近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

大阪高槻市の環濠集落安満遺跡で最古の水田や木棺墓跡発見!そのⅡ

2015年07月19日 | 歴史
先般6月27日に現地説明会が行われた、弥生時代を通じての巨大環濠集落・安満遺跡について、更に続けます。

平成26年9月から、安満遺跡公園内の雨水貯留施設の建設に伴い発掘調査を実施、今回の調査区では弥生時代前期の水田、同じく前期から後期の墓域、中期以降の灌漑施設、古代・中世の水田などを検出した。

桧尾川扇状地の先端付近に形成された微高地が京大農場中央部と東端にあり、それぞれ居住域、墓域が展開される。

昭和初年京都大学農学部摂津農場がつくられた際,多くの弥生式土器や石器が発見されたのが始まりで、1967年以後,高槻市および大阪府教育委員会による発掘調査によって,東西1200m・南北600mにわたる大規模な遺跡であることが明らかとなった。







写真は上から、安満遺跡公園予定地の概略領域、集落全体の復元図で画面右上が集落拠点及び画面上の京大農学部の赤屋根建物辺りが居住地。

高槻市では、京都大学大学院農学研究科の移転に伴い、その跡地を含めた一帯を「安満遺跡公園」として整備し、弥生時代の安満遺跡を保存・継承するとともに、防災機能を備えた、緑豊かな公園を目指す取組を進めている。

この遺跡は住居群のまわりに濠をめぐらす環濠集落跡で、南側には用水路をそなえた水田がひろがり、東側と西側は墓地になっていた。



写真は、安満遺跡の弥生時代前期の水田小区画跡。

弥生時代前期の小区画水田が良好な状態で見つかったが、幅20~30cm、高さ5cmの畦畔で区切られ、水田一枚は10~65㎥、57枚を確認している。

高い田から低い田へ、畦畔を越流させて給水したらしい。

南東に緩やかに傾斜する地形に沿って、約3m間隔で南北方向の畦畔を設け、東西の畦畔で短冊形に区切っている。水田域は北東部が最も古く、洪水の度に南へ広げていったとみられる。





写真は上から、安満遺跡田圃の粘土質に砂礫が被った地層と田圃に残された足あと。

この水田は、前期末に発生した洪水が運んだ砂礫に覆われたため放棄されたが、砂礫を踏み込んだ足あとがいくつも見つかっている。

洪水で水没した田圃の様子を見に来たかも知れない。





大阪高槻市の弥生環濠集落安満遺跡で国内最古の水田や木棺墓跡発見!

2015年07月04日 | 歴史
近畿地方の弥生時代を通しての巨大環濠集落として名高い遺跡には、奈良田原元町の唐古・鍵遺跡、大阪和泉市の池上曽根遺跡及び高槻市の安満遺跡が知られている。
その内、今回安満遺跡に新たな一大発見が、現地説明会を伴い報道されたので、これから3回に分けて詳細を報告します。

高槻市教育委員会は平成27年6月19日、弥生時代の環濠集落・安満遺跡(同市八丁畷町)で、弥生前期(約2500年前)の大規模な水田跡(約90,000㎡)と遺体の埋葬に用いられたとみられる土器棺や木棺墓跡が見つかったと発表した。

以前の調査で建物跡が見つかっており、広大な水田跡が一体となって確認されたのは珍しいという。









写真は上から、JR高槻駅を背景にした、6月27日実施の現地説明会遠景と田圃跡を中心として安満遺跡の広がり、畦畔や土器棺が望める現地説明会光景、今後共引続き発掘調査が継続する予定のプルーシートを掛けられた本遺跡の調査光景及び後方に見える銀杏並木の東向側にも広がる巨大遺跡広場。

写真の通り、本安満遺跡は、今後共引続き発掘調査が継続される予定で、ブルーシートが掛けられたところの他、更に東側にも当集落跡が眠っていると思われている。

ところで豊かな自然に恵まれて水路・陸路の交通の要所でもあった高槻には、古代から近代までの貴重な遺跡がたくさん残されている。

高槻市には、弥生時代に近隣では最も早くから集団で稲作を行なっていたことを示す本安満遺跡、真の継体天皇陵といわれている今城塚古墳、戦国時代から幕末までの波乱万丈の歴史を物語る高槻城や普門寺城、高山右近天主教会堂などの遺跡や碑等、高槻が誇る文化遺跡には枚挙にいとまがない。

そのうち安満遺跡は、大阪平野の北東部、淀川右岸の三島地域にあって、檜尾川が形成した扇状地に立地する弥生時代の集落遺跡。

安満遺跡の発掘調査の歴史は古く、最初は京大農場の設置にともない、1928(昭和3)年の調査で出土した土器から、北部九州に成立した弥生文化が幾内に流入したものと指摘された、史学上著名な遺跡。

この安満遺跡は、桧尾川流域に広がる東西1,500m・南北600mの弥生時代の遺跡で、国の史跡に指定されている。

これまでの調査の結果、弥生時代約700年間を通じて存続した三島地域の拠点的集落で、近畿地方の弥生社会と弥生人の多様な生活ぶりを示す重要な遺跡。

昭和43年ごろから本格的発掘調査がおこなわれ、弥生前期から後期にわたって営まれた環濠集落であることが明らかになる。とくに、弥生集落を構成する、居住域、生産域、墓域の分布と変遷が明らかになったことから、平成5年に国史跡に指定された。

平成20~22年度にかけて、京大農場内の確認調査では、集落の分布と地形の関係や、集落の分布状況などが明らかとなった。これらの成果を受け、平成22年には京大農場部分が史跡の追加指定を受けた。