これまで沖縄離島の将来像について、そのあるべき姿・チャレンジすべき課題と見通しなどを取上げ、試行錯誤してきたが、ひとまず休憩して、沖縄の最新事情について、触れてみたい。
特に沖縄の自然にかかわること・伝統文化・食文化・社会問題などのトピックスを取上げてみたい。
先ず琉球民族・“沖縄人”の源流を辿っていくと、今から5~6千年前に南太平洋から黒潮に乗って、琉球列島に北上してきた黒潮民族・漁労集団に当り、元々は2~3万年前、南太平洋から北上してきた古いアジア人・モンゴロイド人。
何千年もの間、ポリネシア・ミクロネシアなどの南海で、長い歴史の時を経て漁業・造船技術・操船技術などを身につけて、北上していたモンゴロイド人と考えられる。
故郷の南太平洋島を出た一族は、黒潮に回流する豊富な魚群を追って、北へ北へと進み、東南アジア・琉球列島・日本列島まで北上し、上陸して住み着くようになったらしい。
日本へ到達した海洋民族は、潜水漁法などの海洋文化を継承して、“海人”と呼ばれる種族へと変わって定住していったと云う。
黒潮民族の沖縄漂着から紀元後1,000年ぐらいまでを“貝塚時代”と呼び、沖縄諸島沿岸浅瀬の貝類を蛋白源食材としたらしく、沖縄の貝塚時代は縄文時代中期から弥生・平安時代まで長く続いたと云う。
本土のように弥生時代にあたる時期の水田は見つかっておらず、稲作が始まるのは本土より千年ほど遅れ、貝塚時代の末・本土の平安時代であったらしい。
写真は、沖縄県石川市の古我地原貝塚から出土した貝製小玉及び伊江村具志原貝塚から出土したヤコウガイ製貝匙。
沖縄諸島は珊瑚礁に取り囲まれ、遠浅な海辺を最大限利用した漁労を中心に、海での生活に依存していた。特に弥生時代には、沖縄で作られた貝製品が北海道を含む、広く日本本土へ交易品として大量に運ばれたようだ。
黒潮民族の中で、沖縄の久高島に渡来してきた海洋民族・“アマミキョ”(遠い海から来た人の意)の集団は、航海する時、上陸した島で食糧を確保するために、穀物の種子を持って移動してきたと云う。
これが、久高島が沖縄での五穀(稲・麦・粟・豆・黍または稗)の発祥地となる理由らしい。
写真は上から、沖縄本島南部の東側の久高島全景、神の島・久高島の光景及び浜比嘉島に残るアマミキョ墓所遠景と墓所。
久高島は、沖縄本島南部・知念岬から東へ約5.5キロメートルの海上に浮かぶ、人口約300人、周囲約8キロメートルの南北に細長い小さな島。本島からフェリーで20分ほど。
久高島にはガジュマル・ビロウ・シャリンバイなどが作る小さな森が、御嶽(社はないが、本土の神社に相当する)となって点在しており、その御嶽に多くの神々がまつられていると云われ、神秘的な雰囲気が漂う。
琉球王府は久高島を神の島として崇めることによって国を治めようとしたと思われる。
アマミキョ集団は、稲作の場所と飲料の水源を求め、対岸の本島に渡り始めたと云われている。久高島から本島の知念村・玉城村に渡る経路には、アマミキョに関する数々の神話・伝説が生まれ、現在でも残されていると云う。
沖縄列島は、神々と先祖に深く関わる民族が宿る島々!
特に沖縄の自然にかかわること・伝統文化・食文化・社会問題などのトピックスを取上げてみたい。
先ず琉球民族・“沖縄人”の源流を辿っていくと、今から5~6千年前に南太平洋から黒潮に乗って、琉球列島に北上してきた黒潮民族・漁労集団に当り、元々は2~3万年前、南太平洋から北上してきた古いアジア人・モンゴロイド人。
何千年もの間、ポリネシア・ミクロネシアなどの南海で、長い歴史の時を経て漁業・造船技術・操船技術などを身につけて、北上していたモンゴロイド人と考えられる。
故郷の南太平洋島を出た一族は、黒潮に回流する豊富な魚群を追って、北へ北へと進み、東南アジア・琉球列島・日本列島まで北上し、上陸して住み着くようになったらしい。
日本へ到達した海洋民族は、潜水漁法などの海洋文化を継承して、“海人”と呼ばれる種族へと変わって定住していったと云う。
黒潮民族の沖縄漂着から紀元後1,000年ぐらいまでを“貝塚時代”と呼び、沖縄諸島沿岸浅瀬の貝類を蛋白源食材としたらしく、沖縄の貝塚時代は縄文時代中期から弥生・平安時代まで長く続いたと云う。
本土のように弥生時代にあたる時期の水田は見つかっておらず、稲作が始まるのは本土より千年ほど遅れ、貝塚時代の末・本土の平安時代であったらしい。
写真は、沖縄県石川市の古我地原貝塚から出土した貝製小玉及び伊江村具志原貝塚から出土したヤコウガイ製貝匙。
沖縄諸島は珊瑚礁に取り囲まれ、遠浅な海辺を最大限利用した漁労を中心に、海での生活に依存していた。特に弥生時代には、沖縄で作られた貝製品が北海道を含む、広く日本本土へ交易品として大量に運ばれたようだ。
黒潮民族の中で、沖縄の久高島に渡来してきた海洋民族・“アマミキョ”(遠い海から来た人の意)の集団は、航海する時、上陸した島で食糧を確保するために、穀物の種子を持って移動してきたと云う。
これが、久高島が沖縄での五穀(稲・麦・粟・豆・黍または稗)の発祥地となる理由らしい。
写真は上から、沖縄本島南部の東側の久高島全景、神の島・久高島の光景及び浜比嘉島に残るアマミキョ墓所遠景と墓所。
久高島は、沖縄本島南部・知念岬から東へ約5.5キロメートルの海上に浮かぶ、人口約300人、周囲約8キロメートルの南北に細長い小さな島。本島からフェリーで20分ほど。
久高島にはガジュマル・ビロウ・シャリンバイなどが作る小さな森が、御嶽(社はないが、本土の神社に相当する)となって点在しており、その御嶽に多くの神々がまつられていると云われ、神秘的な雰囲気が漂う。
琉球王府は久高島を神の島として崇めることによって国を治めようとしたと思われる。
アマミキョ集団は、稲作の場所と飲料の水源を求め、対岸の本島に渡り始めたと云われている。久高島から本島の知念村・玉城村に渡る経路には、アマミキョに関する数々の神話・伝説が生まれ、現在でも残されていると云う。
沖縄列島は、神々と先祖に深く関わる民族が宿る島々!