近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

水銀朱で魔よけ、桜井茶臼山古墳の石室公開!そのⅡ

2009年12月31日 | 歴史
次に本論である、桜井茶臼山古墳の石室を紹介します。





写真は、本古墳石室の発掘現場及び石室内部。

墳丘長約207m・後円部径約110m・前方部幅約61m、前方部が細長く、全体が柄鏡形を呈する柄鏡式古墳。

古墳時代初期の内でも比較的新しいものであり、箸墓に続いて造営された巨大な前方後円墳。

本古墳中央には、底部穿孔の壷形土師器を並べた長方形の壇とその内側に竪穴式石室を検出したが、石室は偏平な割石を架したもので、石室にはトガの巨木で造った刳り抜き式木棺が遺存していた。

一面朱に塗られている桜井茶臼山古墳の石室内と中央に横たわる木棺は異様な光景。

大王級の人物の墓とされる奈良県桜井市の前方後円墳で、桜井茶臼山古墳(3世紀末~4世紀初め)について、橿原考古学研究所が60年ぶりに石室を再調査し、平成21年10月に魔よけなどのために、全面が鮮やかな朱色に塗られた内部を公開した。


石室は盗掘を受けていたが、鏡・勾玉・剣・銅鏃などのほか、車輪石・鍬形石など腕飾類などが検出されている。

朱色の原料は主に、「辰砂」(しんしゃ)と呼ばれる鉱石を粉状に磨り潰して水に溶かした水銀朱で、類例を見ないほど多量な、少なくとも200キロ使われたと推定されている。

同研究所は「当時貴重とされていた朱をふんだんに使っており、被葬者の権力の強大さがわかる」としている。

石室は竪穴式で、長さ6.75m・幅1.27m・高さ1.71m。壁は幅30~40cmの板状の石を煉瓦のように積み重ねており、天井は12枚の巨石で塞がれている。

石室全体には水銀朱が塗られており、埋葬者の権力の大きさを物語っている。

水銀朱は、壁面として積み上げられた石や、天井石の全面にも塗られていたほか、内部には一部残っていた木棺にも塗られていたとみられる。

古代の貴人は、何故水銀朱のような赤にこだわったのであろうか?

この当時中国で流行していた神仙思想では、「水銀朱を飲めば不老不死の仙人になれる」と信じられ、不老不死を強く願い、叉死者の再生を願ったのではないかと考えられる。

いずれにしても、「被葬者の魂を守る施設」「たたりを恐れて権力者の霊を封じ込めた」等々、前代未聞の発掘成果に識者は戸惑っている状況。

本古墳は箸墓古墳などから南に約4キロ離れ、大王説に否定的な見解が多数を占めるが、大王に近い有力者の墓かもしれない。


水銀朱で魔よけ、桜井茶臼山古墳の石室公開!そのⅠ

2009年12月29日 | 歴史
ここからは、今年考古ファンを魅了したビックニュースを取上げ、近畿地方の古墳最新情報を紹介する。

先ずは、「水銀朱で魔よけ、桜井茶臼山古墳の石室公開」という見出しのニュース。

奈良県桜井市の桜井茶臼山古墳は、鳥見山の北山麓の尾根上にあり、後円部を北側、前方部を南側にして築造されている。

本古墳は、磐余の地(神武天皇が八十梟帥(やそたける)を討ったという地)に接した初瀬川の左岸にあり、自然丘陵を利用して築造された国指定史跡。

本古墳に関する関心は、今回の発掘調査を契機に高まっており、大王級の古墳である事と、古墳時代初期の築造である事やヤマト王権の誕生の場所である磐余の地である事などで、注目されている。

埋葬遺物や後円部上部に築かれた方形の祭壇も、叉出土埴輪群も箸墓と同じグランドデザインであり、初期ヤマト王権成立との関係が、改めて注目されている。









写真は上から、茶臼山古墳の空からの光景、左前方部から後円部へのサイドビュー、後円部の墳丘及び本古墳の御拝所石碑。

京都府京田辺市の飯岡古墳群とは!

2009年12月27日 | 歴史
京田辺市は、京都府南部の大阪府・奈良県との県境近くに位置する都市で、現在では京都市・奈良市・大阪市のベッドタウンとして繁栄している。

古くから栄えた地域で、卑弥呼の時代には高地性集落が生まれ、渡来人がもたらしたとされる、養蚕・鉄製造技術が活かされたところであり、叉大住隼人の“竹取物語”の里でもあり、更には継体天皇の“筒城宮”に関連した古墳などでも知られている。

当地が竹取物語の里である背景には、かぐや姫(迦具夜比売命)の父である“大筒木垂根王”は、その名前から京都府京田辺市の普賢寺・興戸・飯岡・三山木の村々を合わせた「大筒木郷」地方の長ではなかったかと考えられ、「竹取の翁」と推定できることかららしい。



写真は、同志社大学構内に建立された筒城(つつき)宮跡の記念石碑。

京田辺市内には集落「大筒木郷」があったとされ、“大筒木垂根王”の「垂根」とは「竹の根」をさすと見られ、叉「筒木」の「筒」は竹を、「つつき」は月を連想させる、等々が背景にある。

“筒城宮”伝承地は、6世紀の始めの継体天皇の皇居跡で、それ以前にも仁徳天皇の皇后、磐之媛(いわのひめ)の居となっていたと云う。





写真は、京田辺市の木津川から望む飯岡(いのおか)丘陵の遠景と近景。

飯岡丘陵は、南山城平野の中央部にある孤立丘陵で、木津川が北上する際、蛇行浸食していく過程で、周りを川の浸食により削りとられてできた丘陵の一種で、平野部にあるものとしてはたいへん珍しいものらしい。

周辺には同志社大学の近代的な建物、その向こうには頂上に甘南備神社が祀られている甘南備山(217.5m)があり、すぐ右手の高台一帯の丘陵が飯岡古墳群。

この丘陵一帯は、継体天皇が511年に市内の筒城に都を移したとされており、山城国内で初めて都が置かれた地でもある。

飯岡古墳群には、継体天皇に関係する人達の墓墳もあり、本古墳群の頂上にある、薬師山古墳には、石仏が祀られ、この高台からの眺めは京田辺市をはじめ、井手・山城町一帯を一望に見渡すことが出来る。

飯岡古墳群は、木津川のほとり飯岡丘陵にある古墳の宝庫地にある。

飯岡丘陵には、前期の車塚古墳をはじめ、中期の薬師山古墳・ゴロゴロ山古墳・弥陀山古墳・トヅカ古墳、後期の飯岡東原古墳・飯岡横穴等々、古墳時代を通じて多くの古墳が造られたと云う。

特にトヅカ古墳は竪穴式石室をもつ円墳で、馬具と3面の銅鏡が出土したらしい。弥生時代の高地性遺跡も隣接し、天神山遺跡と一体のものかもしれない。

木津川の水運に関係する一族の墓と考えられる。

ここでは、車塚古墳、薬師山古墳及びゴロゴロ山古墳について、紹介する。





写真は、飯岡車塚古墳墳丘の光景。

本古墳は、全長約86mの竪穴式石室をもつ、4世紀後半に築造された市内最大の前方後円墳。

本古墳後円部頂上部の竪穴式石室脇には、「上殖葉王古墳(かみのえばのみここふん)」の碑がある。

明治35年の後円部発掘調査では、竪穴式石室から、勾玉・管玉・小玉・石釧・車輪石・鍬形石・刀剣片などが検出されたと云う。

古墳の表面は葺石で覆われ、周囲へ埴輪で囲まれていたらしい。埴輪の中には、楕円筒埴輪も含まれていたと云う。





写真は、京田辺市の薬師山古墳への登り口及び墳丘。

薬師山古墳の頂上には石仏が祀られ、高台からは京都の比叡山がはるか遠くに見える。すぐ隣にはゴロゴロ山古墳・弥陀山古墳・トヅカ古墳が見える。

薬師山古墳は、直径約38mの円墳で、古墳時代中期の有力豪族の墓。



写真は、ゴロゴロ山古墳墳丘。

本古墳は、飯岡古墳群のほぼ墳頂に位置すると共に、薬師山古墳の西側にあり、継体天皇の皇子・椀子王の墳墓と伝えられている。

本古墳は、直径約60m・高さ約9mで、墳頂は直径20mほどの平坦地になっており、南山城地方では最大の円墳。

葺石の存在が確認され、叉周濠の痕跡も残されている。しかし既に盗難にあっていることから遺物は残っていない。




滋賀県湖北町の若宮山古墳とは!

2009年12月24日 | 歴史
若宮山古墳は、山本山登山道の中腹の南に突き出た、159mほどの支峰の丘上に1600年前に築かれたといわれる。

高月町から湖北町にかけて、約130基を数える古墳時代前期から後期の大型古墳群のひとつ。

本古墳の全長約52m・後円部径約33m・前方部の高さ約5m・後円部は7mの前方部とくびれ部の幅は約19mの柄鏡式形状の前方後円墳で県指定史跡。





写真は、若宮山古墳が所在する山本山光景及び山本山から望む琵琶湖内の竹生島。

本古墳の前方部を琵琶湖に浮かぶ竹生島に向け、倍塚1基を従える他、墳丘には葺
石が認められ、円筒埴輪の破片が採集されている。

主体部は後円部の窪みから竪穴式石室と考えられている。

墳形から4世紀後半に築造されたものと推定され、近江でも最古の古墳群のひとつで、湖北地方では最古の古墳とされている。

本古墳は、山本山から北へ伸びる尾根上に築かれた古保利古墳群とともに、北陸地方への湖上交通を掌握した在地有力者の墓と考えられている。

古保利古墳群は、前方後円墳11基を含む100以上の古墳群で、古墳時代中期の築造。この古墳群には、尾根の東に物部という集落もあるから、軍事を司った古代の豪族物部氏に連なる一族の墳墓かもしれない。

現時点では、今後の発掘調査・遺跡整備は行なわれないらしい。


滋賀県竜王町の天神山古墳群とは!そのⅡ

2009年12月22日 | 歴史
本古墳群の特徴である石室について、更に続けます。

◆中支群5号墳とは!







写真は、本5号墳の現在の墳丘状態、石室入口及び石室の玄室奥壁。

5号墳は、4号墳のとなりにある径20mほどの円墳で、石室は玄室長4.95m・幅2.14m・高さ3m・羨道長5.3m・幅1.64m・高さ1.2mの両袖式。

奥壁は三角形のような一枚岩で、石材に沿う形で側壁をやや持ち送っている。

◆北支群1号墳とは!





写真は、本1号墳の石室羨道部及び玄室玄門の様子。

天神社の西側の登山道を登っていくと、「山の神」の石碑があり、その50mほどの谷間をはさんだ北側に所在する。

径15mほどの円墳で、石室は玄室長3.9m・幅2.12m・高さ2.2m・羨道長5.32m・幅1.48m・高さ2mの両袖式で、玄門部の天井が一段低くなっている。

以上3基の大型石室は、奥壁は鏡石の上に小型の石材を積み、3基いずれも違う奥壁の形態をしている。



写真は、本古墳の南東に位置する、龍王寺本堂。

龍王寺は、雪野山南山腹にある天台宗のお寺で、奈良時代前期、元明天皇時代の711年、行基菩薩によって創建されたと云う。

しかし、度重なる火災で焼失し、平安時代に再建されて以来、「雪野寺」から「龍王寺」と改められたと云う。

梵鐘には美女と大蛇の伝説がまつわり、藤原定家や和泉式部、柿本人麿の詠んだ歌がかかげられている。

本古墳群の被葬者は、ナラ路と日野川が交差する交通の要衝を政治的に抑えていた集団と見られ、その後白鳳時代には龍王寺に支配権力が引き継がれていったのではないかと想像される。



滋賀県竜王町の天神山古墳群とは!そのⅠ

2009年12月20日 | 歴史
天神山古墳群は、竜王町川守の雪野山西山麓にあり、龍王寺の北西部の北支群11基、天神社東の中支群15基、龍王寺南東の南支群3基、合わせて29基から成る。





写真は、蒲生平野から眺める雪野山西側の光景及び龍王寺山門。

本古墳群は、7世紀後半に造営された雪野寺跡・現在の龍王寺の東側に位置し、標高120m~150mほどの谷筋に立地している。

中でも中支群4、5号墳と北支群1号墳は大型の横穴式石室が完存している。

中支群は、雪野山西側麓辺り神社前の山道沿いに、2基の大型石室が開口しているが、手前4号墳は、巨石を使った両袖式、最大の特徴は奥壁左側に副室を持ち、玄室平面形が逆L字型をしている。

奥行きはそれ程ないが、本来の奥壁は巨石を縦に2枚並べその上にも石を重ねている。

5号墳は上側の副室はないが、ほぼ似たような構造で巨石を使った両袖式、右側で小型の石を上下2個重ねているところまで似ている。

奥壁は、高さ3mほどの巨大な1枚石。全体に石の積み方が、丁寧でこちらの方が後から築造されたようだ。

ここでは、本古墳群の特徴である石室について、概観してみる。

◆中支群4号墳
天神社の東側に雪野山の登山道があり、登り初めてすぐに4、5号墳が並んでいて、道側の南南東に横穴式石室が開口している。











写真は上から、天神山古墳群の守り神である天神社、本古墳群への登り口、中支群4号墳の現在の墳丘状態、本4号墳石室入口及び玄室奥壁の様子。

4号墳は径20mほどの円墳で、石室は玄室長3.95m・幅1.86m・高さ3.1m・羨道長6.1m・幅1.4m・高さ0.9mの両袖式で、玄室奥右側に副室を備えた特異な構造をしている。

奥壁は二枚の巨石を横に並べ、副室までカバーしているが、副室は石材の形に沿って、奥壁よりもさらに斜め奥に向かうようないびつな形をしている。

また、羨道天井には段差がある。

本古墳の築造年代は、石室の構造などから6世紀後半から7世紀初頭と考えられ、これら古墳群の被葬者集団は、ナラ路と日野川が交差する交通の要衝を政治的に治めていた集団と見られている。

滋賀県竜王町の雪野寺跡史跡とは!

2009年12月18日 | 歴史
竜王町のシンボルである雪野山は、標高こそ309mほどと低いが、眼下には日野川や湖東の田園が広がり、雪野山と対をなすような鏡山・近江富士の名で知られる三上山もうかがえる。

蒲生郡一帯の肥沃な平野は蒲生野と呼ばれ、日野川がつくり出した沖積平野で、近江米・近江牛など当地の特産物を育む。

雪野山周辺に点在する、数多くの史跡の中でも、雪野寺跡は、雪野山南西側の山裾の平坦な空閑地に位置し、周囲には6世紀末から7世紀初め頃に築かれた天神山古墳群や龍王寺北古墳群などがある。





写真は、蒲生野から望む雪野山遠景及び龍王寺本堂。

雪野山の南西麓にある現在の龍王寺の境内には、7世紀後半に建立された雪野寺があったが、創建当初の建物は火災で焼失し、現在の龍王寺境内の地中に埋もれている。





写真は、雪野寺遺構及び本寺塔の礎石。

約100m四方の寺域の中に、現在見られる雪野寺遺構は、約13m四方の石積み基壇の塔跡のみだが、発掘調査結果から東に塔・西に金堂を置いた伽藍配置であったと考えられている。

現在塔の礎石5個が残っているが、一辺約7m四方の塔が聳え立っていたと思われる。







写真は上から、童子形と菩薩形の塑像、複製の風鐸及び須恵器の壷。

今日までの発掘調査により、粘土で造った塑像をはじめ、屋根を葺いた瓦、軒隈に吊るす風鐸、須恵器・土師器などの土器・陶器類など多くの遺物が出土していることから、雪野寺は白鳳時代に創建され、奈良時代に隆盛したと考えられている。

遺物の中で特筆すべきは、写真のように、口元を開いた童子像と菩薩形の塑像。
特に風鐸は、鐘形の“身”と音を出す“舌”の主要部が3点見つかり、それらの形式から製作時期は、7世紀後半のものと見られている。





滋賀県竜王町の雨宮古墳とは!

2009年12月16日 | 歴史
雨宮古墳は、竜王町・湖東平野の南端、鈴鹿山脈から広がる水口丘陵の北東側に伸びた尾根の先端に築かれ、周辺には前後する時期の古墳は見られない、単独で築かれた独立の帆立貝形前方後円墳。









写真は上から、雨宮古墳の遠景、本古墳入口の看板、本古墳の帆立貝形前方後円墳及び本古墳の墳丘状況。

竜王町は滋賀県の中央部に位置し、町西側の鏡山と町東側の雪野山に挟まれた平地部を、日野川とその支流川が貫流する。

全長83m・後円部径68m・後円部高9mほどの二段築成で、前方部長23m・前方部幅33m・前方部高1.9mほどを測り、墳丘周囲には、外提を持つ10~20mの一重周濠が巡らされていたと見られる。

帆立貝形前方後円墳としては、栗東市の地山古墳・同市安養寺椿山古墳に次ぐ、県下第三位の規模で、滋賀県指定史跡。

墳丘には葺石・埴輪があったが、本古墳の発掘調査等はまだ行なわれていないため、埋葬施設は不明。

しかし後円部の墳頂から出土した滑石製勾玉・家形埴輪片・円筒埴輪片などから、5世紀中頃に造営されたと見られている。

規模・墳形・築造技術の点で特徴があり、かつ遺存状況も良好であるため、滋賀県の古墳時代の歴史を考える上で欠く事のできないもの。

本古墳周辺には、小規模な集落遺跡があるが、湖南地方から水口丘陵を抜けて湖東地方に入る交通の要衝として、シンボル的に築かれたと考えられる。

叉古墳群がある竜王町一帯には、「鏡・須恵・弓削・薬師・綾戸」などの古代の器物製作に係わると見られる地名が多く、その職人達の古墳とも見られている。

滋賀県大津市の和邇大塚山古墳とは!

2009年12月14日 | 歴史
和邇大塚山古墳は、真野川と和邇川に挟まれた地域にある滋賀丘陵の中でも、一番高い曼陀羅山には南北二つの山頂があるが、そのうち北山頂に築かれた前方後円墳。





写真は、和邇大塚山古墳の遠景及び本古墳現場。

古墳からの眺望は雄大で、眼下に現在の小野の集落、和邇川の河口や真野川の河口、それに琵琶湖の湖面を通して、湖東平野や湖南の平地が、さらには湖北方面をも一望することができる。

標高185.8mの曼荼羅山の山頂北側に築かれた、全長72m・後円部径50mほどの前方後円墳で、眼下に小野地域を一望する。

明治40年に地元の住民によって発見され、後円部から鏡や勾玉・刀剣・甲冑・土器などの大量の副葬品が発見された。築造年代は、古墳時代前期の半ばから後半と推定されている。

本古墳は、山頂の地形を利用して後円部を築き、また、南北方向に延びる尾根を利用して前方部を築く等、工事の手間を省く工夫がなされている。

しかし、前方部を北西か南西に向ければ、尾根を削るだけでよいのに、修正を加えたのは、集落から古墳の側面が見えるようにすることを意識したためと考えられる。

本古墳主体部の構造は、後円部に1辺が10m以上、深さが1.2m以上の大きな穴を掘り、ここに小石を敷き、さらに粘土を敷いた後、高野槙の巨木を半裁し、中を刳り抜いた棺(割竹型木棺)を納めていたらしい。なお、同様の埋葬施設が前方部にも造られていたと云う。

後円部の主体部からは、銅鏡・勾玉・管玉・銅鏃・鉄剣・甲冑等が出土した。銅鏡は中国製で25文字からなる銘が刻まれていたが、これらの遺物は残念ながら行方不明となっている。

本古墳の所在する地域は、小野妹子で有名な小野氏とも縁のある、和邇氏の本拠地であり、大塚山古墳の被葬者を和邇氏の有力者とする考えが有力。

“和邇”とは、琵琶湖西岸・近江国滋賀郡の地名で、滋賀県志賀町域(現・大津市)にあたる。大和の豪族和邇氏の部民が設営されていたことによる地名とされている。

“小野妹子”は推古朝の外交官、古代和邇部氏の同族で、近江国滋賀郡小野村(現在の大津市志賀町小野)出身で、日本書紀によると推古天皇の年、607年に第一次遣隋使の長官として中国に渡り、隋の皇帝・煬帝に「日出ずる処の天子、日没する処の天子に致す」という国書を渡す。

ちなみに、小野氏は語学・学問に堪能な一族で、のちに歌人の“小野小町”や書家の“小野道風”なども輩出している。

志賀町小野には小野妹子の墓と伝えられる、前述の唐臼山古墳が残されている。

滋賀県大津市志賀町の唐臼山古墳とは!

2009年12月12日 | 歴史
唐臼山古墳は、琵琶湖をはじめ周囲を一望する、志賀町小野水明の丘陵尾根筋上に築かれ、小野小学校南の“小野妹子公園”内に所在する。





写真は、住宅に囲まれた本古墳から見晴らす琵琶湖の景色と小野妹子神社。

この古墳の所在する地域は、遣隋使で名高い小野妹子の出身地とされ、地元では、この古墳を妹子の墓と伝えているが、江戸時代の記録に初めて見られたと云う。

小野妹子は、飛鳥時代の外交官・政治家で、豪族小野氏の出身と云われる。生没は不詳であるが、没年は7世紀後半と見られるため、妹子の墓にしては、時代がチョット合わない。





写真は、古墳公園内の円墳のような噴丘及び前方部と見られる墳丘の墳頂。

現在、写真のような墳丘は、直径が15m程の円墳状の地形として残っている。墳丘の頂上部にはかなり広い平坦面があり、平たい大きな石が多数散らばっている。

志賀町の曼陀羅山古墳群が分布する丘陵から、東に延びる尾根の標高約140mの頂上付近にある古墳。

付近は、近年の開発により住宅街になっているが、この古墳のある土地は、「小野子谷」といい、「山神」が祀られ、樹木の伐採が厳しく制限されてきたと云う。このため、この古墳の部分だけが、わずかに住宅地の中に取り残されたように開発から免れている。

しかし、墳丘は、いつの時代かは分からない削平を受け、大きく形が崩れてしまい、現状では円墳のように見えるが、前方後円墳であった可能性も指摘されている。





写真は、掘り起こされ、むき出しになった、石室石材の様子。

墳丘は流失し、破損した、箱形石棺状の石室が露出している。

石室は現状で南北5.75m・幅1.5m・高さ1.7mと計測されている。石室内には玉石が敷かれており、玉石の上に置かれていた、土師器片・須恵器片から、7世紀前葉の築造かと見られている。

石室は、主軸をほぼ真南に向けており、石室の南端に玉石が露出していることから、石室の床面には玉石が一面に敷かれていたと考えられている。

現在墳丘には、巨大な箱形石棺状石室が露出しており、7世紀前半頃の箱式石棺を拡大したような特異な石室を持つ古墳で、このような墓は、ヤマト朝廷の官人層だけが造営できるという指摘もある。


滋賀県大津市の春日山古墳とは!

2009年12月10日 | 歴史
春日山古墳は、大津市真野谷口町春日山の、堅田平野に面した滋賀丘陵先端にあり、全長約65m・後円部径約32m・高さ約6m・前方部幅約20m・高さ3.5mほどで、バチ形をした二段構築の前方後円墳。

墳丘には、葺石は施されておらず、埴輪の出土もなく、又墳丘に埴輪の配列はなされていなかったと見られている。







写真は、春日山古墳登り口、墳丘の様子及び二段構築の痕跡。

JR堅田駅の西方、滋賀丘陵の先端部に広がっている前方後円墳。

後円部中央にある埋葬施設は、はっきりしないが、本古墳は5世紀中頃の築造と推定されている。海上交通を始めとする交通に深くかかわった人物の墓と見られている。

前方後円墳の春日山古墳は、丘陵東端に立地する10数基ほどで構成される、国指定史跡のE支群に所在し、5世紀の築造で地域首長墓。

E支群にはこのほか、次世代の首長墓である直径約25mの円墳群を含んでいると云う。





写真は、春日山古墳公園入口及び数多くの古墳が埋もれているといわれている、群集墓の森。

6世紀から7世紀初めにかけて築かれた、総数220余りの基からなる後期の群集墓で、尾根やその斜面を中心に6つの支群で構成されている。10~30m規模の円墳群が中心らしい。

過去に破壊されたもの、未発見の古墳を加えると、総数は250基を越えるらしい。



写真は、春日山古墳から出土した石室。

主体部の形式は、木棺直葬、箱式石棺、横穴式石室といろいろで、昭和49年、春日山古墳があるE支群が国の史跡に指定されている。

石室の石材が窪みに堆積した枯葉に埋もれているもの、奥壁側が開いているもの、奥壁のみが、かろうじて残り他は崩れているもの、もはや石室の形はなく、大きな石が転がっているものなど、完存しているものはほとんど無いと云う。




滋賀県近江八幡市の浅小井遺跡とは!

2009年12月07日 | 歴史
高木・浅小井遺跡は、西の湖南岸の中央、近江八幡市の東端と安土町との町界を境に、長田町・西ノ庄・浅小井町付近の水田地帯に広がる遺跡。

昭和60年の発掘調査結果、当遺跡は弥生時代から近世に至るまでの複合遺跡とされ、弥生時代後期(約1900年前)のは、前方後方形墳丘墓を始め、多数の方形周溝墓や土坑墓等から構成される、大きな墓域が形成されている。





写真は、前方後方形の墳墓が広がる畑地及び墳墓の説明看板。

前方後方形の墳墓は、前方後方形周溝墓と呼ばれる古墳が造られる直前の時代に属するもので、全国的にも珍しく、墓域の規模・構造から、この墓の主は、西の湖周辺に大きな勢力を誇っていたと考えられる。

全長約35mで埋葬施設があったと見られる後方部は、一辺25mの方形で、幅約12m・長さ約10mの小さな前方部が付き、周囲には幅3~7m・深さ約0.45mの溝が巡っている。

埋葬施設は、後世に削り取られて不明だが、本来後方部は余り高く盛土されていなかったらしい。周溝からは弥生時代後期の土器が出土した。

本遺跡は、広範な遺跡のため、遺跡の北部と南部でそれぞれ、中心時期や、性格に違いが見られ、北部からは、弥生時代中期(2100年前)~後期を中心時期とした集落と大規模な墓域が発見されている。

この墳墓に埋葬された首長は、周辺に築かれた方形周溝墓と呼ばれる小規模な墳墓とは細い溝で区別されているが、集落の共同墓地に築造され民衆との身分の格差が余りないように見える。





写真は、石垣が残る浅小井城跡及び遺跡の東西を横切る下ツ街道。

浅小井城は、湖畔に築かれた水城であるが、現在の浅小井城跡の周囲は、戦後の干拓で田んぼに変わっている。

写真のように、田畑の中に残る、60m×70mほどの本丸跡は微高地で畑地となっており、畑地の西側に石積みが確認できるが当時のものかどうか不明。

中世後期には、南部の長田町付近において、居館を中心に集落が営まれていたらしい。北部の浅小井町には、佐々木六角氏の家臣・浅小井氏の居城とされる浅小井城跡が残った。

本遺跡の東西を下ツ道と呼ばれる街道(後の朝鮮人街道)が貫いていることから、交通経路上、重要な位置を占めていた遺跡であると考えられる。



写真は、浅小井城跡を物語る石垣。

現在は、石垣保存のため、埋め戻されている。

浅小井城跡で堀と石垣が見つかった当時、堀は少なくとも16世紀には埋められており、浅小井城の存続年代を考える上で重要な資料と云える。

1496年、伊庭貞隆が一族の浅小井元秀に命じて築かせたというが、一説には、1501年だとも云われている。城址は今も“お城”と称され、田園の中に石塁の一部が残る。



写真は、自然湧水群を有する“湧水の里”光景。

近江八幡市内からやや離れた浅小井集落地区には、いくつかの湧水がある。

自噴井戸や自然湧水など5箇所の湧水があり、湧水の里として整備されている。六郷湧水群を思わせる湧水の里の風情がある。



滋賀県近江八幡市の住蓮房古墳とは!

2009年12月05日 | 歴史
住蓮房古墳周辺には、勧学院遺跡・御館前遺跡などの大規模な集落が立地し、叉東国に通じる古代の主要な道・東山道が通り、交通の要衝に当たる。





写真は、秋の気配を感じさせる住蓮房古墳及び本古墳の説明看板。

住蓮房古墳は千僧供古墳群の東北方に位置し、墳丘径約53m、墳丘周辺の15~23mの周濠を含めると径93mにも及ぶ県下でも最大級の大型円墳。





写真は、田畑に浮かぶ住蓮房古墳及び供養塚古墳墳頂から望む、写真中央の幽かな住蓮房古墳の光景。

本古墳墳丘は二段築成の痕跡を有し、比較的良好に遺存しているが、主体部は不明。現在は外部施設の葺石や埴輪などは認められていない。

濠の部分からは、古式の須恵器が出土しており、その形態の特徴から西方の供養塚古墳よりもさらに古い時期で、5世紀中頃に属する在地の首長墓と考えられている。



写真は、住蓮房古墳墳頂に祀られている、住蓮と安楽の石燈篭。

本古墳の墳頂に眠る2基の墓は、江戸時代に建てられたもので、鎌倉時代に当地で処刑されたと伝えられる、法然の弟子・住蓮及び同じ時期に京都で処刑されたという安楽の2僧を弔うためのものらしい。

“千僧供”の地名は、平清盛の菩提を弔うために、平氏がこの地を延暦寺に千僧供養料として寄進したことにちなんでいると云う。



滋賀県近江八幡市の千僧供古墳群とは!

2009年12月03日 | 歴史
ここからは、纒向遺跡を離れて、滋賀県内の古墳巡りに戻ります。

先ず千僧供(せんぞく)古墳群は、近江八幡市南東部の平地にある古墳群で、現在は供養塚古墳・住蓮坊古墳・岩塚古墳・トギス塚古墳の4基の大型古墳が残されている。

東西約600mの範囲に集中して、5世紀中頃から7世紀にかけて築造され、県史跡に指定されている。

近江八幡市及び隣接した安土町・竜王町・日野町は古代から人が集まり、首長墓・集落は、在地の豪族・首長の系譜を辿る貴重な古墳群。

供養塚古墳からは、形象埴輪が出土したが、5世紀後半の大和朝廷と強い関わりのある人物の墓と云われている。

供養塚古墳は最も西に位置し、江戸時代には鏡や玉類が出土するなど重要な古墳と知られていたらしい。





写真は、田畑中に佇む供養塚古墳。及び秋深まる古墳入口の説明看板と石碑。

昭和57年度の発掘では、後円部に幅6.5m・長さ4mほどの造り出しを持つ、墳丘長50m・後円部径37m・前方部幅22mほどで、濠を含めると全長約70mの帆立貝形古墳と判明。





写真は、供養塚古墳から出土した鉄刀と短甲。

本古墳の後円部は、早くに削平されて埋葬施設は不明だが、昭和9年に発掘された際には、銅鏡・玉類・短甲・鉄刀などが出土したと云う。





写真は、供養塚古墳から出土した形象埴輪で、鶏・武人・馬・鎧・家・円筒・衣蓋などが窺える。

墳丘には葺石をはじめ、多量の埴輪類が出土し、特に円筒埴輪や県下では知見の少ない、衣蓋・家・馬・鶏・武人などの形象埴輪が出土して注目されたが、5世紀後半の在地首長の墓と考えられている。