近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

堺市の百舌鳥古墳群とは!そのⅠ

2010年08月30日 | 歴史
これまで、大阪平野の古墳群を巡ってきましたが、ここでは百舌鳥古墳群を総括することで、締めくくってみたい。

大阪府の堺市には、古市古墳群と並んで我が国を代表する百舌鳥古墳群がある。
そもそも古墳群が築かれている一帯の地名そのものが、古墳の造営と関係があるらしい。

『日本書紀』に記された伝承によれば、その昔、この地で古墳の工事中に飛びこんできた鹿の耳から、百舌鳥が飛び立ったことから百舌鳥耳原と名づけたという。

百舌鳥古墳群は、堺の旧市街地の東南方向に位置し、東西・南北とも約4kmのほぼ正方形の区画に、かつては94基の古墳(前方後円墳23基、帆立貝式古墳9基、方墳8基、円墳54基)が存在したと言われている。

現在は、残念なことにその半数近くがすでに失われてしまって、現存する古墳は、半壊のものも含めて48基にすぎない。



写真は、百舌鳥古墳群のマッピング。

本古墳群の中でも、墳長100m以上の代表的な古墳群は、墳長の長い順番に以下の通り。

大仙陵古墳(伝仁徳天皇陵)、上石津ミサンザイ古墳(伝履中天皇陵)、土師ニサンザイ古墳、御廟山古墳、乳岡古墳、田出井山古墳(伝反正天皇陵)、いたすけ古墳、永山古墳そして長塚古墳の9古墳を数える。

百舌鳥古墳群は、4世紀末頃から乳岡古墳が築造され、次に履中陵古墳、仁徳陵古墳・御廟山古墳・いたすけ古墳、そして反正陵古墳・土師ニサンザイ古墳の順に築かれたものと考えられている。

ここで使われた埴輪を焼く窯のひとつが御廟山古墳の南東、百舌鳥川左岸にある窯跡で、5世紀中頃の築造と考えられ、いまのところ百舌鳥古墳群で発見されている唯一の埴輪窯。










写真は上から、百舌鳥古墳群の中で墳長の長い順番に、大仙陵古墳・伝仁徳天皇陵正面遠景、同陵の外濠光景、上石津ミサンザイ古墳・伝履中天皇陵正面、同陵周濠の様子及び土師ニサンザイ古墳全景。

これら古墳群には、倭の五王中の仁徳・履中・反正(はんぜい)の三代にわたる王陵が含まれている。

特に、仁徳天皇陵に治定されている大仙古墳は、墳長およそ486m・前方部の幅305m・高さ約33mで、日本第1位の規模を誇る超巨大前方後円墳であり、エジプトのクフ王のピラミットや中国の始皇帝陵と並んで、世界の三大古墳に数えられている。




東大阪市の西ノ辻遺跡とは!そのⅡ

2010年08月28日 | 歴史
西ノ辻遺跡巡りを更に続けます。



写真は、同遺跡から出土した水利施設の樋。

近鉄東大阪線建設工事などに伴う発掘調査の結果、東から西に伸びる古い谷筋沿い及びその周辺より弥生時代の方形周溝墓や土器棺墓、井戸、古墳時代の石組水利遺構などがみつかり、大規模集落で知られるようになったと云う。

西ノ辻遺跡最新の調査では、弥生時代中期末の井戸や、古墳時代中期末から後期初頭の掘立柱建物2棟が発見されたと云う。

古墳時代の集落は、東西100m前後の小規模な集落と考えられている。



写真は、西ノ辻遺跡が所在する弥生町標識。

西ノ辻遺跡があったとされるとところは、なんと!?「弥生町」と銘銘されていたことから、掘ればいろんな文化財が出てくるということは、昔からいわれていたらしい。

現実には、大規模建設が行われる度に発掘調査が行われたため、莫大な費用と時間がかかったが・・・。

弥生町には「鬼虎川遺跡」もあり、貝塚も見つかっている。

鬼虎川遺跡では、東大阪市にある郷土博物館にて貝塚の一部が展示され、埋葬されていた人骨などのレプリカや土器が残されている。







写真は上から、生駒山山麓西部に所在する鬼虎川遺跡の発掘現場、本遺跡から出土した弥生人人骨及び弥生前期の貝塚。

鬼虎川遺跡は生駒山麓の西側に延びる標高4~5mほどの微高地と沖積低地上に拡がっている。

微高地上には縄文前期の海食崖(波の浸食によってできる崖のことで、当時はこの辺りまで海岸線が迫っていた証拠)、弥生中期の掘立柱建物、井戸などの集落遺構や周囲が溝で囲まれた弥生中期の方形周溝墓なども見つかっている。

沖積低地上には淡水産のセタシジミを主体とする弥生前期から中期の貝塚、又ヨシなどの湿地性植物遺体に混じって杭列や弥生中期の溝、そして稲籾が多数見つかっているらしい。

従って当遺跡の水田は、河内湾の周辺に生い茂る広いヨシ源を開発したものと推定されている。

集落と水田との境には、外敵の攻撃から集落を守るための水濠が掘られ、その内側には柵列も巡らされていたことから、当時既に何らかの争いから自らを防御する必要性があったことが窺える。



東大阪市の西ノ辻遺跡とは!そのⅠ

2010年08月26日 | 歴史
東大阪市の歴史は、生駒山麓から河内平野に広がり、今から数万年前、旧石器時代に始まったが、当時の市域の大部分は海で、生駒の山裾が生活の舞台であった。





写真は、西ノ辻付近市街地から見上げる生駒山光景及び旧石器時代に遡る西ノ辻遺跡現場から望む生駒山光景。

この地域で最も古い遺物が発見されたのは、市域東部の生駒山麓地帯で、数千年以前に遡る先土器時代から、縄文・弥生・古墳の各時代にわたる、100余の遺跡が点在しており、市域中部と南部の平野部でも弥生から古墳時代の遺跡が見つかっている。



写真は、西ノ辻遺跡が出土した近鉄枚岡車庫地の現在の光景。

史跡に恵まれた市域の中で、西ノ辻遺跡は、昭和16年に、写真のような現近鉄バス枚岡車庫付近で、多量の土器が出土したことが契機となり、“額田町宇西ノ辻”内の14地点において発掘調査が行なわれた。

本遺跡は、弥生時代から中近世まで継続して営まれた集落跡で、古墳時代後半には、集落の北を流れる谷川に、大きな貯水池を何段にも分けて造っている。

貯水池の石組みは、古墳葺石の施敷技術と似ており、高度な土木技術を当時から持っていたと云える。





写真は、西ノ辻遺跡が発見された、近鉄バス枚岡車庫付近の記念石碑及び昭和18年調査時の同遺跡発掘記念看板。

発掘調査で出土した土器は、地点及び地層ごとに形や製作手法などが詳細に検討された結果、調査地の一地点より出土した土器は、弥生後期の古相をよく示す標識として「西ノ辻式」の名が与えられた。

西ノ辻遺跡は、昭和57年以後、近鉄東大阪線建設や国道308号線拡幅工事、第二阪奈道路建設等の大規模開発に伴って、更に発掘調査が行われた。






大阪貝塚市の丸山古墳とは!そのⅡ

2010年08月24日 | 歴史
丸山古墳巡りを続けますが、ここからは本古墳から出土した遺物について取上げます。



写真は、丸山古墳から出土した、朱塗りされた朝顔形埴輪断片。

朝顔形埴輪は、本古墳後円部の南部分で発見されたもので、円筒埴輪とは胎土や厚みが異なり、器面には朱が塗布されていたと云う。





写真は、丸山古墳から出土した、冠帽形埴輪片及び冠帽形埴輪の原形である金製冠帽。





写真は、丸山古墳から出土した、靭形埴輪片と形象埴輪片。

靱は、矢を入れ、腰につけて持ち歩く筒形の容器で、この形の埴輪は珍しい。

一方写真のような形象埴輪片は、破壊されていたため見分けがしにくいが、主にくびれ部から集中的に出土したもので、家・靱・盾・冠帽形などが確認できたらしい。

中でも全国的にも珍しい冠帽形埴輪などの形象埴輪が多数出土したと云う。

埴輪の出土により、丸山古墳の築造時期が古墳時代前期後半であることが確定したが、和泉地方では岸和田市摩湯山古墳に次ぐ古い時期のもの。

埴輪の種類はバラエティに富み、埴輪を使用した祭りの状況を復元想定できると云う。

大和地域及び古市古墳群や百舌鳥古墳群といった古墳群との比較検討により、古墳時代前期の和泉地域の政治勢力を考える上で重要な資料。





写真は、丸山古墳へやっと近づける狭い入口の石碑及び本古墳に隣接した貝塚市立南小学校校舎。

昭和56年と60年の発掘調査で、本古墳の南側に位置する、貝塚市立南小学校の敷地内からは、5世紀中頃・古墳時代中期の円墳4基・方墳2基が発見された。

それぞれが墳丘と周濠を持った古墳だったが、後世の農地開発などにより墳丘が削平され、現在は土中に埋没されている。

いずれの古墳も、墳長10m前後の規模だが、主体部は既に削り取られ、僅かに周濠が残っている状況。

これらの発見により、丸山古墳を中心とした古墳群の存在が判明したと云える。







写真は、丸山古墳から出土し復元された、いろいろな須恵器、台付高杯及び台付壷。

各古墳の周濠からは、古墳に供えられていた各種須恵器類も出土しており、朝鮮半島からもたらされた、登窯を築いて高温で焼いた須恵器の製作技術の恩恵を受けていたことになる。

周濠からは、高杯やその蓋・器台や写真のような台付高杯や壷・耳付高杯・壷などが出土している。

これら須恵器は全て破片で発見されたが、当時の祀り事の風習であったと見られる、故意に割って溝に捨てられたもの。

これら古墳群の発見により、4世紀後半から5世紀にかけて、地蔵堂周辺に強い権力を持つ豪族が存在していたことが分かった。



大阪貝塚市の丸山古墳とは!そのⅠ

2010年08月22日 | 歴史
史跡丸山古墳は貝塚市地蔵堂宅地内に所在し、現在の全長約72m・後円部径約43m・前方部最大幅約27m・後円部高さ約5m・前方部高さ約4mで、周濠を持たない古墳時代前期の前方後円墳で、昭和31年に国の史跡に指定された。









写真は上から、四方とも民家に密接した地蔵堂丸山古墳の空撮、本古墳前方部から見上げる後円部墳頂と墳頂から覗く民家群、民家に密着された本古墳の光景及び本古墳後円部から見下ろすマンションの様子。

写真の通り、本古墳は住宅街の中にあり、家に取り囲まれているため、周りからその全貌を見ることは出来ない。

叉秀吉の紀州攻めの際には、この墳丘上に本陣が置かれ、紀州橋本の積善寺城を攻めたという。

円筒埴輪・朝顔形埴輪・形象埴輪は、平成12年度~14年度に実施した古墳周辺整備に伴う調査において発見されたもので、その調査では、墳丘のほとんどが後世に土取り等により崩されていたものの、北側の一部で墳丘一段目テラスに巡る埴輪列と二段目斜面部の葺石を確認したと云う。





写真は、丸山古墳前方部越しに望む市街地及び本古墳後円部墳丘の様子。

今回の発掘調査で、本古墳は、後円部3段・前方部2段築成で、各斜面に葺石を貼り、叉平坦部には円筒埴輪が配置されていた様子が窺える。

円筒埴輪は、形成方法及び全体の形状などから、古墳時代前期後半(4世紀後半)に位置づけられるもの。



大阪八尾市の萱振1号墳とは!

2010年08月20日 | 歴史
萱振遺跡は、八尾市楠根川右岸の萱振町を中心に広がる、縄文時代から弥生時代前期、古墳時代から鎌倉・室町時代に至る遺構・遺物が多量に検出された複合遺跡。

1983年に府立八尾北高校建設工事に伴う調査で、4世紀後半・古墳時代前期後半の「萱振1号墳」が発見された。特に同1号墳からは、注目すべき埴輪類が出土した。









写真は上から、八尾北高校校舎に隣接して保存された萱振古墳、同高校内の生徒の憩いの場所として復元された同古墳、同高校内に保存された埴輪跡など同古墳及び同高校内の3段築成に復元された同古墳墳丘の様子。

本古墳は、一辺が27mほどの方墳で、これまで河内平野で検出された方墳の中では最大のもので、出土した家形埴輪・鰭付円筒埴輪・靫形埴輪の規模・精緻な完成度などから、物部氏一族の墳墓の可能性が高いと云う。

叉古墳時代初期の祭祀遺構と考えられる“布留式土器”の集積が検出され、滑石製の勾石や臼玉も出土した。

同方墳を保存するため、校舎の位置を変更し、写真のように文化財公園として整備することで、生徒たちが古墳に親しめる、憩いの場として配慮されている。







写真は上から、萱振古墳脇の恵光寺本殿、同古墳周辺の古い町並み及び同古墳周辺の環濠光景。

室町時代に、蓮如上人が河内国での布教の際に萱振村に立寄り、その後当地に蓮如上人の息子・蓮淳によって恵光寺が建立されたと云う。

戦国時代に入ると、恵光寺を中心とした萱振集落の周りに「環濠」がめぐらされるようになり、寺内町が形成され、現在でも古い町並みと共に環濠の一部が残されている。

環濠は、水稲農耕とともに大陸からもたらされた新しい集落の境界施設で、環濠の幅と深さは1〜2mほどで、内部に大型建物を中心とする住居跡群があった。

萱振1号墳は幅約5mの浅い周濠を伴う方墳で、靫形(ゆきかた)埴輪・鰭(ひれ)付円筒埴輪・朝顔形円筒埴輪等の豊富な埴輪類が多量に出土している。

鰭付円筒埴輪は0.8~1m間隔で並べられていたらしい。





写真は、萱振1号墳から出土した靫形埴輪の文様及び靫形埴輪の全体像。

靫(矢を入れて肩や腰に掛け、携帯する容器)形埴輪では、写真のような忍岡系文様(直線と弧線が結合した幾何学的文様)が施されている。

なかでも、この萱振1号墳出土の忍岡系文様は、もっともダイナミックで、一番古いとされる。

叉4~5本に1本の割合で朝顔形円筒埴輪をまじえていたと云う。

本方墳は、河内平野で発見された最古級の古墳で、平野部における古墳文化の様相を考えるうえで貴重な資料として、1989年3月に府の史跡に指定された。

1985年に行った府営住宅建替え工事に伴う調査では、古墳時代後期の「萱振2号墳」が見つかったが、この古墳の主体部は木棺で、6世紀中葉・古墳時代後期中葉の須恵器壺・高坏などの副葬品が残っていたと云う。

この時期の古墳は、生駒山地の西麓部に横穴式石室を主体部に持つ円墳を造るのが一般的であり、「萱振2号墳」の発見は、平野部に造られた古墳として、同時期の生駒山地西麓で造営された古墳とを比較する資料となったらしい。




大阪市平野区の長原古墳とは!そのⅡ

2010年08月17日 | 歴史
長原遺跡は、旧石器時代から近世までにわたる、長期・広範囲の遺跡だが、ここからは古墳時代に絞って、取上げたい。







写真は上から、舟形埴輪が出土した長原高廻り古墳群石碑、同古墳現場のマンション開発状況及び同2号墳から出土した舟形埴輪。

1988年4月に、写真の通り、舟形埴輪が発掘され、まれにみる良好な遺存状態だったそうで、古代舟の構造を考える上で、叉当時の造船技術を伝える、貴重な文化遺産となっているらしく、国の重要文化財に指定されている。

写真手前の舟形埴輪は、長原高廻り2号墳から出たもので全長129cm、後ろは同1号墳から出土した全長100cmほどの舟形埴輪。

いずれも袴抜きの舷側板を付けた準構造船で、手前のものは特有な形(前後がワニのように二股に分かれている)をしているが、南久宝寺遺跡で見つかった部材からこのような船型は実在したことが分かった。

この2号墳は、直径21mの墳丘に1.5mの周濠を持つ5世紀前半の円墳で、長原古墳群の中でも早期に造られた古墳。

2003年の調査地周辺は、弥生時代から古墳時代にかけての遺構・遺物が密集して分布している地域で、以前の調査でも多くの知見を得ることができたと云う。

前回調査地のすぐ北に隣接する今回の調査地でも、多くの遺構や遺物が発見されたと云う。

他の場所にも点在している、長原古墳群は、平野区の長原遺跡に包括される埋没古墳群で、開発に伴う発掘調査によって現在までに200基以上が発見されている。

大多数の古墳は1辺10m以下の小方墳で、5世紀代に築かれているが、初期の4世紀後半~5世紀初頭に築かれた古墳はやや大型で、方墳の他に円墳がある。

弥生時代中期後葉から古墳時代中期(約2,100年前~1,500年前)に至る成果は注目されていたが、弥生時代中期~後期には集落、弥生時代終末期~古墳時代前期には墓域そして古墳時代中期には再び集落へ、という土地利用の変遷を把握する事ができたと云う。










写真は上から、地下鉄出戸駅脇の長原古墳群石碑、本古墳群から出土した埴輪のオンパレード、本古墳群から出土した勾玉・ガラス玉・鹿角製刀子などの埋葬品、本古墳群出土の馬型と鶏型埴輪及び長原45号墳出土の武人形埴輪。

長原高廻り1・2号墳から見つかった、多種類で数多くの埴輪は、国の重要文化財に指定されている。

特に長原40号墳から出土した埴輪の特徴から、古墳中期に属する古墳とみられている。

また全長100mをこえる前方後円墳の跡もあり、勾玉・管玉やガラス玉、馬型や家型埴輪などの埋葬品を伴い、古代から現在までの地割りの変遷が見られたらしい。



写真は、2009年の長原遺跡発掘調査現場のうち、鍛治工房跡。

2009年1月の発掘調査の結果、長原遺跡のうちで、古墳時代中期の5世紀前半に鉄器を生産した鍛冶工房跡が出土した。

百舌鳥・古市古墳群の大仙古墳(仁徳天皇陵、堺市)など巨大古墳を築いた「倭の五王」の時代に当たり、近畿で最古の鉄器生産遺構という。

造営されて間もない古墳を壊して工房を設けていることから、当時の政権が関与しているのは確実で、「大和王権直営の鉄器生産拠点」と見られている。

鍛治工房跡は、4世紀末から5世紀初めに造営された方墳跡に、2棟建てられていたとみられる。

1棟ごとに一辺約8mの「コ」字形の溝を設け、排水などに利用されていた。叉棟の間に井戸跡が見つかったほか、周囲からは炉にくべたとみられる大量の炭、排水や湿気よけに利用されたとみられる溝からは、鉄器製造の際に出た、3cmほどの鉄さいが発見された。

百済があったソウル近郊の旗安里(キアンニ)遺跡(3~4世紀)などでも同様の溝が確認されており、「朝鮮半島の渡来人がもたらした先端技術を駆使して造りだした!」と見られている。

市内の同時期の古墳からは、大量の鉄器が出土しているが、これまでどこで生産されたのかは不明だったが、今回の発見は、鉄器生産の歴史を解明する手がかりになりそうだ。

今回発見された鍛治工房で生産された鉄器が、近郊の巨大古墳の造営に伴う土木工事に使用された可能性が高く、鍛治工房が大和王権の軍事、経済活動を支えていたことが窺える。





大阪市平野区の長原古墳とは!そのⅠ

2010年08月15日 | 歴史
長原遺跡は、大阪市平野区の長吉長原・長原東・長原西・川辺・六反・出戸一帯に広がる旧石器・縄文・弥生・古墳から江戸時代まで続く複合大遺跡で、中でも「加美・瓜破・長原遺跡」という大規模な遺跡群を有している。

1973年から始まった、地下鉄工事・道路建設・住宅建築などに伴う発掘調査で偶然発見された文化財が多い。

長年の発掘調査によって、長原の歴史と当時の人々の生活振りが徐々に明らかになってきた。



写真は、長原遺跡が出土した長吉地区一帯の地図で、大和川・八尾空港に囲まれている。

本遺跡が所在する長吉地域は、平野区の東南部に位置し、東部は八尾市に、南側は大和川に接している。広い面積を有する地域で、平野区の中でも農地が多く残っている街。

長吉地区では地下鉄工事の際、旧石器時代から江戸時代にかけての住まいや墓、水田跡などが大量に出土した。現在も土地区画整理事業が進行中で、平野区でも特に変化が著しい街となっているらしい。





写真は、現在も続く発掘調査現場のうち、大阪市文化財協会調査事務所前の長原遺跡発掘現場。



写真は、長原遺跡から出土したサヌカイト製ナイフ形石器。

長原で人々が生活を始めたのは、約3万年前に遡り、当時は狩をしながら移動生活を行なっていたと見られる。

長原では、長吉6反1丁目と長吉川辺3丁目で旧石器が見つかっている。

長原遺跡は、1973年地下鉄谷町線延伸工事に伴う調査で発見され、本遺跡には長吉長原付近にある弥生時代のムラがあり、竪穴式住居跡や方形周溝墓が見つかっている。

遺跡の範囲は長吉長原を中心に東西約600m・南北1km以上と考えられている。これまでの調査で旧石器時代の石器をはじめ、縄文時代から江戸時代にかけての住居址・墳墓・水田跡などが見つかっていると云う。

市内では初めて、弥生時代の村落を偲ばせる住居址・溝・墓などが一体として発見され、火災にあったらしくその跡をとどめていたと云う。





写真は、火災跡が出土した弥生時代の長原遺跡現場及び本弥生遺跡現場から出土した土器類。

長吉長原東1・2丁目付近には弥生時代のムラが眠っており、竪穴住居跡・水田や方形周溝墓が見つかっている。

長原遺跡のうち、弥生時代の集落跡から3世紀前半の火災に遭ったと見られる竪穴式住居跡から、生活に使った壷・鉢・甕・高杯などが見つかり、火災が発生し、慌てて逃げたため、家財道具がそのまま残っていたらしい。

加美遺跡は、長原遺跡の北西方向で、平野区加美東一帯に所在する遺跡で、弥生時代中期~中世にかけての複合遺跡。

特に弥生時代中期の大型方形周溝墓は、当時のものとしては全国的にも最大級に属している。



写真は、加美遺跡から出土した、弥生時代の人骨が残る木棺の一部。

木棺が出土した方形周溝墓は、長辺26m・短辺15m・高さ3mほどあり、23基におよぶ木棺が出土し、その墳丘の中央からは中心被葬者と思われる2重構造の木棺が出土したと云う。

ほかに子供用木棺も見つかっている。これから有力者層の家族墓と考えられている。

大阪松原市・羽曳野市の河内大塚山古墳とは!

2010年08月12日 | 歴史
河内大塚山古墳は、全国屈指の規模を誇る前方後円墳で、大阪府松原市と羽曳野市に跨る陵墓参考地。

平成22年2月、日本考古学協会など考古・歴史系16学会の研究者による墳丘内への立ち入り調査があった。

これまで立ち入りが厳しく制限されてきたが、宮内庁が今回、学会側の要望に応えた。築造時期や墳丘の構造など、なぞに包まれた、巨大古墳の実態を垣間見る。



写真は、平成22年2月現在の河内大塚山古墳の空撮光景で、今回初めて陵墓参考地への、研究者の立ち入りが許可された。

歴代天皇や皇族の墓とされる陵墓・陵墓参考地への立ち入りは、2008年の五社神(ごさし)古墳(神功皇后陵、奈良市)、09年の佐紀陵山(さきみささぎやま)古墳(垂仁天皇の皇后・日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)陵、奈良市)と伏見城跡の桃山陵墓地(明治天皇陵・昭憲皇太后陵、京都市)に次いで4例目で、全長300mを超す巨大な前方後円墳への立ち入りは初めて。







写真は上から、河内大塚山古墳正面からの全景、同古墳北側周濠及び同古墳後円部西側の光景。

研究者らは墳丘の1段目を歩き、墳丘の表面や形状などを観察するが、発掘や遺物収集などはしないと云う。

河内大塚山古墳については、江戸後期の「河内名所図絵」や、明治政府に招かれた造幣局技師の英国人ウィリアム・ガウランドが撮影した墳丘写真があるが、実態は不明だったらしい。

大正時代までは墳丘内に民家などが数十軒あったとされ、宮内省が立ち退かせ、陵墓参考地とした。

立ち入りに参加する考古学研究会の先生方は「墳丘の形が左右で崩れており、葺石もないようだ。未完成の古墳なのか、あるいは、葺石や埴輪など装飾を省略した新タイプの古墳なのか。議論できる素材を見つけたい。」と話す。

陵墓は天皇・皇后の陵188ヶ所と皇子や皇女らの墓552ヶ所があり、被葬者が特定されていない陵墓参考地を含む総数は896ヶ所。

宮内庁は「静安と尊厳の保持のため」として一般の立ち入りを禁じているが、同庁が指定する被葬者の年代と、推定される築造時期が一致しない個所が多いため、1970年代以降、学会側が公開を求め、08年2月に初めて学術目的の立ち入りが許可された。

宮内庁が「大塚陵墓参考地」として管理し、全国で5番目の規模を誇る巨大前方後円墳の河内大塚山古墳は全長335mもあり、大阪府松原市・羽曳野市に跨る。

平成22年2月、日本考古学協会などの研究者らが墳丘への初の立ち入り調査を行い、前方部が平坦だったことが分かったと云う。

通常の古墳の前方部は山のように盛り上がっていることから、古墳が未完成で被葬者が納められていない可能性が浮上し、新たな謎となっている。

河内大塚山古墳は、これまでの宮内庁の測量調査で、後円部の高さ約20mに比べて、前方部の高さ約5mは極端に低いとされているが、詳細は不明。

立ち入り調査では、研究者は墳丘外縁部を歩いて全体の形状などを観察。その結果、前方部は後円部のような盛り土がほとんどなく、平坦だったことが判明した。

本古墳は、中世に城として利用されたと伝えられ、築城の際に前方部が平坦に整地されたとの見方もあったが、研究者からは「大量の土を移動させた痕跡も見当たらない」との意見が出され、前方部が未完成のまま造営工事が終了するという、巨大古墳では極めて異例な状況だった可能性が浮かび上がった。

その一方、古墳の築造時期などに結びつく遺物などは見つからなかったという。




堺市北区のいたすけ古墳とは!

2010年08月10日 | 歴史
いたすけ古墳は、百舌鳥古墳群のほぼ中央にあり、大仙陵古墳の南、上石津ミサンザイ古墳の東に位置する、前方部を西に向けた、5世紀後半の前方後円墳。

規模は、本古墳群中でも8番目の大きさで、全長約146m・後円部径約90m・高さ約12.2m・前方部幅約99m・高さ約11.1mで、3段に築成され、南部のくびれ部には造出しがある。

本古墳の場所は、大仙公園の南にある都市緑化センターの前から東へ進みJR阪和線の踏切を渡ると、右手の民家の家並みが切れたところに巨大古墳が見えてくる。







写真は上から、いたすけ古墳の石碑と案内板と本古墳の周濠光景。

仁徳天皇陵、履中天皇陵を中心とする百舌鳥古墳群の中においても、主要な地位を占めるものであり、保存の状態もきわめて良好で、わが国の古墳文化を考える上に価値深いものがあり、昭和31年に国史跡に指定された。

正面右側のくびれ部には造出しが設けられ、また周囲に場所によっては50m以上の楯形周濠が巡らされている。台地の南端に位置しているため、濠の南側には大規模な堤が築かれている。

葺石と形象埴輪が出土し、特に後円部からは“衝角付冑”の埴輪が出土している。

しかし主体部の構造や副葬品などは不明。







写真は上から、正面奥側の樹木が伐採された禿山の様子が窺える光景、本古墳の周濠に浮かぶ壊れた橋脚及び同古墳にかかる壊れた橋脚の現在の姿。

この古墳は、昭和30年頃に住宅造成のため破壊されそうになったが、市民運動によって保存されたと云う。

造成工事の際には、土砂を取る重機を入れるため周濠に橋が架けられ、樹木の伐採が行われたと云う。伐採は半ばで中断されたものの、古墳の半分ほどがはげ山となったらしい。







写真は上から、本古墳の壊れた橋上で休息する野生たぬき、同古墳の壊された橋上に現れた野生たぬきの光景及び同古墳から出土した“衝角付冑型埴輪”。

写真の通り、周濠の橋は、現在でも古墳側から伸びる半分が残されている。

木のないところが幅99m・長さ75mほどの前方部で、竹林が生えているところが直径90mの後円部。

チョット変わったところでは、写真のように、本古墳内に野生のたぬきが住んでいることで一躍有名になったらしい。

叉写真のような、ウルトラマンのような出っ張りがついた衝角付冑の埴輪は、後円部から出土したもので、堺市の文化財保護のシンボルマークになっているらしい。







堺市中区の御坊山古墳とは!

2010年08月08日 | 歴史
御坊山古墳は堺市中区辻之に所在し、泉北丘陵から派生する丘陵上に位置する、6世紀中心に築造された“陶器千塚古墳群”の中で最も大きく、主墳とされる全長30mほどの唯一の前方後円墳からも、大阪府の史跡に指定されている。

6世紀中心に築造された陶器千塚古墳群は、約50基の小古墳により構成されていたが、現在では約10基を残すのみ。





写真は、御坊山古墳の空撮光景、写真左側が精華高校の運動場で、右側が道路及び同校敷地内にある同古墳入口案内板。

現在本古墳は、精華高校の敷地内にあり、同校の許可なしには見学不可。





写真は、道路側にある御坊山古墳石碑と道路側から覗く同古墳墳丘。

本古墳は前方部を西に向け、前方部が後円部径より広がる形態の前方後円墳で、埋葬施設は明らかではないが、前方部側の調査では周濠をもたないことが分かっている。

堺市南部の泉北ニュータウン周辺には、古墳時代から平安時代にかけて1000基以上の窯が操業された日本最大の須恵器生産遺跡がある。

陶邑は、古墳時代に朝鮮半島から導入された窯を使って1000度以上の高温で焼成する須恵器を初めて継続して生産した所として著名。

陶邑では、須恵器生産の最古の段階(4世紀末~5世紀初頭)から生産が行なわれていたと云う。

陶邑の北方数キロには、5世紀代に造営された大仙陵古墳を始めとする百舌鳥古墳群などが展開しており、陶邑窯の創設当初から巨大古墳群を造営していた主体である、当時の畿内政権中枢と密接な関わりがあったことが知られている。

叉この「陶邑」の北東部の堺市中区陶器北には、須恵器生産に携わった人たちの墓である“陶器千塚古墳群”がある。

陶邑千塚古墳群のうち29号墳は、御坊山古墳の南20mにあり、昭和56年に精華学園のテニスコート整備にともない事前に発掘調査を実施した、直径10m前後の円墳で、埋葬の主体は「横穴式木芯粘土室」(よこあなしきもくしんねんどしつ)という特殊な構造で、さらに追葬時に須恵器の円筒棺という例のない棺を使用していたと云う。





写真は、道路側から望む御坊山古墳全体像及び本古墳出土の横穴式石槨。

本古墳群には、“横穴式木芯粘土室”という特異な埋葬施設をもつ古墳があり、この施設が須恵器の焼成窯と同様な形態であることから、国内有数の須恵器生産地である陶邑窯跡群との密接な関連が指摘されている。






堺市西区の文殊塚古墳とは!

2010年08月06日 | 歴史
文殊塚古墳は、堺市西区上野芝向ヶ丘町の台地端にあり、墳丘は一部破壊を受けているが、ほぼ良好な状態で保存されている。





写真は、文殊塚古墳墳丘の様子及び本古墳後円部墳丘の様子。

全長約55m・後円部径35m・高さ4.3mほどで、前方部幅約30m・高さ3.3mほどの前方後円墳。葺石は施されていなかったらしい。

本古墳の前方部が後円部より低く、幅も狭い形態を取り、墳丘には埴輪の配列が見つかっているが、埴輪の種類ははっきりしていない。

埋葬施設や副葬品などについては不明のため、本古墳の築造年代がはっきりしないが、5世紀前半とか6世紀初頭とも推定されている。







写真は上から、文殊塚古墳周囲に架けられた、厳重なフェンス光景、同古墳に隣接する民家密集地の様子及び密集民家に囲まれた同古墳光景。

写真の通り、古墳の周りにはフェンスが張られているため、中には入れない。

台地の端にあり、周りは住宅街のため、道路側からしか観察できない状況。
昭和46年に、国の史跡に指定されているが。

この地域は、応神・仁徳天皇陵を中心とする百舌鳥古墳群の南限界部を構成するところで、本古墳の位置からすれば、その古墳群の南端を示すと云える。

百舌鳥古墳群に顕著な大型天皇陵に対して、本古墳は当地豪族の首長墓と考えられている。

しかしこの一帯は、昭和34年頃から市街地化が激しく、すでに他の古墳は失われているが、かつて6世紀を中心とする、百舌鳥野南古墳群の所在地として広く知られていたところらしい。





写真は、文殊塚古墳石碑及び同古墳近辺から見下ろす丘陵の状況。

本古墳は丘陵上の最高所に位置しているなどの占地条件からして、この百舌鳥野南古墳群の中での主墳として位置づけられている。

古墳周辺は民家密集地となり、また後円頂部の一部には採土跡もみられるが、全体的に墳形はよく保たれている。

現在、全体的に古墳群としての形態は失われてはいるが、和泉地方における数少ない群集墳の主墳とされる貴重な古墳。




堺市堺区の収塚古墳とは!

2010年08月04日 | 歴史
収塚(おさめづか)古墳は、堺市夕雲町に所在する百舌鳥古墳群の一つで、国指定史跡。

仁徳陵古墳の前方部東南隅の近くにある古墳で、同古墳の陪塚の一つと考えられている。









写真は上から、収塚古墳前方部から望む後円部墳丘の概観、同古墳の削り取られた前方部光景、フェンス越しに覗く本古墳墳丘及び同古墳後円部墳丘の茂み。

本古墳は、現在概観上は、基底径約40m・高さ約4.5mの円墳をなしているが、北側は濠の痕跡をとどめている。

周濠はすでに埋まり、前方部も削られているため、円墳のように見えるが、もともとは、前方部を西に向けた、全長61m程の帆立貝形の前方後円墳で、現在残っている後円部は径約42.8m・高さ約4.5mを測る。





写真は、収塚古墳前方部跡に掲げられた石碑及び同古墳周濠の跡を残す古墳東側道路。

墳頂部からは、かつて短甲片が採集されていたと云う。

現在残された後円部は、仁徳陵古墳の陪塚と云うことで、国の史跡に指定されている。写真の通り、古墳東側の道路に周濠の跡を残している。

周濠部の調査で、幅は約8m~13m・深さ0.6m~0.9mほどの周濠で、葺石・埴輪・須惠器が出土したことから、5世紀後半の古墳と判明。



堺市堺区の丸保山古墳とは!

2010年08月01日 | 歴史
丸保山古墳は、短い前方部を南に向けた帆立貝形古墳で、周囲には幅10mほどの濠が巡っている。

前方部の高さが著しく低いのは、昭和30年の開墾で大きく削られてしまったため。仁徳陵古墳(大仙古墳)後円部の西側に近接して築かれた前方後円墳で、前方部を南に向けている。







写真は上から、柵閉された丸保山古墳入口の石碑、柵に掲げられた同古墳案内板及び同墳丘への登口。

墳丘は全長約87m・後円部径約60m・後円部高さ約9.8m・前方部幅約40m・前方部高さ約2.7mの規模で、前方部は昭和30年に削られたため、低く短い形態。

埋葬部の構造や副葬品の内容などはわかっていないが、円筒埴輪が採集されており、その埴輪から5世紀後半頃に造られたものと考えられている。







写真は上から、僅かに覗く丸保山古墳後円部墳丘の光景、削平された同古墳前方部と残された周濠の光景及び同古墳の削平された前方部近景。

周囲に一重の濠が巡り、南西側の菰山(こもやま)塚古墳や、南側にもかつて古墳のような高まりがあったものも含め、仁徳陵古墳の陪塚と考えられている。

本古墳は、前方部と周濠のみが昭和47年国の史跡に指定されている。

後円部は宮内庁が、前方部と周濠は堺市が管理しているという変則的な運営。
永山古墳と同じように、周囲の道路から観察できる。