近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

沖縄の歴史・文化 “第二尚氏王統”時代の繁栄とは!

2007年12月18日 | 歴史
沖縄諸島は、古くから日本本土と連なる縄文土器文化にありながらも、中国との朝貢貿易を梃子にして、独自な王朝文化を築き上げていった。
この琉球王国は、中国・日本本土・東南アジアなどの中継貿易を通して、多くの富と先進的文化を移入した。



写真は、奄美大島・沖縄・石垣島までの広域沖縄諸島地図。

琉球王国は奄美・先島を統一し、中央集権化を図っていくと共に、中国大陸・東アジアの大海原を架け橋とする舟を操り、各地の産物が国中に溢れるほど繁栄し、台湾に比較して沖縄は“大琉球”と呼ばれるまでに発展した。



写真は、繁栄を謳歌していた、当時の琉装した“琉球人”たち。

琉球王国の繁栄を支えたのは、漁師・商人の海を舞台にした活躍が基盤となり、琉球王国では独自な王朝文化の華が開き、400年余りの栄華を誇ったと云える。

華麗な琉球王朝文化は、多角的中継交易の結晶であり、琉球が中国・朝鮮・東南アジア諸国との間に行った貿易の最盛期は14~16世紀で、将に貿易国家・海洋国家であった。

そして多角的交易を下支えしたのが、明の“海禁政策”によって行き場を失った、海船の操縦・航海に必要な技術者であり、東南アジアの港市国家にも溶け込んでいた広東系の中国商人であったらしい。

即ち明は商船の自由な海外渡航を禁じていたため、中国商人の活躍の舞台が大幅に狭められ、そのため陶磁器・絹織物をはじめとして優れた商品を中国商人に代わって海外諸国に貿易することができるようになった。

しかしやがて明の海禁政策が緩められ、琉球王国の国家管理を超えた交易が行きかい、中国商人が日本の戦国武士と手を組んだ海の活動に伴って、中国と琉球王朝との間の太いパイプは役立たなくなり、琉球官営貿易は、次第に衰え始めた。

代わって、当時の那覇港は、博多・堺などの日本商人やポルトガル・スペインなどの外国商人たちが来航して賑わっていたと云う。

1609年“薩摩藩”の琉球侵攻は、そのような状況の中で引起され、琉球王朝は薩摩藩の管理下におかれ、清国との進貢貿易のほか、薩摩商人との限定された貿易のみに縮小されたと云う。