近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

武器用鉄器の多量埋納古墳の実例!そのⅢ

2012年03月30日 | 歴史
武器用鉄器の多量埋納古墳の実例として、黒姫山古墳の発掘事例を更に続けます。





写真は、黒姫山古墳から出土した円筒埴輪や靫形埴輪。

1947年の発掘調査では、後円部の埋葬施設は、盗掘により破壊され消滅していたが、形象埴輪列や須恵器片が出土したと云う。





写真は、本古墳から出土した甲冑や襟付短甲。

1947年の調査で、前方部中央から竪穴式石室が発見され、石室の中からは24領の甲冑をはじめ、盾・靫・矛・鏃など、大量の鉄製武具や武器が出土し、全国的に注目されるようになったと云う。

この石室は、長さ約4.3m・幅約0.7m・高さ約1.2mあり、副葬品を納めるために、砂岩の天井石8枚で覆われ、底には川原石が敷き詰められていた。

また、付属具として襟付短甲を含む甲冑24領のほか、鉄刀14・鉄剣10・鉄鉾9・石突6・鉄鏃56・刀子5などの武器が多数出土した。

甲冑の数は、一つの古墳からの出土数では日本最多と云う。

本古墳から出土した甲冑24領は、圧倒的な記録として考古学上貴重な資料。

この石室は、遺骸埋葬施設とは別に造られた、副葬品の埋葬施設と考えられており、本古墳の特徴と云える。

この調査より、黒姫山古墳は、5世紀中頃の古墳時代中期に、この地域で勢力を誇っていた丹比(たじひ)氏によって築造されたと考えられ、黒姫山古墳の被葬者は、丹比氏の首長の誰かと見られている。

また、中世の段階でかなり大規模な盛土がされており、城の砦として転用されていたことも分かっている。

洪積台地上に位置する当地は、もともと農耕には不向きであったが、丹比氏が池・溝の開発に必要な鉄製の鍬・鋤などを使い、叉渡来系の人々も総動員して、農耕を可能にしたことで、当地方で強大な勢力を創り上げたと想像される。

このことは、その権威を示す古墳が築造され、石室には大量の鉄製甲冑が埋葬されていたことで証明されている。

1957年、黒姫山古墳のもつ重要性から国の史跡に指定され、叉1978年には、周庭帯部分も追加指定され、1988年からは、国と府の補助を受けて、環境整備が実施されている。

1989年度から1992年度にかけて、史跡黒姫山古墳歴史の広場として整備され、古墳の東側には、写真の通り、前方部の竪穴式石室と墳丘上段部の埴輪列の一部が実物大で復元展示され、前方部の一部には円筒埴輪列が復元されている。

出土した大量の甲冑は、現在までに大半が保存処理を終え、堺市立みはら歴史博物館でその一部が展示されている。



武器用鉄器の多量埋納古墳の実例!そのⅡ

2012年03月27日 | 歴史
武器用鉄器の代表的な多量埋納古墳を、以下紹介します。

堺市美原区の黒姫山古墳は、堺市美原区黒山にある5世紀中頃築造と考えられる前方後円墳で、国の史跡に指定されている。

墳丘は、後円部に比べて前方部が高く、くびれ部北側に造り出しを付加し、周濠を巡らせている。

叉外部施設としては、墳丘斜面に葺石を施し、墳頂部外縁とテラスに円筒埴輪と朝顔形埴輪を巡らせている。
本古墳周辺には、築造当時少なくとも6基の陪塚的な小形古墳を伴っていたらしい。









写真は、黒姫山古墳の空撮と同古墳墳丘の様子で、二段築成の墳丘と復元された埴輪配列状況、本古墳のこんもりした現在の墳丘光景及び本古墳の周濠。









写真は、本古墳の案内板と石碑、同古墳周濠外の周庭の様子、同古墳の復元された石室内部の様子及び同古墳脇に復元された石室と埴輪列。

本古墳は、全長114m・前方部の幅64m・後円部の径67m・高さ11mほどの二段築成の前方後円墳で、百舌鳥古墳群と古市古墳群の中間に位置する。

本古墳の北側くびれ部に造り出しがあり、墳丘の周囲には幅約15m前後、深さ約2mの濠がめぐっている。平坦部の古墳としては珍しい、幅約5mの周庭が濠の外側を取り巻くように存在する。

写真のように、現在遊歩道が敷かれている周庭は、濠の外周に設けられ、周庭帯は、墳墓の範囲から除外されるのが通例らしい。

前方部の竪穴式石室は破壊され、詳細は不明。


武器用鉄器の多量埋納古墳の実例とは!

2012年03月24日 | 歴史
ここからは、武器用鉄器の多量埋納古墳の実例を紹介する。

鉄器を多量に副葬する古墳は、古墳時代中期には前方後円墳の前方部や陪塚に人体を埋葬せずに多量の武器用鉄器を埋納する「鉄器埋納施設」が出現し、鉄器の多量副葬の傾向が頂点に達したと云う。



写真は、仁徳天皇陵を巡る陪塚群。

中期の鉄器埋納施設は、遺体を納める施設から離れ、独立している点が特徴。

以下武器用鉄器埋納施設を有する古墳群は、写真のように陪塚に代表される、舌鳥・古市古墳群に圧倒的に多いが、ここで代表的な埋納施設を紹介する。

これら河内平野・大阪平野の古墳群、特に宮内庁管轄の陵墓や陵墓参考墓など巨大古墳の詳細は、明らかにされておらず、全く闇の中にある。

ここでは古墳時代中期に属する、人体を埋葬しない鉄器埋納施設を持つ古墳のうち、発掘調査が行われ、埋葬品が明らかになった古墳の一部を紹介する。




王朝交替説とは!河内王朝の大王は誰か?そのⅢ

2012年03月22日 | 歴史
百舌鳥古墳群・古市古墳群はヤマト王朝が河内王朝に替った証左であるとの説の信憑性について、更に続けます。

武器以外にも、古事記や日本書紀に記す“池溝”などの開発に関する伝承は、応神天皇・仁徳天皇の代にかけて数多くあり、又日本書紀には“大道”を高津宮の南門から丹比邑(たじひむら)に至る間に造ったとの伝えもあり、当時の河内王朝の権勢を現わしていると云える。



写真は、羽曳野市の誉田御廟山古墳・応神天皇陵空撮。

更に古市古墳群には45基の古墳が現存するが、全長約425mの応神天皇陵を筆頭に、墳長200m超の大型古墳が6基含まれ、5世紀代の河内王朝を担った大王墓域であったと考えられる。

5世紀前半の築造と見られる応神天皇陵には5基の陪塚を伴い、それらの陪塚からは人体を伴った埋葬施設と共に、武装用鉄製品が埋納されていたと云う。

このように大王墓と目される巨大前方後円墳と密接に関係がある陪塚に、多量の鉄製武器・武具・農耕具などが埋納されていることから、大王にとってシンボルのような重要な意味を持っていたと考えられる。

武器・武具が実際どれほど実戦に供せられたかは分からないが、実戦用として威嚇効果はあったと考えられる。

又別の陪塚からは鉄製武器・武具と共に、鉄鋌・インゴットが埋納されていた。

朝鮮半島からもたらされた鉄素材の流通経路についても、大王の権力を象徴するように、独占的な支配権を持っていたと考えられる。

生前の衣服や住居などの装飾は、時代とニーズにあわせて趣を変えるが、死後の世界を飾る副葬品は、その被葬者のアイデンティティの証明になることが多いだけに、軍事的色彩の強い河内王朝へと劇的変化を遂げたと云える。

これらの劇的ハプニングは、何らかの征服事件が勃発し、王権の交替があったと考えられる。その時期は4世紀の中盤以降で、副葬品が軍事的色彩濃いものに変化し、更に古墳が巨大化する。

4世紀の王権よりもはるかに強大な権力が構築されていたことを物語る。

478年の倭王武・雄略天皇が中国に朝貢した時から、隋王朝への第1回遣隋使(600年)までの間、中国王朝へは遣使朝貢せず、中国王朝を盟主とする冊封(さくほう)体制(周辺諸国との君主関係)からの自立化・独立化を目指したのが河内王朝であったと云うわけ。

中国では五胡十六国の時代で、朝鮮では三韓の初期段階であり、いわば東アジア激動の時代。

新羅系又は百済系騎馬民族の移動・征服行動があったのでは、と説く学者もいる。

彼らが一旦九州北部に滞留し、九州の人々を引き連れて来たならば、九州からの征服者とも云える。その征服王の名は不明だが、後に16代・仁徳、15代応神などや10代・崇神、11代・垂仁の時代が考えられる。
後の時代であれば、26代・継体や29代・欽明の頃が考えられるが・・・・・・。





王朝交替説とは!河内王朝の大王は誰か?そのⅡ

2012年03月20日 | 歴史
百舌鳥古墳群・古市古墳群はヤマト王朝が河内王朝に替った証左であるとの説の信憑性について、更に続けます。

宅地造成工事に先立ち、1949年に緊急の発掘調査が行われた。その結果、墳丘には葺石・埴輪列が確認され、また、前方部に4基、後円部にも4基の粘土槨が確認されたと云う。

そのうち遺体が埋葬された痕跡が認められたのは、前方部・後円部各1基のみで、他は副葬品のみであったと云う。埋葬施設は高野槙製の木棺であったらしい。











写真は、百舌鳥大塚山古墳から出土したガラス玉・勾玉・管玉など、斜縁二神二獣鏡、鉄製柄付手斧、鉤状鉄製品及び装飾象嵌付鉄鉾と鉄剣。

副葬品として、勾玉・管玉・櫛・銅鏡・鉄製の甲冑・短甲・刀剣・手斧・鎌・鋸・鉤状鉄製品・鉄鉾などが多数出土した。とりわけ、刀剣は300口を超えたと云う。

と云うように副葬品の中には、武具・武器が多い点注目された。

前方部墳頂付近には、椅子・壷・器台などのミニチュア土製品を伴う家形埴輪が出土している。恐らく祭祀用に使われたと思われる。

叉出土した大量の鉄製品などの副葬品は、コンテナ約100箱分にも上ったと云う。

1986年に堺市教育委員会により、墳丘の裾部の発掘調査が行われたが、この調査により、古墳の造営過程が確認されたらしい。

副葬品のうち、写真のような斜縁二神二獣鏡のほか、斜縁三神三獣鏡・位至三公鏡なども検出された。

叉写真のような鉄鉾から円形をした金の象嵌が見つかり、最古の象嵌文様と判明。鉄鉾は、被葬者の傍らに副葬されており、長さは50cmほど。

古墳時代の象嵌は、ほとんどが大刀で鉾は異例。象嵌文様としては、これまで国内最古とされてきた、5世紀後半の兵庫県・宮山古墳で出土した大刀の銀象嵌を半世紀遡る。その特徴から中国製とされ、中国との交流を深めた倭の五王の時代にふさわしい、有力豪族の活躍が偲ばれる。

この地域は、渡来人が居住して渡来文化の花を咲かせ、その文化はいまもこの一帯のあちこちに残されている。渡来系氏族は、百済からの渡来人とみられる葛井、津、船、西文、武生、蔵、田辺史、飛鳥戸などの氏名が記録されているらしい。

更に例えば、履中天皇陵の周囲には4基の陪塚が発掘調査されているが、中には副葬品だけを納めた陪塚が見つかり、そこからも多量の武器用鉄製品が出土したと云う。


王朝交替説とは!河内王朝の大王は誰か?そのⅠ

2012年03月18日 | 歴史
百舌鳥古墳群・古市古墳群はヤマト王朝が河内王朝に替った証左であるとの説の信憑性は?

古墳時代の4世紀末頃から6世紀にかけて、副葬品は大きく変貌した

4世紀までの玉・鏡・祭祀用鉄製品・鉄製農具などの呪術的・農耕的な副葬品から、5世紀には甲冑・馬具・金銅製武器用装身具などの軍事的・騎馬民族的副葬品へと劇的変化が起こった。軍事的な色合いが濃厚である。

例えば、百舌鳥古墳群は、大仙古墳・仁徳天皇陵をはじめ、全長が250mを超える大型前方後円墳が3基含まれているが、宮内庁の管理下に置かれ、埋葬施設や副葬品についての情報は極めて限られている。

中でも百舌鳥大塚山古墳は、全長168mほどの前方後円墳であったが、戦後の土砂採取により消滅した古墳。しかし道路工事に伴う発掘調査では、後円部に4基・前方部にも4基の粘土槨が確認され、そのうち6基の粘土槨は副葬品のみを埋納する施設だったらしい。

それらの粘土槨から出土した鉄製品には、甲冑・鉄剣・鉄刀・鉄鏃・鉄製柄付手斧など多くの種類が含まれるが、その総数は300点を超え、極めて多量の武器用鉄製品を納めていたと云う。

ここで、百舌鳥大塚山古墳を紹介する。

百舌鳥古墳群は、大阪上町台地に繋がる、広い台地の西部の低・下位段丘を利用して造られ、その台地には百済川が谷を刻んで西流している。即ち百済川の北側に半島状の地形ができているが、そこに百舌鳥古墳群がある耳原地区。





写真は、百舌鳥大塚山古墳の南を流れる百済川光景と同百済川沿いのマンション開発状況。

3世紀には渡来人が移住してきたといわれているが、百済川の北に住んでいた百済人は鉄を作り、鉄が副葬された古墳造りにも土木技術で貢献したらしい。

その後、百済川の南に新羅人が移住してきたが、彼らが作り出したのが須恵器で、堺市は朝鮮半島を中心とした、人と文化の国際交流の最先端の役割を演じていたと云える。

堺市耳原の古墳群は、百舌鳥古墳群の中では古いほうで、巨大な大仙古墳から比較的小さな乳岡(ちのおか)古墳まで大きさはまちまち。



写真は、百舌鳥大塚山古墳の案内板が立てられた上野芝町公園。

ここを先端に南側に本古墳が所在。

この半島状のような地形の中で、百舌鳥大塚山古墳は、堺市西区上野芝にかつて存在した古墳で、履中陵古墳の南約400mに位置する西に向けた前方後円墳。

本古墳は、5世紀前半の古墳時代中期の古墳だが、陵墓や史跡等に指定されていなかったことから、残念ながら戦後の宅地造成で消滅した。





写真は、左側が百舌鳥大塚山古墳の1948当時の空撮及びその後開発が進んだ、現在の古墳跡の様子で、写真の通り、残念ながら住宅地に変容してしまった。

墳丘の全長約168m・後円部径約96m・高さ約14m・前方部幅約113m・高さ約12mの前方後円墳で、百舌鳥古墳群では第5位、全国でも第54位の大きさを誇っていたらしい。

墳丘は三段築成、くびれ部には造り出しがあり、周濠がめぐっていたと云う。









写真は、区画整備された百舌鳥大塚山古墳跡の住宅地光景、住宅地道路先に覗く履中陵の遠景及び同古墳の輪郭を残し屈曲した道路の形状。

1949年に墳丘が削られ、周濠も埋め立てられ、地上から姿を消したと云う。

また、かろうじて残っていた墳丘の裾部も、1986年の宅地造成工事により全て削り取られてしまったらしい。

戦後に破壊された古墳として最大規模であり、現在は、写真の通り、道路の形状に輪郭の痕跡を残すのみ。

宅地造成工事に先立ち、1949年に緊急の発掘調査が行われた。その結果、墳丘には葺石・埴輪列が確認され、また、前方部に4基、後円部にも4基の粘土槨が確認されたと云う。










ヤマト古墳群と河内古墳群の生立ちとは!

2012年03月16日 | 歴史
河内古墳群とヤマト古墳群との違いについて更に続けます。

大王墓の移動説を裏付ける背景として、古墳群の構成原理の違いに関して、具体的にどのような内容を指しているのかを説明する必要がある。

先ず、大和古墳群からみていくと、19基の前方後円墳、前方後方墳、円墳から構成されている。すべて前期の前方後円墳と前方後方墳から成り立っていると云える。



写真は、天理市の西殿塚古墳後円部からの光景。

これらの前期古墳群は、最大の西殿塚古墳が墳丘長219m、最小の火矢塚古墳が墳丘長49mを測り、古墳の大きさにかなりのばらつきがあることが分かる。即ち大和古墳群の群構成は、墳形や規模のバラエティに富む。

一方、大阪柏原市から羽曳野市にまたがる玉手山古墳群を見ると、前期の前方後円墳は14基を数え、数の点では大和古墳群と遜色がない。



写真は、柏原市の玉手山古墳3号墳墳丘光景。

しかし、玉手山古墳群のほとんどは、墳丘長が100m以内にとどまっていて、大きな差のないこと点が注目される。

玉手山古墳群は、大和川と石川の合流点を望む玉手山丘陵上に位置し、4ないし5系列の首長が政治的な同盟関係を基礎に玉手山丘陵を共同の墓地として古墳造りを行なったと考えられる。

その首長相互には、古墳の墳形や規模を見るかぎり、力の優劣はあまりなかったと推測される。

首長の力の優劣が古墳の墳形や規模に反映していると見れば、大和古墳群は、西殿塚古墳のような大王墳を頂点にして、階層的な古墳群構成をなしていると解釈できる。

大和古墳群(奈良盆地の東南の山麓に沿って、南から纏向古墳群、柳本古墳群、大和古墳群の三つの古墳群)が大王を頂点とする階層的な構成の古墳群に対し、玉手山古墳群は均質的な構成による古墳群と評価することができる。

大和古墳群と玉手山古墳群は、前期の前方後円墳を主とする古墳群だが、群の構成原理には、かなりの違いがあることが分かる。

玉手山古墳群の存在が、後の古市・百舌鳥古墳群の成立と、その後の展開に大きくかかわっていると考えられる。

河内の代表的な前期古墳群の玉手山古墳群と、大和の代表的な前期古墳群の大和古墳群を比較すると、両者の量的・質的な差異は歴然としている。

ということは、古市・百舌鳥古墳群の成立を河内勢力の台頭に求めるのは難しい。

一方ヤマト古墳群を考えてみると、奈良県東南部に分布する多数の古墳は、初期ヤマト政権の築造に関わるものとして注目されてきたが、これらの古墳群は桜井市にあるメスリ山古墳と茶臼山古墳を除けば山の辺の道にそって、四つの古墳群に大別される。

すなわち南から三輪山麓の纏向古墳群、竜王山山麓の柳本古墳群、その北方の大和(おおやまと)古墳群、さらに北の東大寺古墳群。

そしてそれらの古墳群から想定される四つの勢力は、消長を見せながら佐紀古墳群の時代にはほぼ一つにまとまったように見える。

初期ヤマト政権が最初から一つにまとまった強い勢力ではなく、「四群があることは少なくとも四つの小勢力の合同体であったことを意味する。」という考え方もあり、このことは日本書紀が主張するような従来のヤマト政権に対する見方の変更を迫るもの。

特に1994・95年に相次いで発掘された大和(おおやまと)古墳群の中山大塚古墳が前方後円墳で、すぐ近くに位置する下池山古墳が前方後方墳であると云うように、双方が存在する様相があまりにも違いすぎる。

大阪平野の巨大古墳群の特徴及びヤマト古墳群との違い!そのⅠ

2012年03月14日 | 歴史
ここからは、百舌鳥古墳群と古市古墳群の被葬者は、ヤマト王朝に替って河内王朝成立を裏付ける大王墓か、或いはヤマト王朝の出先として河内に進出した大王墓か、改めて考えてみたい。

堺市の百舌鳥古墳群、羽曳野市・藤井寺市の古市古墳群は、巨大な前方後円墳を擁する大王古墳群として知られ、4世紀末頃から6世紀後半頃に築造された。

先ず、これら巨大古墳群の生成・発展の歴史的背景について辿ってみたい。

これら古墳群について、今日まで試行錯誤してきた疑問符は、5世紀、何故急に応神・仁徳が、“なにわ”にあらわれるのか、河内王朝があったのか、ヤマトの勢力交代があったのか、ヤマト政権をくつがえしたのか、九州からの征服勢力があったのか、アジアからの騎馬民族の攻め込みか、ヤマト王朝が河内に勢力を拡大したのか、等々壮大な疑問や謎が立ちはだかる。

現状考古学者たちも、「それらしい」歴史の大ストーリーを構築できていない。

従ってこれまで積み上げたストーリーに想像力を加え、ジグゾーパズルを解きほぐしてみるのも興味深い。

☆ヤマト王権のもとで、大王墓の河内移動説

巨大古墳群の故郷、河内と大和は、同じ王権だったのか、列していたのか、その場合、対立していたのか共存していたのか、交替したのか等々の命題は、宮内庁が「陵墓」を研究者に公開し、発掘調査を認めるまで解く事ができないと見られる。



写真は、堺市の大仙古墳・仁徳天皇陵空撮。

例えば仁徳陵・大仙古墳の被葬者がだれで、いつの年代に造られたものかを知ることなしには、交替も並立も証明できない。現在の5世紀という築造年代も、外見からの推定にすぎない。

次に、生産力の問題が十分解明されていない。世界有数の墳墓が築造されるためには、背後に膨大な富の蓄積がないと不可能。

ピラミッド建築を支えたナイル沿いの麦農耕の規模は、かなり明らかになっているらしいが、河内や大和の米の生産量は、これまでの発掘調査では余り大きくないと云う。

仮に当時、奈良盆地では米が多量に収穫され、河内では少なかったとするなら、河内と大和の巨大墳墓群を支える生産力はほぼ同一と推定されることから、両者は同じ王権で、ただ単に墳墓・宮廷の場所が生駒を超えたかどうかというだけの違いにすぎない。

しかし残念ながら河内の水田跡は少な過ぎる。
更には、富を生むのは稲作農耕だけとは限らない。

鉄器・陶器・塩などの生産は河内・和泉で盛んであったことから、河内を独立した王権と考える場合は、これが一つの有力な材料になりうるが・・・・・。

また、交易・貿易大国であったと考えることもできるが、当時の船の大きさや東アジア地域の経済力の薄さを考えると、無理がある。
 
今後水田跡が続々発見されるとすれば、大阪東部のいわゆる「河内湖」周辺と見られるが、淀川と大和川の水をいったん貯め込んだ、この巨大で浅い河内湖は、上町台地に排水溝を掘るという古墳時代の大工事によって急激に面積を縮小させた。

その跡地の湿地は、格好の水田になったはずで、これが河内・和泉の巨大墳墓を支えた経済力であったと考えることもできる。





写真は、堺市の百舌鳥古墳群のマッピングと羽曳野市と藤井寺市の古市古墳群のマッピング。

しかし、百舌鳥と古市の巨大古墳群の立地を見ると、対外政策の必要性を重視したとしか思えない。

瀬戸内から大阪湾を航行または陸行してきた西日本、あるいは朝鮮や中国からの交易者・外交官などは、まずは大阪湾の先、三国ケ丘丘陵上に、葺石で白く輝く巨大な人造物・百舌鳥古墳群を見つけて驚嘆したはず。



写真は、竹之内街道のマッピング。

彼らがさらに東へ、奈良盆地に進もうとすると、その途上の街道(大和川沿いに王子方向へ、あるいは分岐して石川・飛鳥川沿いに竹内街道越え)からは古市古墳群の、やはりピカピカと輝く巨大な墳墓を眺めながら進んだはず。

このような効果は絶大であったと思われ、意図的に立地を選んだと考えられ、「ここで経済的生産力が高まったから宮廷や墳墓を造った」というより、「ここが外交上効果的だから造った」という意図が見える。

ということで、河内と大和の王権は一体であった、という説は説得力がある。百舌鳥と古市の古墳群は、古代の対外アピールを兼ねた墳墓モニュメント地域であり、王の墓地は必ずしも王の住居に築造する必要はなかったはず。





世界遺産候補の「古墳」、ただの「塚」だった!

2012年03月11日 | 歴史
最近報道された、遺跡・古墳などの最新情報を引続き紹介します。

大阪府などが世界文化遺産登録を目指す「百舌鳥・古市古墳群」(4世紀後半~6世紀前半)の構成資産候補とされていた堺市内の古墳2基が、中世以降に土を盛って築かれた塚であることが、堺市教委の調査で分かった。

 2基は候補から除外されたが、同古墳群では、ほかにも調査が必要な古墳が多く、国連教育・科学・文化機関(ユネスコ)への正式推薦までに、さらに絞り込まれそうだ。





写真は、堺市の聖塚古墳と舞台塚古墳。

除外された2基は、1辺54mほどの、3段築成の方墳である聖塚古墳と、南西約500mの舞台塚古墳。

府などは2007年、この2基を遺産の構成資産候補に含めて文化庁に提案。

しかし09年度に市教委が初めて聖塚古墳を発掘したところ、墳丘とされていた部分の最下層で江戸時代の磁器が出土し、18世紀以降の築造と判明。

舞台塚古墳でも13世紀頃とみられる土器が見つかり、市教委は、古墳の可能性が極めて低いと判断した。



縄文時代にも大規模な彗星衝突か?米などの研究チーム

2012年03月08日 | 歴史
最新の史跡・遺跡情報を、引続きご案内します。

6500万年前に小惑星の衝突がチリを舞い上げ、気候変動をもたらし、恐竜が絶滅したことは定説になっているが、日本では縄文時代に当たる1万2900年前にも、同様な彗星などの空中爆発か衝突が北米であったらしいことがわかった。



写真は、彗星が地球に衝突したイメージ。

この時期には、急速な寒冷化や人口減少が起きており、人類はすでに破滅的な天体衝突を経験していたことになる。

 米科学アカデミー紀要にメキシコや米国などの研究チームが発表する論文によると、チームはメキシコ中部のクイツェオ湖にある1万2900年前の地層を分析。

通常は見られない、急激な加熱と冷却によりできたダイヤモンドの微粒子などが含まれていたことから、山火事や火山噴火ではなく彗星などの空中爆発や地上への衝突が起きたと結論づけた。

 1万2900年前は、ヤンガー・ドリアス期と呼ばれる寒冷期が始まったころ。気温低下が続き、北米では人口が減少したり、大型の哺乳類が絶滅したりしたことがわかっているらしい。








奈良市の宇和奈辺古墳陪塚からインゴットが出土、河内古墳群との関係とは!

2012年03月06日 | 歴史
ここでは奈良市古墳での一大発見を紹介します。

奈良市法華寺町にある、宇和奈辺古墳は古奈辺古墳の東にある全長約265mの大型の前方後円墳。二重の濠堀があったことが確認されている。

平城京造営に際し、当古墳の外濠が埋められ、南側は“北京極大路”となった。





写真は、宇和奈辺古墳全景及び国道からの遠景で、左側の森が宇和奈辺・右が古奈辺古墳。いずれの古墳被葬者とも不明。





写真は、古奈辺古墳全景と御濠側面。

宇和奈辺古墳の西側が全長約210mの古奈辺古墳。ともに古墳時代中期の前方後円墳で、陵墓参考地に指定されているが、被葬者は不明。

宇和奈辺・うわなべは、ウワナリ(前妻の意)が訛ったもので、古奈辺・こなべは、コナミ(後妻)が訛ったものと云う。被葬者のヒントが秘められていそうだが・・・。

古奈辺古墳は、江戸時代には第44代の女帝・元正天皇陵(748年没)という説もあったらしいが、これまた年代が符合しない。

宇和奈辺古墳脇には、現在破壊されてしまったものの、大和6号墳という陪塚があり、そこからは貴重な鉄製品が多量に発見された。

ヤマト大王権力に連なる古墳と共通性が指摘され、密接なかかわりが推測される。



写真は、大和6号墳から出土した鉄鋌・鉄のインゴット。

大和6号墳の粘土槨から、鉄鋌872点のほか、鎌・鋤・鍬先・斧・刀子・ヤリガンナなどが出土した。
鉄鋌の数は一つの古墳からの出土数としては日本最多と云われている。

鉄器を多量に埋葬する古墳は、古墳時代前期からあったが、中期には前方後円墳の前方部や陪冢に人体を埋葬せずに、多量の鉄器を埋葬する「鉄器埋葬施設」が出現した。

中期の鉄器埋葬施設は、遺体を納める施設から離れ、独立している点が特徴。

宇和奈辺古墳は、佐紀盾列古墳群中で最大の古墳であり、奈良佐紀の地に所在する古墳時代前期後葉から中期にかけて営まれた、ヤマト政権の王墓を多く含む古墳群。

古墳時代中期と云えば、河内には百舌鳥古墳群と古市近墳群が併存し、大仙古墳・誉田御廟山古墳などに代表される、超大型古墳群は大王陵と見られ、大王の喪葬に関与した、奈良の豪族・土師氏の拠点が河内にもあったことと関係があるとも云われている。

河内における5世紀代、巨大古墳の濃厚な分布は、王権の政治的基盤を反映するもとではなく、喪葬関係にたずさわった土師氏の拠点があったからと云う。

と同時に、これら巨大大王陵は、河内湾を航行する海外使節団などの船上から見えたに違いなく、当時の優勢なヤマト王権の政治勢力を誇示する拠点として、河内に進出したとも考えられる。





飛鳥京、巨大な整地跡 トラック3500台分の土盛る!

2012年03月03日 | Weblog
飛鳥時代に複数の天皇の宮殿が置かれた奈良県明日香村の飛鳥京跡で、7世紀後半ごろの大規模な整地跡が見つかったと県立橿原考古学研究所が今年2月27日発表した。

近くの山から運んだ3万トンを超す大量の土で谷を埋めて造成したと推測され、飛鳥京造営の様子を知る手がかりになるという。






天皇の宮殿などがあった内郭の外側(北東部)で、長さ165m・幅6mを調査。

厚さ約1m分の造成された土が確認された。土は東側の山から削ったもので、湧き水が多い軟弱な谷の地盤を安定させていた。

橿考研が昨年度、南側で実施した調査や周辺の地形を考慮すると、造成地は東西150m・南北180mほどの広さに及び、10トントラック約3500台分の土を厚さ0.5~1.0mにわたって盛ったとみられている。


竹内街道の歴史を巡ってー推古・用明・孝徳天皇など!そのⅢ

2012年03月01日 | 歴史
推古・用明天皇陵巡りを更に続けます。



写真は、聖徳太子の父・用明天皇陵。

御陵隣接の白壁塀と門構え、如何にも御陵の管理事務所と間違えそうだが、実は民家がこれほどまでに隣接している今日的な典型姿。



推古天皇の皇太子として執政を取った聖徳太子

聖徳太子あ、叡福寺に生母・妃と共に合葬されている。

現在では、聖徳太子信仰の霊場として位置づけられている。



竹内街道沿いの孝徳天皇陵、太子町では一般的な円墳の一つ。

ここでも民家に隣接し、近所には小川が流れているが、恐らく当時の周濠ではなかったか?

推古天皇が切り開いた中国大陸への大道・竹内街道沿いの磯長谷(しながだに)王陵群は大阪府太子町にある、天皇陵を中心とした古墳群であり、大化の改新前夜の古墳群でもあるが、何故二上山を挟んで、奈良県飛鳥地方の天皇陵と別けへだてたのであろうか?

太子町の博物館である「近つ飛鳥博物館」は、奈良県明日香村の飛鳥資料館と区別している苦悩を感じつつ、一方ではあえて「近つ」と表現・強調している様にも思える。

中国・朝鮮半島へ通じる大道・入口として、又中国文化への橋渡しとしてこの地をあえて選んだのであろうか?

磯長谷は、用明天皇から孝徳天皇に至る蘇我氏系人物の陵墓だっただけに、当時の影の権力者として、その権力を誇示する為に、あえて奈良県飛鳥ではなく、この地を選んだのであろうか?

いずれにしても、今後の研究テーマとして更に調査を進めるに値する興味津々のテーマではある。