近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

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沖縄の歴史・文化 “風水思想”とは!

2008年02月29日 | 歴史
中国文化の影響が濃い沖縄には、当然ながら早くから“風水思想”が根付いており、叉琉球王朝時代に首里王府の政策として取り入れられていたほどで、政治や暮らしと密接に絡んでいたと云う。



写真は、中国の伝統的建築様式・風水思想の住居。

中国では家屋が、左右対称に造られることが多いのは、風水思想の影響であると云う。
風水思想では、人が最も安心できる自然状態の場所に住むのが一番良いとされており、例えば「幼児が親の膝に座って抱かれて、何の不安も感じない、安心しきった状態!」を云う。

自然状態・条件としては、第一に山、第二に川、第三に方位だと云う。
風水思想実現によって変化するのは、新しい快適な住環境を作り出すことによって得られる“心理学的な効果”であり、そこに住む人が心理的・生理的にリフレッシュされ、本来の生きる生命力を増大させる点にあると云う。

人間が幸せを確保しようとするならば、“天地=自然”の影響と調和していかなければならないという。





写真は、沖縄諸島内久米島の位置及び久米島の海岸線。

風水思想の実践する“風水師”の職歴経路を辿っていくと、久米島・久米村に行き当たり、琉球王朝時代には、この地が風水師を輩出した場所として知られている。
中国留学を盛んに行っていた久米村では、中国福州に留学させ、儒学と共に風水も学ばせるほど熱心で、“琉球国由来史”に残るほど。

1879年、琉球藩が廃止され沖縄県となったため、琉球藩お抱えの風水師も仕事を失い、それまで蓄積されていた風水の知識・技術は、写本と共に散逸してしまったらしい。

久米島には琉球王国や明、清の時代の風水師が度々訪れており、風水の記録がはっきり残っていた島であり、ムラや集落の配置変え、墓・家の設計には、久米村の風水師が関わっていたと云う。太平洋戦争の戦禍を免れた久米島・八重山などの離島にのみ、風水思想の資料が残されているらしい。

琉球王国の財宝・サトウキビ畑の増産による大規模な土地開発ブームや黒糖を煮詰めるための燃料として森林伐採が進み、琉球史上初めて環境問題を引起していた。



写真は、琉球の大政治家・蔡温の肖像。

蔡温は、いち早くこの環境問題に取組み、植林・森林育成の施策を実施したことで知られているが、その場合でも風水思想を元にした森林づくりを志向し、風水を技術の裏づけとして活用したと云う。

風水に良いとされる山が少ない琉球で、山の代わりを果たすものとして樹木に注目したと云う。

例えば、風水では川は曲がっている方が良いとされ、直線だと“気”のエネルギーが一気に流れ出てしまうから、蔡温は、川を曲線にすることで河川の氾濫を防ぎ、叉気の流出を防ぐことができると考えた。



写真は、沖縄の街路樹として植生するビロウの木々。

台風の通り道である琉球では、川筋や村の囲い、屋敷・集落、海岸線に樹木を植えることが極めて重要であり、防風林の役目と共に、風によって内部の“気”が飛散しないようにする役割も担っていたらしい。

沖縄という地理的・地形的特殊性が、風水思想を取込む素地があったと云える。
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沖縄の歴史・文化 “聞得大君”への祈りとは!

2008年02月28日 | 歴史
“聞得大君”(キエオオキミ)は、琉球世界の祭祀を司る、神女(ノロ)の頂点に立つ存在であった。琉球の神々に王国の平和や五穀豊穣を祈ったほか、航海安全も祈願していたと云う。





写真は、16 世紀琉球王府によって制度化された“ノロ”の姿及び“知念城”跡付近の“ノロ”住居跡の光景。

“ノロ”は、琉球王国時代に各村々に置かれた“司祭者”のことで、農耕儀礼の祭祀を司り、村人から尊敬され、畏敬の念を持って崇められていたと云う。
ノロは独身主義者ではないので、恋愛もすれば結婚もし、代々血縁によって受継がれたらしい。

ノロの頂点に立つ“聞得大君”は、祭祀の主宰者としてだけでなく、“航海安産の守護神”そのものとしても考えられていた。





写真は、聞得大君が主宰する儀式が行われた“斎場御嶽”祭祀場及び首里城内で湧水が出る“龍桶”。

首里城の“龍桶”とは“瑞泉門”近くから湧き出る泉のことで、聞得大君に遭難救助の感謝を表す際には、“龍桶”の水を聞得大君御殿まで持っていって献上するのが慣例であったと云う。
琉球列島にとって海上輸送は、生き残る手段であっただけに、“航海神”であった聞得大君に助けを求めるのは、当然であった。

“龍桶”の水献上の儀式は、マニュアル化されていたほどで、遭難者が続出していただけに、多くの航海者が聞得大君のもとを訪れていたと云う。
琉球人だけでなく、薩摩と琉球を行き来していた薩摩船の船頭も訪れていたらしい。

琉球王国時代の最高神女・聞得大君の就任儀式は、最高位にあった“斎場御嶽”で行われていたと云う。



写真は、“巫女”の正装姿。

ノロと共に忘れてはいけないのが、“巫女(ユタ)”で、ユタとは祭祀・お告げ・占いなどを行う巫者で、一種の呪術師とも云える。

沖縄の女性は、病気・家庭内不幸・旅行・受験など何かにつけて、ユタのところに出かけ、吉凶や不幸の原因を占ってもらう習慣があるらしい。

ユタは神霊から授けられた霊能力を持ったものが、修行を積んで、初めてユタとして認められると云う。



写真は、沖縄諸島の街路樹として植生されている、“ビロウ”の木々。

沖縄では、高く聳えるビロウの木は、神が降りてくる聖木であると信仰されており、特に沖縄諸島の最東端に位置する、北大東島は島全体にビロウの木が生い茂る密林と云う。

沖縄各地のノロたちは、この島へ出向いて祈りを捧げ、神が降臨した聖地として崇めていたと云う。
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沖縄の歴史・文化 “琉球王国”の聖なる場とは!

2008年02月27日 | 歴史
古くからある集落には、必ず“御嶽”(うたき)があったそうで、御嶽は神々が下って来るといわれる神聖な場所であり、集落の森・小高い丘・岬などにあったと云う。



写真は、沖縄辺戸岬からみた信仰対象の“安須森御嶽”。

御嶽の形態は様々だが、近年ではコンクリート製拝所を造るらしい。
線香をあげ、塩・花・米などのお供え物をして、様々な祈願をすると云う。
御嶽には女性しか立ち入ることができず、男子が立ち入って神罰が下ったという言い伝えがあるらしい。

琉球人は、先祖を敬い、拝みの場として“グスク”を築いたが、グスクは見晴らしの良いところに所在する。

その後、按司と呼ばれる豪族が、グスクに住居を構え、巨大化していって城になったと考えられている。

世界遺産に登録された“首里城”跡をはじめ、“今帰仁城”跡や“中城”跡などにあった城郭は、本土の城と同じ軍事目的のほかに、祈りを託す聖なる場でもあった。

祈りの場の中で、最高位にあったのが、“斎場御嶽”(セーファウタキ)で、世界遺産に加えられている。





写真は上から、南城市知念村の“斎場御嶽”への御門口及び世界遺産の“斎場御嶽現場”。

斎場御嶽は、琉球創生神話の国始めの七御嶽の一つで、琉球至高の聖域らしい。
古文書で確認できるだけでも、600年以上にわたり琉球人の祈りを受け止め、心を癒し続けてきた霊的な聖域である。



写真は、糸満市の平和祈念公園内“平和の礎”モニュメント。

沖縄は、奇しくも先の大戦で最も大きな犠牲を強いられたところで、特に南部は沖縄戦最後の激戦地で、悲しい歴史を突きつけられたのが、“平和の礎”であり、そこに刻まれた犠牲者の名前の多さに圧倒され、あらためて平和の尊さに頭を垂れるばかりである。

古の琉球人がグスクに願った地域の平和であったが、我々が今日あらためて願うのが地球上の平和であり、人々の願いは古今同じである。
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沖縄の歴史・文化 “沖縄の風俗・風習”“琉球人”の祈りとは!

2008年02月26日 | 歴史
沖縄では、“先祖崇拝”や沖縄独特の信仰が見られ、仏教やキリスト教などの宗教は浸透していないと云う。

先祖崇拝が広く浸透しており、“位牌”そのものが崇拝の対象になるほど。



写真は、沖縄住民の一般的な仏壇。

先祖崇拝という強い気持ちから“お盆”は、沖縄の年中行事の中では重要視され、遠く本土などへ働きに行っている者は、「正月に帰られなくともお盆には帰る」という者が少なくないそうだ。

お墓は長男が引継ぐそうで、長男なき場合は血縁の男子が相続すると云う。
父系の男子しか家系を継承できず、お墓を受継ぐことは、土地財産も受継ぐことになる。先祖崇拝に理解のない相手とは結婚を許さないという因習にこだわる家庭も多く、人権無視の文化が根強く残っているらしい。

財産問題が絡む家系継承のいざこざは、本土と余り変わらないと云う。



写真は、南城市の“ニライカナイ”橋の彼方には、神々が宿る理想郷が??

前述したように、“ニライカナイ”は、沖縄・南西諸島各地にある伝承で、地域や島によって内容は様々だが、大筋は、「ニライカナイが遠い海の向こうに存在し、神々が住むとされる楽土」を指すらしい。

人々は、“ニライカナイ”から生まれて、死ねば“ニライカナイ”へ帰ると考えられてきた。

“ニライカナイ”の神々は、海を渡り琉球を訪れ、その年の豊作や幸福を人々に運んでくるとされる。

“異界・異人信仰”に類した伝承とも考えられている。
四方を海に囲まれた琉球民俗は、浜辺に打ち寄せる色々な物や、海を渡って訪れる異国の人々との関わりから、“ニライカナイ”を信じるようになったと云う。

自然信仰の一種であり、琉球列島が置かれた地形的・地理的条件から生まれた信仰で、離島らしい、納得できる伝承と云える。
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沖縄の歴史・文化 “戦後復興”の実像とは!

2008年02月25日 | 歴史
戦争終結後、アメリカ政府は沖縄を独自の国として、アメリカ軍制下に置いた。
沖縄の戦後は、収容所から始まった。



写真は、沖縄最大の“屋嘉捕虜収容所”。

沖縄戦で捕虜にされた沖縄県民は、終戦後帰宅を許されたが、ひどい栄養失調に見舞われ、日常生活は苦しく、配給物資も有償で、仕事というと米軍基地で驚くほどの低賃金で働かされたと云う。

しかし朝鮮戦争の勃発によって、沖縄は最前線の基地として、“東アジアの要石”へと役割が大きく変化し、アメリカ本土からの駐留軍が飛躍的に増加した。

米軍軍事力増強と共に、旧日本軍の施設以外に、住民の土地を強制的に接収した。1952年の“日米平和条約”で、日本は独立し、沖縄における日本の主権を認めながら、沖縄は正式にはアメリカ軍の管理下に置かれるようになった。

1952年、琉球政府が成立したが名ばかりで、沖縄を軍制下に置いた米軍は、各地にアメリカ軍基地・施設を建設した。米軍基地拡大のため土地提供を求められた住民は、要求を拒否したが、1953年“土地収用令”により強制的に土地を取上げられた。

米軍が沖縄本島に基地を拡散すると共に、アメリカ兵による事故・事件が頻発し、住民の死亡者も相次いだ。



写真は、沖縄県民の“祖国復帰運動”の光景。
米国と沖縄の人々との間に溝が深まり、反戦・反基地運動が高まりだした。

この頃から住民は、日本復帰を目指して活発な祖国復帰運動を起し、1960年には“沖縄県祖国復帰協議会”を結成した。

更に1960年代のベトナム戦争によって沖縄が、再び最前線基地とされると、駐留米軍が飛躍的に増加し、これに伴って再び事件・事故も急増した。
ベトナム戦争の米軍基地を提供することになった、沖縄県民の本土復帰運動は、反米・反戦色を一層強めた。

しかし一方で、米軍需要に与っていた土木建築業・飲食業・風俗業などに携わる勢力は、本土復帰反対・米軍駐留賛成の運動を展開し、復帰賛成派の議員との間で、衝突した。

1968年には琉球政府の行政主席選挙が行われ、“祖国復帰協議会”の“屋良朝苗”氏が当選し、「即時無条件全面返還」を訴えた。

1970年以降も、米兵による加害事件・事故が絶えず、不当な裁判での判決に、住民の不満は各地で爆発し、騒然となった。



写真は、“沖縄返還協定”反対闘争の光景。
一方で返還交渉の中で、米軍基地が存続されることを知った住民との激しいやり取りが続いていた。

そして1971年6月、「基地をなくしたい」という住民の理解が得られあいまま、“沖縄返還協定”は調印されてしまった。
1972年、遂に沖縄住民の悲願であった、“祖国復帰”が実現した。



写真は、沖縄最北端・辺戸岬に建立された、“祖国復帰闘争記念碑”。

しかし祖国復帰後は、国体・海洋博等のイベントや沖縄観光の推進により、沖縄の自然は、公共事業や乱開発により、様変わりした。



写真は、先進8ヶ国首脳による“九州・沖縄サミット”の名護市会場。

2000年には各国首脳が沖縄に集い、“九州・沖縄サミット”が開催され、叉「琉球王国のグスク及び関連遺産群」が世界遺産に登録されるなど、沖縄文化の独自性が世界的に認知・発信された。

しかし一方で、本土からの土地の買占め、物価高、そして何よりも自然環境の破壊が進んだことが、“ニライ・カナイ”(南西諸島各地の伝承、信仰で、海の彼方の世界には、豊かな実りと幸せをもたらしてくれる理想がある)という自然信仰を冒涜するものとして、その代償は極めて大きいと云える。
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沖縄の歴史・文化 第二次世界大戦の悲劇とは!

2008年02月24日 | 歴史
太平洋戦争では、1944年に本土空襲に先駆けた激しい空襲によって、那覇市の90%が壊滅した。
そして1945年4月1日に米軍は55万人の兵力で沖縄本島の読谷村から上陸し、凄まじい砲撃・空襲で侵攻して来た。





写真は、太平洋戦争で沖縄宜野湾に上陸する米軍太平洋艦隊及び焼失した首里城の日本軍陣地跡。

圧倒的なアメリカ軍の火力の前に、首里城地下を本部にした日本軍との間で壮絶な地上戦が繰広げられ、沖縄県民も沖縄防衛隊を配置、多くの一般人も戦闘に参加し、日本軍と共に亡くなった。

90日ほどにも及ぶ鉄の暴風は島々の山容を変え、貴重な歴史的文化遺産のほとんどを破壊し、20数万の尊い人命を奪い去った。

首里城のシンボルであった龍柱・円覚寺など、戦前に指定された国宝建造物はことごとく焼失、破壊された。

沖縄戦は、日本に於ける唯一の県民を総動員した地上戦であり、アジア・太平洋戦争で最大規模の壮絶な戦闘であった。

沖縄戦の特徴は、軍人よりも一般住民の戦死者がはるかに上回っていたことにあり、その数は約12万人に及んだ。

ある者は砲撃で吹き飛ばされ、ある者は追い詰められて自ら命を絶たされ、ある者は飢えとマラリアで倒れ、叉敗走する自国軍隊の犠牲にされる者もあったと云う。
沖縄県民は、想像を絶する極限状況の中で、戦争の不条理と残酷さを、身をもって体験させられた。





写真は、沖縄戦の“集団自決”直前の光景及び2007年9月に集団自決は強制されたと抗議する、11万の島民。

叉戦闘末期には、追い詰められた住民が自決した事件に、日本軍が関与して強制したとも言われており、今日でも問題となっている。

日本守備軍は首里決戦を避け、南部へ撤退し、出血持久戦を取った。
その後米軍の強力な掃討戦により追い詰められ、軍民入り乱れた悲惨な戦場と化した。

壕の中では、日本兵による住民虐殺や、強制による集団死・餓死があり、外では砲撃戦・火炎放射器による殺戮があった。将にこのような地獄絵の世界の中で、平静な判断・行動は求めようが無かったと云える。

この戦争の体験こそ、戦後沖縄の人々が米国の軍事支配の重圧に抗しつつ、培ってきた“沖縄のこころ”の原点であると云われている。

この“沖縄のこころ”とは、人間の尊厳を何よりも重く見て、戦争に繫がる一切の行為を否定し、平和を求め、人間性の発露である文化をこよなく愛する“こころ”である、と沖縄県民の体験は物語っている。
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沖縄の歴史・文化 明治・大正・昭和初頭の沖縄は?

2008年02月23日 | 歴史
沖縄県として、正式に日本の領土とされた沖縄だが、法整備が遅れ、琉球時代のまま旧来の体制が引継がれていた。

琉球処分後の“旧慣温存”期間である、20世紀初頭までは一部の政党エリートたちの反日抵抗運動などを通じて、反日感情は未だ残っていたが、一般市民の間では、民族自決主義のようなナショナリズムは、存在していなかったと云う。

むしろ琉球処分は、沖縄県民の生活とアイデンティティー観を改変させ、主に学校教育によって、自分たちは日本人だという考え方が段々普及していった。



写真は、明治時代に入り普及した、赤瓦の屋根。
沖縄では、1889年に王朝時代の屋敷・家屋が廃止され、赤瓦の屋根が急速に増えていったと云う。

日本人としての意識は、一般市民レベルでは強く、“旧慣温存策”を廃止するような要求を起していた。

同化政策は20世紀前半まで続き、沖縄住民は、日本人であると云うアイデンティティーを意識して見付ける努力をし、特に日本の文化を身につけることが沖縄人の義務であると認識していたと云う。

日本人は、近代化され進歩した国民であると同時に、深い伝統的な文化も保有する民族であるとの認識を一般には持っていたらしい。

そのような中で、徴兵制・地租改正・市町村制・府県制・衆議院議員選挙法などが、概ね本土から10~25年遅れて施行された。

1920年代以降、南洋諸島が日本の統治下に入ると、新天地を求めた沖縄住民が、環境の似たこれらの離島へこぞって移住した。
叉同時期に、生活苦からハワイやブラジルなどの中南米諸国へも多数が移住した。



写真は、一見食べられそうに装うソテツの実。

更に1930年代の世界恐慌による大不況と、全国規模の農産物の不作が発生すると、一時的にせよ、飢饉状態となり、貧家では“ソテツ”の実を毒抜きして食べたりもしたが、毒抜きが不十分で死んでしまうハプニングも発生して、“ソテツ地獄”と呼ばれた。

このような沖縄の貧困は、沖縄の近代化・日本化の遅れや、叉明治政府の沖縄社会への政治介入の遅れが、沖縄の経済全体を砂糖産業に過度に依存させたことに繫がり、世界中で砂糖が生産過剰の中で、値段が下がったまま長く継続していたことにも原因している。

それと琉球列島が日本の国境内に入っていたのに、依然として本土日本人からは見放されていたことも、沖縄人の生活レベルが改善されなかった遠因と考えられる。
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沖縄の歴史・文化 王国終末期 欧米進出から“琉球処分”まで

2008年02月22日 | 歴史
18世紀後半頃には、欧米諸国は日本の開国を迫るようになり、それに伴って、琉球へも異国船が頻繁に来航した。

そして19世紀になると、1844年にフランス船が、1846年にはイギリス船が国交・貿易、キリスト教の布教を求め来航したが、王府は拒絶し続けた。

薩摩藩は、幕府に対応を求めたが、“阿片戦争”の緊迫した情報を得ていた幕府は、琉球に限って薩摩の対英仏通商を許可し、1847年薩摩藩は琉球を英仏に開港した。





写真は上から、ペリー総督の浦賀来航図及び来航記念碑。

1853年には、日本海国交渉の全権大使の命を受けた、米国のペリーが艦隊を率いて浦賀に来航したが、前年には一行が那覇港にも寄港していた。



写真は、ペリー総督が琉球本島を歩いた行程図。

その際ペリー一行は強制上陸して首里城入場を果たし、琉球国王に米大統領からの親書を手渡すことに成功したと云う。

1854年に“日米和親条約”を結ばされ、幕府は強制的に開港させられた。
その帰路に首里城を訪れたペリーは、琉球とも通商条約を結んだ。
と云うことで、米国は太平洋に拠点を確保できたことで、アジアへの影響力拡大を図った。

1872年、明治政府は、琉球王国を強制廃止して琉球藩を設置した。
しかし清国は日本の政策に反発し、琉球は本来中華帝国に服属していたものとして、琉球の所有権を主張した。当時の東アジアの国際秩序は、中国・清王朝を中心とした、朝貢を基本に保たれており、琉球も例外ではなかった。

明治政府は、琉球領有の正当化のため、台湾原住民による琉球漁民殺害の報復措置として、台湾出兵を行った。



写真は、“松田道之”氏で、明治政府から派遣された“琉球処分官”として、武力で廃藩置県を強行した、後の東京都知事。

1879年、明治政府は軍隊と警官を派遣して琉球藩の廃止を宣言し、鹿児島県に編入した。そして同年に沖縄県を設置してことで、琉球は中央集権的近代日本国家に組入れられ、琉球王国は完全に消滅した。

琉球藩設置から、廃藩置県までの一連の流れを“琉球処分”と呼んでいる。
と云うことで、琉球藩は沖縄県に組織替えさせられて、近代化への道を歩み始めた。

土地の私有化に伴い富裕層が形成される一方、貧民層の間では、ハワイ・北米・南米などへ移民者が増加した。

叉社会現象として、方言撲滅など沖縄文化を卑下する風潮が漂い始めるなど、近代化に向けて揺れ動いた。

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沖縄の歴史・文化 “琉球王国”終末期 行政機構・暮し振りは!

2008年02月21日 | 歴史
薩摩藩の支配下に置かれた、琉球王府の行政機構の中心は評定所で、摂政・長官などの合議制による運営は、最終的に国王から裁決を得る仕組みであったと云う。

地方の行政は、“間切”(現在の市町村に相当)と“島”(沖縄本島の周辺離島)、その下位の“ムラ”という行政機構で、各間切や島には農村を支配する役所としての“番所”、各ムラには“村屋”が存在した。

宮古・八重山などの先島諸島には、王府の出先機関として“蔵元”が置かれ、王府から派遣された役人の“在番”が行政を司っていた。



写真は、琉球士族の新郎と庶民の姿。

17世紀末になると、系図・家譜を有する“士族”と持たない“百姓”の身分が固定され、士族層の上位に位置する、王子・按司・親方などの大名は、王府から一間切を領地として与えられていた。
士族層は、首里・那覇の町方に住み、首里王府に仕える役人であった。



写真は、琉球王朝時代の庶民の衣装。

一方百姓は、米・栗・豆・砂糖を生産していたが、ほとんどを薩摩藩や王府に貢納していた。自分たちはもっぱら甘藷を食べていたが、幸い甘藷は旱魃に強く、3~6ヶ月で収穫できる格好の作物であった。

上述の通り、行政の目が隅々にまで行き渡っていたのは、1637年以降、田地の面積と関係なく“税”を人数割にする人頭税が取り入れられこともあり、農民は加重の負担を強いられた。

当時薩摩藩への貢納品は、年貢米・芭蕉布・牛皮などが定められ、農民はこれらの確保に苦しめられた。

特に18世紀後半以降は、人口・生産力が減少し、ムラは更に疲弊していった。
その上1771年の明和の大地震・大津波は甚大な被害を与えた。

叉王府内の各農村では、台風・旱魃などの天災により、飢饉・疫病の流行があり、多くの餓死者が出るほどであった。

というように、村民には借金で土地を質に入れ、身売りする者まで現われ、極度に苦しめられた。
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沖縄の歴史・文化 “琉球王国”の食文化振興とは!

2008年02月20日 | 歴史
サツマイモは1605年に進貢船の役人が、中国から苗を持ち帰り、郷里に広めたのがはじめで、那覇港南岸の儀間村の地頭・“儀間真常”が農民の生活向上に想いを馳せ、サツマイモを沖縄中に行き渡らせたと云われている。









写真は上から、“儀間真常”の肖像、同お墓の石碑、沖縄のサツマイモ畑及びサトウキビ畑の光景。

1623年、“儀間真常”は使者を中国・福建に送って製糖法を学ばせて以来、沖縄でのサトウキビ栽培が急速に広まったという。サトウキビがいつ頃から琉球に伝えられたかは、ハッキリしていないが・・・。

と云うことで、現在沖縄の代表的農作物である、サトウキビとサツマイモは、“儀間真常”のお蔭で、その後の琉球王国の農業振興に最も大きな影響を与えたと云える。

しかし黒糖の原料であるサトウキビ畑を増産するために、各地で大規模な土地開発ブームが起こり、叉木製ローラーの製作や黒糖を煮詰めるためには、大量の燃料を必要とした。

その結果、沖縄での森林伐採が進み、それまでの緑豊かな風景は一変して、木材の枯渇という深刻な事態を招いた。“真常”が導入した新製糖法は、琉球史上初の“環境問題”を引起したと云える。

この環境問題の解決に取組んだのが“蔡温”で、森林育成の政策を実施して、結果的には“真常”の尻拭いをすることで、新製糖法をバックアップしたことになる。

上述の“羽地朝秀”をはじめ、“蔡温・儀間真常”は、琉球の5偉人に含まれ、今日でもその業績は高く評価されている。

もう一つ沖縄の代表的食品に昆布があるが、18世紀末、蝦夷地から江戸・大坂に大量の運ばれた昆布は、砂糖と引き換えに手に入れた薩摩商人が、琉球の進貢貿易を利用して中国へ輸出するようになった。
中国からは、それと引き換えに生糸・反物・薬種などを持ち込み、薩摩に大きな利益をもたらした。

1820年以降、琉球から中国への積荷の70~90%を昆布が占めたというほどで、当時の日本で採集・加工された昆布総量の約10%に達していたと云う。

19世紀には、那覇に“昆布座”という役所もつくられたらしく、琉球では昆布は単に輸出品としてだけでなく、地元民の食生活にも大きな影響を与え、豚肉と共に、琉球料理には欠かせない貴重な食品となった。

現在でも、昆布消費量は全国一と云われ、長寿県沖縄を支える食品の一つに挙げられる。
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沖縄の歴史・文化 “琉球王国”の文化振興とは!

2008年02月19日 | 歴史
近世琉球文化は、薩摩の支配下にあったことから暗い社会をイメージしがちだが、沖縄の伝統文化と云われているものの多くが、この時代に創造・発展したことからすると、豊かな文化を生み出す活力があった時代と云える。

近世琉球文化は、これまでの琉球文化に、本土の文化が混ざり合って発展した独自の王国文化。

しかしそれは王宮中心の貴族文化であり、日本の元禄文化のような、一般の人々の文化ではなかったらしい。

文化活動面では、南西諸島最古の歌謡集である“おもろさうし”が編纂され、叉中国・日本本土から諸技術を導入し、美術工芸・芸能の振興にも力を注いだ。

琉球舞踊は神遊びの舞いと民間の娯楽の踊りから発達し、南方諸国やインドの舞いが取り込まれたが、日本芸能から受けた影響が最も大きいと云う。







写真は上から、華やかな琉球衣装をまとった女性たち及び琉球の伝統舞踊。

写真のように鮮やかな色彩、哀調を帯びた絃の調べ、島の言葉に乗せて愛を唄う、伝統舞踊は生きる喜びを奔放に解き放つ。

琉球漆器の製作は、15世紀に始まったと云われるが、王府の保護の下で、螺鈿・蒔絵・沈金などの技法が生まれ、飛躍的に発展させた。
漆器の多くは、中国・江戸幕府への貢物・献上品として作られたと云う。



写真は、沖縄恩納村の“琉球村”でデモされていた紅型衣装。

織物は、京友禅の影響を受けつつ独自の技法を創出した“紅型”(びんがた)、遠くインドの染織に源を発するとされる“絣”、琉球独自の芭蕉布や宮古・八重山の苧麻(ちょま)を材料にした上布などが織られ、高度な技術を持っていた。

久米島では17世紀に養蚕の技術が伝わって、“紬”が織られていた。

琉球の陶芸は、17世紀前半に、薩摩から朝鮮人の陶工を招いた頃から本格的に始められ、17世紀末には、各所に散在していた焼物の窯が那覇に集約され、“壺屋”が生まれたと云う。

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沖縄の歴史・文化 “琉球王国”の産業再興とは!

2008年02月18日 | 歴史
昨年末以来、全く予想外の闘病生活を未だ継続中ですが、それ以前に取材済みのネタを中心に、いつまで続くやら、弊ブログを復活しますので宜しく!

1609年薩摩藩・島津の侵入によって、異国のまま江戸幕府の制度のものに組込まれた琉球は、王国としての主体的な方向を見失い、半世紀ほどの間、入り乱れた時代が続いた。

このような混迷とした情況の中、“羽地朝秀”は新たな政策を打出して、旧い国王体制から近世的な制度へ変えようと政治改革を実行した。





写真は上から、那覇市末吉公園内の“羽地朝秀”の墓及び沖縄初の正史書である、羽地朝秀著作・“中山世鑑”。

羽地は若い頃から大和の文化に親しみ、学問・政治制度などを学んでいたことから、1666年琉球王府の摂政になるとその経験・知識を活かし、薩摩藩の圧政を跳ね除けたと云う。



写真は、琉球の大政治家・“蔡温”の肖像画。

羽地を受継いだのが、琉球の大政治家・“蔡温”で、貧しい農村地域の活性化・植林事業による山林資源の確保・治水事業などによる士族層の就職難の解消などに力を注ぎ、王府財政再建・政治改革などが実施された。

蔡温による産業活性化のうち、農民の活性化施策では、技術を持った百姓が王府に雇われ、地方から首里・那覇に移住して、王府で使用する製品を作りながら、民間需要に応じるなど産業の基盤をつくったと云う。

首里では、金・銀・銅・錫などの細工や織物・染物・芭蕉紙・酒・味噌・醤油などの産業が発達し、那覇では挽物・指物・彫物・塗物などが家内工業として発展したと云う。叉役職に就けない士族層を職人に仕立てる施策も実行されたらしい。

17世紀には士族層の女性が朝・夕の2回、那覇・首里・泊で市場を開いて、魚・海老・芋・豆腐・木工品・陶器・櫛・草履といった、日用品を売っていたと云う。

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