近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

大阪府高槻市の番山古墳とは!

2010年01月31日 | 歴史
番山古墳は、塚原古墳群から道路沿いに南へ進んで行くと、名神高速道路のすぐ脇にある。

前方部は残っておらず、後円部と外堤の輪郭のみが確認されている。
5世紀末頃の築造と考えられているが、内部構造は不明。被葬者も明らかではないが、この地域を治めていた豪族の首長と考えられている。

また、すぐ近くには「新池ハニワ工場公園」があるが、この新池遺跡を保存・公開し、楽しく遊べる史跡公園として公開している。このあたり「土室」(はむろ)地区の丘陵地域から平野部にかけては、「塚原」と呼ばれ、5世紀の高槻を代表する古墳が集中して造られたところ。

あらゆるかたちの古墳があるが、現在は“番山古墳”と“二子山古墳”しか残っていない。




写真は、石碑越しに望める番山古墳全景及び南西方向から望む本古墳後円部。

あたり一帯は、古墳造営にかかわった人々が居住したと見られる土室遺跡があり、本古墳は、当初直径56m・高さ7mの円墳と思われていたが、濠跡などから南西部に短い前方部を持つ、“帆立貝式前方後円墳”に訂正されたと云う。

外提には、円筒埴輪・家形埴輪などの埴輪列があったらしい。

名神高速道路の下をくぐると左手前方に古墳が見え、道路脇に写真に見られるように『番山古墳』と刻まれた石柱「標識」が立っている。

平坦な場所にこんもりと茂った森のようで、一見して古墳とわかる。この地域にはかなり多くの古墳や遺跡があったとされているが、水田開発、道路工事、宅地造成などによりそれらの殆どが破壊されたらしい。

特に、高槻市内の“名神高速道路”は、丘陵地と淀川の沖積地の間を通っているが、この高速道路の開通と共に、周辺は住宅地として開発されたため、多くの遺跡も消滅してしまった。

墳丘の南側から東側にかけて、現在は水田だが、かなり大きな溜め池であったような濠跡が見られる。

古墳自体はほとんど原形に近い形で残されているが、埴輪など出土品から5世紀中頃に築かれたものとされている。

番山古墳の被葬者については明らかではないが、この地域を治めていた豪族ではないかと考えられている。


高槻市の鬪鶏山古墳とは!

2010年01月29日 | 歴史
闘鶏山(つげやま)古墳は、淀川北岸地域に展開する三島古墳群の中でも、極めて良好な状態を保つ古墳時代前期(4世紀前半)の前方後円墳。









写真は上から、フェンスで囲われた闘鶏野神社の森と民家の間にかすかに覗く闘鶏山古墳墳丘、闘鶏野神社境内及び墳頂から望む高槻市街地光景及び平成16年当時の本古墳墳頂。

本古墳は奈佐原丘陵先端の尾根筋の標高約84mの地点に、ほぼ南向きに築造された、闘鶏野神社裏山の古墳で、神社の西側にフェンス入り口があり、平成14年に国史跡に指定されたこともあり、現在は勝手に中には入れない。

本古墳は高槻の市街地を見下ろす、細い丘陵の先端を利用して築かれた、典型的な古墳時代前期の古墳で、前方部を南に向けた墳丘の上に立つと、写真のように眼下に高槻の市街を一望に見渡すことができる。

闘鶏の名称は、『日本書紀』の記事にある「闘鶏野氷室」に由来しているらしく、本古墳のすぐ南側には「闘鶏野神社」が鎮座し、丘陵の裾野には氷室の集落が広がっている。

平成14年の調査は、古墳の規模確認等を目的に実施され、ファイパースコープ及び地中レーダー探査による埋葬施設の調査を合わせて実施したと云う。

古墳は全長86.4m・後円部の直径約60m・後円部と前方部の比高差4.5mを測り、後円部は2段ないし3段、前方部は2段に築成され、外表には葺石をほどこしていると云う。

しかし埴輪は巡らさず、テラス面の幅がl.2m前後と狭い点が本古墳の特徴のひとつ。




写真は、平成14年調査で発掘された葺石及び竪穴式石槨内部。

後円部及び前方部に設けた各トレンチからは人頭大の石を並べた裾石列とともに、多数の拳大の葺石がみつかっている。

竪穴式石槨が2基発見されており、写真は第1主体の内部で、徳島産の結晶片岩が天井まで積み上げられた珍しい石槨。

未盗掘なため三角縁神獣鏡・方格規矩四神鏡・鍬形石製飾り・鉄刀などの副葬品と、木棺は腐朽していたが、被葬者の朱が付着した頭蓋骨がそのまま残っていたと云う。

後円部西側からは葬送儀礼に伴う祭祀用の丹塗りの二重口縁壷形土器、また前方部西側からも土師器の壷などが出土したらしい。

埋葬施設は後円部で2基の竪穴式石室を確認したが、ともに後世の撹乱を受けず埋葬当時のままに保存されてきた、完全未盗掘の埋葬施設。

中央部にある第1主体の石室は、古墳の主軸と平行に設定されたもので、墳頂から天井石までは約2mと深く、厚さ約10~15cmの粘土で被覆し、密封していていた。

闘鶏山古墳の前方部前面に、一辺約12m四方・高さ約2mの方形を呈する土壇が見つかったと云う。土壁周辺の今回の調査では遺物が検出されず、遺構の時期等は判然としないが、闘鶏山古墳の造営や祭祀にかかわるものと考えられる。

闘鶏山古墳は幅の狭い急峻な尾根上に築くという前期古墳の特徴が典型的に示されている。

副葬品にみられる三角縁神獣鏡や方格規矩四神鏡は、いずれも中国からもたらされたものとみられ、闘鶏山古墳の被葬者は大和王権と政治的に深いつながりをもちながら、三島を統治していた人物であったと考えられている。

さらに闘鶏山古墳の完全な遺存状態にある埋葬施設の発見は、前期古墳における葬送儀礼の復元において極めて重要な資料。


高槻市の郡家車塚古墳とは!

2010年01月27日 | 歴史
高槻市の郡家車塚古墳は高槻市岡本町に所在し、鍵穴のような形をした日本独特な形式の前方後円墳。

周辺には、阿武山古墳をはじめ、弁天山古墳群・今城塚古墳・前塚古墳・岡本山古墳群などがある。









写真は、郡家車塚古墳、本古墳の森林及び墳丘及び住宅地から僅かに覗く遠景。

墳丘の規模は、墳丘全長が約85.6mの二段構築で、後円部の径約51.3m・高さ7.1m・前方部の最大幅38.1m・高さ4.4mを測る。

基本的には、盛土で造られたもので、1,500年あまりの年月の風雪に耐えながらも自然崩壊などが発生していると云う。

交通の要諦である淀川北岸地域には、親大和政権の部族が住んでいたが、この部族は、大阪府三島郡、高槻市辺りに勢力を持っていた。

三島古墳群と呼ばれる数多くの古墳はこのことを物語っており、三島古墳群の首長墓は、3世紀中頃の安満宮山古墳、3世紀後半の岡本山古墳、3世紀末の弁天山古墳、4世紀中頃の弁天山C1号古墳、4世紀末の郡家車塚古墳、5世紀前半から中頃の太田茶臼山古墳へと首長の墓が継承されている。

墳丘の周囲には周濠があり、円筒埴輪・鰭付円筒埴輪・朝顔形埴輪・家形埴輪などが採取されており、墳丘には埴輪の配列がなされ、叉墳丘には葺石も施されていた。発掘調査が1994年に行われた結果、主体部は2つ確認された。

後円部頂中央にある第1主体部の埋葬施設は、割竹形木棺で埋葬され、鉄槍などが出土した。

後円部頂東寄りにある第2主体部の埋葬施設は、割竹形木棺が直葬され、倭製四獣鏡・硬玉製勾玉・碧玉製勾玉・碧玉製管玉・ガラス製玉・竪櫛などが出土した。

この淀川北岸の摂津地域は同じ畿内に属する地域の中では、辺境の地とされていたが、親大和王権下の豪族が支配権を及ぼし、この古墳築造当時の古墳時代の前期にあたる4世紀末ごろにも勢力を堅持していたと推定される。

本古墳辺りは、平野部から丘陵地に入るところで、以前は丘全体が雑木林に覆われていたが、最近は宅地開発され、写真の通り、わずかに林が残っている。

高槻市南平台の弁天山古墳とは!

2010年01月25日 | 歴史
名神高速道路沿いの南の丘が岡本山古墳、北の丘が弁天山古墳。

弥生時代以降、高槻丘陵では、弁天山王墓をはじめとし、継体天皇陵と考えられている今城塚古墳など、著名な古墳群が築かれた。

南平台の丘陵上に広がる住宅地の家並み上に、緑の丘が二つ並んでいる。





写真は上から、名神高速道路東側から望む左・岡本山古墳と右側の弁天山古墳及び西側の池サイドから望む右・岡本山古墳と左側の弁天山古墳光景。

写真の通り、近くの名神高速道の跨道橋から西を望むと小高い山のようなものが見える。これが大型の古墳で左が岡本山古墳(一部道路工事のため削られているが)、右が弁天山古墳。

弁天山古墳は、高槻市南平台の岡本山古墳の北側、丘陵背梁部にある。





写真は、南平台の住宅地に残された弁天山丘陵とそこに葬られた重要人物の墳墓への登り口と覆われた森林。

弁天山古墳は、全長約100m・後円部径約70m・高さ約12m・前方部幅50mほど・高さ約7mの前方後円墳。

これまでの踏査では,両古墳とも墳丘に河原石が葺かれ、岡本山古墳では壷形埴輪らしい破片が、また弁天山古墳では土器片が出土したものの、埴輪は並べられていないことがわかっている。



写真は、弁天山古墳墳頂から望む高槻市街地。

高槻市南平台は、なだらかで南下がりの日当たりのよい丘陵地帯で、高級住宅地として知られている。

もともとゴルフ場として最適な候補地であったのが、名神高速道の敷設に伴う用地買収が始まり、土地価格が急騰したとか・・・・。

岡本山古墳は3世紀後半、弁天山古墳は岡本山古墳に続き3世紀末ごろに築造されたものと推定され、岡本山古墳同様、南にひろがる平野部を本拠地とした三島地方の王墓と考えられている。





高槻市の岡本山古墳とは!

2010年01月23日 | 歴史
弥生時代以来、豊かな田園を育ててきた人々の努力は、高槻の地を三島地域の政治的・経済的中心として、歴史の流れに大きな影響を与えた。

中でも、岡本山には三島地方で最初の王墓が出現し、その後は弁天山王墓に続き、そして暫くして継体天皇の陵墓と見られる今城塚古墳や、日本最古最大級のハニワ工房(新池遺跡)など、数多くの重要な遺跡や歴史的遺産が現存している。







写真は、西サイドから見た岡本山古墳の南側断面及び東サイドから見た、名神高速道沿いの削り取られた断面及び池サイドから望む岡本山古墳と弁天山古墳遠景。

岡本山古墳は、高槻市南平台にあり、名神高速道沿いの南の丘に造られた、3世紀後半の前方後円墳。

本古墳の墳丘は、尾根地形を利用して造られ、後円部径約70m・全長約120mを測る。

これまでの発掘調査では、墳丘に河原石が葺かれ、壷形埴輪らしい破片が見つかっている。

一方弁天山古墳は、岡本山古墳に続いて3世紀末ごろに築造されたものと推定され、双方とも南部にひろがる平野部を本拠地とした三島地方の王墓と考えられている。

被葬者は不明だが、古墳時代前期にこれほどの規模を有する前方後円墳といえば、大和王権に近い大王クラスの墳墓と考えられる。

大阪北摂地方で最初の前方後円墳は、淀川の中流域の両岸に出現し、高槻市の岡本山古墳とともに、枚方市の“万年寺山古墳”も挙げられる。

両地域の王が、ほかの大阪地域の王に先駆けて前方後円墳を築くにいたった背景には、経済的優位性が作用しただけはなく、ヤマト政権の中枢の人たちが、淀川の交通路としての重要性を評価していたことの証しであろうと想像される。




高槻市の安満山A1号墳とは!

2010年01月21日 | 歴史
安満宮山古墳から墓地公園を更に奥深く進んだ辺り、桧尾川流域の安満山一帯は、塚原・塚脇につぐ大規模な古墳群で、6世紀後半から7世紀にかけて築造されたものらしい。

安満山古墳群は約40基からなっており、安満山の山裾から山頂にかけて分布しているが、ほとんどの古墳は横穴式石室を有し、その石材は安満山より得られるものを使用していると云う。

昭和36・44年に、名神高速道路と高槻市墓地公園を造る際に行われた発掘調査では、金環・ガラス玉その他多数の土器が発見されたと云う。被葬者はこの地の有力豪族と考えられている。

本古墳群のうち、5基について調査が行われた後、1基を除き、他の全ての古墳は公園墓地の造成に伴って破壊、埋没されてしまったらしい。

ほとんどの古墳は、破損埋没してしまいましたが、中には旧状をよくとどめているものもあり、多数の遺物が出土したと云う。







写真は、案内板で示された、安満山A1号墳の全景、墳頂から望む高槻市街地の光景及び保存された横穴式石室内部。

それら40基のうち残された1基・「安満山A1号墳」は、写真の通り、唯一の古墳として、現在当地に保存されている。

この古墳は直径約12mの円墳で、横穴式の石室を備えていたが、墓地造成の調査時には、石室上部が既になくなっていたという。この写真は、その石室部分を南側から見たものである。

石室の長さは約5m、調査時に、副葬品として須恵器・金環などが見つかったとされている。副葬品の数や出土状況から、ここには2人が葬られていたものと推定されている。

檜尾川流域にあった、古代の集落の有力者たちが被葬された歴史を持つ安満山だが、現在は高槻市営公園墓地に整備され、大規模な庶民の墓地として引継がれて、更に拡がっている。


高槻市の安満宮山古墳とは!そのⅡ

2010年01月19日 | 歴史
高槻市の安満宮山古墳巡りを続けます。

本古墳から出土した長大な石室からは、古代史を揺るがすような貴重な副葬品が検出された。

石室棺内には青銅鏡5面をはじめ、1,600個以上のガラス小玉をつづった装飾品や刀・斧などの鉄製品が副葬され、並々ならぬ人物が埋葬されていたことが明らかになった。

注目されるのは中国・魏の年号、青龍3年(235年)銘をもつ“方格規矩四神鏡”で日本最古の年号鏡である。

ここに眠る人物が眼下に広がる安満集落の王で、卑弥呼が魏に派遣した使節団の一員であり、女王卑弥呼よりこの鏡を下暢されたのではないかと推測される。

日本出土の銅鏡では、最古の年号の入った鏡で、さらに興味深いのは、それが日本ではじめて三角縁神獣鏡などと一緒に出土したことです。





写真は、安満宮山古墳墳頂に復元された石室内部及び石室から出土した、青龍3年の銘をもつ方格規矩四獣鏡。

石室をイメージした、かまぼこ型の強化ガラスに覆われた墓坑には、卑弥呼が魏より貰ったといわれる銅鏡のレプリカが復元されている。

「魏志倭人伝」(『三国志』魏書東夷伝倭人条)には、景初3年(239年)6月、倭国の外交使節団が邪馬台国を出発し、12月に魏の都・洛陽に到着。

魏は倭国女王・卑弥呼に対し「親魏倭王」の金印とともに「銅鏡百枚」などを与えたと記されている。

安満宮山古墳の鏡はその一部を含むと考えられ、「銅鏡百枚」の実態に迫る画期的な発見となりました。

安満宮山古墳に眠る人物は、眼下に見える三島地方最大の環濠集落・安満遺跡を拠点とするこの地の王であったかもしれない。

淀川水運を掌握し、女王・卑弥呼の政権を支える一人として、これらの鏡を授けられたのかもしれない。



高槻市の安満宮山古墳とは!そのⅠ

2010年01月17日 | 歴史
高槻市の安満宮山古墳
安満宮山古墳は、高槻市安満御所の町にある市営墓地公園内に所在する。

この地は、京都府亀岡市から続く山並みの大阪府側南斜面にあり、淀川を挟んで対岸の枚方市をはじめ大阪平野を眺望できる。





写真は、高槻市営墓地公園内の安満宮山古墳墳頂から望む、現在の市街地光景及び整備された安満宮山古墳現場。

安満山は、平安時代から春日神社の神域として守られてきた聖なる山と云われている。

本古墳墳頂から見下ろす高槻市市街地、左手彼方には生駒の山が見え、その向こうには奈良盆地が広がるという位置関係。









写真は上から、平成22年1月現在の安満宮山古墳への登り口、登り山道沿いの墳丘、山道の様子及び平成9年発掘調査後の安満宮山古墳現場。

魏にはない元号「景初4年」銘の銅鏡が出てきた三角縁神獣鏡に対して、日本海側大田南5号古墳に続き、より奈良に近い当地で「青龍3年」銘の銅鏡が出土した。

安満宮山古墳は、古墳時代の最も早い時期につくられた古墳で、高槻市東部の安満山の中腹に築かれた。

平成9年この地を墓地公園として整備するため発掘調査が行われたが、その過程で長大な木棺を収めた石室が発見された。



大阪府高槻市の古墳群とは!

2010年01月14日 | 歴史
高槻市の地形・歴史を振り返ってみると、大阪平野の北東にあり、京都と大阪の中間に位置し、北は北摂山地に連なる山並みと丘陵、南は山間から流れ出る芥川・桧尾川などによって形成された平野が広がり、琵琶湖から大阪湾に流れる淀川が市域の南の境になっている。





写真は、高槻市を流れる芥川上流に広がる渓谷・摂津峡の光景及び北摂丘陵に広がる高級住宅地・南平台の光景。

高槻市は、このように変化に富んだ地勢と、淀川・山陽道(西国街道)という水陸2大交通路の要衝であったこともあり、数多くの歴史を育んできた。

弥生時代以来、豊かな田園を育ててきた人々の努力は、この地を三島地域の政治的・経済的中心として、歴史の流れに大きな影響を与えた。

大阪府三島地方とは、三島郡島本町を北限として高槻市・茨木市を含む淀川右岸縁の地方を指すが、三島地方は日本有数の古墳地帯であり、高槻市だけでも古墳や遺跡が約500ヶ所もあり、文化財の宝庫とも云われている。

この三島古墳群には、古墳時代初頭から終末期までの各時代を代表する古墳が含まれ、羽曳野・藤井寺周辺の“古市古墳群”、堺周辺の“百舌鳥古墳群”と並び称されるほどの規模を誇る。

三島古墳群は、大阪府茨木市西部から高槻市東部にかけて分布する、大阪府下最大の古墳群で、同じ古墳群でも兵庫県下の中山古墳などが地方豪族の墓であるのに対し、これらは大王やそれに次ぐ高位階層の墓が多く、日本版「王家の谷」とも云える。



写真は、名神高速道沿いの大型古墳群の集積地帯のマッピング。

名神高速道敷設工事に伴い、古墳の一部を削り取るハプニングもあったが、国家的レベルの貴重な史跡は大切に保存されている。

三島古墳群における代表的な首長墓は、邪馬台国時代の安満宮山古墳(3世紀中頃)からはじまり、古墳時代初期の岡本山古墳(3世紀後半)、弁天山古墳(3世紀末~4世紀初頭)へと変転していった。

今回、確認された闘鶏山古墳(4世紀前半)の存在は、王権がその後の弁天山l号墳(4世紀中頃~後半)から郡家車塚古墳(4世紀末)へ引き継がれたことを明確したと云う。

やがてこの三島地方の王権は、新池埴輪製作遺跡(5世紀中頃~6世紀中頃)と太田茶臼山古墳(現継体陵・5世紀中頃)の造営に象徴されるように、大和王権との結び付きを一層強固なものとし、今城塚古墳(6世紀前半)の段階では全国統治の頂点に立つという歴史的な展開をみせる。

ここからは、三島地方の代表的な大型古墳群を紹介する。



大阪高槻市の阿武山古墳とは!そのⅡ

2010年01月12日 | 歴史
高槻市の阿武山古墳巡りを続けます。





写真は、本古墳から出土した浹紵棺及び冠帽や緑や青のガラス球を連ねた玉枕。

花崗岩とレンガで造られた石棺式石室には、夾紵(きょうちょ)棺(漆で塗りかためた布を重ねてつくった棺)と呼ばれる乾漆棺が安置され、推定年令60歳代の男性遺体が発見されたことから、「金糸をまとった貴人の墓」として大いに注目された。

石室中央に置かれた夾紵棺の頭部からは、写真のような冠帽や青と緑のガラス玉を銀線で連ねて錦で包んだ玉枕が出土したと云う。

これらは元どおり埋め戻されたらしいが、当時撮影されたX線写真などの分析から、男性は亡くなる数ヵ月前に肋骨などを折る事故に遭っていたことや、金糸で刺繍した冠帽をそえてあったことが分かっている。

被葬者は相当な地位にあった人物と考えられるが、「藤原家伝」によると、藤原・中臣鎌足は、飛鳥時代に中大兄皇子(後の天智天皇)に協力して蘇我氏を滅ぼした、645年の所謂「大化の改新」の前年に“三島の地”(現在の高槻市内)に隠棲していたと云う。

藤原鎌足は大化改新に力を尽くしたことで、朝廷における最高の実力者となり、琵琶湖に近く、当時から交通の要衝とされていた山科に「陶原の館」と呼ばれる邸宅を建てたと伝えられている。
邸宅には“山階精舎”と呼ばれるお堂がつくられたと云う。

その後阿武山、そして多武峯へと改葬されたと伝えられており、当地高槻市安威を藤原鎌足の墓とする説が沸き起こり、昭和58年に国指定史跡となった。

遺体が纏っていた金糸が、藤原鎌足に送られた「大織冠」ではないかとされ、また鎌足の死亡の原因が落馬によるものだという記事もあり、骨折がこれを証明していると云える。

藤原鎌足に授けられた、大織冠とは藤原鎌足が死ぬ直前、藤原姓とともに天皇から下賜されたもので、冠位十二階より上位の、冠位の最高位を表し、日本書紀にもその記録が残されているらしい。

大阪高槻市の阿武山古墳とは!そのⅠ

2010年01月10日 | 歴史
阿武山古墳は、高槻市大字奈佐原の阿武山中腹・標高約210mの尾根上にある。昭和9年、京都大学の地震観測施設建設の際に偶然発見されたらしい。

桑原遺跡から東側・高槻市側の丘陵へ急上昇し、その頂部付近に7世紀末の阿武山古墳がある。









写真は、高槻市と茨木市に跨る阿武山中腹に築かれた阿武山古墳の遠景、近景及び墓室。

本古墳は高槻市・茨木市に跨る7世紀末・古墳時代終末期の円墳で、盛土がなく、尾根の小高いところを幅2.5mの浅い溝を円形に巡らせ、直径82mほどの墓域を区画している。

大阪府茨木市の桑原遺跡とは!そのⅡ

2010年01月08日 | 歴史
茨木市桑原遺跡のハイライトを更に続けます。

平成16年度から行なっている調査の結果、桑原遺跡は弥生時代から近世にかけての遺物・遺構が確認されている。

今回の発掘調査の成果として重要なものに、7世紀前半を中心とした古墳時代終末期の群集墳が新たに発見されたが、検出した中世の掘立柱建物の下層に24基以上の古墳であった。

この群集墳は周溝を共有し、密集して存在する様子は古墳終末期にあたる飛鳥時代に特徴的な分布状況と云われている。



写真は、貴重な発見の八角墓。
白く囲まれた部分が八角形の実寸。

円墳と方墳が入り混じって、八角形の墳丘が1基存在した。横穴式石室が検出されたものは13基で、殆ど袖がなかった。

石室はほとんど盗掘されておらず、石室内部からは、陶棺2基・耳飾りの金環3個・銀環5個などの副葬品が出土したと云う。

7世紀中頃は、既に薄葬令が出た後で、この時期に八角墳を含む大きな古墳群を築ける力を持っていた氏族として、中臣(藤原)鎌足の墓とされる阿武山古墳(7世紀後半)に近いことから、中臣氏族の墓地だった可能性がある。

この八角墓は、阿武山古墳の西約600mの川沿いにあり、周溝などから八角の形が判明。

八角墓中央には天井の壊された、幅約1.2m・長さ約5.0mの横穴式石室があったが、墳形は、舒明天皇陵とされる桜井市の段ノ塚古墳に類似していたと云う。

本八角墳の封土は中世に削り取られ、石室の下部が残っている程度だったが、舒明天皇陵は、3段の方形壇の上に八角墳が乗っている構造だったと云う。

しかしここの墳丘は周囲の状況から、ただ八角墳だけ築かれているようで、大きさをそろえた自然石を積み上げている。

八角墳形は大王級としても群集墳に囲まれており、身分的にはあまり上の被葬者とは考えられない。

八角墳は、全国的にも数例しか報告が無く、しかも調査例が少ない。

現在確認されている八角墳は、大型のものはほぼ総てが大王墳と言われているが、このC-3号墳の被葬者は、大王クラスの人物に準じる程の有力人物であったと云える。

墓坑を囲むように周り、上面はロート状に口が開き底部はV字型の断面を持つ、墳丘内排水溝の存在が確認された。

石室のすぐ近くを排水溝が取り囲む形態は、典型的な終末期古墳の特徴らしい。


大阪府茨木市の桑原遺跡とは!そのⅠ

2010年01月06日 | 歴史
桑原遺跡は、京都府亀岡市に源を発する安威川が、丘陵から平野の段丘部に抜ける途中で水流が大きくS字に曲がり、西側に張り出す微高地の上にある。

本遺跡は茨木市の北方、山手台住宅地の東、阿武山地震観測所近くの阿武山古墳から南西に尾根を一つ越えたところで安威川が大きく西に膨らんだ、この膨らみの内側にある。





写真は、今回の発掘・発見に繋がった現在の安威川及び現在も進行中の安威川ダム残土処分地の整備工事看板。

大阪府がこの川の北方上流に安威川ダムを作る計画をしたが、自然への影響や治水・利水に問題があるとして反対運動が起こり、計画が進んでいなかった。

当地は、その工事の残土処分地に予定されたので、平成16年4月に事前調査を行ったところ、思いがけず群集墳が発掘されたと云う。

この古墳群は7世紀前半を中心とした終末期の群集墳が、新たに発見されたもので24基以上の古墳に上ると云う。





写真は、桑原遺跡の発掘現場及び現地説明会の光景。

24基の古墳は区域の中央部に11基、その西に8基、東に5基いずれも接近して造られており、一辺が10~15mの円墳15基と方墳8基が、周濠を共有してぎっしりと造られていたらしい。





写真は、桑原遺跡発掘現場、平成22年1月現在の風景。

本古墳は、下記のような古墳群のほぼ中央に所在する。

本遺跡から東側は高槻市側の丘陵へ急上昇し、その頂部付近には7世紀末の阿武山古墳やその南斜面には6世紀を中心とした塚原古墳群という群集墳がある。

叉安威川を挟んだ西側の対岸、やや上流にも7世紀の初田古墳群が所在する。

というように本遺跡は古墳集積地域の一角にある。





大阪難波と百済の関係とは!

2010年01月04日 | 歴史
昨年の新発見を更に続けます。

平成21年7月、韓国・扶余(プヨ)の双北里遺跡から出土した、百済時代の木簡に倭人とみられる名前が記されていることが、日韓の専門家の研究で明らかになった。

扶余は朝鮮古代の百済の都で、木簡は7世紀のものらしい。「那尓波連公(なにわのむらじきみ)」と5文字あり、那尓波は「難波」のことで、大和政権の海の玄関口「難波津」・「難波」に由来するらしい。

「連公」は、氏姓制度で定められた「連」と云う称号の古い表記と見られ、大阪湾周辺に住んでいた有力者の可能性が高いとみられる。

百済は飛鳥時代に日本と緊密な関係にあったが、日本人の名前が出土史料で確認されるのは初めて。

今回の発見は、盛んであった百済と日本との交流を裏付ける初の文字資料として注目された。

韓国国立扶余博物館が、収蔵する木簡を整理。その際、「連」が身分を示す日本古代の姓(かばね)であることに学芸員の李鎔賢(イ・ヨンヒョン)さんが気づき、日韓の専門家が解読したと云う。

木簡は長さ20.9cm・幅1.9cmで、形から荷物を送る時の荷札と見られる。



写真は、7世紀中頃“白村江の戦い”当時の、朝鮮半島の百済・扶余の位置関係。

渡来系の難波氏が外交や交易にかかわった、との記録が日本書紀にある。

使節として百済に派遣された時に持参した土産に付けたか、逆に百済から贈られた品に付いていた木簡といった可能性も考えられる。

百済は漢字や仏教経典を日本に伝えたとされ、百済滅亡後の663年に復興を目指す同地の軍と大和政権の軍が、唐・新羅の連合軍と“錦江”で戦った「白村江の戦い」など、当時は関係が深かったと云われる。


大阪府藤井寺市津堂城山古墳の新発見とは!

2010年01月02日 | 歴史
津堂城山古墳は4世紀第四半期の造営で、古市古墳群内にある、大王墓級の墳長208mを誇り、周濠跡を含めると全長440mの巨大前方後円墳として、大和地方の大型古墳に比して遜色のない存在。

内容的には、竪穴式石室の中の装飾豊かな長持形石棺をはじめ、三角板革綴短甲、盾形の周濠を持った墳丘モデル等先駆的な遺跡。

墓域候補地がそれ以前の大和盆地という狭い範囲にこだわらず、一挙に河内地方にまで進出したことになる。





写真は、津堂城山古墳丘陵の前方部から後円部を望んだ光景と巨大な周濠跡。

後円部は柵で囲われ侵入禁止となっているが、その他はすべて一般公開され、市民公園として利用されている。



写真は、本古墳墳頂から望む市街地。

当墳丘上から見た丘陵下平面地には、市民占拠農地と公園が同居している状況にあり、周辺一面が畑・花壇でいっぱい、大王級墳丘の開放度に関しては抜群。



写真は、平成21年10月に発表された、本古墳から出土した、発掘現場の“葺石”。
こぶし大の石を敷き詰めた葺石が良好な状態で確認された。

本古墳は、陵墓参考地及び国史跡に二重指定されており、墳丘本体の発掘は約100年ぶり。研究者は「なぞに包まれた巨大古墳を解明するうえで貴重な資料。陵墓調査・公開への前進にもつながる」と注目している。

陵墓や陵墓参考地を含む古墳本体が、宮内庁以外によって調査されるのは極めてまれ。今回、後円部墳頂の陵墓参考地部分を囲むフェンスの基礎部が土砂崩れで露出し、石棺のある竪穴式石槨が崩壊する恐れがあるため、復旧工事を前に市教委が墳丘裾部までの長さ50m・幅2mほどを発掘調査した。

その結果、河原石をびっしりと敷いた、長さ約9mの1段目斜面に葺石が出土。続く長さ6mほどの平面に並ぶ埴輪3基や、長さ約6mの2段目斜面の葺石も確認された。

市教委は「初期の大王墓墳丘がどんな規格で築造されたかを推定できるデータが得られた。墳丘上部はえぐられているが、1段目と2段目の形などからみて、これまで3段とされてきた墳丘が4段だった可能性もある」としている。

津堂城山古墳は、大阪平野に群集する大型古墳の中で最も早く築造されたとされる。

室町時代、山城に利用されて墳丘の形が大きく崩れ、王権の象徴とされる巨大な前方後円墳でありながら、明治初期の陵墓治定から外された。

1912年に後円部の墳頂が掘り起こされ、国内最大級の長持形石棺が出土している。

「200m超の大王墓級の古墳本体に発掘の手が入った意義は大きい。他の陵墓発掘に宮内庁がどう対応するのか注目したい」と識者は話す。

「画期的な調査。宮内庁と文化財行政側は立場が違うが、しっかり保存したいという目的は同じはず。宮内庁と地元行政が互いに活用できる調査データを共有する関係を築くきっかけになれば」と別の識者は期待を込める。