近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

沖縄の歴史・文化 “第二尚氏王統の3代目・尚真”とは!

2007年12月17日 | 歴史
1470年尚円王がスタートさせた“第二尚氏王統”は、1879年の琉球処分によって沖縄県が置かれるまで、19代400年余り続いた。

琉球王国を、江戸幕府より100年以上も長い平和な治世の礎を創り上げたのが、“尚真王”であった。



写真は、第二尚氏王統・3代目の“尚真王”の肖像。
“尚真王”は“尚円王”の長子として、約50年間にわたり多くの功績を残し、長期安定の治世を確立したと云われている。

尚円王の弟・2代目の“尚宣威王”は、尚真の母・“オギヤカ”が企んだとされるクーデターにより失脚させられ、神のお告げがあったとされる、若干12歳の尚真が王位の座に就いたと云う。

尚真王の主な功績には、中央集権国家体制の確立・地方領主からの武器没収と首里城内移住・身分制度の確立・八重山や与那国など離島の支配強化など江戸幕府の長期政権に似た諸施策を導入・定着させたことにある。

琉球支配者特異の施策には、王女や王の姉妹を最高の神官・“聞得大君”に任じ、地方の女神官を支配下に置いたことや、中国との関係強化のため、朝貢を3年1貢から1年1貢へとより緊密化したことなどが挙げられる。



写真は、那覇市の首里城公園内の“円覚寺”跡。
尚真王は、首里城の周囲に役人たちを住まわせ、石畳の道・寺・墓などが造られ、首里城下町として整備した。
仏教の篤い信者であった尚真王は、父・尚円を祀るため“円覚寺”を建造した。



写真は、那覇市首里城に近い“第二代尚家歴代玉陵”。
この時期、尚真の母は王一族の王陵を築き、自分の血を引くものだけが、この墓に葬られた。当時高貴な人物が逝去すると、その付添い人も一緒に死ぬという残酷は風習があったが、母が亡くなり、王陵に葬られた際には、尚真王はこの悪習を止めさせたと云う。

更に当時華僑がアジア全域に進出していた時代でもあり、尚真王は東南アジアとの交易を広げ、シャム(タイ)・ジャワ・マラッカ(マレーシア)・パレンバンなどの国々を相手に、輸出品は中国産の陶磁器・絹織物・琉球産硫黄・工芸品など、輸入品には染料・胡椒・南蛮酒・象牙などで交易進行を図ったと云う。



写真は、沖縄最古の歌集・”おもろそうし”の文面・内容。
文化的功績として、琉球の伝統的なうた・“おもろ”をまとめた“おもろそうし”は、沖縄最古の歌集として、当時を偲ぶ歴史的価値が高いらしい。