近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

堺市堺区の永山古墳とは!

2010年07月30日 | 歴史
永山古墳は、仁徳陵古墳の北西約50mにある、前方部を南に向けた、全長約104mの前方後円墳。墳丘は2段に築かれ、葺石と埴輪があり、周囲には幅15mほどの盾型の周濠が巡っている。







写真は、大阪中央環状線越しに望む永山古墳全景、同古墳の深い森に覆われた墳丘の様子及び同古墳の周濠の佇まい。

本古墳は、全長約104m・後円部径約63m・高さ約9m・前方部幅約67m・高さ8mで、西部のくびれ部には造出しが認められる。

墳丘は宮内庁により陪塚として管理されているが、造出しがあり、前方部と後円部が同じ大きさという墳丘形態や、全長100m以上の規模を有する前方後円墳であることから、陪塚とは考えにくい独立した古墳と見られている。

本古墳は、伝承によれば、応神16年(西暦282年)に百済から来日し、「論語」や「千字文」(中国古代より児童が文字を学ぶ初歩の教科書)などを伝えた“王仁”(ワニと読むが、応神天皇の時、百済からの渡来人で、祖は漢の高祖と云われている) の墓との説がある。





写真は、大阪中央環状線に削り取られた永山古墳南端及び同古墳南側の周濠の様子。

現在、周濠の南側に接して大阪中央環状線が通り、周濠の一部をまたいでいる。

本古墳は、今日まで調査されていないため、主体部の構造は不明であり、副葬品の内容や性格も分かっていないが、5世紀中頃の築造とされている。





写真は、釣堀化した永山古墳の西側周濠の光景及び柵で囲まれた同古墳。

本古墳は堺市のほか、羽曳野市、藤井寺市とともに、世界遺産登録を目指す仁徳天皇陵などの古墳群の一つであるが、写真の通り本古墳の周濠が長年にわたって民間の釣堀として使われている。

周濠は市有地で、市は立ち退きを求めて、近く民事調停を申し立てることを決めたが、業者側は「明治初めに水利組合から借りた」と主張していると云う。

本古墳は、仁徳天皇陵と道路を挟んで反対側にあるが、釣り客が絶えないため、釣堀のイメージが定着し、世界遺産候補地としては印象が悪く、このままでは得策でない。




堺市中区の陶器千塚古墳群とは!

2010年07月28日 | 歴史
堺市南部の泉北ニュータウン周辺には、古墳時代から平安時代にかけて1,000基以上の窯が操業された、日本最大の須恵器生産遺跡がある。これを「陶邑」(すえむら)と呼んでいるが、この「陶邑」の北東部の堺市中区陶器北には、須恵器生産に携わった人たちの墓である陶器千塚古墳群が所在する。

本古墳群の北方数キロには5世紀代に造営された大仙陵古墳を始めとする百舌鳥古墳群が展開しており、陶邑の創設当初から巨大古墳群を造営していた主体である、当時の畿内政権中枢と密接な関わりがあったことが想定されている。



写真は、陶邑窯跡の発掘調査光景。

現在は、10基ほどの古墳が残るのみだが、もとは100基近い古墳が営まれたことがわかっている。

堺市立博物館では、陶器千塚古墳群を構成していた古墳の中で、発掘調査された古墳の中から、当館が保管する6号墳・21号墳・23号墳・24号墳・狐塚古墳の出土品と堺市教育委員会が保管する1号墳の出土品を紹介している。





写真は、陶器千塚古墳群出土の鉄製刀及び同古墳群から出土したアクセサリーと武器類。

陶器千塚古墳群の中で小角田(こかんだ)遺跡は、陶器北の東部、および福田の南部にある遺跡で、陶器川右岸の標高約75mを測る段丘高位面に位置する。

陶器川に沿って西には陶器千塚古墳群が、その対岸には陶器南遺跡や辻之遺跡があり、いずれもが須恵器の生産に関わる遺跡とされている。

小角田遺跡の発掘調査では、古墳時代中期(5世紀後半)の須恵器を焼いた窯、古墳時代後期(6世紀後半~7世紀後半)の集落、そして中世(12世紀~15世紀)の集落や墓が発見されている。

特に古墳時代後期の集落は、11棟の掘立柱建物から成り、なかには倉庫と考えられる建物や、当時のものとしては規模の大きい柱穴の建物もある。





写真は、陶器千塚古墳群から出土した須恵器類。

本古墳群から出土した遺物のほとんどは須恵器で、破損したもの、焼け歪みのあるもの、完全には焼きあがっていないものが多くあり、これらを捨てた穴も多数発見された。

陶器川が流れる谷の崖には、須恵器を焼いた窯が23基あることと、これまでの調査成果を考え合わせると、この遺跡は辻之遺跡などと同じように、近辺で焼いた須恵器をいったん集めて選別・検品した場所であったのではないかと考えられている。

その後中世には、掘立柱建物やそれを囲む溝が発見されていることから、大きな「屋敷」の一部であったことが分かった。また、中国製の青磁碗が出土した墓や、当時の水田も検出された。



写真は、陶器千塚古墳群脇の陶器城跡公園。

これらは、西隣の陶器城(北村砦)と関連する集落ではなかったかと考えられている。

須恵器は登窯で、高温(1100度前後)で焼成する新技術でつくられた硬質の灰色の土器で、この新しい技術は、朝鮮半島から渡来してきた人々によってもたらされたと云われている。

中国からの影響を受けて原三国時代(紀元前108年から4世紀中頃までの朝鮮半島の時代)の朝鮮半島で陶質土器の生産がはじまり、当半島南部の洛東江流域で盛んに生産が行なわれ、5世紀の前半には古代に“陶邑”と称された、現在の泉北ニュータウン一帯に須恵器生産の技術が伝わったとされる。










堺市泉北丘陵上の陶邑窯跡群と須恵器とは!

2010年07月26日 | 歴史
昭和30年代、泉北丘陵一帯でニュータウンの建設工事が計画され、その開発工事の前に古代窯跡の分布が調べられ、そのうち多くの窯跡が発掘されたと云う。その結果1,600年ほどの時を経て日本最大の須恵器生産地が姿を現した!

当陶邑の須恵器は、九州から東北地方にまで流通したらしい。



写真は、泉北高速鉄道の“泉が丘”駅から望む泉北ニュータウン現在の様子。

大阪府の“泉北丘陵住宅地区開発事業”によって計画され、事業期間は1965年~1982年で、1967年から入居を開始した。2007年6月時点で、約58,000世帯、およそ14万2,000人が居住する、巨大な大都市ベッドタウン。

有田、備前、丹波、美濃など陶器のルーツとなる須恵器が、堺市の泉北ニュータウンを中心に西は和泉市・岸和田市、東は大阪狭山市の東西15km・南北9kmほどに及ぶ、泉北丘陵一帯で大規模に焼かれ、各地に運び出されていたらしい。

泉北丘陵の周辺では、須恵器生産に関係する遺跡が発見されている。石津川流域では深田橋遺跡、陶器川・前田川流域では陶器南遺跡・辻之遺跡・田園遺跡などがある。

これらの遺跡に共通していることは、倉庫と考えられる建物跡や不良品の須恵器がたくさん見つかっていること。このことから、焼きあがった須恵器を運び込み、良品と不良品に選別した後、倉庫で保管され、河川などを利用して出荷する集積・出荷センターの役割があったと考えられる。

叉泉北丘陵で工房を備えていた遺跡の存在が考えられるが、100基を越える粘土を採掘した穴も発見されている。

わが国で須恵器生産が始まったのは、今から約1,600年前の古墳時代中期に遡り、新しい焼きものの技術は、朝鮮半島からの渡来人によって伝えられ、泉北の地にも根をおろし、平安時代までの約500年間で1,000基とも言われる数の窯が築かれたと云う。

これらの窯跡群は、『日本書紀』に書かれた古い地名の「茅渟県陶邑(ちぬのあがたすえむら)」にあたるとされ、陶邑窯跡群と名付けられた。

窯を用いて焼成した日本最初のやきものである須恵器と弥生時代の系譜を引く土師器は、葬祭供献用や日用品として用いられていた。

中でも須恵器の使用は、数に限りがあったことから、貴族層などに限られ、土師器は一般民衆用と階層別区別があったと見られる。

須恵器は古墳の副葬品として、発掘されることが多い。









写真は上から、檜尾塚原古墳から出土した壷・台付壷・器台・圷など副葬品の須恵器、野々井古墳から出土した壷・鉢・器台・坏・甑などの須恵器、小角田遺跡の壷や坏など皿類の須恵器及び古墳群からしばしば出土する須恵器の“はそう”。

須恵器の種類には、その特徴を生かして液体や固形物を貯えておく甕や壺、食物や供え物を盛る蓋坏・高坏・椀・皿・盤、水筒のような形をした提瓶・平瓶、液体を注ぐため穴をあけた"はそう"のほかに、壺をのせる器台や蒸し器の甑などがある。

珍しい須恵器では、飯蛸壷・網の錘・硯などが見つかっている。





写真は、南区の“大蓮公園”内に移設された登窯のサイドビュー及び同登窯を上から覗いた光景。

須恵器を焼くには窯が必要で、窯内の温度を徐々に上げ、1,000から1,200度の高温で焼いた後、酸素を絶つために、窯を塞がなければならない。

登窯は、斜面を掘りくぼめ細かく切った藁などを混ぜた粘土で天井を覆い、細長いトンネルを造る。

窯の構造は、下から薪を入れる焚き口、薪を燃やす燃焼部、土器を焼く焼成部と煙を出す煙道に分かれ、燃焼部で燃やされた炎が斜面を上り、効率良く熱が焼成部に伝わる。焼成の終わりに、焚口や煙出しを密封すると、空気があたらないで、須恵器固有の青灰色になると云う。

登窯の長さは約10m・幅は約2mで、内部の高さは1.5mぐらい。

須恵器生産遺跡の近くには、須恵器生産に関係した首長や集落長クラスの支配者たちが葬られたと考えられる、湯山古墳・陶器千塚古墳群・牛石古墳群・檜尾塚原古墳群などがある。

窯や集積・出荷センターと考えられる遺跡は、10~100年という期間でその働きを終えている。

須恵器を焼くには大量の薪を必要とし、森林がなくなった時点で新しい場所に移動していたと見られている。

859年、河内と和泉の国の間で、須恵器を焼くための薪を切り出す山をめぐって起こった「陶山の薪争い」が『日本三代実録』に書かれていると云う。この事件から平安時代にはかなりの森林が不足していたことが分かる。

長年の須恵器生産が丘陵から森林を奪い、須恵器を焼くことができなくなったことも、陶邑の須恵器生産が終わりを向かえ、歴史の表舞台から姿を消してしまった理由の一つと考えられる。



堺市の百舌鳥大塚山古墳とは!そのⅡ

2010年07月22日 | 歴史
堺市の百舌鳥大塚山古墳巡りを続けます。

宅地造成工事に先立ち、1949年に緊急の発掘調査が行われた。その結果、墳丘には葺石・埴輪列が確認され、また、前方部に4基、後円部にも4基の粘土槨が確認された。

そのうち遺体が埋葬された痕跡が認められたのは、前方部・後円部各1基のみで、他は副葬品のみであったと云う。埋葬施設は高野槙製の木棺であった。











写真は上から、百舌鳥大塚山古墳から出土したガラス玉・勾玉・管玉など、斜縁二神二獣鏡、鉄製柄付手斧、鉤状鉄製品及び装飾象嵌付鉄鉾と鉄剣。

副葬品として、勾玉・管玉・櫛・銅鏡・鉄製の甲冑・短甲・刀剣・手斧・鎌・鋸・鉤状鉄製品・鉄鉾などが多数出土した。とりわけ、刀剣は300口を超えたと云う。

と云うように副葬品の中には、武具・武器が多いことが注目された。

前方部墳頂付近には、椅子・壷・器台などのミニチュア土製品を伴う家形埴輪が出土している。

叉出土した大量の鉄製品などの副葬品は、コンテナ約100箱分にも上ったと云う。

1986年に堺市教育委員会により、墳丘の裾部の発掘調査が行われたが、この調査により、古墳の造営過程が確認されたらしい。

副葬品のうち、写真のような斜縁二神二獣鏡のほか、斜縁三神三獣鏡・位至三公鏡なども検出されたと云う。

叉写真のような鉄鉾から円形をした金の象嵌が見つかり、最古の象嵌文様と判明。鉄鉾は、被葬者の傍らに副葬されており、長さは50cmほど。

古墳時代の象嵌は、ほとんどが大刀で鉾は異例。象嵌文様としては、これまで国内最古とされてきた、5世紀後半の兵庫県・宮山古墳で出土した大刀の銀象嵌を半世紀遡る。

その特徴から中国製とされ、中国との交流を深めた倭の五王の時代にふさわしい、有力豪族の活躍が偲ばれる。

この地域は、渡来人が居住して渡来文化の花を咲かせ、その文化はいまもこの一帯のあちこちに残されている。

渡来系氏族は、百済からの渡来人とみられる葛井、津、船、西文、武生、蔵、田辺史、飛鳥戸などの氏名が記録されている。

堺市の百舌鳥大塚山古墳とは!そのⅠ

2010年07月20日 | 歴史
百舌鳥古墳群は、大阪上町台地に繋がる、広い台地の西部の低・下位段丘を利用して造られ、その台地には百済川が谷を刻んで西流している。

即ち百済川の北側に半島状の地形ができているが、そこに百舌鳥古墳群がある耳原。





写真は、百舌鳥大塚山古墳の南を流れる百済川光景と同百済川沿いのマンション開発状況。

3世紀には渡来人が移住してきたといわれているが、百済川の北に住んでいた百済人は鉄を作り、鉄が副葬された古墳造りにも土木技術で貢献したらしい。

その後、百済川の南に新羅人が移住してきたが、彼らが作り出したのが須恵器で、堺市は朝鮮半島を中心とした、人と文化の国際交流の最先端の役割を演じていたと云える。

耳原の古墳群は、百舌鳥古墳群の中では古いほうで、巨大な大仙古墳から比較的小さな乳岡(ちのおか)古墳まで大きさはまちまち。





写真は、百舌鳥大塚山古墳の案内板が立てられた上野芝町公園外側と内側の光景。
ここを先端に南側に本古墳が所在。

この半島状のような地形の中で、百舌鳥大塚山古墳は、堺市西区上野芝にかつて存在した古墳で、履中陵古墳の南約400mに位置する西に向けた前方後円墳。

本古墳は、5世紀前半の古墳時代中期の古墳だが、陵墓や史跡等に指定されていなかったことから、残念ながら戦後の宅地造成で消滅した。





写真は、百舌鳥大塚山古墳の1948当時の空撮及びその後、開発が進んだ現在の古墳跡の様子で、残念ながら住宅地に変容してしまった。

墳丘の全長約168m・後円部径約96m・高さ約14m・前方部幅約113m・高さ約12mの前方後円墳で、百舌鳥古墳群では第5位、全国でも第54位の大きさを誇っていたらしい。

墳丘は三段築成、くびれ部には造り出しがあり、周濠がめぐっていたと云う。









写真は、区画整備された百舌鳥大塚山古墳跡の住宅地化光景、住宅地道路先に覗く履中陵の遠景及び同古墳の輪郭を残し屈曲した道路の形状。

1949年に墳丘が削られ、周濠も埋め立てられ、地上から姿を消したと云う。

また、かろうじて残っていた墳丘の裾部も、1986年の宅地造成工事により全て削り取られてしまった。

戦後に破壊された古墳として最大規模であり、現在は、写真の通り、道路の形状に輪郭の痕跡を残すのみ。





堺市の仁徳陵と埴輪とは!

2010年07月18日 | 歴史
ここからは、堺市の百舌鳥古墳群巡りを再開する。

大仙陵・仁徳陵は、採集されている円筒埴輪や須恵器の特徴から、5世紀前半から半ばに築造されたものと考えられている。

内濠(一重目)の幅は約70mで、くびれ部では最も広い東側で115m・西側で120mほど。

この内濠を囲むのが内堤で、ここには約30cmの円筒埴輪の埋没が各所で確認されている。

明治時代の外濠調査で葺石と埴輪が見つかり、埴輪には女性頭部や水鳥、馬、犬、家などが出土している。

叉昭和30年代と最近の調査でも、造出しから甕などの須恵器が出土し、古墳が造られた年代を知る資料として話題になったと云う。





写真は、仁徳陵古墳の正面ビューと仁徳陵から出土した須恵器類。

仁徳陵墳丘には葺石と埴輪が存在していたらしい。叉三重目濠から出土した巫女形埴輪の頭部が著名。

また造出し近辺で宮内庁職員が須恵器の大甕を採集したが、本来は造出し上に置かれていたものである可能性が高いと云う。







写真は上から、仁徳陵古墳から出土した、巫女らしい女性の人頭埴輪、馬形埴輪頭部及び犬形埴輪。

仁徳陵の埴輪の中には、武人や馬などが多いが、中には円筒形をしたものがあり、これは結界(聖なる領域と俗なる領域を分ける区域)を張って内部に人を入らせないようにしていたと考えられる。

仁徳陵の埋葬施設は、長持形石棺を納めた竪穴式石槨で、東西に長さ3.6~3.9m・南北に幅2.4mほど。周りの壁は河原石を積み上げ、その上を3枚の天上石で覆っている。

その中に組合せの長持形石棺が納められ、下半分は埋もれたままだったらしい。




奈良県御所市の巨勢山古墳群のトラブルとは!

2010年07月15日 | 歴史
御所市の「秋津原ゴルフクラブ」の敷地内に所在する、国指定史跡「巨勢山古墳群」が、昨年無許可の拡張工事により破壊された問題で、奈良県警が今月、文化財保護法違反容疑で同ゴルフ場などを一斉捜索したことが、メディアに取上げられた。

そこで、百舌鳥古墳群巡りを中断し、巨勢山古墳群のトラブル内容について概観して見る。

巨勢山古墳群は、古墳時代中期中葉から終焉期にかけて、奈良県御所市の巨勢山丘陵に所在する、5世紀から7世紀にかけての古墳で、約700基余りが築かれた国内最大級の群集墳。







写真は上から、秋津原ゴルフクラブ創設前の巨勢山古墳群遠景と近景及び本古墳群の一つ、708号墳石室。

本古墳群は、2002年12に国史跡に指定されたが、ほとんどが小規模な円墳で、古墳時代豪族の墳墓とみられる。

同古墳群は、市南部の東西約3.3km・南北約3.5kmの丘陵地帯に約700基の小古墳が集中し、国内最大級の規模で、地元有力豪族の葛城氏や巨勢氏との関連が指摘されている。





写真は、ゴルフ練習場の増設中に削り取られた巨勢山古墳先端の墳丘遠景と近景。

1995年9月にオープンした、“秋津原ゴルフクラブ”は、2009年11月に、打ちっ放しの練習場を増設するため、所有地である史跡指定地の山の斜面を約5,4000㎡にわたって崩してしまった。

この際、直径10m余りの円墳4基の一部を壊し、半壊したものもあるというが、4基とも未調査の古墳であったと云う。







写真は上から、本古墳群の一部が削り取られた秋津原GC練習場の光景と同古墳群とゴルフ練習場の空撮。

市民からの通報を受けた市教委は、2009年11月、工事中止命令を出し、斜面の崩落を防ぐため、防護ネットを張るなどの仮復旧工事を、2010年5月末までに実施したと云う。

国の史跡で工事をする際には、国の許可を取ることが文化財保護法で義務づけられているが、当ゴルフ場は許可を取っていないらしく、市側は市民からの通報で、工事に気づいたという。

ゴルフ場側は、史跡の範囲について分かっていなかったと釈明しているが、文化庁は復旧するよう求めている。

市教育委員会は今後、専門家の意見を聞きながら修復方法を検討したいとしているが・・・・・・。

国指定史跡・巨勢山古墳群が国内最大級の古墳群であるならば、古墳群発見時に“秋津原ゴルフクラブ”に対して増設工事禁止などの対処をしても良かったのではないか?

今回の巨勢山古墳群の損壊は、国指定史跡に対する認識不足と甘さに起因し、ゴルフ場経営陣が、古墳を破壊しても構わないという安易な営利主義が生みだした、国指定史跡文化財の破壊であり、許されるべきではない。

経営陣の「知らなかった」などという詭弁を決して許してはならない!






堺市西区の大鳥大社と百舌鳥古墳群とは!

2010年07月13日 | 歴史
大鳥大社は、古代・和泉の国一の宮にある旧官幣大社で、大鳥造の本殿は古代神社建築のひとつ。

日本武尊(やまとたけるのみこと)が、死後白鳥となって最後に留まったのが大鳥の地で、周辺の人々が白鳥をお祭りするために建てたと言い伝えられている。

境内約1万5千坪には種々の樹木があり、千種の森(ちぐさのもり)と呼ばれている。境内にある10万本の菖浦園も有名。





写真は、大鳥大社とその本殿。

本大社の創建は1850年以上前で、全国の大鳥神社の本社とされる。

明治38年に落雷によって社殿が焼失し、現存する社殿は明治42年の再建。

多数の樹木による景観が美しく、海岸に近い平地にあり、東には川が流れている。

周辺は大きな天皇陵や、古墳や遺跡が数多くあり、パワースポットとなっている。特に鬼門方向が北東に集中しているらしい。

日本武尊(やまとたけるのみこと、『古事記』では倭建命と表記)こと小碓命(おうすのみこと)、またの名を日本童男(やまとおぐな)は、景行天皇の皇子で、仲哀天皇の父とされる人物。

日本武尊は、日本神話では英雄として登場する。“記紀”は、2世紀頃に存在したと記す。実際には、4世紀から6、7世紀頃の数人の大和の英雄を統合した架空の人物という見方もある。

大鳥大社から約3.8km以内には百舌鳥古墳群があるが、堺市のやや北部に位置し、かつては100基以上あったといわれる。

現在は大仙公園を挟んで、仁徳陵古墳(墳丘長486m)と履中陵古墳(墳丘長360m)、東側にいたすけ古墳(墳丘長146m)、御廟山古墳(墳丘長186m)、ニサンザイ古墳などが所在する。

大鳥大社が、これら百舌鳥古墳群を守っていると云える。


堺市西区の塔塚古墳とは!

2010年07月11日 | 歴史
塔塚古墳は、堺市西区浜寺に所在する、一辺約45m・高さ約4mの三段に築成された、5世紀中頃の方墳。

本古墳は、かつて四ツ池遺跡の南方にあった経塚古墳・赤山古墳・高月古墳と共に、四ツ塚古墳群と呼ばれていた。





写真は、畑地に浮かぶ塔塚古墳遠景と柵に囲まれた本古墳。

明治末年に盗掘を受けたが、石室内から遺物が出土。

昭和33年には、発掘調査が行われ、玄室の長さ2.4m・幅2.2m・羨道の長さ0.5m・幅0.9mほどを測る、横穴式石室と2基の木棺直葬が確認された。





写真は、塔塚古墳の民家に隣接した状況と本古墳の荒廃した状況。

横穴式石室は、安山岩の偏平な割石を急角度に積むなど、竪穴式石室と類似した方法で築かれ、畿内の横穴式石室の初期的形態を知ることができる古墳。

近畿における初期的横穴式石室は、既に5世紀中頃には出現しているが、元々は北部九州系の竪穴系横口式石室(竪穴式石室に横からの入口をつけたような形)だったらしい。

九州から東の地域では、5世紀代の古墳の埋葬施設は竪穴系が一般的であるが、画一的なものでなく、様々な埋葬法が各地で行われていたと云う。このような中でも極限られて地域では横穴式石室が採用され始めていた。

竪穴系横穴式石室は、竪穴式石室から横穴式石室に移行する過渡期の段階に位置づけられる構造の古墳で、横穴式石室の部類だが、このような構造の石室は、古墳時代後期の石室の変遷を知る上で貴重な資料。

最古段階の横穴式石室は、堺市の塔塚古墳や藤井寺市の藤の森古墳等だが、長続きしなかったらしい。



写真は、塔塚古墳内部墳丘の様子。

墳丘の高さが4mほどのフラットな墳頂の様子。

塔塚古墳の石室からは、馬具(金銅製花形飾金具・木心鉄張輪鐙(あぶみ)・鉄製轡)、武器・武具(短甲・刀・鉄族)、装飾品(硬玉製勾玉・ガラス製勾玉・丸玉・小玉など)が出土し、木棺内からは鏡(方格八乳鏡・位至三公鏡(いしさんこうきょう))が発見されたと云う。



写真は、山梨県の長田口古墳から出土した、“位志三公鏡”。

「位至三公鏡」(鈕を挟んだ位置に「位至」「三公」の文字を入れて内区を分割して「位至三公」銘を挟んだ左右に、双頭龍文を線刻で表現した鏡)は、邪馬台国の時代に中国北部の魏や晋の地域でもっとも主流となった鏡であったと云う。

これらは中期古墳に特有のもので、塔塚古墳は5世紀中頃に築造されたと考えられている。

また、平成6年の調査では、西側墳丘部分を確認し、濠から円筒埴輪の他に盾形埴輪が出土していると云う。







堺市堺区の乳岡古墳とは!

2010年07月09日 | 歴史
百舌鳥古墳群の形成は4世紀の後半から始まったとされている。

そのころに造られた古墳に、全長約155mの“乳岡”(ちのおか)古墳があるが、本古墳は、百舌鳥古墳群の中では6番目の規模を持ちながら、最初に築造されたもので、国史跡に指定された。

本古墳は、百舌鳥古墳群の最も南西部、石津町にある前方部を南に向けた、前方後円墳で、名前の由来は乳房を連想するような墳形のためと云われている。

南向きの前方部は、現・仁徳陵や現・履中陵と同じ方向を向いている。

周囲に巡っていた幅約30mの大規模な周濠も埋められてしまい、3段に築かれた後円部のみが現存している。









写真は上から、乳岡古墳の記念石碑、民家が迫る本古墳遠景、乳房を連想させるような、乳岡古墳の後円部全景、及び同後円部墳丘3段築成の様子。

本来は全長推定155mの大型前方後円墳で、百舌鳥古墳群では6番目の大きさで、現・仁徳陵、現・履中陵、ニサンザイ古墳、御廟山古墳と既に消滅した大塚山古墳に続く。

本古墳周囲の住宅地を歩くと道が、不自然に曲がっているが、元の前方部や濠の形に影響されていると思われる。



写真は、民家に削り取られた本古墳前方部の光景。
写真のように前方部の大半が削られて住宅地になっている。

ほぼ完全に残っている後円部は3段に築造され、直径約94m・高さ14mほどの規模で、昭和47年に墳頂部にあった土壇の発掘調査が行われ、後円部中央の粘土で覆われた長持形石棺は、和泉砂岩製であることが確認された。この石棺は、埋め戻されたと云う。

また、石棺の周囲からは、車輪石などの腕輪形石製品や碧玉製の腕輪が出土し、百舌鳥古墳群で最も古い古墳であることが判明。石棺の形や遺物から4世紀末頃と考えられると云う。

更に、墳丘には葺石と埴輪があり、濠も巡っていた。

濠はすでに埋めたてられ、住宅や工場などになっているが、昭和60年に行われた発掘調査で、後円部西側の濠は、幅約30mという大規模なものであったことが確認されている。




堺市堺区の長塚古墳とは!

2010年07月07日 | 歴史
長塚古墳は、JR阪和線百舌鳥駅のすぐ南西にある、西向きの前方後円墳で、国史跡に指定されている。

本古墳には周濠が巡っていたが、すでに埋没して墳丘は、写真のように家並みに囲まれている状況。









写真は上から、JR阪和線越しの長塚古墳全景、住宅に覆いかぶさるような本古墳の森、家並みに囲まれた本古墳及び家並みから覗く本古墳の森。





写真は、長塚古墳石碑と案内板及び本古墳墳丘の様子。

墳丘は全長約102m・後円部径約57m・高さ約8.2m・前方部幅約67m・高さ約8.3mの規模で、2段に築成されている。南側のくびれ部には造出しがある。

円筒埴輪が採集されているが、主体部の構造や副葬品はわかっていない。

埴輪の形状・前方部の高さや幅が進化していることなどから、5世紀後半頃に造られたものと考えられている。

大阪堺市の百舌鳥古墳群とは!そのⅡ

2010年07月05日 | 歴史
百舌鳥古墳群の見所を、引続き紹介します。

先ずは、履中天皇陵について考えて見ます。

履中天皇陵は、百舌鳥古墳群の南部に位置する、前方後円墳で、大きさは全長約360m・後円部径205m・高さ約25m・前方部幅約237m・高さ約23mで、日本で3番目の大きさ。



写真は、履中天皇陵正面の石碑。

履中天皇は、仁徳天皇よりも後の時代の人物とされているが、考古学の発掘成果から、履中陵・上石津ミサンザイ古墳は大仙陵古墳よりも古い時代に造築されたと考えられている。

次に土師ニサンザイ古墳は、百舌鳥古墳群の南東の端に位置し、墳丘は3段構築で全長は約290m・後円部径は約156m・高さ約24m・前方部幅は約226m・高さ約22.5mで、前方部を西に向けており左右に造り出しがある。

全国で8番目の大きさで、現在の周濠は一重だが、二重目の濠が一部確認されていると云う。

土師ニサンザイ古墳は、宮内庁が陵墓参考地に指定しているものの、天皇は埋葬されていないものとされている。5世紀後半の築造と考えられており、百舌鳥古墳群の大型古墳の中では最も時代が新しい。

本格的な百舌鳥古墳形成は、古市古墳群にやや遅れて開始され、立地条件も古市古墳群とは異なる。

古市古墳群は羽曳野丘陵の残丘を利用して築かれてきたが、百舌鳥古墳群は大量の盛り土が必要な平地に築かれている。

墳丘の向きに着目した場合、前方部を北西西に向けている古墳群と南南西に向けている古墳群に分類されていると云う。

それでは、百舌鳥古墳群が造営された歴史的背景・地理的条件などを振り返ってみたい。

百舌鳥古墳群は、5世紀・宋書による倭の五王(讃、珍、済、興、武)の時代に築造された。

3世紀中頃に三輪山麓の大和・柳本古墳群に築かれた倭王国の陵墓は、4世紀の中頃に奈良盆地の北の佐紀古墳群に移り、4世紀の後半から5世紀には河内平野の古市・百舌鳥古墳群に移った。

この事実を、倭の実権が三輪王朝から河内王朝に移ったとするか、河内に誕生した新しい王権が倭王権を呑み込んだとするか、倭王権の河内進出とするかなど種々の説がある。

大和王朝そのものは、引続き大和に君臨しているわけで、陵墓としては、下記の通り、立地条件などに恵まれた河内平野に進出したと見るのが自然の流れと思われるが。

5世紀の日本は、中国・朝鮮などとの対外関係もひっ迫し、河内地域の政権支配層の約30%は渡来人が占めたと云われ、渡来人による文明開化が進んだ時代。

須恵器・馬具・武器・鉄・金属文化などが飛躍的に発達し、現在の大阪の中心部を占めていた河内湖の開拓や大規模な治水工事も可能になった。

そのような技術革新が巨大古墳を生んだと云える。

その技術革新を生んだ大王として、応神天皇や仁徳天皇が登場するが、その実体についての確かな文献・文字資料はない。
急激な技術革新は、むしろ、騎馬民族征服王朝と共に運ばれてきたとする説もある。

河内平野の百舌鳥・古市古墳群の巨大陵墓の有様は、これらの事情を説明する有力な手懸りとなり、6世紀以降の大和朝廷確立への鍵であるはずが、詳細が分からず、陵墓および陵墓参考地として宮内庁管轄下のままで、明治以降は立入り・調査は許されず、もどかしさが残っている。

陵墓に埋葬された天皇名は、書紀や延喜式による文献、中国・南朝の宋書に記された倭の五王との対応、陵墓周辺からたまたま発掘された資料、過去の発掘品などから想像されているにすぎず、実情は不明のまま

大阪堺市の百舌鳥古墳群とは!そのⅠ

2010年07月03日 | 歴史
ここからは、百舌鳥古墳群のうち、代表的な古墳群を巡ってみたい。

大阪府の堺市には、古市古墳群と並んで我が国を代表する百舌鳥古墳群がある。そもそも古墳群が築かれている一帯の地名そのものが、古墳の造営と関係があるらしい。

『日本書紀』に記された伝承によれば、その昔、この地で古墳の工事中に飛びこんできた鹿の耳から、百舌鳥が飛び立ったことから百舌鳥耳原と名づけたという。

百舌鳥古墳群は、堺の旧市街地の東南方向に位置し、東西・南北とも約4kmのほぼ正方形の区画に、かつては94基の古墳(前方後円墳23基、帆立貝式古墳9基、方墳8基、円墳54基)が存在したと言われている。

現在は、残念なことにその半数近くがすでに失われてしまって、現存する古墳は、半壊のものも含めて48基にすぎない。



写真は、百舌鳥古墳群のマッピング。

本古墳群の中でも、墳長100m以上の代表的な古墳群は、墳長の長い順番に以下の通り。

大仙陵古墳(伝仁徳天皇陵)、上石津ミサンザイ古墳(伝履中天皇陵)、土師ニサンザイ古墳、御廟山古墳、乳岡古墳、田出井山古墳(伝反正天皇陵)、いたすけ古墳、永山古墳そして長塚古墳の9古墳を数える。

百舌鳥古墳群は、4世紀末頃から乳岡古墳が築造され、次に履中陵古墳と大塚山古墳、仁徳陵古墳・御廟山古墳・いたすけ古墳、そして反正陵古墳・土師ニサンザイ古墳の順に築かれたものと考えられている。

ここで使われた埴輪を焼く窯のひとつが御廟山古墳の南東、百舌鳥川左岸にある窯跡で、5世紀中頃の築造と考えられ、いまのところ百舌鳥古墳群で発見されている唯一の埴輪窯。











写真は上から、百舌鳥古墳群の中で墳長の長い順番に、大仙陵古墳・伝仁徳天皇陵正面遠景、同陵の外濠光景、上石津ミサンザイ古墳・伝履中天皇陵正面、同陵周濠の様子及び土師ニサンザイ古墳全景。

これら古墳群には、倭の五王中の仁徳・履中・反正(はんぜい)の三代にわたる王陵が含まれている。

特に、仁徳天皇陵に治定されている大仙古墳は、墳長およそ486m・前方部の幅305m・高さ約33mで、日本第1位の規模を誇る超巨大前方後円墳であり、エジプトのクフ王のピラミットや中国の始皇帝陵と並んで、世界の三大古墳に数えられている。

本古墳を造るには、毎日2,000人の人々が働いても15年以上はかかったという権力の象徴的存在。

叉墳丘の周りには水を湛えた濠が三重に巡り、大仙の名にふさわしい、神秘的な悠久の仙山として、地元では大仙陵と呼ばれてきた。

ところで世界最大規模の第16代仁徳天皇陵は、出土物から5世紀中葉~末ごろの可能性が高いと言われる。

しかし仁徳天皇は4世紀中葉の人物である為、仁徳天皇陵でないことはハッキリしている。

大仙古墳の出土物等から、この時期に大和朝廷を統一国家として治世した第21代雄略天皇陵である可能性が高いと言われるているが・・・・。

いずれにしても、頑迷に発掘調査を拒否している宮内庁方針が変わらない限り、ことの矛盾は今後とも延々と続く。


堺市美原区の黒姫山古墳とは!そのⅡ

2010年07月01日 | 歴史
ここでは、黒姫山古墳の内容・真髄を紹介します。

先ずは埴輪について、





写真は、黒姫山古墳から出土した円筒埴輪や靫形埴輪。

1947年の発掘調査では、後円部の埋葬施設は、盗掘により破壊され消滅していたが、形象埴輪列や須恵器片が出土したと云う。





写真は、本古墳から出土した甲冑や襟付短甲。

1947年の調査で、前方部中央から竪穴式石室が発見され、石室の中からは24領の甲冑をはじめ、盾・靫・矛・鏃など、大量の鉄製武具や武器が出土し、全国的に注目されるようになったと云う。

この石室は、長さ約4.3m・幅約0.7m・高さ約1.2mあり、副葬品を納めるために、砂岩の天井石8枚で覆われ、底には川原石が敷き詰められていた。

また、付属具として襟付短甲を含む甲冑24領のほか、鉄刀14・鉄剣10・鉄鉾9・石突6・鉄鏃56・刀子5などの武器が多数出土した。

本古墳から出土した甲冑24領は、圧倒的な記録として考古学上貴重な資料。

この石室は、遺骸埋葬施設とは別に造られた、副葬品の埋葬施設と考えられており、本古墳の特徴と云える。

この調査より、黒姫山古墳は、5世紀中頃の古墳時代中期に、この地域で勢力を誇っていた丹比(たじひ)氏によって築造されたと考えられ、黒姫山古墳の被葬者は、丹比氏の首長の誰かと見られている。

また、中世の段階でかなり大規模な盛土がされており、城の砦として転用されていたことも分かっている。

洪積台地上に位置する当地は、もともと農耕には不向きであったが、丹比氏が池・溝の開発に必要な鉄製の鍬・鋤などを使い、叉渡来系の人々も総動員して、農耕を可能にしたことで、当地方で強大な勢力を創り上げたと想像される。

このことは、その権威を示す古墳が築造され、石室には大量の鉄製甲冑が埋葬されていたことで証明されている。

1957年、黒姫山古墳のもつ重要性から国の史跡に指定され、叉1978年には、周庭帯部分も追加指定され、平成元年からは、国と府の補助を受けて、環境整備が実施されている。

1989年度から1992年度にかけて、史跡黒姫山古墳歴史の広場として整備され、古墳の東側には前方部の竪穴式石室と墳丘上段部の埴輪列の一部が実物大で復元展示され、前方部の一部には円筒埴輪列が復元されている。



写真のように、出土した大量の甲冑は、現在までに大半が保存処理を終え、堺市立みはら歴史博物館でその一部が展示されている。