近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

沖縄の歴史・文化 沖縄の“縄文・弥生時代” そのⅠ

2007年12月08日 | 歴史
紀元前5,000~紀元後1,000 年ぐらいまでを“貝塚時代”と呼び、貝類を集めたような、特異な土地柄もあり貝塚時代は本土より長く続いている。
即ち沖縄の貝塚時代は、縄文時代にあたる前半と、弥生時代から平安時代にあたる後半に大きく分けられる。

現時点で弥生時代にあたる時期の水田はみつかっておらず、農耕がはじまるのは、貝塚時代の末・本土の平安時代であったと云う。

縄文文化の影響が強かった沖縄諸島に対し、先島諸島ではかなり違った様相が見られる。先島諸島から出土した土器は、縄文土器よりも“台湾先史時代の土器”との共通点が指摘されている。

沖縄諸島の弥生時代には、沖縄で作られた貝輪などの貝製品が日本本土へ(遠くは北海道まで)大量に運ばれたことで知られている。

沖縄諸島は珊瑚礁に取り囲まれ、特に遺跡が集中する地域の全面には裾礁の発達が著しく、遠浅な海辺を最大限利用した漁労を中心に、海での生活に依存していたと理解できる。

縄文時代早期の沖縄でもっとも古い土器は、指頭や爪で押文様をほどこした“爪形文土器”で、今から6700年ほど前のものとされる。

縄文前期では、九州縄文人が船で琉球列島に渡ってきたと考えられているが、縄文中期には、本土の火山活動が活発だったこともあり、九州の縄文文化の影響が及ばず、琉球諸島の中部文化圏という独自の文化を展開した時代と捉えられている。

沖縄諸島の遺跡群は、海産物を除いては語れないほど“貝”とのかかわりが深い。縄文中期の遺跡からは貝塚が多く発見されていることから、当時は定住生活を営んでいたと見られる。

貝類の中でも、クモガイ・スイジガイ・ゴボウラガイ・シャコガイ・イモガイ・ヤコウガイ・ホラガイ・オオベツコガイ・タカラガイ等々が数多く出土している。















写真は上から、沖縄市の安座間原遺跡から出土した、シャコガイ貝製錘、珍しいホラ貝製湯沸し器、伊江村具志原貝塚から出土した、ヤコウガイ製貝匙、及び沖縄市の安座間原遺跡から出土した、スイジガイ製利器、読谷村の縄文遺跡から出土した貝札及び魔よけ用のクモガイ・スジカイ製お守り、そして同貝塚から出土した“ゴウウラ貝製腕輪製作工程”。

漁労具として使われた“シャコガイ貝製錘”が数多く出土している。裾礁に囲まれた海辺での漁労には釣針・銛ではなく、貝製錘が適していたと見られ、釣針・銛の出土は極めて稀であると云う。

生活必需品として活用されていた貝製用具のうち、沖縄特有のもとして“ホラガイ製湯沸し器”や“ヤコウガイ製貝匙”。同じく生活利器として使われた“スイジガイ製利器。

魔除けのお守りとして装着していたと見られる“貝札”や同じく魔除けとして住居の出入口に吊るしていたと考えられる“クモガイ製お守り”も珍しい。

最後に、対外交易品として大量に生産されたと見られる“ゴウウラガイ製腕輪製作工程”。完成品腕輪は交易品として移出されたと考えられていたが、交易相手地での出土遺物から奄美大島をはじめ、九州・北陸・朝鮮半島等との交易が窺えると云う。

以上見てきたように縄文人のルーツの一つである沖縄諸島には、独特な出土遺物に象徴される、沖縄特異な生活文化・慣習等があったと思われる。

誠に残念ながら沖縄諸島の先史は、先の世界大戦の大被害により、永久に謎に包まれたまま迷宮入りに終わるかもしれない。


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