雄略天皇の纏わる、数々の謎について、ここからは真相に迫ります。
第21代雄略天皇(456~479年)は允恭天皇の第5皇子で、安康天皇の同母弟。気性が激しいため、“大悪天皇”との謗りを受けてきたようだ。
安康天皇が眉輪王に刺殺された後、第5皇子は、王位につくため兄の坂合黒彦皇子(さかいのくろひこおうじ)と兄の八釣白彦皇子(やつりしろひこおうじ)をもその黒幕として殺害。
又次期天皇の有力候補だった、仁徳天皇の孫・市辺押磐皇子(いちのへのおしはのみこ)を狩に誘い出し射殺して即位。反抗する氏族らを軍事力で鎮圧したと云う。
というように、日本書紀によれば、雄略天皇は残虐非道な暴君として記録され、独断専行の残虐ぶりはその後も続き、多くの偉人を殺害したため、“大悪天皇”という評価を後世に残した。
写真は、大阪堺市の大仙古墳・仁徳天皇(313~399年)陵の正面遠景。
日本書記に残る数々の悪行から尊卑の秩序を保つため、元々雄略陵だった大仙古墳を仁徳陵に当てたのではないかと推測されている。
現実に、大仙古墳の円筒埴輪は5世紀末のもの故、仁徳陵とするのは誤りで、造営時代的にはむしろ雄略陵とするのが正しいと云う。
写真は上から、現在の雄略天皇陵正面入口、円墳と方墳の繋ぎ目及びその周濠光景。
羽曳野市の雄略陵・高鷲丸山古墳が、直径76mの円墳で、「天皇陵=前方後円墳」の前提では、高鷲丸山古墳は雄略天皇陵の候補から外れるが、雄略天皇が当時中国宋の墓制の円墳を採用したとの見方がある。
一方写真の通り横からみると、後円部とははっきり別れているが、前方部らしき方墳が認識できる。もともとは円墳で、後から前方部を付け足したという説を裏付ける。
雄略天皇は“有徳天皇”であったとの評価もあり、又数々の武功を称えて、後世天皇が、前方部を付け足したとも考えられるが・・・・。
高鷲丸山古墳とよばれている直径76mの円墳と、平塚古墳といわれる1辺50mほどの方形部分を合わせたもので、円墳には幅20mほどの濠が巡っている。
それにしても、雄略天皇陵としては、もっと堂々とした墓陵が想像され、チョットこじつけがましく、無理があるようにも思われるが・・・・・。
第21代雄略天皇(456~479年)は允恭天皇の第5皇子で、安康天皇の同母弟。気性が激しいため、“大悪天皇”との謗りを受けてきたようだ。
安康天皇が眉輪王に刺殺された後、第5皇子は、王位につくため兄の坂合黒彦皇子(さかいのくろひこおうじ)と兄の八釣白彦皇子(やつりしろひこおうじ)をもその黒幕として殺害。
又次期天皇の有力候補だった、仁徳天皇の孫・市辺押磐皇子(いちのへのおしはのみこ)を狩に誘い出し射殺して即位。反抗する氏族らを軍事力で鎮圧したと云う。
というように、日本書紀によれば、雄略天皇は残虐非道な暴君として記録され、独断専行の残虐ぶりはその後も続き、多くの偉人を殺害したため、“大悪天皇”という評価を後世に残した。
写真は、大阪堺市の大仙古墳・仁徳天皇(313~399年)陵の正面遠景。
日本書記に残る数々の悪行から尊卑の秩序を保つため、元々雄略陵だった大仙古墳を仁徳陵に当てたのではないかと推測されている。
現実に、大仙古墳の円筒埴輪は5世紀末のもの故、仁徳陵とするのは誤りで、造営時代的にはむしろ雄略陵とするのが正しいと云う。
写真は上から、現在の雄略天皇陵正面入口、円墳と方墳の繋ぎ目及びその周濠光景。
羽曳野市の雄略陵・高鷲丸山古墳が、直径76mの円墳で、「天皇陵=前方後円墳」の前提では、高鷲丸山古墳は雄略天皇陵の候補から外れるが、雄略天皇が当時中国宋の墓制の円墳を採用したとの見方がある。
一方写真の通り横からみると、後円部とははっきり別れているが、前方部らしき方墳が認識できる。もともとは円墳で、後から前方部を付け足したという説を裏付ける。
雄略天皇は“有徳天皇”であったとの評価もあり、又数々の武功を称えて、後世天皇が、前方部を付け足したとも考えられるが・・・・。
高鷲丸山古墳とよばれている直径76mの円墳と、平塚古墳といわれる1辺50mほどの方形部分を合わせたもので、円墳には幅20mほどの濠が巡っている。
それにしても、雄略天皇陵としては、もっと堂々とした墓陵が想像され、チョットこじつけがましく、無理があるようにも思われるが・・・・・。