近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

徳川慶喜物語 “無血開城”

2007年05月31日 | 歴史
1868年正月、江戸城中は混乱に混乱を重ねていた。
主戦論者が次から次へとやってくる。大坂から撤退してきた慶喜に、フランス公使・ロッシュは、あくまで再挙兵を勧めたが、慶喜は辞退した。

徳川の恩義に報いるという幕臣の情に流されて、国内を戦乱の地にすることは絶対に避けなければならない。全ての主戦論者を退け、一切を勝海舟と大久保忠寛に託した。

慶喜は、ひたすら天皇に対する“恭順”を貫くため、自身を江戸城から上野寛永寺へ移し、蟄居謹慎生活に入った。

その後、静閑院宮(和宮)や天璋院(徳川家定の正室・大奥)をはじめ、徳川譜代の大名藩主などから夥しい数の嘆願書が朝廷に届いていた。
それらに対する回答は、西郷隆盛・参謀など、薩長同盟のリーダーの一存にかかっていた。



写真は、東京港区の有栖川宮公園に建てられた、有栖川宮熾仁親王の銅像。

1868年3月、“鳥羽伏見の戦い”で勝利した新政府軍は、有栖川宮熾仁親王を“東征大総督”に任命し、3月15日の“江戸総攻撃”を目指して、京をスタートした。
西郷は、“東征大総督参謀”に任命され、東海道を通り、同じく“江戸総攻撃”に向け、江戸を目指すことになった。

3月13日、西郷が江戸高輪の薩摩藩邸に入ると、江戸城処分を任せられた勝海舟・大久保忠寛が早速面会にやって来た。
西郷と勝は旧知の仲であった。西郷と勝は3年6ヶ月ぶりの再会であった。

勝は西郷を港区・愛宕山に連れて行き、眼下に広がる美しい江戸の街を灰にする無意味を説いたとされる。
その上で勝は江戸城明け渡しの条件を示したと云う。

条件の骨子は、慶喜は隠居の上水戸に預けること、江戸城明け渡しの実務を任せて欲しいこと、幕府所有の軍艦・軍器は朝廷の支持を待つこと、人材は一部を引き渡して欲しいこと、城内居住者は城外に移し謹慎させること、慶喜・補佐役の寛大な処置・一命を留めること等々が盛り込まれていた。

これに対する西郷の答えのエッセンスは、領地の没収は朝廷の処分を仰ぐこと、慶喜などの処分は任せて欲しいこと、江戸の安泰は保証することなどを含めて、朝廷の裁きを仰ぐことにしたいと。
と云うことで、江戸城攻撃は、ギリギリのところで中止となり、江戸の町は守られた。

西郷は、勝の条件をもって京に帰った。そして寛大な措置が取られることが決まった。



写真は、現在の江戸城本丸天守閣跡。
そして4月21日、江戸城内の全ての門が、官軍の手に収められ、大総督である有栖川宮熾仁親王が軍を率いて城に入り、江戸城の明け渡しは完了した。
静かな開城であったと云う。

徳川慶喜物語 “鳥羽伏見の戦い”敗因とは!

2007年05月30日 | 歴史
そこで、旧幕府軍が“鳥羽伏見の戦い”で負けた原因について考えてみたい。

☆明暗を分けた戦術格差
開戦当初、石高・兵力では旧幕府軍が優勢であり、新政府軍は、天皇を連れて撤退することも検討していたと云う。
又軍備面でも、旧幕府軍は早くからフランス軍の支援により、軍隊・軍備の西洋化に取組んでいたため、新政府軍に対して劣ってはいなかったと云う。



写真は、“鳥羽伏見の戦い”がスタートした小枝橋に隣接する、鳥羽離宮跡公園内の“鳥羽伏見の戦い”跡碑。

しかし長年の太平による経験不足が目立った旧幕府軍は、部隊間の連携不足・戦力分散、戦略・戦術の初歩的ミスなどにより、圧倒的兵力差を活かせなかった。
薩長軍約3千、幕府軍約1.5万と云う兵力差は約5倍だが、薩長軍はほぼ互角に戦ったと云う。旧幕府軍の稚拙な軍事指揮に助けられた点、幸運であった。

☆心理作戦“錦の御旗”
“錦の御旗”が両軍に与えた精神的影響力は余りにも大きかった。
薩長軍が必ずしも有利ではなかった中、岩倉具視のアイディアで、朝敵を征伐する官軍の印として、それらしい錦旗の図案を作らせ、錦織に刺繍をして竿の先にくくりつけたと云う。

それまで数百年も使われておらず、誰もどういうものか分からない中、急遽思いつきで考えての作戦であった。してやったりの妙案であった。
薩摩藩と長州藩にそれぞれ一つずつ渡し、密かに大量に複製させたと云う。
この心理作戦は、大当たり、驚いた諸藩が次々と官軍に翻ったことで、戦力の分布が俄然薩長軍に有利に働いた。

倒幕派は、“錦の御旗”・“天皇”と云う記号を使って、味方の情念を発火させ、敵の挫折感を助長して、幕府軍の決定的な敗北原因となった。

☆慶喜の戦意
慶喜は、当日風邪で病床に伏せていたため、自ら陣頭指揮に立つことはなかった。
仮病だったかもしれない?
慶喜は最初から戦う意欲がなかったのではないか????慶喜は、元々開戦には消極的であったと云われていた。

慶喜は、幕府の防衛体制には、兵器・装備力の近代化が不可欠としていたが、必ずしも満足のいくものでなかったにせよ、薩長の西郷・大久保に匹敵するような、大将・戦術家がいないことが大きなハンディであると心配していた節がある。

若し勝海舟が旧幕府軍の陣頭指揮を採っていれば・・・・・・・・。
このような慶喜の心理状態・病床状態では、戦う前から負けたのも同然、負けるべくして負けたと云える。

☆尊王攘夷思想の制約
旧幕府軍は、フランスから軍事教練・武器供与などの援助を受けていた。



写真は、横浜・“港の見える丘公園”から見晴らす、幕末期当時のフランス軍が駐屯していた湊辺り。

旧幕府軍・新政府軍とも、フランス又はイギリスの軍事力を利用する、或いは派兵を要請する選択肢があったはずだが、両陣営とも、尊王思想を大前提として、欧米列強による内政干渉に陥るような事態は避けたい、とする暗黙の了解が、そのような選択肢を排除したと考えられる。


徳川慶喜物語 “戊辰戦争・鳥羽伏見の戦い”

2007年05月29日 | 歴史
1868年1月3日、幕府軍が京を目指す途中、鳥羽村で薩摩軍と衝突、開戦の火蓋が切られた。
世に云う“鳥羽伏見の戦い”である。





写真は上から、鳥羽伏見の戦いのスタート現場記念碑及び本戦いがスタートした地点から望む東山方面。

戦局は、一進一退の攻防が繰広げられたが、1868年1月4日、薩長軍側に高々と、“錦の御旗”が翻り、戦局は完全に薩長を中心とした新政府軍に有利となった。



写真は、薩長軍が掲げた“錦の御旗”サンプル。
薩長軍の“錦の御旗”を知ると、それまで様子見を決め込んでいた諸藩が次々と薩長軍に翻ったと云う。





写真は上から、京都伏見区の淀城址公園、及び現在まで残された、淀城の石垣。
例えば、京都伏見の淀城主藩士は旧幕府の守備隊として当初臨んだが、時の城主稲葉正邦は、幕府・老中にもかかわらず、藩兵は城内で戦況を見守っていた。
結果的に官軍が優勢とみると、淀城は敗走してくる旧幕府軍に対して、門を閉ざし、官軍に寝返りした。

又朝廷公認の軍であることの証である“錦の御旗”を見た幕府軍は、戦意を喪失して大坂城に総退却を余儀なくされた。
城内には緊迫と悲壮感が充満していたと云う。

“錦の御旗”を持ち出した薩摩は官軍、幕府は賊軍、慶喜は朝敵とされてしまった。慶喜の心境からすれば、この時点で、江戸へ退却せざるを得なかった。

しかし、将軍自らが出陣すれば士気は大いに上がり、必ず勝てるという大合唱が起こったと云う。
退却した幕府軍の諸隊長も、未だ無傷の約1万の軍勢を擁し、前将軍・徳川慶喜の直々の出陣を求めたが、朝敵の汚名を受けた慶喜には、この段階でもはや戦意はなかった。幕府軍の暴発を恐れる余り、リスクの少ない、江戸へ退却というクールな判断に傾いた。慶喜を除く全員が主戦論者であったが・・・。

そして慶喜は諸兵士たちには、「明日出陣する」と宣言しておきながら、老中・板倉勝静、元京都守護職・松平容保ら数人と共に、夜中密かに大坂城を脱出し、幕府所有の軍艦で江戸に向け出発した。

幕府軍は、主人がいないことを知るや、翌朝大混乱に陥り、将兵達は激昂した。
そして各自ばらばらに江戸に向けて退却することを余儀なくされた。

慶喜の江戸退却により、幕府軍は完全に瓦解し、薩長中心の新政府軍の完全な勝利となった。
1月7日、新政府は、”慶喜追討令”を出した。
1月9日に官軍が大坂城を占領し、1月10日には新政府は、徳川慶喜以下の官位を剥奪し、幕府領を直轄領と決定した。



写真は、慶喜に頼りにされた、勝海舟の肖像。
江戸に帰った慶喜は、直ぐに勝海舟を呼び出して、朝敵となったことを告げると、戦後処理を託し、江戸城へ急いだと云う。
皮肉なことに、将軍となって初めて江戸城へ入った。


徳川慶喜物語 “戊辰戦争・鳥羽伏見の戦い”前夜

2007年05月28日 | 歴史
慶喜の“辞官納地”が決定された頃、慶喜は軍勢を従えて、京の二条城に滞在していた。
小御所会議の結果がもたらされ、慶喜は「このまま軍勢を京に留めることは非常に危険である」と考え、一旦大坂城に退くことを決めた。

“辞官納地”を知った幕府兵が激高し、薩長勢と京で衝突すれば、朝敵の汚名をかぶせられるかもしれないと、慶喜は考えた上での退却であった。

この時点では、慶喜・岩倉・新政府とも必ずしも武力衝突を望んでいなかった。
薩長の過激な慶喜つぶしの反動で、朝廷は慶喜同情論が支配的であった。

財政逼迫の新政府にとっても、早々“辞官納地”を実行させ、新政府の財源を確保する方が急務であったため、慶喜を京に呼び条件交渉をしたかったくらいであったと云う。



写真は、慶喜が各国公使と会見していた、大坂城現在の光景。
一方慶喜は、大坂城で各国公使と引見し、京における政権の不法性を強調し、列強の不介入を要請すると共に、政治責任は慶喜にあると宣言していた。

このようなクールな状況の中、武力で決着を着けようとする薩摩の挑発は、エスカレートしてしまった。
何とか倒幕の糸口をつくりたい西郷隆盛は、江戸の薩摩藩士や浪人に命じて、毎日のように富豪の家に押し入り、掠奪・殺人をほしいままにさせていた。
薩摩藩の無節操な行動は、窃盗罪・殺人罪のみならず、内乱罪に相当する極悪罪であった。



写真は、東京・芝高輪の薩摩藩邸跡。
目に余る暴挙に腹を据えかねた幕府側藩士が、1867年12月に東京・芝高輪の薩摩藩邸を焼き討ちした。

大坂城に薩摩藩邸の焼き討ち情報が入ると、幕府兵の士気が大いに上がり、慶喜の命令を待たずに即刻開戦態勢が取られたほど。
老中・板倉勝静は兵を率いて上洛する他ないと慶喜に言上していた。
慶喜は兵の士気が盛り上がるのを見て、これなら薩長軍に勝てるかも知れない色気と疑心暗鬼が交錯した。

そして薩長軍が3千余りに対して、幕府軍は1.5万以上と、兵力差があったことから、慶喜はやる気になったのかもしれない。慶喜にやる気を起こさせる、西郷の罠に嵌ってしまった。

1868年1月3日、幕府軍は「討薩の表」を掲げて、鳥羽・伏見の2街道を通り、大坂から京に向けて進撃を開始した。


徳川慶喜物語 “近江屋事件”

2007年05月27日 | 歴史
“大政奉還”・“王政復古”が取沙汰されていた頃、1867年末に坂本竜馬・中岡慎太郎が京都河原町の近江屋で暗殺された。世に云うところの“近江屋事件”のこと。



写真は、坂本竜馬の肖像。
竜馬は、それまで宿舎にしていた池田屋が、幕府に目をつけられていたので、近江屋に移ったところ。



写真は、京都・三条通りと木屋町角の土佐藩邸跡。

そして元新撰組のメンバーであった、伊藤甲子太郎が、新撰組に狙われているので、三条通りの土佐藩邸に移ったらどうかと進言したが、竜馬は近江屋に残留。

寺田屋事件で数名を射殺したことで、幕府の手配人扱いとなっていた竜馬を、見廻組・新撰組が探索していた。
薩長同盟を成立させ、大政奉還も実現させた竜馬は、幕府にとって、最も危険で厄介な存在でしかなかった。



写真は、坂本竜馬・中岡慎太郎の寓居・近江屋跡。
近江屋周辺は、河原町界隈同様、幕府の見廻組や新撰組が常に狙っていた。
そして竜馬の居所を突き止めた京都守護職・松平容保は、見廻組に竜馬暗殺を指示し、近江屋に踏み込んだ・・・・・・。
一緒にいた中岡慎太郎も翌日死亡。





写真は、坂本竜馬・中岡慎太郎が祀られている、京都・東山の霊山墓所及び墓所脇に並ぶ、坂本竜馬・中岡慎太郎の銅像。

一説には、慶喜をはじめとする旧勢力が復活するのを恐れていた、薩摩藩が見廻組に竜馬の居場所を教えたとも言われている。

薩摩藩暗殺説の根拠には、箱館戦争の戦いで捕虜となった見廻組の一人が、竜馬暗殺を実行し、暗殺依頼者を自供したが、その名を公表しなかった。
尚且つ1.5年の謹慎罪という超優遇措置に加え、明治政府は謹慎解除後には、静岡藩へ就職を斡旋したことで、その見回組員は、「西郷さんに助けられた」と証言していたとされる。

徳川家排除のためには、武力行使も辞さない覚悟を決めていた薩摩藩にとって、竜馬は目の上のタンコブであった。

他にも見廻組の組頭・佐々木只三郎が、竜馬暗殺を自白したなど、諸説紛々で、不可解なことが多い。
明治新政府に代わって、竜馬が大変惜しまれた逸材であっただけに、犯人不問のまま、真相が闇に葬られてしまった感が強い。

いずれにしても、敵味方入り乱れ、殺伐としていた当時の京では、竜馬が何時・何処で・誰に狙われても、おかしくはない世相ではあった。

竜馬死去の一ヶ月ほど前に、竜馬自身が発案した“大政奉還”を、慶喜が実行に移したとの報に接し、竜馬は「この公のために命を捨てん」と号泣したと云う。

徳川慶喜物語 “王政復古”

2007年05月26日 | 歴史
倒幕の糸口を失った薩長は、次なる手段に出た。
1867年12月7日、“王政復古”の大号令が発令された。

薩摩に掌握された朝廷では、佐幕派の公卿が一掃され、これに替わって攘夷派の公卿が復職した。
薩長は、天皇を完全にコントロールできる立場にあり、何とか幕府を挑発して、武装決起の機会を扇動すべく、模索していた。

そこで、慶喜の領地と官位を取上げ、無禄の平民にする「辞官納地」(官職を辞職させ、領地を返納させる)を官邸改革案としてまとめ、明治天皇ご臨席のもと、小御所で開かれた、総裁・議定・参与の三職による“新政体会議”で、慶喜不在のまま、「辞官納地」を決定した。

天皇の名において、慶喜を排除しようとするものだった。
大政奉還の功労者である慶喜を、新政体会議に呼ばないのは不当であると主張したが、岩倉に押し切られた。



写真は、岩倉具視の肖像。
尊王倒幕派・岩倉の最大の敵は、慶喜であり、慶喜を倒すためには手段を選ばず、不要なものは徹底的に排除してきた。

新政体会議は、急遽取り決められたもので、倒幕と反徳川のためには手段を選んでいる時間・余裕がなかった。新政体会議には大義名分もなく、唯徒党を組んで決めた、クーデターに近い急場凌ぎのインスタント体制であった。

岩倉具視は大久保利通と共に、若干17歳の明治天皇を意のままに操り、薩摩の武力で御所を封鎖し、選ばれたものだけを宮中に通すという、稚拙で強引な門限監督方法を取った。勢いに乗じた岩倉派が力で押し切ってしまった。
慶喜の誤算は、岩倉の企み・もくろみを読みそこなったことにあった。

この一方的決議を伝え聞いた慶喜は、ここで相手の挑発に乗って暴発すれば、相手の術中に嵌り、折角の大政奉還の意味がなくなるとの判断と、内乱だけは避けたいという強い思いから「勅諚ならば受けざるを得ない」と答えたと云う。





写真は上から、幕臣が集結した、二条城本丸御殿の光景及び二条城天守閣跡地から望む比叡山遠景。

二条城には、王政復古の発令以来、江戸から兵が続々と集結し、城全体が薩摩討つべしとの怒りで煮えたぎっていた。

ここで、慶喜は殺気みなぎる家臣を押さえるために、京を去って、大坂城に拠点を移した。しかしここ城内でも一触即発の空気に包まれていたと云う。

そして憤った旧幕臣が、いよいよ幕末・維新史の最終章、鳥羽・伏見の戦い他「戊辰戦争」へと突入した。





徳川慶喜物語 “大政奉還”

2007年05月25日 | 歴史
1867年に入り、薩長の倒幕の動きが、風雲急を告げていた。
一触即発的情勢の中、土佐藩では、“大政奉還”案が持ち上がっていた。
坂本竜馬が立案し、家老後藤象二郎を通じて藩主山内容堂に届け、容堂は大喜びで、幕府に大政奉還の建白書を提出した。

慶喜は、土佐藩を敵に回しては、他の雄藩をも敵に回すかもしれない一大事の状況下、一旦政権を朝廷に返してしまえば、薩長が倒そうとしている相手が消滅し、戦いを避けることが出来ると判断し、容堂案を受入れた。

慶喜には、朝廷は政治を運営する能力・事務処理能力などあるはずもなく、幕府に政権を委託してくるに違いないとの読みがあった。

その際、慶喜は西洋の政治制度に詳しい西周に習い、天皇を象徴的存在とした大君制国家、即ち、大君の元に公府(官僚)・議政院(上院と下院)を置くという、近代的な“政党制政治”構想を画策していた。
将軍職を辞した上で、自らがその大君の地位に就き、“諸侯会議”などを通じた、近代的な国家運営システム構想を用意していたのでは?????
その上で、大政奉還に同意したと云うが・・・・・・。









写真は上から、世界遺産二条城の堀川通り入口、大政奉還が宣言された、二条城二の丸御殿の正面、二の丸御殿大広間及び大政奉還の模様をイラストレートした想像図。

1867年10月、慶喜は二条城二の丸御殿大広間に京都駐在の幕臣を集め、更に謁見の権利を持たない在京の諸藩士をも別途招集して、“大政奉還”の宣言について、数時間に及ぶ釈明の熱弁をふるった。

慶喜の弁舌は、立板に水が流れる如く淀みのないものであったと云い、一堂すっかり聞き入り、反論すら出なかったし、出席者の日記には「ご明弁に酔えるなり」とあった。
鳥羽伏見の敗戦報告の際も含めて、慶喜は歴史の要所々で、雄弁を遺憾なく発揮した。

しかし出席者の間には、大政奉還後の政治は誰が行い、藩はどうなるのか?武士はどうなるのか?等々、藩士達の多くは呆然とするだけであったと云う。
ここに家康の開府以来、264年の武家政治は幕を閉じた。

“大政奉還”の勅許に驚いた薩長は、大政奉還宣言の前日に、倒幕の密勅を得ていたと云う。密勅には「逆臣慶喜を殺し尽す・・・」とあり、会津・桑名の両藩主も討てと書かれていた。

しかし、この密勅には三人の公家の署名があるだけの文書で、偽勅の可能性が高い。大政奉還の勅許に余程慌てふためいた証拠だ。

岩倉具視をバックに、裏で自由自在に密勅の糸を引いていた薩長は、慶喜を恐れ、あくまで慶喜を抹殺しようとしていたが、坂本竜馬はじめ、多くの尊王志士達は慶喜の決断を賞賛していただけに、倒幕の密勅を取り下げざるを得なかったと云える。岩倉具視は、なかなかの曲者振りの“詐欺師”では?

ところで、前述の西周に学んだとされる政体構想案について、慶喜がその案を読んだとする史料も、検討したとする証拠も残されていない。

1867年11月には、征夷大将軍を辞任していることから、大政奉還後の新体制に向けて、政治的野心を持っていなかったのではないか?

1867年5月に、兵庫開港と第二次幕長戦争中止を決定したことで、当面の難題に目処を付け、加えて民衆の狂喜乱舞を目の辺りにしたことが、ここぞ退け時と、慶喜の政治的決断の契機となったのでは?

京都の町人たちは、長州ひいきだったので、幕長戦争中止により、もはや太平になり、米の価格も下落したことで大喜びし、三条大橋で踊る者も現われ、大勢が社寺に参詣したと云う。
幕末期の京は、久しぶりにやって来たお祭り気分をエンジョイしたことは間違いない。

徳川慶喜物語 孝明天皇と慶喜・天皇崩御の謎

2007年05月24日 | 歴史
孝明天皇と慶喜とのかかわりを中心に回顧してみたい。
孝明天皇在位20年余りの期間は、第12代将軍・徳川家慶、第13代・家定、第14代家茂、そして第15代・慶喜と続いたが、慶喜とは僅か1ヶ月足らずの関係であった。

佐幕派であり、公武合体論者であった孝明天皇が、慶喜が将軍就任間もなく、崩御されたことは単なる偶然か、何者かによる謀殺なのか、いずれにしても、慶喜にとって大きな痛手であった。



写真は、孝明天皇の肖像。
孝明天皇は、1853年のペリー来航以来、幕府政治に発言力を持ち、大老・井伊直弼が諸外国と独断で通商条約を結ぶと、それに不信を示し、更に攘夷思想が益々激しくなったため、妹・和宮親子親王を家茂に嫁がせるなど、公武合体運動を推進し、あくまで鎖国を望んだ。

しかし1865年、攘夷運動の最大の要因は、孝明天皇の存在にあると見た諸外国海軍は、艦隊を大坂湾に入れて天皇に条約の勅許を要求して、天皇も事態の深刻さを悟って、ついに通商条約の勅許が出されることになった。

慶喜上洛後は、しばしば孝明天皇に謁見し、朝議に列し、兵庫開港を上奏するなど、皇居に参内した。
慶喜が禁裏守護総督に任じられてからは、更に関係が深まり、1864年には“禁門の変”で陣頭指揮を執った。



写真は、今日の京都八幡市・石清水八幡宮の光景。
1863年、孝明天皇は、将軍家茂に石清水八幡宮行幸・攘夷祈願をさせ、幕府を攘夷断行に踏み切らせようと計画したが、慶喜は家茂を急病にさせ、本人も腹痛を訴えて、何とか急場を凌ぐ作戦を取った。

と云うように、慶喜は水戸家家訓にある、「朝廷に背を向けない」ポリシーと現実の危機との狭間で、知恵を絞り、急場を凌がざるを得なかった。

1868年12月中旬に孝明天皇が疱瘡にかかって、発熱が続いていた。
病状の経過は順調とあったが、12月25日に容態が急変して、29日には突如崩御と発表され、その間の記録は一切なく、しかも医師と女官だけの密室での出来事であった。

しかも身体中、眼・口・耳などが出血するなど、この世の出来事とは思えない、凄まじい死の姿を伝えていた。

イギリスの外交官によると、内幕に通じた日本人から「帝は毒殺された!」と聞いたとの記録が残っていると云う。

天皇が崩御されると、岩倉具視は幽閉を解かれ、薩長と結んで、倒幕運動に走ったことから、当日天皇病床の身近にいた、具視の実妹に毒を盛らせたという噂が広く信じられていたと云う。しかし真相は未だに不明。

徳川慶喜物語 開国に向けた外国公使との駆引き

2007年05月23日 | 歴史
1858年、日米修好通商条約が結ばれ、その後オランダ・ロシア・イギリス・フランスとも通商条約が結ばれた。

しかし修好通商条約の締結が、朝廷からのお墨付き・勅許なしで、井伊直弼が独断でやってしまったため、開港が延び延びになったまま、10年が経過していた。
その間開港を具体化するため、諸外国公使からはあの手・この手のアプローチが継続的に行われてきた。

フランス公使・ロッシュは、攘夷問題で苦慮している幕府に対して、フランスが中に入いって反抗的諸大名との間で、和解の周旋を計っても良いと申し入れてきた。幕府の信頼を勝ち取ろうと、一生懸命であった。

ロッシュは、最新鋭武器の調達・整備、軍役動員方式の一新、武器の訓練、そして横須賀に製鉄所までも造った。これらの軍備体制強化に必要な対仏借款契約は、破綻したが、慶喜に対するサポートは継続された。

一方強烈な外交を進めてきたイギリスは、武力を背景に恫喝し、通商条約上に規定された兵庫などの開港を強硬に求めていた。



写真は、イギリス公使・パークスの肖像。
新任のイギリス公使・パークスの対日政策は、“ミカド”と云う大きな権威の存在を背景に、ミカドを担ぐ反幕勢力結集を後押しして、倒幕を計り、国際的信任が厚い新政府のもとで積極外交・対日交易を期すべきと考えていた。
イギリスの幕府への開港強行姿勢は、こうした背景を踏まえた倒幕派支援策の一つであった。

このように、倒幕派支援のパークス対幕府支援のロッシュとの間で、熾烈な外交闘争が、国内の勢力争いに並行して、繰広げられていた。

開港に向けた駆引きは、外国勢力を巻き込んだ主導権争いの中で、ロッシュの後押しで勢いが出てきた幕府が、将軍・慶喜のスマートな外交振り、果敢な朝廷工作により、一歩も二歩もリードしていた。現に兵庫開港が勅許された。

と云うような状況下、薩長の倒幕派は、幕府を恐れることしきりで、幕府が力をつける前に倒さねばならないと不安に駆られていた。

しかし「天皇の権威に逆らうことは出来ない。幕府は老朽化しており、新たな合議政体を作る必要がある。」と云う慶喜の考え方は、パークスと一脈通じるものがあった。

一方ロッシュは、朝廷に抗戦か、恭順かを巡り、慶喜が最終的には朝廷に逆らうことが出来ないという、慶喜の宿命を理解できていなかった。

結局倒幕に伴い、フランスの対日政策は失敗し、ロッシュの立場は全く失われ、本国政府から完全撤退命令が下され、失意の中で離日したと言う。

他方パークスはその後も日本に留まり、対日外交に携わったと云う。
パークスがいなければ明治維新がどうなったか?外国勢力の存在・影響力を忘れてはならない。





写真は上から、横須賀製鉄所跡地のルイ教会及び当時の横須賀製鉄所光景。

又ロッシュがいなければ、“横須賀製鉄所”建設と云う国家事業はなかったであろう。
いずれにしても彼ら外国人公使が残した、幕末・維新の足跡は実に大きい!

徳川慶喜物語 幕府再建へ向けて

2007年05月22日 | 歴史
慶喜が徳川幕府を維持するため、フランスの支援を頼りに、フランス公使・ロッシュと交渉し、幕府の権力強化の決意を表明した。



写真は、フランス公使・ロッシュの肖像。

軍制の改革・兵器の整備などで、旗本に刀・槍を捨てさせ、鉄砲を持った銃隊に組み替えるほか、軍役動員方式の一新、そして武器・軍艦などの調達と訓練、横須賀に製鉄所も建設した。その資金6百万ドルとして、対仏借款の契約書が交わされた。反幕勢力に対抗するには、どうしてもフランスの支援が必要であった。

一方ロッシュは、日本の統治者は、将軍・慶喜をおいて他にないと信じていたので、慶喜への支援を惜しまなかった。

ところが、ロッシュを支持していた仏国の外相が失脚し、仏国の対日政策が変更され、もはや本国の後ろ盾はなくなり、先の借款契約も破綻した。
何ともタイミングの悪い、アンラッキーなハプニングであった。

一方大坂天保山沖では、英仏米蘭4ヶ国の艦隊が終結し、各国代表は、将軍率いる大坂で、一挙に条約調印と兵庫開港を実現しようと待ち受けていた。

慶喜は、朝廷と取巻きの公家を説得して、一丸となって開港に向かう体制が不可欠であると考えていた。

1867年3月には、英仏米蘭の4ヶ国公使との接見で、独断で兵庫開港を宣言してしまった。後日幕府4賢候を召集しての事後承認では、独壇場の演説・茶菓子やタバコなどのもてなし・記念写真などの懸命の演出で、慶喜の粘り勝ちであったとか。

開港反対の朝廷に対しては、慶喜自ら朝廷に乗り込み、丸一昼夜半声が枯れるまでしゃべり続け、全ての出席者が疲れ果ててしまい、賛意を表せざるを得ない心理状態にまで追い込み、慶喜決死の独り舞台の演出が効を奏したと云う。
公家たちは御所の周りを兵士に固められて帰ることも出来ず、とうとう根負けして開港勅許もやむなしと折れた。

かくして兵庫開港の勅許を得たことで、将軍慶喜の存在が一挙に顕著になり、西郷・大久保など薩摩藩士が、幕府の再興を心配し始めたと云う。



写真は、神戸市旧外国人居留地の旧米国領事館。
兵庫開港により、外国人居留地が開設され、商館を中心として領事館・ホテル・教会などが次々に建てられた。

しかし兵庫開港が、かえって薩長間の結束を強固にさせ、武力倒幕の決起を促したとは、何とも皮肉な一大成功イベントであった。

徳川慶喜物語 第15代将軍・徳川慶喜誕生

2007年05月21日 | 歴史
1866年は、慶喜にとって、不慮の不運が続いた。
先ず7月に、第14代将軍・家茂は、慶喜が長州征伐途中で病死した。享年21歳。



写真は、徳川家茂の肖像。
次期将軍には、3歳の田安亀之助が遺言されていたが、幼い将軍がこの国難を乗り切れるはずもなく、慶喜に白羽の矢が当った。



写真は、孝明天皇の肖像。
もう一つの不慮の不運は、同年12月孝明天皇の不自然な突然死で、慶喜最大の後ろ盾を失ってしまった。義弟・家茂の後を追うように崩御した。享年36歳。

孝明天皇は疱瘡を患っていたとはいえ、病状の悪化が余りにも早く、しかも密室内のハプニングのため、毒殺説の噂が流布されたほど。

幕府の誰もが名指しした、慶喜将軍待望論ではあったが、慶喜は「徳川幕府は回復しがたいほど制度疲労を起こしている」との認識で、幕府の内意を拒絶。
老中らの説得で、ようやく引き出した答えは、「徳川宗家は相続するが、将軍継承は保留」とのこと。

将軍不在のまま、第二次長州征伐に決着を着けなければならなかったが、圧倒的に不利な闘いの先行きが見えていただけに、慶喜は中止を決めた。
将軍不在の幕府運営形態下で、“大名会議”を招集して、体制の一新を図ろうとしたが、形式だけの会議では、所詮機能しなかった。



写真は、京都二条城二の丸正面の光景。
上述のような混沌とした政治情勢の中、1866年12月に、慶喜は京都二条城で将軍の宣下を受けた。
将軍空位のまま半年が経っていたが、幕臣の裏面工作が結実し、この時点ではまだ存命の孝明天皇から、どうしても将軍を拝命せよとの内旨がくだった。
江戸城以外の場所で拝命した歴代将軍は、他にはいなかった。これとて将に異常な将軍就任セレモニーであった。

慶喜が、過激尊皇攘夷派・討幕派・不和幕閣などと戦ってこられたのは、孝明天皇の個人的サポートがあってこそで、圧倒的な支えを失った今なお、くすぶり続ける難問、特に長州征伐の終結・兵庫開港などの難題が残されていた。

と云うように、このような最悪なタイミングでの将軍就任は、慶喜本人には先行きの不吉な結末が、既に予見されていたと考えられる。




徳川慶喜物語 慶喜対西郷

2007年05月20日 | 歴史
徳川慶喜と西郷隆盛が直接面談したという記録はない。



写真は、西郷隆盛の肖像。
西郷は、薩長連合・王政復古・倒幕派の中心人物となり、慶喜と対立した。
決定的対決の場面は、鳥羽伏見の戦いであったが、慶喜にやるきがなかったのに対して、西郷は柔軟に対応し、結果として現実をコントロールすることができた点、衝突することはなかった。

更にもう一度の対決の場面は、大東征軍による江戸総攻撃プランであった。
西郷はじめ、薩長のリーダーたちは、徳川家を完全に崩壊させなければ、真の近代化を図れないと信じていた。そのため江戸総攻撃へと駆り立てた。

江戸開城の際には、西郷は慶喜切腹を狙っていたと云われていたが、西郷と勝海舟との面談で、江戸総攻撃は避けられ、江戸無血開城と引き換えに慶喜の命も救われた。

それに先立ち、西郷・大久保は、あくまで慶喜を罪に陥れることを狙っていた。
しかし慶喜は、独断で大政奉還により政権を投げ打ったことで、慶喜は薩長に攻められ、幕臣からも責められ、最悪・悲惨な運命を辿るかもしれないところ、竜馬に救くわれた。
竜馬による8か条の「新政府案」が西郷・岩倉らに認められたため、助かった。



写真は、鹿児島市立美術館脇の西郷隆盛銅像。

若し西郷が強行突破していた場合、江戸は火の海、市民・百万人の命が危ぶまれ、大戦争の結果、恐らく薩長は敗退し、幕府も青息吐息、外国の餌食・侵略?になっていたかもしれない。

勝海舟は、慶喜切腹と云う事態になれば、英国へ亡命させる手はずをフランス公使・パークスと相談していたと云うから、海舟も柔軟両面作戦を考えていた。

西郷さんの略歴を概観すると、西郷さんは薩摩藩の下級武士であったが、藩主・島津斉彬の目に留まり抜擢され、開明論者・斉彬の強い影響を受けた。
薩摩藩の親友・大久保利通、長州藩・木戸孝允と並び、「維新の三傑」と称されて、中央政界でも大活躍した。

西郷の強みは、武芸でもない、右腕を負傷していたこともあり、剣の達人でもない、生涯腰の刀を抜くことはなかったらしい。
西郷の最大の武器は、度量の大きさと、いつでも一命を捨てる覚悟があったと云われる。最悪の事態を避ける寛大な心の持ち主でもあった。
未だに慕われる、人情に厚い西郷人気の秘密かもしれない。

慶喜公の剛情張り・知略家・策略家・洋癖家・スタイリストなどのイメージと、西郷さんの豪快・度量・寛容・田舎者のイメージとは相容れない。
お互いに歩み寄り、面会・会談する機会を見つけようとせず、又は避けていたかもしれない。

晩年の西郷さんは、“征韓論”で鹿児島に下野し、西南戦争で敗走・自刃した。
明治維新改革・近代化の足かせの一つ、“士族解体”を巡って、西郷は大久保利通と決定的に衝突した。
大久保は、徴兵制・国民皆兵により、財政圧迫の最大要因であった、家禄支給打ち切り・士族階級の解体を推進していた。



写真は、西南戦争・和田越の古戦場。
士族解体・徴兵令発布を巡り、佐賀の乱・熊本神風連の乱・秋月の乱・萩の乱など、各地で士族の反乱が起こり、中でも明治政府に不満を持つ鹿児島士族が西郷さんに率いられ、西郷軍約13,000人が挙兵し、政府軍と戦った。

熊本県田原坂の戦いをはじめ、大分・宮崎・鹿児島各県で起こった西南戦争は、近代国家成立に向けた、士族最期の反乱・足掻きであったと云える。

徳川慶喜物語 薩摩藩の内部事情

2007年05月19日 | 歴史
薩摩藩・77万石は、加賀藩に次ぐ大藩で、鹿児島県・宮崎県の一部のほか、琉球王国をも服属させていた。





写真は上から、大久保利通と西郷隆盛の肖像。
幕末から明治維新にかけて、大久保利通・西郷隆盛などの有力政治家を多く輩出し、 第一次世界大戦までの藩閥政治では、「薩摩閥」と呼ばれ、長州藩と共に有力な政治勢力を形成したことで知られている。
しかし薩摩藩にも泣き所があった。

☆婚姻政策と借金棒引き
薩摩藩主・島津家は、次々と有力大名と縁戚関係を結び、島津重豪の娘・茂姫を第11代将軍家斉に嫁がせることに成功したほど。
しかし藩の財政事情は火の車で、度重なる借金・返済違反が続き、借金できない状況にまで悪化した。

財政逼迫の難局には、琉球との交易による増収という正攻法のほか、借入古文書を書き換えて、“250年賦・無利子償還”と云う、ほぼ借金踏み倒し同然にしてしまうなど、常軌を逸していたと云う。

☆贋金作りが横行
幕末・維新の動乱期には、戦費捻出のため、敵味方入り乱れての贋金づくりが繰広げられていた。銀の地金に金メッキを施した悪質な貨幣が、薩摩藩・土佐藩・幕府など、公然と流通していたと云う。

贋金で最も被害を受けたのは外国商人で、彼らが所有する日本貨幣の4割が悪貨であったと云うほど。
しかし明治新政府は、外国人所有の悪貨を正貨と交換したため、幕末のドサクサのツケが、発足間もない明治新政府に回ってしまったようだ。

☆島津家の内紛
島津家の藩主継嗣は、斉彬か、久光か、異母兄弟の争いとなった。





写真は上から、島津斉彬と久光の肖像。
島津家を二分するお家騒動には、老中・阿部正弘が仲裁に入り、結局斉彬が藩主と決まった。そして斉彬の後継は、斉彬の遺言で、久光の子・忠義が継承することになり、久光は藩主になりそこなった。

藩主を逸した反動からか、久光は“国父”の立場で実験を握り、当初は財力・武力にものをいわせて朝廷と結び、幕府の幕僚人事まで口出しするほど、影響力を誇示した。
しかし晩年は実権を、西郷隆盛・大久保利通に奪われてしまったが・・・・。

それにしても、薩摩藩の交易に裏づけされた財力・軍備力・大局を見失わない現実主義路線は、幕末・維新を大きく前進させたほどで、幕末・維新の中心勢力として存在感は抜群であった。

徳川慶喜物語 “薩長同盟”締結の裏話

2007年05月18日 | 歴史
“禁門の変”では敵味方に別れて戦った薩摩と長州であったが、第一次長州征討の終り頃には、両藩の間には、和解の兆しが生まれていた。



写真は、京都今出川通りの薩摩藩二本松邸跡。

和解の仲介をしたのが、土佐藩を脱藩した坂本竜馬と中岡慎太郎で、この二人が薩摩藩邸を訪ね、小松帯刀と西郷隆盛に、「倒幕には、先ず薩長連合が先決」と説いた。

公武合体派の西郷は当初、攘夷派の長州藩を徹底的に叩き潰す考えであったが、幕府が長州討伐のみならず、薩摩藩をも取り潰し、徳川家中心の“郡県制”をベースとした国家再編成を思考していたことから、薩長同盟に考えを変えた。

それと勝海舟からの情報・アイディアで、幕府の権威は失墜・国家再編は任せられないこと・このままでは植民地化の恐れがあること・長州も含めた“合議体制”による国家体制の構築などの情報提供・提案を受けて、薩摩は長州との協力関係修復に考え方を大きく変えて、薩長同盟を視野に入れだした。

竜馬も、神戸の海軍操練所を卒業後、薩摩藩に工作員として雇われ、長州藩士・木戸公允との面談、武器供給をも含めた交渉により、薩長同盟関係の可能性を模索していた。

そして竜馬は、薩摩の合意を懐に、大宰府で長州藩士・小田村素太郎らと面談した。



写真は、桂小五郎の肖像。
小田村の薩長連合話を聞いた桂小五郎は、高杉晋作・伊藤博文・井上馨・村田蔵六ら幹部と相談した結果、彼ら5人は、長州藩主の意向を無視して、密かに竜馬・慎太郎と面談して、薩長連合を約束してしまった。

竜馬・慎太郎は京都で西郷に会い、桂との会談結果・薩長連合の約束を伝え、長州藩のために武器などの代理購入を依頼し、承認を得た。

このようにして、桂は密かに薩摩藩の名義で英国商人・グラバーから汽船・兵器などを購入することに成功した。
薩長の倒幕の動きは、水面下で着々と進んでいた。

その総仕上げが、1866年1月、京都薩摩藩邸における竜馬仲介の西郷・桂会談となった。名実共に倒幕に向けた薩長同盟が結ばれた。

最近、幕末当時の木戸公允にまつわる私信を紐解いた結果、「薩長同盟6か条約」の確認レターの中に、「朝廷に働きかけ、長州の冤罪を晴らすこと」との条文が見つかった。
幕府が決定し、朝廷が承認した「長州の朝敵処分」条項を巡り、1866年1月に最終決定まで、約2週間を要したが、その最終処分内容を待っていたため、薩長同盟の締結が長引いたことが判明。

それまでは、竜馬が薩長同盟交渉成立の仲介に当たり、2週間の説得工作を要したと伝えられていた。

どうも長州藩士・木戸公允が、「長州の朝敵処分」をカモフラージュするために、竜馬をヒーローに仕立てた、作られた伝説のようだ。
激動期の史実には、まだまだ解明の余地が残されていると云える。

最後に“薩長同盟”の歴史的意義については、薩長の長所が融合され、「武力+薩摩の現実主義+長州の理念・情熱」と云う相乗効果によって、維新へ向けて推進力増大・スピードアップに繫がったと云える。


徳川慶喜物語 “薩長同盟”締結前夜

2007年05月17日 | 歴史
先ずは、薩長同盟締結を演出した、坂本竜馬を取上げる。
土佐藩の郷士・坂本竜馬は、強硬な攘夷論者で、開国論者の幕臣・勝海舟を、北辰一刀流の腕前で、斬りに行くが、逆に勝海舟の進歩的な考えに共鳴して弟子入りしてしまった。



写真は、高知市桂浜にある、坂本竜馬銅像。
坂本竜馬は、勝海舟と共に神戸の海軍操練所で操船術を学ぶため京へ出たが、京は幕府が討幕派を駆逐するために結成した新撰組と薩長との間で争いが絶えない都となっていた。

「日本人同士が殺しあっていては、欧米列強の植民地化の餌食になってしまう。」と危機感を持った竜馬は、新政府樹立に動き出した。



写真は、坂本竜馬の肖像。
竜馬は、「犬猿の仲の薩長が軍事同盟を結び、一致団結しなければ幕府を倒せない。」と盟友・陸援隊長・中岡慎太郎の協力を得て薩長和解の仲介に奔走した。
しかし薩摩の西郷隆盛、長州の桂小五郎は、藩への拘りとプライドから同盟を結ぼうとしなかった。

竜馬は、新政府樹立後も、徳川家を断絶せず、新政府に参加させるべきとの考えで、「敵は殺さずとも、力を奪えばそれで充分、生かしておけば必ず役に立つ日が来る。」との竜馬の考えを受入れられなかったのも、薩長同盟話進展の支障となっていた。

そこで竜馬は、勝海舟の計らいで、敵である慶喜に接見していた。
竜馬は驚いた。と云うのも、「徳川は政体が古すぎる、誰が将軍になっても、うまくいかぬ、幕府にも、お前のような気骨ある家臣がおったらなあ・・・」と慶喜は呟いたと云う。

慶喜の心底を垣間見た、竜馬は意を強くして、薩長同盟締結に向けて、更に邁進した。