近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

謎々ストーリーー第21代雄略天皇陵に纏わる謎とは!その6

2014年06月02日 | 歴史
最後に、雄略天皇の足跡を尋ねて、当シリーズを総括したいと思います。

457年、安康天皇が眉輪王(まよわのおおきみ)に暗殺されるという事件が発生する。すかさず安康天皇の実弟である雄略は、異母兄の二皇子を疑い、眉輪王及びその協力者である坂合黒彦皇子(さかいのくろひこおうじ、允恭天皇の皇子)を攻め、更に履中天皇の第一皇子であった政敵の市邊押磐皇子(いちのへのおしはのみこ)らを滅ぼした後、泊瀬朝倉宮で自ら即位する。
大伴・物部を中心とした伴造(とものみやつこ)系氏族(祭祀的職掌を掌る氏族)の武力を背景とし、葛城系と見なされる眉輪王らの「葛城系勢力」を排除しての即位であった。

その後、「大伴・物部系」の平群真鳥(へぐりのまとり)が大臣、大伴室屋・物部目が大連に任命されている事から、当時の大伴・物部の二大勢力に後押しされての大王就任だった事がわかる。

雄略23年8月に崩御したが、陵墓は、明治政府によって羽曳野市島泉の“丹比高鷲原陵”とされたが、上述の通り他にも陵墓候補がいくつもあり、真相は闇の中。

雄略9年、天皇は朝貢してこない新羅を征伐するため、大伴談・紀小弓・蘇我韓子らを新羅に派遣する。雄略21年(477年)、百済に任那の一部を割譲し、百済はこの地を新都として再興するが、日本書紀には、他にも小さな闘いを全て武力で鎮圧したと記されている。

これらから、雄略は武力に長じた強力な大王だったと思われ、宋に上表文を送った「倭の五王」の一人「武」に比定されている。

478年、倭王「武」が宋に送った上表文には、「私の先祖は、自ら甲冑を纏い山川を跋渉し戦を続け、東は毛人55カ国を、西は衆夷66カ国を征服し、また海北へ渡り95カ国を平定した。」とある。

そして宋王朝から「武」は、「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓の六国諸軍事、安東大将軍、倭王」に任ぜられている。

『宋書』・『梁書』に記される「倭の五王」中の倭王武に比定される。その倭王武の上表文には周辺諸国を攻略して勢力を拡張した様子が表現されており、又上述した通り、熊本県玉名郡和水町の江田船山古墳出土の銀象嵌鉄刀銘や埼玉県行田市の稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣銘を「獲加多支鹵大王」、すなわちワカタケル大王と解して、その証とする説が有力。この説に則れば、考古学的に実在が実証される最古の天皇である。

『万葉集』や『日本霊異記』の冒頭に雄略天皇が掲げられていることから、まだ朝廷としての組織は未熟ではあったものの、雄略朝のヤマト王権の勢力が拡大強化された歴史的・画期的な時期であったと古代の人々が捉えていたとみられる。

独断専行の残虐ぶりは続き、多くの人々を殺害したため「はなはだ悪しくまします天皇なり」という評価を後世に残したが、雄略天皇の治世下では、大和や河内の豪族等が武力で制圧され、多くの政略結婚が繰り返されていたことが伝えられている。

日本書紀によれば、吉備氏もこの天皇の御代にその配下に組み込まれた。

勢力拡大の範囲は北から南に及び、上述の通り埼玉県稲荷山古墳出土の大刀の漢文表記の銘文からもその勢いの凄まじさが想像できる。

というように、5世紀後半には大和朝廷の実権が日本全土の大半にまで及んでいた有力な証拠となった。