近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

京都府木津川市の石のカラト古墳とは!

2009年08月31日 | 歴史
石のカラト古墳は、木津川市と奈良市の境の標高112mほどの丘陵緩傾斜面に築造された上円下方墳で、国の史跡・名勝天然記念物に指定されている。





写真は、石のカラト古墳現場。

前方後円墳でなく上段が円形、下段が方形の上円下方墳で、お供え餅みたいに見える。上円下方墳は、天智天皇などわずかな古墳にしかみられない形態。

誰のお墓かははっきりしていないが、立地から平城京遷都に関係する、奈良時代初めの皇族の墓ではないかと云われている。

“カラト”の命名は、石室が唐柵に似ているからだというが・・・・・。

下段の表面には、約30cm大の葺石が敷かれてあったが、上段の葺石はほとんど失われていたらしい。

昭和54年に、ニュータウン建設に先立って奈良国立文化財研究所によって発掘調査が行われた。残念ながら盗掘されていたが、朱塗りの棺があったらしく、漆の破片、金・銀製の玉など豪華な副葬品の一部が出土したと云う。



写真は、本古墳から出土した装飾品のうちで、右上が銀製玉。

この銀製玉と、奈良県明日香村にある、同時期の官営工房「飛鳥池遺跡」で見つかった銀粒が、水銀を使って銀の純度を上げる当時の最新技術、“アマルガム法”を利用して作られていたことが分かったらしい。

当時の精錬技術の高さは驚きに値する。

飛鳥池遺跡は、最古の貨幣・富本銭などを造っていた工房として知られている。

下の方形部は、一辺約13.8m・高さ約1.4m、上の円形部は、径9.2m・高さ1.6mほどで、高松塚古墳石室が退化した、横口式石室を内部主体としている。

と云うことで、埋葬施設は横穴式石槨で高松塚・キトラなどと同じ。
7世紀末~8世紀前半の終末期古墳と推定されている。

現在築造当時の姿を復原し、公園として整備されている。





京都府城陽市古墳群のうち久津川車塚古墳とは!

2009年08月29日 | 歴史
城陽市の代表的古墳巡りを続けます。

久津川車塚古墳は、古墳時代中期(5世紀頃)の南山城屈指の前方後円墳。
三段に築かれた墳丘部の全長約180m、二重の周濠を含めた長さ約272mの国指定史跡。











写真は上から、久津川車塚古墳現場、復元された長持形石棺、四獣形鏡、鉄剣及び玉類。

山城地方最大の前方後円墳で、被葬者はヤマト政権との密接な結びつきを背景に、南山城全域を支配した首長と見られる。

長持形石棺内部からは、被葬者とともに鏡が7面・鉄剣・玉類等が出土。

鉄製の武器・武具も出土していることは、有力首長の存在感を示すものとして注目される。




京都府城陽市古墳群のうち芝ヶ原古墳とは!

2009年08月27日 | 歴史
京都市近郊の南山城地方は、南北に長い山城盆地の南半部に当たり、木津川によって形成された沖積平野と縁辺に聳える丘陵より成っている。

当地方は古来、京都・奈良・大阪を結ぶ交通の要衝として発展した地域で、城陽市には古墳が約150基、遺跡32ヶ所が確認されている。

京都府下第一位の人口急増地である、城陽市の宅地化は今後更に進み、平野部・丘陵部共遺跡が、更に掘り出される可能性が大きいと云われている。

☆芝ヶ原古墳
芝ヶ原12号古墳は南北約21m・東西約19mで、南辺に突出部が付く、4世紀初頭の古墳時代前期の前方後方墳。

方丘の中央部には、板を組み合わせた長さ約3m・幅約0.7mの木棺が納められていたと云う。



写真は、芝ヶ原12号古墳現場。

住居地の一角に所在し、弥生から古墳時代への過渡期、古墳出現期の遺跡として、国指定を受けている。

芝ヶ原古墳群は13基から成り、4世紀初頭以降、5世紀前半から中頃にかけ、造り出し付き円墳として注目されている。





写真は上から、芝ヶ原古墳から出土した、滑石製刀子及び四獣形鏡。

滑石製刀子は、国の重要文化財指定を受けているが、他にも写真のような四獣形鏡や管玉・勾玉・ガラス小玉や銅釧・鉄器・埴輪等が出土していると云う。




京都府宇治市の宇治二子塚古墳とは!

2009年08月25日 | 歴史
ここからは、京都市周辺の著名古墳群を巡ります。

先ず宇治市の二子塚古墳は、6世紀初頭に築造された、古墳時代後期の山城地方最大の前方後円墳で、全長約112mにも及ぶ。

京阪電鉄・黄檗駅北側の西方寺裏の竹藪に、宇治二子塚古墳の一部が眠る。







写真は上から、宇治市木幡町の二子塚古墳公園入口及び本古墳濠越しの正面と右側光景。

大正年間に土取りで後円部が破壊されたが、前方部とその西南側に、今も水をたたえた周濠と高い外堤が残り、往時の偉容を今に良く伝えている。

本古墳は、残念ながら大正時代に京阪電車宇治線の建設時に歴史的解明もされないまま取壊され、盗掘よりもひどく散逸した史跡の一つだが、本古墳の内堀の一部だけが破壊を免れている。

二重に巡る周濠を持ち、埋蔵施設は後円部が破壊されているため不明ではあるが、横穴式石室であったと見られている。二重の濠をもつ古墳は全国的にも珍しい。

このような二重濠を持つ古墳は、仁徳陵古墳のような少数の大型古墳だけであり、この古墳も大王陵クラスの古墳として注目される。

この古墳の背後の山稜には、栄華を極めた藤原一門の墳墓として御陵にされている“木幡・宇治陵墓”と周辺の住宅街に点在する墳墓群が、実は150~200基近くあったと云う。





写真は、本古墳が眠る、西方寺西側に広がる竹薮及び西方寺東側の京阪宇治線。

本古墳の後円部は、京阪宇治線の建設時に破壊され、前方部のみ発掘調査の結果、石室の基礎遺構が発見され、長さ18m・幅9m・深さ4.5m以上あり、その中に礫が敷き詰め込まれていたと云う。

石室の石材には、3mもの巨大な石を使っており、石室の大きさを含め、京都府下最大級であったらしい。又銅鐸や埴輪も検出された。

本古墳は、突如として宇治川東岸に出現した大型古墳であり、6世紀代のものとしては全国有数の規模を持つ。

しかしその出現には謎が多く、継体天皇墓とみなされている、淀川を挟んで対岸の高槻市今城塚古墳と形が似ていることから、本古墳の被葬者は継体天皇擁立にかかわる重要な人物であったと見られ、例えば継体朝の内乱の時に山城地方の支配権を握った首長墓と考えられている。



京都市山科区の御廟野古墳・天智天皇陵とは!そのⅡ

2009年08月22日 | 歴史
前回に続いて、天智天皇陵を巡ります。

考古学的には御廟野古墳と呼ばれているが、実際は宮内庁管理下の陵墓である、上円下方墳で、下段が方形、上段が八角形の古墳。

八角形の規模は、上円対辺長約46m・下方辺長約70mを測ると云う。











写真は上から、御廟野古墳・天智天皇陵の案内板、陵墓正面、側面ビュー、石碑及び天智天皇ゆかりの日時計碑。

周囲に玉垣をめぐらした上円下方墳で、入口に天智天皇が日本で最初に時計を作ったという故事にちなんだ、石造りの日時計がある。

御陵が上円下方墳で、上円部が八角形という特殊性は感じ取れない。

本古墳は、被葬者の実在性について、天皇陵古墳であることに問題がないと云われているだけに、「天智天皇陵」と呼称しても、間違いのない古墳。

このような古墳は非常に稀で、他には天武・持統合葬陵の“野口王墓”があるだけらしい。

八角墳は7世紀の中葉になると、大王墓のみが営むようになり、現在知られているかぎりでは、天智天皇陵のほかは、奈良県桜井市の段ノ塚古墳の現舒明天皇陵、上述の奈良県高市郡明日香村の野口王墓の現天武・持統陵、一般に文武天皇陵と考えられている奈良県明日香村の中尾山古墳だけ。

日本では初めて大王に、八角墳という固有型式の陵墓が出現したといえる。

第38代・天智天皇は、別名・天命開別尊(あめみことひらかすわけのみこと)で、大化改新で知られている中大兄皇子。

天智天皇(626~671年)の皇子時代の名は中大兄皇子で、中臣鎌足らとクーデターを起こして蘇我入鹿を暗殺、大化改新を成し遂げた人物として有名。

663年、百済復興を目指した白村江の戦いで大敗を喫した後、大津へ遷都して大津宮で即位。歴史的には天智天皇は671年12月、大津宮で崩御。

御陵の土地選定中に皇位継承をめぐり、息子の大友皇子と弟の大海人皇子(天武天皇側)との間に壬申の乱が起こり、反乱者である大海人皇子が勝利するという、例の少ない内乱であった。

天智天皇の死後28年後にようやく御陵造営が始まったらしい。

天智天皇の死は、弟の大海人皇子による暗殺という説もあるらしい。




京都市山科区の御廟野古墳・天智天皇陵とは!そのⅠ

2009年08月20日 | 歴史
御廟野古墳・天智天皇陵は、京都市山科区御陵上御廟野町に所在する古墳時代終末期の八角墳。

広大な御陵周辺は、地名からして、御陵一色に染められている。

天智天皇は、大化の改新のパートナー・中臣氏の邸宅があった山科に葬られたとされる。又京都の山科に墓を造ったのは、天智天皇が馬で山科に行った時、行方不明のまま戻らなくなり、沓だけがここで見つかったので墓を造ったという伝承によるとも云われている。

山科は、京都市街地の東側にある山科盆地の北部と、周辺の山地を範囲としている。東海道の街道町で、江戸時代には特に栄えたらしい。

東側は滋賀県大津市との県境に接し、南側は伏見区醍醐地区と接している、閑静なベッドタウン。







写真は上から、琵琶湖から流れる、琵琶湖疏水・山科疎水の風景と、天智天皇陵への誘導路と参道。

天智天皇陵の直ぐ北側には、写真のように、松並木に囲まれた琵琶湖疏水の流れが見えるが、当地は隠れ桜の名所としても知られている。


京都市伏見区の黄金塚古墳とは!

2009年08月18日 | 歴史
黄金塚古墳は、桃山丘陵の南端、宇治川と山科川の合流点近くに造られた前方後円墳。

同1号墳(全壊)は推定全長約100m、前方部が著しく発達しているが、出土遺物はない。

2号墳は推定全長120m、前方部が破壊されているが、後円部は発掘調査によって、地表下約3mの地点から墳丘裾部に沿って据えられた埴輪列が発見され、後円部は、直径約66m・墳丘の高さ約8.5mあることが判明。

副葬品・埋葬施設や円筒・形象埴輪など出土埴輪の内容から、古墳時代前期後葉に位置づけられ、東山城地域では最初に築造された前方後円墳と見られる。

5世紀にはいると、大岩山南麓には黄金塚1号墳・2号墳が、稲荷山西麓には、仁明陵北方古墳・番神山古墳などの前方後円墳が築かれていることから、伏見一帯を支配した首長が存在していたことが分かる。古墳を築いたのは4~6世紀にかけて渡来した秦一族ではないかと云われている。

秦氏は、嵯峨野一帯を中心に京都盆地一帯へと勢力を浸透させ、長岡京や平安京の造営にも財政面や技術面で大きな役割を果たした。更に秦氏は稲荷大社のほかに、松尾社・加茂社など京盆地の各所に農耕神をまつる多くの神社を残している。

伏見の地も秦一族の拠点であり、大和朝廷にとっても山背における有力な拠点として、ここに屯倉(ミヤケと読み、大和朝廷の直轄地)を置いて、土地や人びとを支配していたと云う。

墳頂部には五輪塔があり、桓武天皇皇子・伊予親王の陵墓「巨幡墓」となっている。





写真は、黄金塚古墳の宮内庁陵墓参考地の標識・伊予親王巨幡陵入口。

住宅地の真ん中にある遠山第二公園という小さな公園と桃山台駐車場というミニ駐車場の間を入る小径を進むと一見したところ築山のような小丘がある。

ここに全長約120mの前方後円墳であったとは想像できない。前方部は全壊されているが、取り残されたような小丘が後円部の名残。
墳丘部の鉄柵の中に小さな石の五輪塔がある。直ぐ南側には民家の軒先が迫っている。

このように半壊された古墳が、後円部の一部は伊予親王の巨幡陵に比定されているとは?

しかし被葬者は、伊予親王とされているが、古墳自体の築成年代とは、全く合致しない。

この古墳は規模・立地から、周辺地域一帯を掌握していた秦一族の首長墓と考えられている。

伊豫親王は807年没とされ、桓武天皇の第3皇子で、母は藤原南家・藤原是公の娘吉子。

伊豫親王は、藤原式家・藤原仲成の陰謀の犠牲となって、反逆の首謀者であるとして、母の藤原吉子とともに川原寺(弘福寺)に幽閉され,絶食した後に毒を飲んで自害したとされる伝説で有名。後に親王の無実が判明したらしいが。


京都市西京区の天皇の杜古墳とは!

2009年08月16日 | 歴史
これからは、京都市右京区以外の貴重な古墳について巡ってみる。

天皇の杜古墳は、総面積約1万㎡・墳丘部約3千㎡・周濠部約7千㎡・墳丘部の全長約83m・前方部の幅約33m・前方部の高さ約5m弱・後円部の幅約50m・後円部の高さ約7mを有する巨大な古墳。

本古墳は、古墳時代前期(4世紀代)に築造された、市内で最大級の数少ない前方後円墳で、当時桂川右岸を支配していた豪族の墳墓と考えられている。







写真は上より、天皇の杜古墳、後円部の墳丘及び記念石碑。

真上の写真は、本古墳が前方後円墳であることを窺わせるし、その下の写真からは、後円部の墳丘が覗く。

この古墳が、「天皇の杜」と呼ばれている理由は、地元では古くから「文徳天皇(平安時代の天皇)の御陵」として語り継がれ、また「御陵さん」の呼び名で畏敬と親しみをもって今日まで護られてきたため。

しかし文徳天皇陵は、平安以降の相次ぐ戦乱の中で、陵墓の場所は不明となっている。

本古墳の保存状態がよく、歴史的・学術的価値が高いことから大正11年に国の史跡に指定された。

この地帯は、古来より交通の要衡で、稲作が行われていた周辺の平野を見渡せる格好の場所だったらしい。

京都市では、本古墳の保存と活用を図るため、昭和56・57年に周濠部と見られた周辺地域を公有化し、国有地の墳丘部を併せて昭和63年から保存整備事業に着手、発掘調査に続き墳丘部の整備と周濠部の緑化工事を進めたと云う。





写真は、丹精に整備された周濠を含む古墳側面及び史跡公園の記念石碑と看板。

平成6年に史跡公園として、市民が広く文化財に親しめる場、又は古代史学習の場として利用できるように整備されている。

写真の通り、現在では本古墳の周辺は住宅地が密集しているが、乱開発のためか、区画が入り乱れ通路・歩道がややこしく、分かりにくい。

保存整備事業の一環として整備の基礎資料を得るため、昭和63年から2年をかけて発掘調査を実施した。

墳丘部斜面には葺石が、またテラスには、埴輪列がすべてに及んでいることが判明。円筒埴輪・朝顔形埴輪などが出土したらしい。

しかし、本古墳は台地の上に墳丘を盛り上げて造られたと推定され、周囲に濠を巡らした古墳でないことも判明。



京都市右京区御室双岡町の双ケ丘古墳群とは!そのⅡ

2009年08月14日 | 歴史
双ヶ丘古墳群について、更に続けます。
双ケ丘古墳群の中で、小規模な古墳が次々と築造され、5世紀末から6世紀初頭に始まり6世紀後半の最盛期を経て、7世紀前半に衰退していった。

これら小規模古墳の被葬者は、墳丘規模・内部構造、更にその圧倒的な古墳数から見て一部の支配階級ではなく、より広範な階層の人々と考えられる。双ケ丘内には2群で20余の円墳が確認されている。









写真は上から、比叡山をバックにした双ケ丘丘陵の光景、一の丘頂上木々の間から覗き見られる仁和寺の杜、同じく頂上から望む洛西方面及び北西の嵐山方面の光景。

双ケ丘丘陵は樹林に覆われ、優美な外観は、古来より歌に詠まれ、頂上からの眺望には目を見張るほど。仁和寺の南に広がる、この小丘は『双ケ丘』と呼ばれ、昭和16年に名勝に指定された。

双ケ丘は北から南に向かい、次第に低くなる三つの丘から構成され、北側から順次一の丘、ニの丘、三の丘と呼んでいるらしい。

京都には緑が少ない。人口50万人以上の都市の中でも、緑地がすくない街に入るらしい。

見渡せば山に囲まれ、緑が多いように思われるが、意外に街路樹は少なく、街中の公園も少なく、お寺や神社の数は多いが土地の有効利用で境内が小さく、大きな樹木は少なくなった。観光都市、景観保全の看板が泣く。

そんな中、双ケ丘の存在は贅沢といってよいほど緑豊かな公園で、宮内庁管理の立ち入り禁止の御陵を横目に、市民が自由に散策できる全長約700m・標高100m余りの丘は、住民達の大切な宝物。

山頂からは秦氏が支配した京都西部の眺めが一望でき、古代の京都に思いを馳せることができる。




京都市右京区御室双岡町の双ケ丘古墳群 そのⅠ

2009年08月12日 | 歴史
御室双岡町の双ケ丘(ならびがおか)は、古代氏族・秦氏の城だったらしく、一の丘の頂上以外にも19基の古墳が確認されている。

妙心寺のすぐ東に位置する最高点が、標高116.2m(一の丘)の小高い丘で、平安遷都後のこのあたりは、天皇が鷹狩を行なう禁野の地として知られるようになり、貴族の別荘が多く建てられたと云う。

北麓に仁和寺・東北には妙心寺と云う国指定史跡があり、京都市内でも、有数の歴史的環境を保っている地域とされる。









写真は上から、双ケ丘古墳群のある“一の丘”遠景、仁和寺のある北側からの登り階段光景、及び116m余り登った頂上が双ケ丘1号墳墳頂広場。

双ケ丘1号墳の規模は、蛇塚古墳に次ぐ大きさで、径約44m・高さ約6.5m・石室全長約14.6m。道部の長さ約8.5m・幅約2.4m・高さ約2.3m、玄室は両袖式で、長さ約6.1m・幅約3.6m・高さ5mほど。

現在石室は、埋め戻されて石室内部を見る事はできないらしい。

その規模からみて、首長級の古墳と思われる。6世紀末から7世紀初頭の築造で、調査では金環・須恵器・土師器・鉄製品・石棺の破片などが出土している。

本古墳は、奈良県飛鳥の石舞台古墳に匹敵する大きさで、この地を治めた秦氏の墓と考えられている。

一の丘山頂付近で南西方向に開口していて、昭和55年の発掘調査により、巨石を使用した横穴式石室をもつ円墳であることが判明。

一の丘の頂上には、1号墳など大規模な古墳があるが、何度も盗掘されているため、被葬者はもとより造成の時期等ははっきりしない。





京都市右京区嵯峨野地方の古墳再利用方法とは!

2009年08月10日 | 歴史
平安時代の埋葬として忘れてはならないのは、古墳の横穴式石室を再利用するもので、嵯峨野古墳群の一基である広沢1号墳(右京区嵯峨広沢)では、石室内に火葬骨をおさめた木櫃を安置し、土師器皿・須恵器瓶子・銭貨などを副葬していた。

この際、家形石棺を砕き、その一辺に奇怪な神像を刻んでいることは興味深い。





写真は、広沢1号墳の掘り出された石室石材及び彫りだされた謎の人面石。

本古墳は、広沢池の南、堀川高校のグランド内にあり、祠がある隣の石室の石材には、写真のような謎の人面石像が鎮座している。

古墳の崩れたようなもので、昭和31年の調査では、すでに中は荒らされていたが、壊された石室石材の一部を採って、人面を刻んだものらしい。

同じく嵯峨野古墳群に属する音戸山5号墳(右京区鳴滝音戸山町)では、石室内に灰釉陶器の骨蔵器をおさめていた。

このように再利用された石室のほとんどには、須恵器小型瓶子(口縁部が細くなる小型の酒器)や銭貨などが副葬されており、そのような品物を使用する特別な埋葬儀礼の存在が窺われる。

京都市右京区嵯峨大覚寺の円山古墳とは!

2009年08月08日 | 歴史
円山古墳は、嵯峨大覚寺古墳群の一つであり、蛇塚古墳に次ぐ大きさの円墳で、直径約50m・高さ約10mを測り、周濠をめぐらした堂々たる後期古墳だが、陵墓参考地として宮内庁に管理され、一般人には残念ながら閉鎖されている。









写真は、円山古墳入口に掲げられた宮内庁の陵墓参考地の標識、古墳内部の光景、民家が差し迫った周辺状況及び北嵯峨高校グランドに隣接した、グランドのフェンス越しの、本古墳遠景。

嵯峨大覚寺の東南の台地には、四つの円墳があるが、1号墳は円山古墳、2号墳を入道塚古墳、3号墳を南天塚古墳、4号墳を狐塚古墳と称する大覚寺古墳群。

大覚寺と府立北嵯峨高校、さらに民家に取り囲まれたこの古墳群は、嵯峨野を支配した有力家族墓といわれるがその実態はわからない。

写真のように、北嵯峨高校のグランドの北側、こんもり繁った森の中にある。右側の樹木の枝が妙に堅く、柵代わりとなっている。フェンス越しに望む、この北側に最近出来た住宅の分譲地が隣接している。

蛇塚古墳に匹敵する大型円墳から、有力な豪族の墓であったと考えられている。

淳和天皇皇后・正子内親王の墓所との伝説があるが、2世紀も年代がかけ離れている。


京都市右京区の嵯峨野古墳群のうち甲塚古墳とは!

2009年08月06日 | 歴史
甲塚古墳は、直径約38m・高さ5.5mほどの円墳で、埋葬施設は巨石を用いて構築された、全長約14.4mの両袖型横穴式石室で、南西方向に開口していると云う。

嵯峨野一帯の古墳時代後期の円墳では、円山古墳に次ぐ規模で、この地域の秦氏・首長墓の系譜をひく古墳と考えられている。





写真は、植木屋の私有地に残っている甲塚古墳全景及び小さな社によって守られている墳墓。

写真のように、甲塚町植木屋の植木畑の中にある円墳で、いかにも植木屋らしい光景。一番高い所では周囲が70m位で、丸く高く兜の形をしているのでこんな名前がつけられたと云う。

奥の1番広いところに、写真のような小さな社が造られているが、これは後の人か造つたもので、太秦でも1番古い古墳ではないかといわれている。



写真は、甲塚古墳から出土した、両袖型の横穴式石室。

蛇塚古墳や天塚古墳など前方後円墳が主体の太秦地区に対して、甲塚古墳のある嵯峨野地区では、後期の円墳・方墳が主体となっているらしい。

写真の通り、石室が完存している。



京都市右京区太秦の蛇塚古墳とは!

2009年08月04日 | 歴史
蛇塚古墳は、古墳時代後期の6世紀末から7世紀頃築造された、京都府下最大の横穴式石室を持つ古墳。もともとは、全長約75mを測る前方後円墳で、昭和52年に国の史跡に指定された。







写真は、後円部玄室墳丘しか残っていない、住宅地真中の蛇塚古墳。
写真のイラスト通り、もともとは全長75mほどもあった前方後円墳。

しかし早くから墳丘封土が失われ、後円部中央で、巨石を積んだ横穴式石室だけが露出しているが、周囲の輪郭をたどると、現在でも前方後円墳の形をとどめている。

これらの巨石は堆積岩で、保津川から運んだと推定されている。





写真は上から、石室入口の石碑及び石室内部。

石室全長約17.8m・玄室長約6.8m・玄室幅約3.9m・玄室床面積約26㎡で、特に棺を安置する玄室は、奈良県の石舞台古墳よりも大きく、また床面積では、三重県高倉山、岡山県こうもり塚、石舞台古墳につぐ全国第4位の規模を誇っていると云う。

現在は崩落の危険があるため、写真のように、石室内部は鉄枠で補強されており、又石室の周囲はフェンスで囲われて施錠され、普段は出入りできないようになっている。

ここ太秦を含む嵯峨野一帯は、高度な土木技術・農業技術・機織技術などを持っていた、渡来系の秦一族により開発されたものと考えられており、京都盆地でも有数の古墳分布地区。

蛇塚古墳は、その規模や墳丘の形態などから見て、秦系・首長クラスの墓と考えられている。

なお、蛇塚という名前は、石室内に蛇が生息していたことから付けられた呼び名らしい。

嵯峨野・太秦古墳群の多くが半壊、全壊しまった。





写真は、住宅密集地の住宅が覗く、本古墳の巨大な石積み及び広隆寺。

住宅開発優先に負けた現実社会現象。経済効率優先の社会では、開発工事中の遺跡発見を迷惑がる人たちも多く、遺跡が多いことで、京都の経済的発展が遅れているという意見を述べる人さえいるのが現実。

本古墳は、京都最古の広隆寺を建立した“秦河勝”の墓との説もある。

と云うことで、生活圏が郊外へ広がるにつれ、古墳や史跡がどんどん侵食されていく。開発業者にとっては、掘り起こせば何かが出てくる京都は厄介な土地だとも言われているが??????





京都市右京区太秦の片平大塚古墳(伝仲野親王高畠陵)とは!

2009年08月02日 | 歴史
片平大塚古墳は、主軸方向をほぼ東西にとる、全長約65mの前方後円墳で、南側くびれ部には造出を有し、南側が平地で台地上にある。

「第50代・桓武天皇皇子・仲野親王高畠陵」(867年没)として伝承されているが、学術的には、この古墳は蛇塚古墳より少し古いので、仲野親王とは年代は全く合わない。







写真は上から、宮内庁管理下の陵墓を裏付ける看板を背景にした仲野親王高畠陵・片平大塚古墳遠景と正面及び厳重そうな栫柵。

本古墳は、太秦・垂箕山町にあり、宮内庁管理の形になっている。

5世紀後半から6世紀後半の古墳時代後期の主な前方後円墳は、太秦・嵯峨野一帯に集中しているが、その一つが片平大塚古墳で、秦氏が築いたものと考えられている。

当時ヤマト葛城地方から移住してきた渡来系の秦氏は、京都市東部と西部に勢力をもっていたと云う。

古墳時代後期に、この地域の首長墓として造られたものが、平安時代初期になって古墳の上に親王の墓を重ねて造つたと言われている。

桓武天皇の皇子といえば、平城天皇陵とされる、市庭古墳も陵墓に指定されているが、この時期、古墳を陵墓として再利用することが流行っていたようだ。




写真は、嵐山が覗き見られる、本古墳脇のお濠跡と民家に隣接したお濠跡。

写真の通り、本古墳の周囲に濠があったと思われる痕跡が、今現在も残っており、又主体部は横穴式石室ではないかと考えられている。

前方部が後円部よりはるかに大きいので、古墳が後期に造られたものと言われており、御陵であるため、古墳の状態は良好に保存されているが、古墳内部についは調査されていないと云う。