番山古墳は、塚原古墳群から道路沿いに南へ進んで行くと、名神高速道路のすぐ脇にある。
前方部は残っておらず、後円部と外堤の輪郭のみが確認されている。
5世紀末頃の築造と考えられているが、内部構造は不明。被葬者も明らかではないが、この地域を治めていた豪族の首長と考えられている。
また、すぐ近くには「新池ハニワ工場公園」があるが、この新池遺跡を保存・公開し、楽しく遊べる史跡公園として公開している。このあたり「土室」(はむろ)地区の丘陵地域から平野部にかけては、「塚原」と呼ばれ、5世紀の高槻を代表する古墳が集中して造られたところ。
あらゆるかたちの古墳があるが、現在は“番山古墳”と“二子山古墳”しか残っていない。![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/cat_7.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5b/b1/5a76cf872736fbe1872fb254df1e8172.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4b/6a/dc8b70670376b3980cb06bb72c47502e.jpg)
写真は、石碑越しに望める番山古墳全景及び南西方向から望む本古墳後円部。
あたり一帯は、古墳造営にかかわった人々が居住したと見られる土室遺跡があり、本古墳は、当初直径56m・高さ7mの円墳と思われていたが、濠跡などから南西部に短い前方部を持つ、“帆立貝式前方後円墳”に訂正されたと云う。![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/cat_8.gif)
外提には、円筒埴輪・家形埴輪などの埴輪列があったらしい。
名神高速道路の下をくぐると左手前方に古墳が見え、道路脇に写真に見られるように『番山古墳』と刻まれた石柱「標識」が立っている。
平坦な場所にこんもりと茂った森のようで、一見して古墳とわかる。この地域にはかなり多くの古墳や遺跡があったとされているが、水田開発、道路工事、宅地造成などによりそれらの殆どが破壊されたらしい。![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/cat_6.gif)
特に、高槻市内の“名神高速道路”は、丘陵地と淀川の沖積地の間を通っているが、この高速道路の開通と共に、周辺は住宅地として開発されたため、多くの遺跡も消滅してしまった。
墳丘の南側から東側にかけて、現在は水田だが、かなり大きな溜め池であったような濠跡が見られる。
古墳自体はほとんど原形に近い形で残されているが、埴輪など出土品から5世紀中頃に築かれたものとされている。
番山古墳の被葬者については明らかではないが、この地域を治めていた豪族ではないかと考えられている。
前方部は残っておらず、後円部と外堤の輪郭のみが確認されている。
5世紀末頃の築造と考えられているが、内部構造は不明。被葬者も明らかではないが、この地域を治めていた豪族の首長と考えられている。
また、すぐ近くには「新池ハニワ工場公園」があるが、この新池遺跡を保存・公開し、楽しく遊べる史跡公園として公開している。このあたり「土室」(はむろ)地区の丘陵地域から平野部にかけては、「塚原」と呼ばれ、5世紀の高槻を代表する古墳が集中して造られたところ。
あらゆるかたちの古墳があるが、現在は“番山古墳”と“二子山古墳”しか残っていない。
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写真は、石碑越しに望める番山古墳全景及び南西方向から望む本古墳後円部。
あたり一帯は、古墳造営にかかわった人々が居住したと見られる土室遺跡があり、本古墳は、当初直径56m・高さ7mの円墳と思われていたが、濠跡などから南西部に短い前方部を持つ、“帆立貝式前方後円墳”に訂正されたと云う。
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外提には、円筒埴輪・家形埴輪などの埴輪列があったらしい。
名神高速道路の下をくぐると左手前方に古墳が見え、道路脇に写真に見られるように『番山古墳』と刻まれた石柱「標識」が立っている。
平坦な場所にこんもりと茂った森のようで、一見して古墳とわかる。この地域にはかなり多くの古墳や遺跡があったとされているが、水田開発、道路工事、宅地造成などによりそれらの殆どが破壊されたらしい。
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特に、高槻市内の“名神高速道路”は、丘陵地と淀川の沖積地の間を通っているが、この高速道路の開通と共に、周辺は住宅地として開発されたため、多くの遺跡も消滅してしまった。
墳丘の南側から東側にかけて、現在は水田だが、かなり大きな溜め池であったような濠跡が見られる。
古墳自体はほとんど原形に近い形で残されているが、埴輪など出土品から5世紀中頃に築かれたものとされている。
番山古墳の被葬者については明らかではないが、この地域を治めていた豪族ではないかと考えられている。