近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

福井県若狭町鳥浜貝塚の土砂災害傷跡とは?縄文人も苦しむ?

2012年10月30日 | 歴史
引続き古墳巡りから離れ、近年話題になった遺跡を紹介します。

鳥浜貝塚は福井県若狭町に所在する縄文時代草創期から前期にかけて(今から約12,000~5,000年前)の集落遺跡で、保存良好な木製遺物等1,376点が国の重要文化財に指定されている。

これら遺物は、若狭町の若狭三方縄文博物館に展示されている。





写真は、鳥浜貝塚が眠るはす川と高瀬川交流地点の遺跡現場遠景と発掘現場の高瀬川川床跡。

本遺跡は、若狭町内をほぼ南北に流れるはす川とその支流高瀬川の合流地点一帯に広がっている。その規模は東西約100m、南北約60mの半月状と想定されている。

当時は、椎山丘陵が西方から東方へ岬のように延びていて、三方湖はその丘陵の先端付近まで湾入していたと云う。

その湖畔に鳥浜人が居住していたのであり、 今の若狭地方の拠点的集落であったのではないかと考えられている。

貝塚は地下3mから7mの深いところに残っていたらしい。



写真は、土砂災害による転居先と見られる居住地跡。

丸木舟や土器などが大量に出土し、「縄文のタイムカプセル」と呼ばれる福井県若狭町の鳥浜貝塚で形成されていた集落が、縄文時代前期の約5千年前、土砂災害のために近隣に引っ越したとみられることが分かった。

同町立若狭三方縄文博物館の調査で、約500m離れた当時の湖岸付近に、移転先の可能性が高い住居跡が確認された。

鳥浜貝塚は1万2千~5千年前の集落跡で、櫛などの漆製品や籠、布も見つかり、出土品1376点は国の重要文化財に一括指定されている。

ただ、この時期よりも新しい遺物はほとんど発見されていないと云う。

今回の調査は、貝塚の西方にあり、「古三方湖」と呼ばれる当時の湖の岸辺に位置する「ユリ遺跡」で、縄文中~後期(4500~3500年前)の住居跡を発見。

1990年から過去4回の調査で計9隻の丸木舟が出土していたが、遺跡が集落跡であることが今回、初めて確認された。

住居跡は奥行き6m、幅5mで、楕円形に配置された柱穴が10カ所あり、中央付近に炉の跡とみられる赤茶けたくぼみがあった。

少し後の時代の住居跡らしい遺構の一部も確認され、狩猟具のやじり、漁網のおもり、木の実をすりつぶす石なども出土した。

鳥浜貝塚の同時代の地層には大小の岩や木片が数十cmの厚さで堆積。

裏手の丘陵が崩壊し、土砂災害に見舞われた可能性が高いとされていた。

同博物館は「集落ごと移住したとみて間違いない。ユリ遺跡は山すその湖畔にあり、南向きだったので暮らしやすかったのだろう」と話している。



堺市の南宗寺と徳川家康伝説とは!そのⅡ

2012年10月25日 | 歴史
堺市の南宗寺と徳川家康伝説について、更に続けます。

先ずは、家康の墓碑について、概観してみよう。





写真は、南宗寺内に再建された家康の墓所全容及び御廟内に配置された家康の墓石碑。

石碑は東照宮跡とされ、昭和20年戦災で焼失した堺東照宮の跡に、水戸徳川家の家老末裔・三木啓次郎が再建したもので、寄贈者には松下幸之助の名も刻まれている。

大坂夏の陣で、徳川家康が後藤又兵衛の刃に倒れ、ここに辿り着き亡くなったという伝説に基づく。

後藤又兵衛は、最初は播磨の別所氏に仕えていたが、のち、黒田如水親子に仕えて勇猛で知られていたと云う。

後藤又兵衛は、豊前国中津城主黒田氏の筑前入封後、1万6千石を領し筑前小隈城主となるが、黒田長政とはそりが合わなかったため浪人となる。

その後、大坂の陣の際に豊臣氏の招きを受けて大坂に入城。大阪柏原市の玉手山は、夏の陣の戦端が開かれた地であり、豊臣方の先陣・後藤又兵衛基次が、徳川方の大軍を迎え撃ち、道明寺河原の戦いで戦死したとされる。





徳川墓陵には、写真のように、葵の御紋が残る瓦や大坂夏の陣の時、真田幸村の奇襲を受けて輿にのって逃げ出した家康伝説が残る。

南宗寺史によると、大坂夏の陣の時、家康は、現在の大阪天王寺公園内にある茶臼山における激戦に敗れて、網代駕籠に乗って堺に逃げる途中、後藤又兵衛の槍に倒れた。

大坂夏の陣では豊臣方の毛利勝永は、徳川軍の先鋒である本多忠朝を討ち取り、家康の本陣向けて一気に突撃! 

加えて、真田信繁(幸村)も家康めがけて一直線に突撃を開始。家康本陣に肉薄し、家康は「これはもうだめだ!」と、二度も自害することを考えたほど。

しかし家康が後藤又兵衛の槍に倒れたことは全て秘密にして、遺骸を南宗寺開山堂下に隠し、徳川の世になってから、久能山に改葬し、更に日光山東照宮に移送したと云う伝説が記載されている。



このことは、史実として、二代将軍・秀忠、三代将軍・家光が相次いで本寺を参詣しているところがこの伝説の面白いところで、写真のように徳川家の家紋・葵の紋が瓦に表現されている。

写真は、南宗寺内の坐雲亭。この鐘楼のような建物が、南宗寺で最も古い建物と云われている。

坐雲亭のパネルには、「徳川二代将軍秀忠が1623年7月10日に、1ヵ月後の8月18日に、三代将軍家光が相次いでこの南宗寺を訪れている」と云うことが書かれているらしい。

大坂夏の陣から8年が経過、復興なった堺の町を視察ながら、家康に将軍交替の引継報告に参ったかもしれない。

ところで、なぜ後藤又兵衛が輿を槍で刺したのに、家康の首を捕れなかったかというと、輿から抜いた槍に血が付いてなかったからと云われ、それは輿の中の家康が体から槍が抜ける時に服の布で槍に付着した血を拭きとったからという伝説が残る。

家康死亡の説はいくつかあり、通説では元和2年(1616)に駿府にて胃癌が原因で死亡となっている。他には鯛のてんぷらを食べすぎて死亡した説や大坂夏の陣で討ち取られて死亡した説等々、更には関ヶ原死亡説まである。

その中で関西地方には大坂夏の陣死亡説が江戸期から根強く残り、南宗寺の伝説もそのひとつ。

南宗寺の伝説は大坂方、真田幸村の猛攻にあい家康が女の輿に隠れて逃げる最中、豊臣方の後藤又兵衛が怪しいと輿に槍を入れ、その時に傷を負い大久保彦左衛門の手当てむなしく死亡、南宗寺に葬ったというものだが、詳細はいろいろな説があるらしい。

この伝説の後藤又兵衛は前日に戦死しているので本当?かどうか怪しいところでもある。

関が原にせよ、夏の陣にせよ、若し家康が死んでいたとしたら、その後、それを隠し通して、幕府開闢までもって行った家臣団の組織力はすごいもの。

また、徳川家康の墓と大書して憚らない寺の姿勢もまた、大阪らしくて、なんとなくユーモラスにも思える。





大阪堺市の南宗寺と徳川家康伝説とは!そのⅠ

2012年10月17日 | 歴史
しばらく古墳巡りから離れて、最近話題になった遺跡・史跡を紹介します。

先ずは、大阪堺市の南宗寺にまつわる伝説について追跡してみたい。

家康伝説の墓があるという、大阪堺市堺区南旅篭町の大名刹・南宗寺、正式には臨済宗大徳寺派・龍興山南宗寺を探索します。

南宗寺は1526年大徳寺住職が南宋庵を興したのが始まりと云う。

今日まで消失・建立を繰返してきたが、現在大阪府下唯一の臨済宗専門道場として修業の場を提供していると云う。



写真は、南宗寺入口。

本寺の境内には国指定名勝の枯山水の庭、国指定重要文化財の仏殿・山門・唐門、千家一門の供養塔、利休ごのみの茶室・実相庵など歴史的、文化的価値の高い遺産、由緒ある墓所が並んでいる。

ここでは南宗寺に置かれる3つのお墓、三好長慶、武野紹鴎、徳川家康の墓を中心に散策してみる。



南宗寺に入るとすぐに現れたのが、写真の武野紹鴎の墓。

墓の穴の部分に耳を当てると何か聴こえてくるらしい。

武野紹鴎(たけのじょうおう)は千利休のお師匠さん。





写真は、南宗寺に残る利休一門の裏千家・表千家・武者小路千家の供養塔及び三好長慶と一族の墓。

写真中央が三好長慶の墓。信長より20数年前に堺を拠点に畿内など13ヵ国を治め、天下統一したのが三好一族。

元々南宗寺は、河内飯盛山城主・三好長慶の父・三好元長の菩提を弔うために創建された三好氏の菩提寺。



写真は、三好一族の供養塔の前に開山堂跡があった所。

この開山堂の床下に無名の墓石が眠っていたが、その右側の石板には、「無銘の塔、家康さん諾す、観自在」と刻まれていたらしく、徳川家康の墓として伝説に残る。

この墓標は関西人の秀吉贔屓から来た願望から、家康に死んで欲しかった現れかもしれない。

或いは関西人には、秀吉とあと一歩まで家康を追い詰めた真田幸村への思いを強くもっている方が多いからかも???



奈良県桜井市脇本遺跡の新発見とは!そのⅢ

2012年10月17日 | 歴史
桜井市の脇本遺跡の新発見について、更に続けます。

仲哀天皇陵の他にも雄略天皇陵とされ、松原市と羽曳野市を区画する行政の境界線上に位置している、“河内大塚古墳”は幅の広い濠に囲まれて雄大な姿を横たえ、台地上に築かれた大型の前方後円墳が所在する。





写真は左上から、“河内大塚古墳”全景、東北側ビュー。

墳丘の長さは約335mで、わが国で5番目の規模を誇り、堂々たる大王陵と見なされておかしくないが、歴代の天皇陵には比定されておらず、大正14年に陵墓参考地に指定された。

それ以後宮内庁の管理下にあるが、学術調査は今日まで行われていない。

本古墳が雄略天皇陵(在位456~479年)の可能性があるとされるが、平面の形状や埴輪の有無などから6世紀後半の築造と考えられ、年代的に合致しない。

これほどの巨大古墳を築くことができる権力を有した人物ならば、必ず記紀にその名が登場していて当然であるが、そのような人物は見あたらないと云う。

河内王朝は、応神からはじまり武烈までの11代にわたって現在の大阪府南部を基盤としていた巨大王権。

確かに、河内・和泉の大阪平野に、大仙古墳をはじめとして、政治的シンボルともいうべき巨大古墳が集中して築かれていることや難波に宮都が設けられていることから推して、大阪平野に強力な政治的基盤を有する権力が存在したことは事実。

しかし、この王権の実態をどのように捕らえるかは、専門家の間でも意見が分かれている。

九州の勢力が応神または仁徳の時代に征服者として畿内に入ったとする説がある。或いは瀬戸内の水上権を握って勢力を強めたこの地の自生勢力が、やがて大和へ入りそれまでの崇神王朝を打倒したとする説。

他方で、河内平野の開発などにともなう大和王権の進出と捉えるべきとする説などがある。

はたして真相や如何?



写真は、脇本遺跡出土の泊瀬斎宮建物跡と見られる柱穴。

更に天武天皇の娘、大来皇女(おおくのひめみこ)が滞在した「泊瀬斎宮(はつせのいつきのみや)」があったとされる奈良県桜井市の脇本遺跡で、7世紀後半ごろの建物跡も見つかった。

橿考研は「泊瀬斎宮の関連施設の可能性もある」としている。

日本書紀には、大来皇女が伊勢神宮に仕える前の天武2(673)年、泊瀬斎宮に滞在し、身を清めたと記述されている。

橿考研は今回の調査で、新たに東西約9m、南北約3mの範囲に「L」字型の柱列跡4個を確認した。

今回の調査地の東側エリアでは過去に、「コ」の字型の柱列跡を確認していたが、建物跡か判然としなかった。

今回の調査で、柱列跡を含む全体規模が東西約19m、南北約8mの大型掘立柱建物跡と判明した。 


奈良県桜井市の脇本遺跡の新発見とは!そのⅡ

2012年10月11日 | 歴史
桜井市の脇本遺跡の新発見について、更に続けます。

先ずは、泊瀬朝倉宮伝承地とされる白山神社について、





写真は、泊瀬朝倉宮伝承地とされる白山神社及び同神社境内。

白山神社は、今回第18次調査で発見された池状遺構・石積み遺構現場から、三輪山南麓沿いに東方面に向かった山麓段丘地帯。





写真は、泊瀬朝倉宮伝承地とされる同神社境内の看板及び万葉集発祥の地記念碑。

泊瀬朝倉宮の伝承地としては、桜井市黒崎の白山神社境内に「雄略天皇泊瀬朝倉宮伝承地」の碑が建立されている。

一方で前述の通り、1984年に、同市脇本にある脇本遺跡で、5世紀後半のものと推定される掘立柱建物の柱穴が発見されており、考古学的見地から朝倉宮の有力な候補地とされている。

いずれにしても、泊瀬朝倉宮はこの桜井市黒崎の白山神社から脇本付近までの段丘地にあったのではないかと推定されている。

写真の通り、万葉集発祥の地として、雄略天皇泊瀬朝倉宮伝承地の記念看板と共に残る。

「籠(こ)もよ み籠持(こも)ち・・・・・・家をも名をも」で知られる、この求婚の歌は雄略天皇作で、万葉集の巻頭に選ばれたことで有名。

万葉集の編纂に深く関係したとされる大伴家持が、政治的に華々しかった時代が5世紀であることから、雄略天皇の歌が選ばれたのではと云われている。

雄略天皇は古墳時代の5世紀後半に在位した21代天皇で、ヤマト王権の勢力拡大を進めたとされる。

脇本遺跡では、古墳時代の初めの銅鐸の破片などが出土しており、奈良盆地から東国に抜ける伊勢街道の起点であり、大和朝廷の成立以降、列島経営のための関所のような機能を果たしてきたのではと考えられている。

5世紀後半~6世紀初頭の時期と思われる大型掘立柱建物や石溝・柵列など宮殿跡も既に発掘されている。

今回見つかった池状遺構の底面は、南北の高さがほぼ水平で、水がたまった形跡はなかった。堆積物がたまらないように管理されていたか、そもそも水が無かったかは不明という。



写真は、脇本遺跡北側の三輪山南麓方面光景。

京都教育大の和田萃名誉教授は「周囲を囲む大溝という印象。景観や防御の要素もあるのではないか。東国へ行ける初瀬街道がある三輪山南麓の谷口に堀を巡らせ、威容を誇る王宮だったと想像できる」と話している。

雄略天皇の桜井市泊瀬朝倉宮のように、歴代天皇宮都の所在地のほとんどは大和盆地だが、河内王朝初代の第15代応神天皇、仁徳天皇、履中天皇そして4代目の第18代反正天皇までは、宮都が大和-河内-大和-河内と交互に入れ替わっている。この事実をどう理解したら良いのであろうか?

次に雄略天皇の陵墓について、見てみよう。



写真は、藤井寺市の第14代仲哀天皇陵前方部全景。近鉄南大阪線藤井寺駅南の商店街を抜けた所に所在するが、これこそが考古学的には真の雄略天皇陵と目されている。

全長約242m・後円部径約148m・高さ19.5m・前方部幅約182m・高さ約16m・周濠幅約50mの三段構築の大型前方後円墳で、古市古墳群では4番目の大きさ。

別名“岡ミサンザイ古墳”とも呼ばれ、羽曳野丘陵の北東部外縁に位置している。

横穴式石室を採用している可能性があること、また出土した円筒埴輪などから、5世紀後半の築造と考えられている。

このことからこの古墳こそ、前方後円墳が造営年代的にも、雄略天皇陵ではないかと云われている。

第14代仲哀天皇(在位:192~200年)陵にしては、余りに年代のずれがあり、かけ離れていると云える。




奈良桜井市の脇本遺跡南端に石積みの護岸発見 宮の周濠か?そのⅠ

2012年10月05日 | 歴史
ここで古墳巡りシリーズを中断し、先般9月29日に現地説明会がありました、奈良桜井市脇本遺跡のホットニュースを緊急レポートします。

脇本遺跡は、奈良盆地東南部、外鎌山と三輪山に挟まれた初瀬谷入口に立地し、日本書記に伝える雄略天皇の泊瀬朝倉宮(はつせあさくらのみや)の推定地。

昭和59年から発掘調査が開始され、これまでに古墳時代中期の5世紀後半・古墳時代後期の6世紀後半・飛鳥時代の7世紀後半の3時期にわたる大型掘立柱建物や柵などが確認されている。









写真は上から、桜井市脇本遺跡で9月29日に行われた現地説明会の光景と土坑から出土した壺・甕など土師器と須恵器。

今回の第18次調査では、調査地北半分で池状遺構、南岸で石積みを伴う護岸を検出した。

これら出土した土器の年代から、5世紀後半に築造され、6世紀後半に廃絶したと考えられている。





写真は、東西30m余りの池状遺構遠景及び石積み遺構近景。

池状遺構は、南岸では検出されたが、他の岸では確認できなかったと云う。

従って池状全形は不明だが、調査地周辺にこの池状遺構が広がっていたと考えらられる。

奈良県立橿原考古学研究所は9月24日、同県桜井市の脇本遺跡で、古墳時代中期(5世紀後半)に築かれた大規模な堀状遺構(南北60m以上・東西30m以上・深さ1.2m)と、その南端に石積みの護岸を発見したと発表した。

石積みは、約20〜30cm大の石がほぼ東西方向に約30mにわたって直線状に並び、遺構の底からの高さは約1.2mだった。

出土した器などの土器から、いずれも5世紀後半に造られ、6世紀後半の古墳時代後期にはなくなったとみられる。遺構や石積みは調査区域外に及ぶ可能性が高いという。

今回検出された石積み遺構は、古墳時代の豪族居館に伴う濠とその内側斜面に築かれた石積み遺構に良く似ているらしい。そのためこれらの遺構は、相当有力な人物の居館に伴う濠の可能性が高い。

大規模な池と石積み遺構はその護岸であったと考えられる。



写真は、脇本遺跡第17次調査で見つかった掘立柱建物跡。

今回の調査地すぐ北東の台地では、5世紀後半の造営である、雄略天皇の泊瀬朝倉宮(はつせあさくらのみや)に関連するとみられる大型掘立柱建物が見つかっており、専門家はこれらの遺構が宮の周濠や池だった可能性があるとしている。

本遺跡は交通の要衝に位置し、飛鳥時代以前の宮が集中した三輪山麓にある。

橿考研は「第33代推古天皇(在位:593~628年)が飛鳥に都を遷した後も、政権の重要施設が存在していたのではないか」としている。

静岡県三島市向山古墳とは!そのⅡ

2012年10月01日 | 歴史
向山古墳群巡りを続けます。

同古墳群の出土遺物は古墳の周囲から土師器が見つかっている。

これら13基の古墳が1ヶ所にまとまっているのは県内でも珍しく、5世紀から6世紀にかけて、北伊豆地方の有力豪族の墓と見られている。

向山古墳群16基の構築された時期は、5世紀中葉に1号墳・2号墳が造墓され、3号墳~16号墳は5世紀後半から6世紀前半までかかったと見られる。

これまでの調査の結果、古墳群はすべて横穴式石室導入以前の造墓であることが検証された。特に3号墳の小型前方後円墳は、6世紀前半の造墓らしい。

即ち向山古墳群を造墓した首長が、6世紀に至り、直接的に大和政権と政治的関係を強め、前方後円墳の造墓を許可されたものと考えられている。

本古墳B群は、13基の古墳うち前方後円墳1基を含む6基の古墳が完全な形で遺存している、県内屈指のもので、その価値として下記の諸点が指摘される。

(1)三島市に築造された幸原古墳群、塚原古墳群、夏梅木古墳群などの古墳群は、開発などにより壊滅あるいは壊滅に近い状況にあり、向山古墳群は三島市に残された唯一の古墳群であること。

(2)同時期に造営されたと見られる、韮山町の多田大塚古墳群に対し、向山古墳群は13基(消滅した2基を加えれば15基)と規模が格段に大きいこと。

(3)13基の古墳群の中にある全長約21.5mの前方後円墳は、旧伊豆国の中では初めて発見された古墳であること

以上のことから、向山を中心として、北伊豆地方の田方平野に有力な勢力が存在していたことを示し、古墳時代の伊豆地域の歴史を考える上で極めて重要な古墳群と云える。

発掘調査の結果、木棺直葬の主体部を有していることから、5世紀中葉の古墳群であることが明らかにされた。





写真は、向山3号墳から出土した刀子と鉄鏃。

本古墳群からは、鉄剣・鉄刀・鉄鏃などが出土している。その規模や出土遺物から伊豆の田方平野北部を支配していた首長の存在がうかがえる。

全国的に定型化した前方後円墳を有していることから、大和国家・大和朝廷との関係を知る上で重要な古墳群。

平成3年11月から翌4年1月までの調査の結果、5世紀から6世紀前半にかけての初期群集墳であることが追認され、さらに平成6年3月の調査では、向山古墳群の全体規模・位置関係を明確にするための、全体測量を実施したと言う。

測量調査の結果、各墓墳の墳形と位置関係が明確となり、向山古墳群B群が、東西390m・南北80mほどの範囲を有することが把握されたと云う。

平成16年度までに遺物整理作業が完了したため、今後はその調査結果を基に古墳公園の設計を行い、平成23年度以降の開園に向け準備を進めていく予定と云われている。