先般6月27日に現地説明会が行われた、弥生時代を通じての巨大環濠集落・安満遺跡について、更に続けます。
平成26年9月から、安満遺跡公園内の雨水貯留施設の建設に伴い発掘調査を実施、今回の調査区では弥生時代前期の水田、同じく前期から後期の墓域、中期以降の灌漑施設、古代・中世の水田などを検出した。
桧尾川扇状地の先端付近に形成された微高地が京大農場中央部と東端にあり、それぞれ居住域、墓域が展開される。
昭和初年京都大学農学部摂津農場がつくられた際,多くの弥生式土器や石器が発見されたのが始まりで、1967年以後,高槻市および大阪府教育委員会による発掘調査によって,東西1200m・南北600mにわたる大規模な遺跡であることが明らかとなった。
写真は上から、安満遺跡公園予定地の概略領域、集落全体の復元図で画面右上が集落拠点及び画面上の京大農学部の赤屋根建物辺りが居住地。
高槻市では、京都大学大学院農学研究科の移転に伴い、その跡地を含めた一帯を「安満遺跡公園」として整備し、弥生時代の安満遺跡を保存・継承するとともに、防災機能を備えた、緑豊かな公園を目指す取組を進めている。
この遺跡は住居群のまわりに濠をめぐらす環濠集落跡で、南側には用水路をそなえた水田がひろがり、東側と西側は墓地になっていた。
写真は、安満遺跡の弥生時代前期の水田小区画跡。
弥生時代前期の小区画水田が良好な状態で見つかったが、幅20~30cm、高さ5cmの畦畔で区切られ、水田一枚は10~65㎥、57枚を確認している。
高い田から低い田へ、畦畔を越流させて給水したらしい。
南東に緩やかに傾斜する地形に沿って、約3m間隔で南北方向の畦畔を設け、東西の畦畔で短冊形に区切っている。水田域は北東部が最も古く、洪水の度に南へ広げていったとみられる。
写真は上から、安満遺跡田圃の粘土質に砂礫が被った地層と田圃に残された足あと。
この水田は、前期末に発生した洪水が運んだ砂礫に覆われたため放棄されたが、砂礫を踏み込んだ足あとがいくつも見つかっている。
洪水で水没した田圃の様子を見に来たかも知れない。
平成26年9月から、安満遺跡公園内の雨水貯留施設の建設に伴い発掘調査を実施、今回の調査区では弥生時代前期の水田、同じく前期から後期の墓域、中期以降の灌漑施設、古代・中世の水田などを検出した。
桧尾川扇状地の先端付近に形成された微高地が京大農場中央部と東端にあり、それぞれ居住域、墓域が展開される。
昭和初年京都大学農学部摂津農場がつくられた際,多くの弥生式土器や石器が発見されたのが始まりで、1967年以後,高槻市および大阪府教育委員会による発掘調査によって,東西1200m・南北600mにわたる大規模な遺跡であることが明らかとなった。
写真は上から、安満遺跡公園予定地の概略領域、集落全体の復元図で画面右上が集落拠点及び画面上の京大農学部の赤屋根建物辺りが居住地。
高槻市では、京都大学大学院農学研究科の移転に伴い、その跡地を含めた一帯を「安満遺跡公園」として整備し、弥生時代の安満遺跡を保存・継承するとともに、防災機能を備えた、緑豊かな公園を目指す取組を進めている。
この遺跡は住居群のまわりに濠をめぐらす環濠集落跡で、南側には用水路をそなえた水田がひろがり、東側と西側は墓地になっていた。
写真は、安満遺跡の弥生時代前期の水田小区画跡。
弥生時代前期の小区画水田が良好な状態で見つかったが、幅20~30cm、高さ5cmの畦畔で区切られ、水田一枚は10~65㎥、57枚を確認している。
高い田から低い田へ、畦畔を越流させて給水したらしい。
南東に緩やかに傾斜する地形に沿って、約3m間隔で南北方向の畦畔を設け、東西の畦畔で短冊形に区切っている。水田域は北東部が最も古く、洪水の度に南へ広げていったとみられる。
写真は上から、安満遺跡田圃の粘土質に砂礫が被った地層と田圃に残された足あと。
この水田は、前期末に発生した洪水が運んだ砂礫に覆われたため放棄されたが、砂礫を踏み込んだ足あとがいくつも見つかっている。
洪水で水没した田圃の様子を見に来たかも知れない。