近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

広告

※このエリアは、60日間投稿が無い場合に表示されます。記事を投稿すると、表示されなくなります。

奈良市の佐紀盾列古墳群 そのⅢ

2009年02月28日 | 歴史
佐紀盾列古墳群の見所を更に続ける。
☆北東部の古墳群
北東部の古墳群には、以下4基の代表的古墳が挙げられる。





写真は、ヒシアゲ古墳(現磐之媛命陵)と御濠。

ヒシアゲ古墳は、平城宮跡の北、水上池に面した前方後円墳で、第16代仁徳天皇の皇后・磐之媛命の陵とされている。

日本最大の前方後円墳で有名な、仁徳天皇の皇后だけに、ヒシアゲ古墳も大きな古墳で、平城山丘陵の尾根を使って築造され、全長約219m・後円部径124mという規模。

くびれ部分に造り出しがあり、磐之媛命陵は、御陵の南面に、二重の濠があるのが大きな特徴。





写真は、市庭古墳(現平城天皇陵)と正面出入口。

一方平城宮跡のすぐ北に位置する市庭古墳は、佐紀盾列古墳群の中の東群に分類されているが、西群よりの築造時期が若干遅く、5世紀中葉から後半頃と推定されている。

本来は墳丘の全長約253m・前方部の幅164m・後円部の直径147mほどで前方部を南に向けた前方後円墳であることが判明。

平城京の建設が始まった8世紀の初め頃には、巨大な前方後円墳が既にあったが、築造されてから2世紀半以上の歳月が流れ、被葬者が誰であったかも、人々の記憶から忘れられていたと想像される。

平城天皇陵に比定されているが、平城天皇は平安時代の初めに実在した天皇であり、新たに陵墓を築くことなく、いわば放置されていた古墳を、再利用して葬られたことになる。

平城天皇は、桓武天皇の第一子で、大同元年(806)5月に第51代天皇として即位したが、わずか3年たらずの在位で、病身を理由に皇太弟の神野親王(嵯峨天皇)に譲位して、上皇になっている。

しかしその後に健康が回復したのか、次第に政治に干渉を始め、平城に再び遷都する旨の詔を発するなどして、当時は「二所朝廷」と称されるほどであったらしい。その後、髪を剃って仏門に入ったと云う。





写真は、宇和奈辺古墳全景及び国道からの遠景で、左側の森が宇和奈辺・右が古奈辺古墳。

奈良市法華寺町にある、宇和奈辺古墳は古奈辺古墳の東にある全長約265mの大型の前方後円墳。二重の濠堀があったことが確認されている。

平城京造営に際し外濠が埋められ、南側は“北京極大路”となった。





写真は、古奈辺古墳全景と御濠側面。

宇和奈辺古墳の西側が全長約210mの古奈辺古墳。ともに古墳時代中期の前方後円墳で、陵墓参考地に指定されているが、被葬者は不明。

宇和奈辺・うわなべは、ウワナリ(前妻の意)が訛ったもので、古奈辺・こなべは、コナミ(後妻)が訛ったものと云う。被葬者のヒントが秘められていそうだが・・・。

古奈辺古墳は、江戸時代には第44代の女帝・元正天皇陵(748年没)という説もあったらしいが、これまた年代が符合しない。







コメント

奈良市の佐紀盾列古墳群 そのⅡ

2009年02月26日 | 歴史
これから、全長200m以上の代表的な佐紀盾列古墳群を紹介する。
☆佐紀盾列の北西側古墳群とは!
前ページ地図を参照して、平城宮北側丘陵地の北西サイドから追ってみる。









写真は上から、神功皇后陵を巡るスポットで、御陵正面・西側の御濠・全景・御陵から梅木越しに望む生駒山など。

奈良市山陵町にある神功皇后陵(五社神古墳)は、第14代・仲哀天皇の皇后であった神功皇后の陵墓と推測され、4世紀末~5世紀初めの古墳で、全長約275mと佐紀盾列古墳群のなかでは最大・最古であり、こんもり茂った木々の緑が美しい。

前方部は3段築成で、埴輪・葺石があったと見られる。歴史上それほど有名な人物ではないが、子を宿した身体で、三韓出兵した伝承が残っている。





写真は、佐紀石塚山古墳(第13代成務天皇陵)と御濠。

奈良市山陵町にある佐紀石塚山古墳は、全長約218m・後円部直径約132m・高さ19mほどの美しい前方後円墳で、陪塚が周辺に数基点在する。

4世紀後半~5世紀前半に造られたと推定されている。神功皇后陵に向かい合って位置している。

本古墳は、佐紀陵山古墳と隣合わせに築造され、互いに前方部を南に向けている。石塚山古墳は小高い丘陵の端に築かれているので、西大寺方面の市街地が一望できる。





写真は、佐紀陵山古墳(日葉酢媛命陵)と御濠。

佐紀陵山古墳は、第11代・垂仁天皇の皇后・日葉酢媛命(西暦243年没)の御陵と治定されている、全長約207mの大型の前方後円墳。

後円部径131m・後円部高さ約18mを持つ、前期4世紀後半~5世紀前半の築造とされ、日葉酢媛命の没年とかけ離れている。

巨大な蓋形・盾・家形・鰭付円筒型埴輪や、内行花文鏡・四獣鏡などが出土しているらしい。

後円部の頂には平たく割った石を小口積みにし、高さ約70cmの石垣を矩形に巡らして内側に土を詰めた壇を造っていたと云う。



コメント

奈良市の佐紀盾列古墳群とは!

2009年02月24日 | 歴史
☆はじめに
最後になってしまったが、奈良県内の古墳群で歴史的に忘れてはならないのが、北部の代表的古墳である、奈良市の佐紀盾列古墳群。
奈良市の和爾地域には、弥生時代の大規模集落が点在し、その基盤を受け継いで、古墳時代の集落が形成されたものと考えられている。



写真は、奈良県の概要地図だが、奈良市は最北端に位置する。

佐紀地区の集落遺跡遺溝からは、埴輪生産をはじめ、山陰系・東海系の外来土器・農具や土木具などの木製品・建築部材・祭祀具・紡績具・石製腕飾りなどが出土し、墳墓造営の生産拠点として機能していた居住地・集落と見られ、奈良盆地北部における政治的拠点の一つと考えられている。

墳墓造営の生産拠点として、佐紀古墳群の形成が端緒をなしたと見られる。

佐紀盾列古墳群は、奈良市曾布に所在する古墳時代前期中葉過ぎから中期にかけて営まれた、ヤマト王権の王墓を多く含む古墳群で、佐紀古墳群とも言う。

佐紀丘陵にある古墳が盾を並べたように続く地というのが名前の由来らしい。

平城京は本古墳群の一部を削って造られているが、当地は平城京誕生以降の奈良時代には高級官僚の住む高級住宅街でもあったと云う。平城京以前にもこの地域には大型古墳を築造する力を持った勢力が存在したと見られる。



写真は、奈良市佐紀盾列古墳群のマッピング。

平城宮跡の北側一帯の丘陵地に造られた、約50基もの大規模古墳群の総称が佐紀盾列古墳群で、西北の神功皇后陵(五社神古墳)から東の宇和奈辺古墳までをさす。

各古墳の築造年代は異なり、平城宮跡から西の各御陵は4~5世紀の前期古墳。一方、東の古墳群は5~6世紀の中期古墳と考えられている。

しかし謎も多く、市庭古墳(第51代平城天皇陵)のように被葬者(824年に崩御)と古墳の築造年代(5世紀)が大きく不一致だったり、被葬者の伝承が不明だったり、謎を秘めたまま。

佐紀盾列古墳群の中で、古都奈良の西北部の丘陵地には、宇和奈辺古墳・古奈辺古墳・磐之媛命陵の古墳があり、恰好のハイキングコースとなっており、奈良市観光課奨めの「歴史の道」である。

大和にある全長200mをこす前方後円墳19基のうち、7基までが本古墳群に集中し、前期後半には3基、中期には4基みられる。

これら大型古墳群は、初期ヤマト政権の王墓である可能性が高く、大阪府百舌鳥古墳群、古市古墳群とならんで古墳時代中期を代表する古墳群。

奈良盆地の東南部のヤマト政権誕生に関わりのある纏向古墳群や天理市南部から桜井市にかけて初期ヤマト政権の大王墓を含む大和・柳本古墳群が5世紀初頭には衰退し、本古墳群が4世紀後半から5世紀前半に巨大前方後円墳を営むようになった。

しかし、中期末の5世紀後半から末葉になると弱小化してしまった。

西側の古墳群は、大阪平野の古市・百舌鳥古墳群とほぼ同時期であり、大和に起こった勢力が奈良盆地全域から大阪平野へ拡大していったとの説を裏付ける。


コメント

大阪寝屋川市の石宝殿古墳とは!

2009年02月22日 | 歴史
寝屋川市打上元町の石宝殿古墳は、明光寺から山手に300m程行った所にあり、7世紀中頃の築造と考えられ、北河内で唯一の終末期古墳で、昭和48年に国指定史跡となっている。

本古墳の盛土は流失し、石槨が露出しており、花崗岩の底石は長さ約3m、幅1.5mあり、蓋石を受けるための加工が施されている。

蓋石は長さ約3m・幅3.3m・高さ1.5mの巨大な花崗岩をくり抜いて墓室用としており、墓室の入口には扉石がはめ込まれていた跡が見られ、その前に2個の大石で羨道を作っている。





写真は、寝屋川市石宝殿古墳及びその石槨。
生駒山地からのびる丘陵に築かれた7世紀中ごろの古墳。

巨大な石をくり抜いて“石槨”と呼ばれる死者を葬る部分が造られている。
石槨の内部は幅0.9m・高さ0.8m・奥行き2.2mで、入口は南側に向いている。

平面形が八角形となる可能性があるが、八角形古墳には天智天皇陵古墳、天武・持統天皇陵古墳、中尾山古墳などがある。

古墳の形や埋葬施設からも、かなりの有力者が葬られていたと考えられるが、はたして誰の墓か?

本古墳北西の石津東町から南町に所在する楠遺跡は、弥生時代後期初頭から古墳時代後期に駆けての集落遺跡で、当遺跡からはこれまでの発掘調査で古墳時代の多数の遺構・遺物が出土し、渡来人が住んでいたムラと見られている。

コメント

大阪富田林市のお亀石古墳とは!

2009年02月19日 | 歴史
お亀石古墳は”オカンジ池”北側の丘陵上にあり、古墳時代終末期の石棺式石室を
持つ、一辺約21m・高さ約4mの方墳。

遺体を納める施設は“横口式石槨”と呼ばれ、石棺と石室とが組み合わさって
いる特殊な構造で、7世紀前半頃の古墳と考えられている。



写真は、お亀石古墳。

切石を敷詰めた羨道の正面に家形石棺を安置した内部構造で、横穴式石室のような玄室を省略している。

石棺の石材は二上山産の凝灰岩で、羨道の切石には巨大な花崗岩を用い、豪族の墳墓であることを物語っている。





写真は上から、家形石棺の亀のような棺蓋及び石室と石棺。

この棺蓋には6個の縄掛突起があり、古くから露出して亀の形に似ているところから命名されたと見られる。

当古墳の重要性は、石棺の周囲に飛鳥時代の瓦を槨壁状に多数積み重ねていたことで、他に類例を見ない。



写真は、新堂廃寺跡から望むお亀石古墳。

石棺周囲の瓦は、ここ新堂廃寺の百済系瓦と共通する事実から、被葬者が生前当廃寺の創建に関与した施主であったのではないかと推測されている。

同種の特殊な内部構造を持つ古墳は河内南部に多く見られ、この頃近くの石川流域に多数居住していた百済系渡来氏族との関係・観点からも注目すべき古墳と云える。

丘陵上にこのような大規模な古墳を築造することができ、古代寺院を建立することができる人物としては、蘇我氏と深い関係がある人物とみなすのが妥当であると思われる。

古墳の形状が方墳であることもそのことを裏付けると考えられている。

しかし日本の古代史では、百済系藤原氏が秦氏系蘇我氏を制覇した歴史と言うことになるが・・・・・・。
コメント

謎々ストーリーその11―蘇我氏族の大王墓を巡って!

2009年02月17日 | 歴史
蘇我氏系の大王墓の伝承を持つ古墳群と呼ばれるほど、蘇我氏の影響力が強かった古墳群は、一方で蘇我氏族墓によって囲まれ・守られて、7世紀前半の“磯長谷古墳群”として特徴づけられている。

二上山の西麓で、“竹内街道”が通過する、難波に向って開いた谷が磯長谷。

磯長谷には天皇陵の伝承のある古墳群の他、蘇我夷の墳墓として知られている一須賀古墳、蘇我馬子によって建てられたといわれる妙見寺、蘇我馬子を奉る“伝馬子の塔”等に代表されるように、蘇我氏族による当地太子町でのプレゼンテーションは大きい。

飛鳥地方が大王古墳で溢れてから、大王級の巨大古墳の中心が、4世紀には日本の二代古墳群の一つである古市古墳群へ移り、5世紀にはもう一つの巨大古墳群である百舌鳥古墳群へ移動した。

そして大王級の巨大古墳が築造されなくなった古墳時代後期後半の6・7世紀には、磯長谷と呼ばれる細長い山と谷が集まる場所へ、磯長谷古墳群として、蘇我氏系大王墓の伝承を持つ古墳群が誕生した。

大王墓の伝承を持つ御陵には、前方後円墳の敏逹陵古墳、方墳の用明陵古墳、方墳の推古陵古墳、円墳の聖徳太子墓古墳などがある。



この辺り一帯は、羽曳野市に残る地名“飛鳥”に因んで“近つ飛鳥”とも呼ばれている。

近つ飛鳥博物館に隣接している、一須賀古墳群は、河南町一須賀・東山、太子町葉室にわたる丘陵上にある古墳群で、6世紀前半から7世紀中頃にかけて築かれた、総数262基からなる古墳群。

→一須賀古墳群は、葛城山地から北西方向に延びる河南町丘陵地帯の古墳後期の墳墓。



写真は、一須賀古墳群の横穴式石室。
1.5km四方に262基の古墳が存在する。一須賀古墳群と呼ばれる南河内最大の群集墳。

古墳の大半は直径6~20m、高さ0.5~4m前後の円墳。内部主体はほとんどが横穴式石室だが、木棺直葬や石棺式石室も一部に見られる。

石室の羨道は短く、玄室平面プランは正方形に近い。石室内には2~3体を埋葬していたケースが最も多いらしい。

遺物は須恵器・土師器・鉄拳・玉類など。発掘調査された古墳からミニチュアの炊飯具が多く出土している。一須賀古墳群の中心部は国の史跡の指定を受け、その一部は「近つ飛鳥風土記の丘」として一般に公開されているが、本風土記の丘には102基の古墳があり、そのうち32基は実際に中に入り、見学できる。

→蘇我氏をクローズアップするような伝承解説や蘇我氏に関する宣伝・広報は見られないが、歴史を正しく理解する為にも、もっとクローズアップしても良いのではないか!

このころ大王級の古墳は前方後円墳から大型方墳へ変化する中、現敏達天皇陵は大王墓として最後の前方後円墳とされてきた。



写真は、こんもりとした森の中心部分が現敏達天皇陵で、かつては周溝・埴輪列を持つ墳丘長さ113mの前方後円墳。

→敏達天皇陵は、王陵の谷である磯長谷では特異な存在で、磯長谷で唯一の前方後円墳であり、蘇我系の王族が眠る磯長谷にあって、唯一非蘇我系の王陵。
磯長谷で最初に造られた御陵でもある。



写真は、聖徳太子墓を奉る叡福寺から直ぐ側にある“伝馬子の塔”、こんもりとした椿に隠れて良く分からないが、椿の中央部に僅かに見える。

→蘇我氏の影響力が強かった当時遣随使として派遣された小野妹子の墓も当地に眠り、竹内街道が中国への「大道」である、記念塚を含めて文化色の強い太子町を特徴づけている。





写真は、太子町の東側に位置している科長神社と隣り合わせの伝小野妹子の墓、古代文化の町としての色合いを一層濃くしている

→太子町山田には、科長(しなが)神社南側の小高い丘の上に、古くから小野妹子の墓と伝えられる楕円状の小さな塚がある。100段の石段を昇った山の中腹にあり、眺めがとてもよく、推古天皇陵や二子山古墳が真下に見える。

無名に近い近江国出身の男がいきなり大使に大抜擢された。

その背景がよく分からないが、妹子がよほど優れた能吏だったか、それとも聖徳太子によほど気に入られていたとしか考えようがないらしい。






コメント

謎々ストーリーその10―聖徳太子墓など大型大王墓を巡って!

2009年02月15日 | 歴史
聖徳太子墓をはじめ5基の古墳後期・大型大王墓を囲んでいる周囲の群集古墳は、渡来系のもので、大王級の古墳を支えた蘇我氏族の強力な支配力を現わしていると言われる。

しかし伝承として伝えられてきた大王墓については確証が掴めないまま、現在宮内庁の管理下にあるものの、一部の墓陵の発掘内容からその信憑性が崩れ、現陵墓の周辺に有力なもう一つの候補墓を抱えているのが実態。

大王墓の“推測のロマン”は今後とも続くと思われる。
以下は、天皇陵候補のサンプル事例。



写真のような、近鉄「上の太子」駅から直ぐ南にある大洋塚古墳は、石室形態から孝徳天皇陵候補に挙げられている。
鉄条柵が巡らされているが、雑草で荒廃としている情況。





写真は、現推古天皇陵の直ぐ南に位置している双子墳の二子塚古墳の正面及び側面で、推古天皇陵候補の一つ。
現在は私有地の為か田畑として使われている。



写真は、現在は葉室公園として活用されているが、元は葉室古墳群中の越前塚古墳と呼ばれ、敏達天皇陵候補の一つでもある。

→以上のように“…天皇陵”候補と呼ばれているものの、実はあくまで伝承に過ぎず、実態は今後何らかの発掘調査等による真相解明がない限り、分からないまま風化していくのかも知れない。






コメント

謎々ストーリその9―太子町の天皇陵群と一般のお墓を巡って!

2009年02月13日 | 歴史
太子町で見られるユニークな光景には、天皇陵に隣接して一般のお墓が設けられていることが挙げられる。

確かに奈良地方と比較して一人当たりの人口密集度が高い太子町では、民家が所狭しと密集している。

又歴史的にゆかりの深い奈良地方と比較して大阪河内地方は、奈良県ほど行政的にも手厳しい取扱いは行なってこなかったと思われる。

中でも太子町は、聖徳太子信仰の霊場として、今日までに多くの信者を向い入れたようだし、それだけ町民の信仰が厚いとも思われ、それだけに天皇陵にあやかってあえて天皇陵の隣接地にお墓を求めたとも考えられる。

→天皇陵にお墓が隣接し始めたのはいつ頃からか?江戸時代には天皇陵も一部では既に占有され、農地化された例が多く残っているし、お墓が隣接して置かれてもおかしくないのかも知れない。



写真は、孝徳天皇陵に上って行く途上に、堂々と横たわっている小墓群は、はたして誰のお墓か?意味合ってこの場所を選んだのでしょうか?



写真は、用明天皇陵に隣接した一般のお墓群。近年この場所に盛土をして設けたように見えるが、ここを選んだ動機は如何なものか?



写真のような、聖徳太子御陵に隣接する一般公開墓は、叡福寺の財政的理由と聖徳太子信仰が相俟って、かくも多くの信者が集まったのであろうか?

→今後更なる、研究テーマとして取組んでいきたい。



コメント

謎々ストーリーその8―竹内街道の歴史を巡って!

2009年02月11日 | 歴史
竹内街道は堺市の大小路から河内平野を東へ向い、二上山の南・竹内峠を越えて奈良県当麻町の長尾神社に至る約30kmの街道。





写真の通り、竹内峠は大和と河内の国境にあり、此処を通る竹内街道は飛鳥時代・丹比道と呼ばれ「日本書記」にも記されている古道の地図及び現在の古道の様子。

613年以前からあり、難波宮~河内~當麻町竹之内の集落を抜けて飛鳥京を結ぶ我が国最古の官道として栄え大陸からの文物をもたらした。

竹内街道に沿う大阪府南河内群太子町には、7世紀初頭の推古天皇や大化改新の孝徳天皇御陵、聖徳太子・遣随使の小野妹子・大臣の蘇我馬子などを伝える古墳が30基ほどあり、“磯長谷古墳群・王陵の谷”と呼ばれている。

磯長谷古墳群は7世紀前半を中心とする蘇我氏系の大王墓の伝承をもつ大形方墳を中心とした古墳群。

現在では、聖徳太子信仰の大道として、街道沿いにある聖徳太子御陵・それを守る叡福寺が霊場となり、太子信仰の道としての性格を強めている。

→太子町には、日本最古の女帝・第33代推古天皇陵(即位は592年、39歳の時、聖徳太子を立てて摂政に任命、執政を全権委任したと言われる)、聖徳太子の父である第31代用明天皇陵、推古天皇の夫・第30代敏達天皇陵、聖徳太子と生母・間人(はしうど)皇后及び妃・膳手姫の三骨が一つの墓に合葬されている一家の御陵等がある。

推古天皇が切り開いた中国・朝鮮半島との交流シンボル・シルクロードの竹内街道沿いに、推古天皇と共に“大道時代”を共有した他の天皇が一緒に葬られている。



写真の叡福寺は太子町にある仏教寺院で、聖徳太子の墓所とされる叡福寺北古墳があることで知られている。

聖徳太子本人のほか、実母・太子の妃が眠っているとされる。
この古墳の被葬者を聖徳太子とすることについては異説もある。

叡福寺近辺には敏達天皇・用明天皇・推古天皇・第36代孝徳天皇の各御陵もある。



写真は、今や民家によって占拠されそうな荒涼とした推古天皇陵墓。
太子町の外れ、段々畑・ゴルフ場に囲まれ、はたしてどれほど当時の面影を残しているのであろうか?



写真は、聖徳太子の父・用明天皇陵、御陵隣接の白壁塀と門構え、如何にも御陵の管理事務所と間違えそう、実は民家がこれほどまでに隣接している今日的な典型姿。



写真は、推古天皇の皇太子として執政を取った聖徳太子御陵。

叡福寺に生母・妃と共に合葬されている。現在では、聖徳太子信仰の霊場として位置づけられている。



写真は、竹内街道沿いの孝徳天皇陵、太子町では一般的な円墳の一つ。

ここでも民家に隣接し、近所には小川が流れているが、恐らく当時の周濠ではなかったか?

→推古天皇が切り開いた中国大陸への大道・竹内街道沿いの磯長谷王陵群、大化の改新前夜の天皇陵群は、何故二上山を挟んで、奈良県飛鳥地方の天皇陵と別けへだてたのであろうか?

太子町の博物館・「近つ飛鳥博物館」と奈良県の飛鳥とは区別している苦悩を感じつつ、一方ではあえて「近つ」と表現・強調している様にも思える。

中国・朝鮮半島へ通じる大道・入口として、又中国文化への橋渡しとしてこの地をあえて選んだのであろうか?

蘇我系氏族の墓陵もこの地にあり、当時の影の権力者として、その権力を誇示する為に、あえて奈良県飛鳥ではなく、この地を選んだのであろうか?

いずれにしても、今後の研究テーマとして更に調査を進めるに値する興味津々のテーマではある。








コメント

謎々ストーリーその7―草壁皇子・大津皇子の運命を巡って!

2009年02月09日 | 歴史
近鉄吉野線の壷阪山駅から1キロほどの所に、岡宮天皇陵と隣接して束明神古墳がある。いずれも草壁皇子の墳墓として奉られているが、はたして真相は如何?

☆岡宮天皇陵は、格別に小振りの墳墓で階段を登って陵墓内に進むと、陵柵の奥に墳丘が見える。宮内庁管轄の陵墓で、これほどまでに内部侵入できるとは?





写真は、岡宮天皇陵の正面入口と内部石垣と柵の奥には墓の中心と思われる墳丘が見える。宮内庁管轄の陵墓でこれほどまでに近づけるとは!

恐らく墳丘内部は既に荒らされているのでは?

天皇陵ではなく草壁皇子の墓であるから、これほどまでに近づけるのか?
しかも墳丘まで近距離で確認できるとは驚きである!

発掘調査をしたことがあるのであろうか?恐らく既に盗掘に遭遇したのではないか?

☆草壁皇子は、天武天皇と持統天皇のあいだに生まれた子で、天武天皇の子・大津皇子とはライバル関係にあった。持統天皇にとって大津皇子は、草壁皇子を上回る人望があり、目障りな存在。

結局天武天皇の死後、最大の権力を手中にした持統天皇が、有力な皇位継承者候補だった大津皇子に謀反の濡れ衣を着せ、自害に追い込んだと云う。

そして、持統天皇は、自分の息子である草壁皇子を即位させようとしたが、彼は直ぐに病死してしまった。

悲惨な歴史的ハプニングが、草壁皇子の陵墓造営に当たり、どのように評価され、影響しているであろうか?多くの疑問が涌いてくる。

☆束明神古墳は、岡宮天皇陵から目と鼻の先ある。

1984年に発掘調査が実施され、7世紀後半から末頃の古墳時代終末期古墳として、直径約60m・中央部に墳丘を造り、石槨はこれまでの終末期古墳には見られなかったほど大規模なモノであることが確認された。

石槨からは被葬者の人骨が発見されたが、男女の性別は不明。年齢は青年期から壮年期と推定され、これまでの発掘調査結果から草壁皇子の墓である可能性が高いとのこと。



写真は、束明神古墳の正面入口から撮ったもの。墳墓内は荒らされ放題といった印象。はたして誰がメンテをしているのであろうか?



写真は、手前左の森が岡宮天皇陵で、真横の遠方の竹薮が草壁皇子の真の墳墓とされる束明神古墳。

これほど近距離にあろうとは、いずれかが本物か、はたして真相は?

→大津皇子の自害が、持統帝の謀略によるものだったからこそ、真相を知る人々が大津皇子を“悲劇の皇子”として物語化・伝説化してきたらしい。

→天武天皇には、10人の皇子のうち王位継承の最有力候補が、草壁皇子と大田皇女を母とする大津皇子の二人であった。

共に天武の子だが、草壁の母である持統天皇は、天武を助けて政治をとっていたのに比べて、大津皇子は5~6歳の時に後ろ盾となる母を亡くしてしまったという悲劇の物語が背景にある。

大津皇子の墓所は、二上山雄岳の山頂に所在する。





コメント

謎々ストーリーその6―キトラ古墳壁画を巡って!

2009年02月06日 | 歴史
キトラ古墳壁画の第2回目ハイテク調査が成功裏に実行され、世界的な発見と称賛されるほどの世界最古の星宿図や四神図が明るみに出てきた。

キトラ古墳は、古墳時代終末期の7世紀から8世紀初頭にかけて造られたといわれる。

先に発掘済の高松塚古墳とは兄弟古墳で、高松塚古墳よりは小型の古墳だが、壁画はより精緻で、壁画の原本に使われた図像は高松塚古墳とは明らかに違うと言われる。

今回の調査では、新たに壁画西の「白虎」・東の「青竜」・天井の「星宿図」が発見され、以前のファイバースコープ調査で既に分かっていた壁画北の「玄武」と合わせ、四神の内の三神が明らかになったが、残りの壁画南側の「朱雀」はファイバースコープが届かず未踏の状況。



キトラ古墳や関連資料など計約70点が特別公開された。

写真のように、当壁画の頭は動物、身体は人間の姿をした十二支は、北壁中央の子(ネズミ)から時計回りの順で、四方の壁に3体ずつ、四神の下に描かれている。

この壁画は「同時代の隋や唐のモノより図像的にも技術的にも常識を覆すもので、才能のある絵師がダイナミックに描いており、白鳳文化を感じさせる、しなやかで写実的・立体感あふれる表現である!」とのことで、マスコミもこぞってこの発見を報じている。



98/3/15に明日香村中央公民館で開催された、キトラ古墳壁画現地説明会の様子。

当日2,500名ほどの参加があり、6回に亘る説明会の続行を余儀なくされたとか。

→今後の課題としては、まずこの古墳の被葬者はいったい誰なのか?諸説紛紛と言ったところで、天武天皇の皇子の誰かとか、天武天皇の右大臣をしていた阿倍御主人とか、百済の王族とか、渡来系の豪族の誰かとか等々。

又土砂を被っているため、発掘が難しいこの古墳について、今後の更なる調査・保存をどうするのか?未だ遺物の一部が残っているような状況だけに、世界的遺物の壁画保存方法と合わせて、大いなる議論と最終結論に注目すると共に、明日香村と奈良県立橿原考古学研究所の決断に期待したい。

又今迄は高松塚古墳しかなく、古墳時代の終末期の彩色壁画古墳研究が単なる「点」であったものから、高松塚古墳との比較研究が一段と進み、「線」や「面」に大きく広がるモノと期待する。

キトラ古墳のある明日香村阿倍山は藤原京の南に当たり、古代の皇族・貴族の墓域とされてきた地域だけに“聖なるライン”解明にも大いに期待したい。

更にこのような壁画が、キトラ・高松塚古墳の周辺古墳にも存在するのではかとの観測・憶測もあり、この点からもより積極的・科学的な調査推進に期待したい。





写真は、キトラ古墳の発掘現場風景。高松塚古墳から僅か数キロ南に位置し、周辺には他に多くの古墳・天皇陵が存在、まだまだ第3・第4の発見があるかも、乞う期待。

→当時の古代中国との関係模索や、王陵の里から日本のルーツを探る上での新たな資料等、考古学ファンを涌かせた今回の世紀の大発見に伴い、今後の成り行きに注目していきたい。

→キトラ古墳で確認されている極彩色壁画のうち、最後まで残っていた天井の天文図(直径約60センチ)のはぎ取りが完了したと、文化庁が平成20年11月27日、発表した。

平成16年8月から始まった壁画の取り出しは終了。今後は壁画の保存活用に力を入れると云う。





コメント

謎々ストーリーその5―高松塚古墳を巡って!

2009年02月04日 | 歴史
世の中をあっといわせたのがあの高松塚古墳の壁画だ!

奈良県明日香村に存在する古墳で、藤原京期(694年~710年)に築造された終末期古墳。下段の直径約23m、上段が18mで、高さ5mほどの二段式の円墳。

昭和47年に極彩色の壁画が発見された。
男女の群像・4神の壁画・海獣葡萄鏡・飾太刀金具等の発掘は画期的であった。

しかし7世紀末から8世紀初頭といわれる古墳の被葬者は、依然謎に包まれたまま。そもそも飛鳥地域の古墳群で被葬者が特定されているものが稀らしい。





写真は、高松塚古墳の正面ビュー及び石室内部。

高松塚古墳は、近くに文武天皇陵、天武・持統天皇陵を控えた円墳。大陸の影響を受けている、この被葬者は誰なのか?埋め戻された残遺物と共に、謎と疑問は残る。

高松塚石室が34年ぶり公開、壁画保存のため来春に行われる解体を前に、報道各社に公開された高松塚古墳石室内部。

写真のような石室内部には、星宿図、日目像、四神図、人物群像(女子群像、男子群像)等が描かれている。

→被葬者論に関しては、大きく3つに分類できる。
天武天皇の皇子説・臣下説・朝鮮半島系王族説があるが、依然謎のまま。

これらの謎や疑問に応えうるキーファクターの一つは、周辺にある他の古墳群の発掘調査にあると思われる。

奈良県、橿原市、明日香村のいずれか又は共同の発掘調査団による徹底解明に期待を寄せたい。

天皇陵・陵墓参考地であるため、発掘調査が不可能であれば、唯一残された道は古墳に対する徹底究明しかない。



写真の中尾山古墳は、高松塚古墳から僅か100m以内に位置する隣接古墳。
八角形・3段成で、周辺は3重の砂利石で取り囲まれている。

→このような古墳群等を徹底調査してはどうかと考えるが?
この古墳が、実は真の文武天皇陵ではないかとも言われている。

→平成16年6月、高松塚古墳壁画のカビによる劣化が一般に知られるようになり、新聞で大々的に報道された。カビによる劣化など保存処理の失政に関しては、文化庁内の縦割り行政・連携不足が大いに原因していることが明るみに出た。

“国宝高松塚古墳壁画恒久保存対策検討会”が発足し、壁画の劣化防止策や保存方法について種々の検討が加えられた。

平成18年10月から墳丘の発掘調査と石室の解体修理が開始された。
平成19年1月には古墳全体を覆う断熱覆屋が完成し、同3月には国営飛鳥歴史公園内に修理施設が完成した。

石室はいったん解体・搬出した後、この修理施設へ移され、修復が行われることになった。

移動された壁画は10年間かけて保存修理が行われ、修理完成後はもとの古墳へ戻される予定になっている。解体・修復・移動などの保存修理作業が成功裡に運ばれることを祈るばかり。









コメント

謎々ストーリーその4―欽明天皇陵と丸山古墳を巡って!

2009年02月02日 | 歴史
第29代・欽明天皇陵(571年没)説が高まった、橿原市の“丸山古墳”と元々の“欽明天皇陵”を訪問し、比較してみた。

従来日本考古学協会等が、丸山古墳の入口から覗き込むだけだったのが、今回は敷地内を見せてもらっただけでも前進であった。

丸山古墳は全長が318mと奈良県下では最長で、日本全国においても6位に位置しており、古墳時代後期後半・6世紀後半に築造されたものの中では最大の規模を誇っている。

また、横穴式石室の全長は28.4mと、全国第1位の規模で、羨道は7枚の巨大な自然石で天井を覆い、長さ20.1m・玄室の長さ8.3mで、2つの刳抜式家形石棺がL字型に置かれていたと云う。

たまたま民間人が盗侵入し、内部の写真を公開したことがきっかけとなり、一部公開にふみきった点には動機不純を覚えるが、結果石室の全長が28m強と日本一の大きさ等新たな事実が明らかとなった。

と同時に二人目の石棺が、欽明天皇の后・堅塩媛(きたしひめ)は即ち推古天皇の母のものであるとの見方ができ、従って欽明天皇の石棺との見解があらためて強まったと云う。



写真は、丸山古墳の正面風景。民家と直接接し境界線が分からないほど。
外濠も何処へ行ってしまったのか、何故このようなことになったのか等の疑問は永遠に残る。



写真は、丸山古墳のサイド・ビュー。外濠の見分けも付かず、犬の散歩コースと仮した。

全長310m余りと奈良県では最長、日本でも6番目の前方後円墳が泣いているように見える。

→公開に先立ち、宮内庁が石室の単独調査を行ったが、被葬者が誰なのか調査結果に沈黙を守っている。

学会の間では、欽明天皇陵であるとの見方がほぼ固まっているのに、明らかに出来ないのであれば、陵墓参考地の指定を止めるべき。
いつまでも史跡の保存云々との言い訳はもう飽きたと関係者は感じている。

丸山古墳は一旦公開後また閉じられた。公開に関し宮内庁の頑なな拒否姿勢は続く。



写真は、丸山古墳のへんてこな看板。元々の看板に上書きしたのか、ダブって見える。

又看板主は橿原市と奈良県双方の教育委員会の名前が見える。内容もちぐはぐ、昏迷の一端を覗いた感じ。





写真は、飛鳥の里の欽明天皇陵の正面及び外濠。

元々の明日香村・欽明天皇と妃の堅塩姫の合葬陵といわれる。濠をめぐらせた全長約140mの前方後円墳。

欽明天皇は、仏教とその聖典を伝えた天皇で、飛鳥文化は仏教を中心に花開いたと云う。

前述の欽明天皇陵を丸山古墳とする説は、あくまで考古学の立場であり、しかもまだ推測の段階で、決定的な証拠はないが、可能性を秘めている。



コメント