近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

徳川慶喜物語 “戊辰戦争・鳥羽伏見の戦い”

2007年05月29日 | 歴史
1868年1月3日、幕府軍が京を目指す途中、鳥羽村で薩摩軍と衝突、開戦の火蓋が切られた。
世に云う“鳥羽伏見の戦い”である。





写真は上から、鳥羽伏見の戦いのスタート現場記念碑及び本戦いがスタートした地点から望む東山方面。

戦局は、一進一退の攻防が繰広げられたが、1868年1月4日、薩長軍側に高々と、“錦の御旗”が翻り、戦局は完全に薩長を中心とした新政府軍に有利となった。



写真は、薩長軍が掲げた“錦の御旗”サンプル。
薩長軍の“錦の御旗”を知ると、それまで様子見を決め込んでいた諸藩が次々と薩長軍に翻ったと云う。





写真は上から、京都伏見区の淀城址公園、及び現在まで残された、淀城の石垣。
例えば、京都伏見の淀城主藩士は旧幕府の守備隊として当初臨んだが、時の城主稲葉正邦は、幕府・老中にもかかわらず、藩兵は城内で戦況を見守っていた。
結果的に官軍が優勢とみると、淀城は敗走してくる旧幕府軍に対して、門を閉ざし、官軍に寝返りした。

又朝廷公認の軍であることの証である“錦の御旗”を見た幕府軍は、戦意を喪失して大坂城に総退却を余儀なくされた。
城内には緊迫と悲壮感が充満していたと云う。

“錦の御旗”を持ち出した薩摩は官軍、幕府は賊軍、慶喜は朝敵とされてしまった。慶喜の心境からすれば、この時点で、江戸へ退却せざるを得なかった。

しかし、将軍自らが出陣すれば士気は大いに上がり、必ず勝てるという大合唱が起こったと云う。
退却した幕府軍の諸隊長も、未だ無傷の約1万の軍勢を擁し、前将軍・徳川慶喜の直々の出陣を求めたが、朝敵の汚名を受けた慶喜には、この段階でもはや戦意はなかった。幕府軍の暴発を恐れる余り、リスクの少ない、江戸へ退却というクールな判断に傾いた。慶喜を除く全員が主戦論者であったが・・・。

そして慶喜は諸兵士たちには、「明日出陣する」と宣言しておきながら、老中・板倉勝静、元京都守護職・松平容保ら数人と共に、夜中密かに大坂城を脱出し、幕府所有の軍艦で江戸に向け出発した。

幕府軍は、主人がいないことを知るや、翌朝大混乱に陥り、将兵達は激昂した。
そして各自ばらばらに江戸に向けて退却することを余儀なくされた。

慶喜の江戸退却により、幕府軍は完全に瓦解し、薩長中心の新政府軍の完全な勝利となった。
1月7日、新政府は、”慶喜追討令”を出した。
1月9日に官軍が大坂城を占領し、1月10日には新政府は、徳川慶喜以下の官位を剥奪し、幕府領を直轄領と決定した。



写真は、慶喜に頼りにされた、勝海舟の肖像。
江戸に帰った慶喜は、直ぐに勝海舟を呼び出して、朝敵となったことを告げると、戦後処理を託し、江戸城へ急いだと云う。
皮肉なことに、将軍となって初めて江戸城へ入った。



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1 コメント

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マルテンサイト千年 (グローバルサムライ)
2024-05-22 04:06:22
最近はChatGPTや生成AI等で人工知能の普及がアルゴリズム革命の衝撃といってブームとなっていますよね。ニュートンやアインシュタイン物理学のような完全理論駆動型を打ち壊して、データ駆動型の世界を切り開いているという。当然ながらこのアルゴリズム人間の思考を模擬するのだがら、当然哲学にも影響を与えるし、中国の文化大革命のようなイデオロギーにも影響を及ぼす。さらにはこの人工知能にはブラックボックス問題という数学的に分解してもなぜそうなったのか分からないという問題が存在している。そんな中、単純な問題であれば分解できるとした「材料物理数学再武装」というものが以前より脚光を浴びてきた。これは非線形関数の造形方法とはどういうことかという問題を大局的にとらえ、たとえば経済学で主張されている国富論の神の見えざる手というものが2つの関数の結合を行う行為で、関数接合論と呼ばれ、それの高次的状態がニューラルネットワークをはじめとするAI研究の最前線につながっているとするものだ。この関数接合論は経営学ではKPI競合モデルとも呼ばれ、様々な分野へその思想が波及してきている。この新たな哲学の胎動は「哲学」だけあってあらゆるものの根本を揺さぶり始めている。こういうのは従来の科学技術の一神教的観点でなく日本らしさとも呼べるような多神教的発想と考えられる。
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