近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

古墳あれこれー前方後円墳から窺える古墳時代社会とは!そのⅣ

2011年10月30日 | 歴史
次に、被葬者が女性であったと云う、2つの古墳のうち、神花山古墳について紹介する。

現在の柳井市街地から田布施町・平生町の低地一帯は、かつて古柳井水道と呼ばれ、海峡であったといわれている。

この海岸に沿って、熊毛王系譜の古墳群が築造され、一部は復元整備されている。



写真は、山口県熊毛郡平生町の神花山(じんかやま)古墳から望む瀬戸内海の様子。

熊毛郡平生町の旧熊毛湾は、奈良の大和朝廷と九州や朝鮮半島・中国とを結ぶ航路の主要な中継点となり、熊毛王国の繁栄をもたらしたと云う。

この旧熊毛湾を取巻くように、初代熊毛王の墓とされる、田布施町の国森古墳から柳井市の茶臼山古墳や、平生町の神花山古墳・白鳥古墳・阿多田古墳、更には田布施町の納蔵原古墳・稲荷山古墳・石走山古墳、そして王国最後の王墓・後井古墳まで歴代の墳墓が築かれている。

そのうち神花山古墳は、平生町田布施川の河口東側にある標高約39mの丘陵にある前方後円墳。







写真は、神花山古墳墳丘の様子、古墳の埴輪と葺石復元の様子及び同古墳に建てられた女王像。

全長約30m・後円部の径約15m・高さ約2.5mで、5世紀前半に造られたものと推定され、現在国の史跡に指定されており、女性が埋葬されている数少ない古墳。

今まで知らなかったが、山口県内では古墳人骨の出土例は少なく、しかも首長墓に女性が単独で埋葬されていた例は全国的にも珍しいらしい。

本古墳は、標高39mほどの神花山頂上部に築かれた前方後円墳で、この貴重な文化財の保存と、町民の方々が学習や憩いの場として活用できるように、公園として整備されている。

この古墳から出土した女王の頭蓋骨をもとに女性の顔を復元したとのことであり、写真の通り、古墳のそばには高さ9.5mの女王像が、日いずる方角の東を向いて立っている。

古墳あれこれー前方後円墳から窺える古墳時代社会とは!そのⅡ

2011年10月27日 | 歴史
前方後円墳から見え隠れする古墳時代社会の実像に迫ります。

そこで、前方後円墳造営に見る精神世界の変化を見てみる。

農耕祭祀と荒ぶるカミガミ鎮魂の首長霊のヨリシロから、世俗的な服属儀礼を誓わせるマツリゴトの舞台へ大きく変化。

そして大和政権と対峙する地域首長との戦いが巨大古墳を生むことになる。

ヤマトの大王が奈良盆地から河内平野に進出し、大和川と石川が合流する地点での河川の治水・平野の開拓をするため、荒ぶる河川との戦いと鎮魂が大王の責務であり求められた。

叉瀬戸内海から九州や朝鮮半島に進出するには、瀬戸内の海上交通の覇権を確立する必要と荒ぶる海神の鎮魂も欠かせない大王の責務でもあった。

古市と百舌鳥古墳群が形成されたのは、こうしたヤマト大王政権の河内平野開拓・治水と、西海への覇権をかけた進出が、大阪平野古墳群の形成の背景を物語っている。


古市古墳群の津堂城山古墳、百舌鳥古墳群の石津丘古墳、古市の誉田御廟山古墳、百舌鳥の大山古墳、古市の市野山古墳、百舌鳥のニサンザイ古墳、古市の岡ミサンザイ古墳等々、古市古墳群と百舌鳥古墳群が交互に造営されていく謎は、何を物語っているのか?


恐らく河内平野の治水・開拓事業と、九州・朝鮮半島への海上交通の覇権維持・確保を、同時並行してやらなければならなかった事情を反映していたと思われる。

そして男性首長と女性首長併存の時代から男性首長優位の時代へ変化していく。

時代前期には、大規模な前方後円墳に葬られる女性が複数認められている。例えば熊本県字土市の全長約86mの前方後円墳・向野田古墳の中心埋葬施設には、壮年期の女性が埋葬されていた。

叉山口県平生町の全長30mほどの前方後円墳・神花山古墳にも、女性が単独で埋葬されていた例は全国的にも珍しいらしい。

律令制下では、中小規模の地域では女性首長の存在は珍しくなく、地域を代表する首長だけでなく、集落を代表する小首長にも女性が数多くいたと云う。

しかし古墳時代中期以降、直径20mぐらいの小円墳に葬られた女性はある程度認められるが、大規模古墳の中心埋葬施設に葬られる女性は知られていない。

古墳時代後期以降、女性が首長の地位或いは家長の地位から除外されていく現象は、ヤマト政権の軍事化と戦争が深く関係する。

大規模古墳の副葬品には、甲冑・刀・弓矢に代表される武具・武器が目立つようになる。ヤマト政権の軍事的性格が強化された結果であり、この傾向は小規模古墳にも認められるようになった。

ヤマト政権並びに地方豪族の軍事化と軍事編成を行なう過程において、女性が首長や家長の地位から除外されていったと考えられる。

古墳時代中期以降、女性差別が始まり、広まっていったとも云える。

ここで、被葬者が女性であったと云う、前述の2つの古墳について、詳述する。
先ずは、向野田古墳についてご覧下さい。

☆熊本県宇土市の向野田古墳

向野田古墳は熊本県宇土市松山町、標高約37mの丘陵尾根先端にある前方後円墳。

雑木林の中にあり、全体像はなかなか確認できない。特に採土工事によって前方部が失われ、後円部墳頂の平坦面も削られてしまっている。





写真は、向野田古墳の石碑と看板及び同古墳後円部墳丘の様子。

本古墳は、全長約86m・後円部径53.7m・高さ約9m・前方部幅35.5m・高さ4mほどの前方後円墳。墳丘には葺き石が施されていたらしい。

また朝顔形埴輪などが採取されており、墳丘には埴輪の配列がなされていた。

1969年に発掘調査が行われ、叉1992年には範囲調査も行われている。その際、主体部が2つ確認されている。

後円部頂中央にある第一主体部は、全長4.25m・幅1.94m~1.1m・高さ1.08mほどの竪穴式石室で、石棺内は朱で染められていた。

竪穴式石室の石棺は、一石の阿蘇溶結凝灰岩を刳り抜いて造られた、長さ4.2mほどで、全国で2番目に長く、推定重量4トンの巨大な舟形石棺が納められていた。



写真は、向野田古墳出土の女性人骨。

同古墳の時期は、4世紀末の古墳時代前期と考えられ、後円部中央の竪穴式石室石棺内から,30代後半~40代の身長150cmくらいの女性の人骨が発見されるなど、当古墳では貴重な発見が多数あり、国の史跡に指定されると共に、出土遺物は国の重要文化財に指定されている。

ということで、当古墳の被葬者は女性であることが明らかとなり、女性の地域権力者の存在が確認された。

これは古墳時代前期社会における首長権力のあり方を考える上で非常に重要な発見であり、当古墳は熊本県地域だけでなく、日本における古墳時代前期を語る上で欠かせない古墳。

これほどの規模の古墳に、女性が一人で葬られることは珍しく、この地を治めていた女性の絶大な権力を物語っている。

石室内からは、銅鏡3面(中国製方格規矩鏡・中国製内行花文鏡・倭製四獣形鏡)のほか、車輪石・硬玉製勾玉・碧玉製管玉・ガラス製小玉・鉄刀・鉄剣・鉄斧・刀子78本などが出土している。

石棺内に武器類はないが、石室と石棺の隙間に数多くの剣や刀などが置かれていたと云う。これらの出土品は、一括して国の重要文化財に指定されている。

又前方部にある第二主体には、箱型石棺が納められていると云う。



古墳あれこれー前方後円墳から窺える古墳時代社会とは!そのⅡ

2011年10月24日 | 歴史
先ず弥生時代の画期的な農業生産基盤から生まれた前方後円墳について考察すると

1、弥生時代に急展開した水田稲作農耕の農業土木・技術は、大型の前方後円墳築造を可能にし、広め、定型化・巨大化する路を拓いた。



写真は、弥生時代の方形周溝墓の原形。

弥生時代を象徴する方形周溝墓の方形から、古墳時代の円形へ激変する埋葬主体部は、共同体から首長に、祭祀の主人公を祀り上げた画期的な墓制であり、首長の霊力で主宰する祭祀へと劇的な変化を遂げた。

2、もう一つ弥生時代との境界を画する劇的な違いは、銅鐸祭祀の廃絶と権力の象徴としての銅鏡の出現が挙げられる。

銅鏡については、流水紋銅鐸は水の祭祀、袈裟欅銅鐸は水田の祭祀に欠かせない道具であったのが、前方後円墳の祭祀では銅鐸は廃絶され、首長の霊力・権力の象徴としての銅鏡が出現した。

ということで、水田稲作農耕の重要な農耕祭祀・銅鐸祭祀が廃絶された背景は、共同体が主宰する祭祀から、首長が主宰する共同体を超えた祭祀が出現したことになる。

と同時に、銅鐸に替わって銅鏡が首長の副葬品として、或いは霊力・権力の象徴として、その地位を確立した。



写真は、黒塚古墳から出土した三角縁四神獣鏡。

奈良県天理市の黒塚古墳のように、33面の銅鏡が副葬され、銅鐸を凌駕した祭祀の呪具に使われていたと見られる。

3、奈良県天理市の渋谷向山古墳は、300m余りの墳丘を築造し、後円部は真上から見て正円になるように施工している。



写真は、天理市の渋谷向山古墳・景行天皇陵の上空写真。

写真のような正円が「日輪」を象徴し、ヒノミコ(日の御子)たる霊力を具えた権能を象徴していると云える。叉後円部の正円は、太陽信仰を象徴している。

4、多様化した前方後円墳は、複数の王統系列を示している。

埋葬主体部の後円部では共通する築造企画を共有していても、前方部の企画・形態には複数あり、それぞれの喪葬祭祀の独自性や首長の出自・系譜性などを前方部の墳丘形態の違いとして、複数の王統が並立していたと云える。

例えば後円部直径の二分のⅠ以下の比率の短小な前方部を持つ、帆立貝形墳墓は大王政権下で、従属的な身分を墳丘外形に視覚的に現したと見られている。

一般的には、前方部と後円部の全長規模でランキングを比較しているが、後円部直径の対比と前方部の長短で築造企画の相違点を読み取ることが、相対的に比較する方法として認知されている。

5、前方後円墳を造営した土木工学的な技術には、縦横基準線の水平を維持して直交させ構成する、「丁場」(作業現場)工法と遣り方工法(杭などで土工面や構造物の位置を表示し施工の目安にする)があったが、現在でも日本の大工の伝統的な工法として使われている。

築造企画の計量に使われた「物差し」の起源は、首長の身度尺・ヒロ(両手を広げた長さ)で地割りする方法が、首長霊力で荒ぶる大地の神を鎮魂する儀礼として、叉首長の霊力を神格化するとして使われていたと見られている。

身度尺を起源として、制度的な尺度に止揚していった。

大ヒロは成人男性・162cm前後、小ヒロは成人女性・150cm前後に相当する長さが身度尺であったと考えられている。


古墳あれこれー前方後円墳から窺える古墳時代社会とは!そのⅠ

2011年10月22日 | 歴史
古墳時代とは、一般に3世紀半ばすぎから7世紀末までの400年間余りを指すが、中でも3世紀中葉過ぎから6世紀末までは前方後円墳が、北は東北地方から南は九州地方の南部まで造り続けられた時代であり、前方後円墳の世紀ともいわれる。

前方後円墳が造られなくなった7世紀には、方墳・円墳・八角墳などが造り続けられ、終末期と呼ばれている。

日本国家の成立から考察すれば、古墳時代前期・中期の古代国家の形成期を経て、後期から終末期にかけて日本の古代国家が成立したと考えられている。

卑弥呼(ひみこ、175年頃? - 248年頃)は、日本の弥生時代後期における倭国の女王(倭王)で、邪馬台国を治めた。封号は親魏倭王で、後継には親族の台与が女王に即位したとされる。

『日本書紀』により倭迹迹日百襲媛命(やまと・ととひ・ももそ・ひめ)の墓として築造したと伝えられる、全長約272mの箸墓古墳は、邪馬台国の都の有力候補地である纏向遺跡の中にある。





写真は、桜井市の箸墓古墳全景及び三輪山に見守られているような、写真右側の箸墓古墳遠景。

箸墓古墳は、同時代の他の古墳に比較して規模が隔絶しており、また日本各地に類似した古墳が存在し、出土遺物として埴輪の祖形と考えられる吉備系の土器が見出せるなど、以後の古墳の標準になったと考えられる重要な古墳。

箸墓古墳の築造により古墳時代が開始されたとする向きが多い。

従来、上記の箸墓古墳の築造年代は3世紀末から4世紀初頭であり、卑弥呼の時代と合わないとする説が有力であった。

しかし最近、年輪年代学や放射性炭素年代測定による、科学的年代推定を反映して、古墳時代の開始年代を、以前より早める説が有力となっており、上記の箸墓古墳の築造年代は、研究者により多少の前後はあるものの、卑弥呼の没年(248年頃)に近い3世紀の中頃から後半と見る説が一般的になっている。



古墳あれこれー間違って治定された天皇陵とは!おわりに

2011年10月20日 | 歴史
主題について、ここに総括してみたい。

「尊崇の対象だから、静安と尊厳の保持が何よりも優先されねばならない」と言う理由は一面では正しい。

しかし日本の古代史に関しては、あまりにも謎が多過ぎる。

なぜなら、伝えられている様々な歴史書には間違いが多いので、正しい歴史書を作る必要があると言って作られたのが『古事記』であり『日本書紀』であるから、そこには当時の皇室だけが正統な存在である、との勝手な思いが充満している。

そこで、対立するあるいは並立する様々な権力の存在を認める歴史書は抹殺された。従ってこれらの歴史書に古代史の真実が存在している根拠は薄い。

陵墓にも嘘は無い。陵墓自体は雄弁に事実を物語る。従って、本当に真実の古代史を追究するなら、そうした陵墓の発掘は避けて通れない。

そして、先の一面では正しかった理由は、次の事情で正しさが減殺されてしまう。それは宮内庁の陵墓の指定は正しくない、との理由である。

たとえ、先祖の墓として今も祀られているとしても、その発掘が先祖の尊厳を損なうとは思えない。

もしも発掘が尊厳を損なう行為なら、徳川家の将軍の墓の発掘をした徳川家の子孫達はとんでもない事をしたと言う事になる。

しかし、その結果、その発掘で様々な新事実が判明したのである。

皇室の宗教である神道では、死者はその家を守る神となる。その神としての存在こそが祀られるべき存在であり、その白骨が祀られている訳ではなかろう。

それに発掘は墓を暴くのでもなければ、盗掘をするのでもない。純然たる学問的発掘に何のやましいこともない。

理不尽な拒否を続けていると、宮内庁は皇室に不利な点が発見されるのを恐れているのではないか、としか思えなくなる。

新たな発見がなくても、古代において、皇室の系統には不自然な点があるのは周知の事実であり、その一つが継体天皇にある。

更には大和朝廷以外にも日本には大王の存在があった事は、学者が認めようが認めまいが、中国大陸の歴史書が証明をしている。

だからこそ、天武天皇は自分達が正統である事を主張しようとして、歴史書の編纂を命じたのである。

先祖の尊厳や宗教的理由を持ち出して、我々日本人の歴史に勝手に幕を引いたり、隠したりする事は許されないと思われる。

もっともらしい理屈を付けて古墳の発掘を拒否するなら、宮内庁は、日本の歴史解明をも否定することになり、これは皇室の尊厳を云々する以前の日本国を閉ざすことに通じる。

古墳あれこれー天武・持統天皇陵にまつわるミステリー!そのⅡ

2011年10月18日 | 歴史
元々天武・持統天皇陵に治定されていた、見瀬丸山古墳は、一体全体誰の陵墓であろうか?



写真は、丸山古墳の正面風景。

民家と直接接し境界線が分からないほど。外濠も何処へ行ってしまったのか、何故このようなことになったのか等の疑問は永遠に残る・・・・・。





写真は、丸山古墳のサイド・ビュー2点。

外濠の見分けも付かず、犬の散歩コースと仮した。全長310m余りと奈良県では最長、日本でも6番目の前方後円墳が泣いているように見える。

公開に先立ち、宮内庁が石室の単独調査を行ったが、被葬者が誰なのか調査結果に沈黙を守っている。

学会の間では、欽明天皇陵であるとの見方がほぼ固まっているのに、明らかに出来ないのであれば、陵墓参考地の指定を止めるべき。

いつまでも史跡の保存云々との言い訳はもう飽きたと関係者は感じている。

見瀬丸山古墳は一旦公開後また閉じられた。

公開に関し宮内庁の頑なな拒否姿勢は続く。



写真は、丸山古墳のへんてこな看板

元々の看板に上書きしたのか、ダブって見える。又看板主は橿原市と奈良県双方の教育委員会の名前が見える。

内容もちぐはぐ、昏迷の一端を覗いた感じ。





写真は、明日香村の欽明天皇陵全景及び同天皇陵外濠。

元々の欽明天皇と妃の堅塩姫(きたしひめ)の檜隈坂合葬陵といわれる。

濠をめぐらせた全長約140mの前方後円墳で、欽明天皇は、仏教とその聖典を伝えた天皇で、飛鳥文化は仏教を中心に花開いたと云う。

欽明天皇陵を丸山古墳とする説は、あくまで考古学の立場であり、しかもまだ推測の段階で、決定的な証拠はないが、可能性を秘めている。

一方、明日香村平田にある梅山古墳・欽明天皇陵は、石山と称せられるほど夥しい葺き石があり、周辺に人工的な土盛りの形跡もある。

さらに、梅山古墳の所在地は明らかに桧隈にあり、梅山古墳がやはり真の欽明天皇陵なのかも知れない??

欽明天皇は、539年から31年間も長期在位した大王で、571年に亡くなられ、「檜隅坂合陵(ひのくまさかあいりょう)」に葬られたと記録されている。

現在は、この「檜隅坂合陵」を平田梅山古墳にあて、欽明天皇陵としている。

欽明天皇治世中、百済の聖明王によって仏教が伝来し、約半世紀続く崇仏派の蘇我氏と廃仏派の物部・中臣氏との権力闘争の発端となった。

欽明天皇は、継体天皇と手白香皇女(たしらかのひめみこ)との間の嫡子であるが、父親の継体天皇は傍系出身であり、先々代仁賢天皇の皇女で、先代武烈天皇の姉である直系の手白香皇女を皇后に迎え入れた。

継体天皇の後は欽明天皇が即位し、2年後それに反対する勢力が安閑・宣化天皇という二人の天皇を即位させ、しばらく2系統の王朝が併存していたという説が根強い。

ここに傍系の継体天皇と、直系の手白香皇女両名の血を引く天皇が誕生した。この欽明天皇の系統は現在まで長く続く事となり、現天皇家の祖となる。

宮内庁が管理する天皇陵と称する陵墓の発掘は許されていない。理由は「現在の皇室の祖先が葬られ、今も祭祀が行われている墓である」にある。

尊崇の対象だから、静安と尊厳の保持が何よりも優先されねばならない、と言うのである。




古墳あれこれー天武・持統天皇陵にまつわるミステリー!そのⅠ

2011年10月16日 | 歴史
天武・持統天皇陵に野口王墓古墳(奈良県明日香村)が治定された。
その結果、見瀬丸山古墳が天皇陵ではなくなっている。

見瀬丸山古墳は江戸時代以来、天武・持統合葬陵とされてきたが、明治年間に「阿不幾乃山陵記」(あおきのさんりょうき)という鎌倉時代の文書がみつかり、それによって天武・持統合葬陵が別の野口王墓であることが判明したために、前述の通り、指定替えがおこなわれた。

その結果、天武・持統合葬陵でなくなった見瀬丸山古墳が宙に浮いた形となり、陵墓参考地という扱いとなった。

見瀬丸山古墳は、6世紀最大の墓であり、堅塩姫と父である蘇我稲目が葬られているとする説があるが・・・・・。

或いは見瀬丸山古墳は欽明天皇陵とする説をとると、推古28年に砂礫をもって陵を葺き、周囲に土を盛ったことが”記紀”に出てくるが、見瀬丸山古墳にはその痕跡が今までのところ見つからない。

第29代・欽明天皇陵(571年没)説が高まった、橿原市の“丸山古墳”と元々の“欽明天皇陵”を訪問し、比較してみた。

従来日本考古学協会等が入口から覗き込むだけだったのが、今回は敷地内を見せてもらっただけでも前進であった。

見瀬丸山古墳は全長が318mと奈良県下では最大で、日本全国においても6位に位置しており、古墳時代後期後半・6世紀後半に築造されたものの中では、最大の規模を誇っている。

また、横穴式石室の全長は28.4mと、全国第1位の規模で、羨道は7枚の巨大な自然石で天井を覆い、長さ20.1m・玄室の長さ8.3mで、2つの刳抜式家形石棺がL字型に置かれていたと云う。

たまたま民間人が盗侵入し、内部の写真を公開したことがきっかけとなり、一部公開にふみきった点には動機不純を覚えるが、結果石室の全長が28m強と日本一の大きさ等新たな事実が明らかとなった。

と同時に二人目の石棺被葬者が、欽明天皇の后である堅塩媛(きたしひめ)であり、叉堅塩姫は推古天皇の母であることからも、欽明天皇の石棺との見解があらためて強まったらしい。


古墳あれこれー 治定見直しに伴う陵墓指定の変更とは!

2011年10月14日 | 歴史
ここからは、主題の治定見直しに伴う陵墓指定変更のケースを取上げる。

宮内庁は、「皇室の陵墓はあくまでも祭祀の対象であるため、一般の古墳や墓所とは性格が異なる」として、天皇陵をはじめとする陵墓の治定見直しならびに指定の変更を拒絶している。

この方針は、戦前の旧神祇省・旧宮内省から引き継がれたもので、陵墓及び陵墓参考地の指定変更が行われる場合についても、「被葬者の特定が可能な史料が発見された」「天皇陵ではないことが文献や記録から明らかになった」などのやむをえない事情によってのみ行われることを明らかにしている。

陵墓の治定変更は1912年が最後となっており、戦後は治定見直しに伴う指定の変更は一度も行われていない。陵墓参考地の指定変更も1955年以来行われていない。

治定見直しに伴って、指定変更により天皇陵とされた古墳について、次回から取上げる。

間違って治定された天皇陵ー推古天皇陵・植山古墳とは!そのⅡ

2011年10月12日 | 歴史
間違って治定された推古天皇陵・植山古墳の真相に迫ります。





写真は、植山古墳の史跡公園整備工事中につき立入禁止の看板及び同公園工事中の同古墳墳丘の様子。

植山古墳史跡公園が完成するまでには、数年を要するらしい。

古墳の位置については、「古事記」に言う「大野岡」という所は現在の橿原市には存在しないが、「日本書紀」に云う、蘇我馬子が「塔を大野岡の北に建てた」という記述と、「元興寺縁起」に馬子が塔を建てたのは「豊浦(とゆら)前」(奈良県明日香村)とある事から、「大野岡」が現在の橿原市と明日香村の境界付近にあったものと類推され、現在の橿原市五条野町の植山古墳の位置に合致すると云う。

古墳の規模については、天皇の墓が、6世紀までは大型の前方後円墳だったが、7世紀になると一辺が50mほどの大型方墳に変わる。

植山古墳は長辺が約40m・短辺が約30mの長方形墳で、すこし小さいが、推古天皇が遺言で「竹田皇子の側に葬るべし」と言い残したことと、「最初は皇子の墓だったためさほど大きくなかったが、自分も入るため少し広げて長方形になったのではないか」、と言う説もある。

大勢としては、植山古墳を「推古天皇親子の墓」と推定するに大きな反論はないようで、とすれば天皇陵の内部の一端が、これで少し明らかになるのではないかという期待が高まる。

又この古墳にはこれまで見られない、扉を取り付けるための「くぼみ」が掘られた「敷居石」も見つかっており、新たな発見がまた論議を呼びそうだ。

一方植山古墳は初葬地で、後に現在の太子町にある推古天皇陵へ改葬されたとする説がある。

大阪府太子町にある、磯長谷古墳群は7世紀前半を中心とする蘇我氏系の大王墓の伝承をもつ大形方墳を中心とした古墳群。

現在では、聖徳太子信仰の大道として、街道沿いにある聖徳太子御陵・それを守る叡福寺が霊場となり、太子信仰の道としての性格を強めている。



写真は、今や民家によって占拠されそうな荒涼とした、現在の推古天皇陵墓。

大阪府太子町の外れ、段々畑・ゴルフ場に囲まれ、はたしてどれほど当時の面影を残しているのであろうか?

太子町には、日本最古の女帝・第33代推古天皇陵(即位は592年、39歳の時、聖徳太子を立てて摂政に任命、執政を全権委任したと言われる)、聖徳太子の父である第31代用明天皇陵、推古天皇の夫・第30代敏達天皇陵、聖徳太子と生母・間人(はしうど)皇后及び妃・膳手姫(かしわでひめ)の三骨が一つの墓に合葬されている一家の御陵等がある。

推古天皇が切り開いた中国・朝鮮半島との交流のシンボル・シルクロードの竹内街道沿いに、推古天皇と共に“大道時代”を共有した他の天皇が一緒に葬られている。



間違って治定された天皇陵ー推古天皇陵・植山古墳とは!そのⅠ

2011年10月10日 | 歴史
橿原市の植山古墳は初葬地で、後に現在の推古天皇陵へ改葬されたとする説は本当か?

植山古墳は、史跡丸山古墳の東側、谷をひとつ隔てた南東から北西に延びる尾根の南斜面に築かれた古墳で、以前は2基の円墳が周壕の一部を共有して存在しているものと思われていた。

しかし、平成12・13年の発掘調査によって、ひとつの古墳に2つの横穴式石室を持つ双室墳であることが分かった。





写真は、植山古墳の発掘現場2点。

植山古墳は奈良盆地の南端に位置し、6世紀末頃に築かれた東西約40m・南北約30mの長方形墳で、墳丘の東・西・北には濠が巡り、墳丘残存高は約3~6mを測る。

墳丘の南面には、東西2基の横穴式石室が並んで設けられた「双室墳・双室墓」と呼ばれる珍しい古墳で、当初から石室を並べるように計画されたらしい。



写真は、植山古墳石室のうち、左側が推古天皇で右が竹田皇子の石室。

双室墳は、推古朝前後に限られて造られた例の少ない古墳で、石室の形態や出土遺物から、東石室は6世紀末頃、西石室を7世紀前半頃に築かれたと考えられている。

なお、墳丘の北側背後の丘陵上で出土した柱列は、墓域など古墳の所在を示す施設である可能性があるらしい。









写真は上から、植山古墳から出土した東石室及び石室内部の石棺、同古墳から出土した西石室及び石室内部の玄門扉。

また、石室は奈良県下の横穴式石室においても上位にランク付けられる規模であるとともに、東石室の石棺に阿蘇溶結凝灰岩が運ばれていることや西石室の玄門閉塞に扉が採用されているなどの植山古墳の各構成要素から、被葬者は飛鳥時代当時の日本で一、二の権力者と見られる。

又本古墳のすぐ西側にある丸山古墳の被葬者(第29代・欽明天皇と堅塩媛の陵墓であるとの説が有力)と深く関わる人物であることが、窺い知ることができる。

両袖式の東石室には全長2.5mを超える蓋を持つ石棺が残っているが、棺内から遺物は出土していない。

西石室には棺は残っていないが、石室と羨道の境界部分に石製扉の底板であると考えられる、閾石(しきみいし)が置かれている。

この扉の一部であったと思われる石材は近くの「八咫烏神社」等の境内の踏み石の一部として転用さていると云う。

本双室墳は、第33代・推古天皇(史上初の女帝で欽明天皇の第3皇女)と竹田皇子の墓との説が極めて有力。

橿原市教育委員会は、本双室墳を「推古天皇とその息子竹田皇子(生没年不詳)の初期の墓」と推定していると伝えている。

その根拠は、古墳築造の時期、古墳の位置、そしてその規模など。

築造時期については、竹田皇子が587年の蘇我氏・物部氏の争いに、聖徳太子らとともに蘇我氏側に立って戦い、推定没年は590年頃で、20才前後だったと推定される。

2つの石室の築造時期は、土器などの出土物と石室の形態などから東側が6世紀末、西側が7世紀前半と推定され、竹田皇子と推古天皇の没年・628年に合致する。







古墳あれこれー間違って治定された天皇陵とは!続編2

2011年10月07日 | 歴史
ここでは、越塚御門(こしつかごもん)古墳を取上げる。

越塚御門古墳は、明日香村大字越小字御門に所在する終末期古墳で、これまで文献資料等でも紹介されたことはないことから、2010年10月からの発掘調査の結果、新規に検出された古墳。

墳丘は痕跡が残っておらず、墳形や規模は不明だが、埋葬施設の周囲の状況から墳丘は、版築(堅固な土壁をつくるために用いられる古くから伝わる工法)で築かれたらしい。







写真は上から、平成22年11月11日・12日に行なわれた、越塚御門古墳の現地見学会に並ぶ行列2点及び本古墳現地説明会の様子。

11日10時スタートに間に合ったが、その時点で既に1時間待ちの行列ができていた。

新聞報道によると、一時は千人以上の考古学ファンで大行列ができたと云う。

越塚御門古墳は、斉明天皇(594~661年)の墓と確実視されている、牽牛子塚古墳(7世紀後半)の約20m南東隣接地に所在し、ここから新たに棺を納める石室が見つかり、同村教育委員会は9日、この石室周囲の地名から「越塚御門古墳」と名付けた、と発表した。

石室の位置関係などが、斉明天皇の墓の前に中大兄皇子、後に天智天皇の娘「大田皇女」が葬られたとする、奈良時代の歴史書「日本書紀」の記述と符合しており、牽牛子塚古墳を真の斉明陵と決定づける発見と云え、専門家は日本書紀の記述を裏付ける歴史的な発見として注目している。

今回の成果は、本古墳と隣接する牽牛子古墳を解明する上で貴重なデータを提供しており、飛鳥地域の終末期古墳を考える上で重要な資料。

埋葬施設は、明日香村に近い橿原市の貝吹山周辺で採れる、石英閃緑岩(石英や黒雲母を多く含む貴重な天然資源)を使用した南に開口する“刳り抜き式横穴式石槨”で、天井部と床石の2石からなる構造。

石槨の石材が、牽牛子塚が造られたころまでの飛鳥の古墳であり、石造物に用いられた石英閃緑岩でできていることなどから、ほぼ同時に一連の古墳として造られたと見られている。

新たな石室は木棺を置く床石と、それを覆う天井石を組み合わせたドーム状で、幅3m・奥行き3.5m・高さ2.6mほど。天井石は壊れ、一部しか残っていないが、床石はほぼ完全な状態で出土した。

石槨は、牽牛子塚と同じく入り口が南向きで、奥行き2.4m・幅90cm・高さ60cmほどを測り、石槨の推定総重量は約80トン。

石槨の前には、長さ4m以上・幅約1mの石敷きの羨道があったが、羨道は石槨の中心からずれており、埋葬と同時ではなく、続日本紀に記された699年の改修時に造られた可能性があるという。





写真は、越塚御門古墳の発掘調査現場及び石碑が目印の隣接する、奥行きの“牽牛子塚古墳”をバックにした越塚御門古墳の石室内石槨。

石室床面には、コの字に溝を設け排水機能を持たせると共に、棺台の範囲を明示していたと見られる。

床石には天井の石材と接合するための“ほぞ穴”が施され、接合部には漆喰を塗った痕跡が見られることから、精巧な造りだったらしい。

さらに黒い漆膜の破片十数点と鉄釘数本も出土、高貴な人物の墓にふさわしく、高級な漆塗りの木棺があったとみられる。

大田皇女は、飛鳥時代の政治改革「大化の改新」の立役者・中大兄皇子の娘で、夫は中大兄皇子の弟・大海人皇子(おおあまのおうじ)(後の天武天皇)だが、夫の即位前、2人の子どもを残して他界したとされている。

牽牛子塚古墳の石槨は2室に仕切られ、中大兄皇子(天智天皇)が、斉明天皇と娘の間人皇女(はしひとのひめみこ)を合葬したとする日本書紀の記述通りだったが、その前にあるはずの大田皇女の墓が今回発見されたことになる。

宮内庁は、同県高取町の車木ケンノウ古墳と南約80mの場所を斉明陵、大田皇女の墓としており、指定を見直す考えはないというが、指定のあり方を巡って議論を呼びそうだ。






古墳あれこれー間違って治定された天皇陵とは!続編2

2011年10月07日 | 歴史
ここでは、越塚御門(こしつかごもん)古墳を取上げる。

越塚御門古墳は、明日香村大字越小字御門に所在する終末期古墳で、これまで文献資料等でも紹介されたことはないことから、2010年10月からの発掘調査の結果、新規に検出された古墳。

墳丘は痕跡が残っておらず、墳形や規模は不明だが、埋葬施設の周囲の状況から墳丘は、版築(堅固な土壁をつくるために用いられる古くから伝わる工法)で築かれたらしい。







写真は上から、平成22年11月11日・12日に行なわれた、越塚御門古墳の現地見学会に並ぶ行列2点及び本古墳現地説明会の様子。

11日10時スタートに間に合ったが、その時点で既に1時間待ちの行列ができていた。

新聞報道によると、一時は千人以上の考古学ファンで大行列ができたと云う。

越塚御門古墳は、斉明天皇(594~661年)の墓と確実視されている、牽牛子塚古墳(7世紀後半)の約20m南東隣接地に所在し、ここから新たに棺を納める石室が見つかり、同村教育委員会は9日、この石室周囲の地名から「越塚御門古墳」と名付けた、と発表した。

石室の位置関係などが、斉明天皇の墓の前に中大兄皇子、後に天智天皇の娘「大田皇女」が葬られたとする、奈良時代の歴史書「日本書紀」の記述と符合しており、牽牛子塚古墳を真の斉明陵と決定づける発見と云え、専門家は日本書紀の記述を裏付ける歴史的な発見として注目している。

今回の成果は、本古墳と隣接する牽牛子古墳を解明する上で貴重なデータを提供しており、飛鳥地域の終末期古墳を考える上で重要な資料。

埋葬施設は、明日香村に近い橿原市の貝吹山周辺で採れる、石英閃緑岩(石英や黒雲母を多く含む貴重な天然資源)を使用した南に開口する“刳り抜き式横穴式石槨”で、天井部と床石の2石からなる構造。

石槨の石材が、牽牛子塚が造られたころまでの飛鳥の古墳であり、石造物に用いられた石英閃緑岩でできていることなどから、ほぼ同時に一連の古墳として造られたと見られている。

新たな石室は木棺を置く床石と、それを覆う天井石を組み合わせたドーム状で、幅3m・奥行き3.5m・高さ2.6mほど。天井石は壊れ、一部しか残っていないが、床石はほぼ完全な状態で出土した。

石槨は、牽牛子塚と同じく入り口が南向きで、奥行き2.4m・幅90cm・高さ60cmほどを測り、石槨の推定総重量は約80トン。

石槨の前には、長さ4m以上・幅約1mの石敷きの羨道があったが、羨道は石槨の中心からずれており、埋葬と同時ではなく、続日本紀に記された699年の改修時に造られた可能性があるという。





写真は、越塚御門古墳の発掘調査現場及び石碑が目印の隣接する、奥行きの“牽牛子塚古墳”をバックにした越塚御門古墳の石室内石槨。

石室床面には、コの字に溝を設け排水機能を持たせると共に、棺台の範囲を明示していたと見られる。

床石には天井の石材と接合するための“ほぞ穴”が施され、接合部には漆喰を塗った痕跡が見られることから、精巧な造りだったらしい。

さらに黒い漆膜の破片十数点と鉄釘数本も出土、高貴な人物の墓にふさわしく、高級な漆塗りの木棺があったとみられる。

大田皇女は、飛鳥時代の政治改革「大化の改新」の立役者・中大兄皇子の娘で、夫は中大兄皇子の弟・大海人皇子(おおあまのおうじ)(後の天武天皇)だが、夫の即位前、2人の子どもを残して他界したとされている。

牽牛子塚古墳の石槨は2室に仕切られ、中大兄皇子(天智天皇)が、斉明天皇と娘の間人皇女(はしひとのひめみこ)を合葬したとする日本書紀の記述通りだったが、その前にあるはずの大田皇女の墓が今回発見されたことになる。

宮内庁は、同県高取町の車木ケンノウ古墳と南約80mの場所を斉明陵、大田皇女の墓としており、指定を見直す考えはないというが、指定のあり方を巡って議論を呼びそうだ。






古墳あれこれー間違って治定された天皇陵とは!続編

2011年10月05日 | 歴史
間違って治定された天皇陵の数々を続けて取上げます。

まずは奈良県明日香村の斉明天皇陵・牽牛子塚(けんごしづか)古墳です。

明日香村は歴史ロマンの郷、日本の原風景と言われ、“飛鳥の棚田”などは多くの来訪者を迎えてきた。

明日香村については、わが国の律令国家が形成された時代における政治・文化の中心的な地域であり、往時の歴史的、文化的資産が村の全域にわたって数多く存在し、周囲の環境と一体となって、他に類を見ない貴重な歴史的風土を形成している。

今回話題となった国指定史跡の“牽午子塚古墳”は、645年の大化改新で知られる、中大兄皇子=天智天皇の母、斉明天皇(594~661)の墓との説があるのは、当時の天皇家に特有の八角形墳であることが確認されたため。





写真は、墳丘の周囲に敷かれた切り石の並んだ形状から、八角形墳とわかった牽牛子塚古墳とその復元想像図。

墳丘全面が白い切り石で飾られ、内部の石室も巨大な柱状の切り石で囲われた、例のない構造だったことも判明。

斉明天皇は、巨石による土木工事を好んだとされ、被葬者が同天皇であることがほぼ確実になったと云う。





写真は、牽午子塚古墳墳丘の様子及び八角形の輪郭が残る土盛。

明日香村教委は、飛鳥地方の古墳群と藤原宮跡の世界遺産登録に向け、牽牛子塚古墳を平成21年9月から調査。

高さ約4.5mの墳丘の裾は、上からみると八角形状に削られており、北西の裾から3m辺分の石敷き(長さは約14m)が見つかった。

縦40~60cm・横30~40cmの凝灰岩の切り石が石畳のように、幅約1mで3列にすき間なく並べられており、八角形になるように途中で約135度の角度で折れ曲がっていたと云う。

写真のように、墳丘は対辺の長さが、約22mで3段構成だったと推定され、石敷きの外側に敷かれた砂利部分を含めると約32mに及ぶという。

三角柱状に削った白い切り石やその破片が数百個以上出土し、村教委は、これらの石約7,200個をピラミッド状に積み上げて斜面を飾っていたとみている。





写真は、牽午子塚古墳の石槨入口及び石槨内部の構造。

また、墳丘内の石室(幅5m・奥行き3.5m・高さ2.5mほど)の側面が柱状の巨大な16の安山岩の切り石(高さ約2.8m・幅1.2m・厚さ70cmほど)で囲まれていたことも確認された。

過去の調査では写真の通り、石室が二つの空間に仕切られていたことが判明している。

斉明天皇と娘の間人皇女(はしひとのひめみこ)が合葬されたとみられる横口式石槨の入り口から、約80トンの凝灰岩の巨石を刳り抜いて造られた内部を覗き見ることができる。

「石槨に使われている石が非常に巨大で迫力があった」とのコメントも聞かれたが、「どのように運んできたのかを考えると不思議で、葬られた人の力の大きさを感じる」との話も聞かれた。

斉明天皇と娘の間人皇女を合葬したと記された日本書紀の記述と合致するほか、漆と麻布を交互に塗り固めて作る、最高級の夾紵棺(きょうちょかんと読み、ヒツギの一種)の破片や間人皇女と同年代の女性とみられる歯などが出土していた。

これまでの発掘成果と合わせ、「一般の豪族を超越した、天皇家の権威を確立するという意思を感じる。斉明天皇陵と考えるほかない」など、専門家らの意見はほぼ一致している。

牽牛子古墳の隣の古墳(越塚御門古墳と命名された)が斉明天皇の孫の大田皇女の墓である事が有力視されているからだ。

『日本書紀』には、斉明天皇と間人皇女を合葬した墓の前に大田皇女を葬った、と書かれていて、今回の発見と一致している。

これに対して、宮内庁はここから約2・5km離れた、“車木ケンノウ古墳”と近隣地を斉明陵、大田皇女墓として指定しているが、『日本書紀』の記事とどのように合っているのか、合っていないのかの言及は無く、根拠が無い指定と思われる。

今回の発見は、宮内庁の指定があまり確たる根拠が無く行われているらしい事の一つの証拠になるが、これ以外にも数多くの天皇陵が単なる言い伝えを根拠にして指定されていると言われている。

つまり、宮内庁は何の根拠も無く、古墳の発掘を拒否している事になる。







古墳あれこれー継体天皇にまつわるストーリーとは!そのⅡ

2011年10月02日 | 歴史
継体天皇出生前夜の高島市、天神畑遺跡から八田川を挟んで対岸の鴨稲荷山古墳について見てみよう。

鴨稲荷山古墳は、JR近江高島駅の北約3kmの鴨川右岸に広がる沖積地に位置する古墳。

出土した須恵器類・装飾品・馬具類などから、6世紀前半の古墳時代後期の三尾氏族長の墓と云われており、湖西地方では平野部に立地する唯一の前方後円墳。







写真は上から、鴨稲荷山古墳、本古墳の石碑と案内板及び本古墳入口付近の様子。

現在は前方部の墳丘はないが、周辺の地形などから、全長60m以上・後円部の直径25m以上・高さ5mほどで、周濠をめぐらせた前方後円墳であったと考えられている。

本古墳は、鴨川堤防近くにある、田園の中のちょっとした丘が鴨稲荷山古墳で、現在は整備されて、公園になっているが、もともとは全長約60m以上にもなる前方後円墳で、墳丘に埴輪が立ち並ぶ壮大なものだったと推察されている。

明治35年、県道拡幅工事に伴い発見され、後円部から横穴式石室と刳抜式家形石棺が掘り出された。

発見当時は、長さ約9m・幅と高さ共に1.8mほどの石室があったとされ、又石棺内からは、金銅冠・沓・魚佩(腰に下げる魚形の装飾品)・金製耳飾り・鏡・玉類・環頭大刀・鹿装大刀・刀子・鉄斧などの豪華絢爛な副葬品が発見されたと云う。

これらの副葬品は、朝鮮半島の新羅王陵の出土品とよく似ていることが分かり、この古墳の被葬者や場所と大陸との交流関連について、様々な興味と話題を呼んだらしい。



写真は、鴨稲荷山古墳の刳抜式家型石棺。

全長約3.3m・幅1.2m・高さ1.1mほどを測り、石棺の石材は、二上山の凝灰岩。

石材はかたまりのままこの地に運ばれてきて、石棺に加工されたと云う。

墳丘は見るかげもなく破壊されているが、石棺は現地に残されている。



写真は、高島市三尾里の継体天皇生誕地として、奉られている胞衣塚(へその緒を納めたところ)。

このあたりは、古代の三尾郷と想定され、石棺や副葬品の状況から、継体天皇に二人の妃を嫁がした、三尾氏に関係する古墳である可能性が高いと云う。

と云うこともあり、鴨稲荷山古墳のある琵琶湖西側の豪族は、継体天皇の父・彦主人王(ひこうしおう)と考えられている。

二上山の凝灰岩をわざわざこの地に運んだということは、継体天皇が大王位についたのと、何らかの関係があるかもしれない。

『日本書紀』によると、「父・彦主人王は母・振媛の顔がきらきらして、大変美しい人であることを聞いて、三国の坂中井(福井県坂井市)へ使いを送り、近江国高島郡三尾(現在の滋賀県高島市)の別業(別荘)に召し入れてお妃とした。」と書かれていることから、2人は高島市三尾で結婚し、その後に生まれたのが男大迹王(おほどのおう)(後の継体大王)とされる。

と云うことで、三尾は継体天皇ゆかりの地であり、当地に引続き足跡を残したのが継体天皇ファミリーであったと推測される。

その後母・振媛は「私は今遠く故郷を離れてしまいました。ここには親類縁者もなく、私一人では養育することができません。越前国高向(現在の坂井市丸岡町高田)に帰って親の面倒を見ながらお育てしたい。」と言い、幼い男大迹王を連れて高向に帰ったと云われていることから、父を早くに失った継体天皇は、母・振媛の故郷の越前三国で育てられたと云う。

継体天皇は、越前三国から中央へ出てきたというのが定説になっているが、最近の研究者の中には、近江の三尾から直接出てきたという説もある。