近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

堺市美原区の黒姫山古墳とは!そのⅠ

2010年06月28日 | 歴史
黒姫山古墳は、堺市美原区黒山にある5世紀中頃築造と考えられる前方後円墳で、国の史跡に指定されている。

墳丘は、後円部に比べて前方部が高く、くびれ部北側に造り出しを付加し、周濠を巡らせている。叉外部施設としては、墳丘斜面に葺石を施し、墳頂部外縁とテラスに円筒埴輪と朝顔形埴輪を巡らせている。

本古墳周辺には、築造当時少なくとも6基の陪塚的な小形古墳を伴っていたらしい。









写真は上から、黒姫山古墳の空撮と同古墳墳丘の様子で、二段築成の墳丘と復元された埴輪配列状況、本古墳のこんもりした現在の墳丘光景及び本古墳の周濠。









写真は上から、本古墳の案内板と石碑、同古墳周濠外の周庭の様子、同古墳の復元された石室内部の様子及び同古墳脇に復元された石室と埴輪列。

本古墳は、全長114m・前方部の幅64m・後円部の径67m・高さ11mほどの二段築成の前方後円墳で、百舌鳥古墳群と古市古墳群の中間に位置する。

本古墳の北側くびれ部に造り出しがあり、墳丘の周囲には幅約15m前後、深さ約2mの濠がめぐっている。平坦部の古墳としては珍しい、幅約5mの周庭が濠の外側を取り巻くように存在する。

写真のように、現在遊歩道が敷かれている周庭は、濠の外周に設けられ、周庭帯は、墳墓の範囲から除外されるのが通例らしい。



岸和田市の無名塚古墳とは!

2010年06月26日 | 歴史
無名塚古墳は、久米田池のほど近く、久米田丘陵一帯に散らばる古墳群の一つ。

かつては10数基の古墳があったらしいが、現在確認されているのは8基。
そのうちの3基(貝吹山古墳、風吹山古墳、無名塚古墳)が整備されて久米田公園内に所在する。

無名塚とは、何らかの理由で名前が伏せられたのか、忘れられたのか?









写真は上から、現在の無名塚古墳現場と昭和30年代当時の無名塚古墳、墳頂から見下ろす2築段の埴輪列及び本古墳の造り出し部のような突き出しの光景。

無名塚古墳は、5世紀初頭に造られた直径約26mの円墳で、墳丘には写真のように埴輪が並び、周濠があったことが発掘調査により明らかになっている。

出土した埴輪は円筒埴輪で、隣接する風吹山古墳のものとほぼ同時期のもの。

久米田寺の西に連なる丘陵地に、岸和田市の文化財に指定された、貝吹山・無名塚・風吹山・女郎塚など六基の古墳がある。

岸和田市の風吹山古墳とは!

2010年06月24日 | 歴史
風吹山古墳は、全長約71m・円墳部径約59mの古墳で、古墳を上から見た形が帆立貝に似ていることから、帆立貝形古墳と呼ばれている。

現在、久米田公園内に存在し、最も良く整備されている。





写真は、風吹山古墳正面の墳丘状況と本古墳の逆方向からの墳丘状況。

久米田古墳群のうち、第2位の規模を誇る風吹山古墳は、貝吹山古墳の南西約120mの位置にあり、径約59m・高さ6.4mの帆立貝形古墳で、墳丘は2段築成で葺石・埴輪列が検出されている。

発掘調査により、墳丘の形状の改築と馬蹄形の周濠があったことが分かったと云う。





写真は、風吹山古墳墳頂の様子及び本古墳から見下ろす市街地と久米田墓地。

墳丘は葺石で覆われ、円筒埴輪が並んでいたと云う。

墳丘は葺石で覆われ、円筒埴輪が並んでいた。墳頂部には2基の埋葬施設が確認されているが、木棺と、胃や鉄製のよろい、銅鏡、鉄刀、鉄剣、多くの玉類などの副葬品が出土した。

副葬品等から貝吹山古墳に続く5世紀前葉(古墳中期)の築造と見られている。

平成4・5年の発掘調査では、石室内から男女の物と思われる副葬品を発掘した。

東側には女性の副葬品と見られる多量の玉類・大きな鏡・剣2本を検出、西側には男性のモノと見られる刀2本・小さな鏡等を検出したと云う。

男女が複葬される場合、通例は並列に埋葬されるのに対して、東西一列に直線的に埋葬されていた珍しいケース。



岸和田市の女郎塚古墳とは!

2010年06月22日 | 歴史
女郎塚古墳は、久米田公園内とその周辺にある8基の久米田古墳群中の一つで、岸和田市池尻町に所在する。

現在、岸和田市立久米田中学校の敷地内に所在し、風吹山古墳の南側に位置している。











写真は上から、久米田中学校内に所在する女郎塚古墳、昭和30年代当時の女郎塚古墳、本中学校校舎と民家にに隣接した本古墳及び本古墳墳頂の様子。

標識や説明看板も無く、写真のように、中学校校庭内の雑木に覆われ、分かりにくい場所に眠っている状況。

本古墳の直径は約28mの円墳で、平成13年の発掘調査で、墳丘には円筒埴輪列が並べていたことが確認され、周濠も検出されている。

叉古墳に隣接して建つ校舎の部分に造出しがあったかもしれないと云う。

出土した埴輪群より、5世紀前半頃に造られた、古墳時代中期の古墳と考えられている。

大阪市天王寺区の茶臼山古墳とは!そのⅡ

2010年06月20日 | 歴史
茶臼山古墳巡りを続けます。
これからは、茶臼山内部へ踏み込んで見ます。













写真は上から、天王寺公園内の茶臼山と河底池への案内石碑、茶臼山古墳の墳丘の様子、茶臼山古墳の墳頂光景、古墳内部の散策道、通天閣を望む本古墳の周濠光景及び同古墳もう一方の周濠光景。

本古墳は、聖徳太子が建立されたことで有名な四天王寺のすぐ南西にあるが、被葬者は不明。5世紀後半に造営された全長200mほどの前方後円墳。

『日本書紀』には四天王寺が「難波の荒陵」に建てられたという記述があり、四天王寺境内には5世紀の大首長の墓に使われた長持形石棺があることも、付近に大古墳があった傍証になっており、難波の荒陵=茶臼山という推測が成されている。

茶臼山を古墳とするかは説が分かれるが、荒陵山と呼ばれてきた同地は古墳として伝承され、ここから出土したとされる石棺蓋が四天王寺に伝わっている。古地図の形状からも追認され、そのため前方後円墳と云われてきたらしい。

古墳自体は5世紀にこの地の豪族のために造られた墓といわれ、大阪市内でも最大級の前方後円墳と云われているが、被葬者は不明。

しかし平成8年の発掘調査結果では、御勝山古墳や堺市の大塚山古墳にも共通している方法で盛り土が行なわれたことが明らかにされていたほかは、古墳を示す資料は発見されていない。

叉埴輪や葺石なども確認されなかったことから、「古墳ではない」とする説が現れたと云う。

しかし平安時代以前に築かれた盛土が古墳の築造時によく用いられた工法と類似するものであることが明らかにされ、古墳の可能性は残されている。

墳丘の形状でも前方後円墳・円墳などと諸説が存在するが・・・・・。

一方、四天王寺境内の発掘調査では、埴輪などが出土しており、茶臼山古墳を含めさらなる周囲の発掘調査の進展が望まれる。

そして平成21年の発掘調査でも、水銀朱が塗られた石室らしきものが発掘されたことが発表され、詳しい発掘結果の公表が待たれる。



大阪市天王寺区の茶臼山古墳とは!そのⅠ

2010年06月18日 | 歴史
茶臼山古墳は、市内天王寺区茶臼山町にある古墳で、大阪府指定史跡。

本古墳の周囲一帯は天王寺公園となっており、この古墳も公園の一部として遊歩道が整備されている。

公園本体との間には河底池があるが、これは788年に和気清麻呂が、大和川や河内湖の排水と水運のために上町台地を、ここで開削しようとして失敗した跡地らしく、その土を積上げたものが茶臼山と言われている。











写真は上から、天王寺公園の光景、同公園内の花壇と花模様、同公園内の茶臼山と河底池の光景及び同公園内にある、都会に取り残されたような慶沢園光景及び慶沢園の絶景。

天王寺公園は、明治42年に開設された、長い歴史を持つ公園で、起伏に富んだ園内には、旧住友家の名園・慶沢園や茶臼山、市立美術館・動植物公園などがある。

昭和62年に開設された天王寺博覧会を契機に、水と緑をふんだんに取り入れた公園へと一新されたと云う。

茶臼山は、大阪冬の陣の際に徳川家康の本陣となり、夏の陣では真田幸村が布陣し、「茶臼山の戦い」の舞台となり、激戦地となったことでも有名。

本陣跡の遺構がよく保存されており、記録にある家康本陣の台所跡の一部も発見されたらしい。

現在、茶臼山や河底池、もと住友邸の庭園である慶沢園一帯は、天王寺公園にとり入れられ、一般公開されている。

明治以降は住友家邸宅の敷地の一部となっていたが、大正14年に住友家から邸宅敷地(現・大阪市立美術館)、慶沢園とともに大阪市に寄付され、天王寺公園の一部となったと云う。

河底池も昭和3年に公園に編入されている。

大阪市生野区の御勝山古墳とは!

2010年06月16日 | 歴史
先ずは、古墳時代前期から中期の上町台地の様子を概観してみる。

上町台地上の御勝山古墳が造られた頃、大坂は上町台地を中心に開けて、台地東側の河内平野が徐々に開発されていった時代。

当台地上には、大阪湾を見下ろすように、帝塚山古墳・茶臼山古墳や聖天山古墳が造られていったが、御勝山古墳は平野を流れて大和に至った大和川を望んで立地していた。

5世紀の日本は“倭の五王”の時代で、これらの5王は、難波や河内を勢力基盤にしていた。

上町台地上の古墳群は、全長100m超クラスで、百舌鳥や古市の大型前方後円墳群とは規模が劣り、“倭の五王”の墓というよりは、五王に従って難波地域を預かる豪族の墓ではないかと考えられている。

叉本古墳は中国に使者を送った、いわゆる「倭の五王」のいずれかに関連するお墓で、その当時は渡来人の往来が活発であったため、そうした渡来人の大物、もしくは関係の深かった人が埋葬されているとも考えられている。

いずれにしても当時から難波は、大陸との交流の玄関口として、大陸からの先進文化を持つ、渡来系住民が住んでいた先進地域であったと云える。

御勝山古墳は、5世紀前半に築造された前方後円墳と推定されているが、被葬者は不明で、西側の墳丘周囲には盾形の周濠が残っており、周濠を含めると全長約150mになる。

本古墳は、生野区御勝北に所在するが、元は岡山と呼ばれ、1615年夏の陣の大坂落城のとき、徳川秀忠がここで戦勝の宴を催したことから御勝山の名で知られるようになったと云う。

叉大阪夏の陣で徳川方の本陣が置かれたため、墳形が破壊され、現在は後円部のみが残っている。













写真は上から、御勝山古墳全景、空撮左側の本古墳光景、鬱蒼とした森に覆われた墳丘、本古墳石碑、本古墳墳丘の様子及び柵越しの望む古墳内の散策道。

本古墳は、南北約112m・東西約55m・高さ約8mの前方後円墳で、現在は前方部が道路(勝山通)と空撮写真右側の勝山南公園になっており、後円部を残すのみ。





写真は、空撮写真右側の勝山南公園全景及び本公園の運動場光景。

後円部は比較的よく残っているが、前方部は御勝山南公園造園のため、破壊されている。

御勝山古墳は、市内では、天王寺区の茶臼山古墳と住吉区の帝塚山古墳と並んで重要な史跡の一つ。中臣(藤原)氏の祖である『大小橋命(おおおはせのみこと)』の墓であると云われているが、真相は明らかではない。

叉本古墳は、“天王寺区勝山”などといった住居表示に登場する“勝山”の由来となっている。

本古墳からは、円筒埴輪・形象埴輪・土師器・須恵器などの遺物も出土している。




写真は、本古墳から出土した円筒埴輪片。

1990年の調査では、大阪市域では現在のところ最古となる縄文時代前半の土器片が発見され、これを機にこの附近を“勝山遺跡”と名付けられた。


大阪市住吉区の帝塚山古墳とは!

2010年06月14日 | 歴史
帝塚山古墳は、大阪城付近から南に細長くのびる上町台地上にあり、大阪市内に残る4つ古墳である、天王寺区の茶臼山古墳、生野区の御勝山古墳、阿倍野区の聖天山古墳、住吉区の帝塚山古墳の一つで、出土した埴輪片の特色から、4世紀末から5世紀初頭の国指定史跡の前方後円墳。

町中にありながらも比較的良く原形を残していることから、国の史跡に指定されたと見られる。









写真は上から、帝塚山古墳の全景、同近景、森の間から覗く同古墳墳丘の様子及び民家の間から覗く帝塚山古墳の様子。

鬱蒼とした森に覆われた本古墳は、神秘的な雰囲気を醸し出している。

帝塚山古墳の規模は、現在は全長約88m・高さ約9mで、街中の北部高台にあり、すぐ隣まで民家が迫っているが、大和朝廷に高官として仕え、この付近に居宅があった“大伴金村”(5世紀から6世紀にかけての豪族)の墓という説もある。

帝塚山学院というハイソな学校のある高級住宅地に、あたかも小島のように浮かぶ古墳。
現存している塚は、前方後円墳として原形をとどめる市内唯一のもの。





写真は、帝塚山古墳の案内板と巨碑が見える帝塚山古墳内部の様子と同古墳の裏側に続く市立住吉中学校。

墳丘上に覗く巨碑は、明治天皇が陸軍特別大演習をここから統監されたことを記念して、当時の住吉村が建立されたものらしい。

現在は、帝塚山古墳は一つだけだが、明治時代までは、俗に「大帝塚」と「小帝塚」と呼ばれる大小二つの古墳があり、この地に館を持っていた古代豪族の大伴氏の大伴金村とその子の墓とされていたらしい。

大帝塚の方は、写真のような、現在の大阪市立住吉中学校の敷地となり、小帝塚の方が帝塚山古墳として現存している前方後円墳。

本古墳は、住吉古墳群の一つで、上町台地西端に立地し、上位段丘は標高12mあり、墳丘は前方後円墳。

前方部は2段築成・造出なしで、元々は幅20~30mほどの周壕があり、墳丘長約120m・後円径約57m・高約10m・前方幅約50m・前方部長さ約44m・高さ約8m・くびれ幅約30mの規模を持つ。

外表施設は、前方部に埴輪列が巡り、葺石も敷かれていたと云う。しかし石室・石棺などの内部構造は不明。

周濠の痕跡は皆無で、周囲が宅地や学校で囲まれているため、古墳保存には役立っているが、古墳らしい様子は窺えない。

帝塚山の文字面から、天皇の塚であると錯覚するが、この名称は明治以降に付けられたもので、以前は「手塚」または「手塚山」と呼ばれていたらしい。

明治天皇が大阪に行幸し、かつての南朝の後村上天皇の御所だった住吉行宮(あんぐうは天皇の仮の御所)に滞在し、当地に足を運んだことを機縁に「帝塚山」という名称に改めたとされる。

陪塚が数多くあったことと、帝塚という名称から天皇の墓という説や大伴金村の墓という説があるが、埋葬者は不詳。

埋葬者が不詳なこともあり、何かの秘密が帝塚山古墳に隠されているのではないか?或いは継体大王を大和に連れてきた大伴金村に関わる秘密が、どこかに残されているのではないのか?等々謎めいた古墳ではある。




大阪市阿倍野区の聖天山古墳とは!

2010年06月12日 | 歴史
聖天山古墳は、阿倍野区松虫通の聖天山公園内の北東部に所在する、現在は径13m・高さ3mほどの6世紀の小古墳。







写真は上から、聖天山公園内の聖天山古墳全景、本古墳墳丘とクスノキ及び本古墳石垣の近景。

写真のように、外周を高さ3m程の石垣で保護され、中に大きなクスノキが1本立っているが、「聖天山古墳」という標識は無く、これが古墳だとは分からない。

元は大きな古墳だったらしいが、昭和26年に、土を採って小さくするうちに石室が発見され、埴輪・土器・直刀・馬具等の副葬品が出土したものの、現在は行方不明になっていると云う。



写真は、正圓寺の珍しいお寺の鳥居。

聖天山公園内にある、正圓寺は939年に僧・光道の創建で、“天下茶屋の聖天さん”で親しまれているが、この丘陵自体も、西向きの前方後円墳の可能性があると云う。また、天狗塚・柘榴(ザクロ)塚とよばれる小古墳があったらしい。

当時の“大聖喜天”石表の台石は、柘榴塚から出土した石室の一部と見られ、かつてこの近くに隠棲した兼行法師が試用した藁打ち石との伝えがあり、その碑が立っている。

この辺りの古墳群を「阿倍野古墳群」と呼んでいるらしい。

正圓寺の境内には、“聖天山山頂”の標識もあり、聖天山(標高14m)は、天保山(標高4.5m)・御勝山(標高14m)・帝塚山(標高20m)・茶臼山(標高26m)と共に大阪5低山の一つらしい。

「聖天山」は阿倍野区の西端、上町台地の南端に位置する、小高い丘だが、山号ではなく標高14mの低山の名前で、山頂は正圓寺境内にある。

本古墳は大きく削られており、以前撮影された写真を見ると柵で囲われていたが、現在ではそれもなく十分な状態で保存されているとは言い難い。

正圓寺は1690年頃に、この地に移築再興された寺院で、それよりも遡る南北朝の頃、この付近には吉田兼好の庵があったと伝わっている。

聖天山の丘は、フェンスや柵などで寸断されており、一部がテニスコートや駐車場やマンションのモデルハウスになるなど、無秩序状態となっており、見る影もない。

当丘の西部にある寺院だけが、辛うじて静謐を保っている。


東近江市の日本最古縄文草創期・相谷熊原遺跡とは!そのⅡ

2010年06月10日 | 歴史
日本最最古の縄文草創期の竪穴住居跡が出土した、滋賀県東近江市の相谷熊原遺跡の現地説明会の様子を、引続き報告します。

今回出土した竪穴建物の大きさ・形状・深さなどは構造が明確であり、確立していることから、この時代に高い文化レベルを有していたことが分かる。

作るのに相当な労力がかかる上、多くの土器や石器も出土しており、一定時期でも定住したことが考えられる。

衣食住環境が整っていたとも考えられ、この時期既に定住生活が始まっていたかもしれない。

氷河期が終わり暖かくなりつつあった時代だけに、気候の変化からシカ・イノシシなどの中形の哺乳類が食糧事情を変えさせたことも定住生活を可能にしたとも考えられる。




写真は、相谷熊原遺跡から出土した、完全な土偶1体及び三重県飯南町粥見井尻遺跡から出土した、これまでの日本最古の土偶。

国内最古級の相谷土偶が、完全な形で出土したと発表した。縄文時代草創期の住居群跡は全国で数例、土偶では三重県の粥見井尻遺跡で2点しか発見されていない。
粥見井尻土偶の写真は、1999年1月当遺跡の現地説明会でのもの。

従って今回の発見は、縄文草創期の土偶としては、2遺跡・3例目となる。

写真のように、相谷土偶の方が、粥見井尻土偶よりも芸術的な優美さに秀でている。造形的に豊満な胴体像を表現している。

相谷土偶は、鈴鹿山脈を挟んで相対しているとはいえ、粥見井尻土偶との共通性は見出せない。

今回の発見は、移動生活から定住が始まった時期の暮らしや文化がうかがえる、貴重な発見。

発見された土偶は、高さ3.1cm、最大幅2.7cm、重さ14.6g。

女性の胴体のみを、胸や腰のくびれも優美に表現し、底は平らで自立するのが特徴。上部に直径3mm、深さ2cmの穴があり、棒で別の頭部をつないだなどの可能性もあると云う。

ところで、日本全国の出土土偶の総数は15,000体ほどあるらしい。出土分布は東日本に偏っており、西日本での出土はまれ。

国宝指定の土偶は、長野県茅野市の縄文中期・縄文ビーナス、青森県八戸市の晩期・合掌土偶及び函館市の縄文後期・中空土偶の3点。以下紹介すると、







写真は上から、茅野市棚畑遺跡出土のビーナス土偶、八戸市風張遺跡出土の合掌土偶及び函館市著保内野遺跡出土の中空土偶。

これら3点の国宝土偶は、縄文時代も下がって中期以降で、且つ発見された遺跡は関東以東で、特に芸術的な造形美という点でほぼ完成されたと云える。

これまで現存する日本最古の土偶は、従来三重県の粥見井尻土偶2点に、今回の相谷土偶を加えて、縄文時代草創期の土偶が3点となった。

日本最古の土偶が、土偶のメッカである東日本ではなく、鈴鹿山脈を挟んで発見されたのは、氷河期が終わったばかりの当時の地形・食糧事情が西日本優位に働いたからに他ならないと思われる。

土偶に託された思想・祈りなどに諸説ある中、母性愛・繁栄などの象徴として、自然発生的に造形化されたものと思われ、定住生活が始まり、集落が形成され始めた西日本に先ず誕生したと云える。





東近江市の日本最古の縄文時代草創期遺跡とは!そのⅠ

2010年06月08日 | 歴史
先般6月6日に滋賀県東近江市相谷町で、全国的なメディア網で取上げられた、日本最古の縄文時代草創期の遺跡、相谷熊原遺跡の現地説明会が行なわれましたので、その模様を急遽ここに2回に分けて報告します。

東近江市の相谷熊原遺跡は、滋賀県東部の平野を流れる愛知川と、その支流である渋川の合流点にある。ここは愛知川上流の先端部に当たり、山間部と平野部が接する場所で、遺跡の背後には鈴鹿山脈へと繋がる丘陵・山地が広がっており、眼下には琵琶湖と伊勢湾を結ぶ八風街道が通っている。

相谷熊原遺跡は、平成21年から水田の区画を作り替える圃場整備事業のため、試掘調査を実施した結果、ほぼ全域から縄文時代から中世にかけての遺跡・遺構が確認された。





写真は、東近江市の相谷熊原遺跡現場で、背景の鈴鹿山脈につながる山間地に愛知川が見える。それと写真右側は相谷熊原遺跡がある圃場整備事業の光景。







写真は上から、平成22年6月6日の相谷熊原遺跡現地説明会の様子と本遺跡から出土した土石流の残痕。

平野部を望む山間地は標高200m余りにあり、愛知川が氾濫を繰返した歴史を思い知らされる。









写真は上から、相谷熊原遺跡出土の竪穴住居跡第2棟と第3棟、計4棟が南西から北東に一直戦に並ぶ竪穴住居跡群及び土偶が見つかった竪穴住居跡第1棟。

滋賀県文化財保護協会は、平成22年5月29日、同県東近江市永源寺相谷町の相谷熊原遺跡で、縄文時代草創期(約1万3000年前)の竪穴住居跡4棟が見つかった。

本遺跡は、三重県境の鈴鹿山脈から流れる愛知川南の河岸段丘にあり、山間地と平野部が接する場所にある。

竪穴住居群は、緩い斜面約100mの間に5棟が連なって確認された。

竪穴建物群は、緩傾斜の尾根が愛知川に向かって延びている、西側谷斜面に沿って造られている。

更に既に埋め戻されていたが、土偶が出土した竪穴住居跡第1棟は、北西の別の場所で見つかっており、合計5棟の縄文時代草創期の竪穴住居跡が検出された。

日本最古級の竪穴住居跡は全国的にも数例で、しかも草創期の建物跡がこれまでの想像を遥かに超える規模で、径約8.0mのいびつな円形で、深さは約0.6~1.0mを測る。




岸和田市の志阿弥法師塚古墳とは!

2010年06月06日 | 歴史
志阿弥法師塚古墳の墳丘は、古墳が造られた当時とは変形しており、昭和46年の実測調査によると、直径約16mの円墳であったと推定されている。

以前に腕輪形の石製品が出土したと伝えられている。

なお、この古墳の名称になっている“志阿弥法師”は、奈良時代の僧の名前。奈良時代よりも前に古墳が造られているので、この古墳が志阿弥法師のお墓ではなく、あくまでも伝承の一つ。









写真は上から、墓石越しに見える、志阿弥法師塚古墳の墳丘、本古墳が柵に囲まれ、鍵がかけられた様子、本古墳の昭和30年代当時の墳丘及び民家の間に垣間見る本古墳墳丘。

写真の通り、本古墳は、久米田墓地内にあり、前面を墓石で埋め尽くされている。
奥に見える建物が墓地の火葬施設。

本古墳の所在地は、私有地のため中には入れないのみならず、それらしき標識や説明看板などは皆無。

現在は当時の墓石は無く、新しく設置され、叉生えていた八本の松も無くなり、墳丘上は、私有地庭園の築山のように整備されている。

岸和田市の光明塚古墳とは!

2010年06月04日 | 歴史
光明塚古墳は、久米田寺の境内に存在するが、墳丘は古墳が造られた当時とは変形しており、昭和46年の実測調査によると、直径約25~30mの円墳であったと推定されている。

昭和17年当時は“光明皇后塚”と呼ばれていたが、光明皇后は聖武天皇と並んで、奈良市法蓮町字多門山にある“佐保山東陵”へ葬られており、本古墳は皇室の陵ではないため、現在の名称は光明塚古墳と呼ばれている。

一部の伝説では、光明皇后の御爪、御遺髪を葬った塚と伝えられている。









写真は上から、現在の久米田寺境内にある光明塚古墳の全景、本古墳墳丘の様子、昭和17年頃の墳丘及び本古墳に鍵がかけられ、柵がめぐらされている状況。

本古墳は、久米田寺の私有地内に所在しているため、公開されていない。

写真の通り、昭和17年頃の墳丘は、現在と比較して驚くほど高く、当時はまだ良好な状態だったことがわかる。現在は写真の通り、墳丘はほとんどなく、一見して古墳とはわかりにくい状態。

光明塚古墳は、聖武天皇の皇后で、橘諸兄の異母妹にあたる光明皇后に関連する古墳と云われているが・・・・。光明皇后と異父兄妹の関係にあった葛城王が臣籍降下し、橘諸兄と名乗っていたと伝えられている。



写真は、現在の久米田池の光景。

僧・行基が、朝廷の高官であった橘諸兄のバックアップによって灌漑用のため池「久米田池」を築造したとも言われている。

聖武天皇の勅命によって行基がこの池の造成にとりくみ、13年かけて完工したという。

叉大阪府和泉市と堺市南区に跨る位置にある光明池の名前は、光明皇后生誕の地という伝説から由来しているらしい。


岸和田市の貝吹山古墳とは!

2010年06月02日 | 歴史
それでは、貝吹山古墳巡りから始める。

貝吹山古墳は、市内14基以上にのぼる古墳群の中で最大規模の前方後円墳。

久米田寺の西の丘陵地には、貝吹山・無名塚・風吹山・女郎塚など6基の古墳があるが、中でも貝吹山古墳が一番大きく、戦国時代の久米田合戦で“三好実休”の軍が陣取り、ほら貝を吹いたことから名づけられたと伝えられている。

貝吹山古墳は、4世紀末から5世紀初頭にかけての前方後円墳で、全長約135mもあり、伝承では橘諸兄(奈良時代の政治家・元皇族)の塚と言われている。









写真は上から、岸和田市の貝吹山古墳の墳丘状況、本古墳後円部から前方部の様子、本古墳後円部墳丘及び本古墳の周濠と見られる溜池。

貝吹山古墳は、全長約135m・後円部径約82m・前方部幅約64m・高さ9mほどに及ぶ。周囲には12~13.5mの周堀を巡らせ、葺石・埴輪列も確認されていると云う。

後円部の埋葬施設からは石棺と碧玉製管玉・鉄片・土器・銅鏡・銅鏃・鉄製かぶと・腕輪形の石製品などが出土し、4世紀末から5世紀初頭にかけての古墳時代中期の築造と見られている。

叉出土品から見て朝鮮半島の新羅の影響が強く、渡来人の有力者と見られている。

百済が滅びたときに、百済王や多くの百済の人々が日本に来たことは知られているが、勝者の新羅の渡来人が来ていたことは知られていない。

それほど、当時から大陸との交流が盛んで、日本民族との交わりにより今の日本民族があることは間違いないと云える。

しかし時代が下がるにつれ、中央政権と和泉地域の首長との関係の変化から、岸和田市内では大規模な古墳が造られなくなったと云う。

当地の首長の影響力が薄れたためか、新羅系の渡来人であったことが関係し、大和との関係が絶たれ孤立化して行ったか、他に移転したか等興味が尽きない。