近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

竹内街道の歴史を巡ってー推古・用明・孝徳天皇など!そのⅡ

2012年02月28日 | 歴史
ここで、前述の推古・用明天皇陵について紹介します。

竹内街道は堺市の大小路から河内平野を東へ向い、二上山の南・竹内峠を越えて奈良県当麻町の長尾神社に至る約30kmの街道。



竹内峠は大和と河内を結ぶ国境にあり、此処を通る竹内街道は飛鳥時代・丹比道と呼ばれ「日本書記」にも記されている古道。

613年以前からあり、難波宮~河内~當麻町竹之内の集落を抜けて飛鳥京を結ぶ我が国最古の官道として栄え大陸からの文物をもたらした。

竹内街道に沿う大阪府南河内群太子町には、7世紀初頭の推古天皇や大化改新の孝徳天皇御陵、聖徳太子・遣随使の小野妹子・大臣の蘇我馬子などを伝える古墳が30基ほどあり、“磯長谷古墳群・王陵の谷”と呼ばれている。

磯長谷古墳群は7世紀前半を中心とする蘇我氏系の大王墓の伝承をもつ大形方墳を中心とした古墳群。

現在では、聖徳太子信仰の大道として、街道沿いにある聖徳太子御陵・それを守る叡福寺が霊場となり、太子信仰の道としての性格を強めている。

太子町には、日本最古の女帝・第33代推古天皇陵(即位は592年、39歳の時、聖徳太子を立てて摂政に任命、執政を全権委任したと言われる)、聖徳太子の父である第31代用明天皇陵、推古天皇の夫・第30代敏達天皇陵及び聖徳太子と生母・間人(はしうど)皇后及び妃・膳手姫(かしわでひめ)の三骨が一つの墓に合葬されている一家の御陵等がある。

推古天皇が切り開いた中国・朝鮮半島との交流のシンボル・シルクロードの竹内街道沿いに、推古天皇と共に“大道時代”を共有した他の天皇が一緒に葬られている。



写真の叡福寺は太子町にある仏教寺院で、聖徳太子の墓所とされる叡福寺北古墳があることで知られている。

聖徳太子本人のほか、実母・太子の妃が眠っているとされる。

この古墳の被葬者を聖徳太子とすることについては異説もある。叡福寺近辺には敏達天皇・用明天皇・推古天皇・第36代孝徳天皇の各御陵もある。



今や民家によって占拠されそうな荒涼とした推古天皇陵墓。

太子町の外れ、段々畑・ゴルフ場に囲まれ、はたしてどれほど当時の面影を残しているのであろうか?




推古・用明天皇陵へ学会が立ち入り調査!そのⅠ

2012年02月25日 | 歴史
最新の遺跡発掘調査情報を、引続き紹介します。

考古・歴史学系学会の研究者が平成24年2月23日、宮内庁が推古天皇陵に指定する、大阪太子町の山田高塚古墳と、用明天皇陵に指定する、同じく太子町の春日向山古墳への立ち入り調査をした。

学会側の要望に応えて、同庁が両陵墓の墳丘外側に限って観察を許可した。

古代の天皇陵に研究者が正式に立ち入るのは、平成23年の応神陵古墳(誉田御廟山古墳、大阪羽曳野市)に次いで2度目。



写真は、推古天皇陵・山田高塚古墳へ立入る古墳研究者たち。

山田高塚古墳は一辺約60mの大型方墳で、東西に並ぶ石室2基の存在が推定されている。「日本書紀」は推古天皇が竹田皇子の墓に合葬されたと記す。

聖徳太子の父、用明天皇が葬られたとされる春日向山古墳は東西約67m・南北約63mの方墳。墳丘の周囲には幅10mの空堀と高さ2mほどの外堤がある。

この日、日本考古学協会メンバー16人が参加し、古墳の墳形や保存状況などを観察した。

参加者の一人は「両古墳とも残りがとても良い。山田高塚古墳では推古天皇と竹田皇子とみられる石室のうち、東側の石室の一部が見えた。推古天皇陵で間違いないと感じた」と話した。


奈良桜井市の纒向遺跡で、重要建物を囲んだ溝跡見つかる!

2012年02月23日 | 歴史
最新の発掘調査による新発見を、引続き紹介します。

邪馬台国の最有力候補地とされる奈良県桜井市の纒向遺跡で、卑弥呼(248年ごろ没)と同時代の大型建物跡など中枢部を囲んだ可能性がある溝跡が見つかり、同市教委が平成24年2月16日発表した。

中枢部周辺では建物跡などは見つからず、大きなスペースが確保されていたことも判明。市教委は「建物が重要なものだったことを示している」としている。







写真は、桜井市の纒向遺跡の中心部のうち今回発見された溝跡の位置、矢印されているところが、現在の発掘調査現場及び今回発見された溝跡。

市教委によると、溝跡は東西約6m・幅約60cmで、09年に確認した3世紀前半の大型建物跡(南北19.2m・東西12.4m)を含む計4棟の建物群から南約40mの位置で見つかった。

出土した土器から、3世紀の中ごろから後半に埋められたことも分かり、建物群と同時期に存在していたとみられる。

大型建物は同時代では最大級のもので、他の3棟と一直線に配置されていた。

配置は飛鳥時代の宮殿と共通するもので、建物群は纒向遺跡の中枢部とされている。

発掘調査は、4棟の建物群の南側で行われたが、溝跡までの約40mの間には、同時代の建物跡などの遺構はなかったと云う。



弥生中期の集団墓で国内最古の青銅製把頭飾が出土!

2012年02月21日 | 歴史
近年の際立った遺跡発掘情報を、引続き紹介します。

福岡市教育委員会は、福岡市早良区の岸田遺跡で、弥生時代中期(紀元前2世紀ごろ~前1世紀ごろ)の墓約60基を発見、うち5基から青銅製や鉄製の剣や矛、戈(か)など計7本とつかの飾り1点が出土したと発表した。



写真は、福岡市早良区の岸田遺跡から出土した国内最古とみられる青銅製把頭飾。

近くには「最古の王墓」といわれる、福岡市西区の吉武高木遺跡があり、「王」に仕えた有力者層の集団墓とみて、弥生社会の構造を解明する手がかりになると期待されている。



写真は、福岡市の岸田遺跡発掘現場。

福岡市教委によると、岸田遺跡は室見川左岸に立地し、吉武高木遺跡の南約3.5kmに位置している。

岸田遺跡からは、弥生時代中期初頭(紀元前2世紀ごろ)の木棺1基と、同初頭から後半(前1世紀ごろ)の甕棺4基に、青銅製の剣4本、矛2本、鉄製の戈1本があった。勾玉や管玉など約10点も見つかった。

甕棺のひとつには剣と矛と一緒に、剣の柄に付ける青銅の「把頭飾(はとうしょく)」も納められ、青銅の把頭飾としては国内最古とみられる。

岸田遺跡は平野を見渡す扇の要のような位置にあり、春日方面や佐賀方面との交通の要衝と考えられるという。



写真は、福岡市の吉武高木遺跡発掘現場。

早良平野周辺では、吉武高木遺跡を頂点とする、遺跡のまとまりがあったと考えられている。

吉武高木遺跡は、福岡市早良平野にある、飯盛山山麓に広がる扇状地で、真中を室見川が流れ、南には佐賀県と境を接する背振山系がひかえている。

川を下れば程なく玄界灘にいたる場所にある。





東・東南アジアの民族が南から北へ移動したルートとは!

2012年02月18日 | 歴史
数万年前に起こったとされる東・東南アジア民族の移動ルートを調べてみる。

東アジアや東南アジアに住む主な民族は、現在のインドから数万年前にタイやマレーシア、インドネシアに入った共通の祖先が、南から北へ移動しながら形成された可能性が高いことが日本や中国など10か国の共同研究でわかった。



写真は、東・東南アジア民族が移動したルート。

国際研究チームは、アジアの73民族・集団の約2000人を対象に、遺伝情報のわずかな違いを約6万か所にわたって解析、それぞれの特徴を比較した。

その結果、遺伝的な多様性は、南に住む民族の方が大きく、北へ行くほど小さくなることがわかった。

東アジアや東南アジアに住む民族については、共通の祖先が、南から北に広がったとする説と、逆に北から南に広がったという説がある。

遺伝的多様性は共通祖先の拡散とともに小さくなることから、今回の結果は、南から北に広がった説を裏付けている。

また、地理的に近く、言語が似ている民族は、やはり遺伝的な特徴も似通っており、日本人と最も近いのは韓国人だった。

人類遺伝学上は、これまでにない大規模な遺伝解析で、アジアの民族の特徴がわかった。さらに詳しく分析することで、民族の移動時期や日本人の起源などを明らかにされるかもしれない。

176万年前の斧、ケニアで最古の原人石器発見!

2012年02月16日 | 歴史
最近のビックな遺跡発見ニュースを続けます。

原人が作った石器としては最古となる176万年前の握り斧が、アフリカ・ケニア北部のツルカナ湖近くで見つかった。

米コロンビア大などの国際研究チームが発見し、2011年9月1日発行の英科学誌ネイチャーに掲載される。

近くからは、より古いタイプの石器も見つかっており、原人石器が生み出された初期の状況を示す貴重な証拠となる。





写真は、176万年前の握り斧。

見つかった石器は、火山岩の周囲を打ち欠いて作った長さ20cmほどの握り斧や、つるはし状の道具。

「アシュール型」と呼ばれる原人(ホモ・エレクトス)の石器に特徴的な洋梨のような形をしている。周囲の地層の磁気などの分析から、176万年前のものとわかった。

原人石器を含む地層で、140万年より古いものは、年代の特定が難しく、これまで最も古いとされた原人石器よりさらに約10万~35万年古いという。


静岡県浜北市の根堅遺跡とは!

2012年02月13日 | 歴史
日本列島の旧石器時代の発掘人骨追跡を続けます。

根堅遺跡は浜北市北東部の浜名湖北岸に広がる、石灰岩地帯の石灰岩洞窟内に所在する旧石器時代遺跡。

本遺跡周辺は江戸時代から石灰岩の採掘が行われ、長い年月の間に侵食され、形成された石灰岩洞窟の中なら“浜北人骨”が偶然発見されたと云う。







発掘現場と発掘当時の状況。

昭和36~38年にかけて石灰岩採石場で発掘調査が続けられ、多くのトラなどの動物化石骨と共に、採石場の堆積物の中からヒトの人骨片が見つかり、“浜北人”と命名された。





発掘現場の周辺環境。

石灰岩地帯は約2億5千万年前に形成されたと云われ、消石灰生産のため継続された石灰岩採掘の結果、現在では地形が大きく改変し、遺跡が見つかった洞窟も失われている。





浜北人骨及びトラの化石骨。

人骨写真左側より頭骨・上腕骨・寛骨・尺骨の複製上層人骨。

放射性炭素法(炭素原子“14”が遺体内で周期的に逓減する法則を使って年代測定する方法)により、人骨の年代が上層女性人骨は約1万4千年前、下層の脛骨が約1万8千年前と推定された。

人骨そのものの放射性炭素年代が測定され、旧石器時代人骨であることが確認されたのは浜北人骨が全国で初めてと云う。

更に下層からはトラの化石骨が発見されたが、“フッ素法”と呼ばれる化学成分分析により、約10万年前のモノと推定されている。

今回の人骨形態の分析結果、1万4千年ほど前の人骨は縄文時代人と類似しているが、約1万8千年前の下層人骨は縄文人的特徴が見られなかったと云う。

ナイフ型石器文化期以降、旧石器時代末期の細石刃文化期へ向かっての環境変化の中で、旧石器時代人がどのように変遷したか、即ち列島内のおける連続的変化か、或いは大陸などから新たに移住してきたのか疑問が残る。

縄文時代人的な旧石器時代人がどこまで遡るのか、縄文時代人のルーツが問われる。

上記の点から唯一旧石器時代に遡ることが確認されている人類化石である、“浜北人骨”の考古資料的価値は極めて高いと云える。








沖縄の歴史・文化 “港川人”とは!

2012年02月10日 | 歴史
沖縄旧石器時代の人骨発見の話題を続けます。

石灰岩地帯から出土した“更新世”人類化石の中で、“港川人”人骨は、最も保存状態が良く、旧石器時代人類の形態を知る上で貴重な資料と云われている。

港川人骨は、沖縄本島の南部、具志頭村(現在の八重瀬町)港川の石灰岩採石場で発見され、少なくとも9個体分、うち復元可能な成人骨格が4個体という、質量とも東アジア最高の資料として注目された。

これらの人骨のうち、1970年から71年にかけて発見されたのが“港川人”で、上半身が華奢であるが、下半身は逞しい小柄な人体であったと云う。









写真は左上から、八重瀬町の“港川フィッシャー遺跡”現場の遠景と近景、遺跡現場に残る粟石灰岩の現状及び粟石灰岩に残されたイノシシ・シカなどの化石。

“フィッシャー”とは隆起石灰岩台地に生じた裂け目のことで、港川では最大で幅1mほど、深さは20m以上もあると云う。発掘調査ではシカ・イノシシの化石が多量に出土した。

“港川人”とは、1万8千年前に生きた人骨化石に対して、発見場所にちなんで付けられた名称で、港川人骨は、今後とも人類学研究に大いに役立つと見られる。

港川人骨化石が発見された経緯は、那覇市に住む実業家で、沖縄の歴史と文化に関心を寄せる市民研究者が、購入した粟石の中に動物化石を見つけ、その実業家は「動物がいたならば、人間もいたはずだ」と考え、発掘調査を始めた。{/kuri_1/

そして発掘調査開始約2ヶ月半後、地表から約12mの部分で人骨を発見、その後も多くの動物化石や人骨を発見したらしい。







写真は左上から、八重瀬町“港川人骨”のうち、第1号・第2号・第4号。

写真のように、化石人骨の頭や手足が揃ったほぼ完全なもので、旧石器人の容姿が具体的に説明できるようになった。

これらの化石人骨は、1970~71年にかけて発見された“港川人”で、第1号男性人骨格は、推定身長153~155cmで縄文人の平均より低く、第2・4号骨格は女性で推定身長が145~149cmで上半身は華奢だが、下半身は頑丈な骨格と云う。

写真の通りこれら化石人骨は、復元可能な成人骨格を呈していることから、今後中国南部の“柳江人”やインドネシア・ジャワ島の“ワジャク人”などの人骨化石との比較対照などの研究が進むものと期待される。

“港川人”は“ワジャク人”に近く、東アジア沿岸域の海洋適応集団に属していたなどとする分析結果もあり、今後の更なる研究成果に注目したい。

9個体分の人骨化石が出土した、共伴資料の“放射線炭素年代”では、18,250年前頃の人骨と推定されている。

叉“ウラン系列年代”測定値も19,200年前頃とあり、測定値の信憑性からも、当時の生活痕跡を残す大発見と見て間違いないと云える。

しかし“山下洞人”・“港川人”が使用したと思われる、旧石器などの道具類が、未だに全く出土していないことから、当時の生活実態が見えてこない。





沖縄の歴史・文化 那覇の“山下洞人”とは!

2012年02月08日 | 歴史
沖縄の旧石器時代を、引続き遡ってみます。

琉球諸島は、珊瑚礁を起源とする琉球石灰段丘が発達しているため、動物の骨などの保存に適した地域であり、人類化石は沖縄県内で今日までに9ヶ所で出土している。

これらの出土例のうち、最も古い人類化石は、那覇市山下町の“第一洞穴”から出土した“山下洞人”で、共伴資料の“放射線炭素年代法”により、およそ3万2千年前のものであることが判明。

沖縄の人類化石と云えば、“港川人骨”が有名であるが、港川人骨は約1万8千年前のホモ・サピエンス(新人)の仲間であるらしい。“港川人骨”については後述する。





写真2枚は、那覇市山下町のメイン道路から路地に入った宅地内にある、“第一洞穴遺跡”現場の洞窟と石灰岩の光景。

“山下洞人”は、1968年那覇港に近い琉球石灰岩台地で発見された化石人骨で、8歳ぐらいの女児の大腿骨と頚骨と見られている。

第一洞穴は、南北に開口する間口約1.2m・奥行き5.5mほど・高さ約3.2の小規模なものであるが、1962年の第一次調査と1968年の第二次調査とで、奥行き5.5mまで発掘調査が進んだと云う。





写真は、“山下洞人”骨の出土状況及び第一洞穴遺跡から出土した“斧刃状鹿角器”。

山下洞人は、現代人の先祖である新人に分類され、人骨調査の結果、骨の形態・頑丈さなどに特徴があり、新人としては日本最古の人骨であると発表された。

およそ20万年前にアフリカで誕生したといわれる新人は、驚くべき速さで世界中に分布を広げ、5~3万年前には東アジアに達し、遂に沖縄にまで到達したということ。

山下洞人の発見は、新人が3万2千年ほど前、沖縄諸島に到達していたことを証明するものであり、その後日本列島へ達していたと推定される。

そして日本列島に到達した新人が、縄文・弥生を経て現代人に繫がる進化の旅を続けたと見られるが??????

山下洞人及び港川人などの化石人骨の研究により、沖縄にどのような人々が住み続け、今日まで生きながらえたかを解明する手がかりになることを期待する。





沖縄の歴史・文化 “琉球諸島”の地質・地層とは!そのⅠ

2012年02月06日 | 歴史
前回の沖縄旧石器時代の人骨発見にまつわるこれまでの経緯・ストーリーを以下紹介する。

琉球列島は、珊瑚礁起源の石灰岩が広く分布している地域であり、いたるところに琉球の石灰段丘が発達している。

珊瑚礁が隆起した石灰岩で形成された沖縄本島は、“人類化石の宝庫”として知られる。

このような珊瑚礁で底上げされたことから、動物の骨などの保存に適した地域であり、地質学上の更新世・考古学上の旧石器時代に属する化石人骨の全国発掘件数のうち半数以上が、沖縄県内で発見されている。

日本列島の更新世(170万~1万年前)人類化石は、ごく限られた石灰岩地帯から出土している。

沖縄県以外では静岡県にあるだけで、これまで沖縄県内8ヶ所で出土した化石人骨は、共伴資料の“放射性炭素年代測定”及び化石人骨の“フッ素含有量測定”の結果から3万2千年~1万5千年前の“新人”に属することが確認されている。





写真は、沖縄那覇市山下町の第一洞穴遺跡現場の石灰岩層。

後述するが、那覇市山下町の第一洞穴から発見された“山下洞人”は、3万2千年前のもので、日本で最も古い人類化石として知られ、叉沖縄南部の八重瀬町にある“港川フィッシャー遺跡”から発見された“港川人”は、およそ1万8千年前のものと考えられている。

那覇港の南岸に沿って、ほぼ東西方向に直線的に連なる海抜40mくらいの那覇石灰岩の丘陵があり、丘陵の南側は緩やかな傾斜となっているが、北側は急斜面・絶壁を形成している。

沖縄の旧石器人は、周りを海に囲まれている環境に上手に適応し、飲み水が手に入りやすい、石灰岩台地の周辺部・海岸砂丘地などで生活していたと見られる。

この丘陵には幾つかの洞穴が開口しているが、上述の“山下町第一洞穴”は同丘陵の東端近くの海抜14~16mの北斜面中腹に形成されていたと云う。

これら洞穴は、地殻変動に由来した断層面の空間部と考えられている。

石器類など道具類が出土する旧石器時代の遺跡は、全国でも多数発見されているが、化石人骨の発掘例が極めて少ないこともあり、旧石器時代の人類については、現在ほとんど分かっていない。



写真は、琉球諸島沿いを流れる東シナ海の海流。

琉球諸島の特徴の一つとして、東シナ海の黒潮の流れは、大陸棚沿いの黒潮の流量が多く、特に水深が300~1,000mと急激に深くなる約50kmの範囲では、流量も流路も安定していると云う。

琉球諸島沿いの黒潮の流れこそ、古代から島々に経済的・外交的な恩恵をもたらしてきた。






国内最古の人骨:石垣島で発見、2万4000年前と確認!!

2012年02月04日 | 歴史
近年の発掘調査の中でも、最も驚いたのが、沖縄で国内最古の人骨が見つかった一大発見。

国内最古となる約2万年前の旧石器時代の人骨が確認された、沖縄県・石垣島の白保竿根田原(しらほさおねたばる)洞穴遺跡で、新たに約2万4000前の人骨が確認された。





写真は、沖縄石垣島地図及び白保竿根田原洞穴遺跡の現場光景。

本遺跡は2007年に石垣島南東の沖縄県石垣市白保の新石垣空港建設予定地で見つかったもので、近世から旧石器時代にかけて人骨やイノシシ、鳥などの動物の骨が出土する複合遺跡。

国内最古となる約2万年前の人骨が確認されたため、昨年、緊急発掘調査が行われた。

人骨の年代は自然人類学の調査で分かったもので、人骨を直接測定した年代としては国内最古をさらに4000年もさかのぼることになる。





写真は、白保竿根田原洞穴遺跡の洞穴光景及び見つかった人骨。

白保竿根田原洞穴遺跡では過去の調査で出土した人骨6点から抽出した、たんぱく質「コラーゲン」の放射性炭素を直接測定し、1点が約2万年前と測定された。しかし具体的な地層が分からなかったと云う。

昨年までの調査で、遺跡の最下層(約2万~2万4000年前)に当たる地層などから新たな人骨が発掘されたのを機に、更に約25点が分析された。

このうち最下層の地層から出た、肋骨の一部1点が、放射性炭素年代で約2万4000年前と判明。更に約2万年前の骨の破片3点もみつかったと云う。

日本の旧石器時代の確実な人骨は、酸性土壌の多い本土では静岡県の「浜北人」が、約1万8000年前と判明されているのみ。

化石の保存に適した石灰岩質が広がる沖縄県では、港川フィッシャー遺跡(約1万8000年前)、山下町第1洞穴遺跡(約3万2000年前)などが見つかっているが、一緒に出土した炭化物などによる測定で、石器などの確実な遺物もない。

このため、後世に流れ込んだ可能性があるなどと評価は低く、骨から直接年代を測定できた白保竿根田原洞穴遺跡に注目が集まっていた。

専門家は「今回は年代が明確な地層から出土しており、遺跡の価値はさらに高まった」とした上で「石垣島という狭い空間で、旧石器時代に数千年間も人類が住んでいたことになり、大変珍しい例。


遺跡からは動物の骨も見つかっているが、動植物をどのように利用したのか、人類の生存戦略や進化を考える手がかりとなり貴重な成果だ」と話している。



三内丸山遺跡:踊る呪術師の姿 縄文中期の土器片に!

2012年02月02日 | 歴史
近年発掘調査された、代表的遺跡について引続き紹介します。

青森市にある国特別史跡「三内丸山遺跡」で出土した縄文時代中期(約4300年前)の土器片から、人が踊る姿を描いたとみられる絵が見つかったと青森県文化財保護課が発表した。

専門家は、シャーマン(呪術師)を描いた国内最古級の出土品の可能性があると指摘している。





写真は、貴重な土器片が見つかった、三内丸山遺跡の土盛り断面図とシャーマンが踊っているような人物画。

同課によると、この土器片の大きさは縦約8cm・横約6cmで、絵は羽根飾りを頭につけ、祭具または弓矢を手に持って踊っているような姿。

縦約4cm・幅約3cm・直径1mmほどの棒のようなもので刻み付けたと見られている。人を描いた縄文土器はまれで、動きのある表現も珍しいという。線描によるシャーマンの人物画としては最古らしい。

同課によると、縄文中期頃は、土偶や動物の形を粘土で立体的に表現することがほとんど。北東北で約4千年前に見られるようになった線による人物画より古く、全国的に見ても珍しいという。

 この土器片は1993年、遺跡中央の盛り土から発掘されていたが、専門家の話によると、その土器に描かれた姿は、北方アジアはシベリアのチュクチ族のシャーマンの踊りに似ているという。チュクチ族もまた高句麗や百済のシャーマニズムを起源にもつ人物が描かれているらしい。

当時の生活道具が多く捨てられていた「盛り土」の中から見つかったらしく、この盛り土からの出土品は約600万点もあり、2年ほど前から整理作業を進めてきたと云う。

同遺跡発掘調査委員会では「祭具を持ったシャーマンが祈り、踊る姿と推測され、貴重な発見だ」と見ている。