近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

奈良県桜井市のホケノ山古墳(続報)とは!そのⅠ

2011年07月30日 | 歴史
ホケノ山古墳は、倭迹迹日百襲姫の墓とされる箸墓古墳を中心とする箸中古墳群に属する初期型の前方後円墳の一つ。

この一帯には他にも石塚古墳をはじめ、矢塚・勝山・東田等の古式の墳丘墓型古墳が集中しており、大和王権発祥の候補地として注目されている。



写真は、下部に位置する、ホケノ山・箸墓と写真中央左寄りの纒向古墳群の位置関係。

初代大王墓とも云われる、ホケノ山古墳は、古代最大の箸墓古墳とは目と鼻の距離に築かれていることもあって、箸墓古墳の被葬者との繋がりに関心が持たれてきた。





写真は、ホケノ山古墳から南側の延長上に見える箸墓古墳と更に北側の三輪山をバックにした箸墓古墳前方部光景で、ホケノ山古墳は箸墓古墳と三輪山に挟まれている位置関係。

2つの古墳を同じ地図上にプロットして箸墓の主軸中心線を延長していくと、写真のように、その線上にホケノ山の後円部の中心がある。

箸墓古墳後円部の中央にある石室に祈りの方向を定めると、その先にホケノ山の後円部の石室があり、更にその北側には三輪山自体をご神体とする大神神社が位置している。

つまり両古墳の埋葬施設を同時に祈ることができると共に、ホケノ山古墳の被葬者・豊鍬入姫が眠ると伝承される、大神神社にも礼拝できる。

ホケノ山古墳の墳丘規模は、全長約80m・後円部径約55m・後円部3段築成で、周濠幅約10.5-17.5mほど。









写真は上から、ホケノ山古墳全景の発掘現場光景、現在のホケノ山古墳全景、後円部の墳丘の様子及び雑草に覆われた、同後円部の三段築成光景。

発掘調査は、1999年9月以来、奈良県立橿原考古学研究所と桜井市教育委員会によって、何回も実施されてきた。

本古墳の発掘調査は、現在も断続的に継続中であるが、今日までに判明した事実関係は以下の通りである。

①「C14年代測定値」(木片の放射線炭素を測定することにより伐採の年代が
分かる)によると、AD30~245年であることが実証された。

②画文帯神獣鏡は、中国後漢(AD25~220年)時代のもので、中国製で輸入されたものであることは間違いないと云う。



写真は、ホケノ山古墳から出土した画文帯神獣鏡。

日本に輸入され埋葬されるまでに、20~30年かかったとしても、3世紀前半から中頃までの古墳であると云われる。

③今回出土した「庄内式土器」の土質は、東海系のものであると云う。



写真は、ホケノ山古墳から出土した庄内式土師器。

東海人が古墳築造に狩り出されたのではないかと云う。当時既に東海地方にまで権力が及んでいた傍証と云われる。

④ホケノ山古墳は、前期古墳の前兆であると云われる。

弥生形墳丘墓(多葬埋葬・木槨使用等)と前期古墳の特徴(高野マキ製木棺・鏡等の副葬品・方形台等)を併せ持っている。

前期古墳はヤマト政権の象徴であり、ヤマト政権の勢力拡大とともに前方後円墳も全国に展開されていった。

以上のような事実から、ホケノ山古墳は3世紀前半から中頃のものであることが判明するとともに、ヤマト朝廷の起源が100年ほど遡り、2世紀末には芽生えていたと見られる。






桜井市纒向遺跡の歴史的・文化的意義とは!

2011年07月28日 | 歴史
纏向遺跡は桜井市の北部、天理市と境を接し、烏田川と巻向川に挟まれた扇状地上に広がり、東西2km・南北1.5kmほどにも及ぶ遺跡で、古墳時代前期を中心としている。

全国にある古墳時代前期の遺跡の中でも、ずば抜けてその規模が大きく、運河・大型墳墓・大型祭殿建物等の建設に見られる大規模な土木建築工事が行われており、又南関東から北部九州に至るまでの各地から持ち込まれた大量の搬入土器が発見されている。



写真は、桜井市纒向矢塚古墳の纒向型前方後円墳平面図。

従来、弥生墳丘墓とみられてきた前方後円形をなす墳墓を、古墳時代出現期の古墳形態として、纒向型と表現。

纏向石塚古墳をはじめとする“纏向型前方後円墳”に見られる、定型化された発生期の古墳(後円部の長さ2:前方部1の割合)が全国に広がったとされる。







写真は上から、纒向石塚古墳の発掘現場、現在の纏向石塚古墳光景、本遺跡から出土した庄内式土器。

平成8年の発掘調査では、纏向石塚古墳の築造が3世紀前半(墳丘盛土内から発見された3,600点余りの土器が、全て3世紀前半のモノ)であり、日本最古の前方後円墳であることが確認されており、又導水施設や韓式系土器の発見があったという事実等々から総合判断すると、当時日本の中心地であったであろうと容易に想像できる。





写真は、纒向古墳群周辺の地図及び第11代・垂仁天皇の纒向珠城宮址の石碑。

当時、纒向地域がヤマト政権の中心であった理由とは?

1、平成6年の第80次調査で、古墳時代前期と思われる幅2m・深さ2mほどの大溝と土塁状の高まりを、現在渋谷向山古墳(景行天皇陵)がある近辺で検出し、この高まりの平坦面には、柱穴が1.6mの等間隔で3個並んでいる事実も確認。



写真は、天理市の渋谷向山古墳と桜井市の纒向古墳群との位置関係。円内が纒向古墳群の場所。

平成6年の発掘調査結果から、この大溝と土塁状の高まりの東側には、豪族居館・倉庫群・工房群等の存在を推測できると言う。

又この地域が垂仁天皇の纏向珠城宮(たまきのみや)跡の伝承地であることも興味深く、更にはこの調査で、土塁と柵列を伴ったV字溝も検出されていることは単なる偶然であろうか?

以上のような事実と推測を積み重ねて推理を更に展開すると、現在の大和古墳群を含めた西側の古墳地域に対し、東側には、豪族居館を中心に据えた一大大和政権の行政区域及び大和民族の生活拠点が広がっていたのではないかと、夢とロマンは更に拡大する。

更には若しや、この一大大和政権が卑弥呼の邪馬台国であったかもとロマンは一層飛躍せざるを得ない。

東側区域の発掘調査は未だ行われていないが、このような大溝と土塁状の高まりを持った施設の発見が、纒向地域の一部である巻野地区内一帯の更なるビックな発見とロマンが多少なりとも現実味を帯びてくることに大いに期待したい。

2、纏向遺跡から出土する土器には、大和以外の地域で作られたものが多く見られ、全体の15%がいわゆる「搬入土器」といわれ、搬入土器の出身地は南関東から北部九州までの広範囲に亘っているとのこと。

関東系・東海・北陸・近江・河内・播磨・吉備・山陰・瀬戸・北部九州等広範囲に大別できるらしい。



写真は、纏向遺跡に全国各地から移入された土器類。

搬入土器には煮炊き用の瓶の出土が多く見られ、各地から人々が纏向へ来た際、食生活慣習やローカルな生活文化を土器・道具等と共に搬入し、人間交流が盛んに行われていたことを物語っている。

又出土物の中には、朝鮮半島からの物も見られ、これらの土器と共に大陸や朝鮮半島の高度な技術も、纏向に伝わってきたことを明らかにしていると云える。

以上のように、纏向地方の人的・物的・ノーハウ的国内外交流は、全国的なレベルに比較しても、かなり高度な文化レベルに達していたと想像できる。

文化・交易・技術等の面でも当時の日本をリードしていたと云える。

ところで、大陸との交流の証として最も確かなものは文字の発見であるが、現在までのところ見つかっていない。文字を保存できる媒体が極めて限られているハンディーもあるが、今後の更なる発掘調査結果に期待したい。

3、古墳時代前期の当時、大和地方に環濠集落があったかどうか、現在までの調査結果では、環濠集落はなかったらしいとのこと。

当時の大和政権の広域強力パワーからして、近隣地域は既にコントロール下に治め、あえて環濠を張り巡らす必要はなかったのではないかと想像できる。











天理市の渋谷向山古墳(続報)とは!

2011年07月26日 | 歴史
渋谷向山古墳は、奈良県天理市渋谷町にある前方後円墳で、現在は宮内庁により景行天皇陵に指定されている。

渋谷向山古墳は、江戸時代には第10代崇神天皇陵とされていたのが、慶応元年(1865年)に景行天皇陵に治定変更された経緯がある。

その根拠は不明だが、『日本書紀』には、崇神天皇陵も景行天皇陵も、「山辺道上陵」と全く同じ名称を用いており、この史書の編纂のころには、被葬者が分からなくなっていたことを暴露している。

このようなずさんな史料を基にした治定など信用できないとしていた。

渋谷向山古墳の築造年代は、現在の崇神天皇陵である行燈山古墳より少し遅れた4世紀後半と推定されている。

天理市の石上神社から桜井市の大神神社までの、山の辺の道を巡ると、天理市布留の石上神宮から桜井市三輪の大神神社までの南北約10kmの途中に、標高586mの竜王山および標高567mの纒向山から延び出る尾根が張り出している。

それらの尾根が盆地の平坦部にとどくあたりに多くの古墳が築かれ、北から順に大和古墳群、柳本古墳群、纒向古墳群と呼ばれている。

西殿塚古墳、黒塚古墳、櫛山古墳、崇神天皇陵、景行天皇陵、箸墓古墳、茅原大墓古墳などの古墳が見える。







写真は、渋谷向山古墳・景行陵の正面拝所、同遠景及び周濠の様子。

山ノ辺の道沿い古墳群のうち、柳本古墳群は大型の行燈山古墳や渋谷向山古墳を中心に13基の前方後円墳と1基の双方中円墳から構成されるが、いずれも古墳時代前期の築造と見られている。

そのうち、渋谷向山古墳はその中で最大規模を誇り、全国の古墳の中でも、第7位にランクされる。

本古墳の全長約310m・前方部幅約170m・高さ約23m・後円部径約168m・高さ約23m。

墳丘は東西方向に主軸をおき、後円部は正円形で3段築成、前方部も3段で築かれている。後円部頂上は平坦で円形であるが、前方部の頂上も平坦であり、長い台形。



写真は、渋谷向山古墳の上空写真。

本古墳は、後円部後方と前方部前端で比高差が約15mもある急斜面に、300m余りの墳丘を築造し、後円部は真上から見て正円になるように施工している。

正円が「日輪」を象徴し、ヒノミコ(日の御子)たる霊力を具えた権能を象徴していると云える。

本古墳周濠は盾形をなし、墳丘両側の谷を堰き止めて作った階段状の周濠で、周濠への湛水のため、墳丘と外部をつなぐ渡土堤を設置した。

現状の周濠・渡土堤は少なからず後世の改変を受けていると考えられ、調査の結果、その渡土堤のうち、いくつかが古墳造営当初のものと判明している。

「記紀」によれば、大和朝廷の実質的な創始者とされる第10代崇神天皇以下、11代垂仁天皇、12代景行天皇と云うように、最初の3代の天皇が、纏向周辺の三輪山山麓に宮を築いている。

初期の大型前方後円墳もこの地域に集中している。

崇神天皇の墓とされているのは、箸墓から2kmほど離れた山裾にある行燈山古墳であり、行燈山古墳と、箸墓古墳のほぼ中間に、渋谷向山古墳があり、第12代景行天皇陵とされている。

行燈山古墳と渋谷向山古墳のふたつの古墳は、前者が全長242mほど、後者が全長310mで、景行陵の方が崇神陵より大きく造られている。

現在の考古学では、慶応元年以前の比定が正しかった可能性が指摘されている。

宮内庁が2つの陵墓の周濠の土器を調査したところ、渋谷向山古墳(現景行天皇陵)の方が、行燈山古墳(現崇神天皇陵)より古い形式の土器だったと云い、崇神天皇の墓は、行燈山古墳よりも渋谷向山古墳の可能性が強い。



写真は、南側(写真下)の渋谷向山古墳と北側の行燈山古墳の位置関係地図。

渋谷向山古墳が崇神天皇陵となると、卑弥呼の墓としてきわめて有力になってきた箸墓と、大和朝廷の創始者とされる崇神天皇の墓は、すぐ隣り合ったきわめて近い位置関係にあるということになり、ちょうど纏向遺跡を挟むように南と北に位置しているわけ。

ということで、邪馬台国と大和朝廷は、地理的に距離が近いというだけではなく、時間的にも非常に近いということがわかってきた。

最近の弥生時代と古墳時代の編年研究では、邪馬台国と初期大和朝廷は、時間的にほとんど繋がっているといってもいいほどで、卑弥呼の死(3世紀中頃)を境にして、大和盆地で巨大な前方後円墳が造られ始めるということになる。



桜井市の桜井茶臼山古墳、副室とみられる遺構存在!そのⅡ

2011年07月24日 | 歴史
桜井茶臼山古墳の副室に関して、隣接するメスリ山古墳について巡って見ます。

メスリ山古墳は、“東出塚古墳”・“鉢巻山古墳”とも呼ばれてきたが、4世紀前半頃に築造された、全長約224mの前方後円墳で、後円部は3段造りで径128m・高さ19m、前方部は2段造りで幅80m・高さ8mほどで、昭和55年に国の史跡に指定された。

箸墓古墳の方が、年代的に先行する。

艸墓[くさはか]古墳の南方に築かれた、西向きの前方後円墳で、北東約1.5kmにある、茶臼山古墳と並んで同時期のものでは最大級の古墳。







写真は上から、メスリ山古墳遠景、同古墳の森風景及びみかん畑越しの同古墳の森。

後円部の各段に円筒埴輪列が巡り、斜面には人頭大の葺石があった。

円筒埴輪は、後円部の三段と方形壇の墳頂部に密集して二列、また、墳頂部では二列の埴輪の間隔をとっている。

後円部の頂に竹垣を巡らしたように、埴輪の囲いがしてある箇所には、長辺約11.3・短辺約4.8m・高さ1m以上の長方形の壇がある。

直径1mもの円筒埴輪は、方形埴輪列の最内側の角や辺を等分する位置に立っている。





写真は、メスリ山古墳の墳頂部光景及び同古墳の竪穴式石室概観。

後円部頂上の中央には、木棺を納めた主石室の竪穴式石室があり、その長さは約8.06m・幅約1.18m・高さ1.76mで、8石の天井石で覆われているが、盗掘によりほとんど遺物を残していない。



写真は、本古墳石室の巨大石組み。

主石室は、盗掘のため著しい破壊を受け、盗掘の激しさを物語っているが、それでも、内行花文鏡・三角縁神獣鏡の破片、石釧・鍬形石・車輪石・椅子形石製品・櫛形石製品、石製合子などの玉類・刀剣、玉石製品では翡翠の勾玉・碧玉の管玉・貝輪を真似た石製の腕輪類・ミニチュア化した石製の椅子・櫛などが出土している。

主石室の横にあった副石室は、長さ約6m・幅約70cm・高さ60~70cmで盗掘を免れている。

また、古墳時代の一つの特徴である自然石を徐々に内側に持ち送り天井部を持つ合掌式の竪穴式石室で、内部には遺骸がなく、武器ばかりが埋納された、格納庫・遺品庫であったと考えられている。

前方部は西に向けて立地し、2段築成で幅約80m・高さ8mほどで、埴輪は、方形壇の外側に間隔を置いて点在していた。

器台型埴輪は、高さ約2.4m・径約1.3mで日本最大であり、朝顔形埴輪も出土している。

本古墳は、磐余の地に接した初瀬川の左岸にあり、桜井茶臼山古墳などと共に鳥見山古墳群に属する。

特筆すべき点は、埋葬施設の副石室が、まるで遺品庫の様相を呈していることで、規模・埋葬品とも大王墓級だが、記紀や『延喜式』などに陵墓としての伝承がない。

本古墳墳丘規模・埴輪の大きさ・埋葬施設・副葬品収納施設・遺物などを考え合わせると、絶大な権勢を誇った首長の墳墓であると考えられる。

磐余地域の前期古墳として最大規模を誇り、阿倍氏の祖「オオビコ」の墓説もある。

オオビコに関しては、10代祟神天皇の御代、夷族平定の勅命を受けて全国四方に発せられた四道将軍の内、東国へ向けられたのは孝元天皇の子「大彦(オオビコ)命」とその子「武淳川別(タケヌナカワワケ)命」でした。

オオビコは北陸道を、タケヌナカワワケは東海道を進軍し、この二派が再び落ち合った場所が福島県会津だと言われている。

この東海道を進んだタケヌナカワワケこそが中央の阿倍臣の祖だが、その父であるオオビコも阿倍臣のご先祖ということになる。



桜井市の桜井茶臼山古墳、副室とみられる遺構存在!そのⅠ

2011年07月22日 | 歴史
関西地方の最新古墳情報を、引続きお届けします。

桜井市の桜井茶臼山古墳は、初期大和王権の大王墓とされ、銅鏡81面分の破片が出土した、3世紀末~4世紀初め頃の前方後円墳。

遺体を埋葬した本古墳石室(主室)の東と北の2か所に、副葬品を納めるなどした「副室」とみられる遺構があったとわかり、県立橿原考古学研究所が平成23年6月13日発表した。

副室を伴う、大王墓級の古墳の発掘例はほとんどなく、古墳構造の研究を進める上で、基礎的な資料となるという。





写真は、現在進行中の茶臼山古墳発掘現場の空撮光景及び同古墳出土の副室跡と板石。

発表によると、石室東側に大型の石材4枚をふたにした穴の跡が確認でき、南北方向に延びる副室の一部と推定。

規模は長さ8m・幅1.5m以上で、大型石材の上を別の薄い板石で覆っていたと云う。

北側にも、東西に延びる竪穴式石室のような副室(長さ2m・幅1.5m以上)があった。

地滑りで崩れた西側にも、石材の状況から副室の存在がうかがえるという。ただ、副室は未発掘のため、副葬品などは確認できていない。

副室は、丸太垣に囲まれた主室の東約6m・北約4mでそれぞれ見つかり、長さ70cm前後の天井石を並べていた。天井石の上には「板石」が敷かれていた。

当初は排水溝とも考えられたが、2つが接合せず、奈良文化財研究所の地中レーダ、電気探査も参考に副室と結論づけた。

南西約1.5kmにあり4世紀前半の同様の大型古墳、メスリ山古墳では未盗掘の副室が約50年前に発見され、鉄製弓など大量の武器類が見つかっており関連が注目される。


桜井茶臼山古墳は全長約200mの国史跡の前方後円墳で、6基が集中する3世紀中ごろ~4世紀前半の大型前方後円墳の1つ。

竪穴式石室内は真っ赤な水銀朱で彩られ、81面分以上の銅鏡片が見つかっている。

6基のうち桜井茶臼山古墳とメスリ山古墳以外は宮内庁から陵墓指定されているため、調査はできない。


新沢千塚古墳群での新発見~空からの3D測量で古墳発見とは!そのⅡ

2011年07月20日 | 歴史
新沢千塚古墳群のうち、今回空から3Dレーザーで発見された新古墳紹介を続けます。

第28代宣化天皇は、26代継体天皇の第2子で、27代安閑天皇の同母弟。安閑天皇に後継がなかったため、宣下天皇が乞われて即位したとされているが、この兄弟は実は即位しておらず、継体天皇の次は29代欽明(継体天皇の第4子)天皇とする説もある。

これには、安閑・宣化の2帝を推す大伴氏と欽明帝を推す蘇我氏との対立が反映されていると云う。

後の蘇我氏の隆盛を思えばその説に頷きたくもなるが、明治政府は、2帝は即位したと判断したらしい。

今回の新発見古墳は、鳥屋ミサンザイ古墳・宣下天皇陵と直線に並ぶ立地から、同古墳とつながる人物の墓と考えられるという。

同古墳群で新たな古墳の発見は平成13年の調査以来10年ぶり。

前方後円墳とされていた別の古墳が、長方墳に円墳を積み重ねた特殊な上円下方墳であることも判明した。

同研究所などはこれまでに、コナベ古墳(奈良市、陵墓参考地)など大型前方後円墳も3D測量。

航空測量会社は「従来の地形測量では地図作成だけで1年ほどかかるが、データ処理も含め約1カ月で詳細な立体測量図を作れた」としている。

1960年代、新沢千塚一帯の丘陵地に開墾計画がもちあがったことをきっかけとして、古墳群全体の約2割にあたる約130基の古墳の発掘調査が行われました。

この調査によって多くの成果があがったと云う。特に、遠くペルシャや中国、朝鮮半島からもたらされた副葬品が出土した、126号墳の調査はその代表的なもの。

ここで126号墳について最新情報をお届けする。

その前に、新沢千塚古墳群について振り返って見ると、本古墳群は20m前後の円墳が中心で、他に方墳・小型の前方後円墳や前方後方墳などがある。





写真は、新沢千塚古墳群入口石碑及び同古墳群北の墳丘光景。

発掘調査は1962年から5年かけて約130基が調査され、多くは5世紀中頃からほぼ1世紀の間に造られ、古墳造りの最盛期は5世紀後半から6世紀前半であることが判明した。

埋葬施設は木棺直葬が中心であったと云う。





写真は、新沢千塚古墳のうち、最新の126号墳墳丘の様子及び平成20年11月当時の光景。

この126号墳は国際色豊かな副葬品を持ち、装身具として冠飾り・髪飾り・耳飾り・腕輪・指輪などが出土し、いずれも金・銀・金銅製品であったと云われる。







写真は、新沢千塚126号墳から出土した金製腕輪と指輪、金製髪飾りと腕輪及び金製首飾り。これらの展示品はいずれもレプリカ。

これらアクセサリーの製法・文様などから中国・朝鮮産と見られ、被葬者は朝鮮半島からの渡来人(女性)と考えられ、築造は5世紀後半と見られている。

叉甲冑・飾り馬具などが出土したことから、被葬者集団は王権を支えた有力渡来系氏族の下に構成された集団と考えられている。





新沢千塚古墳群での新発見~空からの3D測量で古墳発見!そのⅠ

2011年07月18日 | 歴史
畝傍山西南の丘陵地にお椀を伏せたような円い高まりが連なっている。

これらひとつひとつが、実はすべて古墳らしい。貝吹山の北麓を含めた一帯には約600基もの古墳が存在し、史跡指定地の中だけでも380基の古墳が集まっている。



写真は、新沢千塚古墳群の上空写真で、県道を挟んで両サイドに拡がっている。

現在は、遊歩道が作られている史跡公園となっており、隣接する「千塚資料館」には、ペルシャや中国からもたらされたと思われる出土品などが展示されている。

奈良県立橿原考古学研究所と航空測量会社は平成23年6月、レーザー計測装置を搭載したヘリコプターで空から3次元(3D)測量し、橿原市の国史跡・新沢千塚古墳群で新たに前方後円墳1基を見つけたと発表した。









写真は、新沢千塚古墳群のうち、レーザーで捉えた、新規発見の前方後円墳、新規発見古墳の遠景、同古墳の鬱蒼として墳丘の様子及び同墳丘の近景。

レーザー撮影は、木が茂っていても地形を詳しく読み取れ、同研究所は「古墳群の立地を明確に視覚化できた。様々な研究に活用できる」と期待している。

同古墳群は4~7世紀の円墳や前方後円墳など約600基が密集。

平成23年3月、約100万㎡を3D測量し、全長約42mの前方後円墳が、鳥屋ミサンザイ古墳(宣化天皇陵)南西の竹林に隠れているのを見つけた。







写真は、鳥屋ミサンザイ古墳・宣下天皇陵遠景、同天皇陵周濠越しに映える畝傍山光景及び同天皇陵正面拝所。

鳥屋ミサンザイ古墳・宣化天皇陵は奈良県橿原市鳥屋町にあり、橿原神宮から「新沢千塚古墳群」へ向かっていくとその途中にある。

同墳丘長が約138mの前方後円墳で、前方部を北東に向けており、県道の南にその姿を望むことができる。周囲に幅約10~25mの盾形周濠が巡っている。

これまでに外堤の護岸工事にともなう調査などで、円筒埴輪や須恵器が出土しているが、それらの遺物から6世紀前半に築造されたと考えられている。





仁徳陵、上から「かぎ穴」見たい…気球案浮上中?

2011年07月16日 | 歴史
ここからは、奈良盆地・大阪平野に点在する古墳について、最新情報をお届けします。

世界最大級の墳墓で、巨大過ぎて地上からは一望できない、堺市堺区の仁徳陵古墳観覧のために、地元・堺市は、気球を浮かべたり、上空からの眺望を映すビデオ装置を周辺に整備したりする案を検討している。





写真は、仁徳・履中・乳岡古墳の位置と仁徳陵の上空写真で、かろうじて仁徳陵のかぎ穴が確認できる。

世界文化遺産登録に備え、「教科書で見た前方後円墳の〈かぎ穴形〉が想像できない」という観光客らの声に応えるため。わかりやすく見てもらうため、市民や専門家の意見を聞き、今年度中に整備方針を決めると云う。

仁徳天皇陵は、百舌鳥・古市古墳群の一つとして昨年11月、世界遺産国内暫定リスト入りした。

市は最短で2015年の登録を目指しており、そうなれば、国内外からの観光客が増えると見込む。

しかし、墳丘の長さだけで486mと大きく、周辺に樹木が生い茂り、「森にしか見えない」という人が少なくない。

同市は「もっと古墳を知ってほしい」と対策を検討。気球案は、世界遺産近くに大きな構造物を設けるのは好ましくないとの配慮から浮上。

隣接する公園などから百数十mの高さまで上昇して一望するアイディア。カンボジアの世界文化遺産アンコールワットでもやっている観覧方法だ。

はたして、結末はどうなるか?

古市古墳群と百舌鳥古墳群との関係とは!

2011年07月14日 | 歴史
最後に百舌鳥古墳群と古市古墳群を振り返って、総括してみたい。

さらに両古墳群の中間地帯に造られた、松原市と羽曳野市にまたがる河内大塚古墳や堺市美原区の黒姫山古墳を、合わせて一つの古墳群として理解すべきだという説もあるが・・・・。





写真は、松原市と羽曳野市にまたがる河内大塚山古墳全景及び堺市の黒姫山古墳のこんもりした墳丘光景。

確かに、二つの古墳群は、造られた時期やいろいろな大きさの前方後円墳や方墳・円墳から構成されている点、或いは同じ設計図を使ったのではないかと考えられる類似古墳があること、さらに副葬品に鉄製武器・武具が目立つことなど数々の共通するところがある。

しかし違う点もある。

一つは古墳群の形成過程で、古市古墳群では、4世紀後半の津堂城山古墳に始まり、6世紀中葉の白髪山古墳・清寧陵にいたるまで、間断なく巨大な前方後円墳を造り続けている。

これに対して百舌鳥古墳群では、大仙古墳・仁徳陵の築造前後に古墳群の形成が極めて活発になる特徴があり、5世紀後半にピークがみられるという点。

もう一つは、古市古墳群の総数95基のうち方墳が40%にあたる38基も造られているのに対し、百舌鳥古墳群では10%に満たないという違いがある。

古墳群における方墳の占める割合に大きな違いがあるが、その原因には両者の形成時期の違いのほかに、古墳群の性格の違いを考えることができる。

方墳は古墳時代の前期から終末期の全期間にかけて築造されているが、数は円墳などに比べさほど多くはないことからすると、古市古墳群の間断なき継続性を窺い知ることが出来る。

このように、古市古墳群と百舌鳥古墳群では、群形成の過程や群を構成する古墳の形の比率に違いがみられる。

従って、共通点と異なる点を正確なデータに基づいて、さらに突き詰めていく必要があるように思われる。

古市古墳群と百舌鳥古墳群を同一の古墳群として考えるかどうかの結論は先送りするとしても、両古墳群が極めて強い関係に結ばれていたことは、想像にかたくない。

この2つの古墳群には、5世紀を代表するいくつもの巨大古墳が築かれ、5世紀に活躍した大王の眠る奥津城であることに疑いはない。

最近では、円筒埴輪の研究が進み、これらの巨大な前方後円墳が造られた順番に並べることも可能になってきている。

更なる研究の成果が待たれる。

堺市西区の塔塚古墳とは!

2011年07月12日 | 歴史
堺市百舌鳥古墳群の周辺を巡ってみます。

塔塚古墳は、堺市西区浜寺に所在する、一辺約45m・高さ約4mの三段に築成された、5世紀中頃の方墳。

本古墳は、かつて四ツ池遺跡の南方にあった経塚古墳・赤山古墳・高月古墳と共に、浜寺四ツ塚古墳群と呼ばれているが、百舌鳥古墳群には数えられていない。





写真は、畑地に浮かぶ塔塚古墳遠景と柵に囲まれた本古墳。

明治末年に盗掘を受けたが、石室内から遺物が出土。

昭和33年には、発掘調査が行われ、玄室の長さ2.4m・幅2.2m・羨道の長さ0.5m・幅0.9mほどを測る、横穴式石室と2基の木棺直葬が確認された。





写真は、塔塚古墳の民家に隣接した状況と本古墳の荒廃した状況。

横穴式石室は、安山岩の偏平な割石を急角度に積むなど、竪穴式石室と類似した方法で築かれ、畿内の横穴式石室の初期的形態を知ることができる古墳。

近畿における初期的横穴式石室は、既に5世紀中頃には出現しているが、元々は北部九州系の竪穴系横口式石室(竪穴式石室に横からの入口をつけたような形)だったらしい。

九州から東の地域では、5世紀代の古墳の埋葬施設は竪穴系が一般的であるが、画一的なものでなく、様々な埋葬法が各地で行われていたと云う。このような中でも極限られて地域では横穴式石室が採用され始めていた。

竪穴系横穴式石室は、竪穴式石室から横穴式石室に移行する過渡期の段階に位置づけられる構造の古墳で、横穴式石室の部類だが、このような構造の石室は、古墳時代後期の石室の変遷を知る上で貴重な資料。

最古段階の横穴式石室は、堺市の塔塚古墳のほか、藤井寺市の藤の森古墳がある、長続きしなかったらしい。



写真は、塔塚古墳内部墳丘の様子。

墳丘の高さが4mほどのフラットな墳頂の様子。

塔塚古墳の石室からは、馬具(金銅製花形飾金具・木心鉄張輪鐙(あぶみ)・鉄製轡)、武器・武具(短甲・刀・鉄鏃)、装飾品(硬玉製勾玉・ガラス製勾玉・丸玉・小玉など)が出土し、木棺内からは鏡(方格八乳鏡・位至三公鏡(いしさんこうきょう))が発見されたと云う。



写真は、山梨県の長田口古墳から出土した、“位志三公鏡”。

「位至三公鏡」(鈕を挟んだ位置に「位至」「三公」の文字を入れて内区を分割して「位至三公」銘を挟んだ左右に、双頭龍文を線刻で表現した鏡)は、邪馬台国の時代に中国北部の魏や晋の地域でもっとも主流となった鏡であったと云う。

これらは中期古墳に特有のもので、塔塚古墳は5世紀中頃に築造されたと考えられている。

また、平成6年の調査では、西側墳丘部分を確認し、濠から円筒埴輪の他に盾形埴輪が出土していると云う。




堺市西区の文殊塚古墳とは!

2011年07月10日 | 歴史
堺市の百舌鳥古墳群巡りを続けます。

文殊塚古墳は百舌鳥古墳群の一つで、堺市西区上野芝向ヶ丘町の台地端にあり、墳丘は一部破壊を受けているが、ほぼ良好な状態で保存されている。





写真は、文殊塚古墳墳丘の様子及び本古墳後円部墳丘の様子。

全長約55m・後円部径35m・高さ4.3mほどで、前方部幅約30m・高さ3.3mほどの前方後円墳。葺石は施されていなかったらしい。

本古墳の前方部が後円部より低く、幅も狭い形態を取り、墳丘には埴輪の配列が見つかっているが、埴輪の種類ははっきりしていない。

埋葬施設や副葬品などについては不明のため、本古墳の築造年代がはっきりしないが、5世紀前半とか6世紀初頭とも推定されている。







写真は、文殊塚古墳周囲に架けられた、厳重なフェンス光景、同古墳に隣接する民家密集地の様子及び密集民家に囲まれた同古墳光景。

写真の通り、古墳の周りにはフェンスが張られているため、中には入れない。

台地の端にあり、周りは住宅街のため、道路側からしか観察できない状況。

昭和46年に、国の史跡に指定されている。

この地域は、応神・仁徳天皇陵を中心とする百舌鳥古墳群の南限界部を構成するところで、本古墳の位置からすれば、同古墳群の南端を示すと云える。

百舌鳥古墳群に顕著な大型天皇陵に対して、本古墳は当地豪族の首長墓と考えられている。

しかしこの一帯は、昭和34年頃から市街地化が激しく、すでに他の古墳は失われているが、かつて6世紀を中心とする、百舌鳥野南古墳群の所在地として広く知られていたところらしい。





写真は、文殊塚古墳石碑及び同古墳近辺から見下ろす丘陵の状況。

本古墳は丘陵上の最高所に位置しているなどの占地条件からして、この百舌鳥野南古墳群の中での主墳として位置づけられている。

古墳周辺は民家密集地となり、また後円頂部の一部には採土跡もみられるが、全体的に墳形はよく保たれている。

現在、全体的に古墳群としての形態は失われてはいるが、和泉地方における数少ない群集墳の主墳とされる貴重な古墳。







堺市堺区の収塚古墳とは!

2011年07月08日 | 歴史
堺市の百舌鳥古墳群のうち、仁徳天皇陵の陪塚とされる古墳巡りを続けます。

収塚(おさめづか)古墳は、堺市夕雲町に所在する百舌鳥古墳群の一つで、国指定史跡。

仁徳陵古墳の前方部東南隅の近くにある古墳で、同古墳の陪塚の一つと考えられている。









写真は上から、収塚古墳前方部から望む後円部墳丘の概観、同古墳の削り取られた前方部光景、フェンス越しに覗く本古墳墳丘及び同古墳後円部墳丘の茂み。

本古墳は、現在概観上は、基底径約40.8m・高さ約4.5mの円墳をなしているが、北側は濠の痕跡をとどめている。

周濠はすでに埋まり、前方部も削られているため、円墳のように見えるが、もともとは前方部を西に向けた、全長61m程の帆立貝形の前方後円墳。





写真は、収塚古墳前方部跡に掲げられた石碑及び同古墳周濠の跡を残す古墳東側道路。

墳頂部からは、かつて短甲片が採集されていたと云う。

現在残された後円部は、仁徳陵古墳の陪塚と云うことで、国の史跡に指定されている。

写真の通り、古墳東側の道路に周濠の跡を残している。

周濠部の調査で、幅は約8m~13m・深さ0.6m~0.9mほどで、葺石・埴輪・須惠器が出土したことから、5世紀後半の古墳と判明。


堺市堺区の丸保山古墳とは!

2011年07月06日 | 歴史
堺市の百舌鳥古墳群のうち、陪塚古墳巡りを続けます。

丸保山古墳は、短い前方部を南に向けた帆立貝形古墳で、周囲には幅10mほどの濠が巡っている。

前方部の高さが著しく低いのは、昭和30年の開墾で大きく削られてしまったため。

本陪塚古墳は、仁徳陵古墳後円部の西側に近接して築かれた前方後円墳で、前方部を南に向けている。







写真は上から、柵閉された丸保山古墳入口の石碑、柵に掲げられた同古墳案内板及び同墳丘への登り口。

墳丘は全長約87m・後円部径約60m・後円部高さ約9.8m・前方部幅約40m・前方部高さ約2.7mの規模で、前方部は昭和30年に削られたため、低く短い形態のまま残されている。

埋葬部の構造や副葬品の内容などはわかっていないが、円筒埴輪が採集されており、その埴輪から5世紀後半頃に造られたものと考えられている。







写真は上から、僅かに覗く丸保山古墳後円部墳丘の光景、削平された同古墳前方部と残された周濠の光景及び同古墳の削平された前方部近景。

周囲に一重の濠が巡り、南西側の菰山(こもやま)塚古墳や、南側にもかつて古墳のような高まりがあったものも含め、仁徳陵古墳の陪塚と考えられている。

本古墳は、前方部と周濠のみが昭和47年国の史跡に指定されている。

後円部は宮内庁が、前方部と周濠は堺市が管理しているという変則的な運営。

永山古墳と同じように、周囲の道路から観察できる。


堺市堺区の長塚古墳とは!

2011年07月04日 | 歴史
堺市の百舌鳥古墳群の倍塚について、更に続けます。

長塚古墳は、JR阪和線百舌鳥駅のすぐ南西にある、西向きの前方後円墳で、国史跡に指定されている。

本古墳には周濠が巡っていたが、すでに埋没して墳丘は、写真のように家並みに囲まれている状況。









写真は上から、JR阪和線越しの長塚古墳全景、住宅に覆いかぶさるような本古墳の森、家並みに囲まれた本古墳及び家並みから覗く本古墳の森。





写真は、長塚古墳石碑と案内板及び本古墳墳丘の様子。

墳丘は全長約102m・後円部径約57m・高さ約8.2m・前方部幅約67m・高さ約8.3mの規模で、2段に築成されている。南側のくびれ部には造出しがある。

円筒埴輪が採集されているが、主体部の構造や副葬品はわかっていない。

埴輪の形状・前方部の高さや幅が進化していることなどから、5世紀後半頃に造られたものと考えられている。

堺市堺区の永山古墳とは!

2011年07月02日 | 歴史
ここから暫くは、百舌鳥古墳群のうち、仁徳天皇陵周辺の陪塚古墳を紹介する。





写真は、仁徳天皇陵を中心とした百舌鳥古墳群のうち、同天皇陵の陪塚古墳群のマッピング及びその上空写真から望む陪塚古墳群。

これらの陪塚古墳群のうち、写真左上の⑧永山古墳と⑩丸保山古墳並びに、右下の⑨長塚古墳と⑮収古墳を以下紹介する。

先ず永山古墳は、仁徳陵古墳の北西約50mにある、前方部を南に向けた、全長約104mの前方後円墳で、墳丘は2段に築かれ、葺石と埴輪が配置され、周囲には幅15mほどの盾型の周濠が巡っている。







写真は、大阪中央環状線越しに望む永山古墳全景、同古墳の深い森に覆われた墳丘の様子及び同古墳の周濠の佇まい。

本古墳は、全長約104m・後円部径約63m・高さ約9m・前方部幅約67m・高さ8mで、西部のくびれ部には造出しが認められる。

墳丘は宮内庁により陪塚として管理されているが、造出しがあり、前方部と後円部が同じ大きさという墳丘形態や、全長100m以上の規模を有する前方後円墳であることから、陪塚とは考えにくい独立した古墳と見られている。

本古墳は、伝承によれば、応神16年(西暦282年)に百済から来日し、「論語」や「千字文」(中国古代より児童が文字を学ぶ初歩の教科書)などを伝えた“王仁”(ワニと読むが、応神天皇の時、百済からの渡来人で、祖は漢の高祖と云われている)の墓との説がある。





写真は、大阪中央環状線に削り取られた永山古墳南端及び同古墳南側の周濠の様子。

現在、周濠の南側に接して大阪中央環状線が通り、周濠の一部をまたいでいる。

本古墳は、今日まで調査されていないため、主体部の構造は不明であり、副葬品の内容や性格も分かっていないが、5世紀中頃の築造とされている。





写真は、釣堀化した永山古墳の西側周濠の光景及び柵で囲まれた同古墳。

本古墳は堺市のほか、羽曳野市、藤井寺市とともに、世界遺産登録を目指す仁徳天皇陵などの古墳群の一つであるが、写真の通り本古墳の周濠が長年にわたって民間の釣堀として使われている。

周濠は市有地で、市は立ち退きを求めて、近く民事調停を申し立てることを決めたが、業者側は「明治初めに水利組合から借りた」と主張していると云う。

本古墳は、仁徳天皇陵と道路を挟んで反対側にあるが、釣り客が絶えないため、釣堀のイメージが定着し、世界遺産候補地としては印象が悪く、このままでは得策でない。