近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

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縄文人の謎・ロマン “火焔型土器”の物語とは! そのⅠ

2007年09月30日 | 歴史
火焔型土器の真骨頂は、何と云っても燃え上がる“炎”を象徴するような、口縁で大きく立ち上がった4つの突起にある。



写真は、新潟県津南町の沖の原遺跡から出土した火焔型土器。
突起の位置は、胴部を4つに区画する隆線上に中心を置くように決められ、突起の直下には、2つの同心円の背中を寄り合わせた形の、いわゆる“トンボ眼鏡”状の突起が配置されている。

写真の通り、火焔型土器の突起形態は、左右対称ではなく、中心のトンボ眼鏡の他に、左右2つの“鶏頭冠”状突起及び尻尾のモチーフが配置されている。

“鶏頭冠”と呼ばれるのは、鋸歯状の縁飾りから“鶏のとさか”が連想されるからであるが、家畜である“鶏”が日本に現われるのは、古墳時代以降であることから、単なる印象的モチーフに過ぎない。鶏の起源は東南アジアに遡るが・・・・。

そして頸部文様帯の隆線は曲線的で、“S”字形文を中心的モチーフとして、口縁下に横たわらせている。

火焔型土器の突起は、派手な造形に豪華な装飾性を加えることで造形美を強調しているが、これら突起に彼ら越後ムラ集団のメッセージが隠されているのではないか?

“トンボ眼鏡”状造形、“鶏頭冠”状突起及び“S”字形文のモチーフが、ムラ住人の共通の記号として、特別なメッセージを発信しているのではないか?
これらのモチーフが物語の骨組みを作っているかもしれない。

“炎”に対する感謝・信仰・畏敬の念が、モチーフに込められているかもしれない。

当時の灯りは、魚油や動物の油、松の根などを使っていたと想像されるが、灯りとしてだけでなく、煮沸用具である土器も炎で焼いたし、そして土器で煮炊きした肉や魚介類も美味しくなり、土器は道具としてだけでなく、食生活にも大きな変化をもたらしただけに、“炎”信仰があってもおかしくない。



写真は、縄文時代の夜の祭りを思い起こす光景。
当時、夏の夜の祭りがあったと考えられ、闇に薪が燃やされ、炎を囲む踊りと舞いがあったのではないか?







写真は上から、長野市内縄文中期遺跡から出土した王冠型土器、諏訪市荒神遺跡から出土した深鉢土器及び北陸魚津市天神山遺跡から出土した“天神山式土器”。

“トンボ眼鏡”状のモチーフは、勝坂式土器が発端で、関東・中部山岳地帯から、越後・北陸地方にもたらされたもので、それぞれのクニ社会が連帯関係にあったと思われ、特別な意味ありメッセージとして共有していたのではないか?

諏訪市荒神遺跡から出土した深鉢土器の“トンボ眼鏡”は、発祥の地らしく、“トンボ眼鏡”の見本のようなものであり、一方魚津市天神山式土器の渦巻・円形ボタンのような突起は、火焔型土器の影響は感じ取れるが、全体の装飾は一瞥して識別できるほど違う。

そして“トンボ眼鏡”状突起を有する火焔型土器は、僅か100年~150年間の存続で、早々と見切りをつけたのには、クニ社会間に主導権争いがあったのかもしれない?

火焔型土器没落後の縄文中期後半から、信濃川上・中流域の遺跡数が激減したことは、それだけ人口も落ち込んだと見られ、何か火焔型土器短命の原因が潜んでいるような気がしてならない。

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縄文人の謎・ロマン 縄文土器の造形美“火焔型土器”とは!

2007年09月29日 | 歴史
火焔型土器は立体的な装飾に富み、優美な造形美を有する土器で、特徴と云えば、“鶏冠状把手”と“鋸歯状口縁”などのユニークな装飾を持っていることから、祭祀用に使われたことと見られている。

今から4500年ほど前の縄文中期に、ここ信濃川上・中流域で成立・発展したと考えられている。

火焔型土器は、縄文中期の装飾性豊かな土器の中でも、余りにも独創的で、傑出した芸術性を持った、日本の美術史上最高の芸術作品と絶賛されている。

我が国有数の豪雪地帯である、この地方に火焔型土器分布の中心があることは、現在より温暖な気候であった、当時のムラの集積である“クニ”を知る上でも重要。









写真は上から、新潟県十日町市の“笹山遺跡”から出土した、火焔型土器と王冠型土器、長岡市“馬高遺跡”から出土した、火焔式土器及び新潟県内の縄文遺跡から出土した、王冠型土器と火炎型土器の比較。残念ながら火焔型土器の口縁部分が欠落しているが・・・・。

写真の通り、火焔型土器は、“鶏冠状把手”など4つの突起を持ち、突起や口縁には鋸歯状の連続した小突起が付いている。

一方王冠型土器は、文様は火焔型土器と共通しているが、4つの大型突起と小型突起はシンプルで、鋸歯状の連続突起がない。

又双方の土器は、同じような文様構成で、口縁の文様帯には刻み目をもつ細い線や円形の線が配置されている。胴部分の文様帯は、線で区画した内部に細かい縄文を施しているなどの特徴がある。

この時期には文様の意味も変化して、それ以前の文様には、何か意味合いを求めていたが、この時期の縄文中期土器文様は、装飾的な斬新さが特に目立つ一方で、それに反比例するように呪術的遺物が豊富になり、土器文様は呪術から分離・独立している。

火焔型土器のはっきりした用途は不明だが、その特異な形状から、祀りなどに使う“非日常的な土器”と想像される。
この不思議な隆起文様は、シャーマン的メッセージが暗示されているのかもしれない。

火焔型土器とその仲間の王冠型土器は、平成11年に国宝に指定された、笹山遺跡出土品928点の中に、20個体も含まれている。

現在、“信濃川火焔街道連携協議会”が組織され、流域市町村が連携して、地域振興・広域観光を推進すると共に、世界遺産登録を検討しているようだが、縄文文化の卓越した芸術性を、世界に向け発信して欲しい。
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縄文人の謎・ロマン 縄文土器の造形美“勝坂式土器”とは!

2007年09月28日 | 歴史
縄文土器は世界でも類を見ない、独特な造形美を持ったひとつの文化であり、その造形美をもっとも華やかなに展開したのは縄文時代中期で、例えば“勝坂式土器”がその代表的事例。

勝坂式土器は、西関東~中部地方を中心に分布した縄文中期中ごろの土器型式で、神奈川県の“勝坂遺跡”から出土した土器が標式。

器種が豊富で、大型で器壁が厚い深鉢土器のほかに浅鉢・台付鉢・有孔鍔付土器・釣手土器などが見られる。

文様は縄文の使用が低調で、太めの隆帯を多用しつつ主に沈線や結節沈線などで構成され、粘土隆帯による人体・蛇体・獣類の表現も、この勝坂式土器に多く見られる。

特に粘土ひもによる文様の割付が基本で、その中をシノ竹による文様で埋め尽くし、土器全体を文様で埋めようとする意識が強いのが特徴。

と云うように、縄文土器を代表する勝坂式土器は、縄文がなく、文様が際立って美しい土器であるとは何とも皮肉ではあるが・・・・・。





写真は上から、長野県伊那市の月見松遺跡から出土した、顔面把手付土器及び岡谷市瀬戸遺跡から出土した、顔面把手付土器。

口縁に一つだけ付けられた大きな装飾把手が印象的で、絶妙なプロポーションとの調和も見事であり、勝坂式土器の傑作のひとつと云える。





写真は上から、山梨県勝沼町釈迦堂遺跡の人体文土器及び多摩市諏訪遺跡の人体文土器。

縄文土器の文様は、抽象的な幾何学模様がその大半を占めるが、縄文中期には人体・動物などをモチーフにしたものも作られ、“蛇文体”という蛇の文様が施された土器も見つかっている。

蛇は、その生命力の強さから豊饒を祈願した象徴であり、あるいは自然の中の神とも見られていたらしい。





写真は上から、物語性を帯びた、長野県穂高町他谷遺跡の“井戸尻式土器”及び山梨県明野村諏訪原遺跡の縄文中期の“曾利式土器”。

縄文土器の装飾は、単なる飾りではなく、「物語性」をも持ち、純粋な装飾文様と「物語性文様」を合わせ持つ土器もある。

上の写真は、縦に4分割された特異なデザイン文様が施され、確かに何らかの物語を想起させる。
文字を持たない縄文時代の人々が、土器を媒介として語りかけたもとは、一体何だったのか?
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縄文人の謎・ロマン “縄文土器”とは!

2007年09月27日 | 歴史
“縄文土器”は、撚糸を土器表面に回転させてつけた、縄の文様が見られることから命名され、いつしか時代名にのし上がった。

強度補強のために動物の毛・雲母などを混ぜ込んで、土器の厚さを薄くし、底を丸くする工夫が施され、煮炊きの道具として使われるようになった。

発明当時の土器は、余計な装飾を施さず、いたってシンプルなもので、煮炊き・貯蔵・盛付けなどの実用に供せられ、その後は祭祀に関連した呪術用、ムラのアイデンティティとしての装飾土器のような半分実用・半分鑑賞工芸的土器も出現した。

縄文土器が食物関係の用途を多様化し、甕棺・埋甕炉・注口土器・特殊な釣手土器・香炉形土器・異形台付土器等々、食物関係以外の用途、例えば埋葬とのかかわりや祭祀用など、容器を超えた用途に拡大されていった。

文様も、縄文の代わりに貝殻文・竹管文・爪押し文など付けた、実用性の高い土器を中心に、装飾性豊かな土器も幅を広げ、時代・地域と共に流行を作り上げ、変化していった。

中でも、造形が大きく・美しく、感動的な縄文芸術の粋を極めるような土器や、神への賛歌を表現したような、祀りのための祭器も見られたが、そのような縄文芸術美の背後には自然界の強大な力があり、神の力に対する尊厳が込められていたように思われる。
縄文土器には、それぞれが“型式”と“文様”を併せ持つ。



写真は、新潟県長岡市の馬高遺跡から出土した“火焔式土器”。
火焔式土器のような型式は、ムラ集団全体が等しく同調する模範的な型で、集団の観念・伝統などのまとまりを形成する型式で、“集団のアイデンティティ”である、共通性・普遍性を持つ。型式は、集団の象徴としての意味を持つ。



写真は、新潟県堂平遺跡から出土した、縄文中期の“王冠型土器”。

一方様式は、作り方の流儀を背景とする共通の雰囲気・効果を狙い、型式をデザインする流儀であり、ムラ集団共通の雰囲気を見せる“様式・文様の流派”とも云える。

火焔式土器と王冠型土器は、同じような様式であるが、型式がなんらかの対立する概念として、象形されたものではないかと推測される。

写真の通り、火焔式は「鶏冠状把手」と4単位の大きな突起を持ち、突起や口縁には鋸歯状の連続した小突起がついている。

一方、王冠型は、基本的な様式は火焔型と共通するが、大型の突起はシンプルな山形で、鋸歯状の連続突起がない。又ススや焦げた痕が残ることから煮炊きに使われたと見られる。
恐らく村の祭りなどの儀式の場で、調理用道具として使われたかもしれない。

様式とは、今日の例では、“萩焼・唐津焼・備前焼”など、それぞれが主張する独特な雰囲気・気風・個性が感じ取れるもの。

こうした様々な様式が、縄文草創期以来、晩期終末に至るまで約10,000年間、全国各地に出現し、一定の地域に広がり、やがて消えて、次の新様式との交替を繰返してきた。

縄文時代を通じて派生した型式数は数え切れないが、それらを整理して様式としてまとめると70程度とされる。
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縄文人の謎・ロマン “縄文土器”の起源とは!

2007年09月26日 | 歴史
縄文時代の貝塚巡りを暫く離れて、これからいよいよ縄文文化の本論に入るに当って、先ずは縄文土器からスタートする。
“縄文の美”を堪能してもらうため、縄文土器の各論に入る前に、その起源を振返ってみたい。

土器の起源については、未だにハッキリしないが、大きく分けて、“土器自生説”・“土器多元説”がある。多元説には、西アジアの新石器文化の中から土器作りが始められたという説や東アジアにも土器発祥地が複数存在したが、その中でも日本が有力候補に挙げられている。

西アジアの古い土器は、ほとんどが貯蔵用の深鉢土器又は盛付け用の浅鉢土器。
西アジアの土器は、パン作りにヒントを得たものらしく、なるほど成形し焼き上げるまでの工程は、土器作りと酷似している。

土器自生説の中にも、細かく編んだカゴの内側に粘土を貼り込めると、水漏れしにくい器ができる。それが火事で焼け、偶然に土器が発明されたという説もある。
カゴの網目模様を模写したような土器があるのはそのためと云う。

もう一つの土器自生説は、クリ・クルミ・ドングリ類などの豊富な食料資源が、土器発明の気運を育んだという説で、世界最古の“放射性炭素年代法”による検証が、有力な根拠となっている。



写真のように、鹿児島県加世田市の栫ノ原遺跡から出土した隆帯文土器は日本最古の土器で、今から12,000年ほど前のもの。

日本の土器は、初めから煮炊き専用で、“栫ノ原遺跡”の出土例のように焦げ付きがあったり、赤っぽく又は白っぽく火熱で変色していたりと、煮炊きの痕跡がハッキリ残っている。


他にも写真のような、東京町田市ナスナ原遺跡から出土した隆起線文土器も、今から12,000年ほど前のものと見られている。

狩猟採集民の食料は、植物性のものがほぼ三分の二を占め、植物性食物は煮沸しないと食べられないだけに、土器の使用が食料の質・幅を飛躍的に向上させるにいたった点で、文化的・社会的・経済的意義と共に、歴史的意義は大きい。



写真は、横須賀市“夏島貝塚”から出土したの撚糸文土器。
横須賀市の“夏島貝塚”は、日本最古の貝塚で、日本で初めての“放射性炭素年代法”の測定値により、約9,000年以上前の縄文早期の撚糸文土器が確認された。

早期の縄文人は、土器に海水を加えて貝を煮沸すれば、美味しいスープができ、叉貝類はふたを開けて肉を食べられるようになった。
これは画期的食文化革命に等しい一大発明。

東京湾が形成されて間もない頃に、早期の縄文人は、いち早く繁殖する貝の食料可能性に気づき、土器の開発に目覚めたと云える。

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縄文人の謎・ロマン 沖縄先史時代の謎とは!

2007年09月25日 | 歴史
沖縄諸島の特殊な自然環境、珊瑚礁に蔽われ珊瑚が堆積風化して、“琉球石灰岩”丘陵に形成された貝塚時代の縄文遺跡には、数々の謎が秘められている。

イヌ骨製ペンダントの役割とは?
イヌの骨製ペンダントが数は多くはないが、貝塚時代の遺物として出土している。
イノシシの骨が検出されていることから、イヌが狩猟ガイド・ヘルパーとして活用されたと見られる。



写真は、イヌ骨製ペンダント。
本土の縄文人は、イヌをいわば生活共同帯のメンバーとして、家族の一員同様手厚く扱った痕跡が、人とほぼ同じ埋葬形態から見受けられるが、イヌの骨に加工を施すような例は極めて稀であったと云える。

 沖縄の場合、本土と違ってイヌを食料に供していたか、或いはイヌを親愛なる家族メンバーのシンボルとして、その骨に加工して常に装着し、魔除けの守護神代わりを託したとも考えられる。
 精緻に加工されたイヌの骨製ペンダントの役割、その真相とは?

放射線状に配置されたイモガイの真相とは?
沖縄県の“地荒原貝塚”から、イモガイ製装飾品の他にイモガイそのものが数千年の年月を経ても、極めて新鮮な状態で検出されている。





写真は上から、地荒原貝塚から出土した、イモガイ及びイモガイ製ペンダント。
イモガイは何ら手を加えられることなく、そのままの姿で放射線状に配列された状態で数多く出土したと云う。

 放射線状に配列されたことは、それ自体を目的とした祈り・魔よけ等とは思われず、貝製品製作用の素材として備蓄していたと考える方が妥当ではないか?

 イモガイ製のアクセサリーが、食料確保のための、対外交易用製品としての役目を果たしていたかもしれない。

貝殻の長さが1m余りもある巨大シャコガイの用途とは?
本島西海岸からフィリピンに及ぶ東シナ海に広く棲息するシャコガイ、小振りの姫シャコガイから貝身の長さでも1m余りもある巨大シャコガイまで、大小様々なシャコガイが食用に供されたことは間違いない。



写真は、島内から出土した、巨大シャコガイのリアルな姿。
砂底にまぎれ隠れ、嗅覚により人間の幼児をさらい、飲み込み兼ねない巨大なシャコガイを命懸けで捕獲したのであろうか?

 捕獲用具には何を使ったのであろうか?
 巨大で刃先がシャープな打製石斧を使ったのか、或いは巨大な石皿で挑戦したのであろうか?

 空シャコ貝殻は、受皿か容器か、何目的に使ったのであろうか?
疑問は尽きない!

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弥生人の謎・ロマン 岡山県邑久町の“門田貝塚”とは!

2007年09月24日 | 歴史
門田貝塚は、岡山県南東部の吉井川河口東岸の自然堤防上に立地する、弥生前期から鎌倉時代にわたる集落遺跡で、昭和60年に“国史跡”に指定され、平成元年には指定地の公有化が行われた。

邑久町には本遺跡のほかにも縄文遺跡が点在するが、集落跡は見つかっていない。







写真は上から、本貝塚史跡公園現場、貝層表面及び貝層断面。

平成10年に現在の“門田貝塚史跡公園”が、弥生時代の“門田ムラ”として蘇り、2棟の竪穴住居復元と共に当時の植生樹木が系統的に配植され、野外ミュージアムとして機能している。

 発掘調査当時に採集した貝層表面や断面が保存・展示されている。
貝層表面・断面から見て取れる通り、幅約4~5m・深さ約1mの溝の中にハイガイ・ヤマトシジミなどの貝殻が、3期間部に分けて捨てられていたことが判明した。

次にハイガイ・ヤマトシジミなどの貝類、二ホンジカの骨などの食糧廃棄物の他、”門田式”壷、製塩土器そして石鎌を順番に紹介する。



貝類のほとんどが大形のハイガイで、他にハマグリ・カキ・ヤマトシジミなどが含まれ、イノシシ・シカ・タヌキ・鳥・魚などの骨も、弥生土器・石器と共に検出された。



 本貝塚ではイノシシがシカと比べて多く見つかっているが、いずれも幼獣は食べておらず、又骨の中には故意に割ったものがあり、骨の中の髄を取出して食べたと見られている。
これらの出土遺物から、当時の生活様式が稲作を中心として狩猟・漁労が盛んに行われていていたことが窺える。
魚介類は縄文時代と異なり、米穀類を補う副次蛋白源であった。



“門田式”土器は、瀬戸内沿岸地方における弥生前期後半の標識土器として認知されている。



又多量の製塩土器の出土例は、穏やかで日照りに恵まれた気象条件が、当時から塩田伝統産業を育んでいたと云える。

以下南国のゴホウラ貝製腕輪、骨角製装飾品そして石棒を紹介する。





  沖縄近海産のゴホウラ貝製腕輪の他、香川県産サヌカイト製石鎌などの出土遺物は、海上交通を主とする交流・交易を物語っている。





 写真は上から、簪・針・ペンダントなど骨角製装飾品及び香川県産サヌカイト製石棒。

又骨角製装飾品・石棒の他に、イノシシの下顎に孔が空けられているものもあり、農耕・狩猟の「豊作・豊漁」を祈り・祀る儀式に使われたものと考えられる。

稲作による食生活の安定は、精神文化面にも余裕・ゆとりをもたらしたものの、天変地変を憂い・備える伝統的精神文化は、このころには芽生えていたと思われる。
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縄文人の謎・ロマン 愛媛県波方町の“江口貝塚”とは!

2007年09月23日 | 歴史
江口貝塚は、四国の北側・瀬戸内海に面した貝塚遺跡としては、極めて珍しい貝塚として注目された。

江口貝塚は、馬刀潟湾西端の山際に位置し、平成元年から6年まで4次にわたる発掘調査の結果、約6,000年前の縄文前期から弥生時代初頭まで、約4,000年間と云う長期間にわたる遺跡であることが判明。

当貝塚の出土遺物は、約6,000年前の土器をはじめ多数の土器片・石器・カキやハマグリなどの貝殻・貝輪などの装飾品・タイやスズキ、シカやタヌキなどの骨と骨製品・住居跡・縄文晩期の人骨・配石遺構・配石墓・土壙墓など枚挙にいとまがない。

縄文前期からの周辺の地形変化、環境の移り変わり、縄文人の住まいや生計など生活環境・様式を明らかにしている、全国的にも類まれに見る貴重な遺跡として知られている。





写真は上から、本貝塚遺跡現場及び周辺の情景。
当貝塚の背後にある小丘陵に上がれば、沖を行き交う船や芸予諸島の島々が眺められ、瀬戸内海の穏やかさを満喫できる風光明媚な所。

電気探査など調査の結果、当貝塚は三日月状に近い形態で南北約14m・東西4~10mの範囲に広がり、丘陵斜面に沿うように堆積していたと云う。

縄文中期には、住居址・配石遺構などが平坦面を利用していたものが、後期以降になると、貝塚層位は西の山側から東の低地に向けて緩やかに傾斜を持ちながら堆積するように変化している。

このことは人々の生活面がより高い山側に移動した結果と考えられ、時代の環境変化を如実に物語っていると云える。



写真は、本貝塚出土の配石遺構。
縄文中期前半のモノで、楕円形状に地面を掘り込み、その縁に石を置いた。

配石遺構にはイルカの脊柱骨が並べられたり、サザエの集積が見られたりしていることから、海の幸を供える豊漁祈願をした、祭祀目的の遺構と見られる。
配石遺構は西日本では数少なく貴重な資料と云える。





写真は上から、本貝塚から出土した、男性人骨及び女性人骨。
縄文晩期の長楕円形に掘りくぼめた2基の土壙墓には、各々熟年男性は北枕の仰臥伸展葬で、熟年女性は東枕の仰臥伸展葬で埋葬されていたと云う。

 他にも3基の配石墓が人骨片を伴って発見されていることから、丘陵裾部は縄文後・晩期の集団墓域として利用されていたと考えられている。
墓域の存在はこの付近に集落が形成され、季節的移動の少ない定住集落を形成していたと見られる。





写真は、本貝塚から出土した、江口貝輪及び骨角器。
貝殻で作った貝輪は、完形品でイタボガキ製と云われる。
又骨製刺突具や釣針・ペンダントなど骨角器も、装飾品・生活必需品として生活の一部を成していた。

この他にも多様式・多量の土器片が各時代間断なく発見され、一連の出土遺構・遺物は生活の基本要素を構成し、かつ当時の生活形態を物語る生々しい発見として、瀬戸内海と人間との関わり合いについての調査・研究に資するものと確信する。

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縄文人の謎・ロマン 鹿児島県垂水市の“柊原貝塚”とは!

2007年09月22日 | 歴史
柊原(くぬぎばる)貝塚は大隈半島の鹿児島湾沿い、標高約10mの沖積平野に立地する、縄文後期から古墳時代にかけての複合遺跡。

農道整備事業に伴い平成3年に分布調査、平成7年には文化財確認調査、そして平成9年6月から10年7月にかけて約2,300㎡について全面発掘調査が実施された。

調査の結果、約500㎡に広がる貝塚・土壙墓など多くの遺構の他、5体の人骨・イヌの骨や獣骨・魚骨・骨角器・炭化したドングリなどの種・土器・土製品・石器・石製品・軽石製品など、縄文後期から晩期初頭にかけての遺物が大量に検出された。



写真は、本柊原貝塚現場。
台地中央に積み上げられた貝塚には、直径約200mを越すモノも見つかり、マガキのほか、バイガイなどの巻貝が多いことが特徴として挙げられる。

 火山灰で覆われている鹿児島県内において貝塚が、唯一遺物を残してくれる保存地帯・タイムカプセルの役割を果たしたと云える。

代表的遺物の一つが60点余りの軽石製岩偶で、軽石に線刻を施し、人体や物体を表現したと考えられる。
5~25cmほどの大きさで、棒状ないし楕円盤状を呈する。

シラス台地で手に入る軽石を使っている点が火山国らしい特徴で、軽石をいろいろな大きさの楕円形に整形し、昆虫のセミのような図案の人体などを表現したものも見られる。

以下いろいろな図案の軽石製岩偶を紹介する。







写真は、いろいろな図案の軽石製岩偶。
線刻による頭部・両腕・足の描き方には規則性が窺え、赤色顔料を施した痕跡が残っているモノも数点出土したと云う。

 岩偶は鹿児島湾沿岸の遺跡から出土するが、当遺跡が岩偶作りの中心地であったと見られる。
全般に作りが粗雑で、急ごしらえの感があり、祭祀など何らかのイベントのために作られたと考えられている。

又もう一つの代表的出土遺物には、いろいろな装飾品が挙げられる。
 以下それら代表的装飾品を紹介する。


これは、ウミガメ甲羅製などのペンダント!



 写真は、見事なヒスイ製ペンダントや玉!



 写真は、鹿角製カンザシやペンダント、サメ牙製玉など。



 写真は、軽石製のペンダント!



 写真は、貝製の玉類!



 写真の環状軽石は何のために作られ、使われたのであろうか?
3ヶ所の割れ目は、偶然だろうか? それとも意図的に入れたのであろうか?



 文様入り土盤は、何目的に使われたのであろうか?

これら各種アクセサリーは、身分的格差を象徴するような祭祀用具と考えられる。
又軽石製品をはじめ、これらアクセサリーは、再生・食糧の安定・豊穣を祈願した祭祀用に供せられたと見られ、豊かな精神文化・信仰を裏付ける遺物として注目される。





写真は上から、本貝塚から出土した、“市来式”深鉢土器及び“指宿式”深鉢土器。
縄文後期後半から晩期初頭にかけての地層から出土した深鉢土器で、“貝殻文系土器”として鹿児島県の地域色を色濃く表している。

農道に直接かかわっていない周辺や貝塚の貝層部分は、ほとんど現状保存されたままであり、貝塚の中には多くの人骨が眠り、又数多くの遺構・遺物が今尚残されていると考えられる。
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縄文人の謎・ロマン 愛知県渥美町の“伊川津貝塚”とは!

2007年09月21日 | 歴史
渥美町は、黒潮踊る太平洋と波静かな三河湾に囲まれ、温暖な気候に恵まれた豊かな自然の中で、原始時代より、深い歴史を刻み続けた。

先人たちはこの美しい土地に親しみ住み着いて、自然との戦いの中で知恵を出し合い幾度かの苦難を乗り越えてきたと思われる。

 考古学上知名度の高い、“伊川津及び保美”の両縄文貝塚からは、抜歯や叉状研歯の人骨・石鏃を射られた人骨・磨製石斧で一撃された頭蓋骨などの出土、再葬の風習や有髯土偶などをはじめ珍しい骨角器等々から、地域固有の生活様式・他集団との抗争を思わせる集落状況など、当時の渥美縄文社会の様子が垣間見える。

伊川津貝塚遺跡は、太平洋に西向きに突出した渥美半島のほぼ中央にあって、三河湾の穏やかな海に面して北向きに開けた、縄文後期から晩期にかけての貝塚と墓地を伴う集落遺跡。

本貝塚遺跡は、東西約480m・南北約240mに及ぶ礫堆の上、標高約2.5mの沖積台地に形成されており、大正11年以降再三にわたる発掘調査の結果、183体の人骨が発見されたことで一躍注目された。





写真は上から、本貝塚遺跡現場及び本貝塚が所在する神社境内。
本貝塚そのものは、“伊川津神明社”の境内を中心に、東西約180m・南北約60mの半円形を呈する約1.1haにわたって所在すると云う。

境内の広場や隅々に自然礫堆の砂利が広がり、写真の通り現在でも表面に貝殻片が散乱している。
貝殻の分布は、伊川津集落全体の1/3に及び、今日でも“県史跡”に指定された森の中に、貝層の上面が露出している。



写真は、本貝塚遺跡から出土した、貝層断面。
貝塚は6層より成り、最下層は広い範囲にわたって、焼けて破砕された貝の層があり、黒色腐蝕土から成る縄文後・晩期の地表面であったと見られている。

貝類はアサリを中心にウチムラサキ・カキ・アカニシなどが多く見られる。
当地は今日でも“大粒アサリ”の漁場として広く知られている。



写真は、本貝塚から出土した、“吉胡式土器”。
有文土器の占める割合は僅か3%余りに過ぎず、器形は深鉢形土器が大部分を占める。
写真のような吉胡式深鉢土器は、平行沈線・横線を持つ、縄文晩期初頭のモノで、それ以降は近畿地方からの土器の影響が顕著になって行ったと云う。







写真は、本貝塚から出土した石器類で、石鏃・石皿・石錘・石斧・石棒・石剣など。
石器類では石鏃の出土量が6割を超えるほど圧倒的に多く、次いで石斧・石錘と続く。石棒・石剣は当地では大変珍しい発見と云う。

石器の石材は、ほとんどが他地方産の安山岩で、物資の交易を媒介して、他集落と交流していたものと見られる。





写真は、本貝塚から出土した骨角器で、牙錐・根挟み・貝輪・刺突具・釣針・腰飾りなど。

骨角器は鹿角製以外に、オオカミ・キツネ・イノシシなどの犬歯・臼歯製のモノもあり、種類も多様に及ぶ。
日常用途ばかりでなく、儀式用・戦闘用などと見られる用具もあり、当時の生活・精神文化の多様性が偲ばれる。

 日常用具として特に棒状刺突具・釣針は石錘と合わせ、各々漁法に見合った漁労活動に大活躍したと見られ、マダイ・スズキなどの大形魚やサバ・アジ・キス・イワシ・ハゼなどの小形魚を含め、伊川津縄文人の主たるタンパク源は、魚類に依存していたと見られる。

又貝輪はベンケイガイ製やオオツタノハ製腕輪の中には、人骨着装状態で出土した例も存在したと云う。



写真は、本貝塚から出土した、“叉状研歯”。
人骨はこれまでの発掘で183体を数え、出土数は全国第三位と云われる。

埋葬方法は屈葬・伸展葬のほか合葬・再葬など多様にわたり、洗骨も普及していたと見られている。
宗教的・呪術的意味合いがあったのかも知れない。
再葬の頻度が高かったのは、骨肉一体の死者の復活を恐れて、再葬による解体措置をとったのかも知れない。

 抜歯はほとんどの成人に認められ、特に下顎の左右犬歯を抜歯する例が多く、成人式・結婚式・葬式など儀式の種類によって抜く歯が決まっていたと考えられている。
写真に見られる叉状研歯(上顎歯が叉状に加工されている)を持つ人骨は、副葬品から集団指導者と見られている。

これまでの発掘調査では未だに住居址群が突き止められていない状況下にあり、伊川津集落の解明は緒についたばかりであり、今後住宅建築・改築などの機会を通じ真相解明に向け、更に調査が進められることを念じる。

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縄文人の謎・ロマン 愛知県刈谷市の“本刈谷貝塚”とは!

2007年09月20日 | 歴史
本刈谷貝塚は、本刈谷神社境内から西隣に広がり、“衣浦”を挟んだ三河地方最大の縄文晩期貝塚として位置付けられている。

 ハイガイ・ハマグリ・オキシジミ・オオノガイなどの出土貝類のうち、浅瀬の砂泥質を好むハイガイが約70%を占めることから、当時の衣浦には軟弱な砂泥地の続く遠浅の海岸が広がっていたと見られる。

 “県指定”の史跡である本貝塚から出土した土器は、押引文・平行線文・波状文を特徴とする、“元刈谷式”として縄文晩期前葉の土器文化を代表する。

数多くの土器片以外にも、20体以上の人骨、シカ・イノシシ・イヌ・アナグマなどの獣骨、キジ・マガモ・カラス・ツルなどの鳥骨、フグ・クロダイ・スズキ・エイなどの魚骨、シイ・ミズナラ・クヌギ・クリ・トチ・ドングリなどの堅果類などのほか、石製品・骨角器・貝製品等々が出土している。





写真は上から、本貝塚遺跡の工事現場及び貝塚が所在する神社境内。
平成16年4月から6月にかけ本刈谷神社の社務所建替えに伴い、緊急発掘調査が行なわれた。
今回の調査で特徴的な点は、土壙内に幾つかの焦土が検出され、その中からは焼骨も見つかった。





写真は上から、本貝塚から出土した、屈葬人骨及び盤状集積人骨。

以前の発掘調査で犬歯の“抜歯”や、フォーク状の切込みを施した“叉状研歯”を伴う10数体の埋葬人骨が検出されたが、今回の調査でも“屈葬人骨・土器棺埋葬幼児骨”の他、頭蓋骨や一部のみが残る人骨など合計10体分が発見されたと云う。

 人骨の特徴は、狩猟・漁労・植物採集などハードな労働のため、下肢の筋肉が異常に発達していた点、更には歯の磨耗が著しかったことから、当時の厳しい食生活環境が窺い知れた点が指摘されている。

 写真のような“盤状集骨葬人骨”は壮年男性1体分の骨を集め、割られた頭蓋骨や大腿骨などが、四肢骨で四角い枠が作られ、その中に配置されている。
改葬による格別な埋葬方法として注目される。
この被葬者の身長は四肢骨の長さから158.7cmと推定され、当時の平均的縄文人男性の身長と云われる。

本貝塚の出土遺物のうち、特徴的なモノを以下紹介する。





写真は上から、本貝塚から出土した、矢形骨製品及び弓筈形骨製品。

シカ・イノシシなどの狩猟には弓矢が不可欠な道具であったと見られ、石鏃と共に写真のような“矢形骨製品”(骨鏃)や鏃を矢柄に装着するための“弓筈形骨製品”(根バサミ)などが出土している。

唯一埋葬された動物と云われるイヌが、手厚く埋葬された形で発見されていることから、足の速いシカ・夜行性のイノシシなどの狩猟には、イヌの強力な援護を必要としたと考えられる。







写真は上から、本貝塚から出土した、貝輪、硬玉製丸玉及び土製ペンダント。
本刈谷縄文人の豊かな暮らし振りを偲ばせる装飾品が数々検出されている。

 貝塚らしく貝輪が目立つが、中でもサルボウ貝製が数多い。
“硬玉製丸玉”や“土製垂飾玉”は、ネックレスというよりペンダントとして装着したと見られる。
刻みや細線を施した土製品も、ペンダントとして使われたと考えられる。

これら装身具以外にも、魚椎骨製や土製の耳飾り、牙製勾玉などの首飾り等々が出土している。
以上の出土遺物から、本刈谷縄文人の生活文化や風習の一端が垣間見られる。
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縄文人の謎・ロマン 神奈川県小田原市の“羽根尾貝塚”とは!

2007年09月19日 | 歴史
羽根尾貝塚は、大磯丘陵の西端に近い曽我丘陵から東北部に開けた沖積地へと延びる丘陵先端部傾斜に立地し、貝塚及び縄文前期遺物包含層は、地表下2~4mの泥炭層中より発見された。
縄文前期の植物質・動物質など、自然遺物の夥しい出土状況には圧倒されたと云う。

羽根尾工業団地の建設に伴う発掘調査は、平成5~11年にかけて継続的に実施され、縄文前期の貝塚を含む縄文・古墳・奈良・平安から近世の各時代にわたる遺構・遺物が検出された。





写真は、本貝塚遺跡現場2点。
当貝塚は標高26~27mに所在し、相模川以西では平塚市の万田貝塚、茅ヶ崎市の西方貝塚に次ぐ3番目の貝塚と云う。

 “アカホヤ火山灰層”が地表下約5.5mより確認され、その直下よりマガキ・ハイガイなどの自然貝層が検出された。

当地域は地盤の隆起・沈降の激しい地域として知られ、縄文前期前半には標高が現在より20m前後低かったと見られ、入江状の内水面に立地していたと考えられている。

次に縄文前期の限られた時期を特徴とする多種多様な出土遺物を取上げると、関山式土器や磨石・叩石などをはじめ、泥炭層中に遺物包含層が形成されたため、木製品・編物・縄・骨角器・自然遺物など、保存状態の極めて良好な有機質遺物が多量に検出された。



写真は、本貝塚から出土した、波状口縁土器。
在地の関山式土器で、他に在地の黒浜式土器と合わせ全体の過半を占めるが、東海地方の土器が全体の4割という高率である点が大きな特徴として注目される。
小田原の地域特性から、東海地方との文化交流・交易が盛んであったと見られる。

木製品では黒・赤漆塗り木製容器類・櫂・丸木弓・樹皮巻き飾り弓・建築部材・板材などが検出されている。



写真は、本貝塚から出土した、朱塗り木製容器。
全体に黒漆を塗布し、口縁部には幅5cmほどの赤漆を上塗りしている。
漆塗りの木製容器破片は、総数70点以上にのぼり、デザイン・技法など縄文前期文化の最高水準を示していると云う。



写真は、本貝塚から出土した、朱塗り櫂・弓など。

大量に出土した自然遺物から、羽根尾縄文人の採集・狩猟・漁労活動の内容が明らかにされつつある。

シカ・イノシシなどの獣骨は夥しい量が出土しており、同一地点からは大量の石皿・磨石・叩石などが見つかっていることから、水辺での動物解体場と考えられ、又狩猟用の弓8点などの出土例と合わせ、活発な狩猟活動が想像出来る。

又イルカ・カツオ・メカジキ・サメなどの魚骨は、活発な外洋性漁労活動を彷彿させ、十数点を数える櫂の出土は漁労活動に舟を使っていたことが分かる。
写真のような、樹皮巻き飾り弓も出土している。

木製品以外では骨角器も良好な状態で出土している。
刺突具・ヘアーピン・ペンダントなどが多数見つかっている。



写真は、本貝塚から出土した、ヘアーピン・ペンダント・軽石製ウキなど。
軽石製ウキについては、当地は縄文前期海進などにより、相模湾入した海面近くに形成された集落であり、大量の魚骨類の出土状況からも、沿岸での漁労活動は、外洋漁労と共に盛んであった証左と見られる。

ペアピン・ペンダントなどの骨角製装身具の中でも、先端部に刻みを有する長さ15cmほどのヘアピンは、写真の通り、精巧に作られている。
文化生活レベルの高さを物語る装飾品として注目に値する。

この他にも管玉・赤彩された浅鉢土器・漆塗り土器などの特殊遺物も出土したと云う。

又遺物が集中する範囲に重複する形で樹木の集積が検出され、木道など人為的な遺構の可能性があると云われ、今後遺物整理作業が進むにつれて、周辺の自然環境の復元と共に、羽根尾集落の実像が明らかにされていくものと期待したい。
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縄文人の謎・ロマン 千葉県市原市の“根田祇園原貝塚”とは!

2007年09月18日 | 歴史
今日から暫くは、叉貝塚巡りに戻って、国指定史跡若しくはそれに準ずる、代表的貝塚を紹介する。

先ず根田祇園原貝塚は、市原市と千葉市との境界を流れる村田川と市域のほぼ中央を流れる養老川に挟まれた、市原台地上に所在する。

1977年から4次にわたる発掘調査、更には1994年以降5ヵ年計画で整理作業が行なわれたが、貝塚の全体像は未だ見えて来ないと云う。



写真は、根田祇園原貝塚現場。
本貝塚は、“上総国分尼寺跡”の西側に一部重複する形で広がる馬蹄形貝塚。

 縄文後期から晩期にかけての住居址が51軒検出されたが、いずれも出入口と見られる施設が敷設され、又時期の変遷と共に住居の平面形態に変化が見られた。

 更に主柱穴は見られないが、壁柱穴が住居を一巡し、中央には径90cmほどの炉址が見つかるなど当縄文ムラの特徴が確認されたと云う。

遺物包含層からは多量の土器に混じって、以下の写真のような異形土器が検出された。







写真は、本貝塚から出土した、異形土器3点で、形態が変わっている。
又貝層中・貝層下からは、埋葬人骨が112体も出土したことから、貝塚の規模を改めて窺い知ると共に、死者を呪う荘厳な祭祀儀礼が異形土器から想い起こされる。
これらの異形土器は、祭祀儀式に使われ役立てられたと考えられる。




 写真は上から、本貝塚から出土した、ヒスイ製大珠及び土製耳飾り。
貝層中からは、約300点にのぼる骨角貝製品も出土し、特に装身具として装着されたと見られることから、写真のようなアクセサリーなどをお供に、祭祀儀礼が活発に行なわれたと考えられる。

ほぼ同時期の貝塚である西広貝塚は、南東約1.3kmの距離に所在することから、西広貝塚と同じような自然環境・精神生活様式などが想い起こされる。
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縄文人の謎・ロマン “葬送法と埋葬形態”は!

2007年09月17日 | 歴史
縄文時代の葬送法は土葬で、楕円形の土坑墓に手足を折り畳んで葬る屈葬が一般的で、弥生時代以降は、伸展葬が一般的となった。

岩を胸に抱かせて葬る抱石葬も見られ、正常死か異常死かを問わず、縄文人は死者が蘇ってくるのを恐れていたと云う。
逆に、屈葬は子宮の中の胎児の姿であり、再生への願望を現していたという解釈もある。

縄文中期~後期の中部・関東地方に発達した環状集落は、中心に墓地・周縁に住居地と云う構造を持っていたが、死者を穢れたものとして周縁化するよりはむしろ、積極的な先祖崇拝の観念があったことが窺える。



写真は、神奈川県厚木市大久根遺跡から出土した埋甕と見られる深鉢土器。
縄文中期以降では遺体を甕棺に入れて埋葬することもあったが、そのほとんどが胎児叉は乳児で、流産・死産の子を特別に葬ったと推測される。
この場合も、死んだ子を子宮と看做される甕棺に戻して再生を願うという意味合いがあったかもしれない。

死産児の遺骨を、住居の近辺のトイレや玄関など、女性がよくまたぐ場所に埋葬して再生を願うという、近年まで残っていた風習と結びつける見方もある。



写真は、長野県唐渡宮遺跡から出土した埋甕で、性器を広げた女性が描かれている。

長野県唐渡宮遺跡から出土した埋甕には、性器を広げた女性の姿が描かれているが、そこから下に伸びる線は、赤ん坊にも見えるし、子供の魂が立ち昇って子宮に帰っていくようにも見える。

埋甕の中には、上下を逆にして底部に穴を開けたものも多く、子供の霊魂が抜けていけるようにとの配慮からかもしれない。
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縄文人の謎・ロマン “環状列石・ストーンサークル”とは!

2007年09月16日 | 歴史
環状列石は、縄文時代後期の集合墓地で、石が環状に配置されている点が注目される。特に北海道・東北に集中しているのは、当時気候の寒冷化により、多くの餓死者が出たため、集合墓地を必要としたためと思われる。



写真は、北海道余市町西崎山ストーンサークル現場。
例えば、小樽市から余市町にかけてストーンサークルが80基以上見つかっているが、いずれも約3,500年前の縄文後期に造られている。

ストーンサークルで特筆される点は、山麓とか、山頂の平坦地とか、辺りを見渡すと山々や海が見えるよう、景観を取り込んだところに配置されている。
縄文人の美意識の一端が窺えるが、そればかりでなく太陽の運行と密接なかかわりを持つ、“方位観念”を巧みに取り込んだと見られる。

以下具体的な事例を紹介する。
先ずは、秋田県鹿角市の大湯環状列石と夏至の日没を例に取上げる。








写真は上から、鹿角市の大湯ストーンサークルで、万座の環状列石、野中堂と呼ばれる環状列石現場及び野中堂の環状日時計列石。

大湯環状列石には、写真の通り、万座と野中堂の2つの列石があるが、二重の環を構成して、外帯の直径は50mほどもあり、外帯と内帯との間に“日時計”と呼称される環状列石が置かれている。

中心に細長い石を立て、その周りに放射状に石を並べている構築物で、万座と野中堂の日時計は、互いに似た位置関係にある。
万座と野中堂に鎮座する2つの日時計の中心が、夏至の日に、日没線上に一直線に並ぶことが確認されている。

縄文人が冬至や夏至をはっきり意識し、日時計の設計・配置の中に、このことを織り込んでいたようだ。縄文カレンダーの役割を果たしていたことになる。

一方野中堂の環状列石は、東西南北の四方向に大きな石が置かれていることから、方位を意識していたことと共に、土器の模様が4を単位とするものが多いことを考え合わせると、縄文文化は“四分制世界観”が存在したことが想定される。



写真は、青森市の小牧野遺跡の環状列石現場。
東北地方では青森市の小牧野遺跡も、多くの石を二重に並べたストーンサークルの中心に机ほどの大きな石を据え、夏至の日に、そこから“馬頭観音”の上に朝日が顔を出したと云う。

馬頭観音の位置には、縄文人が造った日時計の土台が残されていた。
小牧野のストーンサークルは、大規模な削平の土木工事を行って、斜面を平らにして造営された。この平らな地点しか太陽を見通せる場所がなかったらしい。

その他にも、安中市の天神原遺跡を例に取ると、ストーンサークルの中心に3本の細長い石棒が立てられ、それらの石は妙義山を指している。





写真は上から、安中市の天神原遺跡の配石遺構及び遺跡現場から望む、妙義山の春分の日の日没光景。
妙義山は3つの峰山で、そのうち真中の頂上に、春分・秋分の日に、日が沈むという、縄文人が太陽の運行を見て、カレンダーとして利用していたと見られる。

縄文人は、冬至や夏至などを自らの村づくりの設計の中に取り込み、縄文カレンダーを作って、イベントや集団作業のスケージュールを周知徹底していたと想像できる。
若しそうであれば、太陽の運行を生活のサイクルに利用した、知的レベルには改めて驚かされる。





写真は上から、北海道斜里町の朱円周提墓現場及び金沢市チカモリ遺跡の環状木柱列。

縄文後期の東北地方中心の環状列石が墓石に対して、縄文後期~晩期の北海道では、写真のような“環状土蘺”と呼ばれる周提墓、北陸では環状木柱列が造られていた。いずれもストーンサークルの変形・発展形と見られる。
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