近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

光秀物語 締めくくり

2006年09月28日 | 歴史
戦国・江戸時代から明治・大正・昭和にかけ、歴史の表街道を歩いたのは、逆賊を討ったことを大義名分にした秀吉、さらに信長の忠実な同盟国であった家康、そして悲劇のヒーロー信長であって、光秀に対する評価が改善されることはなかった。
特に主君を倒した光秀を逆臣とする江戸倫理は、更に明治・大正・昭和へと助長され、特に明治から第二次大戦終戦までは、織田信長の仇、明智光秀を討ちとった忠臣として秀吉は、国威発揮に都合良く利用されたと云える。

戦後は信長のカリスマ性が見直され、強力なリーダー・モデルとしてもてはやされ、ブームを引き起こした。
秀吉そして信長ブームは、それぞれ時代が要請した、誇張された人物評価の姿も見え隠れして、必要に迫られたからとも云える。

しかし、相変わらず人気では高い信長ではあるが、逆賊の重臣として表舞台に登場することはなかった光秀に対する評価が、高度成長から安定した生活を求める国民の風潮の現れか、見直されつつあると云える。

NHK大河ドラマでも、そろそろ光秀を主人公としたドラマを取上げても宜しいのではないかと思うが?????

これまで明智光秀にまつわるストーリーを追ってきたが、消息不透明・資料不足・不十分な現地調査など、満足できる状況ではないが、今回はここで一端打ち切り、又の機会があれば、改めて取上げて見たく思います。
そのためにも、郷土史跡資料の丹念な検証を通して、特に「本能寺の変」の謎を解明し、いままでに知られていなかった新たな光秀像が、少しでも明らかになることを望みます。

長い間ご覧頂き、有難うございました。



光秀物語 サイドストーリーそのⅧ

2006年09月26日 | 歴史
サイドストーリーを更に続ける。
細川ガラシャが自害を強いられたような戦国乱世の時代背景の中、彼女の子供たちが、どのように巣立っていったのか、ガラシャの悲劇を背負っていかざるを得なかったのか、訴求してみたい。右の写真は、細川家菩提寺である京都の大徳寺高桐院の紅葉風景。

先ず嫡男の細川忠隆は、父・忠興とともに会津遠征や岐阜城攻撃をしており、関ヶ原の戦いでは東軍に属して戦い、戦功をあげて徳川秀忠から感謝状を得るほどであった。
しかし戦後に、母・ガラシャとは違い、妻の千世が大阪玉造屋敷から逃れたことを咎められ、父・忠興から妻を離縁して利家の嫡男・前田利長のもとへ追い返すように命じられた。
忠隆は千世との離縁を納得せず、結局忠興の怒りを買って勘当され、さらに世襲を解かれてしまった。
忠隆は剃髪して“長岡休無”と改名し、千世と長男の熊千代を伴い京都で蟄居したが、熊千代は同年のうちに若死にするという悲劇に遭遇した。
細川家との断絶は、その後解かれたが、忠隆は引き続き京都で余生を暮らしたと云う。

次に次男・細川興秋については、関ヶ原合戦当時、三男・忠利が江戸・徳川家へ人質に赴いていたこともあり、父・忠興は、徳川家から愛顧を受けた忠利を細川家の後継者に選んだのは自然であった。
代わりに次男・興秋が江戸へ人質として下ることに決した。
しかし興秋は、弟忠利が家督を相続するのを憤って、人質として江戸へ赴く途中に脱走し、豊臣秀頼の招きにより大坂に入城。
大坂夏の陣で豊臣氏は滅亡、城方であった興秋は、細川家への帰参を許さなれず、自害した。一説には忠興に討たれたともいう。
忠隆・興秋とも、自身の信念一徹を押し通したと云える。

このことは母ガラシャの強い個性の影響が大いにあったと考えられる。
母ガラシャは二度の逆鏡に遭遇し、孤独感を耐え忍んだが、最後には死を選んだ。いつ帰れるとも分からない、丹後の辺境山村での暮らし、そして秀吉から許しが出て、やっと大坂に帰ったが、待っていたのは、自分になつかなくなっている子供たちと、ガラシャの留守中に忠興が娶った側室など、更に孤独感に追い詰められた。
そして、何があっても石田三成の人質になってはならないと決意し、夫忠興や徳川家に人質になっていた息子・忠利のために、最後に死を選んだ。

彼女の忍耐力・強固な信念に裏打ちされたDNAは、きっと息子たちに継承されていたはず。

光秀物語 サイドストーリー編そのⅦ

2006年09月23日 | 歴史
次に細川ガラシャ・玉子の精神的苦悩の側面について、振り返ってみたい。
1、玉子は父の光秀や家族を助けることなく見殺しにした、忠興を許せなかったと思われる。
冷淡な夫と義父、孤立無援で死んでいった光秀の哀れさを思うにつけ、孤独感にさいなまれ続けたのではないか・・・・・・・。
光秀の娘である玉子を殺せ、そうしなければ細川家も危ないと、家来に迫られていた夫忠興が、玉子の身は何があっても自分が守ると決意し、結局、玉子を人里はなれた丹後味土野の山村に隠すことになった。
政略結婚だらけの戦国時代、実家が敵方となった嫁は実家に帰されたり、殺されたりするのが常だった。まして謀反人の家族は根絶やしが「常識」。
しかし、忠興は玉を隠した。 
琵琶湖畔大津市の坂本城、堀のある長岡京市の勝龍寺城、天橋立を望む海辺にある丹後の宮津城等々、広々とした水のある風景の中で暮らしてきた20歳の玉子は、丹後の辺境での暮らしをどう受け止めただろうか?
いつ帰れるともわからない山村で、言いようのない孤独感に押しつぶされそうになっていたはず。そんなとき玉子はキリスト教に出会い、洗礼を受けた。
付き人の佳代がすでに洗礼を受けていたが、その佳代の思いやりのある言葉と信仰に玉子が興味を持つようになったと思われる。

2、秀吉から許しが出て、玉子は都に帰れる日がやってきた。
しかし、そこには小さいころに別れたために、すでに自分にはなつかなくなっている子供たちや、玉子のいない間に忠興が娶った側室が待っていた。
“仲が良かった”という夫婦仲は、様変わりした。
忠興が留守中に側室を置いたのも一因だったが、玉自身も大きく成長し、変わっていたのだろう!
せっかく待ちに待った機会が訪れたというのに、山奥で生活していたときよりも大きな孤独感が玉子を苦しめた。
そして、そんな玉子を慰めてくれたのがキリスト信仰であった。

3、徳川家康に対抗している石田三成は、細川忠興を自分の側につかせることで
優位に立てると考え、妻の玉子を武力で人質に取る作戦に出た。
何があっても人質になっては、夫忠興や徳川家に人質になっている息子・忠利のためにならないと分かっていた玉子は、信仰の助けもあり、むしろ死を選んだ。
その後忠興は、玉子の死のおかげで徳川家康に信頼され、その後徳川家3代にわたって腹心の家来として仕えることができた。

玉子の苦悩・決断が、その後の細川家を救ったと云える。

光秀物語 サイドストーリー編そのⅥ

2006年09月21日 | 歴史
ここでは、光秀三女の玉子・細川ガラシャにスポットを当ててみよう。
ガラシャ生涯の悲劇的側面を取上げてみる。
1、細川ガラシャは、明智光秀の三女で、俗名は「玉子」、ガラシャは美しく、聡明な女性であったと云う。
細川ガラシャの後半生を大筋振りかって見ると、叛将・明智光秀を父に持ち、その負い目を受けたがゆえに、輝かしい栄光の日々に、背を向けた後半生を生きたと云える。
細川藤孝の嫡男忠興と結婚し、幸せな結婚生活の中、1582年、本能寺の変が起った。
 明智家は滅亡し、当然玉子も自害を覚悟していたが、忠興の寵愛で玉子を丹後・味土野の山奥へ幽閉することになった。
 寂しい幽閉時代を2年間過ごした。そこでお供の佳代よりキリストの教えを学ぶこととなる。
父光秀は討ち死にし、母は自決するという悲劇が彼女を襲ったが、そういう中で救いとなったのがキリスト教だったと思われる。
その後、秀吉の命で丹後より帰郷を許されることになる。
幽閉時代、夫忠興だけを頼りに生きてきただけに、留守中にできた異変、忠興の側室の存在が玉子を苦しめた。
しかしながら忠興の玉子に対する寵愛は依然激しく、外出さえも許されなかった。そんな苦悩の中、キリストの教えを深めていった。




写真は、聖マリア大聖堂とその入口に立てられたガラシャ肖像。
1587年、ついに密かに教会を訪れ受洗した。キリスト教を学び、洗礼を受けたのは、大阪城南の元細川屋敷。その元敷地に立つ教会が、玉造教会・聖マリア大聖堂で、入口に立つのがガラシャ肖像。
悲しみに心を閉ざし、怒りっぽく無愛想だったというガラシャは、明るく柔和で、辛抱強く愛らしく「別人のようになった」と修道士の書簡は伝える。
「困難に出会って人の徳は最もよく磨かれ、美しい光彩を放つようになる」との教えの通り、ガラシャは輝きを取り戻し始めた。
しかしその直後、秀吉のキリシタン弾圧が始まった。
1598年、秀吉が病死し、石田光成と徳川家康と天下が二つに割れ、細川家は徳川方につくことになる。
関ヶ原合戦の前夜、ガラシャは忠興の愛を確かめ、西軍の人質にならないことを硬く決意する。
ガラシャは忠興との約束を忠実に守り、一歩も屋敷から出ることはなかった。
人質の要請に従わないとして三成軍が屋敷を襲い、ガラシャの一生を奪い取った。
37歳の短い、壮絶な人生であった。
戦国時代から織田・豊臣時代、関ヶ原の合戦にかけての戦乱による悲劇の女性のひとりが、明智光秀の三女・細川ガラシャと云える。

2、JR長岡京駅東口から南へ500メートルほど歩くと、堀と石垣に囲まれた勝竜寺城公園が見える。勝竜寺城の歴史は古く、南北朝時代の1339年、足利尊氏率いる北朝側の細川頼春が築いたという。



写真は、勝龍寺城跡の記念公園。
細川ガラシャにとっては、忠興に嫁いだ、勝龍寺城を本拠にした父・光秀が戦に破れ、この城から敗走していったことが悲劇の始まり。
戦国の悲劇とロマンが秘められた城と言える。



写真は、勝龍寺城公園内の忠興とガラシャ銅像。
勝龍寺城のある長岡京市では毎年秋に「長岡京ガラシャ祭」があり、悲劇の戦国女性・ガラシャを追悼しているが、ガラシャの悲劇から約400年、勝龍寺城は公園に姿を変え、現在は市民に親しまれている。

3、ガラシャの悲劇はまだ続く。関ヶ原の合戦で東軍の徳川家康に味方しようとした細川忠興に対し、豊臣方の石田三成は忠興の妻・ガラシャ夫人を人質として大坂城への入城を強要した。
この要求を拒否したため、三成の軍勢に屋敷を囲まれたガラシャは、自殺を禁じられたキリスト信徒であったが、あえて屋敷に火を放ち、家老に長刀で胸を突かせて自決、自己の信念を貫き37歳の生涯を閉じた。




写真は、宗禅寺本堂と宗禅寺に祀られたガラシャの墓。
大阪市東淀川区の曹洞宗の寺・崇禅寺にガラシャの五輪塔があり、かたわらに「秀林院細川玉子之墓」と刻まれた石碑が立っている。




4、写真は、越中井戸と石碑、それと井戸周辺に広がる、細川家屋敷跡の遠景。
ガラシャが忠興とともに住み、命を絶った屋敷があった大阪市森の宮・玉造には 「越中井」と呼ばれる井戸が残っている。
この屋敷跡がガラシャの終焉の地となった。そばには、ガラシャの「辞世の歌」の石碑も建っている。
 「散りぬべき時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」と謳われた。



5、写真はガラシャ病院の肖像画。
蛇足になるが、箕面市拙宅の近所にガラシア病院がある。
ガラシャは戦国時代、大阪の地で、貧しい人や病める人々にキリストの深い愛の心で奉仕した人物であったと伝えられている。
ガラシア病院は、この細川ガラシアの洗礼名に因んで名づけられたと云う。


光秀物語 サイドストーリー編そのⅤ

2006年09月18日 | 歴史
次にわずか3年ほどの間に、ここ丹波に史実として残る、光秀公治世の功績を紹介する。
例えば堤防を築き、由良川の流路を変えて洪水を防ぐ治水・灌漑事業、楽市楽座を開くことによる商業の発展、地子銭(宅地税)免除の特権を与えることによる商業振興等々、民衆の高い支持を得ていたことが伝承に残されている。
折しも、戦国の当時、丹波では小豪族が割拠し、皇室領も収奪され、高い租税率と戦乱に生活を圧迫されていた民衆は救世主の到来を待ち望んでいたと云う。
将にグットタイミングで、丹波の国人と民衆に対して、光秀は常に穏やかに接し、民衆の立場で善政をしいたことにより、絶大なる支持を得たと云う。
この間、光秀は強く人々の記憶に刻まれ、城下町の鎮守である御霊神社に祀られ、福知山音頭に今でも謡われるほど、広く・永く市民に親しまれている。





写真は上から、御霊神社の入口・本堂など全景・光秀に纏わる歌碑。
前述の点について、もう少し具体的に紹介すると、
先ず御霊神社創建の由緒は、光秀の御霊を慰め、その善政に感謝する庶民の心から生まれたと云う。
江戸時代元禄の頃には、火災・水害・地震などの災害が頻発し、人々はこれを光秀公の怨霊のなす所と恐れていたため。
ここ御霊神社には光秀が書いた古文書3点が残されているが、これらは市指定文化財として保存され、又この神社には光秀の霊も合祀されている。
又この神社には、光秀の功績を謳った讃歌が石碑に刻まれている。
「免税と決めて、光秀名を残し」と謳われた、”汀亭”の作品。



更に今日まで庶民とともに、生き長らえてきた“福知山音頭と踊り”は現在市指定文化財として親しまれているが、元々領民たちが築城の際、石材・木材などを城内に運ぶ時に、「ドッコイセ・ドッコイセ・・・・・・」と手振り、足振り面白く唄い出したのが始まりと伝えられている。
福知山音頭の歌詞については、光秀の善政を称え・偲んだものが多いと云う。
例えば「明智光秀丹波をひろめ、ひろめ丹波の福知山」とか、「お前見たかやお城の庭を
今が桔梗の花ざかり」など。



写真のように、当時の光秀の功績・史跡は福知山城資料館に多く残され、訪れる人々の心を捉え、和ませる。
逆臣の汚名を被せられた光秀を、祭神として祀った町衆の行動は、光秀に対する特別な思いの帰結であったと云える。

光秀物語 サイドストーリー編そのⅣ

2006年09月16日 | 歴史
次に光秀が丹波国・福知山城主時代の功績について振り返ってみると、意外な事実が判明した。
光秀の善政が実績として、現地領民に評価されたことが史実として残されている。
史実として文書化されている数少ない光秀の足跡である。
先ず丹波国を平定したあたりから、振り返ってみる。
1579年に丹波国を平定すると、それまでの横山城を福知山城と改名し、近世城郭へと大改修したと云う。




写真は福知山天守閣。福知山城は、南から北東に向かって突き出した、標高約40mの丘陵上に位置し、周囲を由良川・土師川・丘陵で四方を守られた要地に所在する。
小天守を伴った三層の天守は、近年外観復元され、現在は町のシンボルとなっている。



城址は、現在城址公園として残され、天守台を含む各郭の石垣は、築城当時のままの姿を留めていると云う。




写真のように、野面積の石垣は、多くの石仏・墓石・五輪塔など石塔が使われている。
これほど多くの社寺の転用石を使った城は異例と云われる。
光秀治政に反抗的な社寺を打ち壊し、石塔類を天守台の石垣に転用したと云われているが、一方これらの石塔はお城のお守りとしたとも伝えられている。
更に光秀は社寺に対して、丹波平定が成就したら必ず社寺を再建することを約束したとも伝えられている。



写真は、福知山城から望む市街地と周囲の山々。

城郭のレイアウトについては、四方を河川と丘陵で取囲んでいるが、わずか標高40mほどの丘陵で、いわゆる平山城であり、要害にはほど遠いと云える。
要害になりそうな山々は周囲にいくらでもあるのに、あえて町に近い平場に城を構えた、光秀の意図が窺い知れる。
占領者としての印象を和らげ、庶民と近く・低い目線で、領国統治を志向したと考えられる。

光秀物語 サイドストーリー編そのⅢ

2006年09月15日 | 歴史
織田と明智が時を超えて和解!
「信長と光秀の子孫が、京都中央区の本能寺で対面し、本能寺執事長立会いのもと、信長の墓前で握手したことにより、本能寺の変から422年ぶりに和解した!」と云うニュースが2004年6月に報道された。
この時期、織田家は武田家とも和解しており、和解で大忙しといったところ。
戦国史を塗り替えることは出来ないが、その意義・解釈を今風に置き換えると、“和解”という選択肢が成立するのかもしれない。

以前は主君を討った大逆臣というイメージで描かれていた光秀像が、近年は横暴な上司と有能な同僚に苦労させられる中間管理職として描かれるという、光秀に対する評価が変わったからかもしれない。

それにしても、今回和解した両家当事者のうち、信長宗家の13代当主は家系図からいって由緒正しいと思われるが、明智家の場合「光秀の流れを汲む」と言う表現からも、明智家の家系がハッキリしていない現状から、疑問を挟まざるを得ない。
少なくとも光秀の直系ではないということか? 或いは直系かどうかも分からない?
何分光秀の父親候補ですら、“光綱”・“光隆”・“光国”と三人もおり、いずれの名前も書状や古文書には見られないということから、判然としていない。
光秀の子供たちについても、ほんの一部を除いて、判然としていないなど、先祖の系譜は依然闇の中にあることからも、子孫の脈略について今も疑問が残る。

織田家と明智家が和解したとはいうものの、「お主殺し」を断行した光秀の逆臣行為は、日本の風俗・伝統を真っ向から否定するもので、以来歴史の舞台から遠ざけられたために、明智家のツケは永遠に返すことが難しいと云える。

光秀物語 サイドストーリー編そのⅡ

2006年09月14日 | 歴史
坂本竜馬の先祖は、大津市坂本の出身?
山崎の戦いで敗れた明智一族・家臣の多くは悲劇に見舞われたが、中には土佐に逃れ、長岡郡才谷村に住み着いた一族・家臣もいたと云う。
例えば、光秀の娘婿・明智秀満の子が落武者となって土佐に逃れ、長宗我部氏を頼って落ち延びたと伝えられている。というのも長宗我部氏の正室が光秀の娘だったからとも云われている。
この落武者は、一時土佐の山村に隠れたが、その後醸造業を興し、高知城下に店をかまえて、“才谷屋”と称して成功したと云う。
そして先祖・明智家の居城・坂本にちなみ“坂本”と名乗ったと云う。

右上の写真が坂本竜馬。
この坂本一族から坂本竜馬が出ているとも伝えられている。
又竜馬の家紋は“升に桔梗”だが、これは明智家の家紋に由来しているとも云う。
坂本竜馬については、高知在住の人の中に「竜馬の先祖については、坂本城が燃えていた時、乳母が子どもを抱えて土佐へ逃げた」と伝え聞いた人がいたと云う。

ちなみに、“才谷屋”は今でも営業しており、「高知県産地酒 司牡丹[才谷屋]について、幕末の志氏坂本竜馬の本家筋にあたる酒蔵・才谷屋は、司牡丹の蔵元とも縁が深い。」と宣伝している。チャンスがあれば、才谷屋を現地取材してみたいですね!

以上のストーリーについて、どこまでが真実であるかは分からない。
史書・家系図などは後世の人が都合よく書くので、絶対の証拠とはならない。
しかし生き証人が存在しない今となっては、真相は永遠に闇に包まれたまま????
戦国史のロマンを膨らまし続ける、永遠の研究テーマとして生き残るかも?


光秀物語 サイドストーリー編そのⅠ

2006年09月13日 | 歴史
今まで続けてきた、“光秀物語”の最後に、光秀に纏わる逸話の中でも、余り脚光を浴びてこなかった、いわばサイドストーリーを拾って、幾つか紹介する。
大阪府岸和田市の本徳寺は、光秀の実子が開いた寺として伝えられている。
岸和田市は、“だんじリ祭り”で全国的に知られている町で、大阪湾に臨む城下町として発達し、“だんじリ祭り”は、1700年に五穀豊穣を祈願したのが始まりと伝えられている。
今年は、9月16日(土)・17日(日)に行われる予定。



写真は、本徳寺が所在する、岸和田市寺町の一画。
本徳寺は臨済宗妙心寺の末寺で、岸和田城に近い寺町の一画に所在し、光秀の実子・南国和尚が開いた寺とされている。



全国唯一の光秀肖像画。
南国和尚は、光秀の肖像画と位牌を、この寺で供養していたと云う。
戦国時代から残る唯一の肖像画と伝えられている。





写真は上から、本徳寺の山門、正面入口、そして本徳寺全景の順番。
本徳寺は岸和田市役所に近い、市街地の中心に位置しているが、写真の通り、門を閉ざしたまま、ひっそりと佇み、その歴史が風化されるのを待ち望んでいるように思える。
ここにも“お主殺し”の汚名を背負った光秀ファミリーの悲劇が潜んでいるようだ。
ところで、この寺に残されている、光秀の位牌と肖像画には、謎めいた文字が残されていると云う。

位牌の裏には、慶長4年(1599年)の年号が記され、この年に寄進されたことになる。
更に位牌の文字の中には、上から漆が塗られ、消されている文字があり、解読できていない。
はたして何が書かれているのか、謎は深まる。
又本徳寺に残る唯一の肖像画には、「放下般舟三昧去」と記され、訳すと、「仏門に入り去っていった」ということだそうだ。光秀はこの寺にきて、仏門に入り、その後この寺を出て行ったのであろうか?ここから何処へ行ったのであろうか?

慶長年間の初めには、光秀親子が生き残っていたことになるが、光秀は、やはり仏門に入ったのであろうか?光秀=天海のストーリーとどう繋がるのであろうか?
謎が謎を呼び、絡んだ糸のように解きほぐすのは、至難のわざであると思われる。
謎解きが出来ないように、史実が分断されているのかもしれない。

更に南国和尚は、光秀の長子・明智光慶であるとの説があり、彼は出家して、京都妙心寺の塔頭・瑞松院に住して、“玄琳”を名乗っていたと云う。
その後、鳥羽村(現在の大阪府貝塚市)の海雲寺に入り、ここで父・光秀の肖像を絵師に描かせ、位牌を立てて供養し、更にその後岸和田藩主の命で、この地に移され、寺号も本徳寺に改められたと云うもの。

しかし一方で、光慶は、山崎の合戦で父光秀が敗走中討たれると、中川清秀、高山重友らの攻撃に持ちこたえる事が出来ず、坂本城の城内で12~13歳の若さで敗死してしまったとも伝えられている。

どちらを信じるか、信じないか、ストーリーの辻褄が合わないだけに、合わないように作為的・錯誤的に作り上げたとしか言いようがない。
“お主殺し”を犯した、光秀の逆臣的行為は、以来明智家の家臣から親族まで、光秀をかばうことも、名指すこともタブーとされ、ここまでに捻じ曲げられてしまったということか?

光秀の美濃生誕地を巡って レポートそのⅢ

2006年09月12日 | 歴史
光秀生誕地論争第3弾を以下レポートする。
光秀の美濃生誕地のうち、もう一つの候補地、岐阜県恵那市明智町(元々は明知であった)を訪れるタイミングがズレそうなので、予め事前に収集した、恵那市での生誕地情報を集約してみると、どうも生誕地ではないようなので、訪れる意欲・興味を削いでしまった感が強い。
明智町には、遠山氏の始祖が築城した明智城、光秀産湯の井戸、龍護寺には光秀の墓、光秀学問所など光秀ゆかりの名所があるが、光秀の明智町ではなく、明智町は大正時代の建物・文化・風俗などを残す「日本大正村」興しで知られる。右上の写真は明智町の花りんご。
因みに暴れん坊将軍でお馴染の“遠山の金さん”はこの遠山家出自。
1984年以降、「大正村」を観光資源として町興しに取組んでいる。
大正村の村長さんには、現在は2代目で元女優の司葉子さんが就任されているとか。
光秀が明智町の出身であると云う伝説には疑問符がつくようで、町興しとして大々的にアピールすることには抵抗を感じているように思われる。

光秀伝説について、明智町誌には、「そこにでてくる明智城を本明智町に存在したと解するには、かなり無理のように思われる。光秀伝記の記述は、“アケチ”という音にひかれた作為か錯誤による説と考えてよいのではなかろうかと思われる。」と記述されていると云う。
又恵那市史では、明智町は明智盆地に開けた町で、飛騨から三河へ出る街道及び尾張から信州飯田は通じる中馬街道が交わる交通の要衝にあり、宿場町として賑わいを見せたと紹介し、更に明智城については、要害ではなく、白鷹山麓の砦として紹介する等、“城下町”の文言はない。

ということで、恵那市明智町の生誕地説にはチョット無理があるように思われるが・・・。

光秀の美濃生誕地を巡って、現地レポートそのⅡ!

2006年09月11日 | 歴史
昨日に引続き、可児市瀬田の明智城址を取上げる。
ここでは、明智城落後、戦死者を葬った「七ツ塚」、明智家一族を弔うための「六親眷属霊魂塔」などを紹介する。
明智城址散策道の大手口からスタートして、15分ほどで山稜の「出丸」に出ると、南側に戦死した将兵を葬ったとされる「七ツ塚」があり、東側の下り歩道を進むと、辺りは森林・竹林に包まれ、わずかに踏み馴らされた散策道を更に下っていくと、山道が分かれ、右へ進むと突然、「六親眷属幽魂塔」が姿を現した。



写真は、明智城址の七ツ塚及び六親眷属霊魂塔。
石碑に「六親眷属霊魂塔」と彫られた後、地中に埋められたが、明智城址発掘調査の際に発見され、今もひっそりと祀られている。
城址から発見された点が極めて重要で、“六親眷属”とは歴代の明智城主一門を意味するもので、その一門の慰霊を祀るためのものであることは明らかであると云う。
しかもこの塔が発見されたときの状況は、見慣れない石がわずかばかり頭を出していることを不思議に思って掘り出したと云う。
この塔は光秀の生誕地論争に一石を投じる、重要な物証となりうると思うが・・・・。
恐らく当時こんな塔を建てたことが判れば、逆臣に味方する不屈者として、重い処罰を受けたと考えられる。
この地の住民が、これほどまでのリスクを冒してまで、明智一門の霊を慰めていたほど、領民は深くその徳を慕っていたということか?



写真は、森林・竹林の状況。
この塔から、標識に従って下ることにより、大手口に戻ることが出来た。
しかし、写真の通り、散策道は、風で倒れた大竹が山道を塞ぎ、竹を押し退けながら前進せざるを得ないほど荒れていた。
更にこの時期マムシの繁殖期に当り、足の踏み場が見えないほどの自然道を恐る恐る跨ぐように下山した。
一人散策は、危険であり、差し控えた方が良い。当局に早急は打開策を望む。

光秀の美濃生誕地を巡って、現地レポートそのⅠ!

2006年09月10日 | 歴史
以前紹介した、光秀生誕地候補の一つ、可児市瀬田を現地訪問した結果を二回に分けて報告する。
ここは、光秀が美濃源氏・明智家の嫡男として、美濃国可児郡の明智城で生まれたとする城址。
名古屋駅から名鉄で約1時間かけて、名鉄広見線の明智駅で下車。下車したのは自身を含め、ただの二人と乗降客は少ない。駅員一人の寂しい明智駅前は、閑散とした典型的田舎駅。
わずかな駅前広場は、車乗り入れ停車用で、タクシーは電話で呼び出すしかない。
タクシーを電話で呼び出し、タクシー料金ワンメーターで明智城址入口に着いた。




写真は、明智城大手口及び散策道入口。
ところで明智駅には、観光案内・チラシ類の備え付けがなく、仕方なく駅員・タクシー運転手に尋ねたが、明智城址内に入ったことがないということで、質問には答えられなかった。
又関心も示さなかった。観光地としての印象は極めて薄い。

“明智城址散策道”の大手口から、標高約178mの山城山頂に向けて、散策開始。
明智城は約東西1,200mにも及ぶ長い山城で、別名“長山城”とも呼ばれ、張り出した尾根や谷を利用して、わずかな山稜の起伏に巧みに手を加え、多くの複雑な曲輪を配した、中世の山城。
しかし開発が進んだためか、現在では長山城山稜1,200mの距離感は分からない。




写真は、曲輪址及び曲輪沿いの散策道。
山稜のうねり・凹凸を最大限活かした、山城は斎藤義竜の大群により、あっけなく攻め落とされたと云う。




写真は、本丸址と二の丸址。
秀吉もこの山城を徹底的に壊滅したので、何も残っていない。
又その後徳川政権・明治政府も「主君殺し光秀」を忌避した。
というように“明智荘”と呼ばれる山城は、見せしめとして徹底的に破壊され、当時の地形が残った部分は、“明智城址散策道”として現在整備されている。



写真は、城址記念石碑。
写真の通り、山稜東部のひときわ高い部分に本丸記念碑と隣り合わせで“明智城址石碑”が建っている。




写真は、山城山頂から望む、濃尾平野及び山麓の住宅地。
この山城周辺の濃尾平野は、穀物地帯で且つ東山道・木曾川など交通手段もあり、飛騨と尾張の連絡口でもあり、太古から経済が発達したと云う。
又地形的にも、木曽川と小高い山々に囲まれた盆地で自然の要塞だったため、重要な軍事拠点でもあったと云う。
写真のように眺望は良く、戦乱時には、敵の動きが良く見下ろせたと思われ、見張り・守備に適した典型的な中世の山城。

以上のように、地の利としては、美濃国の中心に相応しい所ではある。
いずれ近い将来には、もう一つの光秀生誕地候補である、恵那市明智町を巡る予定。







光秀・天海ゆかりの地・近江坂本の寺眼堂とは?

2006年09月09日 | 歴史
次に近江坂本の寺眼堂・滋賀院門跡を現場からレポートする。
天海僧正は家康から家光まで3代の将軍に仕えた、天台宗の傑僧で、光秀と同じ“慈眼大師”の諡号(“しごう”と読み、死後天皇より与えられる贈り名)を持つ。

以前にも紹介した通り、「天海の正体は実は明智光秀である」との説を唱える人もあり、両者にはそれらしき共通接点がある。
詳しくは「光秀 108歳長寿の裏付けとは!」を参照して下さい。

延暦寺慈眼堂は天海上人の墓所で、関西近県では紅葉の名所としても良く知られている。





写真上から、延暦寺歴代座主越しに望む、寺眼堂・延暦寺座主の墓と五輪塔及び天海の墓。
お堂の前には石灯篭が二列に並び、西側には延暦寺歴代座主の墓や五輪塔も配され、厳かな境内に圧倒される。
慈眼堂内の空気が醸し出す、清新な雰囲気は、「黒衣の将軍」と畏れられた偉大な人物の廟所に相応しい。思わず両手を合わせてしまった。
天海は延暦寺南光坊に住し、織田信長の焼討ちにより、荒廃した延暦寺の再興に尽力したと云う。

隣接して立並ぶ、滋賀院門跡は、天海大僧正が京都御所より賜ったもので、天台宗座主の地位にあった皇族の代々の居所。
広大な敷地内には内仏殿・書院・客殿などがある。中でも外壁の石垣に注目!



坂本城址のある坂本の町の雰囲気を作り出しているのは、「穴太衆積」(あのうしゅうせき)といわれる、乱積みした石垣で、坂本城址をはじめ、町中いたるところで見ることができるが、この滋賀院門跡の石垣は最大と云われる。
「穴太衆」は、古くから坂本を本拠とした石工集団で、江戸時代の最盛期には300人を超える石工を抱え、幕府・諸大名に仕えたと云う。

現地レポート 光秀の胴塚って本当?

2006年09月08日 | 歴史

光秀に纏わる現地レポート第二弾は、光秀の”胴塚”がある、京都山科区勧修寺へ行ってきましたので、以下報告します。

小栗栖で刺された光秀の胴体が埋められた所とされており、小栗栖街道の脇に入った民家の裏手にあり、仮店舗の片隅にひっそりと佇んでいる。

明智藪から北方向へ約1.5キロの所にある。

 

 

この石標”明智光秀之塚”は、この地に光秀の胴体が埋葬された場所として、昭和45年に建立されたと云う。

しかしこの場所である由来・伝承は定かでない。

事歴書によると、秀吉は「光秀の首と胴体を繋ぎ、金具で留めて粟田口の河原に磔にせよ」と命令したとか、「その後、光秀の胴体を探して、首を繋いで粟田口で磔にした」などと記述されているが、日時が経過し、見分けが付きにくい、数百体の遺首から光秀のそれと認知できたかどうか極めて疑わしい。

仮に光秀の首と胴体を繋いで、粟田口に磔にしたと伝承されていることが事実とすると、胴体はここには埋められていないはず。

 

 

光秀胴塚の西側には、当時を偲ばせるような、鬱蒼とした森林の一部が残されている。

胴塚があった環境としては相応しいが、はたしてここに、本当に光秀の胴体が眠っているでしょうか?


光秀に纏わる史蹟現地レポート

2006年09月07日 | 歴史

光秀物語シリーズ、最後に光秀に纏わる史蹟探索の締めくくりとして、光秀ゆかりの地最新情報を現地よりレポートする。

山崎の合戦に敗れた光秀は、再起を期して数人の近臣と夜陰に乗じて勝竜寺城を脱出し、坂本に向かう途中、この地で落武者狩の土民に竹槍で突かれ、無念の最後を遂げたと伝えられる。

当時の様子は、「豊鑑」や「明智軍記」に明記されていると云う。

時に、天正10年(1582)6月13日、ここが光秀終焉の地で、現在の「京都市伏見区小栗栖」。

 

 

この写真の場所が、光秀が土民に襲われたという小栗栖の「明智藪」で、記念石碑が建てられている。

起伏のきつい住宅地に向けて、自動車でやっと通れるほどの狭い路地を精一杯入り込むと、突如として明智藪の記念碑に出会う。

 

 

小栗栖のある山科盆地は、平らな面と崖とが階段状の地形を作っているところで、盆地の中ほどには北から南へ流れる山科川があり、この山科川に沿った段丘面に、明智藪が所在する。

写真のように、住宅地周辺は年月を感じさせる、鬱蒼とした背高い森林・竹林で覆われ、恐らく当時は落武者が出没しそうな竹薮に包まれていたと想像できる。