岸和田市は、大阪市と和歌山市のほぼ中間に位置し、大阪都心から約20kmの距離にある。
東西約7.6km・南北約17.3kmの細長い地形で、おおむね臨海部・平地部・丘陵部・山地部に区分される。
丘陵部から山地部にかけては豊かな自然が残り、岸和田市の特色の一つ。
岸和田市は、岸和田藩の城下町を中心に発展してきた人口約20万人の特例市で、泉南地域の中心都市でもあり、大阪府の出先機関や企業の支店などが集中している。
岸和田だんじり祭で全国的に有名。
久米田古墳群は、池尻町付近の標高35~40mの久米田丘陵にある。
写真は、久米田古墳群のマッピングのうち、○市は岸和田市指定史跡のことで、久米田公園内と外側に計6基を数える。それとマッピングにある、現在の久米田池光景。
過去、10数基の古墳があったと考えられているが、現在は8基の古墳が確認されている。
そのうち、写真の通り、貝吹山古墳・風吹山古墳・無名塚古墳の3基は、現在一部整備され久米田公園の中に所在する。
牛滝川から久米田池に入る唯一の水路が栄川であり、12月から3月まで牛滝川の堰が止められ、久米田池には水が無い状態になるらしい。
久米田池交流資料館の資料では、久米田池から須恵器などが見つかっているので、古くからの住居跡が池の下に沈んでいる可能性があると云う。
写真は上から、貝吹山古墳墳頂から覗く岸和田市街地、本古墳墳頂から望む金剛山方面、久米田公園内の溜池のような周濠に浮かぶような貝吹山古墳及び久米田公園の植栽から覗く無名塚古墳。
古墳時代、岸和田市のある和泉地域で力を持っていた首長のお墓は、岸和田市摩湯町にある摩湯山古墳から始まった。
その後、岸和田市近隣で久米田池西側に、貝吹山古墳と同等の古墳が造られていった。
しかし、時代が下るにつれて、中央政権と和泉地域の首長との関係の変化などから岸和田市内では大規模な古墳は造られなくなった。
ここでは、久米田公園とその周辺に所在する久米田古墳群のうち、岸和田市の指定史跡である、貝吹山古墳、風吹山古墳、無名塚古墳、女郎塚古墳、光明塚古墳及び志阿弥法師塚古墳の6基を、以下紹介する。
6基とも市指定の文化財ながら、何らの説明看板や案内板が現地に置かれていないのはどうしたことか?
東西約7.6km・南北約17.3kmの細長い地形で、おおむね臨海部・平地部・丘陵部・山地部に区分される。
丘陵部から山地部にかけては豊かな自然が残り、岸和田市の特色の一つ。
岸和田市は、岸和田藩の城下町を中心に発展してきた人口約20万人の特例市で、泉南地域の中心都市でもあり、大阪府の出先機関や企業の支店などが集中している。
岸和田だんじり祭で全国的に有名。
久米田古墳群は、池尻町付近の標高35~40mの久米田丘陵にある。
写真は、久米田古墳群のマッピングのうち、○市は岸和田市指定史跡のことで、久米田公園内と外側に計6基を数える。それとマッピングにある、現在の久米田池光景。
過去、10数基の古墳があったと考えられているが、現在は8基の古墳が確認されている。
そのうち、写真の通り、貝吹山古墳・風吹山古墳・無名塚古墳の3基は、現在一部整備され久米田公園の中に所在する。
牛滝川から久米田池に入る唯一の水路が栄川であり、12月から3月まで牛滝川の堰が止められ、久米田池には水が無い状態になるらしい。
久米田池交流資料館の資料では、久米田池から須恵器などが見つかっているので、古くからの住居跡が池の下に沈んでいる可能性があると云う。
写真は上から、貝吹山古墳墳頂から覗く岸和田市街地、本古墳墳頂から望む金剛山方面、久米田公園内の溜池のような周濠に浮かぶような貝吹山古墳及び久米田公園の植栽から覗く無名塚古墳。
古墳時代、岸和田市のある和泉地域で力を持っていた首長のお墓は、岸和田市摩湯町にある摩湯山古墳から始まった。
その後、岸和田市近隣で久米田池西側に、貝吹山古墳と同等の古墳が造られていった。
しかし、時代が下るにつれて、中央政権と和泉地域の首長との関係の変化などから岸和田市内では大規模な古墳は造られなくなった。
ここでは、久米田公園とその周辺に所在する久米田古墳群のうち、岸和田市の指定史跡である、貝吹山古墳、風吹山古墳、無名塚古墳、女郎塚古墳、光明塚古墳及び志阿弥法師塚古墳の6基を、以下紹介する。
6基とも市指定の文化財ながら、何らの説明看板や案内板が現地に置かれていないのはどうしたことか?