近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

柏原市の高井田横穴群とは!

2008年12月31日 | 歴史
高井田横穴群は、5世紀中頃に築造された河内地方最古の古墳群で、大和川が河内平野に注ぎ込む右岸に位置する。

横穴群一帯には、1,000万年以上も前に噴火した二上山の火山灰が堆積して形成された凝灰岩の岩盤が露出している。

凝灰岩は軟質で、横穴を掘削するには最適の岩盤であることを知って、高井田横穴群の被葬者たちは横穴墓を造ったと見られる。

これまでの発掘調査で162基の横穴が確認されているが、実際には200基以上になると考えられている。

1990年に“国指定史跡”の認定を受け、横穴公園がオープンしたと云う。



写真は、横穴古墳の造り付け石棺。

造り付け石棺は横穴を掘削する際、石棺部分を掘り残して造られたモノで、壁面や床面と一体となったもの。

玄室内部は方形の平面となり、天井はドーム状となっている。
玄室内には、3体前後の人が葬られ、被葬者は木棺に入れて葬られたと見られる。

高井田横穴群の特徴は精巧な加工技術と共に、壁面に描かれた線刻壁画とその画題にあると云われる。
これまでに27基の横穴に壁画が確認されたと云う。



写真は、壁面に描かれた典型的線刻壁画。

壁画は全て横穴掘削当時のものとは云いがたく、横穴が積年オープンのまま晒されて来たことを考えると、むしろ後世に描かれたと見るべき。



横穴13号墳の線刻壁画。

人物・動物(特に鳥)・社等が多く描かれているが、表現の巧拙・線刻の深浅等格差が顕著。

横穴の多くが盗掘にあっているが、武器・馬具・工具・装飾品・土器など多くの副葬品が出土している。

高井田横穴群の被葬者は、副葬品や石材加工技術等から渡来系氏族との説が有力であるが、九州からやって来た石工集団との説もある。





写真は、高井田墳丘公園入口及び高井田山古墳。

近畿最古の横穴古墳の一つ。出土遺物から百済からの渡来人の墓と考えられている。製鉄技術を持ち込んだ集団の仲間ではないかと考えられている。

木製棺2基が見つかり、埋葬品等から男女が埋葬されていたと見られる。熨斗(のし)が出土していることから王陵クラスの墓と見られている。

いずれにしても、当時としては先進的文化を持ち込んだ集団の古墳群であることには間違いないと云える。

橿原市の新沢千塚古墳群とは!

2008年12月29日 | 歴史
新沢千塚古墳群は、大和三山の一つである畝傍山の南西、千塚山に位置する群集墳で、千塚山地域では約600基の大小さまざまな古墳が松林や竹林の中に点在している。

現在古墳群の史跡公園化が進められ、遊歩道・野外博物館などが一般公開されている。





畝傍山を背景にただすむ新沢千塚古墳群現場及び新沢千塚古墳から望む畝傍山

古墳群は20m前後の円墳が中心で、他に方墳・小型の前方後円墳や前方後方墳などがある。

発掘調査は1962年から5年かけて約130基が調査され、多くは5世紀中頃からほぼ1世紀の間に造られ、古墳造りの最盛期は5世紀後半から6世紀前半であることが判明した。埋葬施設は木棺直葬が中心であったと云う。





古墳群の中で最も著名な古墳現場126号墳及び出土した各種アクセサリー。

この126号墳は国際色豊かな副葬品を持ち、装身具として冠飾り・髪飾り・耳飾り・腕輪・指輪などが出土し、いずれも金・銀・金銅製品であったと云われる。

製法・文様などから中国・朝鮮産と見られ、被葬者は朝鮮半島からの渡来人(女性)と考えられ、築造は5世紀後半と見られている。

甲冑・飾り馬具などから、被葬者集団は王権を支えた有力渡来系氏族の下に構成された集団と考えられている。

御所市の極楽寺ヒビキ遺跡とは!

2008年12月27日 | 歴史
極楽寺ヒビキ遺跡は、奈良県御所市南部の“極楽寺”で発見された5世紀前半の豪族居館遺跡。

葛城山麓の高台の上にあり、北と東が谷に面し、南と西には濠と塀がめぐらされている。大型建物跡の床面積は225平方メートルと5世紀代で最大級。

古代豪族葛城氏の本拠地とされる“南郷遺跡群”の南部に位置し、政庁の跡と見られる。

建物や塀はほとんどが焼失しており、葛城氏が雄略天皇の軍勢の攻撃によって滅びたとする日本書紀の所伝を裏付ける。

政庁の存続期間は20~30年とみられている。



写真は、御所市の極楽寺ヒビキ遺跡現地説明会光景。

古代の大豪族・葛城氏が祭祀と政治を行った中心施設で、高さ約10メートルの2階建て“楼閣”とみられる古墳時代中期(5世紀前半)の大型建物跡などが、御所市の金剛山中腹の極楽寺ヒビキ遺跡で見つかった。





写真は、御所市の極楽寺ヒビキ遺跡東側の建物跡と塀跡及び極楽寺ヒビキ遺跡の濠跡。

奈良盆地を一望する標高240mの高台に、塀と濠で厳重に囲んだ古代の“天守閣”。こうした豪族の中心施設の全容が明らかになったのは初めてで、天皇家に比肩する権勢を誇った葛城氏の実像に迫る第一級資料。

建物跡は約15m四方の高床式で、約40cmの柱の直径から2階建てと推定される。南と西に縁側を付けていたとみられる。

建物の東に広場があり、二重の塀と、石積み護岸の濠で囲み、敷地は約1,500平方メートル。南に出入り用の渡り堤を設けていた。

葛城氏が支配した奈良盆地南西部と、大和朝廷の本拠地の南東部も見渡せ、敷地内は掃き清めた跡があり、祭祀に使う高坏も出土。

本建物は、神への祈りや一族に号令を出す際の特別な施設と見られている。短期間で焼失した痕跡があった。

古墳時代中期の豪族居館跡は、群馬県群馬町の三ッ寺遺跡などが知られるが、平地に築かれており、高台の施設は、これまで見つかっていなかった。

「日本書紀」などによると、葛城氏は中国に使者を送った仁徳天皇ら“倭の五王”と姻戚関係を結び、繁栄した。

始祖・襲津彦(そつひこ)は軍事・外交に活躍したが、曾孫の円(つぶら)が456年、雄略天皇に滅ぼされたと云う。


奈良県御所市の宮山古墳とは!

2008年12月25日 | 歴史
宮山古墳は大和西南部平野に築造された、5世紀前半から中頃の西面の前方後円墳で、“室の大墓”とも呼ばれている。

丘尾切断による墳丘は整然とした三段築成で、北側のクビレ部に方形の造り出し及び南側に自然地形を利用した周濠の存在が確認されている。





写真は、室の宮山古墳全景及び宮山古墳現場

主軸全長238m・後円部径105m・高さ25m・前方部幅110m・高さ22mの規模を誇り、古墳時代中期の奈良盆地を代表する前方後円墳。

葺石と共に後円部主体部上には、円筒埴輪と形象埴輪で構成される二重の方形埴輪列が存在したと云う。

前方部からは木棺と共に三角縁神獣鏡など鏡11面、碧玉製勾玉・ヒスイ製勾玉・滑石製勾玉や各種管玉など玉類が多数出土し、大正10年に国史跡に指定された。



写真は、宮山古墳の竪穴式石室

後円部中央に長さ5.51m・幅1.71~1.88m・高さ1.06mほどの扁平割石小口積の竪穴式石室があり、内部に組合式長持形石棺が納められていた。

石室を廻って短形に靭・盾・短甲・家などの埴輪が立ててあったと云う。

石棺は凝灰岩製で、蓋石は長さ3.51m・幅1.32~1.47m・厚さ28cmあり、蓋石上面は格子状に掘り込んで、亀甲状を呈している。

葛城氏の始祖が埋葬されていたとも考えられている。

応神天皇・仁徳天皇・履中天皇に纏わる謎とは!

2008年12月22日 | 歴史
天皇の系図を見ると、父の応神天皇の和風諡号(しごう-贈り名)は、“ホムタワケ”、その子どもの仁徳が“オオサザキ”で、16代仁徳の子の三天皇(17代履中、18代反正、19代允恭天皇)のうち、二人までが、いわゆる!“ワケ系の諡号”を持っている。

しかし、仁徳はワケ系の諡号を持たない。まずこれが不思議で、元々天皇系図も、一般には真実性にかけると言われている。

応神天皇(西暦393年崩御)→仁徳天皇(西暦427年崩御)→履中天皇(西暦405年崩御)→反正天皇(西暦410年崩御)と続く、天皇系図に見られる一連性のなかで、和風諡号の点から考えると仁徳天皇だけが違和感がある。





写真は、堺市の履中天皇陵及び仁徳天皇陵。

次に生存年数だが、第1代神武天皇の生存年数127歳を代表として、架空と断定されている第9代開化天皇までは、いずれも生存年数が100歳を越えている。

しかもその後も、仁徳天皇までは、生存年数が垂仁天皇の140歳を筆頭にどの天皇も100歳を越えている。古代にこんな長生きした人がいるだろうかと極めて疑問であり、仮にこのことが事実としても、16代までの天皇全員が100歳を越えるということは、ありえないこと。

一番興味深い謎はやはり、父である応神天皇とその子どもである仁徳天皇は同一人物ではないかという謎。

この二天皇の人物をめぐる説話には、かなり共通した話があり、例えば古事記には、琴の話がよく出てくるが、古事記の仁徳天皇の所に出てくる琴の話が、日本書紀では応神天皇のところに出てきたり、渡来人の話で、同一と思われる人物が、古事記では、応神天皇の時に日本に来たと書き、『姓氏録』では、仁徳天皇の時に来たとされている。

日本で最大の古墳は大仙古墳・仁徳天皇陵で、第2位は応神天皇陵、第3位が履中天皇陵。ところが、この三つの古墳を考古学的に比較すると、年代順位がおかしい。

埴輪などの比較研究からすると、履中陵古墳の物は、すべて古い形の土師質埴輪で、応神陵古墳の物は、土師質と須恵質埴輪が混在していて、仁徳陵古墳は須恵質埴輪がほとんどだということがこれまでの調査でわかっている。






写真は、典型的な土師器の壷と須恵器の壷。

土師器は弥生土器の名残を持った素焼きの土器で、華麗な文様が影を薄めたのが特徴であり、須恵器に劣る600~750度で焼成される。

一方須恵器は朝鮮半島の技術を取り入れ、1,000度以上の高温で焼いた、青灰色の硬質の土器で、5世紀頃に土師器に取って代わった。

この歴史的事実は、重大なことを訴えている。即ち一番古い古墳は履中陵古墳で、次に応神陵、そして仁徳陵という順番になるが、この順番では、天皇系図上困る。

従来は、大仙古墳が仁徳天皇の陵墓だと言われてきたが、最近では圧倒的にそれを否定する声の方が多い。現に最近、教科書から仁徳天皇陵の説明が消えつつある。



写真は、神戸市舞子の五色塚古墳、平地から望む三段丘。

大仙古墳に代わり、神戸の五色塚古墳が仁徳天皇陵として取り上げられるようになってきた。

大仙古墳自体が、仁徳陵と断定できなくなってきたからであり、この事実は大変悲しいこと。というのも、世界最大規模の古墳がいったい誰を被葬しているのかが分からないとは!

大阪豊中市の古墳群とは!

2008年12月19日 | 歴史
桜塚古墳群は、豊中台地の中央、標高20~25m付近の低位段丘上に立地する古墳群。豊中市の中央部、阪急宝塚線・岡町駅を中心に東西約1.2km、南北約1kmの範囲に分布する。1956年5月に国指定史跡となった。

古墳時代前期後半(4世紀)から、中期末・後期初頭(6世紀)に渡って形成されたといわれている。

昭和10年代に実施された土地区画整理事業により、狐塚古墳・北天平塚古墳・南天平塚古墳などの発掘調査が進み、北摂最大の中期古墳群として周知されるようになった。

近年の調査によって発見された桜塚第37号墳から第44号墳までの8基を加えた、合計44基の古墳が確認されたが、宅地開発に伴い39基は破壊され、現存するものは、大石塚古墳・小石塚古墳・大塚古墳・御獅子塚古墳・南天平塚古墳の5基のみ。

北摂の古墳文化の隆盛を物語る大規模な桜塚古墳群があることや日本最大の規模をもつ堺市旧陶邑につぐ須恵器の窯跡が分布しているのは、古代のこの地方がよく開発されていたことを物語っている。

又天武天皇が桜塚の原田神社で勅祭を執り行って以来、桜塚の地は皇族や後の武家に重用されることとなる。桜塚に古墳群が数多存在するのも、古代より豪族との関係が深い証拠。

☆大石塚古墳




写真は、原田神社及び大石塚古墳。

大石塚古墳は、桜塚古墳群中の西端に位置し、南面する前方後円墳。

北側に位置する小石塚古墳と南北方向にほぼ主軸を揃えるなど、計画的に築造されたことがうかがわれる。小石塚古墳とともに、昭和54年の史跡整備事業に伴って墳丘・規模などの確認調査が実施された。

3段築成、全長80m以上、後円部径約48mで、桜塚古墳群で最も大きな古墳。墳丘には河原の石が葺石として、各テラス面には玉砂利がそれぞれ敷き詰められており、「石塚」の名の由来となったと云われている。





写真は、円筒形埴輪及び埋設円筒埴輪棺。

かつて、墳丘の平坦面には円筒形埴輪と朝顔形埴輪が各々3体一組で配されていた。調査発掘後、それらは豊中市立伝統芸能館に展示されている。

この古墳は古くから原田神社の所領に属し、聖域内に存在することから守られてきたもので、市内ではいち早く昭和31年に国の史跡に指定された。

出土した埴輪類から古墳時代前期後半に築造された古墳とみられ、桜塚古墳群出現時期を位置づける古墳として重要である。

また、4世紀中葉以降の政権中枢部や周辺地域との関係を推察する上においても貴重な資料を提供している古墳。

☆小石塚古墳


写真の小石塚古墳は、大石塚古墳の北側に位置し南面する前方後円墳。
大石塚古墳との間には浅い谷地が入り込むが、主軸はほぼ揃えられている。

昭和54年の史跡整備事業に伴って墳丘・規模などの確認調査が実施された。その結果、全長49m、後円部2段築成、前方部は1段構成と考えられ、大石塚古墳同様に東側のみに周溝を有する。葺石は用いないが、埴輪は使用している。

埴輪には壷形・朝顔形・円筒形などが認められているが、墳丘の損壊が激しいため、すべて遊離しており、原位置と配置は不明。

後円部墳頂には主軸に沿って埋葬施設(粘土槨)が確認されている。

棺は形状から割竹形木棺で、北頭位で埋葬されていたと想定できる。棺は黄白色の良質の粘土で包まれ、周囲には赤黄褐色の砂礫土が充填され、下部には砂利が敷かれていた。

☆大塚古墳


写真の大塚古墳は、桜塚古墳群の東群を代表する古墳。昭和10年代に周辺一帯に施された土地区画整理事業により北と西の裾部を一部削除された。

昭和50年代に入り、墳頂部より副葬遺物の露出を見るようになり、昭和58年に緊急性を重んじ発掘調査が実施された。高さ約18mの3段築成の円墳で、幅12~13mの周濠を含めると直径約80mに達する。

造成は5世紀初めごろとみられている。墳頂部には南北方向に主軸を採る並列された3体の主体部が存在した。主体部は大きく分けて東槨と西槨と呼ばれているが、東槨は、拳大の石で棺の両端を取り巻くように充填させる特異な構造であるが、そのほとんどがすでに流失していた。

西槨は、盗掘により既に大きく損壊していたが、長さ7.1mにも達する長大な割竹形木棺が2つ南北に並べられていたという。

東槨木棺内部からは、鏡・鉄製甲冑・鉄製剣・盾などの副葬品が出土し、調査発掘後、これらは国の重要文化財に指定された。
大塚古墳は1990年に史跡公園として整備された。

☆御獅子塚古墳


写真の御獅子塚古墳は、南面する前方後円墳で、大塚古墳の50m南に位置する。

桜塚古墳群東群を代表する古墳の一つで、大塚古墳に次ぐ規模を有する。
この古墳も昭和10年代の土地区画整理事業で後円部東側の一部は削除されたものの、幸運なことに大部分は保存された。

その後、南桜塚小学校体育館とプール建設に際し、後円部西側の一部と前方部周濠部が破壊された。自然崩壊も激しかったので、昭和60年と平成2年に史跡整備事業とともに発掘調査が実施された。

周濠を含めた全長は70mである。墳丘は2段築成で2段目斜面のみ葺石を施すという特異な外観を呈する。円筒形埴輪が密に樹立しており、中には須恵質のものも含まれる。形象埴輪片が数多く出土した。

後円部墳頂では主体部が上下で直行する2体検出されていたが、農耕具や馬具類、漆塗り革製盾が良好な状態で出土したほか、勾玉などの玉類も約400点出土。

御獅子塚古墳から出土した鉄製武器・武具類は、大陸系技術導入期の様相を如実に表している貴重な資料。

南天平塚古墳


写真の南天平塚古墳は、昭和10年代の土地区画整理事業に伴う道路計画によって、4分の3が破壊されることとなったため、昭和12年に発掘調査が実施された。

その結果、円筒埴輪列を伴う2段築成、直径約20m・高さ5.5mの円墳であることが明らかになった。

南東部では、円筒埴輪列で囲まれた突出部が検出され、方形区画の作り出しが付設していることも判明。

4分の3が道路によって破壊された後、平成3年に4分の1残りの部分の再調査を実施した。

その結果、一段目のテラスの埴輪列の上に幅7~8mの周壕を有することが明らかになった。そして、墳頂の下2.5mから2個の割竹形木棺が発見された。

それとともに、彷製六獣鏡、鉄刀、鉄剣、短甲、衝角付冑が副葬され、棺蓋の上には革盾をのせた形跡が認められた。







大阪池田市の古墳群とは!

2008年12月17日 | 歴史
大阪池田市の古墳群池田市周辺は五月山をバックに猪名川沿いの肥沃な平野部に位置し、後背地は広く川辺郡・能勢から篠山・亀岡にまで通じた、大和への中継地として古代から注目されてきた。この時期既に大和とは緊密な連携関係にあったと考えられる。

古墳時代前期と後期には有力な古墳が散見されるが、中期の大規模古墳は存在しない。

○茶臼山古墳
茶臼山古墳は五月山南麓にあり、標高100mほどの丘陵地に位置する。
全長約62mに及ぶ4世紀前期から中ごろの古墳前期の前方後円墳。





池田市の茶臼山古墳頂上部から望む五月山及び茶臼山中心部光景。
現在茶臼山古墳公園として整備されている。

後円部径約33m・前方部幅約18m・後円部高さ6.5m・前方部高さ3.5mの前方後円墳。

1958年の発掘調査で、長さ6.4mの竪穴式石室が検出され、石室内には僅かであったがアクセサリー類が出土し、又埴輪円筒棺2基が発見されたと云う。

市内で最も見晴らしの良い中心部丘陵地に位置し、且つ出土した副葬品等から当時池田周辺を支配していた秦氏一族の墓との説が有力。



写真は、池田市歴史民俗資料館に展示されている当古墳埋葬品。
碧玉製釧・碧玉製管玉・ガラス玉・鉄剣・鏡等々が出土したと言う。

○鉢塚古墳
鉢塚古墳は池田市鉢塚の丘陵山麓にあり、巨大な石室としてよく知られている。
一辺約40mの上円下方墳で、古墳時代後期の築造と云われている。

横穴式石室は、全長14m・玄室長さ6.5m・高さ5.0mと云う石舞台古墳に匹敵するわが国屈指のモノであることから、被葬者はこの地域の有力な豪族と見られる。



写真のように、鉢塚古墳の玄室内には、鎌倉時代の石造十三重塔があり、左右に不動明王を表わす板碑と地蔵菩薩の石像が安置されている。

当時池田の地は、秦氏の居住地であり、現在でも畑と云う地名が残されていることから、この古墳も秦氏の墓と考えられる。

北側には幅約3mの周濠が残っていると云う。

後期古墳には、他にも横穴式石室を持つ五月ケ丘古墳が発見されている。








大阪八尾市の古墳時代遺跡から珍しい発見!

2008年12月15日 | 歴史
大和川流域はもとより八尾の各地でも治水が試みられ、水田の拡張が図られると共に、物部氏他大豪族の古墳が4~5世紀の山麓古墳から平地古墳へ広がっていったと言う。
八尾市の古墳から出土した珍しい遺物を以下紹介する。

☆美園遺跡から出土した家型埴輪は2階建て・ベッド付!



八尾市美園遺跡から出土した家型埴輪は、2階建てで、しかも2階部分にベッドが備え付けられていると言う驚き!

この写真のように2階部分の外壁四方の中央に盾を表現し、内部にはベッドを備え付けている構想が極めて珍しい!しかも重要な部分には丹を塗っていると言う。

豪族の日常生活には既にベッドが使われていたのか?それとも舶来品を模して創作しただけで、当時としては想像上の家型埴輪であったのか?

☆大石古墳から出土した須恵器の装飾器台上の動物は何物か?



八尾市大石古墳から出土した須恵器は、はたして国産か、輸入品か大変興味深い!
この須恵器・装飾器台上の動物は何物か?

八尾市にある古墳時代後期の大石古墳から出土した、動物を配した装飾器台付須恵器は、高杯・台付壷・装飾器台付等数ある須恵器の中でも大変珍しく、想像力を巡らした一作品。

ムササビか、恐竜か、アヒルか、或いは想像の世界での野獣か、はたして何物か?恐竜は当時から既に知られていたのであろうか?或いは単なる創作された想像上の野獣であったのか?或いは朝鮮半島から輸入されたモノであろうか?

☆中田遺跡から出土した最小の舟形埴輪は特注品か?

八尾市の市街地に広がる中田遺跡から古墳時代前期後半の舟形埴輪が、“最小”の珍物として話題を呼んだと言う。

長さ35cm・高さ8cmと両手に乗るほどのミニチュアサイズで、特別に作られた祭祀用の埴輪ではないかと言われている。



八尾市中田遺跡から出土したミニチュアサイズの舟形埴輪の舟底は穴が開いている。棒を突き刺して持ち運んだのであろうか?

舟形埴輪単独で古墳に置くだけのモノとしては小さすぎるし、舟と家をセットにして祀りを飾り立てる為に使われたのではないかと見られるが???

荘厳・威嚇等「誇示する」古墳から、彩りを加え・独創性を混ぜた「見せる」古墳へ移行していったのであろうか?いずれにしても被葬者の人間模様が見えてくるような感じではある!










大阪岸和田市の古墳群とは!

2008年12月13日 | 歴史
岸和田市は、大阪市と和歌山市のほぼ中間に位置し、大阪都心から約20kmの距離にある。東西約7.6km、南北約17.3kmの細長い地形で、おおむね臨海部・平地部・丘陵部・山地部に区分される。

丘陵部から山地部にかけては豊かな自然が残り、岸和田市の特色の一つ。

☆久米田貝吹山古墳
古墳時代、岸和田市のある和泉地域で力を持っていた首長のお墓は、岸和田市摩湯町にある摩湯山古墳から始まり、その後岸和田市近隣で久米田貝吹山古墳・久米田風吹山等の古墳が造られた。

しかし、時代が下るにつれて、中央政権と和泉地域首長との関係の変化などから岸和田市内では大規模な古墳は造られなくなったと云う。

久米田古墳群は市内池尻町に所在し、14基以上にのぼる古墳群の中で最大規模の前方後円墳。





写真は、久米田貝吹山古墳及びその丘頂から望む岸和田市内。

久米田貝吹山古墳は全長約135m・後円部径約82m・前方部幅約64m・高さ9mに及ぶ。周囲には12~13.5mの周堀を巡らせ、葺石・埴輪列も確認されていると云う。

埋葬施設からは碧玉製管玉・鉄片・土器等が出土し、4世紀末から5世紀初頭にかけての古墳時代中期の築造と推定されている。



写真は、久米田風吹山古墳。久米田古墳群中、第2位の規模を誇る風吹山古墳は、久米田貝吹山古墳の南西約120mの位置にあり、径約50m・高さ6.4mの円墳。墳丘は2段築成で葺石・埴輪列が検出されている。

平成4・5年の調査結果、石室内から男女の物と思われる副葬品を発掘した。
東側には女性の副葬品と見られる多量の玉類・大きな鏡・剣2本を検出、西側
には男性のモノと見られる刀2本・小さな鏡等を検出していると云う。

男女が複葬される場合、通例は並列に埋葬されるのに対して、東西一列に直線的に埋葬されていた珍しいケース。

副葬品等から貝吹山古墳に続く5世紀前葉(古墳中期)の築造と見られている。

☆摩湯山古墳
市内摩湯町に所在し、前期古墳としては当地方屈指の規模を誇る前方後円墳。4世紀後半の築造と推定され、昭和31年に国指定史跡に認定された。前期古墳としては大和地方以外では最大級の規模をもつ。



写真は、摩湯山古墳。本古墳の墳丘は3段に築かれ全長約200m・後円部径約127m・前方部幅約100mの規模。
周濠が現在の溜池に改変されたと見られる。

墳丘には埴輪・葺石を確認、特に家形・きぬがさなどの形象埴輪が検出されたと云う。
墳頂部に散在する石材から、板石積みの竪穴式石室の可能性が指摘されている。



河内長野市の大師山古墳とは!

2008年12月11日 | 歴史
河内長野市は市域の70%が山地性丘陵で占められ、残り30%は金剛山系に源を発する石見川・石川等によって形成された河岸段丘から成っている。

大師山遺跡・古墳は、現在の“河内長野市立郷土資料館”を中心とした東西約300m・南北約150mの丘陵上、標高約200mに所在する高地性集落跡で、縄文・弥生・古墳時代にかけての複合遺跡。

特に弥生・古墳時代には大いに発展し、弥生後期の竪穴住居跡・溝状遺構、古墳時代前期から中期・4世紀末頃の全長52mほどの前方後円墳が確認されている。





写真は、大師山古墳現場及び大師山古墳の先端部。

昭和44・45年の日東町住宅地開発に伴う発掘調査で発見された、大師山前方後円墳の後円部先端部分。

現在は一部が記念公園として保存されているが、周囲からは埴輪も発見され、又遺体を埋葬した棺はコウヤマキ製の木棺と云われる。





写真は、大師山古墳から出土した車輪石及び石釧。
大師山古墳の特徴と云われる石製腕輪類の一部である石釧・車輪石。

古墳時代の出土物には、車輪石・鍬形石・石釧など石製腕輪類が多量に見つかり、出土量は全国第4位と云われる。

ゴウボラ貝製の腕輪を模造したと云われる。

柏原市の玉手山古墳群とは!

2008年12月09日 | 歴史
玉手山古墳群は、柏原市から羽曳野市にまたがる玉手山丘陵上にあり、この丘陵は、大和川と石川の合流地点に向かって南から北にせり出している。

玉手山公園など玉手山の一帯は、大坂夏の陣の古戦場であるとともに、古墳時代前期の古墳群でもある。大和川と石川の合流点を望む玉手山丘陵上には、合計14基の前方後円墳と数基の円墳が、南北に連なって築造されている。

また、公園に隣接する安福寺参道などには、6~7世紀の墓である横穴群も存在し、考古学上も大変貴重な地域である。







写真は上から、柏原市の玉手山古墳群の1号墳及び安福寺前庭と安福寺参道の両側にある横穴。

短期間に複数の地域首長が、玉手山丘陵を共同の墓域として、造墓活動を繰り返した結果、形成されたと考えられている。

玉手山古墳群の1号墳は、墳長110~120mの前方後円墳で、後円部の頂上に大坂夏の陣で討ち死にした、徳川方の武将・奥田三郎右衛門の墓がある。





写真は、玉手山古墳群3号墳と7号墳の竪穴式石棺。

3号墳は、墳長約160メートルの前方後円墳で、大坂夏の陣では、このあたりの争奪が焦点となり、激戦が繰り広げられたと云う。

7号墳は、墳長約150メートルの前方後円墳で、玉手山丘陵の最高所にある古墳。安福寺の後ろにあるところから後山古墳とも呼ばれる。
後円部には大坂夏の陣両軍戦死者の供養塔が建っている。

玉手山古墳群のすぐ西に応神天皇陵に代表される、5世紀の古市誉田古墳群がある。これとの関係から、4世紀に玉手山古墳群を造営した豪族が発展して、古市誉田古墳群を造営するようになったのでは?

すなわち、玉手山古墳群を造営した豪族こそが、後の大和朝廷の先祖だというわけ。





写真は、石川から望む玉手山及び玉手山公園内の玉手山横穴群。

安福寺参道の両側に合計32基の横穴があり、大阪府の史跡指定を受けている。
凝灰岩の崖面を掘って造られたもので、短い羨道と玄室からなり、天井はゆるいアーチ状となっている。

造り付けの石棺をもつもの、陶質棺がおさめられているもの、騎馬人物像などの線刻壁画が描かれたものなどがあり、全国的に有名。

八尾市の久宝寺1号墳とは!

2008年12月07日 | 歴史
八尾市の久宝寺1号墳は、都市基盤整備公団によるJR八尾駅前再開発事業に伴う発掘調査の一環として、平成13年2月から調査が実施された結果発見された。

久宝寺古墳を含む久宝寺遺跡はJR八尾駅南側約1.6kmという広い範囲に広がり、縄文時代から中近世に至る複合遺跡。

今回注目されたのは、全国的にも珍しい割竹形木棺が完存した状態で見つかり、古墳時代前期の日本最古の例として貴重な資料と云われる。

現地は湿地帯だったため完全な形のまま残された。







写真は上から、久宝寺1号墳発掘調査現場(2枚)及び割竹形木棺。

墳丘の平面は方墳で、その規模は東西辺約12.5m・南北辺約10.5mで、その周囲には幅0.7~4.0m・深さ約0.5mの周溝が巡っている。

墳頂部に南北約4.5m・東西約1.8mの墓壙を掘り、割竹形木棺を据えている。
木棺の規模は長さ約3.2m・幅約0.4mで、樹種はコウヤマキと見られる。

木棺は内部が刳り抜かれ、北側と南側に約1.7mの間隔を空けて円形の仕切板
が立てられ、土砂の流入が妨げられ、埋葬区画は中空に保たれていた。

埋葬区画内の棺底からは両仕切板付近で歯牙が検出され、二体の遺骸が頭位を違えて埋葬されたと見られる。

歯牙付近には朱の痕跡が認められたが、副葬品は検出されていないと云う。





出土した布留式土師器。
壷は墳頂部の四隅に1個ずつ配置されており、墳頂部を区画する役目を担ったと見られる。

周溝内からは有段口縁鉢・小形丸底土器・庄内式甕などが出土している。
埋葬者に対する祭祀土器群と見られる。

出土土器から当古墳の築造時期は3世紀末と考えられ、調査区周辺からも3世紀を中心とする多数の墳墓が検出されている。

弥生から古墳時代への移行期に当たり、卑弥呼没後半世紀ほどが経過、被葬
者と大和政権との関係が偲ばれる。

はたして倭の実権が三輪王朝から河内王朝に移ったのか?河内に誕生した新しい王権が倭王権を呑み込んだのか?倭王権の河内進出と見るか?はたまた中国・朝鮮半島から直接移民してきた部族かも知れない。深いい謎!

物部氏は河内を本拠とした古代の豪族であり、古くから大和朝廷に仕え、蘇我氏と並んで権勢を誇っていただけに、物部氏の可能性もある。

他に墳丘東側の周溝底から木棺墓1基・土壙墓2基・土器棺墓2基が検出され、被葬者に関係する人物の墓が集中して築かれていた。

又祭祀土器群に近接して柵状木製品が出土しており、割竹形木棺と考え合わ
せ、被葬者は地元豪族として君臨していたと考えられる。

崇神天皇陵vs.景行天皇陵

2008年12月05日 | 歴史
天理市の崇神天皇陵と、そこから徒歩で僅か15分の所にある景行天皇陵との取扱いに、何故これだけの差別を付けるのであろうかと不思議でならない。

双方とも同じ天理市にあり、当然宮内庁の管理管轄下、それぞれが良くメンテされてはいるが。

☆第10代崇神天皇陵は、山の辺の道に沿った代表的な史跡観光スポットで、全長240mに亘る堂々とした、古墳時代前期・4世紀後半築造の前方後円墳であり、深い緑の水をたたえた濠が美しく静まる。

この小高い丘陵から眺める大和平野(縄文時代は海)と金剛山、大和三山(耳成山、天香久山、畝傍山)、二上山、生駒山等の山々、誠に悠然たる気分になる。

169号線こそ走っているものの農地に囲まれ、墳丘墓の環境は抜群と言える。
169号線沿道の広告用看板等は、風致規制の対象で禁止され、環境保全に対する入念な気遣いが感じ取れる。



天理市の崇神天皇陵は長岳寺から徒歩10分、黒塚古墳からも徒歩10分、直ぐ後ろには櫛山古墳があり、山辺の道散策コース・スポットの一つ。



崇神天皇陵は、大和の山々を背景に、水鳥が舞う瑞々しい外濠池の環境保全だけでも大変。実に見事に管理・維持されている代表的天皇陵の一つ。

☆第12代景行天皇陵は、日本武尊(やまとたけるのみこと)の父の陵とされる。3段に築かれた前方後円墳で、全長310m、古墳時代前期では最も大きい。

景行天皇陵は、箸墓古墳に次ぐ、大和古墳群第2位の大きさを持ち、三輪王朝の最盛期に築かれたと考えられているが、一体葬られているのは何者か?

謎は深まるばかりだが、景行天皇はその存在が疑われている。実在しなかった可能性があり、ここが崇神天皇陵である可能性も残っていると云う。

県道の向こうには二上山が美しく聳え、崇神天皇陵から徒歩15分の近距離に寄り添っている。同一区域内にあるにもかかわらず、こちらの方は環境面の配慮が不足、どうしたことか陵の真っ正面にパチンコ屋がある。

崇神天皇陵から歩いて来て景行天皇陵に至る直前で、環境風致規制から外されているのはどうしたことであろうか?同じ天理市にあることからも不思議でならない。経済政争の具になっているとは思いたくないが。



景行天皇陵は169号線沿いの入口から入った正面の所。
メンテ状態は崇神天皇陵並みに行き届いているのではあるが・・・・。



左側に見える白っぽい建物がパチンコ屋とその看板、景行陵墓の真っ正面入口に位置している。国道沿いにあるとは言え、余りにもミスマッチの光景で残念。

→残念ながら、ここにも経済優先の今日の社会情勢が読み取れる。








御所市の鴨都波遺跡・鴨都波神社とは!

2008年12月03日 | 歴史
鴨都波神社は、葛城山麓から流れ出る柳田川と金剛山塊に源を発する葛城川の両河川の合流地点に鎮座する古社で、鴨都波遺跡は、二つの河川によって築かれた河岸段丘上に位置し、鴨都波神社を中心として南北約500m・東西約450mの広い範囲を占めている。









写真は上から、御所市葛城山麓の鴨都波神社と本殿、鴨都波1号墳の平成12年発掘現場と三角縁神獣鏡出土状況。

現在はすっかり埋め戻されているが、すでに20数次をこえる発掘調査が実施され、数多くの成果を得ている。

鴨都波遺跡は弥生時代における南葛城最大の拠点集落で、弥生時代前期から古墳時代後期にかけて長期間営まれ、南葛城地域の古墳時代前史を知る上で貴重な遺跡。

神社の南に位置する県立御所高校の敷地内の調査が多く、数年前には高校の敷地から、鋤とか鍬などのたくさん木製品が大きな井戸の中から出土したと云う。

特に、2000年の済生会御所病院の増設中に発見された古墳は注目に値する。
鴨都波1号墳と名付けられた方墳は、南北20m・東西16mほどを測り、墳丘の周り幅3~5mの周濠が巡らされ、墳丘の中には高野槙で作られた木棺が納められていた。

この埋葬設備は盗掘されておらず手つかずの状態にあり、三角縁神獣鏡4面をはじめとして、数々の副葬品が出土したと云う。

鴨都波1号墳の築造時期は、古墳前期の4世紀中頃と推定されているが、その後5世紀前半になると、南の室の地に200mを越す巨大な宮山古墳が突然出現している。そのため、両古墳の被葬者の関係に興味が持たれている。

一辺20mほどの方墳にもかかわらず、豊富な副葬品を有することが注目される。この程度の規模の前期古墳で、棺の内外合わせて4面もの三角縁神獣鏡を副葬する例はほかには見当たらない。

また、前期の小型古墳で短甲を副葬する例は大和に限定されるので、これらは古墳時代前期における、他地域に対する大和の卓越性を示すものと考えられる。

一方で本墳の三角縁神獣鏡には特殊な意匠を持つものが多く、又大型碧玉製紡錘車形石製品と呼んだ出土品も他に例を見ない。棺構造も異例で、こうした特殊性と鏡の特徴的な配列は、弥生時代以来、鴨都波遺跡周辺を中心とする南葛城に本拠を置いた、伝統勢力の一端を示していると云える。

また、靫や槍・剣の装具などの漆塗り製品、および被葬者の歯や棺材の遺存状態の良好さも注目され、今後の整理作業や鑑定が注目される。



写真は、葛城氏居館址の長柄遺跡現場。

副葬品の豊富さから、のちに一帯を支配した豪族、葛城氏につながる勢力の中心人物が埋葬されたとみられ、葛城氏の実態や葛城地域の勢力形成の実態を解明する貴重な資料として期待されている。

奈良県川西町の島の山古墳とは!

2008年12月01日 | 歴史
古墳時代前期末頃に築かれた全長190mの前方後円墳で、奈良県下の前方後円墳約300基のうち第20番目の規模に相当。
明治年間に古墳後円部の発掘により、多量の石製腕飾り類が出土、竪穴式石室があったと考えられている。





写真は、1996年発掘調査時の石製腕飾り出土状況及び緑色凝灰岩製の車輪石・鍬形石など。

古墳前方部の発掘調査により、粘土槨と呼ばれる埋蔵施設が存在することが分かり、緑色凝灰岩製の車輪石・鍬形石・石釧等140点の石製腕飾り類、銅鏡3面、碧玉・製合子3点、大型管玉5点等が埋葬されていたことが判明。

前方部の墳墓は、主被葬者ではなく、陪葬墓であったことも幸いし、無盗掘の状態で発見されたとのこと。

~現在話題にしているのは、多量の碧玉製品は実用目的ではなく、副葬用か、祭祀用の用具かの論争と、被葬者は一体誰なのか?祭祀者として女性ではないか?権力者の近親者か?いずれにしても大和政権は既に確立されていたことから、当時の大王クラスの権力者かその宗教的支配者であったのではないかと想像されるが。

~3世紀が邪馬台国を中心とした30余国の小国が乱立時代、5世紀は大和政権が全国統一を果たしていたのに対し、4世紀は記録の少ない時代と言われるだけに、今後の更なる研究・調査活動の成果に期待。

~碧玉製品の発見は、中国の玉器崇拝思想が強かっただけに、時代交流の証拠として、他の金銅製の装身具・馬具等と共に、交流が裏付けられたと言える。

~考古学的視点からの課題解決とは別に、古墳の周辺環境も含めた文化財保全の問題が、一方で深刻であるように思える。奈良県・川西町の行政指導、環境問題に対する対応に注目したい。



本古墳は写真のように、みかん・野菜等の農耕地として利用され、景観を著しく阻害。更なる発掘継続計画があるようだが、今後環境保全問題とどう取組むか?



島の山古墳内で盛んな農耕栽培の風景。戦前は、辺り一面桜の木で覆われ、メンテも素晴らしく大王クラスの古墳に相応しかったとか。現在は30余名の土地所有者が畑地として利用、周辺環境は悪化の一途。



島の山古墳周濠沿いの掘建小屋風景。川西町が、掘っ建て小屋用として周濠を個人賃貸しているとのこと。
生活排水からか、お濠の水質悪化も含め環境は著しく悪化。川西町の対応は?

→出土物が世間を涌かせているのとは対照に、行政指導の真価が問われる。

→ヤマト王権の枢軸集落と見られた纒向遺跡は、祭祀・政治中枢としての機能のほか、開発拠点・生産拠点としての要素も持っていたが、古墳時代前期終焉には、奈良盆地中央部の島の山古墳の造営により、東南部地域・纏向遺跡の重要性・拠点性が消失したと云う。