近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

謎々ストーリー・第21代雄略天皇陵に纏わる謎とは!その1

2014年02月21日 | 歴史
雄略天皇の纏わる、数々の謎について、ここからは真相に迫ります。

第21代雄略天皇(456~479年)は允恭天皇の第5皇子で、安康天皇の同母弟。気性が激しいため、“大悪天皇”との謗りを受けてきたようだ。

安康天皇が眉輪王に刺殺された後、第5皇子は、王位につくため兄の坂合黒彦皇子(さかいのくろひこおうじ)と兄の八釣白彦皇子(やつりしろひこおうじ)をもその黒幕として殺害。

又次期天皇の有力候補だった、仁徳天皇の孫・市辺押磐皇子(いちのへのおしはのみこ)を狩に誘い出し射殺して即位。反抗する氏族らを軍事力で鎮圧したと云う。

というように、日本書紀によれば、雄略天皇は残虐非道な暴君として記録され、独断専行の残虐ぶりはその後も続き、多くの偉人を殺害したため、“大悪天皇”という評価を後世に残した。



写真は、大阪堺市の大仙古墳・仁徳天皇(313~399年)陵の正面遠景。

日本書記に残る数々の悪行から尊卑の秩序を保つため、元々雄略陵だった大仙古墳を仁徳陵に当てたのではないかと推測されている。

現実に、大仙古墳の円筒埴輪は5世紀末のもの故、仁徳陵とするのは誤りで、造営時代的にはむしろ雄略陵とするのが正しいと云う。







写真は上から、現在の雄略天皇陵正面入口、円墳と方墳の繋ぎ目及びその周濠光景。

羽曳野市の雄略陵・高鷲丸山古墳が、直径76mの円墳で、「天皇陵=前方後円墳」の前提では、高鷲丸山古墳は雄略天皇陵の候補から外れるが、雄略天皇が当時中国宋の墓制の円墳を採用したとの見方がある。

一方写真の通り横からみると、後円部とははっきり別れているが、前方部らしき方墳が認識できる。もともとは円墳で、後から前方部を付け足したという説を裏付ける。

雄略天皇は“有徳天皇”であったとの評価もあり、又数々の武功を称えて、後世天皇が、前方部を付け足したとも考えられるが・・・・。

高鷲丸山古墳とよばれている直径76mの円墳と、平塚古墳といわれる1辺50mほどの方形部分を合わせたもので、円墳には幅20mほどの濠が巡っている。

それにしても、雄略天皇陵としては、もっと堂々とした墓陵が想像され、チョットこじつけがましく、無理があるようにも思われるが・・・・・。


雄略天皇に纏わるあれこれー足跡と謎を追って!

2014年02月08日 | 歴史
倭の五王の一人として、確固たる信憑性を得ている雄略天皇に纏わる逸話について、これから6回のシリーズにわたってお送りします。

中国宋時代の宋書の史実により、倭の五王の一人として劇的にデビューした雄略天皇は、足跡を訊ねると表裏双方の側面が重層し、又謎めいたストーリーが錯綜して真相究明が難しいが、それだけに足跡と謎を追ってみたくなる。

○古墳出現の歴史的背景と意義
弥生時代の墳丘墓は、山陰・北陸地方の代表的方形墳丘の四隅を突出させた特異な形態の墳丘墓が営まれた。

しかし古墳時代の古墳はその規模において飛躍的に増大する一方で、弥生時代に見られた顕著な地域的特徴が見られなくなり、極めて画一的になっていった。

→大規模な古墳が、畿内のヤマト・吉備・瀬戸内・北部九州にあるが、玄界灘沿岸には大規模な古墳が見られないことは、それまで中国大陸等交易ルートを一手に握っていた玄界灘沿岸地域に対し、瀬戸内沿岸各地の勢力が畿内のヤマトを中心に連合したためと見られる。

玄界灘沿岸を制圧し、鉄や先進的文物の入手ルートの支配権を奪取しようとしたことが、広域政治連合の契機になったと想定されている。

→連合に加わった各地首長達の同盟関係の確認・強化の為の手段として、共通の墓制である大規模な前方後円墳の造営が始まったと見られる。

このような背景・経過を踏まえて、3世紀~4世紀にかけて強大な権力と財力を持った統一国家、初代ヤマト政権が誕生したものと考えられる。

前方後円墳のまとまりは邪馬台国を中核とした政治勢力の延長と考えられる。

→前方後方墳は、伊勢湾沿岸部を中心とする東海地域の中で成立・普遍化し、3世紀後半には東日本でも60m級の前方後方墳が造営されていた。

しかし3世紀末葉から4世紀前葉になると、前方後円墳の造営が東日本でも急速に広がり、墳形は前方後方墳から前方後円墳に激変していった。

墳形交代は、将に政治勢力の消長を示す事実として意義付けることが出来る。