これからは、京都府下の古墳巡りをしてみたい。
先ずはじめに向日市の古墳群を取上げる。
向日市は、京都盆地の西南部に位置し、東西約2km・南北約4kmと南北に長い都市で、北部・東部・西部は京都市、南部は長岡京市と接している。
人口55,000人ほどの向日市は、都会の喧騒からは遠く、良質な竹の産地で知られる。竹林の脇には古墳や御陵も点在し、ざわざわと吹き渡る風は、歴史の彼方に消えた幾多の時代の盛衰や悲哀を物語るかのようだ!![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/kuri_3.gif)
古墳や長岡京跡が点在する市内には、歴史とともに多くの自然が残っている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/69/1c/88d8366547169b7f9d014a915fede539.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/48/7c/d4895e4fea11f66a0b9aa3f0a8ba9995.jpg)
写真は、西ノ岡丘陵の竹の径及びかぐやの夕べシーン。
緑あふれる竹は向日市民の木として親しまれ、竹林公園に至る散策コースの「西ノ岡トリムコース」などで、四季折々の竹の表情を楽しむことができると云う。
地元特産の「孟宗竹」で作られた竹垣の散策路で、竹の枝を束ねて並べていく「竹穂垣」や、竹の径の途中にある寺戸塚古墳をデザインした「古墳垣」、かぐや姫の十二単衣をイメージした「かぐや垣」などがあり、散策する人の目を楽しませてくれると云う。![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/kuri_1.gif)
毎年10月「竹の径・かぐやの夕べ」では、写真のように、水ろうそくを浮かべた竹筒3000本が、散策路や周辺の竹林を幻想的に彩る。寺戸大塚古墳には光のオブジェが飾られ、暗闇にその姿を浮かび上がらせるらしい。
良質なタケノコの産地で竹林が多く、その中にある「竹の径」は、六種類の竹垣が整然と連なる全長約1.8kmの竹林道。散策など竹林浴の地として親しまれている。
幕末頃からタケノコの栽培が盛んになり、大正時代にはタケノコ畑の開墾が丘陵の尾根まで進んでいき、石室や副葬品の発見が相次ぐようになったと云う。
しかし一方で、そのために貴重な文化財が破壊・消滅されてしまった。![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/kuri_5.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/16/25/3b3f3df0511dd1323bb6e5ad8f137c7c.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/09/e7/f8b0bf3db1b02b19843981ec5d5c2e55.jpg)
写真は、向日市向日町の勝山公園から望む、西ノ岡丘陵及び西ノ岡丘陵から見下ろす長岡京市方面遠景。
西部一帯に横たわる西ノ岡丘陵の辺りは、竹林が広がる緑豊かで閑静な地域となっている。小畑川などの豊かな水系に恵まれた西ノ岡丘陵は、石器時代から多くの人が住んでいたことが認められている。
ここで古墳時代を概観してみると、古墳時代には有力な氏族が次々と誕生し、その活況ぶりは元稲荷古墳・寺戸大塚古墳・物集女車塚古墳などで偲ぶことができる。![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/kuri_2.gif)
1200年ほど前の宮都が眠る向日市、その西部に南北に横たわる向日丘陵には、さらに古の時代に築かれた大小さまざまな古墳が眠る。
西ノ岡丘陵の一部である、向日丘陵の古墳の中で、「元稲荷古墳」は、向日丘陵の先端部(西)に位置しており、古墳時代前期に築かれた向日丘陵では一番古く、全長94mの前方後円墳。
「五塚原古墳」は、全長91mの前方後円墳で、古墳時代前期のものと言われている。もう一つ北の「桓武天皇皇后陵・伝高畠陵古墳」は、長岡京を築いた桓武天皇の皇后の墓として宮内庁管理とされている、直径約65mの円墳。
「妙見山古墳」は、全長114mの大きな古墳だったが、土取り工事等で消滅してしまった。
「寺戸大塚古墳」は98mの前方後円墳だが、北側の後円部だけが残されている。
「物集女車塚古墳」は、向日丘陵から尾根伝いに作られた全長45mに及ぶ、古墳時代後期の前方後円墳で、京都府の指定文化財。
これらの古墳群については、これから時代を遡って紹介する。
更に歴史を下ると、784(延暦3)年、桓武天皇は平城京から向日市の長岡京に都を移したが、長岡京の規模は平城京よりも大きく、平安京とほぼ同じ大きさ。
今日の向日市から長岡京市辺りまでまたがっており、政務をおこなった大極殿は向日市鳥冠井町にあり、現在でも地名が残っている。
わずか10年の間だったが、日本の中心は向日市にあった。![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/kuri_1.gif)
先ずはじめに向日市の古墳群を取上げる。
向日市は、京都盆地の西南部に位置し、東西約2km・南北約4kmと南北に長い都市で、北部・東部・西部は京都市、南部は長岡京市と接している。
人口55,000人ほどの向日市は、都会の喧騒からは遠く、良質な竹の産地で知られる。竹林の脇には古墳や御陵も点在し、ざわざわと吹き渡る風は、歴史の彼方に消えた幾多の時代の盛衰や悲哀を物語るかのようだ!
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古墳や長岡京跡が点在する市内には、歴史とともに多くの自然が残っている。
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写真は、西ノ岡丘陵の竹の径及びかぐやの夕べシーン。
緑あふれる竹は向日市民の木として親しまれ、竹林公園に至る散策コースの「西ノ岡トリムコース」などで、四季折々の竹の表情を楽しむことができると云う。
地元特産の「孟宗竹」で作られた竹垣の散策路で、竹の枝を束ねて並べていく「竹穂垣」や、竹の径の途中にある寺戸塚古墳をデザインした「古墳垣」、かぐや姫の十二単衣をイメージした「かぐや垣」などがあり、散策する人の目を楽しませてくれると云う。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/kuri_1.gif)
毎年10月「竹の径・かぐやの夕べ」では、写真のように、水ろうそくを浮かべた竹筒3000本が、散策路や周辺の竹林を幻想的に彩る。寺戸大塚古墳には光のオブジェが飾られ、暗闇にその姿を浮かび上がらせるらしい。
良質なタケノコの産地で竹林が多く、その中にある「竹の径」は、六種類の竹垣が整然と連なる全長約1.8kmの竹林道。散策など竹林浴の地として親しまれている。
幕末頃からタケノコの栽培が盛んになり、大正時代にはタケノコ畑の開墾が丘陵の尾根まで進んでいき、石室や副葬品の発見が相次ぐようになったと云う。
しかし一方で、そのために貴重な文化財が破壊・消滅されてしまった。
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写真は、向日市向日町の勝山公園から望む、西ノ岡丘陵及び西ノ岡丘陵から見下ろす長岡京市方面遠景。
西部一帯に横たわる西ノ岡丘陵の辺りは、竹林が広がる緑豊かで閑静な地域となっている。小畑川などの豊かな水系に恵まれた西ノ岡丘陵は、石器時代から多くの人が住んでいたことが認められている。
ここで古墳時代を概観してみると、古墳時代には有力な氏族が次々と誕生し、その活況ぶりは元稲荷古墳・寺戸大塚古墳・物集女車塚古墳などで偲ぶことができる。
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1200年ほど前の宮都が眠る向日市、その西部に南北に横たわる向日丘陵には、さらに古の時代に築かれた大小さまざまな古墳が眠る。
西ノ岡丘陵の一部である、向日丘陵の古墳の中で、「元稲荷古墳」は、向日丘陵の先端部(西)に位置しており、古墳時代前期に築かれた向日丘陵では一番古く、全長94mの前方後円墳。
「五塚原古墳」は、全長91mの前方後円墳で、古墳時代前期のものと言われている。もう一つ北の「桓武天皇皇后陵・伝高畠陵古墳」は、長岡京を築いた桓武天皇の皇后の墓として宮内庁管理とされている、直径約65mの円墳。
「妙見山古墳」は、全長114mの大きな古墳だったが、土取り工事等で消滅してしまった。
「寺戸大塚古墳」は98mの前方後円墳だが、北側の後円部だけが残されている。
「物集女車塚古墳」は、向日丘陵から尾根伝いに作られた全長45mに及ぶ、古墳時代後期の前方後円墳で、京都府の指定文化財。
これらの古墳群については、これから時代を遡って紹介する。
更に歴史を下ると、784(延暦3)年、桓武天皇は平城京から向日市の長岡京に都を移したが、長岡京の規模は平城京よりも大きく、平安京とほぼ同じ大きさ。
今日の向日市から長岡京市辺りまでまたがっており、政務をおこなった大極殿は向日市鳥冠井町にあり、現在でも地名が残っている。
わずか10年の間だったが、日本の中心は向日市にあった。
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