近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

公家・武将の北畠家ファミリー物語 伊勢北畠宗家の末裔は?

2006年12月31日 | 歴史
今年最後の投稿となりました。引続き弊ブログをご覧頂き、有難うございました。
年明けは、4日より始めますので、今後ともご愛顧のほど宜しくお願い申し上げます。
皆様良いお年をお迎えください。

北畠宗家の後胤としては、宗家9代目・北畠具房の遺児である昌教が、現在の秋田県大湯の出羽鹿角の折戸館に居城して、2人の子供をもうけ、長男・昌清、次男・昌近と呼ばれ、昌清は父・昌教の死去以降は青森県の浪岡館に移ったと云う。
兄・昌清が浪岡館に移った後、空白となった折戸館を相続して、折戸昌近を名乗った。

その後昌清は、浪岡で長男・昌広、次男・昌範をもうけ、昌範は有馬の名跡を相続して有馬昌範を名乗って、そのまま有馬家として再興し、以降6代目まで京都で公家として繁栄したと云う。

兄昌広は出家したが、その後叔父・折戸昌近に相続者が無かったため、折戸館を相続して、折戸昌広を名乗ったと云う。

有馬家は、明治になって帰農し、その後子孫は農業技術者として、旭川に移ったと云う。そしてその子孫は、北畠氏の研究を進め、「北畠氏学」を完成させた。
その後末裔は、現在札幌に居住していると云われている。
以上のように、伊勢北畠宗家は、有馬氏として、代々引継がれている。

一方「浪岡」について云えば、顕信の次男・守親は奥州下向後、陸奥守に任じられ、その後津軽浪岡に移って浪岡氏の祖となったと云われている。

更に顕家の遺児・顕成が浪岡氏の祖となったとも伝えられ、顕成系が浪岡北畠氏の流れで奥州の宗家、守親系は「川原御所」と呼ばれる北畠家庶系で、共に浪岡にあって、浪岡氏の祖争いで、内部抗争に発展したとも伝承されている。




写真は上から、青森市浪岡町の浪岡御所址及び川原御所址。

津軽郡(現在の青森市)浪岡に拠って「浪岡御所」と称された浪岡北畠氏の由来は、一説には霊山城が落ちたとき、北畠顕家の嫡子・顕成は叔父の顕信と共に北奥羽に逃れてきたためと云う。
従って顕家と顕信両氏の後裔が浪岡に居住していてもおかしくないはず。

北奥州の北畠系ファミリーの末裔には謎の部分が多いが、伝承・地名などが残されている限り、何らかの末裔の可能性を物語っていると云える。


公家・武将の北畠家ファミリー物語 北畠具行のキャラクター・生涯

2006年12月30日 | 歴史
具行は鎌倉時代末期の公卿であり、北畠師行の子で、村上源氏北畠家の傍流。
北畠親房は具行の従兄弟の子供に当たる。即ち具行は親房の叔父に当たる。

親房と共に後醍醐天皇に仕えて、従二位権中納言に昇進した。又和歌にも優れた文化人で、後醍醐天皇の内裏歌会などに参加していたと云う。
親房が世良親王急死の責任を取って出家すると、親房の嫡男・顕家が幼少のため、具行はその後見人となった。

1331年の“元弘の変”は、後醍醐天皇による鎌倉幕府討幕計画が事前に発覚して、首謀者が処分された事件だが、首謀者の一人・具行も日野俊基らと共に斬罪となった。

1332年、佐々木(京極)道誉により鎌倉に護送される途中、幕府の厳命により近江国柏原で斬首された。享年43歳。
護送人であった道誉は、近江柏原の清滝寺に具行を留め、1ヶ月余りにわたる、具行助命嘆願も及ばず、当地で生涯を閉じた。




写真は上から、柏原宿から程近い、丘陵山頂付近にある、国指定史跡・具行墓所及び具行の供養塔。

現在でも具行は、地元の人々により、手厚く供養されていると云う。
「バサラ」と呼ばれ、公家を軽蔑していた道誉も、具行の態度には感服して、別れを惜しんだと云う。

1333年には反幕勢力が再び蜂起し、後醍醐天皇も隠岐島から脱島して挙兵し、尊氏が天皇側に寝返って六波羅探題を陥落させ、遂に幕府は倒れたというように、“元弘の変”は討幕のキッカケとなったと云える。


公家・武将の北畠家ファミリー物語 北畠具教郷のキャラクター・生涯

2006年12月29日 | 歴史
歴代北畠家継承の中で、戦国時代に入ると7代北畠晴具が現われて勢力を拡大し、戦国大名化し、最盛期を迎えたが、晴具の子・具教のときに織田信長の侵攻を受け、1569年に信長の次男・信雄を養子に迎えるという降伏に近い形で屈服することになった。

具教は北畠家8代目国司で、7代晴具の嫡男として誕生、幼くして文武両道の教育を受け、後世にみる名国司の素養を培った。
10歳で敘爵、27歳で従三位権中納言、31歳で正三位にまで叙せられた。
初代北畠親房は「源氏長者」に任ぜられたほどの公家名門で、代々天皇家と深い結びつきがあったことも幸いし、高官位を得ることができたと思われる。

又長い間抗争が続いた、北勢の長野氏と和睦が成立したことにより、北勢攻略への足がかりを固めた。
そして織田信長の南勢襲来を想定して、居城も多芸・霧山城から大河内城に移し、家督も9代目具房に譲った。

1568年、遂に織田信長が伊勢に進撃し、その軍勢は5万とも7万とも云われ、一方大河内城に籠城する北畠軍はせいぜい7千~1万がいいところ、北畠軍善戦の中、攻城戦は膠着状態のまま遂に50日にも及んだと云う。

信長は大河内城を力攻めで落とすことを諦め、信長の次男・信雄を具房の養子とすることで和睦が成立したが、伊勢北畠家は織田の軍門に下ることとなった。
1570年具教は出家し、居館も現在の大台町三瀬に移して隠居したものの、黒幕として隠然たる影響力を持続していた。





写真は、三重県大台町にある北畠具教郷の三瀬御所址の紅葉風景。
本年11月末、最盛期は過ぎたものの、名所に相応しい姿を留めていた紅葉光景。



写真は、“三瀬の変”後、葬られたという具教胴塚。
一帯は北畠史跡公園として整備されている。

信長は、具教の強力な存在・院政に危機感を抱き、暗殺を決意した。
結果具教は、信長の謀略により、三瀬御所で旧家臣の襲撃に倒れ、49歳で自刃して、北畠家は名実共に滅亡した。(“三瀬の変”と呼ばれている)

文武に秀でた武将として評された具教は、剣聖・塚原卜伝から、鹿島新当流「一つの太刀」を伝授された剣豪大名としても名高い。
卜伝が武者修行で多芸を訪れた際、具教は屋敷を用意して、長期にわたり剣の指導を受けたと云う。
具教には、ひとかたならぬ兵法家としての才能があった証左と云える。

ところで近年発見された、北畠家ゆかりの地でもある、和歌山の長覚寺の古文書の中に、具教が“三瀬の変”後、家臣と共に三瀬を脱出し、熊野経由で和歌山に逃れ、弥勒寺を興したという記述が発見されたと云う。
そして和歌山の地で、従者に守られ68歳まで生きながらえたと伝えているが、果たして真実のほどは?

公家・武将の北畠家ファミリー物語 北畠顕能以降の歴代伊勢国司物語

2006年12月28日 | 歴史
顕能の子供が代々伊勢国司を継ぎ、北畠氏の嫡流となった。
その勢力は広く南伊勢、大和の宇陀郡さらに志摩、熊野まで広がっていた。
 
伊勢国司の顕能から顕泰、満雅、教具、政郷、材親、晴具、具教の代に至り、1569年、全国統一をめざした織田信長の軍の侵攻をうけ、多気の霧山城から、現在の松阪市・大河内城に主力を移した。




写真は、松阪市に残る、大河内城跡とその石碑。
丘陵突端部一帯にあり、坂内川と矢津川に挟まれるなど、自然の要害により守れている。

織田軍の5万とも言われる大軍と50日にわたり戦ったが、大河内城は、短期決戦で知られる織田軍に対し徹底抗戦に耐えて、武力制圧を諦めた信長は次男の信雄を北畠の養子に入れることで和議を結んだ。
具教は、信雄に家督を譲り隠居したが、翌年、信長に従った旧臣により攻められて、惨死。
 
難攻不落の堅城と称賛された大河内城も、信雄により解体されてしまった。
8代240年ほど続いた北畠氏が、織田信長により遂に滅亡したが、この地域は北畠氏の栄枯盛衰と共に発展していったと云える。
歴代伊勢北畠家国司の中で、特に際立った国司のうち、今回は満雅と晴具について、以下紹介する。

満雅は室町時代の人物で、伊勢国司北畠家3代当主で、顕泰の次男。
満雅は、1414年に始まり、天皇家の継承問題に対する室町幕府の違約、即ち皇統が北朝から南朝に譲られないことを不服として何度となく挙兵し、阿坂城に拠って幕府軍と激闘を繰返し、朝廷に忠臣を尽した。



写真は、松阪市桝形山山頂の阿坂城跡。
山頂には石碑があるだけで、視界を遮るものはなく、伊勢平野・伊勢湾を一望できる。

この時の逸話として、阿坂城が幕府軍の兵糧攻めにあい、水不足に悩んだ北畠軍は白米を馬の背に流して、水が豊富にあるかのようにみせかけたという白米伝説を残している。1982年国史跡に指定された。

以来、阿坂城は別名「白米城」と呼ばれるようになったが、結局阿坂城は落城。
北畠軍はその後も抵抗を続け、幕府軍に対してよく戦い、攻めあぐねた幕府は、1430年南朝の後嗣の即位があることを誓約して和議が成立した。
その後220余年、伊勢の国は比較的平穏な時期を過ごした。

晴具は伊勢国司北畠家7代当主。具方の子で、妻は細川高国の娘。
晴具は文武両道の名将で、弓馬は達人で和歌をよくし、能書家でもあった。
義父・細川高国らとともに歌合せを、北畠家本拠地の多気御所で実施したり、連歌師宗長を御所に招き、逗留させて連歌の興行を行ったりもしていたと云う。

また、高国が多気御所に造った庭園は、「北畠氏館跡庭園」と呼ばれ、現在国指定文化財の名勝、史跡となっている。



写真は、北畠氏の栄華を偲ぶことができる、全国三大武将庭園の一つ。

晴具は武将としても大活躍し、志摩国の鳥羽城を攻撃し、支配下に収めた。
その後大和にも進出して吉野を制圧して支配下に収めた。
又紀伊国へも進出し、熊野地方から尾鷲・新宮方面までを領有化、十津川まで支配領域を広げるなど、諸領地拡大に貢献した。

1536年には出家し、1553年には隠居して家督を嫡男・具教に譲っている。
以上のように、北畠家240年の繁栄・存続は、文武に優れた歴代の国司経営が効を奏したと云える。


源氏の源流として、北畠家をお忘れなく!

2006年12月27日 | 歴史
現在進行中のブログ「公家・武将の北畠家ファミリー物語」を覗いてみてください。源氏長者でもあった、北畠親房が始祖として興した北畠家歴代ファミリーの輝かしい功績・史蹟を辿っています。
鎌倉時代末期から南北朝時代を通じての変革期・混乱期にスポットを当てて、もう一度北畠家一門が残した史蹟を見直し・再評価をしてみるのも、一考に価すると信じていますが・・・・・・。

公家・武将の北畠家ファミリー物語 北畠顕能ゆかりの地 そのⅡ

2006年12月27日 | 歴史
北畠時代繁栄当時を偲ぶものは、唯一美杉町の見所でもある、北畠氏館跡庭園。
往昔の庭園遺跡は、国の「名勝及び史跡」の指定を受けている。
作庭者は、第7代北畠晴具の義父・武将の細川高国と伝えられ、国司館に逗留した際に、デザインしたと云う。



写真は、室町庭園が寺院に所属しているのに対して、数少ない神社の庭園。
今年11月末に訪れたが、標高が200m余りと丘陵地にあることから、紅葉は全盛期を過ぎ、枯葉が庭園一帯に散りばめてあった。
なかなか風流な庭園風景に出会いラッキーであった。
武将の作った庭園らしく素朴であり、豪放であり、野生的な魅力に溢れている。



写真は、築山の全体的景観は豪華であり、落城から400年余りを経ているが、その頃に植えられた杉が、4.5mほどの巨木となって悠然と聳え立っている。
山裾に広がる枯山水は調和と落着きを静かに印象付けている。



写真は、中央の約1.9mの立石が王者の風格を備え、これを取巻く石群がひれ伏すように、蹲っているようである。
さりげなく散在すると見せながら、まとまった一つの姿で石組が構成されている。



写真は、武家書院式庭園で、池泉式回遊庭園でもあり、池の汀線が複雑に屈曲しているため、「米字池」の名で知られている。
護岸の石が大きく、堅牢で、その配列に工夫が凝らしてあるので、470年の風雪に堪えている。

南北朝の動乱の中に生き、室町文化の爛熟と共に凋んで散った、北畠家の末路を偲んでいるかのように思われる。


公家・武将の北畠家ファミリー物語 北畠顕能ゆかりの地 そのⅠ

2006年12月26日 | 歴史
顕能ゆかりの地は、三重県津市美杉町にあり、少し西へ行くと奈良県に入る。
この地は伊勢本街道が走り、奈良・吉野へ、伊勢大湊へと、交通路の便が良いということから、ここに国司の拠点が置かれたと見られる。

ゆかりの地の代表は、美杉町の北畠神社で、祭神・顕能の居館の跡地にあり、多気御所・北畠御所と呼ばれていた。
神社境内に入ると、左手に庭園があり、正面に赤い社殿と続く。別格官幣社としては、こじんまりしている。



写真は、北畠神社の社殿。
赤い拝殿の奥には、鮮やかな朱の本殿があり、祭神は南朝の忠臣・北畠親房の三男・顕能であり、父親房・兄顕家を配祀している。
伊勢国司として権威を張っていた歴代北畠氏の居館跡に造営された神社。



写真は、元々多気御所があった居館の石垣跡、歩道向かって右側に沿って石垣があったと云う。

建武中興15社の一つで、北畠家関連には他に、父・親房を祀る大阪の阿倍野神社、兄・顕家と顕信を祀る、福島県の霊山神社などがある。

境内の右手を歩くと、顕能の歌碑及び花将軍と呼ばれた顕家公の銅像が立っており、更に歩くと、北畠一族を祀る留魂社がある。



写真は、歌人でもあった顕能の歌碑。

北畠神社の裏手には、霧山に築かれた、国の指定史跡・霧山城跡が残されている。



写真は、霧山城跡から望む伊勢の峰々。又この城跡に立つと、大和から伊勢への街道、霧山麓の多気を見下ろすことができる。
霧山城は南北朝時代1342年に、顕能が築城し、吉野へ約60km・伊勢湊へ約40kmに位置する。標高約600mの典型的山城で、土塁・堀切で防衛されていた。
8代具教の時代・1576年に、織田信長の侵略による兵火で焼失した。


公家・武将の北畠家ファミリー物語 北畠顕能のキャラクター・生涯

2006年12月25日 | 歴史
北畠顕能は親房の三男で、1335年に南朝より伊勢国司として、一志郡多気(現在の三重県津市美杉町上多気)に赴任した。生没年は不詳。
顕能は、兄・顕家が陸奥で南朝方として活躍中、伊勢の家名を継ぎ嫡流となり、南朝勢力の中心となって活躍した。抗戦をモットーとして、武力によって伊勢を支配した。
特に北朝方を支持する土着勢力・独立系の土豪勢力と小競り合いを繰返していたと云う。
足利氏に対抗して、最後まで忠義を貫いた忠臣として崇められている。

1338年、吉野と伊勢平野を結ぶ山地の多芸(現在の美杉町多気)に居館を移し、背後の標高600mほどの霧山に最初の城を築き、ここを拠点として吉野朝廷を支えた。
霧山城は長期戦に備えるための典型的な山城で、常時は山麓の居館に居住し、いざという時は、背後の山城に詰める作戦であったと見られる。

右上の写真は、津市美杉町ふるさと資料館に展示された北畠顕能公御像。
そして戦国時代の8代目当主・北畠具教の代に、織田信長によって滅ぼされるまで、伊勢の名家としての基礎を築いくと共に、1335年以来具房まで9代にわたり、約240年間、伊勢一帯の南朝勢力の中心であり続けた。

即ち南北朝が統一された後も、伊勢国司としての地位を墨守し、伊勢の守護大名として、室町時代を生き抜き、多気だけでなく、伊賀地方・大和南部も支配下に納めていたと云う。
北畠時代の繁栄を裏付けるように、当時は多くの寺院や武家屋敷などが、多気に存在したと云う。


公家・武将の北畠家ファミリー物語 北畠顕信の生涯

2006年12月24日 | 歴史
北畠顕信は、親房の次男で、南朝の公家・武将。
生没年不詳、墓所の所在地も不詳で、顕信のキャリアー・事跡も未だ不詳の部分が多い。
特に後半生の最後の方は、九州征西大将軍懐良(かねよし)親王に従って、筑前大原(現在の福岡県大保原)で戦没したとの説もあり、又顕信の事跡のほとんどが「太平記」に頼り、しかも戦前の勤皇論争によっても大きく歪められた側面も手伝って、戦後の研究が進んだとは云え、不明な部分が多い。

以下史実として認められている部分について、紹介する。
1336年、足利尊氏により、後醍醐天皇が京都華山院に幽閉されると、顕信は伊勢で挙兵し、天皇を吉野に還幸させた。
1338年には、兄顕家と共に摂津・河内・和泉に転戦した。
顕信は山城男山(現在の京都府八幡市)に布陣して、南軍の兵を集め、京都進撃の機会を窺っていた。顕信の役割は北軍を男山の要害に引きつけて、和泉の顕家軍を側面から援護することであった。
顕信は北軍相手に一歩も譲らなかったため、北軍大将の高師直は、狙いを顕信から顕家に変えて、堺・石津浜に方向転換し、未だ態勢の整っていない顕家軍を急襲し、顕家を討死させた。

北朝軍師直の臨機応変な戦術・俊敏な行動力は南朝軍より数段上手であった。
顕家の戦死後、顕信は陸奥鎮守大将軍となって、伊勢国司に任ぜられ、父・親房の後見を受けて、伊勢国の地固めに専念することになった。
この時期北畠氏の根拠地は、田丸城(現在の三重県玉城町)であった。

その後、父・親房と共に義良親王を奉じて、結城宗弘・伊達行朝ら率いる奥州軍も加わり、東国下向を計画したが、運悪く暴風に遭遇し、伊勢に吹き戻され、遠征は失敗に帰した。
当時は各地で南北朝軍による戦闘が繰広げられていたため、陸路ではなく、伊勢・熊野の村上水軍が南朝側に味方していたこともあり、海路ルートで奥州へ向かう計画は当然であった。
又顕信の身辺警護は、腕利きの「修験者」が当たり、特に熊野系の修験者が顕信の周囲に目配りをしていたと見られる。

その後、陸奥に入った顕信は南朝方の中心として、南部氏、伊達氏、田村氏らの支援を得て宇津峰城(現在の福島県郡山市内)に入り、北朝方に対峙した。



写真は、現在郡山市の宇津峰城址。

1343年常陸国の南朝方が壊滅すると、1347年宇津峰城も北朝方の総攻撃を受け落城し、顕信は北奥に奔った。

1351年、顕信は多賀国府奪還作戦を開始した。
一旦多賀城攻略に成功した顕信であったが、1352年には北朝勢に奪還されてしまい、顕信はふたたび宇津峰城に立て篭った。一年余にわたって北朝方の攻撃に耐えたが、1353年、遂に宇津峰城は落城した。
宇津峰城は徹底的に破壊され、顕信は出羽藤島城(現在の山形県藤島町)に撤退し、奥州南朝方の勢力は大きく後退した。




写真は、顕信が祀られている、山形県天童市の北畠神社鳥居と境内拝殿。

顕信は吉野に帰って、その後大納言・右大臣に任じられた。
その後の消息について不詳な部分が多いが、北畠顕信は出羽国に奔り,後の浪岡御所(現在の青森県)北畠氏として命脈を保つことになったという説もある。

公家・武将の北畠家ファミリー物語 北畠顕家ゆかりの地

2006年12月23日 | 歴史
顕家ゆかりの地は先ず、昨日も紹介した、「石津河原の戦い」で北朝方の高師直軍と戦い討死したと伝えられる、現在の堺市石津川沿いの顕家供養塔があげられる。
もう一つの説は、大阪阿倍野で戦死したとも云われている。

大阪市阿倍野区北畠にある、阿倍野神社は明治15年、建武中興に尽力した功績により、祭神・北畠親房公・北畠顕家公を祀る官幣社として建立された。



写真は大阪市阿倍野区の阿倍野神社、祭神・顕家公の銅像。
阿倍野神社参道の中央には、灯篭・百度石が並び、その奥には拝殿、後方には本殿がある。鳥居の脇には写真の通り、祭神・顕家公の銅像が立っている。

阿倍野区王子町には北畠公園があり、公園内には顕家の墓所がある。




写真は、上が大阪阿倍野区北畠公園の遠景、下が同公園内の顕家墓石碑で、現在周辺は閑静な住宅地。
太平記に登場する人物として、南朝方の武将でなくてはならない一人、北畠顕家が埋葬されていると伝わる墓所。

もう一つ顕家とゆかりが深い場所として、福島県伊達市の霊山及び霊山神社が挙げられる。



写真は、福島県伊達市の霊山神社。
当神社は、北畠家一門のうち、父・親房、長男・顕家、次男・顕信、甥・守親、陸奥にかかわる四柱を祀る神社。

僅か16歳で陸奥守兼鎮守府将軍に任ぜられ、南朝を奉じる後醍醐天皇の皇子・義良親王と共にやってきた、ここ霊山城を拠点に東北・関東から兵を集めて北朝と戦ったゆかりの場所。
当時霊山城は、山岳仏教の拠点として平泉と肩を並べるほどの隆盛を極めたが、南北朝争乱のため寺・僧坊は焼き尽くされてしまったと云う。


公家・武将の北畠家ファミリー物語 北畠顕家の功績・評価とは!

2006年12月22日 | 歴史
先ずは、既に詳述したように、顕家が戦死する1週間前に、陣中から後醍醐天皇に宛てた「6ヶ条からなる諫奏文」を指摘せざるを得ない。
要約すると、民の困窮、人材登用や褒美の乱れ、佞臣のはびこり、行幸・酒宴による経費の無駄使いなどに言及し、痛烈な苦言・批判を堂々と述べている。
そして顕家は、「先非を改められず、太平の世に戻す努力が為されないならば、私は陛下の元を去り、山野に隠れることでしょう。」と締めくくっている。
決死の戦いを前にして、死の覚悟を決めていたと思われる。

このように後醍醐天皇の取り巻きたちの腐敗への怒りを抱えつつも、朝廷の窮地を救うべく、一命をかけたと云える。




写真は、北畠顕家の肖像及び大阪阿倍野区に所在する北畠公園内の顕家墓所。

若干16歳の若き武将が陸奥国に派遣され、旧鎌倉幕府御家人や北条残党が数多く残る、陸奥を瞬く間に治めてしまう手腕は、尋常ならざる才能の持ち主であったからで、北方の雄である南部家・伊達家・相馬家らが進んで顕家に従ったことも、彼の魅力・指導力の現れであったと思われる。

しかし若き有能な公家・武将の顕家が歴史上に登場したのは一瞬であった。
顕家が陸奥から奥州兵を率いて尊氏の背後を突き、尊氏を九州まで敗走させた戦績は、鮮やかな勝利として記録に残されてはいるが、21年の短い生涯と一瞬の栄光だけに、余りにも悲しく忍びない。

顕家奥州軍の動きは素早く、彼の騎馬軍団は、足利北朝軍が立ちはだかる中、途中の足利軍を蹴散らかして20日余りで、京まで千キロほどの道のりを疾走する速さは神業であったと伝えられている。


公家・武将の北畠家ファミリー物語 北畠顕家の和泉国堺・石津での惨劇とは!

2006年12月21日 | 歴史
頼みの綱であった楠木正成を失った後醍醐天皇の武力は著しく削がれた中で、鎮守守将軍として抜擢されたのが、若き公家・顕家であった。
既に前回取上げた通り、足利尊氏が天皇に反旗を翻して京都を占領した際、南朝方の武将として、東北の武士団を率いて奮戦し、尊氏を九州に追い遣った武功について、誰もが認めるほど、顕家は大功労者であった。

しかしこの武功が、1338年再び足利家から京都を奪回するために、顕家が招請されることに繋がった。
しかし今回は、早急な派兵要請に、戦力を立て直す暇もなく、東北の拠点・霊山を立ち、各地で北朝方の勢力と交戦しつつ西進し、美濃まで到達したが、顕家進撃の進路は阻まれ、美濃・奈良では高師冬らの北朝軍に連敗し、この時点で、勝敗の行方は見えていたと云える。
戦う前から敗北が分かっていた戦局でも、天皇を守り通す使命感を貫き通した点、或いは敵の大将から崇められた顕家の器量は、楠木正行とダブって見える。

結局近江を経て京都に進撃する表ルートを断念し、伊勢から大和に入り、南から京都に進撃する、いわば裏街道ルートを漸く進む兵力の戦意は既に挫かれ、和泉国・堺の石津の地では、生き残った僅か20騎ほどの武者が、最期まで獅子奮迅の戦いを見せたが、最後のあがきは届かず、壮烈な戦死を遂げた。




上の写真は、当時激戦が繰広げられた戦場で、現在は堺港に流れる、堺市石津川の光景及び川沿いに祀られている、顕家の供養塔。

顕家戦死の報がもたらされた吉野では、武士・僧・公家などが涙を流さずにはいられない悲痛なニュースに、父・親房の無念・落胆は言葉にならなかったと云う。
顕家を失った痛手は、その後の挽回不可能な痛撃であったと云える。

ところで、顕家戦死の場所は、石津川の河原、大阪阿倍野の二説があるが、堺市石津の地で「石津河原の戦い」にまつわる伝承・怪談・昔話など数多く伝わっており、こんにちでは、顕家戦死は石津の地とされている。

公家・武将の北畠家ファミリー物語 北畠顕家のキャラクター・生涯

2006年12月20日 | 歴史
北畠親房の長男・顕家は、南北朝時代の公家で、15歳で従三位陸奥守となり、16歳で父と共に陸奥国の多賀城に下向し東北経営に従事、従二位に叙任し、1335年には17歳で鎮守守将軍に任ぜられるなど極めて順調な滑り出しであった。

多賀城入城に当たっては、関東・鎌倉に在住していた武将をことごとく引き連れて入城したため、関東は往時の面影もない寂れようであったと云う。
顕家の下で、まるで幕府のような強力な政治・軍事の組織が作りあげられた。
逆臣である足利尊氏が認めるほどの大器で、無讐の勇将・天賦の才を持った美少年であり、仁義もわきまえ、顕家が戦死した折には尊氏は大喜びしたほど、顕家の才能は恐れられていたと云う。
顕家は騎馬軍団で武田信玄の倍以上の距離を駆け抜けていったという逸話話があるほど、武将としての器の持ち主でもあった。

1335年尊氏が建武政権に反旗を翻し、京都に迫ったため、奥州の兵を引き連れて進撃し、尊氏軍を京から追い出し、再度入京を目指すと、摂津国で尊氏軍を破り、九州へと追い払った。顕家の陸奥勢の声望は大いに高まったと云う。

1336年18歳で権中納言に任官され、蜂起した足利軍を掃討するため、再び奥州へ戻ったが、尊氏率いる北朝勢は次第に力を盛り返し、多賀城は北朝勢の激しい攻撃に晒されるようになった。
1337年、強まってきた北朝の勢いに押され、義良親王を奉じて自然要害の地・霊山に移った。




写真上の霊山に所在する霊山城は、南朝方の拠点として堅塁を守ったが、度重なる猛攻に抗し切れず、1347年に落城。
又写真下の別格官幣社・霊山神社は、南朝の忠臣北畠親房・顕家・顕信・守親の4郷を祀るために造営。

しかし1338年には後醍醐天皇により尊氏追討の令旨が下ったので、再び西上し、その途上、足利軍と戦い、鎌倉・美濃では勝利した。
しかし鬼神さえ恐れたといわれる顕家奥州勢は、各地で苦戦を強いられるようになる。度重なる遠距離間の転戦で、兵力の減少や疲弊により京攻略を諦め、伊勢に後退。
再起を期して伊勢から伊賀に進出したが、歴戦の将兵は疲労や怪我によって、戦力の減退著しくここでも敗退。

圧倒的不利な戦局・援軍不足にもかかわらず、再度伊勢から伊賀を経て大和・摂津へと転戦しながら京を目指すも、高師直軍との戦いでは和泉堺・石津浜で敗れ、吉野に向かう途中、大阪阿倍野で討死した。
「花将軍」の異名をとった公家武将の戦死は余りにも痛々しい。
若年ながらも優れた統率力と軍事才能を発揮した貴公子・顕家、享年21歳。

顕家は「常に現実を冷静に見ていた、南朝随一の人材」との風聞は、奥州の有力な豪族が顕家を支えていたことからも、その事実を裏付けている。
堺・石津の戦いについては、後日詳述する。

公家・武将の北畠家ファミリー物語 北畠親房の功績・評価とは!

2006年12月19日 | 歴史
親房は鎌倉幕府滅亡後の建武の親政を支え、後醍醐天皇没後は、南朝の軍事的指導者となり、南朝の正統性を説いたが、時既に遅きに失した。

南北朝内乱の時代に、南朝の柱石として、ある時は軍勢を率いて奥州に下り、ある時は東国に赴いて関東平野の孤城に何年も立てこもって南朝軍の組織化に苦慮し、老いては吉野の山中で政局をリードした人物であった。

上層の公家らしい公家は、学問を好み、書を愛しても、自ら書を綴ることも、軍勢を率いて各地を転戦することもなかったハズ。
しかし後醍醐天皇側近の文武にわたるブレーン不足は否めず、南軍の参謀本部長として、或いは武家の棟梁としての役割まで踏み込まざるを得なかったと云える。
代表的な公家らしい公家の持主が、時代・環境の要請で、歪曲した公家の道を歩まざるを得なかったとも云える。

南朝の実質的指導者となった親房は、南朝の政治的・軍事的な支えとして重要な役割を果たしていた伊勢地方に出向いて、当地の豪族たちの組織化に当たっており、その折には伊勢外宮より神道の教説を学び、自身の政治思想に磨きをかける努力を惜しまなかった。



写真は、北畠顕能と共に祀られた、伊勢美杉町の北畠神社。

親房は、自著「神皇正統記」を通じて、後世に大きく影響を与え、江戸時代には、水戸光圀公が南朝の子孫を保護し、幕末から明治維新に活躍した岩倉具視は、北畠家と同じ村上源氏の一族で、公家社会を擁護した。
明治天皇も東北を巡幸した際、南朝の拠点であった福島・霊山を遥拝し、親房を祀るため霊山神社を建立させた。

親房が中世史に残した功績は、余りにも大きい。
親房の関東・奥州で繰広げた、悪戦苦闘の活躍は後日あらためて紹介したい。


公家・武将の北畠家ファミリー物語 北畠親房のキャラクター・生涯

2006年12月18日 | 歴史
北畠親房は、後醍醐天皇の側近中の側近で、8歳で元服、15歳で従三位・参議、31歳で大納言と大出世を果たした名門公家出自。
源氏一族全体の氏長者として「源氏長者」となり、源氏族の祭祀・召集・裁判などの諸権利を持っていたと云う。源姓氏族の中で一番官位が高く、源氏の元締め役に相当した。

親房は、明晰な頭脳と豊かな知識を持った、新進気鋭の公卿として天皇を補佐した。模範的な公家として、朝廷の官職を勤め上げたと云う。



写真は、大阪阿倍野神社境内に残る、親房公を偲ぶ詩歌の道。

天皇の信任が厚く、養育を委ねられた、世良親王が急逝したため、責任を取って、38歳で出家するほど、天皇家に忠節を尽した。
ここまでの親房の前半生は、順調そのものであった。

しかし出家中の3年間に後醍醐天皇の側近では討幕計画が急速に展開していった。この間のブランクが歴史を大きく暗転させてしまったと云える。

鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇の親政が始まると再出仕し、義良親王を奉じて陸奥に派遣された長男・顕家の後見役として付き添い、陸奥国の庶政に尽した。
しかしこの場合も、親政の要職に就くことなく、顕家の後見役といういわば閑職に追い遣られ、天皇は親房引き離しを意図したのではないか?親房が煙たかったのではないか?とも疑われる。

現に親房が留守中に、京都の親政は内部不統一を露呈し、征夷大将軍に任ぜられた、護良親王は父・天皇とことごとく対立し、天皇の計画は挫折の憂き目を見たが・・・・・。
建武の親政が互解し、南北朝に分立すると、親房は南朝軍の指揮官として後醍醐天皇を支えた。




写真は、大阪阿倍野神社参道中央入口及び北畠親房・顕家を祀る大阪阿倍野神社拝殿。

1338年、顕家亡き後、東国の南朝軍を組織するため、次男・顕信らと船団を組んで伊勢より出航するが、暴風雨に遭って四散し、親房は常陸に漂着した。
以降、陸奥の阿波先城・神宮寺城・小田城・関城などを拠って転戦した。

元々陸奥は古代から親王の任国という、皇室ゆかりの地であり、ここから南軍決起を促す書状を各地に発していたように、ここを拠点に関東・奥州の南朝諸将を糾合して、北朝に対抗する戦略であったと見られる。
しかし親房は現実より観念の世界に引きこもってしまい、真のリーダーシップは欠如していた。

結局北朝方に下る軍が相次ぎ、遂に東国経営を放棄して吉野に帰らざるを得なくなった。一時的に京都を奪回するも、再び京都は北朝の手に落ち、天皇と共に、吉野の奥・賀名生(あのう)に逃れた。
山路を脱走する天皇と親房は、見るも惨めな姿であったと云う。
そして1354年病死、享年62歳であった。