近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

謎々ストーリーその3―藤原鎌足公の墳墓の所在地を巡って!

2009年01月30日 | 歴史
☆茨木市と高槻市にまたがる、阿武山古墳は海抜200mの阿武山頂にある古墳で、藤原鎌足公のモノと言われる。

棺内に男性の人骨一体が発掘され、最高位者の冠が出土したことから、鎌足公の古墳として本命視されている。
7世紀前半から後半の造営から年代的にもぴったり。

☆鎌足公の長子が、後日鎌足公の墳墓を現在の桜井市談山神社に移管したことも事実とされる。
談山神社は、奈良県桜井市の多武峰にある神社。



談山神社の祭神は、藤原鎌足(談山大明神・談山権現)で、桜と紅葉の名所。
鎌倉時代に成立した寺伝によると、藤原氏の祖である藤原鎌足の死後の678年、長男で僧の定恵が唐からの帰国後に建てたと云う。

父の墓を摂津安威の地(下記の“阿武山古墳”)から大和のこの地に移し、十三重塔を造立したのが発祥であると云う。



写真は、阿武山頂にある京大地震研究所の脇にひっそりと眠っている鎌足公の最初の墳墓。こんもりとした所が石室のあった所で、周濠跡も見られる。

☆茨木市西安威町にある、もう一つの鎌足公の墓、横穴式石室の長さ4.5m、5枚の天井石が乗せられているが、6世紀中頃の墓といわれる。

鎌足公の存命期間は614年から669年までとの史実から真否のほどは明確。
石室の鉄条門は、如何にも現代のモノで、ミスマッチの感。

民家の一角にあり、メンテも今一つであり、説明用看板には他にも鎌足公の墓があることについての釈明・コメントもない。論争を避けているか?、控えているとの印象が強い。



写真は、茨木市西安威町の鎌足古墳。
“大織冠鎌足公古廟”との碑が見えるが、大織冠神社として奉られている。
何故か江戸時代にここに移されたようである。

以上のように藤原鎌足公の墓は、近畿地方3ヶ所にあり、複雑怪奇といわざるを得ないが、歴史登場人物としてそれだけ大物であったということであろか?





第21代雄略天皇陵に纏わる謎とは!その2

2009年01月28日 | 歴史
雄略天皇の治世下で、大和や河内の豪族等が武力で制圧され、多くの政略結婚が繰り返された事が伝えられてきた。

日本書紀によれば、吉備氏も雄略天皇の御代にその配下に組み込まれた。

勢力拡大の範囲は北から南に及び、埼玉県の“稲荷山古墳”から出土した太刀に漢文表記の銘文が発見され、ここに「ワカタケル大王」とあった。雄略天皇を指すとする説が有力である。



写真は、埼玉の稲荷山古墳から出土した、ワカタケル大王の太刀。

これにより熊本県の“江田山古墳”から出土していた鉄刀銘文も“ワカタケル”と解読でき、5世紀後半には大和朝廷の実権が日本全土の大半にまで及んでいた有力な証拠となった。

渡来系の人たちが刀を鍛え、文字を書いたと見られるが、雄略天皇が渡来系人脈を抱え、大きな勢力を持っていたことが窺える。

雄略天皇陵とされ、松原市と羽曳野市を区画する行政の境界線上に位置している、“河内大塚古墳”は幅の広い濠に囲まれて雄大な姿を横え、台地上に築かれた大型の前方後円墳。







写真は上から、“河内大塚古墳”全景、東北側ビュー及び西の側面。

墳丘の長さは約335mで、わが国で5番目の規模を誇り、堂々たる大王陵と見なされておかしくないが、歴代の天皇陵には比定されておらず、大正14年に陵墓参考地に指定された。

それ以後宮内庁の管理下にあるが、学術調査は今日まで行われていない。

本古墳が雄略天皇陵(在位456~479年)の可能性が高いとされるが、平面の形状や埴輪の有無などから6世紀後半の築造と考えられ、年代的に合致しない。

これほどの巨大古墳を築くことができる権力を有した人物ならば、必ず記紀にその名が登場していて当然であるが、そのような人物は見あたらないと云う。

一方で仲哀天皇の御陵といわれている前方後円墳が造営年代的にも、雄略天皇陵ではないかと云われている。



写真は、藤井寺市の“仲哀天皇陵”。

第14代・仲哀天皇陵(200年崩御)は、墳丘長242メートル、周濠幅約50メートルの大型前方後円墳で、古市古墳群では4番目の大きさ。

別名“岡ミサンザイ古墳”とも呼ばれ、羽曳野丘陵の北東部外縁に位置している。横穴式石室を採用している可能性があること、また出土した円筒埴輪などから、5世紀後半の築造と考えられている。

仲哀天皇陵にしては、余りに年代のずれがあり、雄略天皇陵ではないかとする研究者が多いと云う。

以上のような事情から、雄略天皇陵は高鷲丸山古墳か、或いは大仙古墳か、はたまた仲哀天皇陵か、現状のままでは、迷宮入りしそうな状況。

第21代雄略天皇陵に纏わる謎とは!その1

2009年01月26日 | 歴史
第21代雄略天皇(456~479年)は允恭天皇の第5皇子で、安康天皇の同母弟。気性が激しいため、“大悪天皇”との謗りを受けてきたようだ。

安康天皇が眉輪王に刺殺された後、第5皇子は、王位につくため兄の坂合黒彦皇子(さかいのくろひこおうじ)、八釣白彦皇子(やつりしろひこおうじ)をもその黒幕として殺害。

又次期天皇の有力候補だった、仁徳天皇の孫・市辺押磐皇子を狩に誘い出し射殺して即位。反抗する氏族らを軍事力で鎮圧したと云う。

というように、日本書紀によれば、雄略天皇は残虐非道な暴君として記録され、独断専行の残虐ぶりはその後も続き、多くの人々を殺害したため、“大悪天皇”という評価を後世に残した。

日本書記に残る数々の悪行から尊卑の秩序を保つため、元々雄略陵だった大仙古墳を仁徳陵に当てたのではないかと推測されている。

現実に、大仙古墳の円筒埴輪は5世紀末のもの故、仁徳陵とするのは誤りで、造営時代的にはむしろ雄略陵とするのが正しいと云う。







写真は上から、現在の雄略天皇陵正面入口、現在の円墳と方墳の繋ぎ目及び本天皇陵の周濠光景。

羽曳野市の雄略陵・高鷲丸山古墳が直径76mの円墳で、「天皇陵=前方後円墳の前提では、高鷲丸山古墳が雄略天皇陵の候補から外れるが、雄略天皇が当時中国宋の墓制の円墳を採用したとの見方がある。

一方写真の通り横からみると、後円部とははっきり別れているが、前方部らしき方墳が認識できる。もともとは円墳で、後から前方部を付け足したという説を裏付ける。

雄略天皇は“有徳天皇”であったとの評価もあり、又数々の武功を称え、後世天皇が、前方部を付け足したとも考えられるが・・・・。

高鷲丸山古墳とよばれている直径76mの円墳と、平塚古墳といわれる1辺50mほどの方形部分を合わせたもので、円墳には幅20mほどの濠が巡っている。

それにしても、雄略天皇陵としては、もっと堂々とした墓陵が想像され、チョットこじつけがましく、無理があるようにも思える。


奈良・河内・北摂の古墳に纏わる謎々ストーリー その1

2009年01月24日 | 歴史
同一被葬者の古墳が複数ヶ所に並存しているということはどういう分けか?出土品等物証から明らかに年代がずれているのに何故?政治的陰謀か?跡目相続問題か?私欲目的の御都合主義か?

これらの疑問に応えうるリサーチの方法はあるのか?或いは必要以上の探求心・向学心は返ってこころよしとしない、現状維持派が多数を占めているのか?

以上のような謎々ストーリーを以下シリーズで提示します。

○謎々ストーリーその1―第26代継体天皇陵の所在地をめぐって!

本命と見られる、高槻市の「今城塚古墳」は、全長約350mの巨大古墳で、6世紀前半の造営とされる。継体天皇の531年没と符合する。

しかし、巨大古墳は荒れたい放題に荒れており、宮内庁の管理下になかったことが、こうもメンテナンス上の不行き届きをもたらすものかと、事実誤認の恐ろしさと悲哀を痛感せざるを得ない。

現在発掘調査中とのことだが、発掘が出来るのは、皮肉にも宮内庁の管轄にないためと、あい矛盾している状況。



写真の今城塚古墳は、遺跡公園として出入り自由、わずかに柵が設けられているが、犬の散歩コースとして恰好。外濠も一部にその面影を残しているが、復旧は難しいのではないかと思われる。

☆茨木市の太田茶臼山古墳は、宮内庁直管轄の継体天皇陵として観光案内にも表示されている。茨木市教育委員会の現地説明看板にも否定的なコメントは今の所見当たらない。

5世紀前半から中頃の造営見とられることからも、年代的に継体天皇陵とは別物であることは間違いない。

全長226mの古墳のメンテは、鉄条門・外濠の瑞々しさ等言うこと無しのほぼ完璧に近い保管状況からも、事実誤認が結果をこれほどまでに大きく変えてしまうかと思うと、末恐ろしいの一言に尽きる。



写真の太田茶臼山古墳は、民家の密集地に、ぽっかりと外濠に囲まれて浮き上がっているように見える立派な古墳。継体天皇陵に相応しいが???

→現在の天皇陵名は、「日本書紀」や「古事記」の記述を比定されたもので、発掘調査した結果ではない。

古代の天皇陵所在地のうち、初代の神武天皇から29代の欽明天皇までは「?」がつくとのこと。
又初代から9代までの天皇実在性には疑問符が付せられている。

例えば世界最大規模の第16代仁徳天皇陵は、出土物から5世紀中葉~末ごろの可能性が高いと言われる。

しかし仁徳天皇は4世紀中葉の人物である為、仁徳天皇陵でないことはハッキリしている。





写真は、日本最大の前方後円墳・仁徳天皇陵の正面及び上空から撮った写真。

大仙古墳とも呼ばれ、堺市大仙町にある百舌鳥古墳群のひとつ。墓域面積は世界最大で、墳長およそ486m・前方部の幅305m・高さ約33m。

大仙古墳の出土物等から、この時期に大和朝廷を統一国家として治世した第21代雄略天皇陵である可能性が高いと言われる。

又一説によれば、第15代応神天皇と第16代仁徳天皇は同一人物とも云われている。



現在の雄略天皇陵は古墳の水濠も水量は豊富。第21代天皇で「大泊瀬幼武尊(おおはつせわかたけるのみこと)」と称せられ、大悪天皇とも有徳天皇とも言われる。

「倭の五王」中の「倭王武」ではないかとされている。

従って、正しくは天皇陵名を呼称するのではなく、土地の山の名前で呼ぶ方が歴史的事実に反することがなく、より正確性を保つことが出来るといえる。

例えば、崇神天皇陵は“行灯山古墳”、景行天皇陵は“渋谷向山古墳”に変える等。

いずれにしても、頑迷に発掘調査を拒否している宮内庁方針が変わらない限り、ことの矛盾は今後とも延々と続く。

史実新発見を少しずつ積み重ねていくことにより、宮内庁方針を変えさせるしか方策はないものだろうか?









箕面市の新稲古墳とは!

2009年01月22日 | 歴史
新稲古墳は、新稲の“栄松寺”から左手の叢林の中に位置する小さな古墳。

新稲の丘陵台地には6~7世紀の古墳数基と、延喜式内社の阿比太神社が鎮座している。古墳は池の内遺跡を残した有力者たちの墳墓で、神社は彼らの祖先を祀った“氏神”社と見られる。



写真は、箕面市桜ヶ丘の阿比太神社正殿。

新稲から桜ヶ丘にかけての地域には、以前幾つかの小規模な後期古墳があって、桜ヶ丘古墳群とか新稲古墳群とか、あるいは奈伊良野古墳群とか呼ばれていたらしい。

しかし、それらは現在殆どが消滅してしまい、唯一残っているのが、この新稲古墳と云う。





写真は、新稲古墳の遠景及びわずかに原型を留めた石室。

円墳で横穴式石室上部が露出しているが、盗掘があったと見える。

新稲古墳は箕面市に現存する唯一の古墳だが、保存してゆこうと云う風にも見られない。隣接する池田・豊中市や、茨木・高槻市には数多くの大古墳が有り、それらに比べると物の数に入らないからかも知れない。

それでも東西の大古墳群の間にぽっかりと生じた古墳の空白地帯である箕面市域で唯一の古墳だけに、大事に取り扱って欲しい。

この古墳は、6世紀に作られた横穴式石室の円墳で、後期古墳と云われる種類に属する。

当古墳は、6世紀にこの辺りに大きな勢力を持っていた秦氏の一族の者ではないかと考えられている。

奈良榛原町の能峠南山古墳群とは!

2009年01月19日 | 歴史
能峠(ゆきとうげ)遺跡群は、大和高原南部地区の農地開拓事業に伴い、昭和56年7月から58年10月まで発掘調査が実施され、縄文から江戸時代に至るまでの各時期の遺構・遺物が数多く検出されている。



写真は、南山古墳群の一部。

古墳群の中でも方形台状墓・横穴式石室群は、奈良県宇陀地方の墓制を考える上で重要な位置を占める。

農地造成により遺跡群が消滅する羽目になったため、横穴式石室4基・小型横穴式石室8基を当地に移築・復元したと云う。





写真は、南山1号墳入口及び南山1号墳石室内部。

東西約13m・南北約14mの円墳、埋葬施設は右片袖の横穴式石室で、全長7.1m・玄室長3.8m・玄室幅1.9m・羨道幅1.6mの規模を有する。

玄室内には2つの組合せ式箱型石棺が置かれ、副葬品として須恵器・土師器・刀・刀子・鏃・銀環などが出土している。

当古墳は6世紀後半に築造され、7世紀中葉まで追葬が行われていたと見られる。



写真は、南山3号墳。

尾根の東端に位置した径約12mの円墳で、埋葬施設は右片袖の横穴式石室で、天井石は撹乱のため存在していない。

石室規模は全長5.7m・玄室長3.5m・玄室幅1.7m・羨道幅1.3mを有する。

出土遺物には須恵器・土師器のほか、刀子・鏃・釘などが見つかっている。

東大阪市の山畑古墳群とは!

2009年01月17日 | 歴史
東大阪市内からは、およそ200基の古墳が見つかっている。これらの古墳は、密集して築かれていることから、群集墳と呼ばれる。

そのうち山畑古墳群は、瓢箪山古墳の東方約800mの生駒山麓上に築かれた群集墳。当初60基以上あったと言われているが、今日では径12m前後の円墳を主体として30数基が残されている。

6世紀後半から7世紀の初めにあたる古墳時代後期には、勢力を持っていた中小豪族達の古墳が群集して造られた。山畑古墳群もそのうちの一つで、東大阪市最大の群集墓として知られている。

横穴式石室を内部主体としており、これは巨大な石を積み上げて造られたもの。
石は多くが花崗岩と閃緑岩で構成され、かなり大きな石室となっている。



写真は、山畑古墳群の中から、22号墳。
市立郷土博物館敷地内に保存されている双円墳で、横穴式石室が残され、土器・装身具・馬具等が出土。





山畑古墳群のうち山畑22号墳から出土した遺物。
横穴式石室内から数々の須恵器・土師器の他、馬具・装身具などが出土した。

特に馬具の出土量が多いのは、この時期中国大陸の影響を受けた当地域の特徴を現わしていると云える。

当地は元々物部氏の本拠地があり、物部守屋の最期の地は衣摺(市内西南部)であるなど、早くから開けた地域であったらしい。


八尾市の高安千塚古墳群とは!

2009年01月14日 | 歴史
高安古墳群は、八尾市の東部、高安山の西麓に分布する古墳群。八尾市の高安地区中部(千塚、山畑、大窪、服部川、郡川あたり)には150基余りの古墳群が現存しており、その多さからこのあたりを「千塚」と呼ぶようになった。

前方後円墳は1つもなく、円墳のみ。ほとんどすべて横穴式石室だが、前方後円墳に劣らないほど大きな規模の横穴式石室。

本古墳群は古墳時代後期の6世紀から7世紀にかけて造られ、大正時代の調査で、かつては600基ほどあったと見られている。







写真は上から、高安古墳群が並ぶ高安山光景、高安古墳群から出土した金環耳飾り及び横穴式石室の一つで、多くは破壊されている。

本古墳の多くが、横穴式石室を持った直径10~20mほどの小さな円墳で、高安山の中腹、標高50~300メートルあたりに多く分布している。大
抵の場合、南側に開口していると云う。

この周辺では4~5世紀の古墳時代前・中期にかけて巨大な権力を持ったごく少数の人物が巨大な前方後円墳を造った。

しかし古墳時代後期には権力が分散し、財力のある小豪族がこのあたりに勢力を伸ばし、小規模な円墳を造るようになり、多くの墳墓が集中するようになった。どういう人物が埋葬されたかは不明である。

群集墳は、古墳時代後期に最盛期を迎えて造られた。大阪八尾市の高安千塚古墳群は、現在でも155基の古墳の存在が確認されている。

大阪太子町の田須谷古墳とは!

2009年01月12日 | 歴史
太子町春日の小盆地丘陵にある田須谷(だすだん)古墳は、南には小池と別丘があり閉鎖的な環境の中に造られ、前面を三段に造る墳丘・二段目に口を開く石室等の特徴を持ち、周囲で採集された土器類から7世紀後半中頃の古墳と見られる。

この時期の古墳は例に乏しく、第40代天武天皇と深く関係した人々の墓と見られる。





写真は、丘陵の南斜面で、左右と背後に尾根を持つ谷奥の田須谷古墳及び古墳の北側からのビュー。
前面が三段・二段目に口を開く石室等の特徴を持つ古墳時代末期大王級のモノ。

二上山の軟らかい凝灰岩を方形に切った敷石を石室に敷き、側壁に立て、天井に架ける切石積の石室、墳丘の立ち上がりは凝灰岩を使った真壁等際立っていたとのこと。

~古墳の被葬者は誰か?

かつて太子町盆地は磯長氏・蘇我石川氏の居地であり、蘇我石川氏と深い関係があった紀朝臣家が縁あってこの地に居住したと言われる。

このような背景の下、田須谷古墳が造られた7世紀後半に葬られた人物として、壬申の乱の功臣である紀臣阿閉麻呂ではないかと言われている。

紀民阿閉麻呂は、壬申の乱では大海人皇子側近の東道将軍として、近江方面で中心的な指揮官の役割を果たしていたと云われている。



大阪柏原市の平尾山古墳群とは!

2009年01月10日 | 歴史
大阪柏原市の平尾山古墳群は、6~7世紀の古墳として名高い存在。

その中で平尾山北側に位置する雁多尾畑(かりんだおばた)第49支群の特徴は、7世紀という古墳末期の方墳で、主体部の特徴として600~650年代は無袖式横穴式石室、650年以降後半前期は小石室、後期は木棺直葬というように埋葬方式の時代変遷を窺い知ることが出来る。



平尾山古墳群の中で、第13支群の石室。

10号を数える墳墓のうち、特に興味をそそるのは第7・8号墳で、第5・6号墳と共に周濠の重なった部分を共有するサイドバイサイドのメオト墳墓と見られる点。

部族ムラの共同墓地として順番に葬られたとの説もあるが、メオト墳墓と解釈する方がごく自然で説得力があると思われる。

又第7・8号墳墓のうち、第7号墓からは金環1個、第8号墓からは金環3個が副葬されていた。



大阪飛鳥文化博物館で展示された古墳時代末期の宝飾物のうち、写真に見えるのが雁多尾畑支群第7・8号墳から出土したメオト金環。
当時は男女とも耳飾りを装着していた。

→恐らく先立った夫君が金環1個を形見として妻に残した分を含めて、第8号墳に金環3個が副葬されていたのではないかと想像できるが・・・


大阪堺市の百舌鳥古墳群とは!

2009年01月08日 | 歴史
大阪府の堺市には、古市古墳群と並んで我が国を代表する百舌鳥古墳群がある。
そもそも古墳群が築かれている一帯の地名そのものが、古墳の造営と関係がある。

『日本書紀』に記された伝承によれば、その昔、この地で古墳の工事中に飛びこんできた鹿の耳から百舌鳥が飛び立ったことから百舌鳥耳原と名づけたという。

百舌鳥古墳群は、堺の旧市街地の東南方向に位置し、東西・南北とも約4kmのほぼ正方形の区画に、かつては94基の古墳(前方後円墳23基、帆立貝式古墳9基、方墳8基、円墳54基)が存在したと言われている。

現在は、残念なことにその半数近くがすでに失われてしまって、現存する古墳は半壊のものも含めて48基にすぎない。









写真は上から、仁徳天皇陵正面、履中天皇陵、乳岡古墳後円部及び南北に並ぶそれぞれの位置関係。

この古墳群には、倭の五王中の仁徳・履中・反正(はんぜい)の三代にわたる王陵が含まれている。

特に、仁徳天皇陵に治定されている大仙古墳は、日本第1位の規模を誇る超巨大前方後円墳であり、エジプトのクフ王のピラミットや中国の始皇帝陵と並んで、世界の三大古墳に数えられている。

百舌鳥古墳群の形成は4世紀の後半から始まったとされている。そのころに造られた古墳に、全長約155mの“乳岡”古墳がある。

本古墳は、百舌鳥古墳群の中では最初に築造されたもので、国史跡に指定された。
しかし本格的な百舌鳥古墳形成は、古市古墳群にやや遅れて開始され、立地条件も古市古墳群とは異なる。

古市古墳群は羽曳野丘陵の残丘を利用して築かれてきたが、百舌鳥古墳群は大量の盛り土が必要なほぼ平地に築かれている。

墳丘の向きに着目した場合、前方部を北西西に向けている古墳群と南南西に向けている古墳群に分類されている。

古市古墳群の埴輪の特徴とは!

2009年01月06日 | 歴史
古市古墳群は、羽曳野市から藤井寺市にかけて東西約3km・南北約4kmの範囲に、100基弱ほどの古墳で構成されている。

古市古墳群は、全国でもベスト30位内入る、長さが200mを超える前方後円墳が7基も含まれ、大阪堺市の百舌鳥古墳群と並ぶ巨大古墳が集中して造られた場所として知られている。

5世紀の初頭から6世紀の中頃までの約150年間、時の最高権力者が自らの威信を示すために、持てる財力を注ぎ、最新の技術を駆使して巨大な墓を造り続けていった。

今回は古市古墳群から出土した埴輪に注目したい。

埴輪を調べれば古墳に葬られた人物の特徴や古墳時代の生活様式・習慣・文化等を知ることが出来ると云う。

特に形象埴輪は、色々な形を真似て造った埴輪で当時の生活痕跡を留めている。

以下大変珍しいイヌ・ニワトリ・シカなどの動物埴輪及び太刀などを真似た器財形埴輪を紹介する。









写真は上から、ニワトリ・家・円筒・人物など各種埴輪。

家形埴輪は死後の生活を守り、円筒埴輪は墓聖域を囲い守り、又盾・靫形埴輪は悪霊の進入を防ごうとしたと考えられる。

しからば動物埴輪の製作意図・祈りは何であったのか?
ニワトリやイヌは日常生活に欠かせない存在として道ずれにしたのであろうか?



写真は、完璧な形で出土したミズトリの埴輪。

最高権力者の憩いの場所として日本的庭園に放ち・遊ばせたミズトリが埴輪化されるほど、やすらぎの象徴的存在であったことを窺わせる。



写真は、武力を象徴する太刀と盾形埴輪。

盾や弓を入れる靫は出土例が多いが、太刀は数少ない貴重な資料と云える。
力の象徴は、盾や弓より太刀に権力者の重みを感じる。

全国の代表的埴輪を一堂に集め、当時の地方権力者の生活振り・主義主張・生活様式の地域差等を演出する機会を設営していただければと期待したい。

羽曳野市・藤井寺市の古市古墳群とは!そのⅡ

2009年01月04日 | 歴史
前日に続いて、羽曳野市・藤井寺市の古市古墳群について検証する。
先ずは、峰が塚古墳を取上げる。

○峰が塚古墳
大王級の墓域が使い果たされ、その立地は更に羽曳野市方向に南下し、規模も更に縮小された。こうした動きの中で、6世紀前半の古市古墳群は前方部の幅を広げるようになったそうだ。

峰が塚古墳の墳丘長はわずか96mと中小規模ではあるが、別の方法で規模の見劣りをカバーしたと思われる。



写真の峰が塚古墳は6世紀前半の古市古墳群の一つ。

羽曳野市の南西に位置し、古墳群は更に南下しつつあったがスペース的にそろそろ限界、規模は更に縮小傾向が続く。



写真の峰が塚古墳の一角で、国道170号線をわたって直ぐの所にある蓮池。

池の深さは1m以上もあり、危険とのサインも見えるが、これが二重濠のうちの外濠だそうだ。

→墳丘墓縮小の規制から逃れる方法として、当時としては例があまりない二重濠を設けることにより、威厳を及ばせたと言える。

全体の規制の中であくまで権威の象徴である墳丘仕上がりにこだわった様子が見え隠れする。

古市古墳群は、大王級の古墳と在地系有力者の古墳とが複雑に寄り合うと共に、5世紀代には古墳築造の一般化傾向を契機として、一般人の古墳も混在したと云う。

○古墳出現の歴史的背景と意義
弥生時代の墳丘墓は、山陰・北陸地方の代表的方形墳丘の四隅を突出させた特異な形態の墳丘墓が営まれた。

しかし古墳時代の古墳はその規模において飛躍的に増大する一方で、弥生時代に見られた顕著な地域的特徴が見られなくなり、極めて画一的になっていった。



写真は、藤井寺市の第21代雄略天皇陵、円墳基と方墳基から成っている。

中国南朝宋の時代には倭の五王の一人、“武”と言われ、5世紀に君臨した天皇と考えられている。

→大規模な古墳が、畿内のヤマト・吉備・瀬戸内・北部九州にあるが、玄界灘沿岸には大規模な古墳が見られないことは、それまで中国大陸等交易ルートを一手に握っていた玄界灘沿岸地域に対し、瀬戸内沿岸各地の勢力が畿内のヤマトを中心に連合したため。

玄界灘沿岸を制圧し、鉄や先進的文物の入手ルートの支配権を奪取しようとしたことが、広域政治連合の契機になったと想定されている。

→連合に加わった各地首長達の同盟関係の確認・強化の為の手段として、共通の墓制である大規模な前方後円墳の造営が始まったと見られる。

このような背景・経過を踏まえて、3世紀~4世紀にかけて強大な権力と財力を持った統一国家、初代ヤマト政権が誕生したものと考えられる。

前方後円墳のまとまりは邪馬台国を中核とした政治勢力の延長と考えることが出来る。

→前方後方墳は、伊勢湾沿岸部を中心とする東海地域の中で成立・普遍化し、3世紀後半には東日本でも60m級の前方後方墳が造営されていた。

しかし3世紀末葉から4世紀前葉になると、前方後円墳の造営が東日本でも急速に広がり、墳形は前方後方墳から前方後円墳に激変していった。

墳形交代は、将に政治勢力の消長を示す事実として意義付けることが出来る。



羽曳野市・藤井寺市の古市古墳群とは!その1

2009年01月02日 | 歴史
日本有数の大型古墳が密集する古市古墳群は、大阪府の東南部に位置する、羽曳野市・藤井寺市を中心に広がる古墳群で、4世紀末から6世紀前半頃までのおよそ150年の間に主として築造された。

大阪堺市の百舌鳥古墳群と並ぶ日本二大古墳群の一つである古市古墳群は、7世紀末の古墳も含め、前方後円墳27基・前方後方墳1基・帆立貝式6基・方墳37基・円墳20基他合わせて計95基を数える。

以下代表的な古市古墳群を紹介する。

○津堂城山古墳
古市古墳群大型墳の出発点としての津堂城山古墳は、藤井寺市に所在する前方後円墳。4世紀第4四半期の造営で、墳丘長は208mと、大和地方の大型古墳に比して遜色ない存在。

しかし内容的には、竪穴式石室の中の装飾豊かな長持形石棺をはじめ、三角板革綴短甲、盾形の周濠を持った墳丘モデル等先駆的な遺跡であったらしい。

墓域候補地がそれ以前の大和盆地という狭い範囲にこだわらず、一挙に河内地方にまで進出したことになる。



写真の津堂城山古墳丘陵の前方部から後円部を望んだもの。
後円部は柵で囲われ侵入禁止となっているが、その他はすべて一般公開され、市民公園として利用されている。



当墳丘上から見た丘陵下平面地には、市民占拠農地と公園が同居している状況にあり、周辺一面が畑・花壇でいっぱい、大王級墳丘の開放度に関しては抜群。

~しかしながら何故一挙にこれほどまで河内内部に進出し、逆に後で徐々に大和地方に向って南下したのであろうか?

それであればむしろ金剛山麓から必要に応じて北上したらどうであったかと考えられる。当時の河内地方は大和地方とは違い、スペース的にはまだまだ余裕があったと想像できるし、恐らく津堂城山古墳サイトを探し求めたスタンスは、“最高”の場所を求めてやっとこの地に辿り着いたのではないかと思われる。

以下の写真のように、このスポットが将にベストスポットと言わざるを得ないほど、先人は墓域候補地にこだわったのではないかと言える。



当墳丘頂上から望む、大和川を挟んで高井田古墳群地方の遠景。なるほど風光明媚な好適地であることは、間違いなさそうであり、いわばベストスポットを選んだことになる。

○誉田御廟陵山古墳(現応神天皇陵)
河内地方の墳丘自体が傑出するのは、5世紀第1四半期造営の仲津山古墳(現仲姫陵…応神天皇の皇后)からで、墳丘長290mもあり、百舌鳥古墳群と共に圧倒的規模の墳丘が河内・和泉地方に展開された。

大王級墳墓の墓域が、以前の大和盆地という狭い範囲にこだわらず、河内地方にも進出したことになる。



写真は、5世紀頃の河内平野地図。

→このような前提条件が揃い、5世紀第4四半期に日本第2位の墳丘長415mを誇る羽曳野市の第15代応神天皇陵の造営に繋がる。

5世紀第2四半期には日本最大の大仙陵古墳(現仁徳天皇陵)が百舌鳥(現堺市)地方に誕生していた。

将に大王級の中でも突出した古墳が、墓域を大和盆地から河内・和泉地方に切替えた。海浜近くに進出することにより、渡来人・外交上の重鎮に対する圧倒的プリゼンテーション効果を狙ったのではないかと思われるが・・・・。



写真の仲津山古墳(仲姫陵)は、夫応神天皇陵から国道を挟んで反対側の対角線上にあり、応神天皇陵造営前に既に築造された、計画的墳丘墓と言えるのではないか?



写真の応神天皇陵・墳丘長415mの墳丘規模を的確に捉えることは困難。

管理事務所を中心に墳丘規模全体を収めようとした写真で、管理事務所の左横に墳丘正面入口がある。



写真の応神天皇陵の墳丘規模、415mの長さを、国道沿いの荒地(お濠跡地)から追ってみたもの。これだけの墳丘墓造営には想像もつかない時間・労力を要したはず。

→応神天皇陵の埴輪は、それまでの野焼き中心から全て窯で焼かれ、表面の仕上げも精美で埴輪の些細なところまで管理の手が及んだと言われる。

しかしこの時期をピークにこれ以降、墳丘規模について規制のブレーキがかけられたようだ。一説によると応神天皇陵造営に要した時間・労力は、延べ20万人が4年を要したと推定されている。