ホケノ山古墳は、倭迹迹日百襲姫の墓とされる箸墓古墳を中心とする箸中古墳群に属する初期型の前方後円墳の一つ。
この一帯には他にも石塚古墳をはじめ、矢塚・勝山・東田等の古式の墳丘墓型古墳が集中しており、大和王権発祥の候補地として注目されている。
写真は、下部に位置する、ホケノ山・箸墓と写真中央左寄りの纒向古墳群の位置関係。
初代大王墓とも云われる、ホケノ山古墳は、古代最大の箸墓古墳とは目と鼻の距離に築かれていることもあって、箸墓古墳の被葬者との繋がりに関心が持たれてきた。
写真は、ホケノ山古墳から南側の延長上に見える箸墓古墳と更に北側の三輪山をバックにした箸墓古墳前方部光景で、ホケノ山古墳は箸墓古墳と三輪山に挟まれている位置関係。
2つの古墳を同じ地図上にプロットして箸墓の主軸中心線を延長していくと、写真のように、その線上にホケノ山の後円部の中心がある。
箸墓古墳後円部の中央にある石室に祈りの方向を定めると、その先にホケノ山の後円部の石室があり、更にその北側には三輪山自体をご神体とする大神神社が位置している。
つまり両古墳の埋葬施設を同時に祈ることができると共に、ホケノ山古墳の被葬者・豊鍬入姫が眠ると伝承される、大神神社にも礼拝できる。
ホケノ山古墳の墳丘規模は、全長約80m・後円部径約55m・後円部3段築成で、周濠幅約10.5-17.5mほど。
写真は上から、ホケノ山古墳全景の発掘現場光景、現在のホケノ山古墳全景、後円部の墳丘の様子及び雑草に覆われた、同後円部の三段築成光景。
発掘調査は、1999年9月以来、奈良県立橿原考古学研究所と桜井市教育委員会によって、何回も実施されてきた。
本古墳の発掘調査は、現在も断続的に継続中であるが、今日までに判明した事実関係は以下の通りである。
①「C14年代測定値」(木片の放射線炭素を測定することにより伐採の年代が
分かる)によると、AD30~245年であることが実証された。
②画文帯神獣鏡は、中国後漢(AD25~220年)時代のもので、中国製で輸入されたものであることは間違いないと云う。
写真は、ホケノ山古墳から出土した画文帯神獣鏡。
日本に輸入され埋葬されるまでに、20~30年かかったとしても、3世紀前半から中頃までの古墳であると云われる。
③今回出土した「庄内式土器」の土質は、東海系のものであると云う。
写真は、ホケノ山古墳から出土した庄内式土師器。
東海人が古墳築造に狩り出されたのではないかと云う。当時既に東海地方にまで権力が及んでいた傍証と云われる。
④ホケノ山古墳は、前期古墳の前兆であると云われる。
弥生形墳丘墓(多葬埋葬・木槨使用等)と前期古墳の特徴(高野マキ製木棺・鏡等の副葬品・方形台等)を併せ持っている。
前期古墳はヤマト政権の象徴であり、ヤマト政権の勢力拡大とともに前方後円墳も全国に展開されていった。
以上のような事実から、ホケノ山古墳は3世紀前半から中頃のものであることが判明するとともに、ヤマト朝廷の起源が100年ほど遡り、2世紀末には芽生えていたと見られる。
この一帯には他にも石塚古墳をはじめ、矢塚・勝山・東田等の古式の墳丘墓型古墳が集中しており、大和王権発祥の候補地として注目されている。
写真は、下部に位置する、ホケノ山・箸墓と写真中央左寄りの纒向古墳群の位置関係。
初代大王墓とも云われる、ホケノ山古墳は、古代最大の箸墓古墳とは目と鼻の距離に築かれていることもあって、箸墓古墳の被葬者との繋がりに関心が持たれてきた。
写真は、ホケノ山古墳から南側の延長上に見える箸墓古墳と更に北側の三輪山をバックにした箸墓古墳前方部光景で、ホケノ山古墳は箸墓古墳と三輪山に挟まれている位置関係。
2つの古墳を同じ地図上にプロットして箸墓の主軸中心線を延長していくと、写真のように、その線上にホケノ山の後円部の中心がある。
箸墓古墳後円部の中央にある石室に祈りの方向を定めると、その先にホケノ山の後円部の石室があり、更にその北側には三輪山自体をご神体とする大神神社が位置している。
つまり両古墳の埋葬施設を同時に祈ることができると共に、ホケノ山古墳の被葬者・豊鍬入姫が眠ると伝承される、大神神社にも礼拝できる。
ホケノ山古墳の墳丘規模は、全長約80m・後円部径約55m・後円部3段築成で、周濠幅約10.5-17.5mほど。
写真は上から、ホケノ山古墳全景の発掘現場光景、現在のホケノ山古墳全景、後円部の墳丘の様子及び雑草に覆われた、同後円部の三段築成光景。
発掘調査は、1999年9月以来、奈良県立橿原考古学研究所と桜井市教育委員会によって、何回も実施されてきた。
本古墳の発掘調査は、現在も断続的に継続中であるが、今日までに判明した事実関係は以下の通りである。
①「C14年代測定値」(木片の放射線炭素を測定することにより伐採の年代が
分かる)によると、AD30~245年であることが実証された。
②画文帯神獣鏡は、中国後漢(AD25~220年)時代のもので、中国製で輸入されたものであることは間違いないと云う。
写真は、ホケノ山古墳から出土した画文帯神獣鏡。
日本に輸入され埋葬されるまでに、20~30年かかったとしても、3世紀前半から中頃までの古墳であると云われる。
③今回出土した「庄内式土器」の土質は、東海系のものであると云う。
写真は、ホケノ山古墳から出土した庄内式土師器。
東海人が古墳築造に狩り出されたのではないかと云う。当時既に東海地方にまで権力が及んでいた傍証と云われる。
④ホケノ山古墳は、前期古墳の前兆であると云われる。
弥生形墳丘墓(多葬埋葬・木槨使用等)と前期古墳の特徴(高野マキ製木棺・鏡等の副葬品・方形台等)を併せ持っている。
前期古墳はヤマト政権の象徴であり、ヤマト政権の勢力拡大とともに前方後円墳も全国に展開されていった。
以上のような事実から、ホケノ山古墳は3世紀前半から中頃のものであることが判明するとともに、ヤマト朝廷の起源が100年ほど遡り、2世紀末には芽生えていたと見られる。