今年最後の投稿となりました。引続き弊ブログをご覧頂き、有難うございました。
年明けは、4日より始めますので、今後ともご愛顧のほど宜しくお願い申し上げます。
皆様良いお年をお迎えください。
北畠宗家の後胤としては、宗家9代目・北畠具房の遺児である昌教が、現在の秋田県大湯の出羽鹿角の折戸館に居城して、2人の子供をもうけ、長男・昌清、次男・昌近と呼ばれ、昌清は父・昌教の死去以降は青森県の浪岡館に移ったと云う。
兄・昌清が浪岡館に移った後、空白となった折戸館を相続して、折戸昌近を名乗った。
その後昌清は、浪岡で長男・昌広、次男・昌範をもうけ、昌範は有馬の名跡を相続して有馬昌範を名乗って、そのまま有馬家として再興し、以降6代目まで京都で公家として繁栄したと云う。
兄昌広は出家したが、その後叔父・折戸昌近に相続者が無かったため、折戸館を相続して、折戸昌広を名乗ったと云う。
有馬家は、明治になって帰農し、その後子孫は農業技術者として、旭川に移ったと云う。そしてその子孫は、北畠氏の研究を進め、「北畠氏学」を完成させた。
その後末裔は、現在札幌に居住していると云われている。
以上のように、伊勢北畠宗家は、有馬氏として、代々引継がれている。
一方「浪岡」について云えば、顕信の次男・守親は奥州下向後、陸奥守に任じられ、その後津軽浪岡に移って浪岡氏の祖となったと云われている。
更に顕家の遺児・顕成が浪岡氏の祖となったとも伝えられ、顕成系が浪岡北畠氏の流れで奥州の宗家、守親系は「川原御所」と呼ばれる北畠家庶系で、共に浪岡にあって、浪岡氏の祖争いで、内部抗争に発展したとも伝承されている。
写真は上から、青森市浪岡町の浪岡御所址及び川原御所址。
津軽郡(現在の青森市)浪岡に拠って「浪岡御所」と称された浪岡北畠氏の由来は、一説には霊山城が落ちたとき、北畠顕家の嫡子・顕成は叔父の顕信と共に北奥羽に逃れてきたためと云う。
従って顕家と顕信両氏の後裔が浪岡に居住していてもおかしくないはず。
北奥州の北畠系ファミリーの末裔には謎の部分が多いが、伝承・地名などが残されている限り、何らかの末裔の可能性を物語っていると云える。
年明けは、4日より始めますので、今後ともご愛顧のほど宜しくお願い申し上げます。
皆様良いお年をお迎えください。
北畠宗家の後胤としては、宗家9代目・北畠具房の遺児である昌教が、現在の秋田県大湯の出羽鹿角の折戸館に居城して、2人の子供をもうけ、長男・昌清、次男・昌近と呼ばれ、昌清は父・昌教の死去以降は青森県の浪岡館に移ったと云う。
兄・昌清が浪岡館に移った後、空白となった折戸館を相続して、折戸昌近を名乗った。
その後昌清は、浪岡で長男・昌広、次男・昌範をもうけ、昌範は有馬の名跡を相続して有馬昌範を名乗って、そのまま有馬家として再興し、以降6代目まで京都で公家として繁栄したと云う。
兄昌広は出家したが、その後叔父・折戸昌近に相続者が無かったため、折戸館を相続して、折戸昌広を名乗ったと云う。
有馬家は、明治になって帰農し、その後子孫は農業技術者として、旭川に移ったと云う。そしてその子孫は、北畠氏の研究を進め、「北畠氏学」を完成させた。
その後末裔は、現在札幌に居住していると云われている。
以上のように、伊勢北畠宗家は、有馬氏として、代々引継がれている。
一方「浪岡」について云えば、顕信の次男・守親は奥州下向後、陸奥守に任じられ、その後津軽浪岡に移って浪岡氏の祖となったと云われている。
更に顕家の遺児・顕成が浪岡氏の祖となったとも伝えられ、顕成系が浪岡北畠氏の流れで奥州の宗家、守親系は「川原御所」と呼ばれる北畠家庶系で、共に浪岡にあって、浪岡氏の祖争いで、内部抗争に発展したとも伝承されている。
写真は上から、青森市浪岡町の浪岡御所址及び川原御所址。
津軽郡(現在の青森市)浪岡に拠って「浪岡御所」と称された浪岡北畠氏の由来は、一説には霊山城が落ちたとき、北畠顕家の嫡子・顕成は叔父の顕信と共に北奥羽に逃れてきたためと云う。
従って顕家と顕信両氏の後裔が浪岡に居住していてもおかしくないはず。
北奥州の北畠系ファミリーの末裔には謎の部分が多いが、伝承・地名などが残されている限り、何らかの末裔の可能性を物語っていると云える。