佐紀盾列古墳群の見所を更に続ける。
☆北東部の古墳群
北東部の古墳群には、以下4基の代表的古墳が挙げられる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3e/ba/c2020e0209ab28fe02e732500ad5a429.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/48/8d/7ec12f3ad2eae92481f563d3cf8b0534.jpg)
写真は、ヒシアゲ古墳(現磐之媛命陵)と御濠。
ヒシアゲ古墳は、平城宮跡の北、水上池に面した前方後円墳で、第16代仁徳天皇の皇后・磐之媛命の陵とされている。
日本最大の前方後円墳で有名な、仁徳天皇の皇后だけに、ヒシアゲ古墳も大きな古墳で、平城山丘陵の尾根を使って築造され、全長約219m・後円部径124mという規模。![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/hamster_1.gif)
くびれ部分に造り出しがあり、磐之媛命陵は、御陵の南面に、二重の濠があるのが大きな特徴。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/51/55/afe7fba568bb82bc8be562c1d5f7c5f5.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/66/ea/36b9c6bf5a16aadeea905096d140d34e.jpg)
写真は、市庭古墳(現平城天皇陵)と正面出入口。
一方平城宮跡のすぐ北に位置する市庭古墳は、佐紀盾列古墳群の中の東群に分類されているが、西群よりの築造時期が若干遅く、5世紀中葉から後半頃と推定されている。
本来は墳丘の全長約253m・前方部の幅164m・後円部の直径147mほどで前方部を南に向けた前方後円墳であることが判明。
平城京の建設が始まった8世紀の初め頃には、巨大な前方後円墳が既にあったが、築造されてから2世紀半以上の歳月が流れ、被葬者が誰であったかも、人々の記憶から忘れられていたと想像される。![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/hamster_4.gif)
平城天皇陵に比定されているが、平城天皇は平安時代の初めに実在した天皇であり、新たに陵墓を築くことなく、いわば放置されていた古墳を、再利用して葬られたことになる。
平城天皇は、桓武天皇の第一子で、大同元年(806)5月に第51代天皇として即位したが、わずか3年たらずの在位で、病身を理由に皇太弟の神野親王(嵯峨天皇)に譲位して、上皇になっている。
しかしその後に健康が回復したのか、次第に政治に干渉を始め、平城に再び遷都する旨の詔を発するなどして、当時は「二所朝廷」と称されるほどであったらしい。その後、髪を剃って仏門に入ったと云う。![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/hamster_6.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4d/a0/b7f22ee98adf89350370dd884f988548.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/13/d4/5643f4c63d18c7e21d87a9f2c12a13de.jpg)
写真は、宇和奈辺古墳全景及び国道からの遠景で、左側の森が宇和奈辺・右が古奈辺古墳。
奈良市法華寺町にある、宇和奈辺古墳は古奈辺古墳の東にある全長約265mの大型の前方後円墳。二重の濠堀があったことが確認されている。![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/hamster_3.gif)
平城京造営に際し外濠が埋められ、南側は“北京極大路”となった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5b/ba/39cf16b12e48305619016984b3527d25.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/36/0c/73f9431c64c4c8abfc949cde3301e6e5.jpg)
写真は、古奈辺古墳全景と御濠側面。
宇和奈辺古墳の西側が全長約210mの古奈辺古墳。ともに古墳時代中期の前方後円墳で、陵墓参考地に指定されているが、被葬者は不明。
宇和奈辺・うわなべは、ウワナリ(前妻の意)が訛ったもので、古奈辺・こなべは、コナミ(後妻)が訛ったものと云う。被葬者のヒントが秘められていそうだが・・・。![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/hamster_7.gif)
古奈辺古墳は、江戸時代には第44代の女帝・元正天皇陵(748年没)という説もあったらしいが、これまた年代が符合しない。![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/hamster_5.gif)
☆北東部の古墳群
北東部の古墳群には、以下4基の代表的古墳が挙げられる。
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写真は、ヒシアゲ古墳(現磐之媛命陵)と御濠。
ヒシアゲ古墳は、平城宮跡の北、水上池に面した前方後円墳で、第16代仁徳天皇の皇后・磐之媛命の陵とされている。
日本最大の前方後円墳で有名な、仁徳天皇の皇后だけに、ヒシアゲ古墳も大きな古墳で、平城山丘陵の尾根を使って築造され、全長約219m・後円部径124mという規模。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/hamster_1.gif)
くびれ部分に造り出しがあり、磐之媛命陵は、御陵の南面に、二重の濠があるのが大きな特徴。
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写真は、市庭古墳(現平城天皇陵)と正面出入口。
一方平城宮跡のすぐ北に位置する市庭古墳は、佐紀盾列古墳群の中の東群に分類されているが、西群よりの築造時期が若干遅く、5世紀中葉から後半頃と推定されている。
本来は墳丘の全長約253m・前方部の幅164m・後円部の直径147mほどで前方部を南に向けた前方後円墳であることが判明。
平城京の建設が始まった8世紀の初め頃には、巨大な前方後円墳が既にあったが、築造されてから2世紀半以上の歳月が流れ、被葬者が誰であったかも、人々の記憶から忘れられていたと想像される。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/hamster_4.gif)
平城天皇陵に比定されているが、平城天皇は平安時代の初めに実在した天皇であり、新たに陵墓を築くことなく、いわば放置されていた古墳を、再利用して葬られたことになる。
平城天皇は、桓武天皇の第一子で、大同元年(806)5月に第51代天皇として即位したが、わずか3年たらずの在位で、病身を理由に皇太弟の神野親王(嵯峨天皇)に譲位して、上皇になっている。
しかしその後に健康が回復したのか、次第に政治に干渉を始め、平城に再び遷都する旨の詔を発するなどして、当時は「二所朝廷」と称されるほどであったらしい。その後、髪を剃って仏門に入ったと云う。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/hamster_6.gif)
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写真は、宇和奈辺古墳全景及び国道からの遠景で、左側の森が宇和奈辺・右が古奈辺古墳。
奈良市法華寺町にある、宇和奈辺古墳は古奈辺古墳の東にある全長約265mの大型の前方後円墳。二重の濠堀があったことが確認されている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/hamster_3.gif)
平城京造営に際し外濠が埋められ、南側は“北京極大路”となった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5b/ba/39cf16b12e48305619016984b3527d25.jpg)
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写真は、古奈辺古墳全景と御濠側面。
宇和奈辺古墳の西側が全長約210mの古奈辺古墳。ともに古墳時代中期の前方後円墳で、陵墓参考地に指定されているが、被葬者は不明。
宇和奈辺・うわなべは、ウワナリ(前妻の意)が訛ったもので、古奈辺・こなべは、コナミ(後妻)が訛ったものと云う。被葬者のヒントが秘められていそうだが・・・。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/hamster_7.gif)
古奈辺古墳は、江戸時代には第44代の女帝・元正天皇陵(748年没)という説もあったらしいが、これまた年代が符合しない。
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