☆茨木市と高槻市にまたがる、阿武山古墳は海抜200mの阿武山頂にある古墳で、藤原鎌足公のモノと言われる。
棺内に男性の人骨一体が発掘され、最高位者の冠が出土したことから、鎌足公の古墳として本命視されている。
7世紀前半から後半の造営から年代的にもぴったり。
☆鎌足公の長子が、後日鎌足公の墳墓を現在の桜井市談山神社に移管したことも事実とされる。
談山神社は、奈良県桜井市の多武峰にある神社。
談山神社の祭神は、藤原鎌足(談山大明神・談山権現)で、桜と紅葉の名所。
鎌倉時代に成立した寺伝によると、藤原氏の祖である藤原鎌足の死後の678年、長男で僧の定恵が唐からの帰国後に建てたと云う。
父の墓を摂津安威の地(下記の“阿武山古墳”)から大和のこの地に移し、十三重塔を造立したのが発祥であると云う。
写真は、阿武山頂にある京大地震研究所の脇にひっそりと眠っている鎌足公の最初の墳墓。こんもりとした所が石室のあった所で、周濠跡も見られる。
☆茨木市西安威町にある、もう一つの鎌足公の墓、横穴式石室の長さ4.5m、5枚の天井石が乗せられているが、6世紀中頃の墓といわれる。
鎌足公の存命期間は614年から669年までとの史実から真否のほどは明確。
石室の鉄条門は、如何にも現代のモノで、ミスマッチの感。
民家の一角にあり、メンテも今一つであり、説明用看板には他にも鎌足公の墓があることについての釈明・コメントもない。論争を避けているか?、控えているとの印象が強い。
写真は、茨木市西安威町の鎌足古墳。
“大織冠鎌足公古廟”との碑が見えるが、大織冠神社として奉られている。
何故か江戸時代にここに移されたようである。
以上のように藤原鎌足公の墓は、近畿地方3ヶ所にあり、複雑怪奇といわざるを得ないが、歴史登場人物としてそれだけ大物であったということであろか?
棺内に男性の人骨一体が発掘され、最高位者の冠が出土したことから、鎌足公の古墳として本命視されている。
7世紀前半から後半の造営から年代的にもぴったり。
☆鎌足公の長子が、後日鎌足公の墳墓を現在の桜井市談山神社に移管したことも事実とされる。
談山神社は、奈良県桜井市の多武峰にある神社。
談山神社の祭神は、藤原鎌足(談山大明神・談山権現)で、桜と紅葉の名所。
鎌倉時代に成立した寺伝によると、藤原氏の祖である藤原鎌足の死後の678年、長男で僧の定恵が唐からの帰国後に建てたと云う。
父の墓を摂津安威の地(下記の“阿武山古墳”)から大和のこの地に移し、十三重塔を造立したのが発祥であると云う。
写真は、阿武山頂にある京大地震研究所の脇にひっそりと眠っている鎌足公の最初の墳墓。こんもりとした所が石室のあった所で、周濠跡も見られる。
☆茨木市西安威町にある、もう一つの鎌足公の墓、横穴式石室の長さ4.5m、5枚の天井石が乗せられているが、6世紀中頃の墓といわれる。
鎌足公の存命期間は614年から669年までとの史実から真否のほどは明確。
石室の鉄条門は、如何にも現代のモノで、ミスマッチの感。
民家の一角にあり、メンテも今一つであり、説明用看板には他にも鎌足公の墓があることについての釈明・コメントもない。論争を避けているか?、控えているとの印象が強い。
写真は、茨木市西安威町の鎌足古墳。
“大織冠鎌足公古廟”との碑が見えるが、大織冠神社として奉られている。
何故か江戸時代にここに移されたようである。
以上のように藤原鎌足公の墓は、近畿地方3ヶ所にあり、複雑怪奇といわざるを得ないが、歴史登場人物としてそれだけ大物であったということであろか?