ここからは、前方後円墳伝播の陸路ルートについて探索する。
全国七道を中心とする陸路を経由して、前方後円墳が伝播していく様子が窺える。
七道とは、北陸道・東海道・中央の山地を通る東山道・山陰道・山陽道・九州一周の西海道・紀伊半島を巡る南海道を指す。
要するにこれら七道は行政区分なのだが、道路を軸にして形成されている点が興味深い。
古代において道路が整備され、各地域が結ばれたことの重要性は、現在では考えられないほど意義の高いできごとだった。
これら陸路のうち、東山道経由の伝播例を、以下紹介する。
先ずは、ヤマト王権の原型として、履中天皇陵から見ていこう。
履中天皇陵は、百舌鳥古墳群の南部に位置する、前方後円墳で、その規模は全長約360m・後円部径205m・高さ約25m・前方部幅約237m・高さ約23mで、日本で3番目の大きさ。
写真は、履中天皇陵の上空写真及び同陵墓周濠の様子。
6区型の大王墓設計で、大型の前方後円墳。この天皇陵に酷似している、以下の古墳を紹介する。
群馬県太田市の太田天神山古墳は、東武伊勢崎線太田駅東方約1kmの市街地に隣接する平地にあり、男体山とも云われているが、群馬県太田市にある古墳時代中期から後期に造られたと推定される、東日本最大の前方後円墳で、国の史跡に指定されている。
写真は、太田天神山古墳全景及び本古墳の空撮。
本古墳の規模は、全長約210m・後円部直径約120m・前方部前幅約126m・後方部長さ約90m・後円部高さ約16.8m・前方部高さ約12mで、平地に造営された東日本最大の前方後円墳。
墳丘は前方部が二段築成、後円部が三段築成で、渡良瀬川水系の川原石を用いた葺石をともない、周囲には二重の周濠を有する。
内濠が後円部後方で36m・前方部前面で24m・墳丘北側部30m・同南側部で36m・楯形を有する。
中堤幅は後円部後方と前方部前面が24m・墳丘北側部が17m・南側部が23mで、中堤の外側に外濠が馬蹄形で、後円部周りと前方部前面は幅24mを測る。
周濠を含む古墳の領域は、長さ約364m・幅約288m・前方部前面幅265mにも及ぶ。
また、発掘調査により見つかった円筒埴輪や形象埴輪(水鳥の頭部)などの遺物や、石棺の技法および古墳の築造方法など遺構検討により、およそ5世紀中頃から後半に造られたものと推定されている。
埴輪は、墳頂部、下段、上段の平坦部に配列されていたと推測されている。さらに、器財埴輪や家形埴輪の存在も推測されている。
写真は、太田天神山古墳の実測図と堺市の履中天皇陵の実測図。
いずれも6区型の大型古墳で、5世紀中頃築造の太田天神山古墳は、5世紀前半築造の履中天皇陵の設計を継承した、毛野国(現在の群馬県と栃木県)最大の築造企画を持つ。
叉主体部分である被葬者の埋葬施設は、大型の長持形石棺が使われたことや埴輪の特徴から、古墳に埋葬された被葬者は、畿内大和政権と強いつながりを持っていた毛野国の大首長と考えられている。
後円部東南側に凝灰岩製の長持形石棺の底石が露出しており、盗掘された痕跡がある。5世紀の畿内地方の大古墳にも採用されているものと変わらないらしい。
この長持形石棺は、畿内の大王墓に用いられているものと同質であり、墳丘規模と共に被葬者が有していた卓越した権力が窺い知れる。
大王墓にも匹敵する前方後円墳の被葬者は、『古事記』や『日本書紀』にも度々登場する、上野国の大豪族、上毛野君氏(かみつけぬのきみ)の首長と考えられると云う。
上毛野君は、東国統治を命ぜられた崇神天皇の皇子である豊城入彦命(とよきいりびこのみこと)の後裔であり、同じ群馬県の前橋市にはこの豊城入彦のものと伝えられる古墳もある。
上毛野君現在の群馬県を中心に代々関東において勢力を拡大していたが、その最盛期に築造されたのが、この太田天神山古墳であると考えられている。
それまで東国において絶対的な勢力を誇っていた上毛野君一族の勢力が次第に朝廷の支配体制に組み込まれ、弱体化していったのはその後の歴史の流れを見ても明らかであると云える。
副葬品は不明だが、封土に若干毀損された箇所があるとはいえ、旧態をよく保持し、東国の古墳文化の様相を示す貴重な考古資料であるとして、1941年(昭和16年)1月に国の史跡に指定された。
なお「天神山」の名は、後円部の上に古くは天神様を祭る天満宮の社があり、これに由来すると云われ、別称「男体山古墳」という。
東方に隣接して国史跡女体山古墳(前方後円墳、全長106m)がある。
全国七道を中心とする陸路を経由して、前方後円墳が伝播していく様子が窺える。
七道とは、北陸道・東海道・中央の山地を通る東山道・山陰道・山陽道・九州一周の西海道・紀伊半島を巡る南海道を指す。
要するにこれら七道は行政区分なのだが、道路を軸にして形成されている点が興味深い。
古代において道路が整備され、各地域が結ばれたことの重要性は、現在では考えられないほど意義の高いできごとだった。
これら陸路のうち、東山道経由の伝播例を、以下紹介する。
先ずは、ヤマト王権の原型として、履中天皇陵から見ていこう。
履中天皇陵は、百舌鳥古墳群の南部に位置する、前方後円墳で、その規模は全長約360m・後円部径205m・高さ約25m・前方部幅約237m・高さ約23mで、日本で3番目の大きさ。
写真は、履中天皇陵の上空写真及び同陵墓周濠の様子。
6区型の大王墓設計で、大型の前方後円墳。この天皇陵に酷似している、以下の古墳を紹介する。
群馬県太田市の太田天神山古墳は、東武伊勢崎線太田駅東方約1kmの市街地に隣接する平地にあり、男体山とも云われているが、群馬県太田市にある古墳時代中期から後期に造られたと推定される、東日本最大の前方後円墳で、国の史跡に指定されている。
写真は、太田天神山古墳全景及び本古墳の空撮。
本古墳の規模は、全長約210m・後円部直径約120m・前方部前幅約126m・後方部長さ約90m・後円部高さ約16.8m・前方部高さ約12mで、平地に造営された東日本最大の前方後円墳。
墳丘は前方部が二段築成、後円部が三段築成で、渡良瀬川水系の川原石を用いた葺石をともない、周囲には二重の周濠を有する。
内濠が後円部後方で36m・前方部前面で24m・墳丘北側部30m・同南側部で36m・楯形を有する。
中堤幅は後円部後方と前方部前面が24m・墳丘北側部が17m・南側部が23mで、中堤の外側に外濠が馬蹄形で、後円部周りと前方部前面は幅24mを測る。
周濠を含む古墳の領域は、長さ約364m・幅約288m・前方部前面幅265mにも及ぶ。
また、発掘調査により見つかった円筒埴輪や形象埴輪(水鳥の頭部)などの遺物や、石棺の技法および古墳の築造方法など遺構検討により、およそ5世紀中頃から後半に造られたものと推定されている。
埴輪は、墳頂部、下段、上段の平坦部に配列されていたと推測されている。さらに、器財埴輪や家形埴輪の存在も推測されている。
写真は、太田天神山古墳の実測図と堺市の履中天皇陵の実測図。
いずれも6区型の大型古墳で、5世紀中頃築造の太田天神山古墳は、5世紀前半築造の履中天皇陵の設計を継承した、毛野国(現在の群馬県と栃木県)最大の築造企画を持つ。
叉主体部分である被葬者の埋葬施設は、大型の長持形石棺が使われたことや埴輪の特徴から、古墳に埋葬された被葬者は、畿内大和政権と強いつながりを持っていた毛野国の大首長と考えられている。
後円部東南側に凝灰岩製の長持形石棺の底石が露出しており、盗掘された痕跡がある。5世紀の畿内地方の大古墳にも採用されているものと変わらないらしい。
この長持形石棺は、畿内の大王墓に用いられているものと同質であり、墳丘規模と共に被葬者が有していた卓越した権力が窺い知れる。
大王墓にも匹敵する前方後円墳の被葬者は、『古事記』や『日本書紀』にも度々登場する、上野国の大豪族、上毛野君氏(かみつけぬのきみ)の首長と考えられると云う。
上毛野君は、東国統治を命ぜられた崇神天皇の皇子である豊城入彦命(とよきいりびこのみこと)の後裔であり、同じ群馬県の前橋市にはこの豊城入彦のものと伝えられる古墳もある。
上毛野君現在の群馬県を中心に代々関東において勢力を拡大していたが、その最盛期に築造されたのが、この太田天神山古墳であると考えられている。
それまで東国において絶対的な勢力を誇っていた上毛野君一族の勢力が次第に朝廷の支配体制に組み込まれ、弱体化していったのはその後の歴史の流れを見ても明らかであると云える。
副葬品は不明だが、封土に若干毀損された箇所があるとはいえ、旧態をよく保持し、東国の古墳文化の様相を示す貴重な考古資料であるとして、1941年(昭和16年)1月に国の史跡に指定された。
なお「天神山」の名は、後円部の上に古くは天神様を祭る天満宮の社があり、これに由来すると云われ、別称「男体山古墳」という。
東方に隣接して国史跡女体山古墳(前方後円墳、全長106m)がある。