とは!

2009年05月02日 | 歴史
金津山古墳は、阪神線・打出駅の北東百メートルほどにあり、“金塚”・“黄金塚”を別称にもつ市内最大の墳丘を残す古墳。

打出の村人を愛した阿保親王が万一の飢餓に備えて財宝をこの塚に埋めたという伝説がある。

最近の発掘調査で、本古墳に二重目の周濠を発見し、外濠の一部で、長さ約8m・最大幅1.5m・深さ30cmほど。濠の中から円筒埴輪が約80点出土した。

周濠部分の調査をくり返した結果、全長約55m・後円部径約40m・前方部長15mほどの前方後円墳であることが判明。

全長約55mの古墳は、阪神間で2番目の大きさで、出土遺物には大量の埴輪と須恵器があり、築造年代が460年代の前後という、古墳時代中期の前方後円墳。

阪神地域では伊丹市の御願塚古墳に続き2例目で、墳丘の周囲には周濠が巡っている前方後円墳。

本古墳は、地方を治めていた首長が埋葬されたと見られる。二重周濠は天皇陵などに多くみられ、「芦屋地方の地域勢力と中央との密接な関係を示す証拠では!」と云われてきた。





写真は、住宅地の狭い間を所狭しと陣取る金津山古墳とその遠景。

写真のように本古墳は、民家に囲まれた小高い塚があり、これまで“金津山古墳”と呼ばれ、大切に守られ、昔の打出の風景を伝えていると云う。

現在前方部は消失しており、後円部を残すのみ。昔この古墳の墳頂に厳島神社の祠が立っていたらしいが、現在はこの古墳近くの打出天神社に祀られている。



写真は、本古墳脇に鎮座する打出天神社。

芦屋地方を治めていた阿保親王は、打出の地に別荘を建てて村人達を愛し、親しみを持って接していたらしいが、村人達も親王さんと大層敬っていたと云う。

阿保親王は、村人達に「もし、自然の災害などで困ったときには、この塚を掘って役立てるように!」と、塚に宝物を埋めたといわれており、次のような歌が伝えられている。

「朝日さす入り日かがやくこの下に金千枚瓦万枚、この塚は金津山・黄金塚・金塚」などと詠まれているが、190年ほど昔の絵図には、街道のすぐ北のたんぼの中に大きい塚があって、その周りに道がつくられ、大きな松が描かれている。

「打出名所は、かずかずあれど、わけて名高い黄金塚」とも詠まれ、又打出の“みこしかき音頭”にも歌われ、街道をいく人々がお参りする名所になっていたと云う。

一方神功皇后が新羅出兵に際して打出の民のために埋めたとの説もあるらしく、“打出”の名前の由来として「神功皇后がここから新羅に打ち出たから、打出という!」説も伝えられている。