近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

岸和田市の久米田古墳群とは!

2010年05月31日 | 歴史
岸和田市は、大阪市と和歌山市のほぼ中間に位置し、大阪都心から約20kmの距離にある。

東西約7.6km・南北約17.3kmの細長い地形で、おおむね臨海部・平地部・丘陵部・山地部に区分される。

丘陵部から山地部にかけては豊かな自然が残り、岸和田市の特色の一つ。

岸和田市は、岸和田藩の城下町を中心に発展してきた人口約20万人の特例市で、泉南地域の中心都市でもあり、大阪府の出先機関や企業の支店などが集中している。

岸和田だんじり祭で全国的に有名。

久米田古墳群は、池尻町付近の標高35~40mの久米田丘陵にある。





写真は、久米田古墳群のマッピングのうち、○市は岸和田市指定史跡のことで、久米田公園内と外側に計6基を数える。それとマッピングにある、現在の久米田池光景。

過去、10数基の古墳があったと考えられているが、現在は8基の古墳が確認されている。
そのうち、写真の通り、貝吹山古墳・風吹山古墳・無名塚古墳の3基は、現在一部整備され久米田公園の中に所在する。

牛滝川から久米田池に入る唯一の水路が栄川であり、12月から3月まで牛滝川の堰が止められ、久米田池には水が無い状態になるらしい。

久米田池交流資料館の資料では、久米田池から須恵器などが見つかっているので、古くからの住居跡が池の下に沈んでいる可能性があると云う。









写真は上から、貝吹山古墳墳頂から覗く岸和田市街地、本古墳墳頂から望む金剛山方面、久米田公園内の溜池のような周濠に浮かぶような貝吹山古墳及び久米田公園の植栽から覗く無名塚古墳。

古墳時代、岸和田市のある和泉地域で力を持っていた首長のお墓は、岸和田市摩湯町にある摩湯山古墳から始まった。

その後、岸和田市近隣で久米田池西側に、貝吹山古墳と同等の古墳が造られていった。

しかし、時代が下るにつれて、中央政権と和泉地域の首長との関係の変化などから岸和田市内では大規模な古墳は造られなくなった。

ここでは、久米田公園とその周辺に所在する久米田古墳群のうち、岸和田市の指定史跡である、貝吹山古墳、風吹山古墳、無名塚古墳、女郎塚古墳、光明塚古墳及び志阿弥法師塚古墳の6基を、以下紹介する。

6基とも市指定の文化財ながら、何らの説明看板や案内板が現地に置かれていないのはどうしたことか?


和泉市の狐塚古墳とは!

2010年05月29日 | 歴史
信太千塚古墳群は、66号墳を盟主墳とする群、狐塚古墳・43号墳を盟主墳とする群及び62号墳を盟主墳とする群の3つの支群にわけられると云う。

3支群のうち、千塚中央部の山荘町にある、狐塚古墳は大阪府指定史跡で、古墳時代後期の前方後円墳。

この狐塚古墳を最後に信太山には大型の古墳が築かれなくなった。





写真は、柵で囲まれた狐塚古墳現場と本古墳が所在する雑木林の様子。

本古墳は、全長約56mの古墳時代後期の前方後円墳で、現在前方部が削られ消失していると云う。

本古墳は、和泉市山荘バス停横の雑木林奥に所在する。

信太千塚を築いた勢力は、河内と和泉地方に大古墳群を築いた大王の政権に従属し、特に市内鍛治屋町・浦田町辺りの、陶邑で始まった須恵器生産を統括した豪族とその配下の集団の墳墓群と考えられている。





写真は、狐塚古墳墳丘の様子と本古墳脇の黒鳥公園から望む王塚古墳遠景。

狐塚古墳脇を下ってゆくと水田地帯に入り、あぜ道を西方向に行くと鏡池附近に王塚古墳・62号墳がある。

ほとんどの古墳は、住宅開発や自衛隊演習地内の塹壕などに利用され、破壊されているが、現在見ることのできる古墳は、上記の古墳以外には、野外活動センター内に残されている小円墳が数基程度と云う。

信太千塚古墳群の破壊直前に発掘保存された、須恵器・埴輪や金属製品などの遺物は、現在泉大津高校考古資料室に展示されていると云う。


和泉市の丸笠山古墳とは!

2010年05月27日 | 歴史
丸笠山古墳は、和泉市伯太町4丁目にあり、信太山丘陵の西縁部に位置する、全長約96mの前方後円墳で大阪府の指定史跡。







写真は上から、丸笠山古墳入口の丸笠神社鳥居と丸笠山古墳への記念石碑及び本古墳内の丸笠神社拝所。

本古墳の在所は、もと式内社・丸笠神社の境内地にあり、前方部に拝所を設けているが本殿は設けず、直接古墳を祀るというように、古代の祭祀形式を取ったと云える。







写真は上から、本古墳後円部墳丘の様子、本古墳の削平された前方部光景及び後円部墳頂の荒れ模様の様子。

写真のように、前方部は削平されてフラット化し、埋葬品は不明だが、同市の黄金塚古墳に前後して築造された、4世紀末頃の古墳時代前期の古墳と見られている。

和泉市北部に広がる信太山丘陵には、大阪ではめずらしい湿地群が点在し、丘陵部には草地が広がるという自然環境に恵まれていた。

しかし近年地球温暖化の影響や信太山丘陵周辺の乱開発の動きが、素晴らしい自然環境に立ちはだかり、この丘陵の生物多様性の危機は増大していると云う。



写真は、本古墳墳丘から覗く丸笠池の様子。

本古墳は、東南から北西に延びる丘陵を利用して築造されているが、三方にある溜池は濠の名残とも考えられるが、真偽のほどは明らかでない。

丸笠山古墳は、信太山方向への坂道を上った所に位置し、写真のような、丸笠池と雑木で覆われている。





和泉市の和泉黄金塚古墳とは!

2010年05月25日 | 歴史
和泉市は、大阪府泉北地域に位置する中堅都市で、かつて国府の他に国分寺と総社もあり、和泉国の中心であった地域。

和泉市には、全国でも屈指の規模を誇る弥生時代の集落跡・池上曽根遺跡があり、遠い昔からこの地に人々が住み、生活を営んでいたことが窺える。

古墳時代前期には黄金塚古墳が築造され、そこから出土した銅鏡は、中国の魏王から邪馬台国の女王・卑弥呼に贈られた一枚ではないかと云われている。

叉和泉市周辺は、古くから清水が多く湧き出た所で、「和泉」という地名も、泉井上神社の境内にある「和泉清水」に由来していると云う。

和泉黄金塚古墳は、和泉市上代町にある、4世紀後半頃の古墳時代前期に築かれた、全長約94mの市内最古の前方後円墳で、平成20年3月、国史跡に指定されている。







写真は上から、田畑に囲まれた和泉黄金塚古墳の全景、泉北グリーンセンターを望む本古墳前方部の光景及び空撮の光景。

本古墳は、信太山丘陵先端に位置する、二段築成と推定される墳丘をもつ前方後円墳で、その規模は全長約94m、後円部は直径約60m・高さ約9m、前方部は推定幅約42m・高さ約6.5mを測る。





写真は、黄金塚古墳の広大な周濠及び田畑に囲まれた本古墳の周濠状況。

写真のように、墳丘の周囲は水田となっており、田植えの季節には水濠に、稲刈り後は空堀に見舞われるが、幅8~15mの前方後円形をした周濠の姿。

外濠を含めると、全長が約109mになるらしいが、墳丘には葺石が施されていたと見られている。





写真は、本古墳の発掘調査光景及び出土した景初3年銘入の画文帯神獣鏡。

中国・魏の年号である「景初三年」銘の画文帯四神四獣鏡が出土したことから、魏志倭人伝における邪馬台国の卑弥呼が魏の皇帝から銅鏡百枚を贈ったとの記述との関連性が指摘されている。

円筒埴輪・朝顔形埴輪・家形埴輪などが採取されており、墳丘には埴輪の配列がなされていたと見られる。













写真は上から、中央に登り口が見える、黄金塚古墳後円部の光景、後円部の登り口から望む墳頂光景、後円部墳頂の石碑、後円部墳頂にある、埋め戻された粘土槨跡の様子、墳頂から望む市街地光景及び墳頂から見下ろす周辺田畑の光景。

本古墳後円部の粘土槨に木製棺の埋葬施設が3つ平行に並んでいたらしい。
後円部の3基の粘土槨のうち、中央槨は長さ8.7mほどの割竹式木棺,東棺と西棺は長さ4mほどの箱形木棺と考えられている。

1950年から1951年にかけて、発掘調査が実施されが、中央槨の棺内からは半三角縁二神二獣鏡・勾玉・管玉・石釧・車輪石などが、棺外からは景初三年銘の画文帯四神四獣鏡・鉄刀・鉄剣・鉄斧・鉄鎌などが出土。

東槨からは、棺内から三角縁盤龍鏡・画文帯四神四獣鏡(2面)・甲・冑・勾玉・管玉・鍬形石・水晶製大型切子玉などが、棺外からは鉄槍・鉄鉾・鉄鏃などが出土したと云う。

これら多量の出土品は、一括して国の重要文化財に指定されており、東京国立博物館に所蔵されているらしい。

本古墳の周囲には棚田の景観が残っていることも特筆されるが、泉北クリーンセンターに隣接する丘陵で、大阪湾が広く見下ろせる位置にある。

このような墳墓地の厳選された土地柄といい、叉貴重な埋葬遺物からも、当地を支配した有力豪族の墓所と考えられる。






堺市の御廟山古墳とは!

2010年05月23日 | 歴史
御廟山古墳は、北区百舌鳥本町にある前方部を西に向けた前方後円墳。

墳丘は、全長約186m・後円部径約96m・高さ約18.3m・前方部幅約119m・高さ約17.8mの規模で、日本最大の大山古墳・仁徳天皇陵の全長約486mを含む百舌鳥古墳群では4番目の大きさの前方後円墳。

墳丘は3段に築かれていて、南側のくびれ部には造出しがある。







写真は上から、御廟山古墳の正面姿、南側のお濠光景及び北側のマンションに囲まれた光景。

葺石と埴輪があるが、埋葬の主体部の構造や副葬品などは分かっていない。

同古墳は、応神天皇を最初に埋葬した墓とか、仁徳天皇の御妃の墓とする伝承があり、宮内庁が明治時代に陵墓参考地(被葬者を確定できないものの、皇族の墓所の可能性が考えられる場合)に指定。

墳丘は宮内庁、周濠は地元自治会が管理しているが、裾周りが濠水によって崩落、その護岸整備工事に向けて、同庁が平成20年10月から事前調査に入ったのに合わせ、堺市が濠を調べていた。





写真は、平成20年10月の発掘調査現場の遠景と近景。

発掘調査結果、円筒埴輪や家形埴輪などコンテナで20箱分出土したと云う。

皇族を埋葬したと伝えられている古墳などは、宮内庁は「御霊の安寧と静謐(せいひつ)を守る」として、“陵墓参考地”に指定し、宮内庁が管理をしているが、それらの古墳は、従来研究者に公開されることはあっても、一般公開はされてこなかった。

しかし今回本古墳の墳丘15ヶ所を発掘調査した中で、1ヶ所が初めて公開された。

今回の調査結果、古墳の全長が、従来より約14m長い、約200mになることが判明。出土品から築造年代は従来の5世紀後半から中頃に遡ったことで、仁徳天皇陵よりやや早いと見られる。

出土品は、全て宮内庁保存・管轄化にあり、今までのところ一般公開されていない。




写真は、出土した円筒埴輪などの埴輪列及び葺石。

墳丘のテラス部から円筒形や朝顔形・蓋形・家型などの埴輪列が確認された。

前方後円墳のくびれ部分に、通常は両側とも造り出しがあるが、ここは南側だけ。

出土物の99.9%が埴輪で、そのうち円筒埴輪が9割、残りが形象埴輪。

形象埴輪が造り出し部に集中して見つかったことから、弔いの儀式を行ったのではないかと考えられている。

と言うように、今回の発掘は、宮内庁と自治体との初の合同調査や一般公開、そして報道陣の立ち入りなど異例ずくめであったと云う。

今後は、限定された区域だけでなく、陵墓全体を調査できるきっかけになればと、考古研究者は期待を寄せていると共に、宮内庁の職員とも意見交換ができるよう、宮内庁の公開姿勢が更に軟化することを期待したい。




茨木市の耳原古墳とは!

2010年05月19日 | 歴史
耳原古墳は茨木市耳原に所在し、平地に盛土された6世紀後半の円墳で、三島地方最大の巨石古墳として知られている。







写真は上から、帝人大阪研究センター建物越しに覗く耳原古墳の森、同敷地内に鎮座する耳原古墳の森及び耳原古墳現場の近景。

耳原円墳は、帝人大阪研究センターの中にあり、正面受付で入場の手続きをして構内に入り、よく手入れされた花畑や整然とした並木を通り抜けると、本古墳現場に辿り着く。

写真の通り、木々に覆われたその中に横穴式石室の入口が見える。









写真は上から、耳原古墳石室の全景と近景、石室内部の光景と二つの石棺。

本古墳は、盛土の中央に花崗岩の自然石を3段積みにした横穴式石室を持つ古墳で、玄室の長さは約7m・幅約2.4m・高さ約3mを測り、羨道は、長さ約7m・幅約1.7m・高さ約1.7mを測る。

写真のように、玄室内には、形の異なった石棺が2基安置されているが、奥にある石棺は家形組合せ式石棺で、長さ約2.2m・幅約1.3mの大きさで、羨道近くにある石棺は、家形刳抜式石棺で、蓋と身とに分かれている。

家形刳抜式石棺は、身の長さ約2.0m・最大幅約1.3mの大きさの石棺で、ひとつの石室内に形式の異なった石棺がどうしてあるのか、また2つの石棺の被葬者の立場や関係はどうであるのかなど、詳しいことは分かっていない。

二つの石棺のうち、羨道近くにある棺が従者のものといわれているが、二人の関係はいまだ不明。

玄室の大きさからみて、最初から石棺を二個置く予定だったと見られる。

二人の関係などは不明だが、奥の棺がこの古墳の主体であると考えられている。

古墳の保存状況、整備状態は良好であるが、これは古墳が私企業の敷地内にあるためと考えられる。


茨木市の海北塚古墳とは!

2010年05月18日 | 歴史
海北塚古墳(カイボウツカ)は横穴式石室をもち、古墳時代後期に築造されたと見られる、6世紀の大型円墳で、昭和18年に大阪府史跡に指定されている。

本古墳は、茨木市西福井1丁目の府営住宅の南側に所在する。







写真は上から、道路沿いに立てられた海北塚古墳の案内石碑、同古墳の全景及び古墳の石碑が覗く同古墳現場竹林と雑木。

本古墳は、周囲一面田畑に囲まれた竹やぶの中に位置しているが、既に封土はなく、西に開口した左片袖式の横穴式石室の下半分が残っているものの、石室石材が散乱状態。










写真は上から、海北塚古墳現場の崩れた石室石材の散乱状況、同古墳の散乱した巨大石室石材の光景、同古墳の崩れた石室と石材、同古墳の竹林が這う石室入口の光景及び残された石室内部の光景。

天井石は落下・散乱している所もあるが、側壁上に当時のまま残っている所もある。

残存している石室の長さは約4.2m・幅2.2m・高さ3mを測り、羨道の長さ5.7mで、6個の緑泥片岩で構成された箱式石棺があり、その長さ約1.8m・幅0.9mほど。

写真のように、生竹が石室内部まで増殖している。

副葬品は、高杯・金環・銅環・金銅製三輪玉・人物獣帯鏡・金銅製金具・刀身片・銀製勾玉などが封土内より出土。

叉轡・鉄地金銅製杏葉・金銅製雲珠・鞍金具等の馬具や金銅製環頭柄・長頚式鉄鏃・鉾・須恵器などが石室内から出土し、棺内よりガラス製小玉も出土している。これからの副葬品は、現在東京国立博物館に保存されていると云う。

この古墳は、竜頭を表した金銅製環頭柄の出土や、石室内の石棺が結晶片岩製で、前期の紫金山古墳や将軍山古墳の石室構築に使用した和歌山県紀ノ川流域の同種の石材が使用されていることは注目に値する。

竹林の中にあって、封土は失われているが、石室と石室外の封土の中から遺物が発掘されたというが、何とも不思議なストーリー・・・・・。



八尾市の心合寺山古墳とは!そのⅢ

2010年05月16日 | 歴史
心合寺山古墳巡りを続けます。

☆葺石
本古墳の3段に盛り土された墳丘の斜面には、葺石が葺かれているが、当時西日を受けた葺石が光り輝き、大和川水系の河川を行交う船に、権力の存在を誇示していたと考えられる。




写真は、瀬戸内海から持ち込んで復元された葺石の様子及び本古墳当時の葺石を使って再現された墳丘の容姿。

豪族の力の象徴とされるお墓を造るために、最新の土木技術・多数の労働力・大量の葺石・盛土・大量で多種の埴輪などの要素を誇示した様子が窺える。

☆埋葬施設と副葬品
埋葬施設は、後円部墳頂に3つの“粘土槨”、前方部の“方形壇”の下に木棺が見つかっている。

後円部と前方部で合計4人の被葬者が埋葬されていたことになる。





写真は、後円部墳頂にマークされた粘土郭で東西に並んでいるが、左側が西槨で唯一発掘調査された粘土槨及び復元された西槨内の副葬品出土状況。

西槨の埋葬品配置と埋葬方法を原寸大で再現したが、7.3mもの長大な粘土槨には、どのような人物が埋葬されていたのか?



写真は、本古墳から出土したき鳳鏡。

発掘調査された西槨に納められていた組合式木棺からは、き鳳鏡・甲冑・勾玉や管玉・刀剣類などの副葬品が検出された。

墳頂からは、家・蓋などの形象埴輪が出土しており、埋葬施設の上にいろいろな埴輪が並べられていたと見られる。

これら貴重な埋葬品は、巨大前方後円墳を造営していた古市古墳群や百舌鳥古墳群の大王との関係や中河内を治めていた王の姿を知る手がかりになるかも知れない。

これまでの発掘調査で出土した副葬品等は、古墳の脇にある「八尾市立しおんじやま古墳学習館」で展示されている。

蛇足として、2点を追加カバーすると、先ずはキリの大木について言及する。





写真は、二本の桐木間から望む八尾市と大阪市街地光景及び古墳に残された満開の桐木。

復元整備にあたって、後円部中腹に残された2本のキリの大木を保存する案と伐採する案が対立したが、結局残すことになったらしい。

取材当日の平成22年4月某日、満開のキリの大木を目当てにカメラマンや観光客で賑わっていたことを付け加えたい。

もう一点は、飛鳥時代、この古墳西側に心合寺と呼ばれる寺院が建立されたが、この寺院名が古墳名の由来とされる。

しかしこの寺はいつしか無くなり、叉名前の言い回しも訛ってしまい、“しおんじ”になってしまったと云う。



八尾市の心合寺山古墳とは!そのⅡ

2010年05月13日 | 歴史
心合寺山古墳巡りを続けます。

以下本古墳の特徴について概観してみる。

☆造り出し部
本古墳西側のくびれ部には、“造り出し”と云う、四角いテラス状の施設が設けられ、家形埴輪・鶏形埴輪・壷形埴輪・蓋形埴輪などの形象埴輪を配置していた。







写真は上から、本古墳墳頂の蓋形埴輪から見下ろす造り出し部光景、造り出し部の埴輪列及び造り出し部脇のくびれ部から見上げる後円部墳頂。

造り出し部の大きさは、東西約6.3m・南北約5.6m・高さ1.2m以上あり、本古墳西側のくびれ部で発見された。

造り出しは、前方部と後円部が接する“くびれ部”付近に造られ、古墳から突出した方壇状の部分で、いろいろな埴輪が並べられているが、墓前祭をおこなうための祭壇と考えられている。

くびれ部には、埴輪列と葺石が良好に残っていたと云う。

☆埴輪
埴輪は墳丘平坦部に隙間なく並べられ、柵のような役割をした、約3,000本もの円筒埴輪・朝顔形埴輪の埴輪列、家形埴輪・盾形埴輪、蓋形埴輪などが、それぞれ役割を持った形象埴輪の配置によって古墳全体を飾り、祭祀場を表現していた。











写真は上から、本古墳から出土した円筒埴輪・朝顔形埴輪、壷形埴輪と鶏形埴輪、馬型埴輪、蓋形埴輪及び柵に囲まれた家形埴輪。

特に柵に囲まれた家形埴輪は、“水の祭祀場を表した埴輪”と見られ、塀を表した囲み部と祭殿と考えられる家部からなっており、床には水を導く樋管を表現している。

この地域を治めていた豪族が催していた、水を用いた祭祀場を表していると見られる。

尚本古墳から出土した、囲形埴輪に類似した構造の板塀跡が、奈良県御所市の秋津遺跡より発見され、注目された。



写真は、前方部の方形壇を囲む埴輪列。方形壇の下には埋葬施設がある。

埴輪列は、朝顔形埴輪を起点に4本の円筒埴輪を並べた後、朝顔形埴輪1本、円筒埴輪9本、朝顔形埴輪1本を並べた配列順になっていると云う。


八尾市の心合寺山古墳とは!そのⅠ

2010年05月11日 | 歴史
八尾市の歴史は、今から5,500年ほど前の縄文時代に遡るが、当時の八尾市域の平野部はほとんどが海底で、人々は高安山周辺部に住んでいたと云う。

その後弥生時代には、無数の小河川から土砂が運ばれ、陸地となり、いくつもの集落がつくられたらしい。

そして古墳時代に入ると、河内湖は大阪湾との出入口が閉ざされ、河川の運ぶ土砂によって更に埋められて、平野部にも古墳が造られ、特に4~5世紀には大竹古墳群が築造されたが、そのうち心合寺山古墳は、河内地域を代表する大規模な前方後円墳。















写真は上から、心合寺山古墳記念碑、本古墳正面入口から望む墳丘の築段容姿、東側周濠越しに覗く墳丘、東南側から覗く墳丘、墳頂から西側を望む八尾市と大阪市街地光景、墳頂から東北側を望む生駒山麓及び西側周濠から生駒山をバックに見上げる後円部墳丘の容姿。

本古墳は、標高約30mの扇状地の穏傾斜面にあり、生駒山地西麓の河内平野を一望できる立地の良い場所に造られた。

全国各地には約5,000基も造られた前方後円墳のうち、約60番目の規模に当たるのが心合寺山古墳で、全長約160mの三段築成で、墳丘の斜面には葺石が葺かれ、平坦面には埴輪が列状に並んでいた。

本古墳は、後円部の直径が約92m・高さ約13m・前方部の幅が約90m・高さ約12mを測り、前方部が南方、後円部が北方にある。

生駒山西麓に沿うように築かれて、周濠は南側と北側の2か所で堤を造って区切られているため、その東西で水位が異なる珍しい造り。

平成17年4月、約30,000㎡が史跡公園として整備され、墳丘の平坦部には円筒埴輪・朝顔形埴輪などが、復元され・並べ立てられている。

墳丘は、発掘調査の結果、ほぼ原形を留めていたが、昭和41年2月に、国史跡に指定された。



八尾市の愛宕塚古墳とは!そのⅡ

2010年05月08日 | 歴史
愛宕塚古墳巡りを更に続けます。

ここでは、本古墳の特徴である、巨大石室について詳述する。











写真は上から、同古墳の横穴式石室入口の光景、本古墳の両袖式石室内部の光景、同玄室の石組みの様子、同石室側壁石組みクローズアップと天井石クローズアップ。

写真のように、側面の壁や奥壁は、巨石を二段垂直に重ね、より高く見えるように造られているが、四角い印象を受ける。

本古墳は、府下でも最大級の巨大石墳で、入口が広く、天井も高い。

巨石を積み上げた横穴式石室は、奥行き16.8m・幅約2.5m・玄室は全長7.2m・玄室の高さ4.1mほどで、高安古墳群中、最大規模の後期古墳。

横穴式石室は、府下最大級の規模で、内部は両袖式石室になっており、家型石棺片には、二上山の白色凝灰岩と、播磨系の石材の2種類が使われていたことが確認されているが、その規模から河内の石舞台古墳と云われている。

本古墳は府指定史跡で、出土品も府指定有形文化財になっている。

出土遺物では、凝灰岩製の家形石棺・鉄製利器・金張鉄製品・須恵器のほか玉類・鉄地金銅張馬具など優れた副葬品が多量に残存していることから、被葬者の地位の高さを物語っている。

本古墳の被葬者は、6世紀後半と云う時代的にも、当時この辺りを支配下に置いていた、物部氏の一族の墓との説が有力であり、注目を浴びている。

生駒山西麓が、大阪府下でも有数の古墳群を抱えている点は、河内湖の存在と無関係ではない。

古墳時代人たちは、河内湖を横切って、生駒山や高安山の麓に上陸したと見られ、この地域には、弥生時代から古墳時代にかけての集落遺跡が多数存在する。

渡来系の文物や吉備系の土器などで多数見つかっている。

大和王朝へと通じる交通の要衝としても、支配権を誇示していたと見られる。

八尾市の愛宕塚古墳とは!そのⅠ

2010年05月06日 | 歴史
愛宕塚古墳は八尾市神立に所在し、直径約25m・高さ6.5mほどを測る、6世紀後半の円墳。

生駒山西麓部で、横穴式石室をもつ最大の“ホタテ貝式古墳”とも言われ、標高約70mの見晴らしのいい高台にあり、八尾市街地を一望できる。









写真は上から、愛宕塚古墳への誘導石碑、同説明案内石碑、本古墳から望む八尾市街地及び本古墳南側に望む生駒山地風景。

石室開口部は南向きで、古墳時代後期の築造と考えられている。

古墳時代後期の横穴式石室の封土は、墳頂部を除いてよく保存されており、墳丘は円墳の形状をよく留めている。





写真は、手前の植木ハウスから覗く愛宕塚古墳円墳の光景及び同円墳墳頂の様子。

写真のように、本円墳の形状が植木ハウス正面に覗くように、周辺には植木屋が多く、ハウスで栽培をしているが、平成22年4月頃はシーズンオフ。

直径25mほどの本古墳墳頂は、平らに削られているが、円形の形状を残している。




八尾市の西の山古墳とは!

2010年05月04日 | 歴史
西の山古墳は、大阪経済法科大学北側、熊野神社の裏手にあり、全長55mの古墳時代前期の南面する前方後円墳。

楽音寺のすぐ東方の独立丘陵を利用したもので、標高は約70mの所にあり、もとは楽音寺の村落が、この東側にあったので西ノ山と呼ばれていたものが、後に村落が現在の地に移った後も、そのまま西ノ山の名が残ったものと伝えられている。









写真は上から、西の山古墳案内石碑、同古墳脇に鎮座する熊野神社、植木畑地に面した同古墳全景及び同古墳から望む八尾市光景。

墳丘は良好で、後円部は藪の中だが前方後円墳であることは分かる。

熊野神社は、西の山古墳とともに生駒山地西斜面の高台にあり、西側に向かって大きく視界が開けている。

この眺めの良さが移転地として選ばれた理由らしい。晴れた日に境内からは、大阪湾を経て六甲山や淡路島への展望が楽しめると云う。

西の山古墳周辺には、心合寺山古墳・花岡山古墳などの前期から中期にかけて造営された古墳があり、「楽音寺・大竹古墳群」と呼ばれている。

本古墳群は、古い順番では向山古墳→西の山古墳→心合寺山古墳→鏡塚古墳→愛宕塚古墳になるらしい。

明治14年開墾中に後円部から石棺が発見され、その中から人骨・勾玉・刀剣などが出土したと云う。





写真は、西の山古墳後円部の中心部及び同古墳の前方部光景。

現在後円部は高さ9m・直径27mほどあり、触れると祟りがあるとして雑草の茂るままに放置されているらしい。

前方部は高さ5m・長さ28mほどあるが、現在前方部の一部は、耕されて植木畑となっている。

南の谷をへだてて、大阪経済法科大学敷地内にも、前期の前方後円墳である花岡山古墳があったが、現在は石碑が残るのみ。


八尾市の向山古墳とは!

2010年05月01日 | 歴史
向山古墳は、大阪経済法科大学の南側約300mに所在する、小さな独立丘陵上にある、古墳時代前期の西向きの前方後円墳。









写真は、向山古墳の案内石碑、独立丘陵上の向山古墳全景、本古墳を囲む溜池越しに望む市街地光景及び本古墳墳丘に乱立する竹林。

本古墳の規模は、墳頂までの標高約75m、周辺水田からの比高約25m、墳長約55m・後円径約30m・高さ約7m・前方部長さ約28m・高さ5mほど。

墳丘は早くから開墾されて、植木畑となり、後円部は一部が採土されたため、大きく変形している。後円部南側の池畔には、平安・鎌倉時代の瓦窯跡があると云う。

八尾市一面は低湿地であるが、域内を恩智川・玉串川・楠根川・長瀬川・平野川等の川が流れ、これら河川は河内湖に流れ込んでいた。

稲作には好条件が揃っていたと云える。大和政権の時代には穀倉地帯であったと考えられる。

古墳は一般的に、豪族や天皇だけが造ったのではなく一般の小豪族も造っていたと考えられる。

大正11年に発掘調査した結果、当時古墳が540基もあったと記されており、稲作と考え合わせれば、これら数多くの古墳群の存在は頷ける。

本古墳の後円部は、ほとんど削り取られ、一部は平安時代から鎌倉時代にかけて瓦を焼く窯として用いられたらしい。