近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

天皇陵あれこれー陵墓は皇室用財産か又は公的文化財か!そのⅣ

2011年12月30日 | 歴史
主題の皇室問題を続けます。

具体的に藤井寺市の津堂城山古墳の事例を取上げます。

津堂城山古墳は、奈良市のコナベ古墳に先行する4世紀末の古墳で、築造企画は5区画型で、この平面の2倍が誉田御廟山古墳・応神陵になると云う。





写真は、津堂城山古墳の墳形が崩れた上空光景及び本古墳から見下ろす荒廃した濠跡の光景。

本古墳が陵墓参考地に治定されているのは、長持ち型石棺が発掘された後円部墳頂の一部で、完周した2重濠を含めた広大な全域は民有地として経過し、荒れ果てた現状のまま藤井寺市の史跡整備をすすめている状況。






天皇陵あれこれー陵墓は皇室用財産か又は公的文化財か!そのⅢ

2011年12月28日 | 歴史
主題の件の論点を更に続けます。

陵墓古墳は国有財産法の皇室用財産に規定されており、仮に陵墓古墳から外れた周辺部が開発による破壊の危機に瀕した場合、国有財産法適用となると、皇室用財産を増やすことになるため、国会の決議が必要となることがネックになっているらしい。

更に陵墓と同じ皇室用財産の正倉院正倉が、国宝と云う国民財産に指定され、古都奈良の文化財の一つとして世界遺産に登録されたことかも、巨大な天皇陵も、全世界共通の財産として世界遺産に登録されるべきもの。

もっともらしい理屈を付けて古墳の発掘を拒否するなら、宮内庁は、日本の歴史解明をも否定することになり、これは皇室の尊厳を云々する以前の日本国を閉ざすことに通じる。

陵墓公開を求める動きは、今後一層強まると思われる。

これまで陵墓古墳の保存から始まった問題点について考えてみたい。

先ず堺市百舌古墳群の土師ニサンザイ古墳の例を取上げる。

1976年、土師ニサンザイ古墳の墓地拡幅工事による外堤と周濠の破壊問題がある。

本古墳は5世紀後半から末葉の墳丘長約298m・後円部直径約170mの古墳で、完周する二重濠を含めて全域が約507mの正方形区画の枠に収まるように造営された古墳で、前方後円墳の様式美の極致に達した古墳と云われている。

これは本古墳のカギ穴形の墳丘部分だけが、陵墓参考地に治定去れ、一重濠から外側は私有地であったため、外堤と周濠が破壊される破目に陥った。

特に最近では、事前調査もなく原形の把握もないままに護岸工事や墓地拡張工事行なわれ、陵墓周辺の侵食が惜しまれる。





写真は、土師ニサンザイ古墳南側に面した土師町沿道の風景及び前方部沿いに巡らされた市民公園。

同古墳周辺の宅地開発に伴い、市民生活重視に向けに更なる開発が著しく進んでいる状況が窺える。

同古墳は、天皇陵より格下の陵墓参考地にランクされているために、墳丘以外の周辺部の保存は放置されて来た。

しかし同古墳は「倭の五王」の一人・反正天皇陵の可能性が高いだけに、考古学・歴史学の観点から、最重要の前方後円墳として保全には万全を期して欲しい。

ここにも、宮内庁の陵墓治定や位置づけが歴史的にも極めて客観性を欠いていることを露呈していると云える。


天皇陵あれこれー陵墓は皇室用財産か又は公的文化財か!そのⅡ

2011年12月26日 | 歴史
主題のテーマについて、更に続けます。

現状宮内庁が管理する天皇陵と称する陵墓の発掘は許されていない。理由は「現在の皇室の祖先が葬られ、今も祭祀が行われている墓である」にある。

尊崇の対象だから、静安と尊厳の保持が何よりも優先されねばならない、と言う。

その理由は一面では正しい。しかし日本の古代史に関しては、あまりにも謎が多過ぎる。なぜなら、伝えられている様々な歴史書には間違いが多いので、正しい歴史書を作る必要があると言って作られたのが『古事記』であり『日本書紀』であるから、そこには当時の皇室だけが正統な存在である、との一方的な思いが充満している。

そこで、対立するあるいは並立する様々な権力の存在を認める歴史書は抹殺された。従ってこれらの歴史書に古代史の真実が存在している根拠は薄い。

しかし、陵墓には嘘は無い。陵墓自体は雄弁に事実を物語る。従って、本当に真実の古代史を追究するなら、そうした陵墓の発掘は避けて通れない。

そして、先の一面では正しかった理由は、次の事情で正しさが減殺されてしまう。それは宮内庁の陵墓の指定は正しくない、との理由。

たとえ、先祖の墓として今も祀られているとしても、その発掘が先祖の尊厳を損なうとは思えない。もしも発掘が尊厳を損なう行為なら、徳川家の将軍の墓の発掘をした徳川家の子孫達はとんでもない事をしたと言う事になる。

しかし、その結果、その発掘で様々な新事実が判明したのである。

皇室の宗教である神道では、死者はその家を守る神となる。その神としての存在こそが祀られるべき存在であり、その白骨が祀られている訳ではなかろう。それに発掘は墓を暴くのでもなければ、盗掘をするのでもない。純然たる学問的発掘に何のやましいこともない。

仏教と神道は、どちらも基本的には先祖崇拝であるけれど、仏教は個人的な先祖を崇拝するのに対し、神道は国の創建に関わったような、公的な働きをした先祖を崇拝するもの。

理不尽な拒否を続けていると、宮内庁は皇室に不利な点が発見されるのを恐れているのではないか、としか思えなくなる。

新たな発見がなくても、古代において、皇室の系統には不自然な点があるのは周知の事実である。その一つが継体天皇にある。

更には大和朝廷以外にも日本には大王の存在があった事は、学者が認めようが認めまいが、中国大陸の歴史書が証明をしている。

だからこそ、天武天皇は自分達が正統である事を主張しようとして、歴史書の編纂を命じたのである。

先祖の尊厳や宗教的理由を持ち出して、我々日本人全員の歴史に勝手に幕を引いたり、隠したりする事は許されないと思われる。

陵墓とされている古墳をしっかりと保存するためには、国民の理解が必要で、学術的裏づけに基づいた陵墓の在り方を考えるチャンス。

宮内庁は陵墓の古墳と云う文化財を評価すべきであり、考古学的な成果によって、現在の指定にずれが生じれば、それを直視して、自ら検証するのが宮内庁の義務と考えられる。





写真は、堺市履中天皇陵の右側前方部に密集する生活道路と民家の光景及び羽曳野市の文化ホール前の道路沿いに掲げられた世界遺産を目指す旗印。

陵墓が集中している大阪府の古市・百舌鳥古墳群などでは、猛烈な勢いで都市化が進んでいる。どの古墳もギリギリまで宅地になり、歴史的景観が破壊されている。陵墓が文化財であるとの視点から、文化庁を巻き込んで古墳周辺の保全も急務。

特に90年代には世界遺産と云う新たな価値観が浸透してきたことで、陵墓が秘匿されたままにしておくことは、世界の流れに立遅れてしまう。


天皇陵あれこれー陵墓は皇室用財産か又は公的文化財か?そのⅠ

2011年12月24日 | 歴史
ここからは、陵墓が皇室用財産か、或いは公的文化財かについて考えてみたい。

宮内庁が監理している陵墓古墳は、一見よく整備・保全されているように見えるが、これは宮内庁の所有する皇室用財産の監理地だけで、宮内庁管轄外の箇所は、開発などにより荒廃されていることが多い。

特に陵墓古墳周辺部の保存は、宮内庁によって全く顧みないまま放置されてきたため、民間による乱開発や自治体による周濠河川工事などにより、原形を留めないなど、考古学や歴史学からの学術的な評価や文化財としての価値が著しく損なわれていると云う。

更に宮内庁の陵墓の治定や位置づけが歴史的にも極めて客観性を欠いているだけに、陵墓や陵墓参考地の文化財保全は国の歴史的文化財産として、今後古墳全体の原形維持管理が不可欠。

宮内庁は、陵墓古墳を「天皇家の祖廟」として、「静安と尊厳」を守るために厳重に監理している。

陵墓にたいする天皇家の祭祀とは、天皇家の私的な行事であって、日本国の国事行為ではないと云える。陵墓は公的文化財として保存し、自由に公開・活用され、その一部分に、天皇家が私的に祭祀する陵墓が含まれると理解すべきではないか・・・。

一方陵墓公開を求める学会側の運動により、2006年には「陵墓堤防そのほかの外周部から墳丘の最下段の巡回路まで」として、墳丘までは立入を認める新方針を示している。

そして2008年には、第一回の五社神古墳(神功陵)への学会による立入見学が実現した。

そこで、今後の文化財保全のためにも、これまでの陵墓・陵墓参考地の保全監理ルールを改め、公的文化財全体の保全に重心を置いた監理ルールに認識を新たにして欲しい。

陵墓に指定されている古墳のうち、大阪・奈良地方には、天皇陵は41基・皇后陵は11基・皇太子などの墓は34基所在する。

全国的には、宮内庁管理の陵墓が、北は山形県から南は鹿児島県まで1都2府30県にわたって所在しており、歴代天皇陵が112・皇后陵など76で計188、更に皇族等の墓が552基。

これら陵墓は現在も皇室及び宮内庁による祭祀が行われており、研究者などが自由に立ち入って考古学的調査をすることができない。調査には宮内庁の認可を要するが、認可されて調査が実際に行われた例は数えるほどしかない。

現在の天皇陵比定とは裏腹に、実際に葬られている人物は天皇とは限られず、誰であるかはほとんど分かっていないのが現状で、それが考古学・歴史学の常識でも有る。

実際に、天皇陵として比定されていない古墳で、確実に大王墓である古墳が数多く有る。
例えば箸墓(280m)・西殿塚(220m)・メスリ山(230m)・桜井茶臼山古墳(210m)・土師ニサンザイ(290m)・今城塚(190m)・見瀬丸山(310m)・牽牛子塚(八角墳)など。

纏向の5つの纏向型の前方後円墳もその当時の首長の墓であることは間違いないと思われる。


天皇あれこれー安康天皇に纏わるストーリーとは!

2011年12月21日 | 歴史
安康天皇に纏わる権力抗争について続けます。

允恭天皇の崩御後、同母兄の木梨軽皇子(きなしのかるのみこ)が皇太子に立てられていたが、彼は同母妹と近親相姦の罪を犯し、人臣は穴穂命(あなほのみこと)に荷担したため、木梨軽皇子を討って允恭42年(453)、穴穂命・安康天皇は石上穴穂宮(いそのかみのあなほのみや:奈良県天理市田町)に即位した。



天理市田町の石上穴穂宮。

しかし安康天皇も近親相姦をしていたのではないかという説がある。これは、『古事記』では大草香皇子(おおくさかのみこ)を殺した後に妻にした皇后が、同母姉であるはずの長田大娘皇女とされている。

安康天皇は、弟の大泊瀬皇子(おおはつせのみこと:雄略天皇)の后に、幡梭皇女(はたびのひめみこ:仁徳天皇の皇女)を貰いたい旨、その兄の大草香皇子に申し入れるが、根使主(ねのおみ)と言う家臣が大草香皇子の献上品を着服したにも拘らず、安康天皇に虚偽の報告をしたため、大草香皇子を殺害してしまう。

そしてその妻、中磯皇女(なかしひめ)を宮中に召し抱え皇后とした。

しかし、安康3年(456)、安康天皇が山宮に遊んだ時、大草香皇子の遺児で中磯皇女の連れ子であった眉輪王(まよわのおおきみ)に、皇后の膝枕で寝ているところを刺し殺されてしまう。

兄安康天皇の死を知った大泊瀬皇子は、境黒彦皇子(さかいのくろひこのみこ)・八釣白彦皇子(やつりのしろひこのみこ)の二人の兄に眉輪王を討とうと持ちかけるが断られ、軍勢を率いて眉輪王を滅ぼし、二人の兄をも殺害してしまう。

更に、従兄の市辺押磐皇子(いちのへのおしはのみこと読み、父允恭の兄、履中天皇の子)も滅ぼし、21代雄略天皇となる。

この時、市辺押磐皇子の皇子二人は播磨の国に逃亡し、「播磨国風土記」等に新たな物語を生むが、後に23代・顕宗、24代仁賢天皇として再び日本書紀に登場する。

安康天皇は生存中、市辺皇子に皇位をゆずる約束をしていたが、弟の大泊瀬皇子(雄略天皇)は、皇位につくため、市辺皇子を狩に誘い射殺するのである。

しかし雄略天皇の次の清寧(せいねい)天皇に皇子がなかったので、側近は播磨の国にいた市辺押磐皇子の二子を探し出して皇位につけた。顕宗天皇(弟)と仁賢天皇(兄)である。

「日本書紀」を読むと、このあたりの権力抗争にまつわる展開と因縁は物語として非常におもしろい。

古代皇族のなかにあって雄略天皇、市辺押磐皇子ともにその実在性は非常に高いとされており、各地に故地、故址が残っている。

従って、書かれている物語もその信憑性は高いと考えられている。



天皇あれこれー奈良県宝来町の安康天皇に纏わるストーリーとは!

2011年12月19日 | 歴史
安康天皇に纏わるストーリーを続けます。

そこで、安康天皇の父・允恭天皇陵を、以下紹介する。

大阪府藤井寺市の市野山古墳・允恭天皇陵は、国府台地の北端に築造された墳丘長約227m・後円部径約140m・前方部幅約160m・前方部の高さ23.3m・後円部の高さ22.3mほどの全国第20位の前方後円墳。

允恭天皇陵と呼ばれているが、陵名は惠我長野北陵(えがのながののきたのみささぎ)で、宮内庁によって第19代允恭天皇の陵墓に比定されている。









写真は、市野山古墳・允恭天皇陵の空撮、同入口光景、同天皇陵後円部から望む前方部光景、前方部から望む後円部方面光景。

允恭天皇は、17代履中天皇と18代反正天皇の弟で、「倭の五王」の内の「済王」とされている。

「宗書」倭国伝によれば、443年に倭国の済王が使者を派遣し、貢ぎ物を贈り、「珍王」をしのぐ「6国の諸軍安東将軍・倭国王」という高位に任ぜられたとある。更に451年には宋朝・文帝から「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」を加号されたと云う。

北に向いた前方部がやや開き気味なため、墳丘の周りに掘られた周濠の外肩もやや広がっている。墓山古墳や太田茶臼山古墳(継体陵)ときわめてよく似た平面プランで造られていて、規模もほぼ同じであるという。

その整美な外観は、古墳時代中期の代表的な墳形であると言われている。

出土した埴輪などから、築造年代は5世紀後半とされるが、近くに国府八幡神社、唐櫃山古墳・長持山古墳・衣縫塚古墳などがある。

前方部を北に向け、墳丘は3段築成で、くびれ部両側に造出しを備えている。周囲には幅25~40mの内濠と外堤、さらにその外側に溝をめぐらせている。

外側の溝は後円部や前方部側では確認されていないため、全周しない可能性がある。

この外堤の上部平坦面の幅はほぼ20mで、これは後円部側の周濠の幅約40mの半分に相当する。

さらに、外堤の外側に18m~20m幅の外周溝が存在したことが判明しており、この溝と堤で約40m幅の周庭帯を造っていたことになる。

外堤の周りに溝が掘られていたことから、二重周濠を持つ古墳ではないかとされているが、溝は0.6~2.0mと底が浅く、しかも南から北へ丘陵が大きく傾斜しているため、水を湛えていることはなかったとされている。

内部施設や副葬品については不明で、外堤上で円筒埴輪列は確認されていないが、外側の溝から埴輪が出土していると云う。





写真は、允恭天皇陵周濠外堤が民家に占領されている光景及び後円部外堤に建てられた民家群。

外堤の調査によって、この堤の上で奈良時代の遺構が見つかっている。

ということは、奈良時代には王陵として認識されておらず、当時から古墳の領域に人々が住み着いていたことを示している。





写真は、允恭天皇陵の宮の南陪及び国府八幡神社の桜木間から覗く同天皇陵の宮の南陪遠景。

本古墳は周囲に8基の陪塚が築かれている。1基の方墳以外は、すべて円墳か小型前方後円墳。

出土した埴輪は、窖窯(“あながま”と読み、登窯の意)で焼成された製品で、円筒埴輪のほか家・盾・靱・蓋・人物等の形象埴輪が出土している。

円筒埴輪の特徴は、誉田御廟山古墳(応神天皇陵)のものよりかなり退化が進んでおり、むしろ岡ミサンザイ古墳(仲哀天皇陵)のものに近いとされる。

従来の埴輪編年によれば5世紀末とされているが、最近では5世紀中葉とする説が有力。

これは倭の五王「済」の年代と近く、「済」を允恭天皇に比定する説が有力なことから、市野山古墳=允恭天皇御陵という宮内庁の考えも、あながち的外れではないのでは、と見られている。


天皇あれこれー奈良県宝来町の安康天皇とは!そのⅠ

2011年12月16日 | 歴史
ここからは、歴代天皇のうち、話題の多い天皇を取上げる。

奈良市宝来町の安康天皇陵は、宝来山古墳・第11代・垂仁天皇の御陵を過ぎて西に1kmほどの住宅地の小高い丘の上にある。

第20代・安康天皇(穴穂命 あなほのみこと)は、第19代・允恭天皇の第二皇子で、仁徳天皇の孫にあたる。

また、弟には第21代・雄略天皇(大泊瀬皇子 おおはつせのみこと)がいる。









写真は、奈良市宝来町の安康天皇陵が所在する周辺環境、同天皇陵正面入口の光景、同天皇陵が無理して造られた正面サイドの狭い周濠光景、同天皇陵と隣り合わせの民家。

安康天皇陵・菅原伏見西陵(すがはらのふしみのにしのみささぎ)は、近年の調査結果から、古墳ではなく中世の山城とする見方が強いが、写真のように後付で造られたような、狭い方形周濠が巡らされている。

在位は允恭天皇42年(453)~ 安康天皇3年(456)まで、中国の『宋書』・『梁書』に記される「倭の五王」中の倭王興に比定されている。

456年、安康天皇は皇后・中蒂姫(なかしひめ)の連れ子・眉輪王(まよわのおおきみ)により暗殺されたと伝えられている。

安康天皇の家臣の虚偽報告をまともに受けて、身内の皇子を間違って誅殺してしまったと云うように、いわば謀反の犠牲になったという意味で、恥じらいを招くような出来事であった。

応神⇒仁徳 ⇒履中⇒反正⇒允恭 ⇒安康⇒継体と続く一連の「河内王朝」と呼ばれる系譜に含まれる一人で、他の6人の陵はいずれも、巨大な前方後円墳に治定されているのに比べると、安康天皇陵はあまりにも小さくて不自然。





写真は、安康天皇陵の形式的な門扉の様子と同天皇陵の土塁のような小丘陵。

1998年に発掘したところ、発掘現場からは古墳と確認できる陶磁器片・葺石・埴輪などの資料は、出土されなかったことからも、「古墳ではなく中世の山城ではないか、元来小領主の館であったものを大阪の陣で徳川方がその拠点として改修した砦の跡ではないか」との見方が出ている。

地名も“字古城”ということで、天皇陵というのは誤りと考えられる。

『記・紀』ともに菅原の伏見(奈良市菅原町伏見)にあるとしているが、現実には、それらしいものさえない。

天皇在任期間がわずか2年余りで、際立った功績もなく、むしろ恥らうべき最期を自ら招いてしまったことから、忘れられて欲しい天皇の烙印を押されたことから、天皇陵も造営されなかったかもしれない。

一説に寄れば、允恭と安康はもともと一人の天皇であることから、允恭天皇陵(市野山古墳或いは恵我長野北陵とも呼ばれる)がある以上、さらに安康陵があれば、それこそ不思議であるとの説であるが・・・。

現に父・允恭天皇陵及び弟・雄略天皇陵とも、藤井寺市に所在しているのに対して、20km以上も離れた、奈良市宝来町に現存する安康天皇陵はその真実性が疑われても仕方がない。




古墳あれこれー前方後円墳の伝播とその推進力とは!続編Ⅶ

2011年12月13日 | 歴史
前方後円墳陸路伝播ルートの探索を続けます。

群馬県高崎市の綿貫観音山古墳は、高崎市綿貫町にある古墳時代後期の前方後円墳で、副葬品はきわめて豊富。

本古墳は、高崎市の市街地の東方6kmにあり、井野川西岸の平野に立地し、北面して築造されている。

6世紀後半、薬師塚古墳造営中に榛名山の噴火が起こり、墳丘と一重濠まで完成し、二重濠の築造中に中断したらしい。





写真は、綿貫観音山古墳全景及び同古墳墳丘の様子。

本古墳の規模は、墳丘長約97m・後円部径約61m・高さ9.6m・前方部幅約64m・高さ9.4mmを有し、二段築成で、二重の馬蹄形の周堀を持ち、また、前方部の幅と後円部の径、前方部の高さと後円部の高さはほぼ等しい数値を示しており、きわめて整然とした形態を有している。







写真は、復元された綿貫観音山古墳の上空写真、同古墳の実測図及び大阪羽曳野市の誉田御廟山古墳実測図。

同時代、ヤマト政権・応神天皇と系譜関係を結んでいた、綿貫観音山古墳被葬者との強固な絆が窺い知れる。

榛名山の噴火・降灰のため、その後支配拠点を東方に移したらしく、綿貫観音山古墳は6世紀末から7世紀初頭の時期に築造されたにもかかわらず、保渡田古墳群と全く同一設計・同大の5区型設計の古墳で、その首長系列とヤマトの5区型大王との強固な紐帯を引続き窺わせる。

出土した副葬品や須恵器の特徴から、6世紀後半以降の造営と見られている。

墳丘上の各所には埴輪を配置しているが、葺石は全く認められない。1973年(昭和48年)に「観音山古墳」として国の史跡に指定され、現在は史跡公園として整備されていると云う。

横穴式石室の開口部から前方部にかけて中段テラスに配列された形象埴輪は、新首長の首長権継承儀礼ではないかと考えられている。

あぐらをかいて座している男子に容器を差し出す女子、そのそばに三人の女子、靫を背負う男子三体の集団が中核集団になっている。



写真は、綿貫観音山古墳から出土した首長埴輪。

さらに、付き従う皮袋をもつ女子、威儀を正した女子、盛装男子、甲冑武人、農夫、盾を持つ人などが続いている。わが国の多くの埴輪人物像の例中でも、きわめて稀例に属するもの。

この中核場面と離れた前方部に飾り馬が並べられ、後円部頂には複数の家形埴輪や鶏の動物埴輪・器財埴輪が立てられている。

埋葬施設としては、後円部中段に両袖型横穴式石室があり、西南に向かって開口するように設けられており、石室内はほぼ埋葬当時の状態を保っている。



写真は、綿貫観音山古墳玄室内部の様子。

石室の規模は群馬県最大で、全長12.65m・玄室の長さ8.12m・奥の幅3.95mなど。

壁石は角閃安山岩が使用され、天井石には牛伏砂岩と呼ばれる石が使われている。

石室の崩落が、後世の盗掘から内部を護る役目を果たしたと云える。重さは最大で22トンあるが、古墳の周りには巨大な石は見当たらないと云う。

1968(昭和 43)年の春から冬にかけて群馬県教育委員会が、保存を前提とした学術調査を行った。

その結果、玄室からは2枚の銅鏡、金製・銀製・ガラス製の装身具、大刀、小刀、刀子、矛、鉄鏃、冑、挂甲などの武具、金銅製轡、鞍、鐙、雲珠などの馬具、須恵器の大甕、壺、坏、土師器の壺、高杯、銅製の水瓶などの容器類が見つかっており、副葬品の総数は500点を越える。

2面出土した銅鏡のうちの一面は、面径23.3cmの獣帯鏡で中国製と推定される。

後年、韓国の公州で偶然発見された百済・武寧王陵の石室内から出土した獣帯鏡と、同笵鏡であることが判明。

『日本書紀』にも登場する百済王の副葬鏡と、史的因縁の糸で結ばれている点は注目に値する。



写真は、綿貫観音山古墳から出土した、中国製の金銅製馬具。

古墳の副葬品の中で特筆すべきことは、きらびやかな馬具類の多いことであり、本古墳の副葬品ほど絢爛豪華な内容を示す例は、ほかにない。

更にこれらの武器・武具や装身具・馬具類などの副葬品は、観音山古墳に埋葬された当時の最有力首長の政治的優位性を示している。

それは古代の上毛野に君臨したばかりか、大和政権との政治的な関係も濃く、その遺品からは中国・朝鮮と古代日本との密接な歴史舞台を物語っていると云える。

以上のように、古墳築造企画の基本パターン図は、墳丘の大小にかかわらず、比例図法的に多様な前方後円墳に適用され、その設計・企画を解読することが出来る。

ということで、地域に分布する前方後円墳の築造企画を比較・対比することによって、当時の王統の勢力や影響力の伝播とそのルート、ヤマト大王地と地域豪族との同盟・服属関係、政治地図などが窺い知れる。






古墳あれこれー前方後円墳の伝播とその推進力とは!続編Ⅵ

2011年12月10日 | 歴史
群馬県高崎市の保渡田古墳群のうち、八幡古墳と薬師古墳を以下紹介する。









写真は、復元された八幡塚古墳光景、同古墳墳丘の様子、同古墳上空写真及び大阪羽曳野市の誉田御廟山古墳実測図。

八幡塚古墳は、墳丘長102m・後円部径56m・高さ現存約6m・前方部幅53mで、高さは削平されて分からないと云う。

双方とも、5区型の築造企画を共有する関係で、ヤマト王権の権力の伝播・勢力図の拡がりが窺い知れる。

周濠は馬蹄形で二重に取り巻いている。内濠部のくびれ部と後円部後側に4基の中島が配置され、墳丘には葺き石が葺かれ、円筒埴輪列が墳丘裾部・中島裾部・中堤縁に見られ、人物類・ウマ・イノシシ・水鳥・ニワトリなどの形象埴輪が前方部前面中堤上の方形に区画された部分から出土している。

埴輪祭祀の一つの表現様式として注目されている。

八幡塚古墳は、平成8年度から平成11年度までの4ヶ年をかけて保存復元整備された。

大型古墳の復元整備としては、関東以北では初めてのもので、墳丘部や内濠のなかにある中島の法面には葺石を施し、後円部内には石棺展示施設も設置されている。

また、内堤上には54体の人物・動物埴輪等が配置された「形象埴輪配列区」があり、墳頂部や中島等に円筒埴輪が巡らされている。

八幡塚古墳は、後円部に舟形石棺と砂利層が露出しており、石槨が存在したと推測されているが、詳細は明らかでない。

副葬品は鉄地金銅張、f字形鏡板の轡と同剣菱形杏葉、小石槨から鉄刀片、甲冑片が出土したとの伝承がある。

また、墳丘東側くびれ部の中島から高杯の土師器が出土しているが、初期須恵器高杯を模造したもので、古墳時代後期の初めと推測されている。



写真は、薬師塚古墳全景。

薬師塚古墳は、墳丘部が西小寺の堂宇や墓地のため、南側から東側にかけてかなり削り取られている。

墳丘長100mを超え、二重に周壕を巡らしていたと推定されている。葺石が葺かれ、埴輪類が配されていたらしい。

薬師塚古墳は、1683年に発掘されたとされる凝灰岩製の長さ2.9mの舟形石棺が後円部頂部に保存されている。

その時に出土した仿製内行花文鏡・鋳銅製馬具類・玉類などが西光寺に伝来・保管されており、重要文化財に指定されている。

薬師塚古墳出土の馬具等の国重要文化財の一部は、隣接する「かみつけの里博物館」で展示されていると云う。

これら3基の古墳とも5区型の築造企画を持ち、ヤマト政権の誉田大王・応神天皇の東国への覇権進出の負託を受け、当地地域豪族と系譜関係を結んで、地域の基盤安定を図ったと見られる。




古墳あれこれー前方後円墳の伝播とその推進力とは!続編Ⅴ

2011年12月08日 | 歴史
5区型のヤマト大王墓墳形を陸路経由で、関東地方まで伝播した事例を、引続き以下紹介する。

保渡田古墳群は、群馬県群馬町(現・高崎市)保渡田・井出に所在し、榛名山の南麓に分布している。

保渡田・井出にまたがる田園のなかに大きな丘が3つ点在する。

これが保渡田古墳群で、古墳群の中央を東西に走る道路から南にみえるのが二子山古墳、北東に八幡塚古墳、北側で西光寺を載せるのが薬師塚古墳。



写真は、保渡田古墳群の見取図。

これらは、前方後円墳という形で、約1500年前の豪族が葬られた墓で、いずれも墳丘長約100mで、広大な二重の堀を巡らし、多量の埴輪を立て並べていた。東日本でも有数の古墳として知られている。

築造年代は、5世紀代の後半も終わりに近い頃から、6世紀前半代にかけてであり、二子山古墳・八幡塚古墳・薬師塚古墳の順に造営されたと推定されている。

この時期、ヤマト政権で誉田御廟山古墳・応神陵が出現し、誉田大王・応神天皇の東国への覇権進出の負託を受け、擬制的な系譜関係を結んで、地域豪族として地域の基盤安定を図ったと想像される。





写真は、二子山古墳全景及び同古墳現地説明会の模様。

二子山古墳は、全長108m・後円部径74m・高さ10mほど、墳丘部が三段築成で、前方部幅71m・高さ7mほど。周濠は馬蹄形で二重に造られており、内濠部に後円部を囲むようにくびれ部と斜面側後方部分に中島を4基配置している。

墳丘・中島・中低部とも川原石で葺石と埴輪円筒列を巡らしている。

墳丘北側の中堤部分の一角から外濠西北隅の外側部分に人物埴輪・飾馬・イノシシ・イヌ・盾・蓋・家などの形象埴輪を配置した区画が見つかっている。

二子山古墳の主体部は、後円部頂部のほぼ中央にあり、川原石を積んだ竪穴式石室で、舟形石棺を置いているが破壊されており、鉄鏃片などの出土が知られているにすぎない。




古墳あれこれー前方後円墳の伝播とその推進力とは!続編Ⅳ

2011年12月06日 | 歴史
陸路型伝播ルートの事例を更に続けます。

応神天皇陵・誉田御廟山古墳は、大阪羽曳野市と藤井寺市にまたがる古市古墳群の一つ、5区型の築造企画で、推定築造は5世紀前半。

墳丘規模は、墳長約425m・後円部径約256m・高さ36m・前方部幅約330m・高さ約35mほどで、後円部と前方部とも三段築成で造り出しを持ち、盾形の二重周濠と周提が巡り、総長は700mほどと巨大な古墳。

堺市の墳長約486mの大山古墳(仁徳陵)に次いで国内2番目に大きい。

日本考古学協会など考古・歴史学16学会の研究者が平成23年2月24日、羽曳野市の応神陵・誉田御廟山古墳への立ち入り調査を実施した。

古代の天皇陵に、研究者が正式に立ち入るのは今回が初めて。

陵墓への立ち入りを原則禁じている宮内庁が、学会側の要望に応えて周濠外側の内堤部分のみに限定し許可した。

宮内庁は、陵墓の調査について2008年の五社神(ごさし)古墳(神功皇后陵)から順次許可しており、今回が5件目。





写真は、誉田御廟山古墳・応神陵の上空写真及び同古墳の実測図。

墳形は6区型の築造企画で、誉田大王の東国への覇権進出の負託を受け、擬制的な系譜関係を結んで、地域の豪族がヤマト政権に服属し、安定的な基盤をはかった様子が窺える。

応神天皇に纏わる伝説が数多くあるが、以下は東征に向けての逸話を紹介する。

九州生まれの“誉田別尊”(ほむたわけのみこと)は瀬戸内海を東進し、近畿入りを阻む勢力をうち負かし、難波に上陸して応神天皇となり王権を打ち立てた、と書記は伝えている。

この逸話を以て、神武東征(初代天皇である神武天皇が日向を発ち、大和を征服して橿原宮で即位するまでの日本神話の説話)との共通点を指摘する意見は多い。

何らかの勢力が九州から来て近畿に新王権を樹立した、と言うわけ。

応神天皇は、朝鮮半島との交流を深めると共に、国内では東国への進出が行われた。

そうした朝廷の発展の勢い、ことに軍事的なパワーが、応神天皇の八幡神の性格に強く反映されているというのが定説になっている。

八幡神の名が一般によく知られるようになっていくが、その後、源氏の氏神とされて、霊威も強力な武神として祀られている。

「騎馬民族征服説」では、崇神天皇の時代に第一次の渡来が行われ、騎馬民族が朝鮮半島を経由して筑紫(北九州)に来たという。

その時のリーダーが崇神天皇で、それから5代後に、応神天皇をリーダーとする集団が筑紫から近畿に入り、現在の天皇家につながる礎を築いたと主張する。

従って、実在した最初の天皇は崇神天皇であるという事になる。神武東征はこの史実の反映だと言う。

他にも、応神天皇が実際に九州から来たという意見を持つ学者も多い。書記は、応神天皇と朝鮮半島の強い結びつきを記述しているが、これらは、応神天皇もしくはその遠くない先祖達が朝鮮半島から来たという事を示していると言う。

養蚕技術を伝えたとされる秦(はた)氏や、倭漢直(やまとのみやのあたい)氏の先祖達も渡来してきたと考えられており、一大集団が日本列島を目指して大陸・半島からやってきたことはほぼ確実である。

高句麗の侵攻によって迫害された朝鮮半島の人々の集団は、多くの技術や文化をたずさえて日本列島へ渡来してきたのである。

職工や機織り・酒造りの技術者なども多数来日し、日本文化の技術革新に多大の貢献をしたものと思われる。

この他日本書紀の応神紀には、引き続いて竹内宿禰の活躍や、百済征伐譚や、蘇我氏の祖満智(まち)にまつわる話、大鷦鷯皇子(おほさざきと読み、仁徳天皇のこと)と大山守皇子(応神天皇の皇子)を呼んで世継ぎに関するテストをした話など、色々と逸話を残している。



古墳あれこれー前方後円墳の伝播とその推進力とは!続編Ⅲ

2011年12月04日 | 歴史
陸路伝播ルートについて、続けます。

浅間山古墳は、群馬県高崎市倉賀野町に所在する、古墳時代中期(5世紀前半)の東国屈指の大規模な前方後円墳で、1927年(昭和2年)4月に国の史跡に指定された。

東山道は陸路を経由してヤマトから東国に至る重要なルートであった。

碓氷峠(群馬県安中市松井田町と長野県北佐久郡軽井沢町との境にある峠)を
越えて東国への入口が上毛野であり、ヤマトから関東平野への最初の関門で、この関門が現在の高崎市周辺となる。

浅間山古墳は、高崎市の東南の平野部に位置する。倉賀野町に所在する大鶴巻古墳(全長122m、国の史跡)・小鶴巻古墳(全長80m)など、他の前方後円墳のなかでも最大規模を有する。

付近には古墳時代初期から後期にかけて各時期の古墳群が形成されている。

本古墳の周辺は「佐野の屯倉(みやけ)」が置かれていたと考えられており、大鶴巻古墳や小鶴巻古墳などを含む大古墳群が造られている。





写真は、浅間山古墳のサイドビューと後円部墳丘の様子。

それらの中で、浅間山古墳は最大の前方後円墳で、群馬県内でも太田市の天神山古墳に次いで第2位の大きさを誇っている。

埴輪には鰭付円筒埴輪や、盾などの器材埴輪も含まれている。

墳丘の全長171.5m・後円部径105.2m・前方部幅74.8m・高さは後円部14.1m・前方部5.5mの規模を有する。





写真は、空撮による浅間山古墳空撮及び行燈山古墳(崇神陵)の平面図。

いずれも、5区型の古墳形態で、浅間山古墳は5世紀前半の古墳、行燈山古墳の4世紀後半に遅れるが、築造企画はシッカリと継承している。

高崎市周辺には、5区型の築造企画を持つ前方後円墳の分布が多く見られるのは、ヤマト大王時代にこの陸路ルートが重視され・整備された背景が窺える。

前方部を南東に向けており、墳丘は二段築成で、後円部頂径およそ15mほど。葺石が葺かれ、円筒埴輪および形象埴輪(器財・家形埴輪)が並んでいたと考えられている。

周りには、幅約30mの周濠とその外側に20~30m幅の中堤を巡らし、さらに外濠も造っていたものと推測されている。濠も含めた全長は250m・幅170mに達する。

埋葬施設は明確でないが、竪穴形の粘土槨である可能性が指摘されている。




古墳あれこれー前方後円墳の伝播とその推進力とは!続編Ⅱ

2011年12月02日 | 歴史
引続き、前方後円墳陸路の伝播ルートを探索します。

先ずはヤマト王朝の前方後円墳原型を辿りますと、
第10代崇神天皇陵は、山の辺の道に沿った代表的な観光スポットで、全長約240mに亘る堂々とした、古墳時代前期・4世紀後半築造の前方後円墳であり、深い緑の水をたたえた濠が美しく静まる。

この小高い丘陵から眺める大和平野と金剛山、大和三山(耳成山、天香久山、畝傍山)、二上山、生駒山等の山々、誠に悠然たる気分になる。

169号線こそ走っているものの農地に囲まれ、墳丘墓の環境は抜群と言える。

169号線沿道の広告用看板等は、風致規制の対象で禁止され、環境保全に対する入念な気遣いが感じ取れる。









写真は、崇神天皇陵の宮内庁管理柵の様子、同柵越えに望む崇神天皇陵光景、水濠に巡まされた同天皇陵遠景及び同天皇陵脇の陪塚光景。

崇神天皇陵は、長岳寺から徒歩10分、黒塚古墳からも徒歩10分、直ぐ後ろには櫛山古墳があり、山辺の道散策コース・スポットの一つ。



写真は、崇神天皇陵の周濠光景。

同天皇陵は、大和の山々を背景に、水鳥が舞う瑞々しい外濠池の環境保全だけでも大変だと思われる。

見事に管理・維持されている代表的天皇陵の一つと云える。