慶喜の対直弼・老中直訴から1ヶ月も経たないうちに、井伊直弼の大弾圧が始まった。
日米修好通商条約の調印や紀伊藩主・徳川慶福の将軍擁立に反対する、一橋慶喜擁立派の公卿・大名・志士ら100余名を処罰し、吉田松陰・橋本左内ら8名を死刑にした。
写真は、山口萩市、生誕地に隣接した、吉田松陰墓所。
具体的には、慶喜・斉昭・慶永・水戸藩主慶篤・尾張藩主慶恕らに“登城禁止”・“隠居慎”の処罰が出された。
又幕府転覆を謀ったとして、外様大名・吉田松陰・橋本左内・京都の公卿に対して死刑の処分が下された。
写真は、死刑の処分を受けた、吉田松陰と橋本左内の肖像画。
特に水戸藩には厳しい態度でのぞみ、斉昭を水戸に永蟄居、家老・安島帯刀を切腹させたのを始め、4人の水戸藩士を死刑に処した。
世にいう「安政の大獄」であった。
慶喜は処分に納得ができないまま、謹慎を続け、若隠居は丸4年に及んだ。
雨戸を閉め切った部屋の中で、誰にも会わない謹慎の日々を過ごしたと云う。
謹慎が解かれたのは、桜田門外の変で井伊直弼が倒れ、更に父・斉昭の死後であったが、それでも未だ面会・文通は依然として禁止されていた。
父・斉昭の葬儀すら出席できない謹慎の身の不遇に甘んじたまま、意地を通すことで抵抗したと云う。
田沼家に生まれ、越前藩松平家の養子となり、藩主となった松平慶永は、慶喜に好意的で、政事総裁職として、協力して幕政改革を進めていた。
13代将軍継嗣問題の時には、山内豊信らと慶喜の擁立を画したが失敗、安政の大獄では慶喜と同様に隠居・謹慎に処せられた。
“安政の大獄”にまで至った、直弼の功罪については、いろいろな見方がある。
元々彦根藩が海岸防御を担っていたため、直弼は欧米軍事技術・知識を初め海外情報には通じていたこともあり、開国を通じて日本の国力を強化することは、植民地化が迫っていたアジア周辺事情から、生き残り必至条件であるとの危機感を持っていたと思われる。
もう一つの直弼の危機認識は、斉昭を中心に水戸藩が、朝廷と同じ“尊皇攘夷思想”に便乗して、幕府を飛び越えて、朝廷と結託し、幕府・直弼批判などの勅許を出させるなど、いわば国家転覆クーデターまがいの行動は、国家分裂の危機に陥れかねないし、欧米列強国に付け入る隙を与えかねないとした危機意識が大英断の背景にあったと思われる。
井伊家に残された古文書には、直弼が“安政の大獄”を決断した心境が綴られているそうだが、死刑を覚悟した上での苦渋の選択であったと云う。
日本を植民地化の危機から救った功労者として、直弼の国際的見識・行政責任者としての決断力は、大いに評価されるべきと思われる。
このような大量処罰は、井伊直弼への激しい反発を起こし、中でも水戸藩は、斉昭以下が厳罰に処せられ、更に孝明天皇による水戸藩に対する批判勅許を朝廷に返上するように幕府から命ぜられたため、尊攘派の藩士たちは憤激して、「桜田門外の変」を起こすことになった。
日米修好通商条約の調印や紀伊藩主・徳川慶福の将軍擁立に反対する、一橋慶喜擁立派の公卿・大名・志士ら100余名を処罰し、吉田松陰・橋本左内ら8名を死刑にした。
写真は、山口萩市、生誕地に隣接した、吉田松陰墓所。
具体的には、慶喜・斉昭・慶永・水戸藩主慶篤・尾張藩主慶恕らに“登城禁止”・“隠居慎”の処罰が出された。
又幕府転覆を謀ったとして、外様大名・吉田松陰・橋本左内・京都の公卿に対して死刑の処分が下された。
写真は、死刑の処分を受けた、吉田松陰と橋本左内の肖像画。
特に水戸藩には厳しい態度でのぞみ、斉昭を水戸に永蟄居、家老・安島帯刀を切腹させたのを始め、4人の水戸藩士を死刑に処した。
世にいう「安政の大獄」であった。
慶喜は処分に納得ができないまま、謹慎を続け、若隠居は丸4年に及んだ。
雨戸を閉め切った部屋の中で、誰にも会わない謹慎の日々を過ごしたと云う。
謹慎が解かれたのは、桜田門外の変で井伊直弼が倒れ、更に父・斉昭の死後であったが、それでも未だ面会・文通は依然として禁止されていた。
父・斉昭の葬儀すら出席できない謹慎の身の不遇に甘んじたまま、意地を通すことで抵抗したと云う。
田沼家に生まれ、越前藩松平家の養子となり、藩主となった松平慶永は、慶喜に好意的で、政事総裁職として、協力して幕政改革を進めていた。
13代将軍継嗣問題の時には、山内豊信らと慶喜の擁立を画したが失敗、安政の大獄では慶喜と同様に隠居・謹慎に処せられた。
“安政の大獄”にまで至った、直弼の功罪については、いろいろな見方がある。
元々彦根藩が海岸防御を担っていたため、直弼は欧米軍事技術・知識を初め海外情報には通じていたこともあり、開国を通じて日本の国力を強化することは、植民地化が迫っていたアジア周辺事情から、生き残り必至条件であるとの危機感を持っていたと思われる。
もう一つの直弼の危機認識は、斉昭を中心に水戸藩が、朝廷と同じ“尊皇攘夷思想”に便乗して、幕府を飛び越えて、朝廷と結託し、幕府・直弼批判などの勅許を出させるなど、いわば国家転覆クーデターまがいの行動は、国家分裂の危機に陥れかねないし、欧米列強国に付け入る隙を与えかねないとした危機意識が大英断の背景にあったと思われる。
井伊家に残された古文書には、直弼が“安政の大獄”を決断した心境が綴られているそうだが、死刑を覚悟した上での苦渋の選択であったと云う。
日本を植民地化の危機から救った功労者として、直弼の国際的見識・行政責任者としての決断力は、大いに評価されるべきと思われる。
このような大量処罰は、井伊直弼への激しい反発を起こし、中でも水戸藩は、斉昭以下が厳罰に処せられ、更に孝明天皇による水戸藩に対する批判勅許を朝廷に返上するように幕府から命ぜられたため、尊攘派の藩士たちは憤激して、「桜田門外の変」を起こすことになった。