1868年正月、江戸城中は混乱に混乱を重ねていた。
主戦論者が次から次へとやってくる。大坂から撤退してきた慶喜に、フランス公使・ロッシュは、あくまで再挙兵を勧めたが、慶喜は辞退した。
徳川の恩義に報いるという幕臣の情に流されて、国内を戦乱の地にすることは絶対に避けなければならない。全ての主戦論者を退け、一切を勝海舟と大久保忠寛に託した。
慶喜は、ひたすら天皇に対する“恭順”を貫くため、自身を江戸城から上野寛永寺へ移し、蟄居謹慎生活に入った。
その後、静閑院宮(和宮)や天璋院(徳川家定の正室・大奥)をはじめ、徳川譜代の大名藩主などから夥しい数の嘆願書が朝廷に届いていた。
それらに対する回答は、西郷隆盛・参謀など、薩長同盟のリーダーの一存にかかっていた。
写真は、東京港区の有栖川宮公園に建てられた、有栖川宮熾仁親王の銅像。
1868年3月、“鳥羽伏見の戦い”で勝利した新政府軍は、有栖川宮熾仁親王を“東征大総督”に任命し、3月15日の“江戸総攻撃”を目指して、京をスタートした。
西郷は、“東征大総督参謀”に任命され、東海道を通り、同じく“江戸総攻撃”に向け、江戸を目指すことになった。
3月13日、西郷が江戸高輪の薩摩藩邸に入ると、江戸城処分を任せられた勝海舟・大久保忠寛が早速面会にやって来た。
西郷と勝は旧知の仲であった。西郷と勝は3年6ヶ月ぶりの再会であった。
勝は西郷を港区・愛宕山に連れて行き、眼下に広がる美しい江戸の街を灰にする無意味を説いたとされる。
その上で勝は江戸城明け渡しの条件を示したと云う。
条件の骨子は、慶喜は隠居の上水戸に預けること、江戸城明け渡しの実務を任せて欲しいこと、幕府所有の軍艦・軍器は朝廷の支持を待つこと、人材は一部を引き渡して欲しいこと、城内居住者は城外に移し謹慎させること、慶喜・補佐役の寛大な処置・一命を留めること等々が盛り込まれていた。
これに対する西郷の答えのエッセンスは、領地の没収は朝廷の処分を仰ぐこと、慶喜などの処分は任せて欲しいこと、江戸の安泰は保証することなどを含めて、朝廷の裁きを仰ぐことにしたいと。
と云うことで、江戸城攻撃は、ギリギリのところで中止となり、江戸の町は守られた。
西郷は、勝の条件をもって京に帰った。そして寛大な措置が取られることが決まった。
写真は、現在の江戸城本丸天守閣跡。
そして4月21日、江戸城内の全ての門が、官軍の手に収められ、大総督である有栖川宮熾仁親王が軍を率いて城に入り、江戸城の明け渡しは完了した。
静かな開城であったと云う。
主戦論者が次から次へとやってくる。大坂から撤退してきた慶喜に、フランス公使・ロッシュは、あくまで再挙兵を勧めたが、慶喜は辞退した。
徳川の恩義に報いるという幕臣の情に流されて、国内を戦乱の地にすることは絶対に避けなければならない。全ての主戦論者を退け、一切を勝海舟と大久保忠寛に託した。
慶喜は、ひたすら天皇に対する“恭順”を貫くため、自身を江戸城から上野寛永寺へ移し、蟄居謹慎生活に入った。
その後、静閑院宮(和宮)や天璋院(徳川家定の正室・大奥)をはじめ、徳川譜代の大名藩主などから夥しい数の嘆願書が朝廷に届いていた。
それらに対する回答は、西郷隆盛・参謀など、薩長同盟のリーダーの一存にかかっていた。
写真は、東京港区の有栖川宮公園に建てられた、有栖川宮熾仁親王の銅像。
1868年3月、“鳥羽伏見の戦い”で勝利した新政府軍は、有栖川宮熾仁親王を“東征大総督”に任命し、3月15日の“江戸総攻撃”を目指して、京をスタートした。
西郷は、“東征大総督参謀”に任命され、東海道を通り、同じく“江戸総攻撃”に向け、江戸を目指すことになった。
3月13日、西郷が江戸高輪の薩摩藩邸に入ると、江戸城処分を任せられた勝海舟・大久保忠寛が早速面会にやって来た。
西郷と勝は旧知の仲であった。西郷と勝は3年6ヶ月ぶりの再会であった。
勝は西郷を港区・愛宕山に連れて行き、眼下に広がる美しい江戸の街を灰にする無意味を説いたとされる。
その上で勝は江戸城明け渡しの条件を示したと云う。
条件の骨子は、慶喜は隠居の上水戸に預けること、江戸城明け渡しの実務を任せて欲しいこと、幕府所有の軍艦・軍器は朝廷の支持を待つこと、人材は一部を引き渡して欲しいこと、城内居住者は城外に移し謹慎させること、慶喜・補佐役の寛大な処置・一命を留めること等々が盛り込まれていた。
これに対する西郷の答えのエッセンスは、領地の没収は朝廷の処分を仰ぐこと、慶喜などの処分は任せて欲しいこと、江戸の安泰は保証することなどを含めて、朝廷の裁きを仰ぐことにしたいと。
と云うことで、江戸城攻撃は、ギリギリのところで中止となり、江戸の町は守られた。
西郷は、勝の条件をもって京に帰った。そして寛大な措置が取られることが決まった。
写真は、現在の江戸城本丸天守閣跡。
そして4月21日、江戸城内の全ての門が、官軍の手に収められ、大総督である有栖川宮熾仁親王が軍を率いて城に入り、江戸城の明け渡しは完了した。
静かな開城であったと云う。