近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

広告

※このエリアは、60日間投稿が無い場合に表示されます。記事を投稿すると、表示されなくなります。

古墳あれこれー前方後円墳の伝播とその推進力とは!続編

2011年11月30日 | 歴史
ここからは、前方後円墳伝播の陸路ルートについて探索する。

全国七道を中心とする陸路を経由して、前方後円墳が伝播していく様子が窺える。

七道とは、北陸道・東海道・中央の山地を通る東山道・山陰道・山陽道・九州一周の西海道・紀伊半島を巡る南海道を指す。

要するにこれら七道は行政区分なのだが、道路を軸にして形成されている点が興味深い。

古代において道路が整備され、各地域が結ばれたことの重要性は、現在では考えられないほど意義の高いできごとだった。

これら陸路のうち、東山道経由の伝播例を、以下紹介する。

先ずは、ヤマト王権の原型として、履中天皇陵から見ていこう。

履中天皇陵は、百舌鳥古墳群の南部に位置する、前方後円墳で、その規模は全長約360m・後円部径205m・高さ約25m・前方部幅約237m・高さ約23mで、日本で3番目の大きさ。





写真は、履中天皇陵の上空写真及び同陵墓周濠の様子。

6区型の大王墓設計で、大型の前方後円墳。この天皇陵に酷似している、以下の古墳を紹介する。

群馬県太田市の太田天神山古墳は、東武伊勢崎線太田駅東方約1kmの市街地に隣接する平地にあり、男体山とも云われているが、群馬県太田市にある古墳時代中期から後期に造られたと推定される、東日本最大の前方後円墳で、国の史跡に指定されている。





写真は、太田天神山古墳全景及び本古墳の空撮。

本古墳の規模は、全長約210m・後円部直径約120m・前方部前幅約126m・後方部長さ約90m・後円部高さ約16.8m・前方部高さ約12mで、平地に造営された東日本最大の前方後円墳。

墳丘は前方部が二段築成、後円部が三段築成で、渡良瀬川水系の川原石を用いた葺石をともない、周囲には二重の周濠を有する。

内濠が後円部後方で36m・前方部前面で24m・墳丘北側部30m・同南側部で36m・楯形を有する。

中堤幅は後円部後方と前方部前面が24m・墳丘北側部が17m・南側部が23mで、中堤の外側に外濠が馬蹄形で、後円部周りと前方部前面は幅24mを測る。

周濠を含む古墳の領域は、長さ約364m・幅約288m・前方部前面幅265mにも及ぶ。

また、発掘調査により見つかった円筒埴輪や形象埴輪(水鳥の頭部)などの遺物や、石棺の技法および古墳の築造方法など遺構検討により、およそ5世紀中頃から後半に造られたものと推定されている。

埴輪は、墳頂部、下段、上段の平坦部に配列されていたと推測されている。さらに、器財埴輪や家形埴輪の存在も推測されている。





写真は、太田天神山古墳の実測図と堺市の履中天皇陵の実測図。

いずれも6区型の大型古墳で、5世紀中頃築造の太田天神山古墳は、5世紀前半築造の履中天皇陵の設計を継承した、毛野国(現在の群馬県と栃木県)最大の築造企画を持つ。

叉主体部分である被葬者の埋葬施設は、大型の長持形石棺が使われたことや埴輪の特徴から、古墳に埋葬された被葬者は、畿内大和政権と強いつながりを持っていた毛野国の大首長と考えられている。

後円部東南側に凝灰岩製の長持形石棺の底石が露出しており、盗掘された痕跡がある。5世紀の畿内地方の大古墳にも採用されているものと変わらないらしい。

この長持形石棺は、畿内の大王墓に用いられているものと同質であり、墳丘規模と共に被葬者が有していた卓越した権力が窺い知れる。

大王墓にも匹敵する前方後円墳の被葬者は、『古事記』や『日本書紀』にも度々登場する、上野国の大豪族、上毛野君氏(かみつけぬのきみ)の首長と考えられると云う。

上毛野君は、東国統治を命ぜられた崇神天皇の皇子である豊城入彦命(とよきいりびこのみこと)の後裔であり、同じ群馬県の前橋市にはこの豊城入彦のものと伝えられる古墳もある。

上毛野君現在の群馬県を中心に代々関東において勢力を拡大していたが、その最盛期に築造されたのが、この太田天神山古墳であると考えられている。

それまで東国において絶対的な勢力を誇っていた上毛野君一族の勢力が次第に朝廷の支配体制に組み込まれ、弱体化していったのはその後の歴史の流れを見ても明らかであると云える。

副葬品は不明だが、封土に若干毀損された箇所があるとはいえ、旧態をよく保持し、東国の古墳文化の様相を示す貴重な考古資料であるとして、1941年(昭和16年)1月に国の史跡に指定された。

なお「天神山」の名は、後円部の上に古くは天神様を祭る天満宮の社があり、これに由来すると云われ、別称「男体山古墳」という。

東方に隣接して国史跡女体山古墳(前方後円墳、全長106m)がある。




コメント

古墳あれこれー前方後円墳の伝播とその推進力とは!そのⅦ

2011年11月28日 | 歴史
前方後円墳の伝播経路のうち、日本海ルートを更に探ります。

福島県会津若松市の会津大塚山古墳は、会津若松市大塚にある前方後円墳で、古墳全域が国の史跡となり、叉出土品は一括して国の重要文化財に指定されている。

本古墳は、会津盆地東部に所在する大塚山山頂に立地する全長114mほどの前方後円墳で、後円部径約70m・高さ約10m・前方部前幅54mを測り、墳丘途中に段をもつ前方部二段で、後円部三段築成の古墳。

日本海新潟湾から阿賀野川を遠路下り、会津盆地に辿り着いた海上ルート。





写真は、会津若松市の会津大塚山古墳墳頂の様子及び同古墳から出土した三角縁神獣鏡。

本古墳は、4世紀前半のものと言われ、発掘された副葬品の多くは、東北で初めて出土されたもので、現在に至っても東北では会津大塚山古墳でしか出土していないものもあると云う。

更に本古墳は、東北地方最古の古墳であると共に、大きさでは、東北地方では第4位。

昭和39年の発掘調査の結果、後円部の中心から南北2基の割竹形木棺の痕跡が検出され、さらに南棺からは日本製の三角縁神獣鏡をはじめ多くの遺物が検出された。

三角縁神獣鏡は、現在でも東北地方唯一、最北の資料として注目されている。

環頭大刀、靭、鉄製農耕具なども出土したが、南棺は北棺よりも古い埋葬で、遺った歯から老齢の男性であると推定され、大塚山古墳の主と考えられている。

この調査によって古墳の全容がおおよそ判明し、会津の地が大和政権の支配下に組み込まれたのは、7世紀の阿倍比羅夫(飛鳥時代に、日本海を北に航海して蝦夷を服属されたとされる将軍)の東北遠征以降であるという従来の説は覆され、古墳の造営された4世紀末にはすでにヤマト王権を構成する首長が存在していたことが証明された。



写真は、会津大塚山古墳の墳丘形態の平面図。

墳丘形態は6区型で、後円部の円弧は盛土により完成しているが、前方部の段築は完成していない。

自然地形を前方後円形に整形するだけで完結した簡易型の築造。

この未完成状態で完結しているのも、元々のヤマト王朝の標準築造企画によるもので、当時既にヤマト朝廷の支配下に入っていた証拠。

記紀には、四道将軍の伝説があるが、その内容の一部は以下のとおり。

「崇神天皇は諸国平定のため4人の皇族将軍をそれぞれ北陸・東海・西道(山陽)・丹波(山陰)の4方面へ派遣した。このうち、北陸道へは大彦命、東海道へは武渟川別命(大彦命の子)が派遣され、それぞれ日本海と太平洋沿いを北進しながら諸国の豪族を征服していった。やがて2人はそれぞれ東と西に折れ、再び出会うことができた。この出会った地を『相津』(あいづ)と名付けられたという」とあり、大和朝廷が、実在したとされる崇神天皇在任の3~4世紀当時、会津を征服したことが窺える。

ヤマト王朝とは、日本海と会津若松に通じる阿賀野川の海上ルートを使って交流していたと思われる。




コメント

古墳あれこれー前方後円墳の伝播とその推進力とは!そのⅥ

2011年11月25日 | 歴史
前方後円墳が地方に伝播して言った経緯・ルートを探ります。

京都府与謝野町の与謝野町立古墳公園内にある蛭子山(えびすやま)古墳は、古墳時代前期につくられた大型前方後円墳で、丹後地方の大首長の墓と目されており、国史跡に指定されている。







写真は、与謝野町古墳公園に復元された蛭子山古墳墳丘の様子、同古墳から出土した朝顔形・短甲形埴輪及び蛭子山古墳同型の平面図。

丹後地域に特有の、丸い頭部を持つ丹後型円筒埴輪と呼ばれている埴輪を、墳丘のまわりに配する蛭子山1号墳は、宮津港に近く、全長約145mの日本海側3番目に大きな前方後円墳。

この埴輪は、丹後地域でも中期のある段階になると消滅してしまったと云う。

古墳形態は、写真の通り5区型(前方部が後円部より短い)で、後円部の円弧は完周せず、叉墳丘周辺を盛土により整形しているが、前方部の築段などは完成していない。

元々築造企画自体が、地形に合わせて未完成であったと見られる。

国宝『海部氏系図』に記された人名の一つ一つに「丹後国印」が押印されている。

応神天皇の時、若狭木津高向宮で海部(大和朝廷に漁業をもって仕えた部民)の姓を与えられたと云う。後に、水軍へと発展したらしい。

現在の京都府日本海側に丹後王国があり、その王国は、特別の王国であったというが、その勢力は、ヤマトに入り初期ヤマト政権の基礎を創ったと考えられる。

ということで、水軍系の役割を以って、ヤマト政権とかかわっていたと見られる。

又同公園内には作山古墳群も復元され、5基の中型古墳から成るが、古墳時代前期後半から中期初めにかけてつくられたものらしい。

蛭子山古墳や作山古墳は、丹後型円筒埴輪の出土が多いことが特徴で、丹後型円筒埴輪は、丹後の一時期にだけ盛行した、丹後地方独特の特殊な埴輪。
コメント

古墳あれこれー前方後円墳の伝播とその推進力とは!そのⅤ

2011年11月23日 | 歴史
主題の件、更に続けます。

ここで日本海経由の伝播ルートについて遡及して見たい。

北陸の日本海沿岸をバウンドしながら、阿賀野川流域経由、会津盆地まで達し・伝播する築造企画は、定型化が完結しない様式だが、次から次へ継承されていく様子が窺える。

地形が傾斜する急斜面に主軸を造営しなければならないため、墳丘に座布団を挟み込むように盛土で埋め合わせ、あたかも付帯部を設けてバランスをとるようにしているが、墳丘自体は定型化が完結していない様式として伝播していく。

先ずは定型化が完結していない、ヤマトの原型から見てみよう。

天理市の西殿塚古墳は竜王山西麓の幅広い尾根の上に、南北方向を主軸にして築かれた前方後円墳で、前方部を南に向けている。

前方部の先端は箸墓古墳ほどではないが、三味線のバチ状に開いている。









写真は上から、西殿古墳の正面光景、同古墳全景、同古墳脇の柿畑越しに望む二上山と奈良市街地及び同古墳の上空写真。

墳丘の全長は約230m・後円部の径約145m・前方部の幅130mほどの、天理市南部の萱生町から中山町に所在する古墳群の大和古墳群の中では最大の規模をもち、柳本古墳群を含むこの地域では、渋谷向山古墳(伝景行陵)、行燈山古墳(伝崇神陵)に次いで大きい。

本古墳の墳丘形態は5区型で、墳丘右側は、急斜面の低位側のため、墳丘のバランスを取るため、17mほどの付帯部を設けている。

というように、定型的な築造企画が完結していないヤマトの王墳ということ。

後円部の方形壇は、一辺35m・高さ2.6mの正方形に造られ、前方部にも墳頂に同じ形で、一辺22m・高さ2.2mでやや小さい壇が営まれており、墳丘頂上で古墳祭祀が行われたことを物語っている。

後円部と前方部の方形壇の下にそれぞれ別人の埋葬施設が存在したらしく、方形壇は死者を埋葬してから、その上に祭祀用に広大な壇を造ったものとみられるが、箸墓古墳造営当時は、方形壇はまだ造られておらず、壇の設営としては初期の頃のものと考えられている。

1998年の宮内庁の報告によれば、特殊器台や特殊壺が発掘調査以前に出土していることが明らかになっているが、これらの特殊器台や特殊壺は埴輪の起源となるもので、この古墳は埴輪出現以前に築造されたものであり、その築造時期は円筒埴輪だけを出土する渋谷向山古墳・行燈山古墳より古いとされている。

築造時期は、箸墓古墳に近い4世紀前半に遡るらしい。

天理市南部に広がる大和古墳群の中でも最大の大きさであり、延喜式で山辺郡にあったとされる“手白香皇女衾田陵”の位置にあたるため、明治9年、宮内庁により西殿塚古墳が、第26代継体天皇の皇后・手白香皇女(たしらかのひめみこ)の衾田陵に治定された。

その根拠は不明であるが、宮内庁は、現在この古墳を手白香皇女衾田陵として管理している。

男大迹(おおど)王が北陸三国の地から迎えられて継体天皇として即位し、第24代仁賢天皇の娘・手白香皇女を皇后としたのは、西暦507年のこと。

手白香皇女の死亡時期は不明だが、6世紀前半に生きた女性であることは間違いない。

したがって、考古学的知見では4世紀前半とされる、西殿塚古墳の被葬者であることは絶対にないと云う。

衾田陵の被葬者は人違いされ祀られている。死せる両人にとってははなはだ迷惑な話。

西殿塚古墳は、箸墓古墳と同様の吉備様式の特殊器台が後円部に並び、埴輪や墳丘の形態等からも、箸墓古墳に続く時期の大王墓という。

こうして築造時期は3世紀後半から4世紀初めごろと想定されている。




コメント

古墳あれこれー前方後円墳の伝播とその推進力とは!そのⅣ

2011年11月21日 | 歴史
前方後円墳の伝播の様子を更に探求します。

大堤権現塚古墳は、千葉県山武市松尾町大堤にある古墳で、千葉県の史跡に指定されている。





写真は、山武市の大堤権現塚古墳墳丘及び同古墳の平面図。

本古墳の平面図は、ヤマト政権水軍系の古墳群と同じ7区型で、東方進出への足がかり的役割を特命された、地方豪族が埋葬されていると思われる。

本古墳は前方部を南側に向け、後円部を北側に向けた墳丘長約115mの前方後円墳で、前方部最大幅53m・くびれ幅約47m・後円部径60mほどの規模を持ち、墳丘の高さは前方部約10m・後円部は約12mで、前方部と後円部の比高差は2mほど。

墳丘の周りを盾形に巡る三重の周溝を持ち、周溝を含めた規模は全長174mで、前方部側最大幅104m・後円部側最大幅113mを測る。

出土遺物には、大刀・刀身・金銅製刀子鞘片・多数の鉄鏃・金銅製の耳環・水晶製切子玉・ヒスイ製の勾玉・多数のガラス玉・小玉がなどあったと云う。

本古墳で注目すべきは、前室・奥室を設けた複室埋葬構造を持ち、奥室の北側北壁に接して、石棺を設けた特異な横穴式石室。

後円部墳頂から南東側に設けられ、開口部を南に向けた埋葬施設の全長は約9m、奥室の奥壁には朱が塗られていた。

大型の古墳にもかかわらず埴輪を持たず、終末期の前方後円墳とされ、前方部方向が南方向に位置することなども特徴的。

また三重に巡る周溝は例が少なく、現在確認されているのは本古墳を含め6例のみ。

他の5例はいずれも5世紀~6世紀の大型古墳であるが、本古墳は6世紀末~7世紀初頭の築造とされ、大型の古墳が造られなくなった時期でもあり、この時期のものとしては日本最大である。

本古墳の被葬者は、古墳構造や埋葬品などのユニークで高貴な特徴から、相当な勢力を備えた地方豪族と考えられる。

大堤権現塚古墳は、太平洋に通じる木戸川流域の下流域にある大堤古墳群に代表され、太平洋を海上交通のルートとして、ヤマト政権と相通じていたと思われる。


コメント

古墳あれこれー前方後円墳の伝播とその推進力とは!そのⅢ

2011年11月19日 | 歴史
名古屋市熱田区の断夫山古墳周辺のストーリをまじえて、断夫山古墳の本筋に迫ります。

断夫山古墳から100m程南にヤマトタケルの墓と考えられている白鳥古墳が存在する。

全長約74mの前方後円墳であるが、前方部と後円部の東部分が削り取られて、原型が損なわれている。









写真は上から、白鳥古墳拝所、同古墳の鬱蒼とした森林光景、同古墳に柵が巡らされた様子及び古墳東側が“白鳥山法持寺”の領域に削り取られた様子。

古くから白鳥古墳は、日本武尊の御陵との説があり、日本武尊が白鳥となって、熱田の宮池に飛び来り、降り立った地であることから、白鳥御陵と名付けられていると云う。

熱田にある白鳥古墳は、断夫山古墳と共に、造られたのは5世紀から6世紀ごろと推定されており、日本武尊の時代より後世にあたることから、実際にはこの地方の豪族・尾張氏の墓であろうと考えられている。

この巨大な断夫山古墳の造営を命じた人物は、おそらく大和王朝と密接に結びついた、尾張地方の強大な支配者であったことが考えられる。

日本書紀によれば、尾張連草香(おわりのむらじくさか)の娘であった目子媛(めのこひめ)が継体天皇の妃になったとあり、古事記にも似た記事があることから、熱田台地に本拠地をおいていた尾張氏は、「連(むらじと読み、家臣の中では最高位の性)を与えられ、大和王朝と姻戚関係にあったことが推定される。

ということからも、断夫山古墳はこの尾張氏の墳墓と考えられている。

白鳥伝説と、継体妃となった尾張氏の娘のこととが錯綜しているが、断夫山古墳と尾張氏とは深く関わっていることを暗示している。


コメント

古墳あれこれー前方後円墳の伝播とその推進力とは!そのⅡ

2011年11月16日 | 歴史
前方後円墳の伝播推進力について、続けます。

断夫山古墳は、名古屋市熱田区の熱田神宮公園内にある古墳。

東海地方最大の前方後円墳で、6世紀初頭に築造されたと考えられている。

熱田神宮公園の敷地も含めて、かつては熱田神宮の管理下にあったが、第二次大戦後に名古屋市の戦災復興事業に伴い借り換え地となり、1980年(昭和55年)に愛知県の所有となって現在に至る。1987年7月に国の史跡に指定された。









写真は上から、熱田神宮公園内の断夫山古墳の上空写真、同古墳後円部から前方部を眺める光景、前方部から見上げる墳丘森林の様子及び前方部から望む鬱蒼とした光景。

断夫山古墳は、全長約151m・前方部の幅約116m・後円部の直径約80m・前方部の高さ約16.2m・後円部の高さ13mほど。

涸堀に囲まれ、鬱蒼と木が茂っている古墳であり、東海地方最大の前方後円墳で、「断夫山」の名は、日本武尊の死後、宮簣媛が再婚しなかったことから付けられたものという。


現在は全域を樹木に覆われ、写真のように、周囲からその全景を見渡すことは難しい。





写真は、断夫山古墳後円部から望む空周濠光景及び同古墳の造り出し部の様子。

現在は石垣で組まれ、区画された空周濠をもつが、以前は、より幅広い濠が巡らされ、古墳周辺部には円筒埴輪が置かれていたらしい。

墳丘形態は7区型で、上述のヤマト政権の負託を受けた水軍的役割を担っていたと考えられる。

伝承では、日本武尊の妃・宮簀姫(“ミヤズヒメ”と読み、熱田神宮は、宮簀姫が日本武尊の形見である草薙剣(くさなぎのつるぎ)を祀ったことに始まるとされる)の墓と伝えられているが、5~6世紀に尾張に勢力を伸張していた尾張氏の首長の墓と考えられている。

当時、尾張は東国攻略の前進基地であり、地方豪族の尾張氏は、早くから大和政権に服属していたらしい。

濃尾平野の低湿地は稲作に適し、また、伊勢湾が深く湾入して(当時)水運の要衝でもあったため、有力豪族による支配が行われていたと見られる。

この巨大な断夫山古墳の造営を命じた人物は、おそらく大和王朝と密接に結びついた、尾張地方の強大な支配者であったことが考えられている。





写真は、断夫山古墳前方部の墳丘光景及び後円部墳丘の様子。

後円部は、台状で三段に築かれていたと見られており、二段目の傾斜面に土師質の円筒埴輪を巡らせ、河原石の葺石を葺いた造りになっていたらしい。

また、北西の前方部と後円部の間のくびれ部に「造り出し」と呼ばれる方形の壇が造られており、須恵器なども発見されたことから、ここで祭事が行なわれていたと考えられている。

しかし古墳の内部構造は未調査で解っていない。

古墳の周囲には、石垣で組まれた周濠が巡らされているが、現在のものは第二次大戦後に造られたもので、かつてどのような構造・規模であったのかは不明。


コメント

古墳あれこれー前方後円墳の伝播とその推進力とは!

2011年11月14日 | 歴史
茨城県石岡市の舟塚山古墳は、南に霞ヶ浦の高浜入江を望み、西には筑波の霊峰を仰ぐ景勝地にあり、いわば石岡市街地南端の崖状台地に所在する大型前方後円墳。

霞ヶ浦の両岸には古墳群があり、本古墳はその中央部の恋瀬川河口付近に所在するが、1921年に国指定史跡を受けている。

本古墳は、常磐線高浜駅から石岡方面へ向かって約1.5kの地点にあり、南東方向の霞ヶ浦は、古墳時代には本古墳直下まで、霞ヶ浦の水面が進入していたと推定される。









写真は上から、舟塚山古墳の位置関係地図、霞ヶ浦から見上げる筑波山光景、本古墳の墳丘形態及び同古墳の上空写真。

墳丘全長は約186m・後円部の直径約90m・前方部の幅約99m・後円部の高さ11m等古墳の規模は県内最大・関東地方第2位を誇る古墳。

墳丘は3段に築造されていたと云う。

周辺の調査では、幅35~55mの濠跡が、東・西・北側に存在することが確認されている。

国指定史跡のため主体部の調査は実施されていないが、築造年代は5世紀中葉から6世紀後半と推定されている。

又古墳の被葬者についても巨大古墳を成立させた人物として、恋瀬川流域の農耕地を掌握した人物で、強力な政治的背景のある人物でもあり、或いは霞ヶ浦の水上交通とその管掌を担うためにヤマト王朝からの付託を受けた将軍的人物か、常陸国の政治社会への形成過程を物語る、有力な大豪族・首長と見られる。

舟塚山古墳は単独で存在するのではなく、その周辺には、大小25の古墳に囲まれた一大古墳群を形成している。

本古墳が巨大な前方後円墳であること、その周辺には数多くの陪塚が築造されていること、又希少な埋葬副葬品などからヤマト王朝直属の地元大豪族か?

舟塚山古墳の墳丘形態は、ヤマトの河内大塚山古墳・島の山古墳と同じ、7区型で前述の水軍系古墳群と酷似している。





写真は、周辺の古墳から検出された盾・直刀・馬具など。

周辺の古墳群の調査は数回にわたり実施され、木棺・石棺や人骨と共に、写真のような埋葬副品なども発見されている。

巨大前方後円墳が主墳で、その陪塚の関係でないかと考えられている。



コメント

古墳あれこれー前方後円墳から窺える古墳時代社会とは!そのⅧ

2011年11月12日 | 歴史
有力豪族首長の墳墓として、ここでは大阪岬町の淡輪西陵古墳を紹介する。







写真は上から、岬町内の古墳群マッピング、手前の淡輪漁港に面した、向かって右手の西陵古墳と左側の宇度墓古墳及び西陵古墳墳丘の実測図。

岬町の古墳群は、平野町域を北方に流れながら、和泉山脈から大阪湾に注いでいる、4つの大きな河川の河口付近に存在しているが、中でも番川流域には淡輪集落が存在し、これまでに特徴のある歴史文化を形成してきた。

西陵古墳の墳丘形態は7区型で、前述の島の山古墳と河内大塚山古墳と酷似している。

紀伊から和泉へ向かう海の交通路として、その中間地点となる岬町は、大阪湾の入り口であることから、非常に重要な地域であったようで、岬町には、200mを越える前方後円墳がこの狭い平野の中に2基も存在している。

大阪湾の淡輪漁港に面して造られた、墳長210mの“西陵古墳”と墳長170mほどの“宇度塚古墳”は、被葬者の海との関わりの深さが想像され、紀伊を本拠地とする人物の墓と考えられる。

宇度墓古墳と西陵古墳は、いずれも大きさで河内や奈良の大王墓にも匹敵する。
コメント

古墳あれこれー前方後円墳から窺える古墳時代社会とは!そのⅦ

2011年11月09日 | 歴史
前方後円墳が成立したのは、人と人との戦いを通してだけではなく、自然を克服するには、見えない祖霊に守られながら生きることが必要であったからかもしれない。

しかしこの後、大陸と朝鮮半島はさらなる激動の時代を迎え、日本列島ではさらに多くの人々の渡来を受け入れていくことになる。

ここからは、前方後円墳伝播のルーツとルートについて訴求してみたい。

先ず押さえておかなければいけないのは、前方後円墳には厳密な設計と築造企画が備わっていること。

例えば前方後円墳設計の基本は、後円部の直径を八等分し、その1/8を「1区」とする単位で前方部の長さを決め、その上で多様な前方後円墳の設計と築造がなされている。

例えば前方後円墳の6区型とは、前方部の長さが6区に及ぶため、後円部の直径8区に対する、前方部6区と云うバランスの前方後円墳設計になる。

このように、後円部の「円」に一定の比率の長さを持つ前方部で構成される築造企画が、墳丘の大小にかかわらず、同一系譜性を墳丘に具現化する。

即ち各王統の勢力や影響力の伝播は、ヤマトの大王と地域豪族との同盟・服属関係が同一の築造設計により具体化されていることになる。

前方後円墳造営の技術・技法体型が極めて正確に伝承され、各地に伝播されていった。

それでは王統の系譜性が、どのように伝播したか、その経路を辿ってみたい。

1、海路型の伝播経路
例えば、ヤマト政権と宮崎日向の王とを結ぶ政治同盟として、ヤマトの石津丘古墳・履中陵の築造企画は、宮崎県西都市の西都原古墳群にある、女狭穂塚古墳と重なる。





写真は、堺市百舌鳥古墳群の履中陵平面プラン復元図と宮崎県西都市の西都原古墳群の手前が女狭穂塚古墳復元図。

ヤマト大王と従属的な身分秩序を表徴する、地域王の古墳という関係。

女狭穂塚古墳の規模は履中陵の半分だが、同じ6区型で、古墳築造企画を踏襲している。

次にヤマト政権の負託を受けた、水軍的首長の例を紹介する。

奈良県川西町の島の山古墳と大阪府松原市の河内大塚山古墳は、7区型の共通築造企画を持った、同一系譜性を表徴していると云える。



奈良県川西町の島の山古墳空撮。

本古墳は、古墳時代前期末頃に築かれた全長190mほどの前方後円墳で、奈良県下の前方後円墳約300基のうち第20番目の規模に相当。

明治年間に古墳後円部の発掘により、多量の石製腕飾り類が出土、竪穴式石室があったと考えられている。

平成22年2月初めて、陵墓参考地の河内大塚山古墳へ研究者の立ち入りが許可された。





写真は、松原市と羽曳野市に跨る、河内大塚山古墳空撮及び同古墳の実測図。

歴代天皇や皇族の墓とされる陵墓・陵墓参考地への立ち入りは、2008年の奈良市五社神(ごさし)古墳(神功皇后陵)、2009年の奈良市佐紀陵山古墳群の垂仁天皇の皇后・日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)陵と京都市伏見城跡の桃山陵墓地(明治天皇陵・昭憲皇太后陵)に次いで4例目で、全長300mを超す巨大な前方後円墳への立ち入りは初めて。

河内大塚山古墳は、全国で5番目の規模を誇る巨大前方後円墳で、全長約335mを測る。

島の山古墳と河内大塚山古墳の被葬者が、大和川水系を支配し、奈良盆地から河内湖を経て大阪湾への水上交通を管掌し、更には瀬戸内の海上交通をも管掌する軍事的役割を具えた、ヤマト政権傘下の地域有力首長であったと考えられている。



コメント

古墳あれこれー前方後円墳から窺える古墳時代社会とは!そのⅥ

2011年11月06日 | 歴史
古墳時代社会の真相に、更に迫ります。

古墳は、円墳、方墳、前方後円墳など、いろいろな形があるが、3世紀後半ごろから前方後円墳に画一化されて、全国に広がっていくようになる。

前方後円墳の墳形については、現在では円形墳丘墓の通路部分が発達し、墳丘と一体化したものであると考えられている。

前方後円墳は日本列島の広範囲に分布しており、北は岩手県から南は鹿児島県にまでおよんでいる。また、近年、朝鮮半島西南部でも若干の存在が確認されている。

西日本の前方後円墳出現期の分布状況を見てみると、北部九州の玄界灘沿岸から、瀬戸内海沿岸各地をへて、近畿中央部に広く拡がっている。

その規模は箸墓古墳墳丘の長さ・200mを超えるものが奈良盆地の東南部に数多く見られる。

それに次いで大規模な出現期古墳が見られるのは吉備地方(茶臼山古墳は墳丘長138m)で、それに続くのは北部九州である(石塚山古墳は墳丘長120m)。

このように前方後円墳出現期の古墳規模からいうと、大和以外には、箸墓の二分の一以上の規模の古墳は見られない。こうした分布のあり方は、広域の政治連合が、大和を中心に形成されていたことを物語る。

前方後円墳は、大和政権のマークのようなもので、前方後円墳を造るということは、大和政権に属しているということ。

このころ古墳に埋葬されるのは、地方豪族の首長だったため、前方後円墳を造ることにより、大和政権に属する大和グループの一員ということを古墳の形で示したと云える。つまり、看板の役目も果たしていたわけ。

従って、前方後円墳がある場所は、大和政権下の土地であることが明白となり、敵なのか味方なのかが、すぐに分かる。

物資を輸送するときなど、安全かどうかがわかり、非常に便利な社会的証であったと言える。

畿内の首長連合の中核に大和政権が位置し、武力で各地の政治集団を滅ぼし、勢力を拡大していった。

5世紀に吉備政権を滅ぼし、6世紀には筑紫政権を滅ぼし、大和政権の力は全国に広がっていった。

5世紀を代表する古墳は、大阪平野の古市古墳群と百舌鳥古墳群。

天皇で言えば、第15代応神天皇以下、仁徳・履中・反正・允恭・安康・雄略・清寧・顯宗・第24代の仁賢天皇が続き、この時代を「河内王朝」と呼んでいる。





写真は、羽曳野市の応神天皇陵・誉田御廟山古墳の上空写真及び藤井寺市の仁賢天皇陵に隣接した民家と畑地。

第15代・応神天皇陵は、写真では分かりにくいが、左右非対称の前方後円墳で、前方部正面の外堤線が右側から左側に傾斜している。墳丘長415m・後円部の径256m・前方部の幅330mほどで、日本最大級の前方後円墳。

一方第24代・仁賢天皇陵は全長121mほどで、江戸末期に学僧によって発見されたと云うが、民家に隣接した、荒れ放題の前方後円墳。何故これほどまでに違うのか?

古墳、とりわけ「前方後円墳」に結実した墳墓の形は、古代人の「死」に対面するに当たっての観念が凝縮したものとして形成されたと考えられる。

流入した中国の思想を果敢に取り込みつつも、独自の形に纏め上げた創造力も感じ取れる。

多くの労働力を投下し、巨大なモニュメントとして「前方後円墳」は成立した。

これらは、日本列島に一つの時代をもたらした記念碑でもある。

コメント

古墳あれこれー前方後円墳の伝播とその推進力とは!そのⅠ

2011年11月04日 | 歴史
ここからは、全国に分布する前方後円墳は、どのように広がって行ったか、その推進力は何であったかなどを考えてみたい。

弥生時代後期、銅鐸や銅矛による青銅器祭祀は、徐々に墳墓による祭祀へと代わる。

特に出雲から北陸の日本海地域には、四隅が突出した独特の方丘墓があらわれる。また、吉備地方には、対称に二つの突起を持つ墳墓が造られ、それぞれ地域の独自性をあらわしている。

その後、畿内では、前方後円墳の祖形といえる形のものが造られはじめ、瀬戸内海沿いに西へと普及し、邪馬台国の時代には、それまで甕棺墓や隅円長方形の墳丘墓などが多かった北九州に達する。

一方、畿内から東、東海から関東にかけては前方後方墳の祖形が現われて、他とは違った展開を見せることになる。

前方後円墳とは何か?

国家連合同士の大連合の成立である。前方後円墳は方墳と円墳の結合であるが、それぞれの起源が何かを物語っている。



弥生時代の方形周溝墓の原形。

方墳の原型である方形の丘墓は、弥生初期の北九州に多くあり、その後東海以東の地域に広がった。

円墳の原型である円形の丘墓は、瀬戸内沿岸に多くあり、その後近畿地方に広がった。

朝鮮半島につながりを求めると、方形丘墓の原型である方形周溝墓は朝鮮各地に見つかるが、円形丘墓の方は、南西部(後の百済地域)および中国の江南に見つかる。

これは、大きく見ると円形(倭人系)勢力と方形(新羅・加羅系?)勢力の合体・和合を示しているのではないか?

その合体勢力が3世紀後半、近畿地方に大和王朝を開いた。

その時期に、それとは別の勢力(方形の合体勢力・前方後方墳)が東日本(東海・関東)に存在していた。

この時代は、少し前に卑弥呼の時代(240年頃、魏志倭人伝)を経た後であり、邪馬台国と狗奴国の合体による大和(ヤマト)王朝の成立を示しているのかもしれない。

そしてその前方後円墳合体勢力が、東にも勢力をのばしていく。しかし関東の一部と出雲には根強く方形勢力(新羅と高句麗系?)が残り続ける。

巨大前方後円墳の成立発展は、大和朝廷の成立発展と結びつく。そして、三角縁神獣鏡は、しばしば、前方後円墳から出土し、その分布の様子は、巨大前方後円墳の分布とよく似ている。

三角縁神獣鏡が、大和朝廷の祭器として前方後円墳の発展に伴って普及したことを思わせる所以である。

5世紀になると、100m以上の巨大前方後円墳の築かれることがより多くなり、その分布の様子は、奈良県と福岡県の格差が大きくなる傾向にある。

つまり、時代が下がるにつれ、福岡県にくらべ、奈良県の優位性が進むのである。

大規模前方後円墳の分布を調べてみると、新潟県や福島県を飛び越えて宮城県や山形県にぽつりとあるだけにすぎない。飛び地のように存在する。

大量に造営されているのは関東までと云ってよい。

問題は、これをどのように解釈すべきなのか、ということにある。

新潟県などの地域は大和朝廷から離脱していたように思える。

七道は、畿内から東北にのびる日本海側にある北陸道、太平洋側をはしる東海道、中央の山地を通る東山道と、畿内から西へ、日本海側の山陰道、瀬戸内海側の山陽道、九州を一周する西海道、四国にはこういった道路網はないが、紀伊半島を巡る南海道からなる。

要するに行政区分なのだが、道路を軸にして形成されている点が興味深い。

古代において道路が整備され、各地域が結ばれたことの重要性は、現在では考えられないほど意義の高い出来事であった。

古墳分布図と畿内七道を比較すると、新潟県を通る北陸道を除けば、多くの場所で重なることがわかる。

舟でいくことができる海岸部とは違い、内陸部では古墳と古墳をつなぐ道路が整備されただろうことは容易に想像できる。

七道はいわば幹線道路であり、現在でいうところの国道に近い。

ここを押さえることは内政的に重要な意味をもち、反乱などの事態に対し早急な対応ができるようになったと理解できる。
コメント

古墳あれこれー前方後円墳から窺える古墳時代社会とは!そのⅤ

2011年11月01日 | 歴史
前方後円墳がもたらした社会的影響について、更にその特徴を続けます。

前方後円墳が左右対称か、非対称かについてはっきり分からないが、築造された地形などから、制約を受け左右非対称になることはあり得る。

一方左右対称に築造できる立地でも意図的に非対称に築造し、それを形式的に継承していくケースもあるらしい。

完璧な築造デザインを避ける風潮もあったと云われる。

特に古墳時代後期以降、横穴式石室が採用されると、非対称の様式化が進んだと云う。

ここで、古墳前方部が左右非対称な前方後円墳を2例紹介する。





写真は、天理市の西殿塚古墳及び羽曳野市の誉田御廟山古墳の上空写真。

写真の通り、西殿塚古墳は前方部左側に寄り過ぎているが、築造企画そのものが左右非対称であったらしい。

誉田御廟山古墳(応神天皇陵)は、写真では分かりにくいが、前方部正面の外堤線が右側から左側に傾斜していると云う。

このような左右非対称の前方後円墳は、地方にも広がっていたと云う。

天空と繋がる墳丘頂の竪穴式石室による埋葬から、古墳時代後期には古墳の横に穴をうがって遺体を納める玄室へつながる、横穴式石室による黄泉の国の他界観へ変化。

横穴式石室には死者の家である、家型石棺に埋葬した。

更に6世紀後半になると、復古的な築造企画で造営された、航空母艦の甲板のような、広大な前方部平坦面を持つ、巨大古墳が誕生。

具体的には、松原市と羽曳野市にまたがる河内大塚山古墳と橿原市の五條野丸山古墳があげられる。

平坦で広大な前方部平坦面は、文武百官を整列させ、服属を誓わせる服属儀礼のマツリゴトの舞台になったと考えられる。

前方後円墳の造営が廃絶する直前の時期に、復古的に巨大化した古墳は、航空母艦の甲板の平坦部のように、広大な空間を演出している。







写真は、松原市と羽曳野市にまたがる河内大塚山古墳全景で、画面左側が前方部、橿原市の五條野丸山古墳の平坦な前方部光景及び同古墳の平坦な前方部墳頂の様子。

河内大塚山古墳は、全長約335m・前方部幅約230mあり、五條野丸山古墳は、巨大甲板のように、全長約318m・前方部幅約210m・前方部高さ約15mを測る。

前方部墳丘は、もはや荒ぶるカミガミを鎮魂するだけでなく、初期的な古代天皇制のように、人民を平伏させるための舞台で、次の段階では宮廷にその場を移していくことになる。






コメント