近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

京都府向日市の古墳巡り はじめに!

2009年06月30日 | 歴史
これからは、京都府下の古墳巡りをしてみたい。
先ずはじめに向日市の古墳群を取上げる。

向日市は、京都盆地の西南部に位置し、東西約2km・南北約4kmと南北に長い都市で、北部・東部・西部は京都市、南部は長岡京市と接している。

人口55,000人ほどの向日市は、都会の喧騒からは遠く、良質な竹の産地で知られる。竹林の脇には古墳や御陵も点在し、ざわざわと吹き渡る風は、歴史の彼方に消えた幾多の時代の盛衰や悲哀を物語るかのようだ!

古墳や長岡京跡が点在する市内には、歴史とともに多くの自然が残っている。





写真は、西ノ岡丘陵の竹の径及びかぐやの夕べシーン。

緑あふれる竹は向日市民の木として親しまれ、竹林公園に至る散策コースの「西ノ岡トリムコース」などで、四季折々の竹の表情を楽しむことができると云う。

地元特産の「孟宗竹」で作られた竹垣の散策路で、竹の枝を束ねて並べていく「竹穂垣」や、竹の径の途中にある寺戸塚古墳をデザインした「古墳垣」、かぐや姫の十二単衣をイメージした「かぐや垣」などがあり、散策する人の目を楽しませてくれると云う。

毎年10月「竹の径・かぐやの夕べ」では、写真のように、水ろうそくを浮かべた竹筒3000本が、散策路や周辺の竹林を幻想的に彩る。寺戸大塚古墳には光のオブジェが飾られ、暗闇にその姿を浮かび上がらせるらしい。

良質なタケノコの産地で竹林が多く、その中にある「竹の径」は、六種類の竹垣が整然と連なる全長約1.8kmの竹林道。散策など竹林浴の地として親しまれている。

幕末頃からタケノコの栽培が盛んになり、大正時代にはタケノコ畑の開墾が丘陵の尾根まで進んでいき、石室や副葬品の発見が相次ぐようになったと云う。

しかし一方で、そのために貴重な文化財が破壊・消滅されてしまった。





写真は、向日市向日町の勝山公園から望む、西ノ岡丘陵及び西ノ岡丘陵から見下ろす長岡京市方面遠景。

西部一帯に横たわる西ノ岡丘陵の辺りは、竹林が広がる緑豊かで閑静な地域となっている。小畑川などの豊かな水系に恵まれた西ノ岡丘陵は、石器時代から多くの人が住んでいたことが認められている。

ここで古墳時代を概観してみると、古墳時代には有力な氏族が次々と誕生し、その活況ぶりは元稲荷古墳・寺戸大塚古墳・物集女車塚古墳などで偲ぶことができる。

1200年ほど前の宮都が眠る向日市、その西部に南北に横たわる向日丘陵には、さらに古の時代に築かれた大小さまざまな古墳が眠る。

西ノ岡丘陵の一部である、向日丘陵の古墳の中で、「元稲荷古墳」は、向日丘陵の先端部(西)に位置しており、古墳時代前期に築かれた向日丘陵では一番古く、全長94mの前方後円墳。

「五塚原古墳」は、全長91mの前方後円墳で、古墳時代前期のものと言われている。もう一つ北の「桓武天皇皇后陵・伝高畠陵古墳」は、長岡京を築いた桓武天皇の皇后の墓として宮内庁管理とされている、直径約65mの円墳。

「妙見山古墳」は、全長114mの大きな古墳だったが、土取り工事等で消滅してしまった。

「寺戸大塚古墳」は98mの前方後円墳だが、北側の後円部だけが残されている。

「物集女車塚古墳」は、向日丘陵から尾根伝いに作られた全長45mに及ぶ、古墳時代後期の前方後円墳で、京都府の指定文化財。

これらの古墳群については、これから時代を遡って紹介する。

更に歴史を下ると、784(延暦3)年、桓武天皇は平城京から向日市の長岡京に都を移したが、長岡京の規模は平城京よりも大きく、平安京とほぼ同じ大きさ。

今日の向日市から長岡京市辺りまでまたがっており、政務をおこなった大極殿は向日市鳥冠井町にあり、現在でも地名が残っている。

わずか10年の間だったが、日本の中心は向日市にあった。


和歌山県御坊市の岩内古墳群とは!

2009年06月27日 | 歴史
御坊市岩内地区は古代末期の熊野街道の通過点で、この東側の丘陵上に8基の岩内古墳群がある。

その内1号墳は一辺約20mの方墳で、7世紀中頃築造された横穴式石室墳。昭和57年に墳丘・石室が復元・整備されたと云う。





写真は、御坊市には多く存在する古墳群の遠景、その一つが岩内古墳群の1号墳。

この辺りは丘陵地で古墳サイトらしき場所だが、1・3号墳以外は消滅。

石室からは、木棺に塗られた漆の破片や飾金具・銀線蛭巻太刀など、中央の皇族・有力豪族の古墳に匹敵する副葬品が出土している。



岩内1号墳から出土した、写真手前の銀線蛭巻太刀や須恵器類・鉄製品・アクセサリー等が御坊市立歴史民俗資料館に展示されている。

これらの副葬品から岩内1号墳の被葬者は、この時代の紀伊国に最も関係が深く、中大兄皇子に謀反のかどで捕らえられ、658年に海南藤白坂(現在の海南市藤白坂)で処刑された悲劇の皇子・有間皇子(孝徳天皇の皇子で、皇位継承をめぐる複雑な争いの中で、19歳の若さで散っていった悲運の人!)とする説が有力で、別名皇子塚(みこつか)古墳とも呼ばれていると言う。

和歌山県田辺市の磯間岩陰遺跡とは!

2009年06月25日 | 歴史
磯間岩陰遺跡は、丘陵西側崖下の幅約23m・奥行き約5mの海食岩陰を利用した古墳時代を中心とした遺跡。

昭和44年磯間岩陰周辺で住宅建設工事が行なわれた際、人骨や須恵器が発見されたのが発端となり、その後田辺市による本格的発掘調査が行なわれた。



磯間岩陰遺跡発掘現場。

海食されたと思われる断面層から、縄文時代前期頃の海水面の高さがここまで迫っていたことが分かる。

発掘調査の結果、古墳時代中期末から後期(5世紀末から6世紀後半)にかけて造られた竪穴式石室8基とそこに埋葬された人骨13体が発見された。

一部の石室には合葬或いは追葬が行われていたと考えられる。
又奈良時代から鎌倉時代にかけての火葬跡も5ヶ所検出されたと云う。





田辺市立歴史民俗資料館に展示されている埋葬品。

特に写真のような鉄剣が、何処から持ち込まれたのか大変興味深い!

副葬品には、写真のように、鹿角装の鉄剣・鹿角製品・組合せ式釣針など漁労関係品・須恵器等が大量に発見され、出土品の一部は国の重要文化財に指定されていると云う。

これらの副葬品から相当の権力を持った地方豪族が田辺地方を支配していたものと考えられる。





紀ノ川市の平池古墳群とは!

2009年06月23日 | 歴史
平池古墳群は、和歌山市の東側に位置する、紀ノ川市貴志川町に所在する。
貴志川流域には、多くの古墳が造られ、“紀州の飛鳥”と呼ばれている。

その中でも平池古墳群は、周囲約4kmの和歌山県下最大・最古の遺跡であり、1基の前方後円墳と3基の円墳が島になって点在している。

しかし最初から池の中にあったのではなく、古墳が造られてから随分経ってから、農業用水など水利目的で、池が造られたと見られる。

平池公園には、1号墳は前方後円墳、2号墳は池の中に丸い円墳が浮かんでいる、3号墳は池に出張った形の円墳などがある。

貴志川町は、周囲を山塊に囲まれた盆地状の地形を呈しており、そのほぼ中央を貴志川が貫流し、平池古墳群は、その左岸に展開する河岸段丘上に立地する。

本古墳群の近隣には、全国唯一の鉄出土例として知られる丸山古墳のほか、三昧塚古墳、罐子塚古墳など直径40mを超える大形円墳や墳長約42mを測る前方後円墳の双子三昧塚古墳のほか、終末期古墳などの多くの古墳が所在する。





写真は、平池1号墳の後円部及びサイドヴュー。

本古墳は平池北岸に位置し、全長31.5mほどの古墳時代後期の前方後円墳。
本古墳は、かなり削られたため変形し、遺体を納めた主体部も、見つかっていないと云う。

発掘調査の結果、古墳周辺には幅約1mの濠が巡らされていたことが判明。
周濠からは、円筒埴輪のほか、須恵器の高杯・甕などが検出されたらしい。

本古墳は、貴志川流域で勢力を誇っていた首長の墓と見られる。

周辺は平池野鳥観察公園となっており、県下有数のバードウォッチングのポイント。周囲約4kmある和歌山県下最大の池に、四つの円墳が島や岬になって点在しているのが見える。







写真は上から、平池緑地公園の光景及び平池2号墳遠景2点。
野鳥の楽園として知られる眺めのいい場所に所在している。
本古墳は平池西側に位置し、写真のように、池の中に島のような形で浮き上がって見える。

本古墳は、長径約31.5m・短径28mの円墳。古墳の墳頂部付近に、横穴式石室の一部がみられ、石室入口は南西部であったことが判っている。

1号墳と同じように、古墳の周りには幅2mほどの周溝がめぐらされ、また南西部には溝を掘り残すように造られた陸橋が確認されたらしい。

出土遺物としては、須恵器の坏蓋・石棺蓋などが見つかったことから、2号墳は古墳時代後期のもので、1号墳と同じように首長の墓と考えられる。





写真は、平池3号墳現場。

平池南岸に位置し、発掘調査の結果、直径約17mの円墳。1・2号墳と同じように古墳をめぐる溝を確認したが、浅いためはっきりしたことは分からない。

本古墳からは遺物が見つからなかったが、古墳の高さや形などから、埴輪や須恵器が出てくる前の古墳時代中期と考えられている。

平池公園近くの平野には、双子三昧塚古墳がある。
双子三昧塚古墳は、全長42.4mの前方部幅約32m・後円部径23.4mの古墳時代後期の前方後円墳で、全体が樹木に覆われている。

又近くには、丸山古墳が貴志川中学校の南にあり、5世紀前半の貴志川町内で最も古い県指定の円墳。本古墳は直径約40m・墳丘の高さ約6.3mの大型円墳。






紀ノ川市の丸山古墳とは!

2009年06月21日 | 歴史
丸山古墳は、紀の川市貴志川町の貴志川中学校グランド東側に、径42m・高6mほどの大きな墳丘が残っている。5世紀前半の貴志川町内で最も古い県指定の中期円墳。



写真は、荒れ果てた丸山古墳現場。

目印の看板も剥げ落ち、ゴミに覆われて、惨めなメンテ状況。

写真の通り、全体が竹林に覆われて墳丘を見ることが出来ない。

史跡によると、墳頂には副室を伴った長持形の石室が見られ、緑泥結晶片岩の板石で造られた、大きな“組合式箱式石棺”が出土。

石棺で露出しているのは長さ2.8mほどの蓋石だけで、本体は埋まっており、蓋石一部が壊され中を覗くことが出来ると云う。

写真を見ると、石棺の各面も1枚石で構成され、平面も整えられているらしい。いわゆる箱式石棺とは一線を画する立派なものと云う。

蓋石にも西側に縄掛け突起がついており、また南辺側には小さな複室があり蓋石が外された状態で露出しているらしい。



写真は本古墳から出土し、県史跡に指定された謂れの“鉄鉢”(てっぱつ)。

当時の鉄鉢用途がはっきりしないが、歴史上は、古来より僧侶が食物を受ける為に用いたらしい。当時は首長など持主の権威を象徴する、宝物だったかもしれない。

昭和8・9年の発掘調査で、直刀など多量の鉄製品をはじめとする、副葬品が発見されたと云う。そのうち鉄製鉢或いは鍋は、高さ19.7㎝・口径25.0㎝あり、朝鮮半島には類例があるものの、国内では他に類を見ない特異の渡来品。

和歌山市大谷の大谷古墳とは!

2009年06月19日 | 歴史
それでは、話を元に戻して、和歌山県の古墳巡りを続けます。

大谷古墳は、和歌山市内の大谷地区、背見山の支脈が南西に延びた標高約50mの尾根の突端に築かれた、全長70mほどの前方後円墳で古墳時代後期のもの。
後円部直径約30m・前方部幅約48m・墳丘高さ約6~10mほど。

本古墳は、和歌山市の真ん中やや北寄りを、東から西に向かって流れる“紀ノ川”の北岸丘陵に位置している。









写真は上から、階段まで備えて墳頂まで登れるように整備された古墳公園、大谷古墳の前方部、前方部から見上げる後円部及び墳頂から望む和歌山市街地。

本古墳に登ると、眼下には和歌山平野が広がり、南西の方向には紀ノ川の河口部が、南東の方向には、紀伊風土記の丘が見える。

本古墳は、昭和58年から史跡の整備が行なわれ、丘の頂上部に登ることができる階段や、古墳の周りを一周できる遊歩道が整備され、一般公開されている。

出土品には、後円部中央に埋葬された、組み合わせ式石棺の内外から、短甲・直刀などの鉄製武器、および馬冑・杏葉雲珠などの馬具装飾品など多数の副葬品が出土し、朝鮮半島の文化との関わりをうかがわせる。又後円部の裾で円筒埴輪を検出している。

中でも特異な遺物として世間の注目を浴びた、多数の馬具・武具の優品に混じって、鉄製の馬冑が見つかったこともあり、昭和53年、国史跡の指定を受けた。





写真は、朝鮮半島からの渡来品と見られる鉄製馬冑の正面像及びサイドビュー。

馬冑とは、戦闘時の馬の顔と頭を保護するためのヘルメットのようなもので、騎馬文化が栄えていた高句麗では、古墳の壁画に描かれた騎馬戦などで用いられている。

高句麗が東方の強大国になっていく背景には、優れた鉄器文化が背景にあったと考えられるが、その典型を壁画古墳に描かれた鎧馬武士にみることができる。鉄を薄く延ばして人馬の鎧に加工できるほどに高句麗の鉄加工技術は高い水準を誇っていたらしい。

馬冑は製作が非常に難しいため、中国大陸・朝鮮半島においても出土例が非常に少ない馬具の一つ。その馬冑が我が国では初めてこの大谷古墳で、しかもほぼ完全な形で発掘されたため大きな話題になった。

朝鮮半島では12点の馬冑が発見されているが、大谷古墳の馬冑は構造的にもこれらと共通性があると云う。そのため、国産品でなく朝鮮半島からの渡来品で、日本では戦闘用でなく、豪族の権威を示すものとしての道具であったと考えられている。


その後、埼玉の埼玉古墳群の中にある、“将軍塚古墳”からも馬冑が出土したが、日本ではこの2例しか見つかっていないらしい。





写真は、和歌山市内の紀ノ川光景及び空から望む紀ノ川風景。

本古墳が位置する、JR和歌山線の車窓に見える紀ノ川は、落差が少なく途中に滝がない河川で、古代にはもっと水量があったと想像される。

また、古代の紀ノ川は現在と違って新和歌浦に注ぎ、河口にあった港は紀伊水門と呼ばれて、大和朝廷が管理する外港として重要な機能を果たしていたとも言われている。

大和朝廷の歴代の王宮が、天香具山の飛鳥・東北域にあった5・6世紀頃、飛鳥と紀ノ川の河口を結ぶ、海上ルートは紀路と呼ばれていた。

おそらく、当時は陸路だけでなく紀ノ川の水運も多いに利用していたにちがいない。





大阪府岬町の西小山古墳とは!

2009年06月17日 | 歴史
紀氏の活躍について、更に続けます。

西小山古墳は、西陵古墳・宇度墓古墳などの古墳群中央にあり、尾根筋の先端部分を利用して築造された、経40~50m・高さ5mほどの円憤。





写真は、岬町の西小山古墳現場及び石碑。

大阪府の最南端に位置して大阪湾に面した地に造られており、淡輪古墳群を形成しているが、周辺には陪塚6基などもある。

今まで削平されたり、一部埋め立てられたりしているため、国道と同一の高さと云うこともあり、現状では古墳には見えない。5世紀中葉から後葉にかけて築造されたと見られている。

西陵古墳から東に400mほどにあり、国道26号線の北に接している。
北西部に造りだしを持っていて、周濠を持っていた可能性もあるとのこと。

岬町は、紀ノ川を挟んで和歌山県と接しており、川を渡れば和歌山市であることから、古墳の被葬者も「紀」氏とゆかりの人物ではないかと推測される。

西陵古墳と同様、本古墳の被葬者も海上で活躍した紀氏水軍の首長と思われる。

本古墳からは、様々な鉄製の武器や勾玉などが出土している。又本古墳は葺石を持ち、円筒埴輪、朝顔形埴輪、蓋形埴輪とともに、陶質土器と考えられる長頸壺・須恵器の器台・瓶の破片など土器片が出土していると云う。



写真は、金銅装の復元甲冑。
竪穴式石室から短甲とセットで出土したと云う。

具体的な出土品には、金銅装の鋲留眉屁冑・三角板の短甲・鉄刀33点以上・鉄鉾2・鉄鏃107・滑石製勾玉16個などが検出されている。

被葬者は遺骨を全く残していなかったが、石室内中央に安置されていたものと見られる。副葬品の大半が武器・武具類で占められ、古鏡が全く見られず、玉類が少ないことが特徴。

被葬者は副葬品などから、当地紀氏の水軍的首長と考えられる。


大阪府岬町の西陵古墳とは!

2009年06月15日 | 歴史
ここからは、紀氏の活躍ぶりについて、和歌山市に境界を接する、大阪府岬町の中期の古墳を取上げる。

と云うのは、朝鮮半島との密接な交流を物語る貴重な資料の数々や、大和朝廷の生命線とも云える、大阪湾岸・河川を含む制海権を牛耳っていたこともあり、当時の紀氏の絶大なパワーを追ってみたい。

先ず西陵古墳は、墳丘長約210m・後円部直径115m・高さ18m・前方部幅108m・長さ110m・高さ14mほどの前方後円墳で、全国第31位の大きさを誇り、又近くには全長約170mの“宇度墓古墳”があり、巨大古墳が二つも並ぶこの地は、重要な紀伊水軍拠点であったことが窺い知れる。





写真は、西陵古墳を中心とした周辺地図及び西陵古墳の全景。

本古墳が所在する淡輪地域は、番川によって形成された小さな平野で、そのほぼ中央に大阪湾を見下ろすような位置にあり、太正11年に国史跡に指定されている。

墳丘の周りは、写真の通り、幅25~40mの水をたたえた周濠が巡り、これらを含めると全長が300mにもなると云う。

本古墳は、垂仁天皇王子・五十瓊敷入彦(いにしきいりひこ)宇度の陵墓として宮内庁が管理しているが、古墳時代中期の5世紀前半頃の築造。

周濠外部からは、円筒埴輪・朝顔形埴輪・蓋形・盾形・短甲形・家形埴輪といった埴輪類が見つかり、墳丘にはこれら埴輪が配列され、葺石も施されていたと云う。

後円部には、主体施設として、かつて凝灰岩製の長持形石棺の蓋石が一部露出していたが、大正11年に埋め戻されたと云う。

大和政権が、大和から河内そして和泉に進出し、仁徳陵古墳をはじめとする巨大古墳が作られたのは、5世紀の半ばで、紀伊から和泉へ向かう海上交通路として、その中間地点となる岬町は、大阪湾の入り口にある点から重要な戦略拠点。

岬町の古墳時代は、まさに巨大古墳を中心とした時代であり、古墳の規模或いは豪華な副葬品からすれば、相当な権力をもつ被葬者が想像されるが、紀伊水軍を管掌する首長の古墳ではないか?

被葬者としては、紀小弓宿禰とする説、紀船守とする説、五十瓊敷入彦命とする説があるが・・・・・。





写真は、岬町白峠山古墳頂上から見下ろす、大阪湾と岬町光景及び船守神社と楠木。

岬町は、大阪湾に面した町であることから、海上交通に関連した職務に携わった、しかも古代国家政権に大きな影響のある町であったことは間違いない。

本古墳近くには、淡輪の氏神にもなっている船守神社があり、紀船守・紀小弓宿弥・五十瓊敷入彦命の三神を祀っている、由緒深い紀氏の氏神神社。

その本殿は、桃山式三社造千鳥波風神殿造りで重要文化財として登録され、又境内の大クスノキは、樹齢700年ほどと大阪府随一の大きさを誇る。






和歌山市の車駕之古址古墳とは!

2009年06月13日 | 歴史
和歌山市木の本の車駕之古址古墳は、周囲を幅12mほどの濠で囲まれた、墳長約86mの県下最大級の前方後円墳。



写真は、古墳時代中期の車駕之古址古墳光景。

和歌山市木ノ本地区、釜山古墳のすぐ西にある。現状では、墳丘がほとんど削平されているが、本来は長さ88mほどの前方後円墳で、周濠と周庭帯が巡っていたと云う。

主体部はすでに消滅していたらしい。葺石をもった和歌山では珍しい古墳で、出土遺物の金製勾玉は国内唯一の出土例。

類似のものは朝鮮半島では広く見つかっていると云う。朝鮮半島との密接な交流を物語る資料として重要。

ここで考えられるのが、紀氏の役割であり、大和朝廷が生命線とも呼べる河川を含む制海権を一豪族の紀氏に委ねただけなのか

畿内に接する田舎の一豪族が、大和朝廷の指令のもとに、港を整備し大陸との交易にあたっただけだとは、考えにくい。

国が統一され、環境が整ったから、あるいは朝廷から指示を受けたから、水運を生業とするだけとは思えない。大義名分をもって主体的に機能していたと思われる。

紀氏は、3~4世紀の謎の時期に、建国に大いに関わっていた大豪族であったからかも知れない。

6世紀に入ると紀氏は、中央の大和で活躍する紀臣(きのおみ)と、紀伊の国造に関して、地元和歌山の地方官として活躍する紀直(きのあたい)に別れていくが、紀臣は紀貫之のように貴族化そして文人化していく。



写真は、和歌山市車駕之古址古墳から出土した金製勾玉。

和歌山市を拠点した紀氏という豪族は、金の勾玉や丸山古墳から出土した馬冑といった最先端をいく貴重品は、朝鮮半島経由で直接入手していた!

しかし全長100mを超えるような、大きな前方後円墳を単独で築造する力は持っていなかったと云えるのではないか



和歌山市の岩橋千塚古墳群とは!そのⅣ

2009年06月11日 | 歴史
岩橋千塚古墳群の特徴について、更に続けます。

3、古墳時代の後半には、竪穴式住居の一辺に造り、備えつけのカマドを設けていたことが判明。



写真は、古墳時代の典型的なカマド。

6世紀頃の古墳時代後期になると、それまで竪穴住居の中心に設けられていた炉がなくなり、壁際に石製或いは粘土製のカマドが設けられるようになったらしい。

カマドを造る技術は、5世紀前半ころ朝鮮半島を通じて日本に伝わったと云う。
4、古墳時代には、円錐形に聳え立つ山・洋上に浮かぶ島・川・泉・池・自然の地形を活かした一等地などに、祭祀の対象となった遺構が発見されている。

大陸や半島との海上交通に関わる地方豪族による祭祀遺構、峠の頂部にある祭祀遺跡で陸上交通路の祭祀遺構、山の水が麓の稲作や畑作の死活に関わる祭祀遺構、又一般論として自然を敬う気持ちが強く自然との共生を願う祭祀遺構など。




写真は、紀伊風土記の丘の丘陵途上から望む和歌山市内光景及び園内の風景。

岩橋千塚古墳群は、紀ノ川下流の南側、JR和歌山駅東方約2kmの丘陵地(標高20~150m)を中心に分布し、その範囲は花山地区・大谷山地区・大日山地区・岩橋前山地区・井辺前山地区・井辺地区・寺内地区などおよそ3キロ四方に広がる。

山あり、谷あり、川あり、平野あり、選び抜いた最高の地の利を活かした古墳造りを心がけたと想像される。



和歌山市の岩橋千塚古墳群とは!そのⅢ

2009年06月09日 | 歴史
今回は、岩橋千塚古墳群の特徴を紹介する。

1、横穴式石室に石棚・石梁を持つ古墳が多いことで有名、特に石梁はこの地域にしか見られない珍しいモノと言う。

最も特徴的なのは、「岩橋型」とよばれる天井をより高くし、石棚・石梁を架した横穴式石室で、埋葬施設に使用された石材は、すべて紀ノ川南岸の結晶片岩。





写真は、和歌山市前山にある横穴式古墳群で石棚・石梁が見える。
石棚は、横穴式石室の奥壁に棚のような板石を渡した施設を持つ。

2、古墳時代には大陸・朝鮮半島との交渉・交流が頻繁になり、多くの装飾品・土器類等が移入されたと言う。又強大な権力を背景にした豪族の支配権があればこそ、交易・交流を促進させたと思われる。



写真は、朝鮮半島から持ち込まれた装飾付台付須恵器。

須恵器は、耐火性の強い土師器と共に国内でも造られ始めたが、装飾付台付は輸入品。この装飾付台付須恵器は、地方豪族の勢力を思い知らされる。

須恵器は、5世紀に朝鮮半島より伝わった硬くて灰色の焼き物で、朝鮮半島で作られた陶質土器が日本に持ち込まれ、同時にその製作技術も伝わった。

成形にはロクロを使い、当時の先進技術である窖窯で1200度以上の高温で焼成されたが、須恵器は、日本の陶器の源流にあたる。

次に岩橋千塚古墳群の双璧である、天王塚古墳と井辺八幡山古墳を紹介する。

岩橋千塚古墳群の中でも、一番大きな前方後円墳の天王塚古墳が、紀伊国造の紀直(きのあたい)の墳丘長86mほどの古墳で、岩橋山の最高地点に位置し、6世紀後半頃に造営されたと考えられている。

一方井辺八幡山古墳は、6世紀初めの古墳で、墳丘長約88mもあり、和歌山県下最大の古墳。



写真は、天王塚古墳から出土した、有蓋台付壷の須恵器。

天王塚古墳の石室は、緑泥片岩を積み上げた横穴式石室で、玄室・玄室前道・羨道・羨道前庭から成り、玄室には石棚と8本の石梁が渡してあったと云う。

高さは5.9m、上を見上げるととても巨大な岩が使われていて度肝を抜かれるらしい。



和歌山市井辺に所在する、“井辺八幡山古墳”からは、写真のような力士像埴輪が出土している。

県最大の前方後円墳で、墳丘の高さは約88mで、この付近は太田黒田遺跡・日前宮など、古代史の宝庫とされる地域であり、被葬者もこの地域の支配者として活躍し、強大な権力を持っていたと想像される。

井辺八幡山は、その上に八幡の小祠のある山の伝承しかなく、当初古墳であるとは思われていなかったが、発掘調査の結果、写真のような“入れ墨をした力士像”を発掘した。

この古墳は山塊の中に造営され、大部分は自然の地形を利用している。このタイプの古墳は前期に多く、弥生系高地性遺跡との関連も注目されている。







和歌山市の岩橋千塚古墳群とは!そのⅡ

2009年06月07日 | Weblog
ここで、岩橋千塚古墳群を巡る周辺環境を概観してみたい。



写真は、和歌山市鳴神地区から望む岩橋千塚古墳群が所在する山々。

標高最大約150mの尾根伝いに約700基もの古墳が並ぶ。頂上には最大90mほどの前方後円墳を配置。

尾根上には点々と古墳が配置され、頂上には前方後円墳が威令を誇示している。



写真は、岩橋千塚古墳群から紀ノ川を挟んで北西に位置する、和歌山市北部の楠見地区周辺地図。

この地区に鳴滝遺跡や大谷古墳が所在する。

5世紀の紀ノ川下流域は、国際色豊かな渡来文化の窓口で、“鳴滝遺跡”周辺は、渡来系の遺物が出土することでよく知られている。

楠見地区は、和歌山市の北部に位置し、北は和泉山脈の南斜面、南は紀ノ川の堤防沿い、東は鳴滝川、西は南海電車線沿いに区切られた地域。

地域内には、弥生時代の倉庫群と見られる、鳴滝遺跡のほか、日本でも珍しい馬冑・馬甲が出土した大谷古墳などが所在する。

5世紀前半には、鳴滝遺跡から読み取れるように、紀伊津の北の丘に巨大倉庫群が建ち並んでいたと見られ、貿易に関わる文物の一時収納庫として、巨大倉庫群は、朝廷と紀氏の威信を示す効果があったと考えられる。

紀氏は、この和歌浦からやがて大阪湾を含むベイエリア一帯の開発と支配を進めて行ったらしい。

鳴滝遺跡では7棟の巨大倉庫群と廃棄された陶質土器、大谷古墳からは馬冑、楠見遺跡や大同寺古墳からも陶質土器が出土したと云う。

又日本最大級の古墳群である、岩橋千塚古墳には、前方後円墳が29基あり、そのほかは円墳・方墳などが存在。

古い前方後円墳は、花山に造られ、その後大谷山・大日山から前山へと順次築造されていった。埋葬施設には、粘土槨・箱式石棺・竪穴式石室・横穴式石室などがある。





和歌山市の岩橋千塚古墳群とは!その1

2009年06月05日 | 歴史
これから暫く、和歌山県内の古墳といえば、筆頭に挙げられる、岩橋千塚古墳群について、じっくり巡ってみたい。

古墳時代最大級の県内遺構は、和歌山市の岩橋千塚古墳群で、約700基の古墳から成り、大部分は6世紀・古墳時代後期の約100年間に造られたと言う。

古墳の数の多さは全国でも最大クラスで、約420基が国指定特別史跡に指定されている。

古墳群を造営したのは、県内最大の平野である紀ノ川平野を支配していた、渡来系紀氏と考えられている。

紀氏は4世紀中頃に泉南・紀の川河口へ入り、4世紀後半にかけて、紀ノ川流域に勢力を張ったらしい。

紀氏は古代豪族の一つで、氏族・紀氏の長は“紀伊国造”を称し、現在に至るまで和歌山市の“日前神宮・國懸神宮”の祭祀を受け継いでいる。

天王塚古墳は、井辺八幡山古墳とともに岩橋千塚古墳群の双璧であり、規模はどちらも全長約90mで、後期古墳では吉備や出雲を含めても最大級の大きさ。

本古墳群は、前山・大日山・大谷山各地区合わせて約59万㎡を範囲とし、昭和46年には、“紀伊風土記の丘・特別史跡公園”として指定・保存されている。







写真は上から、“紀伊風土記の丘”資料館と復元竪穴住居、岩橋千塚古墳群発見の記念石碑及び園内の古墳群光景。

竪穴住居は、岩橋千塚古墳群に接した音浦遺跡でみつかった、5世紀末の古墳時代中期の竪穴住居跡をもとに、復元している。

明治初期には第一次発掘調査が行なわれた当古墳群は、その後も幾度かの調査を経て、昭和46年には国指定史跡として認定された。と同時に特別史跡・岩橋千塚古墳群として、“紀伊風土記の丘”が開園した。


和歌山市の秋月1号墳とは!

2009年06月03日 | 歴史
和歌山市太田に所在する、県立向陽高校の敷地内の地下に、和歌山県最古の古墳ともいわれる、秋月1号墳を含む、秋月遺跡が存在する。





写真は、秋月遺跡が潜む和歌山県立向陽高校の周辺地図及び本高校入口。

本1号墳は、全長約31m・墳長約26.8m・後円径15.5m・前方幅10m・長さ11.3mほどの前方後円墳で、葺石は見つかっていない。

和歌山県で最初の前方後円墳・秋月1号墳は、紀ノ川下流の微高地上に造られた古墳時代前期(4世紀)の古墳。この古墳に近い音浦遺跡では、弥生時代末の大規模な用水路(現在の宮井用水の前身)が発見されている。

紀伊国の“一の宮”(諸国において由緒の深い神社・信仰の篤い神社)とされる日前(ひのくま)・国懸(くにかかす)神宮の由緒は古墳時代にさかのぼると云われが、天照大御神の御鏡・前霊(さきみたま)を日前・國懸両神宮の御神体として、後に鋳造された御鏡を伊勢神宮の御神体として奉祀されたと『日本書紀』に記されていると云う。



写真は、日前・国懸神宮の参道。

日前・国懸神宮が、和歌山平野一帯を潤す宮井用水を奉るものであったと云われているが、宮井用水は今も現役の水路で、昭和の発掘調査では古墳時代の初期のものとされる大溝が発見された。

この水路は幅7~8m・深さ3~5mという巨大なもので、当時、すでに全国のどこにも引けを取らない、大規模な水田開発がなされていたことが証明された。

紀ノ川南岸平野を潤す、宮井用水の古墳時代前期の開発時に、取水口が日前・国懸神社に隣接しており、水利分配を司る神社の要素もあったと云う。

この宮井用水を切り開き、名草平野を一挙に農耕地にしたことが紀氏の豪族としての力を盛り上げたものと思われる。今日でも、日前宮には農耕や水にかかわる祀りが多い。

又この時期は、開墾道具や農具の鉄器化が進み、大規模な水田開発が行われた。秋月1号墳に葬られた人物は、大規模水田開発の指導者であったと考えられる。

この指導者とは、大陸・朝鮮半島に関係がありそうな、紀氏ではないか?

西暦304年に、後の“日前国懸神宮”の鎮座地である、秋月1号墳が築かれた。

また、391年、高句麗の“広開土王碑”が建てられた年には、紀氏は紀ノ川流域に勢力をはり、“紀角宿彌命”(“きのつののすくね”は応神・仁徳朝時代に対朝鮮外交で活躍した紀氏同族の祖)は、朝鮮半島に攻め込んだと云う。

5世紀末には、大阪府泉南市地方の豪族である、“紀小弓宿禰”とその子・“紀生磐宿彌”が新羅を攻めたという記録もあるそうだ。

と云うことで、紀氏の隆盛の様子が窺える。