近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

徳川慶喜物語 “安政の大獄”

2007年04月30日 | 歴史
慶喜の対直弼・老中直訴から1ヶ月も経たないうちに、井伊直弼の大弾圧が始まった。

日米修好通商条約の調印や紀伊藩主・徳川慶福の将軍擁立に反対する、一橋慶喜擁立派の公卿・大名・志士ら100余名を処罰し、吉田松陰・橋本左内ら8名を死刑にした。



写真は、山口萩市、生誕地に隣接した、吉田松陰墓所。

具体的には、慶喜・斉昭・慶永・水戸藩主慶篤・尾張藩主慶恕らに“登城禁止”・“隠居慎”の処罰が出された。
又幕府転覆を謀ったとして、外様大名・吉田松陰・橋本左内・京都の公卿に対して死刑の処分が下された。





写真は、死刑の処分を受けた、吉田松陰と橋本左内の肖像画。

特に水戸藩には厳しい態度でのぞみ、斉昭を水戸に永蟄居、家老・安島帯刀を切腹させたのを始め、4人の水戸藩士を死刑に処した。
世にいう「安政の大獄」であった。

慶喜は処分に納得ができないまま、謹慎を続け、若隠居は丸4年に及んだ。
雨戸を閉め切った部屋の中で、誰にも会わない謹慎の日々を過ごしたと云う。
謹慎が解かれたのは、桜田門外の変で井伊直弼が倒れ、更に父・斉昭の死後であったが、それでも未だ面会・文通は依然として禁止されていた。
父・斉昭の葬儀すら出席できない謹慎の身の不遇に甘んじたまま、意地を通すことで抵抗したと云う。

田沼家に生まれ、越前藩松平家の養子となり、藩主となった松平慶永は、慶喜に好意的で、政事総裁職として、協力して幕政改革を進めていた。
13代将軍継嗣問題の時には、山内豊信らと慶喜の擁立を画したが失敗、安政の大獄では慶喜と同様に隠居・謹慎に処せられた。

“安政の大獄”にまで至った、直弼の功罪については、いろいろな見方がある。
元々彦根藩が海岸防御を担っていたため、直弼は欧米軍事技術・知識を初め海外情報には通じていたこともあり、開国を通じて日本の国力を強化することは、植民地化が迫っていたアジア周辺事情から、生き残り必至条件であるとの危機感を持っていたと思われる。

もう一つの直弼の危機認識は、斉昭を中心に水戸藩が、朝廷と同じ“尊皇攘夷思想”に便乗して、幕府を飛び越えて、朝廷と結託し、幕府・直弼批判などの勅許を出させるなど、いわば国家転覆クーデターまがいの行動は、国家分裂の危機に陥れかねないし、欧米列強国に付け入る隙を与えかねないとした危機意識が大英断の背景にあったと思われる。

井伊家に残された古文書には、直弼が“安政の大獄”を決断した心境が綴られているそうだが、死刑を覚悟した上での苦渋の選択であったと云う。

日本を植民地化の危機から救った功労者として、直弼の国際的見識・行政責任者としての決断力は、大いに評価されるべきと思われる。

このような大量処罰は、井伊直弼への激しい反発を起こし、中でも水戸藩は、斉昭以下が厳罰に処せられ、更に孝明天皇による水戸藩に対する批判勅許を朝廷に返上するように幕府から命ぜられたため、尊攘派の藩士たちは憤激して、「桜田門外の変」を起こすことになった。





徳川慶喜物語 “安政の大獄”前夜・慶喜対井伊直弼

2007年04月29日 | 歴史
これからしばらくの間、“安政の大獄”から“慶喜”将軍就任までの幕末激動期の大混乱・大事件について、政治的・社会的背景や意義などを取上げる。

先ず1850年代に入り、ペリー来航と云う前代未聞の事件の最中に、後継ぎのことは何も決めないまま、徳川家慶は死去。

幕政を揺るがす外国船来航の脅威の中で、徳川家定が第13代将軍ポストに就いたものの、病弱で言葉もはっきりしない家定に代わって、この非常時に相応しい将軍を望む声が日増しに高まっていた。
後継ぎの筋を立てれば、次期将軍は、御三家の中から紀州家の徳川慶福であり、将軍家定や大老・井伊直弼の意向も慶福であった。

しかし非常時の世情は、強力なリーダーシップを求めていたため、慶喜を押す越前藩主・松平慶永が動いた。
慶永の「慶喜を将軍にするため、家定の養子にする。」と云う進言を、薩摩藩主・島津斉彬、土佐藩主・山内豊信(容堂)、宇和島藩主・伊達宗城などや幕府内の旗本らも支持し、外様大名を中心とする一橋派が出来上がった。
一橋派と紀州派が争う、将軍後継ぎ問題は、幕府支配体制を大きく揺るがすことになった。

一方清国との戦争に英仏が大勝利を収めたことを盾に、米国が強硬に開国を迫っていた。



写真は、滋賀県彦根城・二の丸にある井伊直弼の銅像。
幕府内で地歩を固めていた大老・井伊直弼は、「列強と対決するより、少しずつ要求を入れ、開国した方が得策」と云う立場・方針で幕府をまとめ、開港に当っては、天皇の勅許を取ってからにして、幕府の責任を回避するつもりでいた。

これに反対する勢力は、水戸斉昭をはじめとする尊王派・朝廷内の公卿による尊皇攘夷グループ及び松平慶永・橋本左内・島津斉彬などの慶喜擁立による積極改革派の妨害にあって、開港の勅許が降りない。

結局米国の脅迫に抗し切れず、井伊直弼は勅許を得ないまま独断で、1858年“日米修好通商条約”に調印してしまった。

この条約には、神奈川と兵庫の開港・貿易の開始及び居住が約束され、外国人の“居留地”が認められた。幕府は、横浜と神戸の開港を強く主張した。
オランダ・ロシア・イギリス・フランスも歩調を合わせるかのように、それぞれ幕府と修好通商条約を結んだ。

この独断に対して、慶喜は単独で乗り込み、井伊直弼に面談を求め、老中らに直談判し、“違勅”(勅許なしの条約調印)への憤りと怒りを率直にぶつけた。

又孝明天皇も、井伊直弼による、勅許を得ない独断に激怒して、幕府及び尊皇攘夷派のリーダーであった、水戸藩へ直弼批判の勅書を出した。
ここからが大変、井伊直弼の大弾圧が始まった。


徳川慶喜物語 慶喜の少年期後半から結婚当時の世相は!

2007年04月28日 | 歴史
慶喜が一橋家に養子に迎えられた当時から結婚した1855年頃の政治・社会情勢は、大きく変わろうとしていた。
新たな時代を予兆させる、ハプニングが世の中を震撼とさせた。



写真は、アメリカのペリー提督の肖像画。
先ずは、1853年アメリカのペリーが、4隻の軍艦を従えて鹿児島湾・浦賀にやって来て、開国を要求した。かつて見たこともない黒船に幕府・日本社会全体が驚愕した。
江戸市民は、パニック状態になり、食糧や日用品の買占めが行われ、物価上昇を戒めるお触書が出たほど。

アメリカ大統領から、開国要請の国書を受け取った老中首座・阿部正弘は、開国すべきか否か、悩んだ挙句、江戸市民にアイディアを募集したほど。

第12代将軍・徳川家慶幕府の実験を握っていた阿部正弘は、「開国か攘夷か」という幕府の難題に対して、「譜代大名、外様大名を問わず、連合政権をつくって国難に対処してはどうか」と云うアイディアを提言したことに対して、譜代大名の筆頭・井伊直弼は、「外様大名の発言力が強くなり、幕府は崩壊する」と強硬に反対したと云う。このようにこの時点で、幕府の権威・政権維持力の凋落は明らかであった。



写真は、幕府大老・井伊直弼の肖像画。

翌年1854年には、日米和親条約を締結するに及んで、下田・箱館を開港し、鎖国は破れてしまった。
そして1858年、井伊直弼が米国に貿易許可を約束する、日米修好通商条約を、無勅許(孝明天皇の許可なく)で調印する段に及んで、激震が日本社会を揺るがした。

これを契機に、250年余り続いた徳川幕府の衰えを象徴する事件が続発する。
一方国内の幕藩体制は、長州藩の動向が見放せなくなってきた。





写真は上から、山口萩市の吉田松陰及び桂小五郎の銅像。
特に吉田松陰・桂小五郎の両長州藩士のリーダーシップが、大きく時代を動かしたと云える。

先ず長州藩士・思想家・教育者・兵学者である、吉田松陰は、ペリー艦隊来航を見て、日本の将来を憂えていただけに、外国留学の意志を固め、国禁を犯して密航をアメリカ船に依頼するが拒否され、長州の野山獄に幽因された。

当時松陰は松下村塾を開き、高杉晋作・木戸孝允・久坂玄瑞・伊藤博文・山県有朋など80ほどの門人を集め・育成して、幕末から明治にかけて、活躍した長州藩の逸材を輩出した。
松陰は野山獄中でも、学校を開き、多くの囚人たちや獄の責任者の侍なども弟子として教育したと云う。

松陰は封建時代を打ち破り、自由・平等を求めた英雄で、維新前夜に一瞬の光茫の如く時代を駆け抜けた。「安政の大獄」計画を自供した松陰は、若干29歳の若さで、獄中斬首刑に処せられた。

長州藩のもう一人の巨頭・桂小五郎(木戸孝允)は、西郷隆盛・大久保利通と共に、維新の三傑と並び称され、長州藩指導者・外交担当であり、剣豪・開国の勤皇志士は、尊皇攘夷派の中心人物としてテロ活動を決行した。

桂小五郎は、長州藩の尊攘運動の指導者として活躍していたため、幕府は危険人物として、隙あれば捕らえようとしたが、幾度となく危ない局面を逃げ切った強運の持ち主。
いち早く危険を察知して安全なところに隠れるので、「逃げの小五郎」と呼ばれたりした。いたずらな死を避けるため逃げ徹し、生命を全うして国に尽すことを心がけたと云う。





写真は、京都市木屋町の“幾松”で、幕末の風情を今に伝える老舗料理旅館。
幕末の志士が集った元・長州藩控屋敷で、当時、新撰組の度重なる切り込みを受けたという。

桂小五郎が三条大橋の下で、乞食姿で潜伏していた頃、目を見張るような美人が乞食に差し入れしていた女性こそ、後に夫人となる祇園の芸者・幾松であったという逸話は、よく知られている。
ここ“幾松”こそ、桂小五郎とその恋人・幾松とのロマンスの舞台としても知られている。

徳川慶喜物語 慶喜・婚約結婚へ

2007年04月27日 | 文化
学問・稽古を打ち止めた1855年、慶喜は19歳にして、一条家の養女・美賀子(21歳)と結婚し、自身も参議に任ぜられた。

慶喜12歳の時、一条忠香の娘・千代と婚約したが、千代が疱瘡を患い、アバタ顔になったという理由で、破談になってしまった。
しかし一条家は、慶喜との縁談になお熱心で、代わりに、江戸時代後期の公卿・今出川公久の娘・“菊亭家の延”こと、徳川美賀子を養女に迎い入れ、3ヵ月後には、慶喜との婚約にこぎつけている。

美賀子は、面長で鼻筋が通り、口が小さく、眼もと涼しげで、京人形のように美しく艶やかな娘だったと言う。



写真は、関白一条家が開山した菩提寺・京都の雪舟寺山門。

一橋家も、あくまで名門・一条家との縁談にこだわったように窺える。
一条家は、五摂家の一つで公家であり、幕末期の当主・一条忠香の三女・美子は明治天皇の皇后になったというように、藤原氏北家に遡る名家。

しかし実際、美賀子との結婚生活は、仲睦まじくとはいかなったようだ。
それと云うのも、結婚間もなく慶喜は謹慎生活を余儀なくされ、後見職になってからも慶喜は京都、美賀子は江戸という別居生活を強いられたことが大きい。

明治維新後、謹慎が解かれると、ようやく静岡へ美賀子を迎えるが、その時には既に側室がそばにおり、子供は全て側室から生まれ、美賀子との間には子供がなかった。二人の側室からは21人の子宝に恵まれたが・・・・・。

何度か身ごもったにもかかわらず、結局みな早世して子宝に恵まれなかったのは、最初の婚約相手・千代姫の呪いという噂まで立てられていたそうだ。



写真は、東京JR日暮里駅前谷川霊園内の徳川慶喜と美賀子の墓所

静岡時代の美賀子は、散歩・花見・紅葉狩り・湯治などで過ごし、美賀子は一人で出かけることが多かったと云う。
晩年、乳癌に冒され、療養のため、一人東京に戻ったが、明治27年、千駄ヶ谷の徳川邸で死没。享年60歳。

最後の将軍の妻であったにもかかわらず、美賀子はあまり知られていないのは、余り知られたくないからかもしれない。

徳川慶喜物語 慶喜・一橋家へ養子

2007年04月26日 | 歴史
1847年、七郎麿(慶喜)が10歳の頃、一橋家当主の早世により、一橋家の養子となり、一橋家を相続することになった。



写真は、東京千代田区竹橋の丸紅本社前に所在する、一橋家屋敷跡の記念碑。

12代将軍・家慶は一橋家の出身であり、病弱な13代将軍・家定に代わって、活発で利発な慶喜を後継者にしたいとの思い入れが強く、慶喜元服の折には、自身の“家慶”の一字を与え、名を慶喜と改めさせたほど。
慶喜の一橋家入りは、大抜擢であり、幕府内に大きな波紋を呼んだとか。





写真は、一橋家屋敷跡脇の皇居外苑平川門の光景及び平川門から望む、丸紅本社前の一橋家屋敷跡。

慶喜の一橋家入りが、幕府内に大きな波紋を呼んだと云うのも、慶喜の血筋を辿ると、家康の11男・水戸家初代藩主の頼房まで戻り、世子相続を原則とする徳川宗家からすれば、はるかに遠い血筋であるため抵抗があった。

加えて、強硬な改革を迫る父・斉昭は、穏健派の幕府・老中たちにとっては、目の上のたんこぶ的存在で嫌がられた。

しかし斉昭にとって、慶喜を一橋家に養子に出すことにより、水戸家に留まっていてはありえない、将軍ポストの夢を賭ける念願が叶うことになった。

一橋家屋敷に移るに当っては、まり・よきほか計4人の付人が、水戸家から移籍することになったが、御三家・後三郷の付人は旗本の子女でなければならず、旗本を借宿に、その親戚として一橋家に入ったと云う苦労話が伝わっている。

一橋家のしきたりは、水戸家とは違い、付人が慣れるまでに苦心をしたと云う。
斉昭は日頃質素倹約を旨とし、又仏教に縁のない生活を信条としていたことから、付人が一橋家の生活風習に慣れるのに、大変戸惑ったという。



写真は、昔懐かしい雛人形の数々。

一橋家では法華経に信心深く、又一橋家伝来の雛人形購入・収集のために多額を出費するなど、家風の違いは如何ともしがたかった様子。

1847年、登城元服してからも、学問はそれまで以上に続けられた。
例えば手習いは一と六の日で、師匠とお相手は具体的に命名され、素読は二と七の日で、同じく師匠とお相手は決められ、剣術は三と八の日で、師範とお相手が決められ、大坪流の馬術は五と十の日で、師範が決められていたと云う。このほかにも、仕舞・弓術・槍術なども師匠が決められていた。
弓術・槍術・剣術について、慶喜は免許皆伝の腕前で、他にも砲術・兵学・絵画・音楽なども師匠の指導を受けていた。

このように一橋家を相続してからの慶喜は、もっぱら学問・術・稽古ごとなどのあらゆる分野で研鑽を積んでいたようだ。

唯一の息抜きの機会といえば、品川に出かけた時に、猟師が打つ投網に感心して、慶喜自身も網を借りて投げてみたが、うまく行かず、その後すっかりはまってしまい、佃島・台場などに出かけては、網投げの練習をしていたそうだ。
こだわり性・はまり性が際立つ慶喜の性格が現われている。

そして1856年慶喜19歳の折、「慶喜の手習い・稽古、御用多きにつき当分これを断る」とある。これこそ、慶喜幼少の頃から続いた学問・稽古の一区切り、いうなれば卒業の日であったと考えられる。

慶喜が一橋家に養子に入ってから約10年間、将に帝王学習得に精一杯勤め上げたことが、隠居後45年にも及ぶ、豊かで風流な隠遁生活に繫がり、今でも語り継がれている慶喜ならではの充実した余生をエンジョイできたと云える。


徳川慶喜物語 水戸学と藤田東湖

2007年04月25日 | 歴史
水戸藩主・斉昭の藩政改革では、身分にこだわらず有能な人材を抜擢したが、その代表格が藤田東湖であったと云う。
水戸藩一の切れ者と云われた東湖は、水戸藩政改革の実現に尽した。
水戸弘道館の創立にも貢献したが、元々水戸学藤田学派の学者であった。



写真は、藤田東湖の肖像画。
東湖は、斉昭の水戸藩主への襲封を成功させ、側近として登用された後は、天保改革の中心人物として藩政改革を推進し、その手腕は他藩にも聞こえるほどで、彼の思想・人間性は若き志士たちを触発し、尊皇攘夷の思想を発展させていく土台となった。

その証拠に、全国各藩の若き志士たちは、江戸に来た際には、東湖の元を訪れ、その薫陶を受けたというが、薩摩藩の西郷隆盛も例外ではなかったと云う。
東湖と初対面をした西郷は、東湖の学識・胆力・人柄・態度などに非常な感銘を受けたと記されている。

又斉昭が海防参与として幕政に参画すると、東湖も江戸藩邸に召し出され、幕府海岸防御御用掛として斉昭を補佐するなど斉昭の御用人として使え、絶大な信頼を得ていた。

東湖は、安政の大地震で母親をかばい、柱の下敷きになって不慮の死をとげたが、実際母親を守るため倒壊物を自らの肩で受け止め、何とか母親を脱出させることに成功したが、自身は力尽きて圧死したと云う。享年49歳。



写真は、東湖が祀られている、偕楽園傍の常盤神社。

震災による圧死事故は水戸藩にとって大きな痛手で、東湖を失った水戸藩は、その後すっかり方向を失い、熾烈で長期に及ぶ内部闘争に陥り、藩内の多くの逸材を流失させた。

同時に、実質水戸藩のリーダーであった東湖の死亡は余りにも大きく、その後の斉昭の死去も重なり、水戸藩を奈落の底に陥れる結果となってしまった。


徳川慶喜物語 慶喜の父・九代水戸藩主斉昭

2007年04月24日 | 歴史
慶喜の父・斉昭以降の水戸家々系図を辿ってみると、慶喜が第15代将軍になった時点・1866年末頃には、徳川御三家・後三郷藩主のうち、三分の二を徳川水戸系が占めていた。

即ち将軍宗家・水戸家・尾張家・一橋家・清水家の藩主を水戸系で固めている。
特に斉昭の叔父に当る義和が尾張の支藩である美濃の高須藩に養子に行ってから、その孫に当る人材が優秀で、幕末史の中で重要な位置を占めている。

即ち慶勝・慶怨が尾張の徳川家を相続、茂栄は一橋家を、容保は会津の松平家を、容保の弟・定敬が桑名家を相続し、慶喜の弟・昭武は清水家を相続する等々、水戸家系大名オンパレードといったところ。

血筋もさることながら、養子縁組による血族系統の維持・継承を守ったこと、水戸学・水戸思想と云うバックボーンに支えられていた点などが考えられるが、やはり家柄の実績と伝統が為さしめたのかもしれない。



写真は、徳川斉昭の肖像。

徳川斉昭活躍の機会は、自身が提唱した尊攘思想が、幕末期に一世を風靡した志士たちの共通理念となり、又斉昭が海防の急務を幕府に訴えたことから、ペリー来航後は、幕府要職に就き、海防政策に手腕を振るった。



写真は、斉昭が建造した偕楽園内、梅爛漫の好文亭光景。

しかし幕政改革を目指す斉昭の前に大きな支障をきたしたのが、井伊直弼の存在であった。井伊直弼が、朝廷の勅許なしに、修好通商条約調印を断行したことや、将軍継嗣を南紀派(徳川慶福)に決めたことが、政局に大混乱をもたらした。

井伊直弼の決定に激怒した斉昭は、同士の大名と共に、無理に江戸城に登城し、直弼に詰問したが、井伊大老の「安政の大獄」が断行され、多くの同志が非業の死・不遇を強いられた。斉昭も政局の表舞台から失脚させられた。

永蟄居させられた斉昭は、失望のどん底から立ち上がれず、病気に伏すと、水戸藩内は派閥争いが激化し、多くの逸材が抗争によって、粛正される悲劇に遭遇した。

斉昭が病没すると、藩政は完全に統制不可能に陥り、空中分解も同然の結末を迎えた。
詳しくは後日触れる。


徳川慶喜物語 水戸学の元祖・水戸光圀公

2007年04月23日 | 歴史
徳川光圀公は水戸藩2代目藩主で、水戸藩初代藩主・徳川親房の3男、即ち家康の孫に当り、「水戸黄門」として知られている。



写真は、JR水戸駅近くの、光圀公生誕地の記念碑。

光圀公の少年時代は、町で刀を振り回したり、横柄・傲慢な不良少年であった様子で、18歳の時、司馬遷の「史記」伯夷伝を読んで感銘を受け、学問に精を出すようになったが、元々学者肌で好奇心の強いことで知られ、年老いてからも本質が変わることはなかったと云う。

好奇心が強いということでは様々な逸話が残っているが、日本史上最初に食べたとされるラーマンをはじめ、餃子・チーズ・牛乳・黒豆納豆を好み、“生類憐みの令”を無視して牛肉・豚肉・ヒツジ肉などを食べたり、ワインを愛飲したり、“カブレ”者との批判を浴びるほど変人であったと云う。





写真は、「弘道館」に展示された、厖大な「大日本史」完成版一式、及び水戸市内に残された「大日本史」完成記念碑。

光圀公が始めた「大日本史」研究は、完成までに300年以上もの間、水戸家代々に引継がれた一大事業で、天皇を頂点とする「皇国史観」を築き上げるなど、後の「水戸学」と呼ばれる歴史学の形成に尽くし、思想的にも影響を与えた。

一方で「大日本史」の編纂には、水戸藩の家臣を総動員し、全国各地を巡って歴史資料集めに奔走・継続するなど、莫大な財政負担により藩財政は悪化の一途を辿ったと云う。

結果的には、水戸藩の年間財政収入の三分の一を投ずることになり、財政難に陥った水戸藩は、農民生産高の8割という超重税をかけるなど、光圀公死後も、引続き財政再建を強いられ、水戸藩全体を巻き込む大規模な一揆にまで発展していったと云う。

幕府からも失政の烙印を押され、以降水戸徳川家からは将軍を出せない、万年「天下の副将軍」の汚名を着せられたほど。
又「水戸学」が目指した“愛民”の理想からは大きく逸脱し、農民の逃散が絶えなかったと云う。

他方で、常陸太田市の水道は、江戸時代、水戸黄門が建設した山寺水道が始まりで、この辺り一体が岩盤のため、水に不自由していた住民の困窮を救った、水道敷設の功績は今でも伝承されている。

しかし何故か、江戸時代に「水戸黄門」として諸国行脚伝説が生まれ、講談・歌舞伎の題材として、又現在では映画・テレビドラマなどの題材として、もてはやされてきたが、大半がフィクションと云う。

映画・テレビの「水戸黄門」で知られた、助さん・格さんは実際には武士ではなく、学者だったそうで、「大日本史」編纂には、学者として大いに貢献し、水戸史学の基礎を作ったと云うが。

全国をまたにかけた、大規模な歴史資料収集活動が、ことによって全国行脚説フィクションのきっかけになったかもしれない。
それにしても、「水戸黄門」のように、これほどまでに歪曲された史実は珍しく、光圀公人物像の現代イメージは、現実とはかなりかけ離れていると云える。


徳川慶喜物語 水戸学とは!

2007年04月22日 | 歴史
「水戸学」建学の基本精神は、“神儒一致”・“忠孝一致”・“文武一致”・“学問事業の一致”・“治教一致”と云うような思想が“弘道館記”に残されている。
これらの“・・一致”云々の具体的内容については、良く分からない。

水戸光圀公により興隆した「水戸学」は、「大日本史」が編纂されると、尊皇思想が更に浸透し、徳川斉昭が提唱した尊皇攘夷思想を生み出して、幕末期には一世を風靡して、志士たちの共通理念となった。



写真は、「水戸学」発祥の地、水戸市街の「弘道館」正面。

もともと幕藩体制を再編成するための思想で、外国を排斥する「攘夷」思想と、天皇を頂点とする「尊皇」思想とが結びついて「尊皇攘夷」(尊攘)となった。
斉昭は尊攘派の巨魁であり、西郷隆盛も水戸に学び、尊攘の熱烈な信奉者となり、幕府側の一部も反対勢力も、共に尊攘を考えていた。

水戸学は藤田幽谷・東湖親子が大成したと云われているが、水戸藩で興隆した学派で、国学・神道を基幹とした“国家意識”を特色とし、幕末の攘夷思想に大きな影響を及ぼしたことで知られる。



写真は、東京文京区小石川、現在の東京ドーム・ビックエッグ所在地で、かつては水戸屋敷があり、“水戸学”の発信地であった。

「水戸は代々勤皇の家系で、将軍の政権はあくまで京都朝廷より委託されたもので、徳川と朝廷との間に万一争いある時は、朝廷につくべし!」と云う「水戸学」総括を慶喜も継承していた。

しかし一方で、西洋事情にある程度通じておれば、日本に攘夷の実力がないことは明らかであり、むしろ攘夷をスローガンに国内世論を統一し、西洋列強と対等な立場で交渉することに主眼が置かれていたとも見られる。

薩英戦争などで、攘夷は到底無理であることがはっきりしているが、孝明天皇の外国人嫌いを尊重しながら、どのように現実的政策を選択するかで、攘夷派は大きく振れて、幕府も薩長も、攘夷と開国の間で揺れ動き、次第に権力抗争の手段に使われるようになった。

攘夷と開国の間には、例えば「尊皇攘夷派」は、穏健派と過激派に分かれ、「公武合体派」は、幕府を含めるか或いは倒幕かに分かれ、「開国派」は、穏健派が段階的開国主義に対し、一挙に開国する主張とに分かれる等々選択肢は幅広い。

幕末から維新にかけて、これらの主義主張により権力抗争・合従連衡が錯綜して、次第に淘汰されていく。
明日は誰と組するか、お互いに状況を冷静に判断しながら、いかに勝ち残りを目指すか、凌ぎを削ったと云える。



写真は、薩長同盟が締結された、現在は京都今出川通り、同志社中学校を囲む薩摩藩邸跡。

結局、「薩長同盟・朝廷の公武合体」(薩摩・長州を中心とした公武合体)対「幕府・朝廷の公武合体」(幕府を含めた諸藩による公武合体)」の対立構図に集約され、第二次幕長戦争の敗戦により追い詰められた幕府は、大政奉還へと逃れて、帰結せざるを得なかった。

上記のような歴史的経過・ストーリーなど詳細は、後日検証していく。

徳川慶喜物語 “慶喜”に影響を及ぼした「水戸家の家訓」

2007年04月21日 | 歴史
徳川御三家の中で、水戸家石高は35万石と、尾張家61万石・紀伊家55万石より少なく、又朝廷より賜る官位も、尾張家・紀伊家が従二位権大納言であるのに対して、水戸家は従三位権中納言と一ランク下であった。



写真は、水戸市千波湖畔に立つ水戸光圀公銅像。

茶の間の人気者・水戸黄門様は「この印籠が目に入らぬか。こちらにおわすは天下の副将軍・水戸光圀公なるぞ」と、諸国を漫遊して悪人を退治する黄門さまお出ましの決まり文句。

一ランク下でも、水戸家が天下のご意見番と云われてきたのは、代々水戸家に伝わる家康の危機管理の秘事があったからだと云う。

家康が制定したと云われる「公武法度第14条」には、「・・・・万一尾州・紀州両家にその任に応ぜざる時は、いずれの諸侯の内、天下を治鎮いたすべき品量を奏聞すべく、奏聞候は水戸家に限るべし」とあり、血筋だけで将軍を決めることのないように、家康が牽制を入れ、朝廷との調整役・審判役に水戸家を任じた。

「水戸家は代々謀反の家柄」と将軍の周辺で恐れられていたのも、上記のように最後の審判を下せる立場にあったからこそ。

と云うことで、慶喜は晩年父・斉昭から「・・・朝廷に向かいて弓引くことあるべからず。これは水戸光圀公以来の家訓なり。」と伝えられたと云う。



写真は、若き日の徳川慶喜肖像。

幕末動乱の最終章で、慶喜が大政奉還、更に鳥羽伏見の敗戦であっさり朝廷側に降状したのは、水戸家の家訓に従い、「朝敵」になることを避けた結果であると考えられる・・・・・・・。

天下の副将軍・ご意見番であるはずの水戸家は、斉昭公が慶喜を一橋家に養子に出すことで、将軍の座を求めたことが結局、慶喜としては、水戸家の家訓と相容れず、「朝敵」の汚名のもと追われ逃げ帰り、朝廷側に降状するという、慶喜の複雑な心境たるや、苦渋の決断であったとも考えられる。
結果的には、「逃避・逃亡の慶喜」との悪評を記せられたが。

他方の結果論では、慶喜が「水戸家の家訓」に生きたことによって、内乱の奇禍を乗り越え近代国家として第一歩を踏み出したことは、最後の将軍・徳川慶喜の最大の功績であったと云えるのではないかとも。

と云うことで、「家康の再来」と恐れられた慶喜が、“徳川”の幕を下ろしたのは、水戸が輩出した英雄の宿命であったのかも知れない。

このほか、水戸家の家訓には、兄弟譲り合いの伝統が記されている。
“史記”にある兄弟譲り合いの故事に因み、徳川光圀公・斉昭公とも、兄弟譲り合いの厳しい状況の中で、藩主となっただけに、水戸家の家風として、兄弟謙譲の伝統が継承され、慶喜自身も兄弟関係には細心の気配りを払っていたようだ。




徳川慶喜物語 “慶喜”の人柄・性癖とは!

2007年04月20日 | 歴史
水戸徳川家は洋癖の一家で、毎朝牛乳を飲み、肉食が伝統であったと云う。
「弘道館」には養牛場もあり、慶喜にとって肉食は全く抵抗がなかった。

日常食生活の影響からか、慶喜の好物は洋食で、特に豚肉は、横浜・神戸の港から取り寄せていたと云う。



写真は、軍服姿で、格好良い慶喜。

西洋かぶれは食事だけでなく、衣服も洋装で、家臣の軍装も洋式に変えたと云う。フランス皇帝ナポレオン一世を崇拝し、軍服を真似たり、フランス語を学んだりと、洋風へのこだわりようは尋常ではなかったらしい。



写真は、洋服に身を包んだ慶喜。

慶喜の洋癖は外交にも活かされ、外国公使謁見では、外国人のように親しく言葉を交わし、将軍・慶喜自らがホスト役を務め、外国でも新聞報道されたほど。

慶喜のファッションは、黒を主体としたコーディネーションで、将軍の戦いの姿は、颯爽とした武者姿、移動中は黒紋服に大将の目印として白の両襷、謹慎中の移動には、黒木綿の羽織に小倉袴等々、節目・節目では黒を主体に使っていたと云う。なかなか“お洒落な将軍様”といったイメージ。

上洛中には、毎朝未明から数時間、騎走することを日課とし、50騎20人ほどの伴連れで京の街を走り抜けたと云う。
馬術は水戸にいた幼少の頃から得意としていた。武装の姿を誇示する意味を込めて京の都を疾駆したそうだ。

京の公家・町民は大いに驚き、当時将軍名代であった慶喜の噂話に花を咲かせたと云う。洋式馬術には特に凝っていたようだ。

冒頭でも触れたが、慶喜は奇妙なニックネームを付けられていた。
先ず「二心殿」は、常に二心を抱き、本心とは別のことを言って周囲を惑わしたと云う。“開国”を唱えたかと思いきや、“攘夷”と言ったり、長州討伐を宣言したかと思いきや、突如止めたりと云うように本心がよく分からない。
幕閣や家臣は慶喜の言動に振り回され続けたと云われる。



写真は、時には相手を惑わす和服姿の慶喜。
二心の慶喜は、相手を戸惑わせ、紛らわす意図的な戦術であったかもしれない。

「豚一殿」は、豚を食する一橋殿と云う意味で、豚肉好きの慶喜は周囲から気味悪がられていたらしい。

「剛情公」は、自説を決して曲げないところから、付けられたあだ名で、手紙には自ら“剛情”とか“大剛情”と署名していたらしく、まんざらでもなかったのでしょうか?
なかなかハイカラで憎めない人柄であったようだ。

徳川慶喜物語 少年期の“慶喜”・現われつつある性格

2007年04月19日 | 歴史
慶喜は、遊び時間はもとより課業の合間に、兄弟たちの先頭に立って大騒ぎをしたり、5男の五郎麿の人形遊びを邪魔したり、粗暴な振る舞いもしばしばで、おっとりした五郎麿と比較されて、周囲の者を困惑させるなど、きかん気でやんちゃな少年であったと云う。

慶喜の腕白振りは、むしろ乱暴者と云え、仲間を集めては荒縄で猫を縛り、梅の木に吊るして手裏剣の稽古をしたり、日ごろの遊びは軍よ・火事よと叫び、ふざけ騒いでいたと云う。

悪戯やわがままに対する斉昭の罰は、叱責・お灸・座敷牢と段階を追って厳しくなり、慶喜はこれら全てを経験していたと云う。

慶喜は罪にも頑固に抵抗した。身体を使う武芸には長じていたが、じっと座って書を読むことは、退屈でたまらなかったようだ。

朝食前に読む四書五経を、家臣の目を盗んではページを飛ばすことなどは朝飯前で、手に余った侍臣が罰として特大のお灸をすえても、全くへこたれなかったと云う。度重なるお灸で水泡ができても、反省すら見せず、「陰気な書物を読むよりはまし!」とさえ嘯く少年期の慶喜はあどけなかった。

そして侍臣がほとほと音をあげて、斉昭に訴えると、斉昭は即座に座敷牢に押し込め、食事も与えないと、さすがの慶喜少年も食料責めには勝てず、態度を改めたとか。



写真は、現在に残る「至善堂」。
慶喜は少年期・5歳~10歳まで、水戸城屋敷から「弘道館」の「至善堂」まで徒歩で通学し、この部屋で教育を受けた。藩校「弘道館」は本来15歳にならないと入学を許されなかったが、藩主・斉昭の子息は特別に許可された。

水戸城で生活を共にしていた祖母・瑛想院は慶喜の悪戯を知り、厳しく戒めると、慶喜は謝るどころか、立ち上がり「この坊主め!」と瑛想院の頭を打ち叩いたこともあったと云う。



写真は、弘道館に展示された、慶喜自筆の書。
慶喜は6・7歳の頃から、大人びた書を書いていたらしい。祖母から頼まれると、絹地30枚にも及ぶ書を、自在に力強く筆をふるったと云う。

晩年の書はプロ並で、「温潤の中に剛健を体した書風」と評されたが、凝り性の慶喜は、外出するときは、いつも自分用の筆を持ち歩いていたと云う。

一方お側の者・教師たちは、早くから慶喜の資質・才能を見抜き、「非凡な人なり、この先又と出で難き逸材なり、後には天下を治める人とならん・・・」とまで表現し、慶喜は「天晴名将の器」と期待されていたことも事実。

慶喜は打たれ強く、きかん坊な性格は、やがて強靭な筋金入りの意志となり、忍耐力だけでなく、柔軟性をも合わせ持つ将軍・慶喜の姿が、蘇ってくるように見える。


徳川慶喜物語 “慶喜”の人格形成

2007年04月18日 | 歴史
父・斉昭は水戸藩主として全領検地(農民の不公平を改める農地境界線検査)・藩校設置・反射炉の築造・大砲鋳造・大規模軍事訓練・農村救済の倉庫設置など革新的諸施策を講じると共に、幕府に対しても、精力的に海防強化・攘夷などの改革を提言するなど、幕府老中からは疎まれ、嫌われていたほど。

斉昭の激しい性格は慶喜の教育・しつけにも及び、寝相の矯正のため枕の両側に剃刀を立てたり、又武士たる者は、利き腕を必ず下にして寝るように教え・戒めたりと躾には人一倍厳しかったと云う。



写真は、“水戸偕楽園”脇の千波湖沿いにある、慶喜幼少期の銅像。

父・斉昭の七郎麿に対する教育方針について、第三者に宛てた書状には「養子に望む家あらば直に遣わすべきものなれば、文武共に怠らしむべからず。
若し他家に出し遣える時、柔弱にして文武の心得なくば、我が水戸家の名を恥しむ事あるべし。」と記され、七郎麿ら諸公子の教育に関し、自らを戒めるなど実に細かな配慮をしている。

又慶喜に大きな影響を与えたのは、慶喜が20歳の時に、小石川の屋敷に招かれて、父・斉昭から受けた次のような教諭であったと云われる。
それによると、「若し一朝事起きて、朝廷と幕府が弓矢に及ぶがごときこともあらんか、我等はたとえ幕府には背くとも、朝廷に向かいて弓引くことあるべからず。これは義公(水戸徳川光圀公)以来の家訓なり。ゆめゆめ忘れることなかれ!」と。



写真は、水戸光圀公自筆の家訓。
父・斉昭の教諭は、慶喜の脳裏に焼きつき、生涯忘れることのできない家訓であったと思われる。
そしてこの家訓が後日慶喜の大局観・判断力に大きく影響したと云える。

一方母方・公家出身の有栖川宮吉子は、12代将軍・徳川家慶の正室の妹で、第10代水戸藩主・長男慶篤の生母でもあり、血筋と共に、聡明・才媛の女性で、慶喜の貴族的資質は生母から受継いだと云われている。
夫・斉昭亡き後も、水戸藩重臣から相談を受けるほど、斉昭の遺志を守りぬいたと云う。

慶喜の毎日の日課は、起床から直ぐ四書五経の復読、朝食の後は習字、弘道館で勉強した後は、午後に武芸の教えを受け、夜食後は朝読み残した四書五経の復習等々で、遊べる時間は連日夕方のつかの間に限られていたと云う。

七郎麿の人格形成で大きな役割を担っていたのが、御付の女中衆で、中でも特定の4人は、一橋家へ養子に迎えられた後も、七郎麿に従って水戸家より一橋家に移り、七郎麿の養育・お世話を続けたと云う。

彼女たちは乳母であり、自分たちの子供以上に七郎麿のことを一大事に考え、教えるために寝食を忘れて自らも学び、七郎麿が言うことを聞かないときは、蚊帳にくるみ、押込めることもあったほどで、厳しさの中にも情愛深い養育を試みたと云う。

と云うように、父母の厳しくも情愛深い家庭養育・指導、側近・女中衆の人格形成教育、或いは文武両道にわたる幅広い訓練など、少年期の帝王学が、七郎麿・慶喜の将来を約束し、大きく膨らませたと言っても過言ではない。


徳川慶喜物語 “慶喜”が育った水戸藩の環境

2007年04月17日 | 歴史
水戸といえば日本三大名園の一つ「偕楽園」が思い起こされるが、慶喜の父・斉昭が1842年、千波湖を望む台地に開設したもので、「衆と偕(とも)に楽しむ場所」を意図したと云われている。







写真は上から、今年3月初旬に訪れた偕楽園内の梅園、偕楽園から望む千波湖の光景及び千波湖公園。

造園には斉昭自らが設計に関与したそうで、特に「偕楽園」内の「好文亭」は、その位置・建設の意匠も自ら定めたと云われる。





写真は、昨年新装なった「好文亭」の全景及びライトアップされた夜景。
「好文亭」とは、梅の別名「好文木」に由来している。

水戸の名物といえば、納豆と並んで梅干があるが、これは水戸徳川2代藩主・光圀公が殖産振興の必要性から水戸城付近に植えたのが始まりで、非常食としての軍用梅干の用意も兼ねていたとか。

偕楽園の梅林は、斉昭が植林したのもで、現在も3千本、早咲きから遅咲きまで百種類ほどに及ぶと云う。

もう一つ水戸の観光名所・国指定特別史跡「弘道館」は、1841年斉昭の発案で水戸城三の丸に創立された藩校で、5万4千坪の敷地を持つ。







写真は上から、慶喜が学んだ旧水戸藩校「弘道館」の正門、正庁の概観及び館庭の梅園で、いずれも戦火を免れ現存している。

このように、水戸には弘道館・偕楽園など梅の名所が至る所にある。
「弘道館」は、当時の社会情勢の中で、国家の独立・発展のためには、優れた逸材を育成しなければという遠大な構想で建設されたと云う。

正庁を中心に、寄宿舎・研究室・武館・天文・数学・医学など多くの付属施設が建ち並び、当時全国最大の総合大学の威容を誇っていたと云う。



写真は、慶喜ゆかり深い、「弘道館」内の「至善堂」。
「至善堂」は、藩主の休息所であり、諸公子の勉学所でもあった。
慶喜も少年期・5歳~10歳まで、この部屋で教育を受け、大政奉還後に水戸で謹慎した時もこの部屋を使ったと云う。

このように広大で豊かな自然環境、全国一を誇る学術施設の完備、慶喜を取巻く生活・教育環境等々、何一つ不自由のない、恵まれた環境で、生来の逸材は頂点を目指して、確実にステップアップしていったと思われる。

慶喜生誕当時の政治・経済・社会情勢

2007年04月16日 | 歴史
1837年・天保8年、慶喜は江戸小石川の水戸藩邸に生まれ、幼名は7男であることから七郎麿昭致(あきむね)と呼ばれ、生後7ヶ月の慶喜は、父・水戸徳川9代藩主・斉昭の教育方針により水戸の屋敷に移された。





写真は、慶喜が誕生した江戸小石川、現在に残る、特別史跡・特別名称の“小石川後楽園”。池遊式庭園の彼方に望む、東京ドームは当時の水戸藩邸屋敷跡。

水戸屋敷への転居は、江戸の華美な風俗に染まることを避けて、厳格・質実な習慣を身につけさせるためであったと云う。

慶喜生誕当時の政治・経済・社会情勢は、国外ではアヘン戦争でイギリスに敗れた清国が香港島を割譲し、アロー事件による広州の植民地化と云うように、ヨーロッパ列強諸国はインド・中国にアジア植民地戦略の足場を築き、更にその矛先を日本に向けようとしていた。



写真は、1837年に鹿児島湾・浦賀沖に現われた、アメリカ商船のモリソン号画像。

日本近海にも頻繁に現われた外国船が太平の夢を破り、急速に暗雲立ち込める不安な時代に突入し、第11代将軍・家斉をはじめ、幕府全体が大きく緊張した時期であった。



写真は、天保大飢饉の見聞録。

一方国内では、1833~1839年にかけて、死者20万~30万と云われた天保の大飢饉が起こり、飢えと諸物価高騰に苦しむ民衆の不満は爆発し、各地で百姓一揆や打ちこわしが頻発。
中でも、1837年に大坂で起こった“大塩平八郎の乱”は、町奉行所・大塩平八郎と門人らによる、米不足対策を求めた、江戸幕府に対する民乱。

東日本では陸奥国・出羽国の被害が最も大きく、その主な原因には洪水・冷害が挙げられた。徳川幕府は救済のため、江戸では市中21ヶ所に“御救小屋”を設置したと云う。

このように、内憂外患・前代未聞の存亡の危機に直面した幕府・諸藩は、内外政策の大変革・改革を迫られていた。

そういう時代に生を受けた慶喜は、やがて幕末・維新動乱の世を処していくことになる。将に混沌の幕開けと云える。