近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

奈良明日香村都塚古墳で階段状の「ピラミッド型」方墳発見!その1

2014年09月14日 | 歴史
突然ですが、ここらは先般マスコミで報道された、最近にない考古遺跡発掘のホットニュースをお届けします。

と言いますのも、奈良県明日香村の都塚古墳(6世紀後半)が、石を積んで階段状のピラミッドのようにした国内では例のない方墳とわかったと、関西大が平成26年8月13日、発表したことです。

一帯は飛鳥時代の大豪族・蘇我氏の拠点で、蘇我馬子(?~626年)の墓とされる石舞台古墳(7世紀前半、方墳)を見下ろす丘にあり、被葬者を馬子の父・稲目(いなめ)(?~570年)とする研究者の指摘もあります。




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写真は上から、都塚古墳の全貌遠景、同古墳墳丘の様子、平成26年9月初旬当時の発掘調査中全景及び遺跡裏側のぶどう畑にもシートで覆われた調査中現場光景。

都塚古墳は後世の耕作などで壊され、墳丘の形や規模は不明だったが、昨年度からの発掘調査で1辺が41~42mの大型方墳と判明。





写真は上から、階段状石組みの様子と墳丘イメージ像。

墳丘の東側で、石を積んだ遺構を4段分(1段の高さ30~60cm)確認した。

元々7~8段あったとみられ、高さ4.5m以上に復元でき、方墳としては石舞台古墳(1辺約50m)に次ぐ大きさになると云う。



大阪難波宮とは!そのⅣ

2014年09月08日 | 歴史
大阪難波宮跡の調査から導き出された数々の驚き・謎などについて、更に続けます。





上の写真は、難波宮跡に復元されたが草木で覆われた八角殿及び難波宮跡から出土した柱根。

内裏南門の東西に、回廊で囲まれた八角殿が配置されたが、外観は重層であり、宮殿の中心部を荘厳化する目的があったとされる。

八角殿の目的がはっきりしないが、時を告げる「鐘楼」、「鼓楼」のようなものであったと考えられている。





上の写真は、難波宮宮殿の屋根を葺いた板材の一部及び祭祀用に使われたとみられる土馬など。

難波宮前期宮殿建築には、石材による基壇を採用せず、木材と云う我が国の伝統的材料を使い、屋根を瓦葺きにせず、意識して伝統的な板葺きにしたのも、同じ理由と見られる。

宮殿跡の北西隅には谷が入り込んでおり、そこには湧き水を利用する施設やその水を更に遠くへ流す石組みの地下水路が造られていたが、ここで祭祀が行われていたと見られ、人形・舟形・土馬などが見つかったと云う。

木製基壇の上に立つ建物は、内裏前殿や八角殿等の中枢部の建物に限られている。

朝堂院南門や南面中央門(朱雀門)の平面規模は東西が23.5m、南北は8.8mで、柱は直径約60~80cmという太い柱が使われていた。

一方後期難波宮は、奈良時代の神亀3年(726年)に聖武天皇が藤原宇合を知造難波宮事に任命して難波京の造営に着手させ、平城京の副都とした。

中国の技法である礎石建、瓦葺屋根の宮殿が造られた。天平15年(744年)に遷都され、このとき難波京も成立していたと考えられている。

そして翌天平16年1月1日には、難波宮から紫香楽宮へ遷都した。