貝塚時代の末期には、農耕社会に変化していくことが明らかになってきた。
狩猟・漁労・採集に生活の基盤を求めていた時代から、10~12世紀には農耕により、自然にチャレンジする新しい生活文化が定着していった。
しかし琉球列島の各島々がどのような変化をしていったかは、良く分かっていない。
ただ貝塚時代には全く異なる文化圏にあった、琉球列島の中部圏と南部圏が、ほとんど同じような農耕社会が芽生えるようになり、“琉球文化圏”として同じような歴史の歩みが始まった。
やがて鉄器の使用と生産力の高まった農耕社会の形成に伴い、これまでの沿岸砂丘地から農耕に適した水源地近くへの人々の移動が見られる。
写真は、那覇市の“渡地村遺跡”から出土した、当時の“中国産陶磁器”。
12世紀頃には、例えば長崎県西被抜杵半島を中心に生産されていた、滑石製石鍋や中国産の陶磁器などが、琉球中部から南部圏までの全域に及ぶ広い範囲にわたって見つかっていると云う。
貝塚時代には見られなかった器物の発見は、それらが生産された地域との交易・交流を示している。
中国や日本本土・朝鮮半島など周辺地域の発達した技術・文物の流入は、琉球列島の地理的な位置にも恵まれ、周辺地域との関わりが琉球列島の社会変化に大きな影響を与えたらしい。
12世紀頃の琉球列島には、“グスク”が造られ始め“グスク時代”に入っていくが、この時期は本格的農耕が行われただけでなく、海外交易も盛んになり、次第に“按司”(あじ)と呼ばれるムラの有力支配者が現われ、互いに勢力争いを始めた時期。
グスクには城・集落・聖城としての機能を持たせ、規模・形態も様々であった。
狩猟・漁労・採集に生活の基盤を求めていた時代から、10~12世紀には農耕により、自然にチャレンジする新しい生活文化が定着していった。
しかし琉球列島の各島々がどのような変化をしていったかは、良く分かっていない。
ただ貝塚時代には全く異なる文化圏にあった、琉球列島の中部圏と南部圏が、ほとんど同じような農耕社会が芽生えるようになり、“琉球文化圏”として同じような歴史の歩みが始まった。
やがて鉄器の使用と生産力の高まった農耕社会の形成に伴い、これまでの沿岸砂丘地から農耕に適した水源地近くへの人々の移動が見られる。
写真は、那覇市の“渡地村遺跡”から出土した、当時の“中国産陶磁器”。
12世紀頃には、例えば長崎県西被抜杵半島を中心に生産されていた、滑石製石鍋や中国産の陶磁器などが、琉球中部から南部圏までの全域に及ぶ広い範囲にわたって見つかっていると云う。
貝塚時代には見られなかった器物の発見は、それらが生産された地域との交易・交流を示している。
中国や日本本土・朝鮮半島など周辺地域の発達した技術・文物の流入は、琉球列島の地理的な位置にも恵まれ、周辺地域との関わりが琉球列島の社会変化に大きな影響を与えたらしい。
12世紀頃の琉球列島には、“グスク”が造られ始め“グスク時代”に入っていくが、この時期は本格的農耕が行われただけでなく、海外交易も盛んになり、次第に“按司”(あじ)と呼ばれるムラの有力支配者が現われ、互いに勢力争いを始めた時期。
グスクには城・集落・聖城としての機能を持たせ、規模・形態も様々であった。